2012/6/28

門外漢の独白  
前回は案の定、お叱りのコメントを頂戴した。わたくしはどうでもいい。ともかく、ユタ氏と信行氏の間でそれなりに有意義なやりとりが続いているようなので、これはこれでよかったと思う。

平成24年6月6日発送完了  浅井昭衛の返答期限 同年7月16日

これは樋田氏による公開質問状および公開対決についてである。

わたくしの予想では黙殺だ。黙殺しかないと思う。ただし、それで済む話ではない。

『迷走する顕正会を斬る』は完全黙殺だった。結果的にそれは正解だった。というのは、それで被害を最小限に食い止めることができたからだ。この本は存在自体がほとんど知られていない。本というのは読まなきゃ中身を知ることができない。顕正会の首脳部としては会員に読ませくなかった。ゆえに黙殺した。その結果、ほとんどの会員が読まなかった。そうして嵐が通り過ぎていった。

ところが今回の場合は事情が異なるのだ。

美大出身の樋田氏はその経歴を生かして、センセーショナルなパンフレットを作っている。具体的には樋田氏のサイトを訪ねるといいだろう。ともかく樋田氏は行動の人であり、そのパンフレットを率先して配っている。また、彼に触発された法華講員たちが・・・とりわけ元顕正会の法華講員たちが、熱心に配布活動をしているのだ。

ために現場では、法華講員と顕正会員の間で一触即発の危険な状態が続いている。その大半が冷静さを欠いたきわめて感情的な対立である。

わたくしはそれをつぶさに観察しているわけではない。想像に難くないということだ。

顕正会側の切り札は、宗門側が平成十七年の公開対決を逃げた、という事実である。切り札というよりはこれしかない。ゆえにこの一点張りなのだ。結局のところ、これではまともな議論は期待できない。逃げた逃げたと、そう言って相手に心理的ダメージを与えることだけが、今の顕正会の唯一の手段なのだ。

これでおわかりだろう。

今回の樋田氏による対決申し入れは、そのこと自体が顕正会にとってダメージなのだ。黙殺しようにも現場で上述のようなやりとりが続いている以上、それは意味のないことだ。たとえ、本部首脳が黙殺したいと思っても、それは無理なのだ。なぜならば、すでに現場では抜き差しならない状況に追い込まれているからである。

つまり、首脳部としては黙殺しかない。しかし、その瞬間に現場は総崩れになる。前回の沖浦氏のコメントではないが、まさに、軍には大将軍を魂とする、である。

さて、今日は顕正新聞の話題をやろうと思ったが、もうやめておこう。

そこで上述の話題をもう少し続けたい。顕正会のために、唯一の解決法を書いておきたい。実は折伏理論書の初版に答えが書いてあるのだ。

 やがて御遺命守護完結のその日には、顕正会員こそこの捨身の御奉公によって、時の御法主上人より、晴れて御本尊の授与を賜わる資格を得るのである。

わたくしが教えるまでもないことだ。浅井先生がいちばんよくわかっているのだ。

つまり、こういうことだ。

御遺命守護はすでに完結している。すでに完結しているのであれば、今は御本尊をたまわる資格を有するのだ。よって御当代・日如上人猊下にお願いして、会館安置の御本尊をたまわればいいのだ。

いかがだろうか?

わたくしは上述のことを真面目な気持ちで書いている。一つも間違ってはいない。完全無欠の正論のはずだ。

しかし、残念なことに折伏理論書の当該記述は削除されてしまい、改訂版には載っていない。これがすべての答えだ。浅井先生は自ら正論を捨ててしまったのだ。

残された道は一つである。

己の過ちを素直に認めることが出来るかどうか、この一点だと思う。わたくしは案外に浅井先生ならば出来るのではないかという気がする。まあ、しかし、これは期待を込めて書いている部分が少なからずあるわけだが・・・


七月二日追記:誤字を訂正した。

2012/6/23

重き荷を背負って  
前回は梅雨の中休みなどとノンキな題名を付けて書いたわけだが、その直後、この季節にしてはめずらしく台風がやってきた。けっこうな強風で家が倒れるのではないかと思ったくらいだ。翌朝、外はゴミや木の枝などがたくさん散乱しており、台風の威力をまざまざと実感したものだった。

ザックリとした言い方ですが、同じご本尊さまに同じお題目を唱えていたのに、これだけ組織の質と量に差があるのは何なんでしょうか?

のび太氏のコメントだ。この問いであるが、よくわからないというのが答えである。たぶん、いろいろな説明が可能だろうとは思うのだが、それらはすべて結果論であって、後付の説明に過ぎないと思う。

あえて一つだけ言っておくと、顕正会は浅井家の個人企業のようなイメージがある。つまり、このこと自体が発展性のない組織を意味しているのではないかという気がするのだ。創価学会は今のところ歴代会長に血縁関係はない。ところが顕正会の場合、浅井・浅井・浅井・・・という流れになっているわけで、いわゆる世襲制そのものなのだ。これはやはりどうしても現代社会においては受け入れ難いというか、幹部たちにしても内心では不満を懐いていてもおかしくないことだと思う。事実、ある日突然、大幹部が姿を消してしまうようなことも少なくないわけで、まさにこれは顕正会特有の構造的な問題なのだ。浅井家の人たちだって、馬鹿じゃなければこれくらいの道理は承知していることだろう。

さて、今度は昨朝の沖浦氏からのコメントだ。

レスキューイチバンの特許

話題に事欠かない人である。次から次に話題を提供してくれる。これは平凡な人生を送っている人にはマネのできないことだ。


 私のジムはオンボロで、ガラクタばかりだ。

 すると、全ての機材やウエイトシャフトが最新になりました。


この辺は価値観の問題で、たとえばオンボロのジムなのだけれども不思議なことにオリンピック選手が何人も所属している・・・というシチュエーションも面白いだろう。これならば設備の良し悪しではなく、指導者の善し悪し、つまりは沖浦氏の存在がストレートにクローズアップされることになりそうだ。

前にも書いたが、テレビに出るようになれば大したものだ。残念ながら今は自画自賛に終始していると言われても仕方がないだろう。

さて、最大の難関はユタ氏のコメントだ。

心の縛りは一生解けない

何しろ、わたくし自身が未だ顕正会の呪縛から脱しているわけではないので、偉そうなことは一つも言えない・・・ということで話を終わりにしてもいいのだが、少しばかり考えていることを書いておこうと思う。

何故、顕正会や法華講、創価学会はオウムを潰しに行かないのか、不思議でなりません。

まず、この意味がわからなかった。オウムはすでに潰れたも同然であること。それから自教団の信者を増やすこと、すなわち折伏を実践して組織を拡大していくことが、相対的な意味で他宗の縮小につながること。この二点から考えて、直接的な行動が必要だとは思えない。

「私は元オウム信者です」という人を見たことがありません。

これはようするに体験発表などで、私はオウム信者だったが○○さんの折伏で顕正会に入りました、というような話がまったく出てこないことを言っているのだろう。

ここでは二つのことが言えると思う。

まず、オウム信者はその絶対数が少ないことだ。社会を震撼とさせる大事件を起こし、たくさんの死刑囚を出した。実はこれが教団を物凄く大きく見せている。ようは錯覚しているのだ。具体的な数字を調べたわけではないが、たぶん人数的にはそんなに大きな教団ではないのだと思う。

絶対数が少なければ、自ずと元信者も少なくて当然だ。

そしてもう一つのことが重要だと思う。たぶん、元信者の多くは自分がオウムの信者だったことを秘匿しているのではないか、自分の人生における永遠の秘密として、そのことには一切言及しないのではないか、と思うのだ。

誰だって、大なり小なり、そういう秘密を持っているのではないかと思うが、どうだろうか?

わたくしの他愛のない経験を一つ紹介しておこう。

子供の頃、近所の家のガラスを割ってしまったことがある。ボール遊びをしていて、ガラスに命中して割ってしまったのだ。幸い(?)にも、ボールは跳ね返ってきて回収することが出来た。そう、わたくしはそのボールを持って、そのまま一目散に逃げてしまったのだ。

ゆえに犯人は未だに捕まっていない。迷宮入りである。たぶん、わたくしが白状しない限り、この話は永遠に謎のままだろう。

他愛のない話だ。

しかし、わたくしはこれを何十年も経った今も、このように活写することができる。つまり、未だに引きずっているのだ。たぶん、ガラスを割られたほうはとっくの昔に忘れてしまっていることだろう。ところが犯人であるわたくしは、今も罪悪感に苛まれているのだ。

実を言えば、これはホンの一例に過ぎない。とてもじゃないがここには書けないようなこともたくさんあるのだ。

再掲しよう。

心の縛りは一生解けない

その深刻さは異なるにしても、わたくしには同じことのように思える。顕正会時代の忌まわしい記憶と、子供の頃にガラスを割ってしまった記憶と、あるいはその他もろもろの記憶と、いわばその集積が人生なのだろう。もちろん、嬉しかったこと、楽しかったこと、そういう記憶もあるわけだが、わたくし自身はおそらく負の記憶のほうが大きいだろう。だから不幸なのか、不幸と感じているのか、と問われれば、いや、そうでもない、というのが本当のところである。

少なくとも顕正会に関してはこうしてブログであれこれ綴っているくらいだから、わたくしにとってはそれほど忌まわしい記憶ではないのかもしれない。軽症ということだ。もし重症であれば、もはや文章にすることも出来ず、永遠の秘密として封じ込めていたかもしれない。

いや、逆にこのように文章化することによって傷が癒される、という側面もあるかもしれない。

迦葉尊者にあらずとも、まいをもまいぬべし。舎利弗にあらねども、立ちてをどりぬべし。

少し違った角度から書こう。上掲が適切かどうかわからないが、わりと有名な御文だと思う。法華経已前、二乗は永不成仏とされていた。そして法華経に至って二乗作仏が説かれる。しかも、これは二乗だけの話ではなく、法華経を信ずる人は無一不成仏と言って、一人も残らず成仏することが出来るのだ。

この原理を顕正会に当てはめると、顕正会以外では成仏できない、顕正会に入れば一人残らず成仏できる、ということになる。ゆえに熱心な活動会員たちは退転者に物凄く厳しいことを言う。必ず罰が出るとか、無間地獄行きだとか、言い切るわけだ。

これを打ち破る方法はさしあたって一つしかない。日蓮正宗に入ることだ。顕正会は間違っているので成仏できない。成仏できるのは日蓮正宗だけである。

今はこれがもっとも効果的であり、法華講のしっかりとした人物に頼れば、顕正会から脱出することはそれほど困難ではない。

しかし、ここに究極の問題がある。今度は日蓮正宗をやめようと思っても、それは原理的に不可能なのだ。

おわかりだろう。日蓮正宗のみが無一不成仏なのだ。日蓮正宗以外では成仏できない、成仏できるのは正宗だけである。

さて、どうしたものか・・・

もはや最終手段は日蓮正宗そのものを完全否定するしかない。

現実問題として、たぶん顕正会から宗門・法華講に移籍した人たちを詳しく調べれば、今はもうすでに宗門から離れてしまっている人も相当数いるのではないかと思う。

ようするに日蓮正宗系の教団は正統ないし正当であることを尊ぶ。今は正統ないし正当を主張し合うことで信者の獲得合戦をしている。当然、信者は正統ないし正当であると確信して組織についている。これはまさに日蓮大聖人の仏法の特質でもあるわけだ。

あえて批判を覚悟の上で書こう。

大聖人の仏法の特質は正邪に厳格なことだ。幸か不幸か、このことが日蓮正宗系の呪縛そのものなのだ。

ゆえに、もしユタ氏が心の縛りから開放されたいと思うのならば、最終的には大聖人そのものを完全否定するくらいの覚悟が必要だろう。挑発の意味で言うのではない。たぶん原理的には他に方法がないと思うのだ。

ただし、ごく普通の人はそんなことはしない。そんな面倒臭いことをするくらいならば、少々の心の縛りくらいは我慢しようと思うのが一般なのだ。

わたくし自身、種々の忌まわしき記憶を引きずりながらも、まだまだ生きていくつもりだ。

2012/6/18

梅雨の中休み  
まずは虚構氏にご挨拶申し上げねばなるまい。

2012/6/16 11:25
投稿者:虚構
わたしは、折伏大行進の時代も学生運動もこの目でみてきております。折伏大行進は学生運動が、そうだったように、中にいると、信じられない位、弘まっているように思えた。しかしながら、実際は世間の一部で花火を上げていたに過ぎない。これが、事実である。


貴重な証言をありがとうございました。今後とも忌憚のない意見をよろしくお願い申し上げます。

中にいると信じられないくらい弘まっているように思えた・・・

穿った見方をすれば、虚構氏はかつて創価学会員だったことになりそうだが、それはともかく上掲のことは今の顕正会によく当てはまると思う。客観的にはまだ広宣流布は遠い先に思える。ところが顕正会ではゴールが見えてきたと言っているのだ。ここが定着率の悪さの原因でもあるわけだろう。やはり誰だって、己を客観視する瞬間がある。当然、顕正会そのものを客観視することもあるわけだ。その時に気がつくのだ。内部にいると何となく雰囲気で広宣流布が眼前のごとくに思えるが、ふとした瞬間、気づくのだ。ぜんぜんダメじゃないかと。今の顕正会のテイタラクでは広宣流布など、できっこないと。

 ハンネで、成りすましていたずら電話レベルが横行する世界・・・

さて、これは今朝の沖浦氏のコメントを部分的に引用させていただいたものだが、これをもってステハン投稿者に言いたい。さすがに沖浦氏のように実名を使うのは無理にしても、せめてコテハンにしてほしいというのがわたくしの切なる願いだ。

わたくし自身、実名を伏せているので偉そうなことは言えない。しかし、拙ブログの自慢は開設以来、ずっと同じ看板を掲げてきたことである。何しろレイアウトすら何もいじっていない。装飾的なものは一切ない。独白の世界なのだから当然と言えばそれまでだが、ここまで徹底している人もなかなかいないだろうと思う。

お陰で、顕正会の巌虎氏、という認識がわりとネット上では定着しているように思える。

よって、実名ではないものの、ほぼ実名に近い状態、いわば一個の存在として確定している状態、と言えるのではないかと思う。

その意味において、わたくしにはヤマシイ気持ちはない。

そこでステハン投稿者に言いたい。せめてコテハンにしてほしいと。常連の人たちは問題ないが、前回のコメント欄などを見ると、何やらイカガワシイ人が含まれているようだ。わたくしとしてはルールでガンジガラメにはしたくないので、あくまで注意を喚起するだけであるが、恥ずかしくないのか、と言っておきたいところだ。

自惚れを承知で言えば、わたくしは一目を置かれる存在だと思う。

その理由はそこそこ教学が出来る・・・いや、実際には甚だ未熟であるが、顕正会員にしては上出来(?)というふうに見られているのではないかと思う。

しかし、それは理由のほんの一部に過ぎない。

もっと違う理由があるのだ。

たぶん覚悟ということだろう。

具体的には、わたくしの正体が顕正会の首脳部にバレたらどうなるかという心配があるわけだが、別にバレてもいいや、と思っているのだ。ある意味、その時が第二章の始まりである。発迹顕本だとか佐前・佐後だとか、そんな偉そうなことを言うつもりはない。ただ、バレた時には、また新たな展開が待っているわけで、それはそれで面白いのではないかと思うのだ。

どうだ、まいったか。

まあ、しかし、こういう挑発的なことを書くと、痛い目に遭うのが通例である。それはそれでけっこうだ。覚悟と書いた以上、口先だけで終わるわけにはいかない。

さて、話を変えよう。

顕正新聞に書かれた放射能関係の登壇は一往ネット検索してるんですけどね、いまこんなにネット社会でフリージャーナリストも写真週刊誌も多い中で、顕正会員の登壇にあるような「放射能の被害」っていうのがまったくといっていいほどヒットしないんですよ。件の東電社員の「福島レポート」漏洩にしてもそう。彼以外の話がまったく出てこないし、ルポルタージュやフリージャーナリストの後追いもない。こう書けばどういうことかわかると思いますよ。

阿呆氏である。名前はすっとぼけているけれども、まあ、いちおうはコテハンということになりそうなので、文句は言うまい。

それはともかく、上掲の最後がイミシンだ。ようは顕正新聞の記事はマユツバだと言いたいのだろう。

こればかりは個別に論ずるしかない、というのがわたくしの考えだ。

たとえば体験発表がある。ここにウソが書かれているとする。わたくしはそれが不思議なのだ。まさか発表者がウソを承知で発表するとは思えないのだ。

糞を集めて栴檀となせども、焼く時は但糞の香なり。

私はかくかくしかじか、このように幸せになりました。と言いつつ、実際には思いっきり不幸だったならば、これほどムナシイこともあるまいと思う。また、ごく普通の善良な人間であれば、ウソを発表していることのヤマシサに耐えられない。わたくしならばきっと、そんなウソは発表できません、と言って登壇そのものを断わることだろう。

そういうわけで、基本的には本当のことが書いてあるのではないか、と思うのだ。

ゆえに、それがウソであると言うのならば、個別的・具体的に指摘するしかないと思う。前回の場合で言えば、背中のない魚、というのがいかにもウソ臭い。しかし、さしあたってウソを暴く手段がないので、顕正新聞社に奇形の魚の写真を掲載することを提案したわけである。

せっかくだから、もう少し書いておこう。

くだんの話は青森県の六ヶ所村を中心とした出来事である。そこには日本中から集められた使用済み核燃料がプールに沈められている。当然ながら反原発団体が目を光らせているわけで、もし大量に放射性物質が漏洩していれば大問題になっているはずだ。

一方、福島はもはや隠蔽する術がないほどの大事故を起こし、大量の放射性物質が出てしまっているのだ。

おわかりだろう。もし青森で十匹中二〜三匹という高比率で奇形が認められるというのならば、福島はもっと凄いことになっていてもおかしくないのだ。魚の成長のスピードをよく知らないが、いよいよこれから奇形魚が大発生することになりそうである。

自在会

最後に、のび太氏から感想を求められたので、書いておこう。

ネーミングの勝利という言葉が思い浮かんだ。

世の中には身体のハンデを乗り越えて活躍している偉人がたくさんいるので、何も創価学会だけが突出しているとは思わない。しかし、ご紹介の人物はまさに信仰の力によってハンデを乗り越えたのだろう。しかも驚くことには、この人は御書を講義する側にいるのだ。もし自分が同じようなハンデを背負っていたら、たぶん無理だろうと思う。頑張ろうとはするかもしれないが、途中で挫折するのがオチだと思った。

自在会という名称が凄い。これは創価学会がポジティブであることの一つのあらわれなのだろう。当然、こういう組織にいれば、どんな人でも頑張ろうという気持ちになれるに違いない。あえて、と言うべきなのか、もっとも不自由であるはずの人たちに対して、この名称を冠することは、それ自体が最大の励ましなのだろう。

本日は以上です。上から目線で失礼しました。

2012/6/16

梅雨真っ盛り  
沖浦氏より引き続きコメントを頂戴した。ここには紹介しないが、氏の体験発表は迫力がある。たぶん実名であることが大きいのだろう。

そして先ほど、のび太氏からもコメントが寄せられた。

宿命を断ち切った…こう書こうと思っていたのだが、晩酌の合い間のコメントで端折って書いてしまった。
酒は断ち切れないので、夜のコメントは控えます。(笑)


ほほう、酒は断ち切れないと・・・

いわゆる百薬の長であるから、適量を守れば大いに結構なことだろう。

それはともかく、なるほど、単に切るではおかしいが、断ち切るであれば比較的にオサマリがよさそうである。言葉とは難しいものだ。

さて、今日は顕正新聞第1243号の続きである。

原発林立と共に上昇した癌死亡率
 青森県は「癌死亡率ワースト一位」


婦人部の総班副長の登壇だ。この人は看護師だという。上掲のような視点はまさに専門職ならではのものだ。

原発ができる前は脳血管疾患や心臓疾患で亡くなる人が多かった。原発が増えるに従って癌の死亡率が上昇し、今ではガンが死亡原因の第一位となった。

しかし、少しばかり疑問がある。

わたくしはまったくの素人であるが、原発がガンの原因だというのはいかにも短絡的に思える。脳血管疾患や心臓疾患はいわば頓死である。ガンはいわばジワジワと死が訪れる。つまり、救急医療が発達して救命率が上がれば、上述の二つの疾患による死亡率が下がっても不思議はないのではないかと思う。一方、ガンの場合は発見が遅れれば助からない。だから恐れられているのだ。また、当てずっぽうながら、平均寿命が延びるとガンのリスクが増えるのではないかと思う。いや、もちろん、脳も心臓も同じだが、上述のごとく救命率が問題なのだ。おそらくガンは救命率が低いのだろう。

青森県云々も疑問である。

この人は、放射能汚染との因果関係は拭い切れない、などと言っているけれども、それは短絡的だと思う。もし専門的に論ずるのであれば、ベクレルだとかシーベルトの実測値を出すべきだろう。その結果、明らかに他県よりも放射能の数値が高いのであれば、ガンによる死亡率が高いのは放射能のせいだ、と胸を張って言えるだろう。

それから福島県だとか福井県など、原発の林立している地域のガン死亡率がどうなっているか、それが気掛かりである。

もし青森だけでなく、福島・福井、あるいは新潟だとか静岡など、これら原発立地県がことごとくガン死亡率の上位に食い込んでいるとしたら、なるほど、これは大変なことだ、ということになるだろう。

わたくしは反原発である。放射能が身体に悪いことも承知している。もちろん、ガンになるリスクが高いこともわかっているつもりだ。けれども、上掲のごとく恣意的というか、思い込みによる先走った文章を読むと、さすがにどうかと思うのだ。

さて、次は婦人部の総班長が、漁師たちから聞いたという話である。

「釣った魚の一〇匹中二〜三匹は背中がない奇形の魚だ」

背中がない?

意味がわからない。どうせなら写真を載せてくれればいいのにと思う。顕正新聞社で正式に取材をすればいいのだ。ある意味、大スクープだろう。十匹のうち、二三匹が奇形であれば、ベラボウな比率である。写真週刊誌が黙っているはずがない。背中云々の意味はよくわからないけれども、ともかく大変な事態であることは間違いないだろう。

さて、最後に紹介するのは男子部班長の体験発表だ。やや長くなるが、ご覧に入れたい。

 また私には消費税の滞納金が一八〇〇万円もあり、国には別の土地を担保として差押さえられ、競売にかけられておりました。当然、その土地に住んでいた私の親族は追い出され、本来の評価額よりかなり安い、四〇〇万円という競売価格が設定されたのでした。

それでどうしたかと言うと、この人は四百万円を払ってその土地を取り戻した。その結果が次の一段である。

 さらに、このことにより一八〇〇万円の滞納金が一瞬で消滅してしまい、一度は追い出された親族も、もう一度その土地に住むことができるようになり、言葉にならない感謝の念でいっぱいです。

これはいったい、どういうことだろうか?

なんかズルイ、というのがわたくしの印象である。法律的にどうなのか、違法ではないのか、と思うが専門的なことはわからない。単純に考えると消費税として納めるべき一千八百万円のうち、実質的には四百万円しか払わなかった、一千四百万円を脱税(?)した、ということになりそうである。

もっとも記事をぜんぶ読めばわかるが、この人は事業に失敗してスッカラカンになってしまったのだ。辛うじて四百万を工面することが出来て土地を取り戻したものの、他にはさしたる財産もなさそうである。こういう場合はもし仮に上述のことが違法であったとしても、おそらくは情状酌量ということになるのだろう。

いずれにしても金銭にまつわる体験発表は細心の注意が必要である。すでに書いたごとく、わたくしはズルイと感じた。もし大多数の人が同様の感想を持つとしたら、この体験発表は失敗だったことになる。つまり、合法か違法かが問題なのではなく、現世利益丸出し的なところがよくないのだ。我々は罪障消滅という言葉をよく使うが、これは口で言うほど簡単なことではない。たぶん借金も同様だろう。借金が一瞬にして消滅することなど、本来はあり得ないことなのだ。だからこそ本人はその感謝・感激を述べているわけだが、しかし、これが読者には物凄く悪印象だということに気がつかないといけない。繰り返し書くが、金銭に関することを書く時には、要らぬ誤解を与えぬためにも細心の注意を心掛けたい。

2012/6/15

またしても下方修正  
今朝、沖浦氏とユタ氏からコメントを頂戴した。

表現の方法ですので、目くじら立てるほどではありません。

前回、宿命を切るという表現について云々したわけだが、上掲はそれに対する沖浦氏の返事である。

おっしゃるとおり、目くじらを立てるほどのことではない。わたくし自身、そんなに強く否定しているわけではない。前回も書いたごとく、注意を喚起しているのだ。御書に世間普通の義という言葉が出てくる。裏を返せば、普通じゃない義もあるわけで、大聖人御自身はそうした世間出世間の違いをよく御存知であられた。これは、法華を識る者は世法を得べきか、とも関連することだろう。世間から遊離してしまったならば意味がない。この辺は顕正会員よりも創価学会員のほうがよほど自覚していることであって、オマエに言われたくない、というのが本当のところだろう。ともかく熱心な人ほど気がつかないのだと思う。拙ブログはそういう部分にメスを入れているのだ。

 これが自分の命の金字塔です。
 命に立った宝塔ですよ。


そういう意味で、これもよくわからない表現だ。もちろん表現の自由があるわけで、これをダメだと言いたいわけではない。ただ一般人には物凄く違和感があるだろうことを指摘しているわけである。

「魔」の一文字で片付けるのは簡単・・・

さて、今度はユタ氏のコメントだ。たぶん創価学会も大同小異だろう。おっしゃるとおり、魔の一言で片付けるのがいちばん簡単であり、かつまた説得力があるのだ。

説得力の源泉は御書である。

先ほどは世間普通の義を云々した。平たく言えば、一般常識に適っているかどうか、それがごく普通の判断基準である。

ところが宗教の世界では別の判断基準がある。我々の場合はそれが御書なのだ。

ゆえに御書に照らして、まさに魔のレッテルを貼ってしまえば、それで片付いてしまう。いや、本当は片付くわけではないのだが、ようはおっしゃるごとく片付けてしまうわけなのだ。

一例を挙げれば、櫻川忠氏がわかり易い。氏には『迷走する顕正会を斬る』という名著がある。顕正会ではこれにまったく触れない。まさにヤブヘビであって、この本を会員たちが読めば、ことごとく正義にめざめてしまうので、本部首脳としては黙殺するしか道がなかったのだ。ところがである。ある時、浅井先生は櫻川氏のことを講演で取り上げた。今、記憶のままに書けば、大謗法者の誰々とつるんでいる、というようなことを言ったのだった。つまり、これもレッテル貼りの典型である。顕正会としては櫻川氏を魔の眷属ないし魔そのものだと断じたいのだろう。それがいちばん簡単な解決法なのだ。もちろん、本質的には何も解決していないのだが・・・

さて、今日は顕正新聞第1243号を取り上げよう。当該号のメインは五月度総幹部会だ。

二〇二〇年代こそ広宣流布の決戦場

会長講演の大見出しの一つである。

講演の全体的な感想を一言で書けば、面白い、となる。先生の講演は面白いし、ためになる。毎回がそうなのだ。

どうだろう、拙ブログの愛読者はここまで読んで、どのように感ずるだろうか?

わたくしは浅井先生に肩入れしているわけではない。なるべく客観的に書いているつもりだ。つまり、わたくしですら評価せざるを得ないくらい、先生の講演はコンスタントに充実している、ということが前提としてある。そうすると、ああ、なるほど、活動会員たちが熱心になるのも当然だ、と思えるわけである。この構造を踏まえず、イタズラに批判しても仕方がない、というのがわたくしの考えだ。

以上、当該講演は面白かったし、特に問題を感じるところはなかった。

ところが最後の最後になって、大問題を感じずにはいられなかったのだ。

 二〇二〇年代こそ、まさに広宣流布の決戦場であります。この決戦場を見つめて一筋に猛進し、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。

いかがだろうか?

これはさすがに活動会員たちもアレッ?と思うのではないか、あれれ、どこかおかしいぞ、と。

本日冒頭の表現の問題に絡めて言えば、そんなに目くじら立てなさんな、ということなのかもしれないが、わたくしには大問題に思えるのだ。再掲しよう。

決戦場・・・

少し前までは直線コースだのゴールだのと言っていたのだ。決戦場とゴールは違う。

つまり、またしてもゴールが延びたのだ。

さらに詳細に検討すると、二〇二〇年代という表現が何ともイヤらしい。仮に決戦場をゴールの意味であると解釈したとしても、最長で二〇二九年がゴールとなる。今が二〇一二年だから、あと十七年ということだ。

あと十二年

ご存知のごとく、男子部大会での発言である。二〇〇九年だったろうか?

すると本年は、あと九年、ということになる。

もちろん、二〇二〇年代初頭にゴールを迎えれば、言っていることにウソはないことになる。しかし、たぶん浅井先生もゴールは無理だと思っているのだろう。だからゴールとは言わず決戦場と言い直したのだろう。やはりゴールは延びたのだ。

ちなみに、わたくしは上述のことを書くのに物凄く時間を使っている。わずか数行だから数分で書けるはずだが、三十分くらい掛かっているかもしれない。

数字が苦手だからだ。

ただ、おそらくは日本人ならば大なり小なり感じていることがあると思う。それは元号と西暦との併用の面倒臭さだ。前回も昭和四十五年がどうのこうのと書いたわけだが、わたくしの場合は当時の出来事をすべて元号で覚えているので西暦で言われてもピンと来ない。平成になってからも同様なのだが、最近は時代の流れであろうか、西暦が多用されつつあるので、数字が苦手なわたくしは頭の中がこんがらがっている状態である。

ゆえに、浅井先生の当該講演における二〇二〇年代云々は、善意に捉えるならば時代の趨勢に倣ったものと言えるわけだが、もしかしたらゴールが延びたことを悟らせないためにワザと西暦を使ったとも考えられるのだ。

さて、どちらが本当だろうか?

ともかく今まで直線コースだのゴールだの言っていたことは動かないわけで、それを決戦場と言い直したことは明らかな下方修正である。

活動会員こそ、この現実を直視しなければならない。

2012/6/14

顕正新聞第1242号の記事を中心に  
今日はユタ氏のコメントから入ろう。

某板がストップしてしまいましたので、行き場を失った方々が覗きに来たりして、それで増えたんじゃないですかね。

これは気がつかなかった。確かに有力だ。そもそも顕正会関連の情報を発信しているサイトは絶対数が少ない。よって一つのサイトが閉鎖になれば、そこの閲覧者たちが他の場所に流れるのは理の当然である。

おかげで体調がよくなりました。
破折の功徳です。(笑)


のび太氏であるが、どうやら顕正会の婦人部と接触したらしい。それはともかく、わたくしが気になったのは次のくだりである。

自身の臆病という宿命を切ったのだろうか。

宿命を切る・・・

宿命転換という表現は顕正会でも使われているが、宿命を切るという表現は聞いたことがない。

拙ブログは顕正会用語の収集にも努めている。ようするに一般には通用しない表現を取り上げて、いわば注意を喚起しているのだ。今回の場合はそれが創価学会にも当てはまるように思える。宿命を切る、という表現は、一般的には通用しないのではないかと思うのだが、いかがだろうか?

あまりいい加減なことは言わないでください。創価学会の折伏大行進の頃ですら、国民の1割がようやく創価学会を耳にしたくらいです。確かに都市部に偏って教勢は拡大しましたが、農村部ではほとんどが創価学会の「ソ」の字も聞いていません。

事実、私の周辺では創価学会は聖教新聞を機関紙とするところから、聖教=キリスト教だと思っていた人が多かった。現代でも創価学会の実働は400万を超えないと言われております。僕も出身小・中・高をとおして1人しか創価学会員を見かけていません。よっぽど日曜学校に行くクリスチャンの方が多かった。


これが興味深かった。直接的には大沢氏への反論であるが、間接的には創価学会への批判を兼ねているようにも感じられるところである。

わたくしは虚構氏の年齢を知りたいと思った。氏の書いていることがウソだとか間違いだとか言うつもりはないが、その年齢いかんで説得力が増しもすれば減りもする、そういう話だと思うのだ。

自分自身の年齢を書いてもいいのだが、まあ、諸般の事情を勘案して伏せておこう。ともかくわたくしは折伏大行進時代を知らない。それを肌に感ずることの出来る年齢ではなかった。ゆえに大沢氏の書いているようなことを聞けば、ああ、そうだったのかもしれない、と思うし、逆に虚構氏の書いていることも、なるほど、そうかもしれない、と思うのだ。

ゆえに客観的な事実として言えることは、昭和四十五年がいわゆるターニングポイントだったこと。この年、その人が何歳だったか、これが説得力の増減に関係するのだ。

よって結論は、今現在すでに還暦を過ぎているような人でなければ、創価学会の折伏大行進を知らないはず・・・ということになる。

幸か不幸か、昭和四十五年に折伏が止まってしまった。それ以降の創価学会は折伏をやっていない。こう書くと反論があるかもしれないが、いちおう、そういうことになっているのだ。会員数の増え方を見れば一目瞭然だ。折伏という言い方自体もしなくなり、仏法対話というオブラートに包んだような表現を使い出した。

わたくし自身は上述のことすら当時の体験として書いているわけではなく、すべてが伝聞である。いわんや、それ以前をや、である。つまり、昭和二十年代だとか三十年代の創価学会がどうだったか、あるいは日蓮正宗そのものがどうだったか、何も知らないのだ。

以上、虚構氏の年齢が気になる理由はかくのごとしである。

さて、顕正新聞第1242号の話題に入ろう。

自殺者 34年間で90万人

一面には五月六日の日曜勤行の指導が載っている。日本では毎年三万人以上が自殺しているということは多くの人が知っていることだろう。しかし、漠然とした知識は持っていても詳細を把握している人は少ない。今回の記事はわたくし自身も驚いたわけだが、なんと自殺者三万人超は連続十四年にも及ぶらしいのである。そしてさらにそこから二十年さかのぼって合計すると、三十四年間で九十万人が自殺しているというのだ。これは深刻な数字である。

ところで続きの文章には、自殺寸前の人が入信して救われた、という話が出てくる。

 その人が言うには「十円しかなくて、その十円で最後の電話をかけた」と。

あえてイチャモンをつけるとしたら、ここだろう。

いかにも創作っぽい話だが、話を感動的にするために十円玉一枚としたのだろうか?

わたくし自身はもう何年も公衆電話を使ったことがないので断言できないが、十円ではあっと言う間に通話時間が終了してしまいそうである。話が終わる前に切れてしまったら、それこそオシマイだろう。百円あれば助かったかもしれないのに、十円しかなくて助からなかった。これは悲劇だ。

それならば、十円玉が数枚・・・としたほうがリアリティあったと思う。

難関の秋田県庁への就職も叶う

いきなり話が飛んで恐縮である。これは男子部支隊副長の活動報告だ。

県庁への就職を疑うわけではないが、掲載されている顔写真を見ると、ずいぶん年が上のように思える。いわゆる壮年部系の男子部員だ。仮に五十歳としよう。年齢制限はないのだろうか? 再就職枠のようなものがあるにせよ、よほどのことがなければ役所が五十歳の人を中途採用するとは思えない。

経営相談専門員

ああ、なるほど、よくはわからないが、この人は特殊な技能・能力を持っているようだ。

それはともかく、わたくしがもっとも気になったのは、次のくだりである。

・・・すかさず私は、仏様に縁をしてから行くことを勧めました

ようするに折伏のことだろう。しかし、これは図らすも、今の顕正会の折伏のあり方に問題があることを教えてくれているようだ。

折伏されている人は物凄く軽いノリで、ああ、仏様に縁をしておいたほうが得のようだ、ということで入信することになる。ヘタすると、入信という認識すら持っていないかもしれないのだ。もう少し書くと、この人の場合は創価学会に籍があったらしく、それで入信ではなく入会の扱いになっている。しかし、上掲のごとく、御遺命守護のことを話すでもなく、単に仏様に縁をする云々の話に終始しているのだ。創価学会員相手にこのテイタラクでは、一般の人に対する折伏ではなおさらのことだろう。こんな調子で大丈夫なのだろうか?

末期ガンの組長が素晴らしい臨終

これは婦人部横浜支区部長の登壇だ。亡くなった人は六十五歳だったそうだ。胃ガンから肝臓への転移もあって手術不能とのことだった。

特に申し上げることはない。わたくしはこの記事ではなく、別の婦人部員の記事が引っ掛かった。いわば上掲はその対比の意味で掲げさせていただいたのだ。

次男の臨終に 悲しみより有難さ

これは婦人部の支区長補の記事であるが、お子さんを亡くされたようだ。まさに老少不定である。

それにしても不審である。

年齢が書かれていない。事故なのか病死なのか、あるいはそれ以外なのか、まったく書かれていない。だったら、こんな発表しなければいいのに、と思う。わたくしは興味本位で書いているわけではない。顕正会の場合、たとえば法華講員だとか創価学会員が不慮の死を迎えれば、それを罰だの何だのと書くわけだろう。他人の死を悪し様に書き、自分たちの死を美化する。これはいかがなものか、ということなのだ。前掲の記事のごとく、病名だとか年齢だとか、ハッキリと書くべきだろう。それでなければ説得力はないし、かえって不審に思われてしまうことにもなりかねないのだ。

さて、今回は順番を逆にしたが、以下が当該号における各種登壇のトップ記事である。男子部第六十四隊長の代表決意なるものだ。 

何より、今なお収束の目処が立たない福島第一原発の事故においても、仮にあの事故が水蒸気爆発だったら、人類史上経験したことのない大惨事となり、もはや我々の存在はなかったものと思えば、まさに先生の地元顕正会員を思われる強きご一念により我々の命を救って頂けたことに他ならず・・・

もうダメだな、というのがわたくしの偽らざる感想だ。

2012/6/10

閲覧数増加の真因  
コメント欄が賑わっているけれども、内容的にはいつものパターンに陥っているようだ。そうした中で、わたくしが注目したのは、のび太氏の顕正会批判である。

ポリ銀さんや顕○会くずれの原理主義者の御書の解釈が、字面をなめての解釈で止まる。
結局のところ、御書を依義判文できる師匠がいないからなのだ。


この部分は顕正会批判ではなく、ポリ銀氏やわたくしへの批判なのだろう。特に申し上げることはないが、ポリ銀氏の弁護だけはしておかねばならない。ようするに彼は正直なのだ。この正直さこそが大切なのだ。

一点だけ今の顕○会を破折しておく。

目的:教勢拡大

手段:今は、脱原発

どうだい?原理主義者が国立戒壇も語らずにいきなり脱原発だってさ?
御書のどこかに脱原発って在るのかい? (笑)
世の中では、こういうことを隠れ蓑というのです。


まさに顕正会批判である。これはうまい文章だ。簡潔である点が好ましい。あんまりゴチャゴチャ書くと、わからなくなる。実はわたくしの文章がそれなのだ。一方、のび太氏の文章は簡潔でわかり易い。この点が素晴らしいのだ。

現状ではさすがに隠れ蓑とまでは言えないと思うが、そう言われても仕方がない面がある。わたくし自身がこれまで何度も書いているように、いずれは既存の反原発運動家たちとトラブルを起こすことにもなりかねないわけで、もしそのような事態に至れば、まさにのび太氏の批判が丸々当てはまってしまうことになるだろう。ゆえに、こうした批判を真摯に受け止め、絶対にトラブルを起こさないように徹底すべきだと思う。

それはさておき、拙ブログにおける最近の動向について書いておきたい。

最近の動向?

独白ブログに動向などというものはない。常に行き当たりばったりで書いているだけだし、更新頻度もそれほど高くない。では、最近の動向とは何か?

なぜかアクセス数が増加した・・・ということである。

これはタコ氏のお陰である。直接的にはタコ氏が登場して、氏との一連の議論が進行している段階で、アクセス数が急増した。これはたぶん正宗系のさまざまの人たちが一斉に注目したからなのだろう。お手並み拝見というか、巌虎が異教徒に対して、どのような破折をするか、そこに注目が集まったのだと思われる。

しかし、どういうわけか、タコ氏が去った後もアクセス数が高止まりしているのである。

具体的な数字を書いておこう。

古い記憶で不正確を免れないが、以前は毎日更新していた。その時は三百前後をキープしていた。以後、不定期更新になって、徐々に数字が下がり始めた。更新頻度も低いし、読者も飽きたのだろう、下がって当然と思っていた。しかし、どうにか百を割らずに、下げ止まった。固定客が百数十人。これが近年の拙ブログの状況だったのだ。

そこにタコ氏が登場してアクセス数が増えた。そしてタコ氏が去った後も、二百を超える状態が続いているのだ。

つまり、固定客というか愛読者が、ざっと数えて百人近く増えた。これが拙ブログの近況である。

それはなぜだろうか?

もしかしたらタコ氏の再登場を期待する人たちが、新たな進展があるやも知れぬと思って、確認のためにアクセスしているだけなのかもしれない。であれば、もうしばらくすれば沈静化することだろう。

あるいはコメント投稿がわりと活発なので、それを楽しみに訪れる人もいるのかもしれない。しかし、思いっきり失礼を承知で言えば、そんなに面白いかなあ? というのがわたくしの正直な感想だ。

以上のような理由で、わたくしにはアクセス数の高止まりの理由がわからないのである。

ようするに自分の文章がそんなに面白いわけがないし、コメント投稿者もややマンネリ化している。すると新たな刺激がなければ一般の読者は離れてしまっても不思議はないのだ。

一つの可能性を書いておこう。

キリスト教関係者が虎視眈々と反撃の機会を窺っている・・・

考え過ぎかな?

タコ氏は異端児だった。ある意味、わたくしは親近感を懐いていた。類は友を呼ぶとはよく言ったものだと思う。わたくしも異端だからだ。

いずれにしてもわたくしがキリスト教を批判したのは厳然たる事実であって、拙ブログにすべて記録が残っている。もしかしたら、これに我慢がならない人たちが無数に存在するのかもしれない。であれば、彼らこそが拙ブログのアクセス数を増やしていることになるだろう。

すると、いずれは正統派・本格派のキリスト教徒がコメント欄に登場するのだろうか?

面倒臭いなあ、まったく。

2012/6/4

耳の痛い話と寝耳に水の話  
大沢氏より厳しい指摘をたまわったので、まずは紹介しよう。

御書を拝読しているのなら何故折伏しないのか、御宗門にも顕正会にも納得がいかないというのは考慮しても、御書を拝読しているのならば巌虎様単独であったとしても、「諸宗は堕地獄の根源」と自ずから折伏に励むのではないかと思います。

巌虎様に対する不満があるとすればその部分で、幾ら御書を拝読したつもりでも、実践に繋がらなければ無意味であります。

巌虎様が御書を拝読しているのであれば、普段の姿として折伏して当然です。
そういう姿が無い事が、巌虎様にとって残念な事です。

どれだけ御書を読んだ(つもり)であっても、それによって自ら折伏しようという気にならないのが巌虎様の限界を示しています。

巌虎さんが御書を拝読しつつ平然とこのような立場を取っているのは納得いきません。


弁解がましいことを書いても仕方がない。わたくしとしてはひじょうに痛いところを突かれているわけだが、ほぼ全文を掲げさせていただいた。今後とも忌憚のないご意見をたまわりたいと思う。

今の姿そのものが限界を示しているとの指摘はひじょうに鋭い。なぜならば大沢氏はわたくしの日常を知らないからだ。知らないにもかかわらず、そのように言えるのは、氏独自の慧眼なのか、あるいは拙ブログの読者ならば誰もが容易に想像し得ることなのか、そこが気になるところである。もし後者であれば、わたくしは更新するたびに全世界に向かって恥を晒していることになるからだ。

いずれにしても、ここは言論空間である。であれば、その人の言っていることが正しいか間違っているか、問われるのはそこである。

その意味でわたくしは一貫しているつもりだ。たとえば沖浦氏のことではしばしばスキャンダラスな話題が取り沙汰されるけれども、わたくしは一度もそれに加わっていない。純粋に氏の主張が正しいか否か、それだけを追求してきた。

結局、弁解がましいことを書いてしまったが、まあ、こんなところである。

「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、
 皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」

学会が此処まで拡がったのは夫々が「地涌の菩薩」としての
自覚が在ったか如何かです。

「霊山の聴衆」であったのは私であろうが巌虎様であろうが
大沢様であろうが疑うべきではありません。

皆,上行菩薩に扮した大聖人様の後ろに並んでいた事を
忘れては此の仏法を修している事に成らないと思うのです。

700年間広まらなかった原因は其処にあります。
所謂「寺信心」で地湧の菩薩を他人事だと思っていたからでしょう。


これは素晴らしいコメントだ。本人は創価学会員のはずだが、ここに法華講員の大沢氏であるとか、落ちぶれ顕正会員のわたくしをも含めて、霊山の聴衆であったと書いている。その上で全体の文脈は創価学会の優位を言っているように読める。見事な構成力である。

生意気を言うようであるが、わたくしは相手の所属に左右されない。色眼鏡で見ない。とかくありがちなのは、相手の言っていることには何でもかんでも逆の反応を示すことだ。法華講員と創価学会員の議論にしばしば見られるところである。最近では法華講員同士でも見られるようだ。法太郎と何やら裁判沙汰で揉めている人物がいるけれども、わたくしに言わせれば法太郎がアホなだけなのだ。そのアホをどうにかしようと思ったのがそもそもの間違いで、コイツは度し難いと思って捨て置けばよかったのだ。

それはともかく話を戻そう。

霊山の聴衆か否かはひじょうに難しいところだが、大聖人が地涌の菩薩にあらずんば云々と仰せられるのだから、これを素直に受け止めるべきが筋である。ゆえに上掲のコメントは非の打ちどころのない、素晴らしいものだと思う。

だが、しかし、それとこれとは別なのだ。再掲しよう。

5人の聖人方・・・

つまり、沖浦氏は三国四師ならぬ三国五師を言ってしまっているのだ。戸田氏を聖人であると。

地涌の菩薩はいわば総称である。経文には一々の名前が出てこない。それこそ無数に存在するわけなので、書き切れないのだ。しかし、リーダーたちには固有名詞がある。上行・無辺行・浄行・安立行の四人だ。さて、戸田氏はどれに当てはまるだろうか?

今朝方も沖浦氏から精力的な書き込みがあったけれども、どうやらこの問いには答えていないようだ。


 沖浦流法門と言うものはありません。
 大聖人の仏法を書いているだですし、現代的に言うなら、

 創価思想、創価仏法です。

 戸田思想ですよ。


これは昨朝のコメントであるが、すでに逸脱が見られる。大聖人の仏法を現代的に言うなら大聖人の仏法である。創価思想・創価仏法と呼ぶ時点で大聖人の仏法からの逸脱だ。戸田思想もしかり。そもそも戸田氏本人が自ら戸田思想と呼称することは考え難い。こういうのは後人のシワザである。つまりは沖浦氏だ。ゆえにわたくしは沖浦流法門と呼んでいるのである。

 私は創価宗の信者であり行者ですので、開祖の金言をためらいなく信受いたします。

 但し、私共創価宗にとって、開祖は戸田先生ですから、大石寺派の開基である興師と比較すると、戸田先生は桁違いに大きな存在です。

 私は開祖の金言を素直に信じます。
 ですが、他宗の貴方がたに強要いたしません。


これらは今朝のコメントである。もはや議論にならないようだ。

現状で創価宗という呼称がどれほど普及しているのか知らないが、いずれは正式に名称を変更するのだろうか?

開祖・戸田城聖?

確か戸田氏は二代会長だったと思うが、すると初代の牧口氏はどうなるのだろうか?

沖浦氏は他宗の貴方がたに強要しないと言っているが、そんなことはもちろんだ。わたくしはむしろ創価学会の内部において、こんなことを強要したら組織が崩壊するのではないかと心配になる。

結論を書こう。

沖浦氏は極端だ。創価学会員の戸田氏に対する尊敬の念は当然のことであるが、しかし、創価宗の開祖との認識に立つ人はマレであろう。さすがにそれは極端であり、戸田氏にとっては寝耳に水の話である。

2012/6/2

新説・三国五師相承?  
大飯原発再稼働はひじょうに残念なことだ。夏場の電力需要を云々するロジックからすれば、秋になったらすぐに止めるのが筋だろう。しかし、なし崩し的にそのまま運転が続けられそうな予感がしてならない。悲しいことだ。

ポリ銀氏が長文のコメントを下さった。

大聖人さまが偉大で、この仏法が全世界広宣流布を目的としているからといって、大聖人様の本国の役割を過小評価する現在の御宗門の考えには、違和感があります。

よくぞ言った。

単純化すると、ポリ銀氏の言っていることは顕正会寄りの考え方である。しかし、だからと言って、氏を責めてはいけない。わたくしの思うに、宗門は未だに妙信講問題を引きずっているのだ。妙信講に対抗するために逆のことを言う、そんな習癖が身に付いてしまっているのだ。あるいは対創価学会でも対正信会でも同様だと思う。それぞれが言っていることにはそれなりの価値があって、すべてがダメなわけではない。しかし、心が狭くなっているからなのか、どうしても全否定してしまう。さすがに全否定は言い過ぎかもしれないが、そういう傾向があるのは事実だ。たぶん、邪義破折班などがいい例だろう。

原点回帰というか原典回帰というか、ともかく大聖人の仏法においては御書が原点ないし原典である。すでに七百有余年、そしてこれから先も続いていく。しかし、どんなに時間が経過しようが大聖人の説かれたことは不変である。途中の人たちが勝手な解釈をして、その時はそれで納得したとしても、はたしてそれが永遠に通用するかと言えば違うだろう。しょせん解釈は解釈なのだ。ゆえに、われわれは常に原点たる大聖人の御書を見つめていなければいけない。

わたくしは何も顕正会の戒壇論を支持するとか、宗門のそれを間違っているとか、そんなことを言っているのではない。妙信講に引きずられるな、虚心坦懐に御書を拝せ、と言いたいのだ。

図らずもポリ銀氏はそのキッカケを作ってくれたのだと、このように宗門首脳部は理解すべきだろう。

釈迦、天台、伝教、大聖人、戸田先生は、同じ仏法の極意を、それぞれ独立した個人として自ら悟った。

さて、今度は沖浦流法門との戦いだ。

前回、日興上人は関係ない、などと氏が言うものだから、御義口伝をよく引用する人がそんなことを言うのはおかしい、とわたくしは詰った。すると氏は、他門の誰々を持ち出して、日興上人だけが法を引き継いだというのはウソだと断じた。いわゆる唯授一人の否定だろう。ようするに日興上人を否定はしないが唯授一人はウソだと、こういうニュアンスのようだ。

その上で上掲のごとく言っているわけだ。

まずは常識的な範囲で破折するが、この際、唯授一人は度外視しよう、それは関係ないとしても日興上人の法脈に浴していることは動かない、それが戸田城聖氏の立場ではないのか、と言っておきたい。

もし戸田氏が勝手に悟ったのであれば、そもそも日蓮正宗に入信する必要はなかった。最初から正宗と無縁であれば、今日のような問題は発生しなかった。つまり、今の沖浦氏の言っていることは盗人猛々しいにもほどがあることなのだ。戸田氏が悟ったのは日蓮正宗のお陰である。とすれば日興上人の系譜を免れない。

ちなみに、その悟ったという事実、獄中の悟達にも問題がある。これを戸田氏自らが喧伝したものか、周辺の人物がそうしたのか、あるいは氏の没後によりいっそうの喧伝が行なわれたのか、その辺の検証が必要ではあるが、ともかく氏の主張そのものは日蓮正宗の正義を宣揚するものだったので、さしあたっては問題視されなかったのだろう。しかし、在家信徒のブンザイで悟ったと威張るのもおかしな話であるからして、氏の人物像を語るにおいては、この点にメスを入れる必要があるだろう。

自解仏乗

戸田氏の人物像はさておき、沖浦氏の人物像に迫ろう。わたくしの思うに、沖浦流法門は侮れない。沖浦氏は年齢相応というべきか、それなりに教学が達者である。年季が入っているのだ。上掲の自解仏乗を持ち出すところなど、なかなかどうして、大したものである。たぶん、氏はコメントを打っていて楽しいのではないか、充実感を味わっているのではないか、という気がする。しかもシニアアスリートとして、あるいはコーチとして、それなりの成功を収めているのだから幸せなことである。

さて、これに対する反論を書こう。戸田氏の自解仏乗は本当か? それをどのように証明するのか?

天台の自解仏乗は御書に示されている。大聖人もしかり。では、戸田氏の文証はいずこに存するのか、である。
もし、戸田氏本人がそのように言ったとしよう。早い話が自己申告だ。これをどうして第三者が採用するだろうかという話なのだ。
大聖人は御自ら自解仏乗と仰せられた。これは信ずればいいことだ。なぜならば大聖人の仏法だからである。

では、戸田氏の場合はどうか?

これを無批判に信ずることは出来ない。もし信ずるとすれば、それは戸田教であって、大聖人の仏法ではない。

沖浦氏に課せられたのは戸田氏の自解仏乗を道理・文証・現証の上からキッチリ証明することである。

5人の聖人方が、師無くして悟られた。

この五人の内訳が凄い。三国四師に戸田氏が加わるという、前代未聞の捌きだ。

ここでの最大の問題は戸田氏の存在がいつのまにか日興上人よりも偉くなってしまっていることである。これには本人もさぞビックリしていることだろう。

時間軸の上からは次の順番が正しい。

釈尊
天台・伝教(=薬王)
大聖人(=上行)
日興上人(=無辺行)
戸田城聖(=?)


おわかりだろうか、自解仏乗とは別の概念というか、実はなぜに自解仏乗が可能なのかということの一つの答えがここにある。すべては次のキーワードに集約されるのだ。

霊山の聴衆

これが答えだ。

沖浦氏は戸田氏を霊山の聴衆と考えているのか、もしそうならば具体的に教えていただきたものである。何々の再誕であると。

なお、日興上人を無辺行菩薩とするのはいわゆる御相伝に基づくものであって、御書の範囲だけでこれを証明するのは相当に困難である。まさか逆ギレしてそこを突いてくることはあるまいと思うが・・・


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