2012/7/10

虚しさと戦いながら  
信行氏より長文のコメントを頂戴した。そして今朝は沖浦氏からコメントが寄せられた。

信行氏のコメントは後述するとして、まずは沖浦氏から入ろう。はっきり言えば、氏のコメントは暴言である。たぶん自らお手本を示してくれたのだろう。

 信行さんが愚かな事をお書きですね〜。

>厳戒すべきことを記しおく。
 僧籍にある方ですら、重要な法門を説くには寛尊をはじめ歴代上人のご指南をあらためて学ぶという。

 習い損ないが習い損ないを学んで、習い損ないを作っている。
 これが宗門教学。

>如何にいわんや在俗にしてその姿勢なきものが徒に法を語り、われ正しきと主張することが如何に横暴であるか。

 大聖人仏法が、在家仏法であることすら理解出来ない人の集団です。

 出家など不要ですよ、今は。


何ら論理的説明をせず、相手を腐すだけの文章だ。

一方、信行氏のコメントは懇切丁寧であり、好感が持てる。もっともポリ銀氏ならば、上から目線の文体に憤るかもしれないが、わたくしはぜんぜん平気だ。何しろ自分自身がこうしてブッキラボウな文章を書いている以上、他人に対して文句は言えないのだ。

暴言というのはハナッから非論理的であり、ただひたすら相手を罵倒することを意味するのだろう。

暴論はいちおう論理的なのだと思う。しかし、よく見ればデタラメな論理で、結局は相手を罵倒することが目的なのだ。

信行氏のそれは懇切丁寧で好感が持てる。わたくしの見るところ、昨夜のコメントは暴言・暴論には当たらないだろう。こういう場合は真摯に受け止めるべきなのだ。

 「車」と言ったときに何を想像するか。
 スポーツカーか、軽自動車か、2tトラックか、大型トレーラーか。
 実態が分からぬ癖に勝手に決めつけて評価し、勝手に問答をして自論を誇張する。


長文なので一例だけ紹介しよう。たぶん上掲だけでは何を言いたいのかわからない人もいると思うが、わたくしは次のごとく理解した。

談義あるべし

談義あるべからず


大聖人と日有上人の御指南を並べて表記したわけだが、まさに言っていることが正反対である。これについては前回、わたくしなりの解釈を書いた。たぶん他には解釈の余地がないと思ったのだ。ところが信行氏のコメントを拝見して、なるほど、己の思考の偏狭を思い知った。

談義という単語は同じだけれども、上掲の二つの談義は意味が異なるのだ。

厳密には本当に意味が異なるのかどうか、わたくし自身はわかっていない。ただ、ここで言えることは、わたくしの思考からは完全に抜け落ちていた、意味が異なる可能性をまったく考慮しなかった、ということである。いずれにしても、それぞれの意味が異なるのであれば、「あるべし」「あるべからず」は矛盾でも何でもないことになる。実に簡単な道理だ。

佐藤さんは馬鹿だ。

佐藤さんは利口だ。

同じ人物ならば評価が正反対ということになる。しかし、佐藤さんはたくさんいるわけで、別々の佐藤さんだとすれば何の問題もない。

 有師仰せの談義とはすなわち法門に対して師伝なく勝手に解釈を広げることに他ならぬ。

この部分に関して言えば、大聖人の御指南とも整合性が高い。

 鎌倉に筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨と申す小僧等之有り。之を召して御尊び有るべし、御談義有るべし、

ようするに僧侶を招いて談義せよと言っているわけで、在家だけで勝手に談義せよとは言っていないのだ。この点、沖浦氏の在家仏法云々がいかにデタラメであるか、明々白々であろう。

さて、本件に関しては、あと二つ引用して終わりたい。

 巌虎殿よ、貴殿は我が宗門の教学をただ聞きかじるだけで批判するその虚しさにいつ気づくのだ。
 蓮祖は観念で成仏できるとは一言も仰せいだされておらぬ。
 一生虚しく過ごして万歳悔いることになるのだと書いておこう。


相変わらず厳しい人だ。

 我が宗門に席がないからと徒に法を弄び批判する失は必ず身に現れることであろう。

顕正会員顔負け(?)の罰論である。そもそも罰論は顕正会の専売特許ではなく、大聖人の仏法の特質なのだ。ゆえに正統門流たる大石寺がこれを言うのは当然のことであり、何らおかしいことではない。

しかしながら、わたくし自身は今後も変わることなくブログを綴っていく。宗門批判も辞さない。法門談義も折に触れ、書くことだろう。

正直に思っていることを書くと、わたくしのような人間が罰を受けるとすれば、世の中の全員が大罰を食らってもおかしくないのではないか?

さすがに言い過ぎかもしれないとは思うが、しかし、半分くらいは本気である。

十年早い

ダラダラと余談を続けよう。

俗語というのだろうか、上掲のようなセリフがいろいろな場面で使われていると思う。たとえば職場で右も左もわからないような新人が生意気な口を利くと、先輩から言われるのだ。オマエ、十年早ええんだ、と。わたくし自身もずいぶん言われたような気がする。そして今度は自分が長じてきて若い人と相対するようになると、確かに同じことを思ったりする。けれども、わたくしは言わないように心掛けている。

百年早い

さて、これは世間でどれくらい使われているのだろうか?

わたくしの思うに、これこそはまさに感情の発露なのだろう。普通の人は百年も生きない。つまり、百年早いの意味は、オマエはずっと黙ってろ、ということだ。

インターネットの革新的なところは万民に発言権を与えたことだろう。拙ブログにしても、おそらくはよほどのトラブルに巻き込まれない限り、永遠に続くことになる。わたくしの発言を遮ることは出来ないのだ。わたくしは同時にコメント投稿者にも同様の権利を与えたいと思っている。与えるは不遜かもしれないが、ともかく拙ブログの編集権はわたくしのみが握っているので、都合の悪いコメントを削除したり、あるいは投稿を拒否することも可能ではあるのだ。生意気を言うようであるが、わたくしはそれを一度も行使したことがない。パソコンを使える人であれば、幼稚園児であろうが百歳の老翁であろうが投稿できる。もし幼稚園児が上から目線で発言したとしても、拙ブログにおいては許容される。十年早いだの百年早いだの言うつもりはない。いつも言っているごとく、ようは書いている中身が問題なのだ。

2012/7/9

暴論はどっちだ?  
コメント欄はわけのわからぬ展開になっているが、わたくしなりに整理してみようと思う。

暴言・暴論を恣にすることを権利だと履き違えるのはまことに残念・・・

問題は何が暴言・暴論に相当するかである。具体的な文言を挙げた上で、それは暴言である、もしくは暴論である、と指摘する必要がある。そうでなければ言論の封殺であることは免れない。余計なことは言うな、黙っておれ、と信者に強要していることになるからだ。

日有上人には誤りが多い

これはかなり昔の話であるが、顕正会の男子部長が発した言葉である。たぶん浅井先生の影響だろう。つまり、浅井先生も上掲のように思っているのだ。

一、当宗には談義あるべからず、其の故は談義とはその文段を横に沙汰する故に智者の所行なり、当宗は信の宗旨なる故に爾るべからず。

わたくしごときが歴代上人の御指南を云々するのは恐れ多いことだが、ここで私見を申し上げようと思う。

たぶん日有上人に誤りがあるのではなく、上人の御指南を受け取る側に誤解があるに違いない。上人の言葉を理解し切れていない、咀嚼し切れていない、ということだ。

談義あるべからず

ここに誤読というか、誤解があるのだと思われる。

結論を言えば、談義を面としてはいけない、という意味に解するべきなのだ。これを字面そのままに、何が何でも談義はいけないことだとすると、大変なことになる。

まず、世間普通の義から考えてみよう。

今の時代にそんな教えを徹底したら、それこそ言論封殺そのものであり、おそらくは誰も納得しないだろう。納得する人は馬鹿である。

【もうひとつのガラパゴス】

のび太氏はうまいことを言うものだ。

拙ブログが繰り返し指摘してきたのは、一念信解という名の愚民化政策、ということだ。これが顕正会のここ十数年のあり方だった。早い話、日蓮正宗も似たり寄ったりであると、のび太氏は言っているのだ。

信行氏とポリ銀氏のやりとりのなかで、日蓮正宗の歪んだ信仰観を信行氏が述べている。「僧侶が上で在家は下」をすり込まれてきた姿である。

ただし、じゃっかん問題がある。おそらくは次の御文がすべての答えを導くカギとなるだろう。

 鎌倉に筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨と申す小僧等之有り。之を召して御尊び有るべし、御談義有るべし、

おわかりだろう、日有上人の御談義あるべからずをそのまま解してしまうと、この大聖人の御指南とは食い違ってしまうのだ。これは南部六郎三郎殿御返事であるから、相手はすなわち在家である。在家に対して御談義を勧めているわけであるから、ひじょうに悩ましい。よって日有上人の御指南は、談義を面とすべからず、と読まなければ整合性が取れなくなってしまうのだ。

つまり、世間普通の義というか現代感覚からして談義を禁止することの無理無体がまずあって、さらに大聖人の御指南からしても談義を禁ずることは出来ない、という二重の意味があるのだ。

なお、のび太氏のコメントにじゃっかんの問題があることは、賢明な読者であればすでにご承知のことだろう。

之を召して御尊び有るべし

鎌倉には日朗・日昭などがいるので尊びなさい、という意味だ。これをもって短絡的に、出家が上で在家が下、と言うつもりはないけれども、「御尊び」にはそれ相応の意味があるわけで、まさかこれを無視する人はいないだろう。

ちなみに、「之を召して」がさらに議論を呼ぶところではあるけれども、煩瑣になるのでやめておく。

一切衆生皆成仏道の教なれば、上根上機は観念観法も然るべし。下根下機は唯信心肝要なり。

心に存ずべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。

さらに四信五品抄を拝すれば明瞭であるが、御書の羅列は煩瑣に感ずる人もいるだろうから、省略したい。

鎌倉時代は念仏宗と禅宗が勃興した。これに比例して天台宗がやや力を弱めていた。というよりは、民衆にとって天台宗は敷居が高かった。そこに念仏宗など敷居の低い宗派が出てきて、民衆のニーズに応えた。

難行

易行


念仏宗のウリは易行である。そして巧みにも旧来の天台宗を難行の内にはめ込んでしまって、ますます民衆から遠ざけてしまった。まさに大聖人はこうした時代背景を背負って御出現あそばしたのだ。

これで結論が出たものと思う。

もしイトマあらば台家を聞くべきこと。

日興上人の御遺誡もまったく同じ方向性だ。

つまり、談義がいけないのではなく、談義を修行の中心に据えてはいけないという意味なのだ。もし談義がメインの修行であったならば、それこそまさしく難行であって皆成仏道は不可能となる。一部の上根上機の人だけしか成仏できないことになってしまう。これではまったくお話にならない。だったら念仏のほうがマシだという話になってしまうのだ。

教学軽視の愚民化政策、これが目的で日有上人の御指南を持ち出すのであれば、上人に対するこれほどの冒涜もあるまい。

大聖人の仏法は皆成仏道である。全員が成仏できる。その上で大事なのが信心である。信心肝要ということだ。

この意味において教学は二の次三の次となるわけだが、決して教学不要というわけではない。

今もって舌足らずであるが、おおむね以上である。

ともかく言論封殺はいけない。暴言・暴論を云々するのであれば、具体的にどこが暴言なのか、あるいは暴論なのか、そこを指摘するべきだ。それをせずして頭ごなしに、談義あるべからずと言ってしまうのは、いかがなものかと思う。これではどちらが暴論なのか、わからない。

2012/7/6

言論封殺の実態に迫る  
今日はユタ氏のコメントから入ろう。

そして、顕正会で組長までしか行けなかった者は、日蓮正宗でもからっきし……ですね。はい、私がそうです。もし仮に日蓮正宗が会社だった場合、私は書類選考の時点で落とされていたことでしょう。10年間顕正会やってて、組長程度までしかなれず、誓願は立てるだけ立てて遁走。そんな人間、不採用ですな。

宗教は人を救済するのが目的だから、どんなダメ人間でも受け入れる。ゆえに顕正会でも法華講でも、その他であっても、自分から脱退しない限りはそこに居られるはずなのだ。もちろん、組織をかく乱するような危険な人物であれば話は違ってくるが、そうじゃなければ滅多に除名になることはないのだ。結局は自分からやめて行く人が多いのだと思う。

とりわけ顕正会が典型的だ。除名になる人はほとんどいない。ゆえに本当ならば百五十万人の会員がいるはずであるが、現実には数万人しかいない。除名になっていないのだから名簿上は百五十万人いるはずなのだ。ところが現実にはいない。みんな自分からやめて行くのだ。

不思議な話ではある。

救済が目的だから全員を受け入れる。さしたる選考があるわけではない。現場の活動会員の判断で入信が許されるのだ。それでいて会員が増えないのだから、どこかがおかしいのだろう。

検閲という言葉をユタ様がお使いですが、その通りです。御僧侶や法華講の役職者がされているのでもないようです。

僕には書き込みよりもメールで来ます。実際にお寺へ御報告されたようですね。

おそらくそういった検閲をされている方というのは、意見の違いを堂々と述べることが出来ない事情があるのでしょう。実名でなくても、固定のハンネを使うというのはある程度一貫性の証明ですから。

僕は以前、顕正会に居た時は詐称ハンネの常習者でした。ユタ様のブログを荒らしたこともあったように思います。申し訳なく思っています。

そういった反省からもポリ銀で通したいのですが、ポリ銀だと特定されてしまうというジレンマに苦しんでいます。


さて、今度はポリ銀氏である。

氏はブログをやっていたが、つい先日、急に閉じてしまった。まさに急だった。なぜならば拙ブログのコメント欄にリンクを貼り付けてから、わずか数日で閉じてしまったからである。

リンクを貼るのは、ぶっちゃけ宣伝の意味である。宣伝は言い過ぎにしても、自分の存在を広く知ってもらうのが目的のはずなのだ。

もし知られたくないのならば、リンクを貼らなければいい。

これでわたくしが彼のブログ閉鎖にいぶかしさを感じた理由がよくわかるはずだ。普通ならあり得ない話である。たとえばラーメン屋でもいいだろう。新しい店を出した。まだ認知度が低いためか客の入りが悪い。そこで宣伝のために大量のチラシを配った。ところがである。宣伝をしておきながら、なぜかその直後に店をやめてしまった。これは誰が考えたっておかしいだろう。

ポリ銀氏によれば、まさに圧力が掛かったようである。具体的にはメールによる恫喝ということになりそうだ。

しかし、わたくしは思う。

なぜブログを閉じたのか、そのまま続けることは出来なかったのか、と。

僕の考えは異端児かもしれません。

異端児と書いたのはわたくしである。ただ、それはわたくしがそのように思っているというよりは、今の平均的な法華講員から見れば、そのように見えるに違いない、ということなのだ。ここで重要なことは、ポリ銀氏自身もその自覚がある、そんじょそこらの法華講員とは意見が異なることを自覚している、ということである。

だったら閉鎖するべきではなかった。どんな圧力があろうとも、己の主義主張を貫き通す。そうするべきだったのだ。

おそらくそういった検閲をされている方というのは、意見の違いを堂々と述べることが出来ない事情があるのでしょう。

再掲であるが、具体的にはどのような事情があるのだろうか?

わたくしの思うに、ポリ銀氏は相当の論客であって、並みの法華講員ではとうてい太刀打ちできない。つまり、表立って議論すれば、たいていの法華講員が負けてしまう。だから裏に回って圧力を掛けるのではないか?

まあ、しかし、最後に言っておこう。

わたくしはポリ銀氏の肩を持っているわけではない。氏の意見は顕正会寄りである。だから応援していると思ったら大間違いだ。

印象だけで言わせてもらうと、今のポリ銀氏は顕正会員もビックリの極論者である。今の顕正会は戒壇建立に関して、民主的な発想にかなり近づいている。ところがポリ銀氏は違う。あえて使うならば極右と表現してもいいくらいである。

また、わたくし個人の意見としては、今は国立戒壇の名称に拘泥すべきではないと思っている。この点ではポリ銀氏と顕正会は親和的であるが、わたくしとは意見が合わない。

つまり、仲間だとか味方だとか、逆に敵であるとか、そんなことではないのだ。

今回の一件は言論封殺が問題なのである。大袈裟なようだが、もしポリ銀氏が圧力に屈してブログを閉じたのだとしたら、まさに言論封殺そのものである。わたくしが憂慮しているのはこの一事である。

2012/7/5

顕正新聞第1244号を中心に  
ポリ銀氏関係の話題はしばらく見送ろう。急にトチロ〜氏が出てきたり、援護射撃がどうのこうのとか、あるいはガラパゴス派がどうのこうのとか、よくわからない展開になっている。わたくしはごく素朴に、なぜブログを閉じたのか、そこが気掛かりなのだ。この点はおそらく、多くの読者が釈然としないものを感じているはずである。

さて、顕正新聞第1244号から話題を拾おう。

感心したのは壮年部長格の二人がオトナの対応をしていることだった。一人は副総男子部長・第十男子部長、もう一人は第七十四隊長だ。

 先生は
 「指導とは、指さし導くということ。すなわち『御本尊様の功徳は絶対』ということを指さし、導くのである」
 と仰せられました・・・


これは副総男子部長の記事であるが、七十四隊長もほぼ同様だ。

先般、浅井先生はとんでもないことを言った。指導とは御本尊を指さし導くことだと言ったのだ。わたくしはずっと前から、これは表現としてどうかと思い、過去のブログにおいて取り上げたこともあった。御本尊を指さすのはよくないのだ。

本部首脳が拙ブログを参考にしたかどうか知らないが、それ以来、浅井先生はこの手の発言に気をつけるようになった。ところが最近になって復活してしまったのだ。

馬鹿な幹部たちはこれをすぐさま各種の登壇で引用した。本当に馬鹿だと思う。

そうした中で上掲の二氏は、不適切な部分をうまく切り取った上で引用しているのだ。さすが壮年部、伊達に歳を取っていない。彼らは現実社会の中で揉まれているので、常識が身に付いているのだろう。立派である。

では、馬鹿な幹部の代表例を示しておこう。次は総合女子部長の記事である。

 「指導とは、指さし導くということ。何を指さすのかといえば御本尊様である。『御本尊様の功徳は絶対』ということを指さし、導くのである」

本当に馬鹿である。しかし、彼女を責めてはいけない。なぜならば、先生の言ったことを忠実に再現しているからだ。つまり、本当に馬鹿なのは浅井先生である。馬鹿の大本は浅井先生なのだ。

第十六女子部長の記事を紹介しよう。

 結果、作年を上回わる機関紙推進が叶いました・・・

これは大馬鹿野郎だ。作年は昨年の誤植だろうけれども、いったいどうしてこのような間違いが生じるのか、それが理解できない。わたくしのパソコンではサクネンは昨年としか変換できない。彼女のパソコンは最新型なのか、それとも物凄く旧型で、トンチンカンな誤変換をするのだろうか、そこが気になるところである。

ちなみに、「上回わる」もわたくしのパソコンでは「上回る」と送るようになっている。

六ヶ所村再処理工場において年間「三三京ベクレル」の放射性物質の放出が認められている実態や、青森県の癌死亡率全国ワースト一位の事実を見るにつけ・・・

この部分はいちおう評価したいと思う。

以前、青森にガン死が多いのは原発のせいだ、という意味の登壇があったので、わたくしはそこに批判を加えた。放射能のデータを示さなければ何の証明にもならないだろうということだ。いわば上掲はわたくしの要望に応えたわけである。

しかしながら、三三京ベクレルがどの程度の放射能なのか、素人目には俄かに判断できないので、この問題は保留にさせていただきたい。

六ヶ所村再処理工場を研究する大学教授
 特集号は「正しい」と原発問題に熱弁


女子部第百二十六区総班長の登壇だ。

大学教授の名前が伏せられているので、やや説得力に欠ける記事だと思う。しかし、そんなことはどうでもいい。この記事には重大なウソが書かれている。おそらくは顕正新聞当該号における最大の問題点だろう。

 そして昨年、浅井先生が「浜岡原発停止」を叫ばれた直後に停止した事実・・・

これは事実ではなく、ウソである。たぶん彼女は気が付いていないのだろう。ウソだとわかって言っているのではなく、事実だと思い込んでいるのだ。ゆえに彼女に罪はない。罪は顕正新聞編集部にある。彼らはこの事実誤認を知っているにもかかわらず、訂正せずに掲載したのだ。

お忘れの人もいると思うので、整理しておこう。

浅井先生が反原発の立場を明確化したのは昨年五月末の総幹部会である。それ以前に、いちおうは浜岡原発の危険性に言及していた。しかし、明確に停止せよとは言っていない。ゆえにイジワルな見方をすれば、世間の反原発・脱原発の機運の盛り上がりを見て、それに乗じたとも言えるだろう。

生意気を言うようであるが、わたくしは三月末の時点ですでに原発事故の深刻さを書いている。この点では浅井先生よりも先んじているのだ。

それはともかく、一年経過した現時点における顕正会の姿勢は、それなりに評価できることだ。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1715.html

ただし、じゃっかんの訂正が必要のようだ。

わたくしは五月十八日の拙稿において、風化を云々した。つまり、事故から一年が経過して、反原発運動の勢いに陰りが見えてきた、まさしく風化そのものである、という意味を書いたのだ。

ところがである。

過日の大飯原発再稼働反対デモには十五万人が集まったとされている。これは大変な人数だ。

人数には諸説あって、わたくしには何とも言えないところだが、ともかく写真や動画などを見れば、その盛り上がりは否定できない。何も顕正会だけが頑張っているわけではないのだ。この点、世間一般の反原発運動が風化したかのように書いたことは間違いだった、と訂正したい。

公的機関に転職、「妙法の医療」実現を

気象庁のカフェ店長を任される!


前者は女子部の支区長補、後者は女子部総班長。詳しい内容については省略させていただくが、読んでいて、凄いなあ、と思った。就職難の中でも好条件の転職が可能なのは、彼女たちに言わせれば「不思議の御守護」に他ならないのだろう。しかし、わたくしは違う角度から考えた。

冒頭の壮年たちは社会の荒波に揉まれて人間が磨かれていった。

一方、上掲の女子部員たちは組織の中で切磋琢磨していくことが社会の中でも役立っている、ということではないかと思うのだ。

中途採用の条件はもちろん仕事の能力そのものであろう。では、同じくらいのスキルだった場合、面接官はどうやって取捨選択するのだろうか?

やはり最終的にはその人の持っている人間的な魅力が物を言うのではないかと思う。それは数値化できないものなのだろう。ゆえに、自分よりも優れた人がたくさんいて、順当に行けば不合格のはずが、なぜか自分が選ばれた、という奇跡が起こるのだ。

ただ以前にも書いたことだが、話は逆かもしれない。

顕正会で活躍している人はもともとデキる人であり、どこに行っても通用する人なのだ。つまり、顕正会で磨かれたのではなく、もともと活躍できる素質を持った人が顕正会の中で活躍しているだけの話かもしれないのだ。そうすると、ダメな人は顕正会で真面目に活動してもダメであり、どこに行ってもダメということになる。

ずいぶん悲観的なことを書くようだが、これが正直な感想である。落ちぶれ会員のわたくしが書くと、けっこう説得力があるのではないか?

切り干し大根から新鮮な香り

茶寮通信の見出しである。切り干し大根のイメージからすると、新鮮な香りというのは矛盾のようにも思えるが、それはわたくしの偏見だろうか?

2012/7/2

口舌ブログ  
大沢氏からのコメントは頭の痛い話である。

巌虎独白は、顕正会の実態を曝すのに大きな意義を持ちますが、同時に自慰的側面を持っているのではないかと思います。

氏の誠実なところはご自身を含めて論じていることだ。

私、巌虎様、沖浦さん、のび太さんの如きは老醜を晒している・・・

ここでズルイことを言うようであるが、上掲の四人は決して同じではない。

まず、のび太氏について言えば、氏の場合は投稿頻度が低い。印象的には週一くらいの投稿頻度だろう。これで自慰的と言われるのは、本人にしてみれば心外だろうと思う。

次に沖浦氏であるが、彼は年齢的に言えば隠居の立場である。ネットが趣味のご隠居さんだと考えれば、仮に四六時中ネットをやっていたとしても文句はないのだ。

わたくしに関して言えば、のび太氏ほどではないにしても、やはり投稿頻度が低い。週当たり、数回である。大沢氏や沖浦氏などはエキサイトしてくると、それこそ何十本も投稿するが、わたくしはそれをしない。最大でも七本がいいところだ。つまり、一日に一回の投稿が最大限度なのだ。

大沢氏ほどの人物がこうした客観的な事実に気がつかないはずはない。

つまり、前回分のコメント欄に書かれた氏の思いは、最終的にはすべてご自分への叱咤の意味なのだ。

結論として、しばらくコメントを差し控える、とのことだ。

さて、わたくしは最初に、頭の痛い話と書いた。なぜならば解決方法がないからだ。解決する方法がないのだから、どうにもならない。しかし、拙ブログはこれまで何をやってきたかと言うと、顕正会の問題を抽出して、どうあるべきか、あるいは、どのように改善すべきか、というようなことを偉そうに書いてきたのだ。

ここでいちばんコッケイなのは、偉そうに言っている本人がぜんぜんなっていないという現実なのだ。

以前の大沢氏のコメントで、巌虎はなぜ折伏しないのか、という鋭い追及があった。まさに頭の痛い話である。わたくしはこれについて、まるで糊塗するつもりはなく、ほぼ肯定というか、その不甲斐なさをそのまま認めてしまっている。言うだけなら、書くだけなら、どうにでも書ける。実は折伏バンバンやっているんだ。拙ブログの投稿頻度を見ればわかるだろう。四六時中ネットにしがみ付いているわけじゃないんだと。しかし、ウソは書けないのだ。ウソを書いた瞬間に拙ブログは終わるのだ。

つまり、ダメさ加減を覆い隠して、キレイ事ばかりを書いていても、説得力はない。不甲斐なさをさらけ出した上で書いていく。これが拙ブログの当初からの方針なのだ。

いわゆる口舌の徒である。

これじゃお話にならない。こんなアホは相手にするだけムダだ。そういう読者もいることだろう。これは致し方がないことなのだ。

わたくしは口舌の徒と言われてもそれほど痛痒を感じない。言論の自由がある。それを行使するにおいて、口舌の徒云々は関係のないことなのだ。問題は言っていることが正しいか間違っているか、それだけなのだ。

解決方法がない、と書いた。

つまり、オマエみたいなヤツには発言する資格はないと言われれば、もうどうしようもないのだ。ああ、そうですか、では、ブログをやめます。これも一つの方法ではある。しかし、ブログをやめてしまったら発言の舞台がなくなる。これが答えなのだ。

わたくしはそれほど執着があるわけではないが、せっかくなのでブログは続けたいと思っている。ところが人によっては、口舌の徒に発言権なし、という考え方もある。もしその意見に従うのであれば、ブログをやめるしかない。しかし、わたくしにそのつもりはない。

さて、ここで大沢氏に話を戻そう。

氏はコメントを控えると書いた。当然、これは本人の決断であり、ひじょうに立派なことだとは思う。だが、しかし、ここには図らずも顕正会と同様の問題が見え隠れしているように思えるのだ。

法華講のことは詳しく知らないので、顕正会の問題として書いておこう。顕正会員は無趣味である。熱心な活動会員ほど無趣味である。なぜならば一日のほぼすべてが活動のために費やされて、趣味を楽しむ余裕がないからだ。折伏誓願がある。早い話が成果だ。活動会員の心理は、成果が出るまで趣味はオアズケ、なのである。先輩幹部に叱られるからという人もいるだろうし、自ら禁欲的になる人もいるだろう。いずれにしてもこれが顕正会の姿である。

大沢氏の場合は後者、すなわち禁欲的なのだろう。それは前回分の一連のコメントに明瞭だと思う。

そろそろ終わりにするが、わたくしは解決方法がないと書いた。結局のところ、大沢氏の問題は解決しないのだ。もちろん、頭ごなしに解決しないなどと書くことは失礼千万のことであるが、もし上述のごとく顕正会と同様の問題なのであれば、解決は困難を極めるであろう。早い話が、拙ブログがあろうがなかろうが、いずれは同じ問題に突き当たる。だとすれば、拙ブログへのコメントを控えることが直ちに問題解決につながるものではないことは誰もが想像できることだろう。

さて、これがまた、ひじょうに悩ましい。

http://blog.goo.ne.jp/porigin

ハッキリ書こう。ポリ銀氏は異端である。落ちぶれ顕正会員のわたくしが言うのもヘンであるが、氏は日蓮正宗法華講の異端児である。

事情を知らないが、氏はこれまでに何度かブログを閉鎖している。わたくしの記憶では、けっこう過激なことを書いている。わたくしの目から見ても、これは明らかな宗門批判ではないかと思うような記述があった。たいていがその直後に閉鎖になっていたように思う。

すると、何らかの圧力があったのだろうか?

それはともかく、今回のブログはいきなり過激である。宗門批判だけでなく、創価学会や顕正会に対してもけっこう厳しいことを書いている。つまりは公平な視野に立って書いているのだろう。これはわたくし的にはひじょうに好感が持てるのだが、しかし、いずれにしても宗門的には看過できないような記述が少なくないと思う。だとすると、やはり閉鎖を余儀なくされるのではないかと心配になってくる。

大沢氏と言い、ポリ銀氏と言い、何だか知らないが、今回は図らずも宗門が抱えている問題が少し浮き彫りになったような気がする。


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