2012/7/9

暴論はどっちだ?  
コメント欄はわけのわからぬ展開になっているが、わたくしなりに整理してみようと思う。

暴言・暴論を恣にすることを権利だと履き違えるのはまことに残念・・・

問題は何が暴言・暴論に相当するかである。具体的な文言を挙げた上で、それは暴言である、もしくは暴論である、と指摘する必要がある。そうでなければ言論の封殺であることは免れない。余計なことは言うな、黙っておれ、と信者に強要していることになるからだ。

日有上人には誤りが多い

これはかなり昔の話であるが、顕正会の男子部長が発した言葉である。たぶん浅井先生の影響だろう。つまり、浅井先生も上掲のように思っているのだ。

一、当宗には談義あるべからず、其の故は談義とはその文段を横に沙汰する故に智者の所行なり、当宗は信の宗旨なる故に爾るべからず。

わたくしごときが歴代上人の御指南を云々するのは恐れ多いことだが、ここで私見を申し上げようと思う。

たぶん日有上人に誤りがあるのではなく、上人の御指南を受け取る側に誤解があるに違いない。上人の言葉を理解し切れていない、咀嚼し切れていない、ということだ。

談義あるべからず

ここに誤読というか、誤解があるのだと思われる。

結論を言えば、談義を面としてはいけない、という意味に解するべきなのだ。これを字面そのままに、何が何でも談義はいけないことだとすると、大変なことになる。

まず、世間普通の義から考えてみよう。

今の時代にそんな教えを徹底したら、それこそ言論封殺そのものであり、おそらくは誰も納得しないだろう。納得する人は馬鹿である。

【もうひとつのガラパゴス】

のび太氏はうまいことを言うものだ。

拙ブログが繰り返し指摘してきたのは、一念信解という名の愚民化政策、ということだ。これが顕正会のここ十数年のあり方だった。早い話、日蓮正宗も似たり寄ったりであると、のび太氏は言っているのだ。

信行氏とポリ銀氏のやりとりのなかで、日蓮正宗の歪んだ信仰観を信行氏が述べている。「僧侶が上で在家は下」をすり込まれてきた姿である。

ただし、じゃっかん問題がある。おそらくは次の御文がすべての答えを導くカギとなるだろう。

 鎌倉に筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨と申す小僧等之有り。之を召して御尊び有るべし、御談義有るべし、

おわかりだろう、日有上人の御談義あるべからずをそのまま解してしまうと、この大聖人の御指南とは食い違ってしまうのだ。これは南部六郎三郎殿御返事であるから、相手はすなわち在家である。在家に対して御談義を勧めているわけであるから、ひじょうに悩ましい。よって日有上人の御指南は、談義を面とすべからず、と読まなければ整合性が取れなくなってしまうのだ。

つまり、世間普通の義というか現代感覚からして談義を禁止することの無理無体がまずあって、さらに大聖人の御指南からしても談義を禁ずることは出来ない、という二重の意味があるのだ。

なお、のび太氏のコメントにじゃっかんの問題があることは、賢明な読者であればすでにご承知のことだろう。

之を召して御尊び有るべし

鎌倉には日朗・日昭などがいるので尊びなさい、という意味だ。これをもって短絡的に、出家が上で在家が下、と言うつもりはないけれども、「御尊び」にはそれ相応の意味があるわけで、まさかこれを無視する人はいないだろう。

ちなみに、「之を召して」がさらに議論を呼ぶところではあるけれども、煩瑣になるのでやめておく。

一切衆生皆成仏道の教なれば、上根上機は観念観法も然るべし。下根下機は唯信心肝要なり。

心に存ずべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。

さらに四信五品抄を拝すれば明瞭であるが、御書の羅列は煩瑣に感ずる人もいるだろうから、省略したい。

鎌倉時代は念仏宗と禅宗が勃興した。これに比例して天台宗がやや力を弱めていた。というよりは、民衆にとって天台宗は敷居が高かった。そこに念仏宗など敷居の低い宗派が出てきて、民衆のニーズに応えた。

難行

易行


念仏宗のウリは易行である。そして巧みにも旧来の天台宗を難行の内にはめ込んでしまって、ますます民衆から遠ざけてしまった。まさに大聖人はこうした時代背景を背負って御出現あそばしたのだ。

これで結論が出たものと思う。

もしイトマあらば台家を聞くべきこと。

日興上人の御遺誡もまったく同じ方向性だ。

つまり、談義がいけないのではなく、談義を修行の中心に据えてはいけないという意味なのだ。もし談義がメインの修行であったならば、それこそまさしく難行であって皆成仏道は不可能となる。一部の上根上機の人だけしか成仏できないことになってしまう。これではまったくお話にならない。だったら念仏のほうがマシだという話になってしまうのだ。

教学軽視の愚民化政策、これが目的で日有上人の御指南を持ち出すのであれば、上人に対するこれほどの冒涜もあるまい。

大聖人の仏法は皆成仏道である。全員が成仏できる。その上で大事なのが信心である。信心肝要ということだ。

この意味において教学は二の次三の次となるわけだが、決して教学不要というわけではない。

今もって舌足らずであるが、おおむね以上である。

ともかく言論封殺はいけない。暴言・暴論を云々するのであれば、具体的にどこが暴言なのか、あるいは暴論なのか、そこを指摘するべきだ。それをせずして頭ごなしに、談義あるべからずと言ってしまうのは、いかがなものかと思う。これではどちらが暴論なのか、わからない。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ