2012/7/10

虚しさと戦いながら  
信行氏より長文のコメントを頂戴した。そして今朝は沖浦氏からコメントが寄せられた。

信行氏のコメントは後述するとして、まずは沖浦氏から入ろう。はっきり言えば、氏のコメントは暴言である。たぶん自らお手本を示してくれたのだろう。

 信行さんが愚かな事をお書きですね〜。

>厳戒すべきことを記しおく。
 僧籍にある方ですら、重要な法門を説くには寛尊をはじめ歴代上人のご指南をあらためて学ぶという。

 習い損ないが習い損ないを学んで、習い損ないを作っている。
 これが宗門教学。

>如何にいわんや在俗にしてその姿勢なきものが徒に法を語り、われ正しきと主張することが如何に横暴であるか。

 大聖人仏法が、在家仏法であることすら理解出来ない人の集団です。

 出家など不要ですよ、今は。


何ら論理的説明をせず、相手を腐すだけの文章だ。

一方、信行氏のコメントは懇切丁寧であり、好感が持てる。もっともポリ銀氏ならば、上から目線の文体に憤るかもしれないが、わたくしはぜんぜん平気だ。何しろ自分自身がこうしてブッキラボウな文章を書いている以上、他人に対して文句は言えないのだ。

暴言というのはハナッから非論理的であり、ただひたすら相手を罵倒することを意味するのだろう。

暴論はいちおう論理的なのだと思う。しかし、よく見ればデタラメな論理で、結局は相手を罵倒することが目的なのだ。

信行氏のそれは懇切丁寧で好感が持てる。わたくしの見るところ、昨夜のコメントは暴言・暴論には当たらないだろう。こういう場合は真摯に受け止めるべきなのだ。

 「車」と言ったときに何を想像するか。
 スポーツカーか、軽自動車か、2tトラックか、大型トレーラーか。
 実態が分からぬ癖に勝手に決めつけて評価し、勝手に問答をして自論を誇張する。


長文なので一例だけ紹介しよう。たぶん上掲だけでは何を言いたいのかわからない人もいると思うが、わたくしは次のごとく理解した。

談義あるべし

談義あるべからず


大聖人と日有上人の御指南を並べて表記したわけだが、まさに言っていることが正反対である。これについては前回、わたくしなりの解釈を書いた。たぶん他には解釈の余地がないと思ったのだ。ところが信行氏のコメントを拝見して、なるほど、己の思考の偏狭を思い知った。

談義という単語は同じだけれども、上掲の二つの談義は意味が異なるのだ。

厳密には本当に意味が異なるのかどうか、わたくし自身はわかっていない。ただ、ここで言えることは、わたくしの思考からは完全に抜け落ちていた、意味が異なる可能性をまったく考慮しなかった、ということである。いずれにしても、それぞれの意味が異なるのであれば、「あるべし」「あるべからず」は矛盾でも何でもないことになる。実に簡単な道理だ。

佐藤さんは馬鹿だ。

佐藤さんは利口だ。

同じ人物ならば評価が正反対ということになる。しかし、佐藤さんはたくさんいるわけで、別々の佐藤さんだとすれば何の問題もない。

 有師仰せの談義とはすなわち法門に対して師伝なく勝手に解釈を広げることに他ならぬ。

この部分に関して言えば、大聖人の御指南とも整合性が高い。

 鎌倉に筑後房・弁阿闍梨・大進阿闍梨と申す小僧等之有り。之を召して御尊び有るべし、御談義有るべし、

ようするに僧侶を招いて談義せよと言っているわけで、在家だけで勝手に談義せよとは言っていないのだ。この点、沖浦氏の在家仏法云々がいかにデタラメであるか、明々白々であろう。

さて、本件に関しては、あと二つ引用して終わりたい。

 巌虎殿よ、貴殿は我が宗門の教学をただ聞きかじるだけで批判するその虚しさにいつ気づくのだ。
 蓮祖は観念で成仏できるとは一言も仰せいだされておらぬ。
 一生虚しく過ごして万歳悔いることになるのだと書いておこう。


相変わらず厳しい人だ。

 我が宗門に席がないからと徒に法を弄び批判する失は必ず身に現れることであろう。

顕正会員顔負け(?)の罰論である。そもそも罰論は顕正会の専売特許ではなく、大聖人の仏法の特質なのだ。ゆえに正統門流たる大石寺がこれを言うのは当然のことであり、何らおかしいことではない。

しかしながら、わたくし自身は今後も変わることなくブログを綴っていく。宗門批判も辞さない。法門談義も折に触れ、書くことだろう。

正直に思っていることを書くと、わたくしのような人間が罰を受けるとすれば、世の中の全員が大罰を食らってもおかしくないのではないか?

さすがに言い過ぎかもしれないとは思うが、しかし、半分くらいは本気である。

十年早い

ダラダラと余談を続けよう。

俗語というのだろうか、上掲のようなセリフがいろいろな場面で使われていると思う。たとえば職場で右も左もわからないような新人が生意気な口を利くと、先輩から言われるのだ。オマエ、十年早ええんだ、と。わたくし自身もずいぶん言われたような気がする。そして今度は自分が長じてきて若い人と相対するようになると、確かに同じことを思ったりする。けれども、わたくしは言わないように心掛けている。

百年早い

さて、これは世間でどれくらい使われているのだろうか?

わたくしの思うに、これこそはまさに感情の発露なのだろう。普通の人は百年も生きない。つまり、百年早いの意味は、オマエはずっと黙ってろ、ということだ。

インターネットの革新的なところは万民に発言権を与えたことだろう。拙ブログにしても、おそらくはよほどのトラブルに巻き込まれない限り、永遠に続くことになる。わたくしの発言を遮ることは出来ないのだ。わたくしは同時にコメント投稿者にも同様の権利を与えたいと思っている。与えるは不遜かもしれないが、ともかく拙ブログの編集権はわたくしのみが握っているので、都合の悪いコメントを削除したり、あるいは投稿を拒否することも可能ではあるのだ。生意気を言うようであるが、わたくしはそれを一度も行使したことがない。パソコンを使える人であれば、幼稚園児であろうが百歳の老翁であろうが投稿できる。もし幼稚園児が上から目線で発言したとしても、拙ブログにおいては許容される。十年早いだの百年早いだの言うつもりはない。いつも言っているごとく、ようは書いている中身が問題なのだ。


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