2012/7/17

夏本番  
各方面から貴重なコメントを頂戴しているが、いつものことながら一々のお返事は省略させていただくことにする。

そして、これが信徒として最もタブーなのですが、公場対決を観たいと心から願っているのは、本当は私なのです。

ハッキリ言おう。わたくしも見てみたい。ヤジウマ根性丸出しであるが、これが正直な気持ちだ。ぜひとも見てみたい。

ポリ銀氏は、天皇陛下こそが謗法退治の実行者であるとして、開目抄を引用している。

陳隋二代の聖主

桓武乃至嵯峨等の賢主


わたくしは直ちに種々御振舞御書を思い浮かべた。

賢王聖主の御世ならば、日本第一の権状にもをこなわれ、現身に大師号もあるべし。

しかし、現実を見据えた時、どうか、というのがわたくしの偽らざる感想だ。これが現代社会にそっくりそのまま適用できるのかどうか、である。

二つの側面がある。天皇の権威、法主の権威、この二つだ。

すでに大聖人の時代、承久の乱によって天皇の権威が相当に失墜していた。ゆえに、賢王聖主の御世ならば・・・と仰せられるのだ。そして現代社会における天皇の地位もまた然りである。

次に法主の権威を考えないといけない。これは沖浦氏ではないが、現状では内部規定に過ぎない。この法主にどれほどの権威があると言うのか、そこが疑問である。

現身に大師号・・・

ようするに大聖人がいらっしゃれば何の心配もない。大聖人が法論すればいい。そして勝てば現身に大師号が事相となる。

ご存知のごとく、大聖人にはずっと後になって大師号が下りた。けれども、どうだろう。今、それを誇りに思っている人がいったいどれだけいるだろうか?

つまり、「現身に大師号」が尊いのであって、滅後に大師号を貰ってもあまり意味はないのだ。

さて、ここで法主に話を戻そう。

ここでの法主はもちろん大石寺の御法主上人猊下のことだが、もし諸宗と法論をするとなれば猊下が先頭に立つべきが筋である。なぜならば「現身に大師号」との関連である。

小僧・・・

御書に出てくる言葉だ。これは大聖人を指す場合もあるが、多くは天台・伝教を意味する。

天台・伝教は最初から偉かったわけではない。いわば当時の既成仏教をことごとく論破して、一躍脚光を浴びることになったのだ。何も最初からスーパーヒーローだったわけではないのだ。

法主は内部規定だと書いた。

つまり、現時点では大石寺の法主上人の権威など、世間の人は誰も認識していない。諸宗と法論して圧倒的な強さを見せ付けない限り、これはどうにもならないのだ。

代理は不可である。

考えてみるがいい。スポーツの世界であれば、記録はその人固有のものである。代理で出た人が世界記録を樹立したとしよう。当然、その人が記録保持者なのだ。

もし仮に今、天皇陛下の前で法論が行なわれたとしよう。日蓮正宗では猊下が出ずに代理が出たとする。この人が勝てばこの人こそが大師号を受けるのだ。現身に大師号とはこのことである。

ここでまとめよう。

はたして天皇陛下に法論の判定を下す資格があるのか、である。現憲法においては信教の自由が認められている。それに抵触しないのかというのがまず第一にある。さらに現実を踏まえるならば、国民的なコンセンサスが取れているのかどうかが問題だ。ようするに、もし正邪を決めるのであれば、天皇一人が決めるのではなく、国民投票で決めるべきだ、それが現代社会の常識というものだ、という考え方が一般のはずなのだ。

そしてもう一つの懸案は、ズバリ御法主上人猊下の実力やいかに、ということだ。

ヤジウマ根性丸出しは承知の上であるが、まさにここがポイントだろう。わたくしは何も現猊下を悪く言っているのではない。御隠尊猊下がお出ましになってもいい。あるいは今の時代に日寛上人がましませば、出ていただいてもいいだろう。前述のごとく、天皇陛下の御前で法論するにしても、現代においてはいわゆる可視化が絶対条件のはずなのだ。つまりは全国民の注視の下で行なわれるべきものなのだ。

ここでわたくしの予想を言えば、もちろん漠然としたものに過ぎないが、まったく予想もしなかったところから新たなスーパーヒーローが登場するのではないかと思う。

以上、別してポリ銀氏に申し上げるならば、現時点における天皇の地位がどのように影響するか、そこがひじょうに心許ないところである。また、日蓮正宗僧俗全般に申し上げるならば、猊下こそが現身に大師号を体現すべき存在であるけれども、現実問題としては相当の隔たりがある、ということだ。

せっかくだから、顕正会員にも言っておこう。

浅井先生はスーパーヒーローたり得るか?

わたくしの思うに、たり得ない。なぜならば先生は日目上人の再誕ではないからだ。繰り返しになるが、広宣流布の時の御法主こそが現身に大師号の人である。すると在家の浅井先生が日目上人の再誕であるわけがないし、今から大石寺の御法主になることも考えられないので、大師号の人にはなり得ない。であれば、スーパーヒーローは無理なのだ。

不思議なことだ。原理的に不可能であるにもかかわらず、彼らはその幻想に向かって突き進んでいるごとくである。


七月二十日追記:一部加筆した。


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