2012/7/29

敬遠される理由  
沖浦氏との議論は面倒臭い。どうやらそれが結論らしい。だから氏はどこへ行っても敬遠されるのだ。

 本門の本尊ですが、仏のことですね。
 仏に色々ありません。
 それは釈迦仏法まで。
 大聖人仏法では、仏は一種類だけです。

 久遠元初の南無妙法蓮華経如来。

 これが本仏。

 御書には以下のように書かれています。

 『第四 如来如実知見三界之相無有生死の事
 御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、三界之相とは生老病死なり本有の生死とみれば無有生死なり生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり、』
 (御義口伝巻下)

 『所詮此の如来とは一切衆生の事なり既に諸法実相の仏なるが故なり、』
 (御講聞書)

 『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、』
 (諸法実相抄)

 仏は一切衆生なんです。
 そして、

 『此の十如是は十法界なり、此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、』
 (三世諸仏総勘文教相廃立)

 この通りですから、一切衆生が本門の本尊そのものです。

 漫荼羅はそれを形とったもの。

 『是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
 (日女御前御返事)


これが今朝のコメントだ。

なるほど、これは面倒臭い。早朝から、難しい御書をたくさん並べられても、普通の勤め人には対応し切れない。真面目に返信しようと思ったら、それこそ仕事が手につかなくなるだろう。

まず、御義口伝であるが、この引用は解せない。最初に難しい御書を引いて相手を煙に巻こうとしているのかもしれない。

次は御講聞書だ。これは再掲しよう。

 『所詮此の如来とは一切衆生の事なり既に諸法実相の仏なるが故なり、』
 (御講聞書)


これはすでに破折したつもりであるが、沖浦氏には理解できなかったようである。当該御指南はご覧のごとく、一切衆生を諸法実相の仏だと仰せられる。まさに三大秘法抄における一念三千の証文を問う段の答えと同じである。

底下の凡夫理性所具の一念三千

ちなみに十章抄には次のごとくある。

一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る。

たまたまユタ氏が十如是のことを書いておられるが、これに関してはわたくし自身もよくわかっていない。ただ言えることは、理論と実際というか、それよりも理と事と書いたほうがいいだろうか、それが迹門と本門の違いなのだと思う。そこで三大秘法抄に戻れば、自ずと答えが見えてくるはずである。

大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千

ここで問題になるのが諸法実相抄である。

 『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、』
 (諸法実相抄)


確かにこれは難しい。そこで今回は、同じく諸法実相抄の中から二つの御文を提示して、沖浦氏に再考を促がしたいと思う。

地涌の菩薩の中の上首唱導上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始めの五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給ふのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕はすべき人なし。

一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。

この二文はいずれも大曼荼羅御本尊を指している。しかし、沖浦氏にはそれがわからないらしい。

氏の主張を善意に解釈すれば、次のごとくなるだろうか?

曼荼羅は本門の本尊そのものではない。

曼荼羅は本門の本尊を図したものである。


これで合っているかどうか、まずは確認しないといけないが、それでは話が進まないので、勝手に進めてしまおう。

わたくしの思うに、上掲はかなり合理的な思考だ。しかし、上行菩薩様に対し、ずいぶんと失礼にも思えるのだ。大雑把に言えば、上行・無辺行等以外には御本尊を書く資格がない、というのが諸法実相抄の前掲の意味である。そうして末文において、一閻浮提第一の御本尊を信じなさい、と仰せられるのだ。途中に、体の三身・用の三身という難しい概念が出てくるとは言え、それで大聖人のあらわされた大曼荼羅御本尊の価値が落ちることはあり得ないはずなのだ。

 『此の十如是は十法界なり、此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、』
 (三世諸仏総勘文教相廃立)


当該御文は難解だ。前後を併せて拝読したが、よくわからない。わたくしの直感では、切り文というか、どうも沖浦氏は前後の御文を無視して、この部分だけを抽出して自己の主張に役立てようとしているごとく思えるのだ。

一人を手本として・・・

であれば、わたくしも同様の手法で申し上げよう。まさに「一人を手本」とするのだ。これこそが本門の本尊なのであって、一切衆生が本門の本尊なのではない。ようするに順番の問題だ。まず、お手本がある。そのお手本によって、われわれは成仏することができるのだ。最初から成仏していたら、お手本はいらないだろう。

 『是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
 (日女御前御返事)


曼荼羅は本尊そのものではなく本尊を図したもの・・・という意味を上のほうに書いたが、沖浦氏はこれがその文証だと言いたいらしい。

摺り形木・・・

以前、法華講のどなたかが書いていらしたと記憶するが、沖浦氏の解釈はとんだ勘違いである。

三大秘法抄から少しヒントを拾いたい。

今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり。

日女御前御返事では、多宝・釈迦・十方の順番になっている。通常、釈迦・多宝・十方の諸仏とするべきところを、なぜに順番が違うのか、わたくしの思うにこれは証明を強調するためなのだろう。多宝の仕事は証明である。

三大秘法抄では、介爾計りの相違がないこと、色も替わらないこと、この二つが強調されている。

摺り形木とは、まさにこの意味に他ならないのだ。

日蓮が自作にあらず・・・

もし自作であれば、どこかに相違があるかもしれない、色も違っているかもしれない。

摺り形木たる本尊なり。

まさに精密なコピー機のごとく、少しの相違もない、色もまったく同じ、という本尊なのだ。

ここでわたくしはあえてコピー機という表現を使ったが、大聖人のおっしゃる意味も同様である。そうして、この意味するところは「本物」である。しかるに沖浦氏は、曼荼羅は本尊を模ったものであって本尊そのものではない、と言う。もはや大聖人の意図から完全に外れてしまっている。御文を理解できずにいるのならば仕方がないが、もし、わざと曲解しているのであれば、これはとんでもないことだ。

繰り返し書いておこう。ここでの摺り形木は本物の意味なのだ。それを字面だけ受け取って別の意味に摩り替えてはいけない。


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