2012/8/26

泣き言は嫌いだ  
何やら過日の総幹部会において、サプライズがあったらしい。これはいつものごとく、新聞掲載を待ってから取り上げたい。

化義は時代とともに変わる必要があると考えます。

高速太郎氏のコメントである。たぶん化義は化儀の間違いだろう。化儀は時代と共に変わる必要があるとのことだ。

まず、化儀とは何か、それが難しい。化儀・化法という言葉があって、御書にも出てくることは出てくるのだが、どうも今は別の意味で使われているような印象が拭えない。ようするに化儀は儀式的な意味であり、化法は仏法の本質的部分を意味する、というのが現代的な解釈だ。なるほど、これならば化法は不変であるべきだが、一方の化儀は時代によって変遷があっても構わないという考え方もあり得るだろう。しかし、大聖人の御使用例がそっくりそのままであるとは思えない。ゆえにわたくしは化儀・化法について、巷間言われているような使い方をしない。

いずれにしても具体例が必要な話である。

大師講ををこなうべし。

顕正会では「御在世の信心」という言葉がよく使われる。おそらくは宗門で使っている「祖道の恢復」と同義なのだろう。浅井先生は平易な表現を好む。一方の宗門は難解な表現が好きのようだ。

それはともかく、上掲の御指南をどのように拝するかが問題だ。ようするに御在世の信心ないし祖道の恢復を言うのであれば、大師講を復活させなければいけない。

これがいわゆる化儀の問題なのだろう。

つまりはこういうことだ。用語としての化儀の適否はともかくとして、問題となるのは具体例である。おそらく創価学会は大師講をやらないだろうし、顕正会もやっていない。宗門も然りだ。これはあくまで一例であって、そこにはありとあらゆる問題が横たわっている。ゆえに高速太郎氏の結論はとりあえず前掲のごとくで結構だが、あとは具体的事案として何を挙げるかである。

信じると云うことは、その対象に常に不信を持つこと

抽象的な文章だ。含蓄のある文章と言い換えてもいいかもしれない。

そもそも御書の構成そのものが上掲のごとくなっている。つまりは問答形式ということだ。疑いを設けて、それを一つひとつクリアしていく。これによって信を強くするのだ。生意気を言うようだが、拙ブログがやっていることも同じである。

さて、話を変えよう。

最近は戒壇について考えるのに少々飽きてしまって…。

ポリ銀氏から厄介なコメントを頂戴した。

別に戒壇について考える必要はないというか、いわゆる信行学の範疇で言えば、まずは三大秘法の名目を知ることであり、その上で戒壇建立の御遺命がわかっていれば、合格なのだと思う。ポリ銀氏は教養人だから、さらに深いところまで考えてしまうのだろう。

末寺にあてがわれた御命題のことばかり

何となく顕正会における成果主義の雰囲気が感じられなくもないところだ。

ポリ銀氏の気持ちはわからなくもない。

たぶん今の中堅以上の僧侶は宗門と創価学会の蜜月時代をよく憶えていて、その頃のバラ色の生活(?)を回復したいという願望みたいなものがあるのだろう。祖道の恢復ではなく、欲望の恢復だ。しかし、なぜに宗門が隆盛をきわめたか、彼らにはその原動力がわかっていない。すなわち国立戒壇の大目標である。これが戦後の創価学会の大躍進につながり、結果として宗門の隆盛へとつながるわけである。ところが今の僧侶たちは二十数年前の記憶はあっても、それ以前の記憶はない。まったくないわけではないだろうが、きわめて記憶が薄くなっているのだ。

幸か不幸か、ポリ銀氏は教養人である。これがために普通の人ならば気がつかないようなところまで見えてしまっている。そこらの並みの僧侶よりもよく見えているのだ。

しかし、ここでポリ銀氏に苦言を呈しておこう。

泣きそうになります。

そのピュアな気持ちはわかる。

だが、しかし、ナイモノネダリをしても仕方がないのだ。

たとえば顕正会が絶好の例である。ポリ銀氏もよくご存知のごとく、戒壇論においては顕正会の主張にかなりの信憑性がある。顕正会が全面的に正しいと書けば、さすがに反論があるかもしれないが、ここでは仮にそうだとしておこう。

ところがである。その顕正会が今ではガタガタなのだ。国立戒壇だとか六千万だとかデカイことを言ってはいるものの、現実が伴なわない。外部からは窺い知れない部分が少なくないけれども、おそらくは見た目以上に深刻な状況だろう。

であれば、理想の組織はどこにもないことになる。つまり、ポリ銀氏はナイモノネダリをしているだけなのだ。

わたくしの思うに、自分の置かれた状況の中でベストを尽くす、それしかないのだ。先日の増税の話を思い出してほしい。政府はズルイ。財政が苦しいから増税やむなしと言う。ところがわれわれ一般人は家計が苦しくても収入を増やす術がない。ようは今あるお金で何とかヤリクリしなけければいけないのだ。

まったく同じ話だと思う。ナイモノネダリをしても仕方がない。自分の置かれた状況の中でやれることをやる、また逆に、やりたくないならやらなきゃいい、それだけの話なのだ。

2012/8/24

迂遠な議論は嫌だ  
高速太郎氏より引き続き質問を頂戴した。

 申し遅れましたが、わたしは、創価学会員です。正本堂問題は実体験しています。
 そこで、重ねてお聞きしたいのですが、顕正会に諸外国の会員がいらっしゃると思うのですが、
厳虎さん自身は、この方達にとっての国法及び国立とは、どのようにとらえているのでしょうか。
 また、一閻浮提は、全世界もしくは宇宙全体ととらえているのですか。


しかし、またしても漠然とした問いである。

お手本となるかどうかわからないが、先日の拙稿を思い返してほしいものである。駄文探訪の中の一節だ。

創価学会員は今般の消費増税をどのように考えているのだろうか?

これだけでも質問としては充分に成立している。なぜならば、この事案は賛成か反対かのいわば二者択一の問いだから、紛らわしさがまったくないのだ。ゆえに上掲だけでも充分なのだが、さらにわたくしは文章を続けた。創価学会員は消費増税に反対するべきではないのか、という意味のことを噛み砕いて書いたつもりである。

つまり、ここまで書いておけば、質問の意味がわからない、ということはまずあり得ない。ようは話がスムーズなのだ。

ところが前掲の高速太郎氏の質問は何を聞きたいのかよくわからない。ひじょうに困ったものである。

国法及び国立

何だろう、これは?

王法及び国立

後から訂正のコメントが入った。なるほど、何となく見えてきたような気がする。

ただし、あえてイチャモンをつけるならば、王法と国立は単語として不整合である。御書に国立という言葉は出てこない。一方の王法はたくさん出てくる。この意味では訂正前の国法及び国立のほうが体裁はいいかもしれない。

それはともかく話を進めよう。高速太郎氏の質問は次の意味なのだろうか?

「世界宗教だから国立戒壇はない」

浅井昭衛の著述の中に上掲のような項目がある。もし高速太郎氏の質問の意味がこれであるならば、さしあたっては顕正会の公式ホームページで当該資料を確認されるとよいだろう。顕正会の資料室は貧弱なので、すぐに見つかるはずだ。

その上で必要ならば再質問されるとよい。

なお、蛇足ながら申し上げておくと、質問の方法は人それぞれであり、それこそ千差万別であるが、少なくともクイズだとかナゾナゾをやっているわけではないということを心得ておきたいものだ。わたくしの場合は、先に結論を書いてしまう。もちろん、結論を伏せておく場合もあるが、そういう場合においても自分の考えを大筋で書いてしまうのだ。そのほうが話が早い。圧倒的に早い。前向きに議論をしたいのであれば、このほうが断然いいと思う。

一閻浮提は、全世界もしくは宇宙全体ととらえているのですか。

この部分は(単独では)意味の通じる質問である。

わたくしのイメージでは地球がそれに相当すると思う。ゆえに宇宙全体は違うのではないか、全世界のほうが近いのではないか、という気がする。

より厳密に言えば、現代国語における世界の意味だ。

なぜならば御書には世界という言葉がたくさん出てくる。多くは○○世界という表記になっていて、三千大千世界などはまさに宇宙的スケールを思わせる。娑婆世界は地球に相当するだろうか? 翻って現代国語における世界は宇宙を意味せず、地球の意味に近い。全世界も同様だ。

一閻浮提は地球に相当すると書いた。

これをどのように論証すればよいのか、ひじょうに悩むところだ。わたくしは御書における使用例から雰囲気として、たぶん地球で間違いないだろう、と考えている。創価学会の公式サイトに組み込まれている御書検索を用いると、一閻浮提は八十六件もヒットするのだ。これらを検討して行けば、自ずと正解が出るはずである。

身毒・尸那・扶桑乃至一閻浮提

撰時抄からの引用である。何となく雰囲気が伝わってくるはずだ。

三国並びに一閻浮提

三大秘法抄だ。これも同様の雰囲気がある。まさか三国からいきなり宇宙全体に飛躍するとは考え難い。よって一閻浮提は地球規模に相当すると考えておけば間違いないだろう。

論証と言えるレベルには程遠いが、一閻浮提についてはおおむねこんなところである。

2012/8/21

暑いのは嫌だ  
高速太郎氏は拙ブログを最近になって知ったという。これは驚きだ。

自惚れを承知で言えば、拙ブログは日蓮正宗系統の人たちには周知の存在であろう。もちろん、インターネットを活用している人たちに限っての話であるが、少なくとも足掛け十年近くもブログを続けているので、必ずどこかで閲覧する機会が訪れるはずなのだ。何しろ日蓮宗の人が来訪したこともあるし、今年になってからはキリスト教の人がお出ましになったほどである。

それはともかく話を進めよう。

 最近、厳虎さんの、このブログを知り遡って少しだけ読ませて頂きました。
 但し、充分には、理解していません。
 時間を見つけて、読み込んで理解したいと考えています。


ぜんぶ読もうと思ったら大変なことになるので、やめたほうがよろしいだろう。

わたくしが他人のブログを拝見する時、そのブログがすでに大量のバックナンバーを保有している場合、過去の投稿は読まないことにしている。面倒臭いからだ。その代わり、新規の投稿は必ずチェックする。その人が執筆意欲を失っていないのであれば、これからも有意義な文章を書くだろうから、とりあえずはそれでよしとしている。欲張っても疲れるだけだからだ。その上で、どうしても必要な場合に限って、過去の投稿も読む。

拙ブログの読者もそのようにしたほうが賢明だろう。

パソコンでご覧になっている人は左側にある検索窓を使って、何かしらのキーワードを入れてみる。日寛上人で検索すれば、今ならば七十数本の投稿が確認できる。総投稿数が一千七百有余あるので、それを片っ端から読むよりは効率的だろう。しかし、七十数本も多いと言えば多いので、さらに絞り込みを行ないたいところだが、拙ブログの検索窓にはそのような仕組みはない。

そういうわけで、実はわたくし自身も過去に何を書いたか、完全には把握し切れていないのだ。ゆえに、委細に調べれば、たくさんの自語相違があるかもしれない。

 最初から質問で申し訳ないのですが、教学(仏法)を厳虎さんは、どのように捉えていらっしゃ
いますか?
 いわゆる、宗門(日寛上人)の教学を正しいとしている立場なのでしょうか。


教学(仏法)をどのように捉えているか・・・

これは漠然とした質問なので、答えるのが難しい。

宗門(日寛上人)の教学を正しいとする立場なのか・・・

これはまず現証として、わたくしは法華講員ではない。いちおうは顕正会員である。この現証の意味するところは宗門教学を正しいとしない、ということになる。

ただし、これは単純化した話であって、現実は複雑怪奇である。

たとえば高速太郎氏は、宗門(日寛上人)と書かれているが、これはすなわち、宗門教学=日寛上人、という認識なのだろうと思われる。ところがどっこい、顕正会ではこれに異議を唱えているのだ。

いわゆる戒壇論における事の戒壇の定義であるが、現行の宗門の見解は日寛上人の御指南に反する、このように顕正会では言っているのだ。ようするに、現宗門の戒壇論は間違いであり、顕正会の主張する戒壇論こそが日寛上人の御指南そのままである、こう言っているわけなのだ。

もし高速太郎氏が正本堂問題に詳しいのであれば、この辺の事情はよくおわかりになることだろう。しかし、正本堂問題にはからっきし疎いとなると、これを説明するのは困難だ。とりあえずは浅井昭衛の著書をいくつか読んでみて、当然ながら宗門側の言い分にも耳を傾けて、その上で思索を重ねるしかないだろう。

宗門教学を正しいとする立場なのか・・・

修正を加えながらの再掲であるが、上述の件は戒壇論に限った話であって、本来ならば宗門と顕正会はそれ以外の問題で相反しない。しかし、これも現実は違っている。主には葬儀法要の問題だろう。これに関しては、宗門vs顕正会・創価学会、という構図になっている。実に複雑怪奇だ。

そこで今のわたくしのスタンスを申し上げるならば、事実上の無所属、ということになる。

無所属のわたくしにできることは、さしあたっては日々の勤行、それから御書の研鑽である。折伏はどうした、と言われると返答に窮する。実際、大沢氏から再三のお叱りを頂戴しているくらいだ。

なお、付言すれば、御書は大石寺の平成新編を使わせていただいている。ご存知のごとく、御書には真偽の問題が付きまとう。わたくしには真偽を判断するだけの実力がないので、今は平成新編を信用して拝読を重ねている段階である。

まあ、こんなところだ。

2012/8/19

増税は嫌だ  
沖浦氏のバイタリティには恐れ入る。とにもかくにもお元気だ。また、のび太氏からは懇切丁寧なご回答をたまわった。

今日は増税反対のごく初歩的な理由を書いておこう。

財政再建には三つの方法があると聞いたことがある。一つには増税である。次に景気浮揚による税収増。最後は支出の削減だ。
増税反対論者ならば誰もが言うだろう、増税の前にやることがあるではないかと。税金の無駄遣いをやめること、景気の浮揚策を打つこと、まずはこの二つをしっかりとやるべきなのだ。
ところが政府はそれをやらずに増税だけをやろうとしている。いや、もちろん、そんなことはないはずで、景気対策だとか、その他もろもろの手を打ってはいるのだろう。しかし、現実にはそれが効果を発揮していない。

細かいことを言うとキリがない。景気浮揚のために財政出動をする。これは三つ目の支出の削減とは相反する行為だ。たぶん政治家の間でも、ここは侃々諤々の議論があるのだろう。最後は面倒臭くなって、だったら税金上げちゃうのが手っ取り早いよね、という結論になる。

増税反対論者が言っていることだが、どうやら前回の消費税アップを例に取れば、今度の増税によって日本経済はますます疲弊することになるらしい。もし、これが事実ならば、わざわざ自分で自分の首を絞めるようなものだ。早い話が自殺行為である。

なるほど、論者とはそういうものなのだろう。われわれ庶民の感覚で言えば、増税は嫌だ、ただそれだけの話なのである。理由もヘッタクレもない。きわめて感情的な話である。しかし、論者はそれを理路整然と主張する。庶民におもねて増税反対を唱えるのではなく、それはまさにくだんのごとく日本国をダメにする悪政なのだと言っているわけだ。

わたくしの主張は次のごとくである。

完全自給自足の生活を実践している人は別にして、ごく普通の人は何がしかの方法で収入を得て、それを生活の糧にしているのだ。では、読者に問いたい。ここ五年ないし十年で収入が大幅にアップした人がどれほどいるだろうかと。恥を忍んで書くが、わたくしの場合はまったく収入が増えていない。厳密に計算すれば、収入減だろうと思う。ぶっちゃけ言えば、少ない収入の中でなんとかヤリクリしながら生活しているのだ。こればかりは仕方がない。銀行強盗をするわけにも行かないし、ギャンブルで儲かるはずもない。たぶん、これは多くの人が大同小異なのではないかと思う。

これをもって思うべきである。増税がいかに安易な政策であるかを。

われわれ生活者は少ない収入の中でヤリクリしている。だったら国家も同じだろうがと言いたいのだ。税収が少ないから税率を上げる? ふざけるなと言いたい。少ない税収の中でうまくやるべきなのだ。もしくは税率を上げるのではなく、どうやったら税収を増やすことができるか、それを考えるべきなのだ。

以上、モノワカリのよい人は国家財政のことを考えたら増税も止むを得ないなどとノタマウが、社会の底辺でカツカツの生活をしている人にとってはとんでもないことである。

2012/8/18

駄文探訪  
今朝の沖浦氏のコメントはおおむね正しいが、細部に問題がある。

創価学会は一貫して創価三代の聖人方の神格化は拒んでいます。

聖人が問題だ。この表記自体がすでに神格化そのものであることに気がつかないといけない。

たとえば、法主本仏論と呼ばれるものがある。これは主に創価学会が主張していることで、早い話が日蓮正宗批判である。沖浦氏が唯授一人を否定するのも、おそらくは同じ方向性だと思われる。

しかし、わたくしの知る限り、日蓮正宗では御法主上人という表記が一般であって、御法主聖人とは表記しない。

沖浦氏はこの点をよく考えるべきだ。

そもそも氏が何を言おうがわたくしの知ったことではないが、しかし、矛盾は明らかだ。この際、三人の聖人方ではなく、三人の上人方に変更したらどうかと提案しておこう。いずれにしても違和感は拭えないのだが・・・

翻れ!三色旗! 投稿者:のび太 投稿日:2012年 8月18日(土)07時57分51秒 FL1-122-131-131-135.stm.mesh.ad.jp 返信・引用
「さよなら原発10万人集会」7.16代々木公園
あれから一ヶ月たちました。
同志も意気軒昂です。


のび太氏のコメントに付されたリンクをたどると、上掲の記事に行き当たった。時間が前後しているのが気になるが、それはどうでもいいことだ。

少し質問してみたくなった。

創価学会員は今般の消費増税をどのように考えているのだろうか?

先日、増税法案が可決された。これには公明党も賛成した。すると創価学会員も賛成なのだろうか?

わたくしはこれが疑問なのだ。まず、公明党は本来ならば増税に反対なのではないか、それが庶民の味方であるはずの公明党の面目ではなかったか、と思うのだ。そして公明党の支持母体であるところの創価学会は、まさしく庶民の集まりである。はたして増税を喜ぶ庶民がいるだろうか、というのがわたくしの素朴な疑問である。

たぶん沖浦氏がこれを読めば、だから自分は公明党の支援はしないのだ、というコメントを書くことだろう。

それはわかっている。そうではなくて、わたくしが聞きたいのは平均的な創価学会員の意見である。もし創価学会が断固反対を主張したら公明党も反対に回らざるを得ないだろう。だとすれば今回の増税法案は否決されたかもしれないのだ。このように考えると、何やってんだよ! と文句を言いたくもなるのだ。

そうそう、消費税の直前には内閣不信任案の可否が問われた。

さて、この時、公明党はどのように動いたか?

なんと自民党と共に欠席してしまったのだ。

これも創価学会員の意見を聞きたいものだ。単純に考えれば、公明党は野党なのだから不信任案に賛成すべきである。あるいは消費増税賛成と同様、政権与党に擦り寄るのであれば、否決の側に回る選択肢もあった。しかし、結果は第三の選択肢すなわち欠席(=棄権)だった。

何やってんだよ!

これが偽らざる感想である。わたくしの思うに、正常な感覚をお持ちの創価学会員であれば、公明党の不甲斐なさに減滅するはずである。沖浦氏のように支援しないことも有力な態度表明だ。次の総選挙は組織が何を言おうと支援しない、投票しない、これが正解ではないかと思う。

以上、脱原発のデモに創価学会員が参加するのはけっこうだが、それならば同様の意味で他の問題でも積極性を見せるべきだろう。自分の意見を持たない、単なる集票マシーンであってはいけない。

さて、本題である。

六千万は最近の顕正会における流行り言葉だが、たとえ六千万が合言葉のごとくになっていても、内心では疑問が渦巻いている。しょせん人間とはそういうものだろう。

上掲は前回の拙稿である。

わたくしは他人にイチャモンばかりをつけているけれども、実は自分自身の馬鹿さ加減にも気がついていて、どうしたものかと日々悩んでいるのだ。上掲は我ながらヒドイ文章だと思う。

たぶん、どこがどのようにヒドイのか、それほどでもないのでは? という意見もあることだろう。確かにそれはそうなのだが、実はこの前後の段を踏まえて読むと、ダメさ加減がよくわかるのだ。

煩瑣になるので掲げないが、興味のある人は前回の拙稿を確認されるとよいだろう。すなわち上掲の一段は、仮に丸々削除したとしても全体の文脈に支障を来たさない、つまりは蛇足だったのだ。あるいはもう少し丁寧に、幹部たちが六千万を云々している具体的な文言を引用するなどして、話を膨らませればよかった。それならば意味はあっただろう。ようは中途半端だったのだ。

駄文をもう一つ紹介しよう。

ゆえに、もし大聖人を偏屈で独善的ではないとする場合、残された道は一つしかないとわたくしには思える。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1704.html

これが最悪なのだ。

文章の良し悪しは判断が難しい。いろいろな角度からの判断が必要だ。しかし、最終的には直感的というか、平たく言えば理屈じゃない面が大きいと思う。そこでわたくしが心掛けていることは、意味が通じるかどうか、という一点のみである。ようは相手に伝わらなければ意味がない。最終的にはただそれだけの話なのだ。

残された道は一つしかない・・・

再掲であるが、これがなぜに最悪なのか、その答えは実に簡単である。もし残された道が一つしかないのであれば、それは誰もが容易に答えを出せるはずなのだ。ああ、なるほど、一つしかないね、アレだよね、確かに他には考えられない、ということだ。

ところがである。

上掲の文章はどこまで行っても意味不明なのである。前後を丹念に読んでもわからない。何しろ筆者がわからないのだから、読者はなおさらわからないだろう。

当然、書いた時はわかっていたはずだ。わからずにハッタリをかまして書く場合もあるかもしれないが、少なくともわたくしはそういうハッタリを使わない。ところが数ヵ月後の今は、自分で読んでもわからない。まさに駄文である。

切れ味の悪いブログ?

なるほど、自虐的なタイトルではあるが、まさにそのとおりだった。ハテナは要らなかったようだ。

鈍刀を振り回すブログ

これが次のブログのタイトルだ。どうやら自分でも自覚はあったごとくである。

2012/8/16

顕正新聞第1249号  
今日は顕正新聞第1249号の話題を取り上げるが、好都合にも沖浦氏からいいコメントが寄せられた。

人間を神格化してろくな結果ありません。

具体的には何も書かれていないが、確かに神格化にはさまざまの問題がありそうだ。さしあたって一つ挙げるならば、その人物の発言が無批判に受け入れられてしまう、という点であろう。顕正会の場合、浅井先生が言っているんだから間違いない、絶対だ、となる。まるで根拠のないことをそのまま受け入れてしまうのだ。もし他の人の発言であれば、それこそ重箱の隅を突付くがごとく、ここがおかしい、あそこがおかしい、と徹底的に追求しそうなものであるが、浅井先生に対してはそうしない。まさに神格化の成せる業だ。

七月度総幹部会の会長講演がそうだった。

 六千万人の入信は、遥か遠くのことと思えるかもしれない。

上掲はいわば会員の疑問を代弁しているわけである。口にはしないにしても、多くの会員が内心では疑問に思っている。本当に六千万人も入信するだろうかと。

六千万は最近の顕正会における流行り言葉だが、たとえ六千万が合言葉のごとくになっていても、内心では疑問が渦巻いている。しょせん人間とはそういうものだろう。

ゆえに先生はあえて踏み込んだ。

 六千万人の入信は、遥か遠くのことと思えるかもしれない。
 しかし、私はそうは思わない。
(以下省略)

まさにここが冒頭の沖浦氏のコメントに係るところである。

以下の省略部分にはいちおう根拠らしきものが書かれている。しかし、厳密には根拠と言えるシロモノではない。顕正会員以外は誰も納得しない話なのだ。

結局のところ、私はそうは思わない、という先生の希望的観測で成り立っているだけであって、客観的には、やはりどうしても、遥か遠くのこと、なのだ。

それにもかかわらず熱心な活動会員たちが広宣流布を眼前のごとく思っているとしたら、それはまさに神格化のゆえであろう。先生が言っているから間違いない、絶対だ。

当たり前のことだが、先生にも間違いはある、先生とて絶対ではない、とわたくしは言いたい。

さて、会長講演はこのくらいにして、幹部たちの登壇について書いておきたい。まずは総務・男子部第七十八隊長の肩書きを持つ人物の登壇から、ワンフレーズだけ取り上げよう。

先生の諫暁が駸々と全国に広がっている・・・

これだけではわからないので、少し説明しなければならない。

一国に脱原発の気運が漲ってきたこと。ガス・コンバインド発電の新設や提言をする自治体・マスコミが多くなってきたこと。これらは浅井先生の諫暁がもたらしたものであると言いたいらしいのだ。さらに続きの文章には次のごとくある。

首相官邸を取り囲み「脱原発」を叫ぶ二十万にも及ぶデモを見て・・・

これも当然ながら先生の諫暁のお蔭なのだろう。しかし、彼の言っていることは少しおかしいと思う。ようするに傍観者なのだ。先生の諫暁によって気運が盛り上がってきたと言いながら、自分はデモに参加していない。いったいナニサマのつもりかと言いたい。

もっとも、こういうことを書くと、オマエも同じだろうが、と言われそうだが、もう少し話を続けよう。

六千万人の入信

会長講演からの再掲であるが、わたくしは問いたい。ここでの入信は、顕正会への入信なのか否か、である。

総務兼隊長の発言がおかしいのは、まさにここなのだ。すなわち会長発言との不整合である。かつて浅井先生は大石寺総登山を発表したことがある。その時の会員数は二十万人だったが、全員で大石寺を埋め尽くすと発言したのだ。平成二年のことである。もちろん人数はハッタリであるけれども、一万人でも二万人でもよかったのだ。ともかく精鋭を集めて大石寺に登山するつもりだった。では、原発問題はどうか、である。総務兼隊長は首相官邸前に集まった二十万人を他人事のごとく書いてしまっている。ここがおかしいのだ。そうではなくて、顕正会独自で二十万集めたらどうか、いや、もちろん二十万でなくてもいい、一万でも二万でもいいのだ。

わたくしの思うに、六千万人の入信は顕正会への入信ではなく、富士大石寺への帰依という意味合いであるべきだ。

もし顕正会単独で六千万の達成を考えているとしたら、アホである。今、脱原発で二十万からの人間が集まる時代となった。これを先生の諫暁のお蔭などと自画自賛してもムナシイ限りだ。なぜならば顕正会単独で二十万を集められないからだ。他人のフンドシで相撲を取るのとも違うし、手柄の横取りでもない。勝手に自画自賛しているだけであって、他の人たちは誰も浅井先生の諫暁のお蔭などとは思っていない。何ともムナシイ話である。

ここで発想の転換が可能ならば、まだ救いはあると思う。

顕正会は天下を取るのが目的ではない。そうした功名心はまったくない。大聖人の仏法を広宣流布したい、ただそれだけの思いなのだ。

もしこの考え方ならば顕正会単独の六千万に拘泥する必要はない。顕正会は一万人だっていいのだ。ただ今後も諫暁を続けていく。そうしてやがては大石寺に帰依する人が六千万人に達する時が来る。その時も顕正会は一万人でいい。なぜならば天下を取るのが目的ではないからだ。

総務兼隊長はこの考え方を採用すべきである。繰り返しになるが、単独で二十万集められないクセに、二十万のデモを先生の諫暁のお蔭のごとくに言うのは馬鹿げている。こんなテイタラクでは六千万人の入信など実現するわけがないことをよく知るべきだ。

さて、次は第七十四隊長の活動報告だ。

先日は、有名俳優の息子である同級生を折伏しました。

これは隊長が折伏したのではなく、隊員の話だ。高校一年生の組長らしい。

有名俳優の名前はどこにも書かれていないが、読めば誰であるかわかる仕組みになっている。しかもである。読み進めていくと、ちょっとヘンなのだ。なぜならば、父親の名前は書かれていないのに、母親の名前は書かれているのだ。あれ、なんでだろ? と思った。こちらもけっこう名の知れた女優である。

ちなみに、わたくしはこうした事情に疎いので、顕正新聞を読んで初めて、この二人が夫婦であることを知ったくらいである。母親は創価学会員だと書かれているので、すると父親もそうなのだろうか、この辺の事情もわたくしはまったく知らない。

さて、この発表者であるが、かつての壮年部長である。しかも実力者だった。それで今回の折伏成果を見ると、隊ではトップクラスに入っている。なるほど実力健在だ。

ただし、上掲の記事が示すごとく、成果を上げているところはたいていが高校生の活動会員を有していると思われる。すると、名ばかりの入信者を増やしてやいまいか、その点が気になるところだ。

一万四千九四六名

うっかり書き忘れるところだったが、今回の総幹部会において特筆すべき項目である。(五月と)六月と七月の折伏目標は一万五千だった。わたくしはこの目標すら忘れていた。ともかく目標に届かなかった。これが今回の特記事項である。

隊 278名 14名

区 145名 4名

支区125名 14名


そこで少し気になったので、成果の内訳を見てみた。上掲は各組織の最高と最低の数字を拾ったものである。さらに平均値だとか、いろいろな分析方法があるだろうけれども、今はそこまでする気が起きない。もはや上掲だけでも充分なのだ。

区で四名?

これはもう終わっているようなものだ。

断っておくが、わたくしは区長を責めるつもりはないし、区長の下で戦う活動会員たちを責めるつもりもない。これは本部首脳の責任だ。組織の拡大を急ぐあまり、次々に区を新設していき、今では百を大きく超えてしまった。しかし、現実には組織が細分化されただけのことであって、実質が伴なわなかった。男子部も婦人部も大同小異だ。

区の上位概念として、第○○女子部という単位がある。これが現在、二十四ある。実はわたくしが顕正会に縁をした頃、もうそれこそ四半世紀ほど前になるが、その時の区の数が二十そこそこだったのだ。ゆえに今の区は実質的には支区ないし総支区に相当し、第○○女子部がかつての区に相当すると考えられるのだ。別の言い方をすれば、ポストを乱発することによって、組織を大きく見せているけれども、実は中身が伴なっていない。これが顕正会の実態だ。

さて、最後に紹介するのは婦人部班長の記事だ。

関電株主総会会場前で先生の講演 朗読

女は度胸とよく言われるが、確かにそうかもしれないと思う。どうもこの手の記事は女子部か婦人部のケースが圧倒的に多いようだ。

2012/8/15

顕正新聞第1248号  
沖浦氏を中心に精力的なコメントが続いているが、今日は顕正新聞の話題を取り上げたいと思う。

今回は第1248号だ。

一面は日曜勤行の指導。二面以降は各地の集会の登壇記事。それから時事ネタとして原発関連の記事が三本。あとは茶寮通信だ。

日曜勤行の指導はかつての御書講義に近くなっている。今では月ごとの御書講義がないので、実質的には日曜勤行の指導が御書講義に相当すると言えよう。今回の内容については省略させていただくが、まさに講義そのものである。語句の解説だとか教学的な視点からの論述がよく目立つ。こうなると日曜勤行の指導ではなく、日曜勤行における御書講義、略して日曜講義と称してもおかしくないだろう。

さて、次は二・三面の代表決意であるが、そこには八人の幹部たちの登壇が載っている。実は読んでからずいぶん時間が経ってしまっているので、ほとんど内容を記憶していない。記憶にないのは時間の経過もさることながら、おそらくはどれもこれも似たり寄ったりでツマラナイからだろう。そうした中で、第二十四女子部長の記事はおぼろげながら記憶に留まった。

 いよいよ到来した戒壇建立前夜の唯願説之の時を感じては魂が熱くなり、同時に熱原の法華講衆のごとき六千万人の地涌の菩薩を出現せしめられるお方は、御遺命を死守せられ
 「顕正会が戦わずして、誰人が大聖人様に応え奉るのか」
 と叫ばれる先生しかおられぬことを伏して拝しては、先生の只ならぬお立場にひれ伏す思いになったものであります。


これは凄い。

単純に言えば、先生しかおられぬことを伏して拝する、先生の只ならぬお立場にひれ伏す、というくだりが物凄く大仰に感じられてしまうのだ。

それで話が済めばいいのだが、そうは行かない。

地涌の菩薩を出現せしめられるお方・・・

これが大問題なのだ。

この言い方だと、地涌の菩薩よりもエライ人、それが浅井先生であるかのように聞こえてまうのだ。浅井先生は常々、広宣流布は大聖人があそばすことであり、我々はそのお手伝いを申し上げる立場である、という意味のことを述べていたはずなのだ。それで行くと、地涌の菩薩を出現せしめられる御方は大聖人であって、顕正会員はそのお手伝いを申し上げる立場となる。本来ならば浅井先生もお手伝いを申し上げる側に属するはずであるが、二十四女子部長は違うと言いたいらしい。これを極論すれば、大聖人=浅井先生となるだろう。すなわち会長本仏論である。

上述をアゲアシ取りのように感じる人もいるかもしれないが、わたくしにそのつもりはない。今までにも指摘してきたとおり、顕正会員は先生をタテマツリ過ぎる、それがハタから見れば物凄く異様なのだ。実は先生のご見識を云々するのはまだカワイイのであって、それはある程度は許容されるところである。しかし、仏法上のお立場がどうのこうのというのは、もはや完全な逸脱である。

女川原発周辺でナマコ巨大化
 電力会社すべて買い上げ事実隠蔽


四・五面の見出しで目を惹いたのはこれである。婦人部弘前支区組長の活動報告だ。

よくわからんが、これが事実ならば写真週刊誌が黙っていないだろう。事実隠蔽を云々しているけれども、海は広いな大きな、である。つまり、勇敢なジャーナリストであれば、密漁まがいのことをしてでも巨大ナマコを手に入れるはずなのだ。

原発から出る排水の熱や放射能の影響なのか、ナマコが巨大化して・・・

放射能の影響を云々するのは科学的な知見が必要であって、わたくしのような素人には何とも言えないが、しかし、排水の熱はなるほど頷けるところである。何となく成育がよさそうな気がするのだ。

いずれにしても当該ナマコについては、しっかりと放射能を測定して、汚染度を確認しないといけない。

「電力不足」の脅しはウソだった!!
 大飯原発再稼働で火力8基停止


原発関連の三記事の中では、これがいちばんわかりやすい。単純に電力不足はウソだった。そして電力会社にとっては原発のほうが魅力がある。早い話が儲かる。これが彼らの本音なのだろう。

しかし、ヒドイ話だ。

再稼動反対の声を無視して、運転を開始した。その途端、火力を八基停止したというのだ。どう考えたって、納得できるものではない。馬鹿にしている。感情を逆撫でしている。まったくヒドイ話だ。

六・七・八面は駆け足でやっつけてしまおう。

臨終に関する記事が目立った。これは顕正会の高齢化を意味するのだろう。成熟化と言い換えてもいい。

高校生が軽いノリで入信する。この人たちの両親はまだそういう年齢ではないが、祖父祖母は臨終を迎えてもおかしくない年齢である。実際、亡くなるとする。さすがに高校生は非力であって、多くの場合が他宗での葬儀となる。
やがてはこの高校生が長じて、今度は両親の死に直面する。この頃にはいわゆる一家広布が実現している場合もあるし、そうでないとしてもそれ相応の発言権を有するようになる。当然、顕正会で葬儀を行なうことになる。
臨終の記事が目立つのは顕正会員の絶対数が増えたからであるが、委細に見れば上述のようなことが要因として挙げられると思う。もし顕正会の構成員が高校生や二十代の若者ばかりであったならば、臨終に関する記事の出現頻度はそれほど多くはならないはずなのだ。

いわゆる折伏弘通の伸び率では苦戦しているけれども、一方で熟年層が厚くなり、その意味では組織が安定している、という見方もできるのではないかと思う。

ハニージンジャーの効果

最後に茶寮通信の記事を一つ紹介しよう。八十六歳のご婦人の話だ。身体に不調を覚え、病院に行って検査をした。しかし、異常はなかった。医師いわく、歳だからしょうがない、と。サジを投げられたようなものだ。ところが芙蓉茶寮のハニージンジャーを飲んだら元気になったというのだ。

わたくしも飲んでみたいなあ。

2012/8/12

広本における真言批判の位置付け  
各方面より種々雑多のコメントを頂戴しているが、さしあたって沖浦氏にお返事申し上げたい。

伽藍思考の本末転倒

魅力的な表現だと思う。意味不明ながらも考えさせられるのだ。

 『善きかな善きかな王今真に是れ正法を護る者なり当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし、』
 (立正安国論)


ほほう、これは鋭い。

はっきり言って沖浦氏の戒壇論はデタラメだと思う。しかし、部分的ながらも鋭いところがある。まさに上掲の引用がそれだ。このことを説明するのは相当に骨が折れるので、今は略して申し上げよう。上掲は戒壇論に近接する、きわめて重要な御文なのだ。

蜂須賀於虎

凄い人物が登場した。相当の論客である。しかし、リンク先を見ると、まだブログを立ち上げたばかりのようだ。よって、当面は今後の動向を見守りたい。

さて、もう一つの懸案である、広本の話題に移ろう。

三、『立正安国論』にみる真言批判
 『立正安国論』の中で、真言密教批判が示されているのは、すべて広本にて書き加えられたものであり、次の箇所です。
1、第五問答の主人の答えの中で
 《具に事の心を案ずるに、慈恩・弘法の三乗真実一乗方便・望後作戯論の邪義にも超過し、光宅・法蔵の涅槃正見法華邪見・寂場本教鷲峰末教の悪見にも勝出せり。大慢婆羅門の蘇生か、無垢論師の再誕か。毒蛇を恐怖し、悪賊を遠離せよ。破仏法の因縁・破国の因縁の金言これなり。……》
 の文句が加えられています。ここでは慈恩による三乗真実一乗方便の論に対する批判と併記して、弘法に対して望後作戯論と名指しで批判されています。ただしこの他にも、光宅寺法雲の涅槃正見法華邪見論や、法蔵の華厳根本法華枝末論に対しての批判も同時におこなわれており、念仏法門のみならず、法華最第一を歪める諸説やその論者に対する批判として述べられています。

2、第九問答にて客人の領解として述べた中で
 「法水の浅深」の後に
 《顕密の浅深》
 の一文が加えられ、さらに
 《真言・法華の勝劣を分別し》、
 と、勝劣論による法華経の優位が示され、
 《一乗の元意を開発せん》
 と、法華経を弘める必要の領解が強調されています。
 以上、『立正安国論』全体からみればけしてその占める割合は多くはありませんが、真言密教への批判が明確になっていることは確認できます。少なくとも、文応元年本での念仏法門批判の意味合いから、真言をはじめとする他をも含めたものへと大きく展開されたといえます。法華経の引用の追加に関係していることからも(本来ならば、他経典等の引用の比較も検討すべきとは思いますが、ここでは略します。)宗祖にとって弘安本を記された意味は、単なる書写上の補填とは言えない大きな意味を待つものと推察されます。その原因の一つは先に述べた、命にもかかわった重大な法難でありますが、その他にも重要な要素があります。


これは現代宗教研究所の田澤元泰所長が書いたものである。

これまでの経緯を端折って説明すれば、安国論の広本に真言批判があるかないか、という議論だった。わたくしは不勉強なものだから、広本の内容については詳しく調べたことがなかった。ゆえに、広本に真言批判があるかどうか、まったく知らなかった。知らないにもかかわらず、勝手な推測として、広本には真言批判はない、というふうにも考えていた。そうして議論が終わり掛けていたところ、突如、上掲の資料が提示されたわけである。

まずは感想を申し上げよう。

田澤所長の論はずいぶん乱暴というか、説明が足りていないように思う。その理由は紙数の関係でもあろうし、もう一つには、上掲の直前の文章に答えが隠されているとも考えられるだろう。

なお、佐渡流罪と宗祖の法華経色読のご自覚による真言密教への展開については多くが論じられていますので、ここではこれ以上の検討は控えたいと思います。

検討は控えたい・・・

言い換えれば、詳述しない、ということだろう。さらに続きの文章を紹介する。

こうした経緯から推察するに、宗祖はそれまでにはなかった真言密教批判が大きなテーマとなり、『立正安国論』においても引用が加えられたと考えられます。

これ以下が前掲の、三、『立正安国論』にみる真言批判、という項目なのである。

つまり、田澤所長は安国論における真言批判と思われる箇所をピックアップするのみであって、それについて詳しくは論じていないのだ。わたくしが先に、乱暴ないし説明不足と書いたのは、この意味である。

話が面倒なので、ここで結論を書いてしまおう。

立正安国論広本における真言批判は、安国論全体の文脈からすれば真言批判に当たらない。

誤解のないように申し添えるが、これは何もヘソマガリなことを言っているのではない。真面目に拝するならば誰もが了解し得ることなのだ。ようするに、安国論の大意はあくまで念仏批判が中心であって、ここに他の批判を加えると全体の文脈が著しく損なわれてしまうという問題が生じてしまうのだ。ここでは二つの御文を紹介しよう。

如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。

一凶は念仏のことである。

我一仏を信じて諸仏を抛ち、三部経を仰ぎて諸経を閣きしは・・・

一仏は阿弥陀仏、三部経は弥陀の三部経である。ここが安国論の最後の段であり、結論部分なのだ。これで全体の文脈が損なわれると書いた意味がわかるだろう。

さて、それでは前後を含めて真言批判と思しき一節を紹介しよう。

就中、法然其の流れを酌むと雖も、其の源を知らず。所以は何ん。大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、竝びに一切の諸仏菩薩、及び諸の世天等を以て捨閉閣抛之字を置いて、一切衆生之心を薄す。是れ偏に私曲之詞を展べて、全く仏経之説を見ず。妄語之至り、悪口之科、言ひても比い無く責めても余り有り。具さに事の心を案ずるに 慈恩・弘法の三乗真実一乗方便・望後作戯論之邪義に超過し、光宅・法蔵の涅槃正見法華邪見・寂場本教鷲峯末教之悪見に超出せり。大慢婆羅門の蘇生歟。無垢論師之再誕歟。毒蛇を恐怖し、悪賊を遠離す。破仏法の因縁、破国の因縁之金言是れ也。而るに人皆其の妄語を信じ、悉く彼の選択を貴ぶ。

下線が広本で加筆された部分である。

超過し・・・、・・・超出せり。

すなわち文脈上はあくまで念仏批判を主眼としているのだ。

そして、もう一箇所の真言批判が次の一節である。

然して後、顕密の浅深を斟酌し、真言・法華の勝劣を分別し、仏家之棟梁を崇重し、一乗之元意を開発せん矣。

この部分は短いので、次に平成新編から同一箇所を引用する。

然して後法水の浅深を斟酌し、仏家の棟梁を崇重せん。

ここはまさに大聖人の御化導の進展を如実にあらわすものである。まずは念仏批判であり、その後に真言批判を展開するという、その順序を示している。この類文というか、関連を思わせる御文が清澄寺大衆中に出てくる。

其の上真言宗は法華経を失ふ宗なり。是は大事なり。先づ序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ。

以上、広本に真言批判と思しき文言が散りばめられているのは事実であるが、あくまで中心は念仏批判である。当然、筆者であるところの大聖人は、全体の文脈を損なわないように留意しながら加筆修正あそばしている。この点が重要だ。

2012/8/7

未解明の領域  
傍観者v氏から貴重なコメントをたまわった。広本の真言批判については後日、取り上げたいと思う。さしあたって今日は、追伸部分について申し上げる。

巌虎氏は山門さんに対してライバル意識があるから、絡むののかな?w

ムキになって否定するつもりはないけれども、これはじゃっかんの誤解が含まれていると思う。山門入り口氏は広本に真言批判があるとコメントした。ゆえにわたくしは具体的な御文を教えてほしいと、こう返したわけである。ところが結論的にはトンチンカンな御文を提示してきた。ゆえにそれがなぜに真言批判なのか説明してほしいと要望したのだ。その結果が資料が見当たらない云々だった。

これはライバル意識の問題ではない。ごく普通のやり取りであって、こちらとしては絡んでいるとか、そういう意識はまったくないのだ。

そもそもが拙ブログのコメント欄であるからして、どっちが絡んできたかと言えば、それは先方である。この点を忘れてもらっては困る。

ただし、いくぶん過剰に反応しているだろうことは否めない。その理由は書かないが、自分でも身に覚えのあることなのだ。

さて、今度は沖浦氏だ。

どうやら地殻変動が起こっている。いや、地殻変動ではなく、明らかな変化だろう。具体的に言えば、コメント欄の勢力図に変化があったのだ。どうも最近は法華講員のコメントが少ない。いわば弱体化である。そこで意気軒昂なのが沖浦氏である。氏の独壇場と化している。氏を掣肘し得る存在がいない。一部の創価学会員が頑張っているけれども、そもそも沖浦氏も創価学会員なのだから、本来は仲間なのだ。その意味で彼らは真っ向から対立すべき存在ではない。やはり法華講員の奮闘が必要なのだ。

もちろん、法華講員の奮闘ばかりを期待していてはいけない。非力ながらもわたくし自身が頑張らないといけないのだ。

そこで沖浦氏の所論に批判を加えることにしよう。

 戒壇が建物を主に示すのではないことは、大聖人の生き様から理解出来ます。

 弘安4年に10間四面の大坊が整備され、大聖人によって「妙法華院身延山久遠寺」と名付けられ、

 大聖人は弘安5年9月に湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため久遠寺を下山され、池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)に滞在されて6人の弟子「六老僧」を決められました。
 同地、で弘安5年10月13日に御入滅さなれたのです。

 『さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを九年まで御きえ候いぬる御心ざし申すばかりなく候へばいづくにて死に候ともはかをばみのぶさわ(身延沢)にせさせ候べく候。』
 (波木井殿御報)
 
 大聖人のご遺言です。

 ここで門下として理解すべきは、

 大聖人は、建物などには、全く執着されておられないお方である。

 この事実です。
 佐渡流罪斜面後、幕府は鎌倉に大伽藍を寄進すると申し出ましたが、大聖人は、中国の礼記に「君に過ち有れば則諌め、三度諌めて聴かざれば去るべし」とある。
 として、身延入山なさいました。
 伽藍になど、どう言う関心すらお持ちでなかったことが、理解出来ます。
 それが文永11年(1274年)。
 大坊建設まで、7年も間があります。
 波木井氏は有力な地頭ですから、10間4面の大坊を建てる事は簡単だったでしょう。 
 7年目にして、はじめて大坊が建った。
 大聖人が望まれなかったからでしょうね。
  
 そう言う大聖人が、大伽藍としての本門の戒壇を、望まれる道理がありません。


ほとんどデタラメである。沖浦氏は戒壇論には暗いようだ。

「妙法華院身延山久遠寺」

まず、確認したい。これは何によって知ることができるのか、その資料を教えていただきたい。身延山久遠寺は二箇相承に出てくるけれども、妙法華院は初耳のことだ。そもそも沖浦氏は二箇相承を否定しているわけだから、なおさら不可解なのであるが・・・

 佐渡流罪斜面後、幕府は鎌倉に大伽藍を寄進すると申し出ましたが、大聖人は、中国の礼記に「君に過ち有れば則諌め、三度諌めて聴かざれば去るべし」とある。
 として、身延入山なさいました。
 伽藍になど、どう言う関心すらお持ちでなかったことが、理解出来ます。


斜面は赦免の間違いだろう。それはともかく、上掲は基本がまったくわかっていないことを露呈した格好である。

謗法を容認し給わざるゆえ・・・

これが答えだ。

大伽藍の寄進を受けなかった理由はここにある。諸宗無得道が大聖人の御主張である。ゆえに諸宗をすべて排除した上で法華宗のみを公認する、幕府がこのように言えば大伽藍の寄進もあり得た話なのだ。

諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なり

沖浦氏もよくご存知の如説修行抄の一節である。

謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事。

こちらは日興上人の御遺誡であるが、当然ながら大聖人の御考えに基づくものである。

以上、沖浦氏の言う、大聖人は伽藍に関心がなかった云々は、まったく根拠のないものであることが判明した。

 それが文永11年(1274年)。
 大坊建設まで、7年も間があります。
 波木井氏は有力な地頭ですから、10間4面の大坊を建てる事は簡単だったでしょう。 
 7年目にして、はじめて大坊が建った。
 大聖人が望まれなかったからでしょうね。


これもデタラメだ。まず、身延入山前後の事情がわかっていない。

此の御房たちもみなかへして但一人候べし。

結句は一人になて日本国に流浪すべきみにて候。


富木殿御書だ。

大聖人が佐渡から帰還され、そして身延にお入りになられるまでの期間は、きわめて短い。しかも上掲の御文から窺えることは、望むと望まざるとにかかわらず、伽藍の建立を云々するような状況ではなかったということだ。当初はごく少数の御弟子、側近中の側近のみを御連れしていた。ゆえに伽藍の必要性もなかったわけだ。

庵室修復書

こういう名前の御書がある。伽藍と庵室の違いを思うべきだろう。これが建治三年の冬だそうだ。

人はなき時は四十人、ある時は六十人

これが翌年の十一月だ。前年の冬、庵室を修復した。あるいはこの時、増築のようなことが行なわれたのかもしれない。これ以降、加速度的に人が増えていく。

今年一百余人の人を山中にやしなひて・・・

これが翌々年、すなわち弘安二年の八月だ。庵室修復以降の加速度的な人数の増加がよくわかるはずだ。

波木井氏にどれほどの財力があったか知らないが、大聖人が佐渡から御帰還になられた後、自分の領地に御招きするにしても、直ちに伽藍を建立するような必要性ないし必然性はなかった。後年、大聖人を慕って多くの弟子檀那が身延に参詣するようになって、そこでようやく伽藍の必要性が生まれたわけである。

 そう言う大聖人が、大伽藍としての本門の戒壇を、望まれる道理がありません。

この沖浦氏の結論がいかにデタラメであるか、よくわかったことと思う。幕府の寄進を受けなかったのは伽藍に関心がないからではなく、謗法との共存共栄はあり得ないことだからだ。波木井氏が直ちに伽藍を建てなかったのは大聖人が望まれなかったからなどという話ではなく、そもそも伽藍を建立するような状況ではなかっただけの話である。さらに言えば、本門戒壇の建立はまったく別次元の話であって、一般的な寺院の建立と混同すべき事柄ではない。

以上、氏は戒壇論に限って言えば、からっきしダメである。

2012/8/2

広本略解  
今回は、んっ?氏へのお返事から始めないといけない。

御存知だとは思いますが阿部さんの時代,本山に御本尊を取り扱う
内事部第三課が設置されてからは富士宮市内のK印刷が印刷し
群馬県のO表具店など数社の表具店に出し表装。
第三課で検査の後,別の段ボールに詰め換え、
末寺の入金に応じて宅配便で配送されてますので問題ありません。

日顕宗が問題にしているのは以下の二点です。
@法主の開眼が為されていない
A一機一縁の本尊の授与書きを削除している


(以下省略)

不勉強のわたくしは宗門がどこでどのようにして御本尊を印刷ないし表装しているか知らない。よって上掲が本当かどうかも判断し兼ねるが、まさかわざわざウソを書く必要もないだろうから、おおむねその通りなのだろう。

また、開眼については拙ブログでも書いたことがある。わたくしの意見はわりと宗門寄りであるが、しかし、正直なところを言えば、よくわからない。これが結論だ。

授与書きの削除云々はたぶん書いたことがない。

そこで前回の話に戻るわけだが、結局は既成事実化という現実が大きいと思う。創価学会の会館はそれこそ全国に無数ある。世界各地にもあるらしい。そこにはいわゆる創価学会版の本尊が安置されている。この事実は動かない。かれこれ二十年もこの状態が続いている以上、教義上の是非を論じたところで、どうにもならない。実際、創価学会員が激減したという話も聞かない。

翻って言えば、んっ?氏を始めとした理論家たちがいるからこそ、盤石なのだろう。わたくしはあくまで宗門寄りであるが、しかし、事実は事実として冷静に見つめる必要がある。

今の争点は貎下様が恣意的に許さないと思えば、功徳がなくなると宗門が主張している点ですね。

これはポリ銀氏のコメントだ。氏は結論を濁しておられるが、何となく言いたいことはわかる。おそらくは合理的な説明を欲しているのだ。何しろ教養人であるから、不合理な説明には納得しない。結局のところ、上掲のような話は創価学会の論客に通用しない、通用しないどころか、逆にやり込められてしまう。これも現実の話だ。

さて、次は沖浦氏であるが、わたくしが問うたことについては、いちおう、すべてご回答下さった。この一々の是非については省略させていただき、今回は次の一点に絞って追求したいと思う。

 戒壇も同じですね。
 宗教は布教が命ですから、拡大を目指とうすと言う宿命を持っています。
 成功する宗教ほど拡大し、信徒が莫大になります。
 当然組織として統一しないと、烏合の衆になりますので、色々やることが増えます。
 人は宗教に儀式を求めますから、そう言う儀式を行う場所が必要になって、そのうちの一つが戒壇としての建造物。

 これは、私共の身体を、建物で表現したものです。
 身体が生命活動の場であるように、この建物は、宗教活動の場です。

 戒壇も二つあるのです。


感想を申し上げよう。うまい!の一言だ。

ただし、上掲は他の事案と決定的に異なる。わたくしはそこが大問題だと思っている。すなわち御書にまったく触れていないことだ。

たとえば当体義抄の「譬喩即法体・法体即譬喩」についは、白米一俵御書を引いてご回答下さった。もう一つの事案も同様に、いちおうは正面から取り組んで下さった。

すでに述べたごとく、これらの是非は省略する。さて、そこで話を戻すが、上掲はいかがなものかと言わざるを得ない。説明はうまいのだ。なるほどと思わせるものがある。しかし、具体的な文証が示されていない。

つまり、一見すると、もっともらしいことであっても、それが御書に基づかないものであれば、しょせんは己義なのだ。

以上、沖浦氏には御書の提示を求めたい。

さて、今日のトリは山門入り口氏だ。

出し惜しみではなくて、参考書籍がどれだったか、探すのが大変なだけです。
宗教関係の書籍だけでも数百もあるので、どれに掲載されていたか覚えてないだけです。


それは残念な話だ。別に急がないので、見つかり次第、ご教示のほどをお願いしたい。

主人の曰く 客明らかに経文を見て猶お斯の言を成す。心之及ばざる歟。理之通ぜざる歟。全く仏子を禁むるに非ず。唯偏に謗法を悪む也。汝、上に引く所の経文は、専ら持戒正見・破戒無戒正見の者也。今悪む所は、持戒邪見・破戒破見・無戒悪見の者也。夫れ釈迦之以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能忍之以後の経説は則ち其の施を止む。此れ又一途也。月氏国之戒日大王は聖人也。其の上首を罰し五天之余黨を誡む。尸那国之宣宗皇帝は賢王也。道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む。彼は外道也、道士也。其の罪之軽し。之は内道也、仏弟子也。其の罪最も重し。速やかに重科に行へ。然れば則ち四海万邦、一切の四衆、其の悪に施さず。皆此の善に帰せば何なる難か竝び起り、何なる災か競ひ来たらん矣。

現代宗教研究所の資料を過去にコピーさせていただいたものである。そして今回の懸案であるが、山門入り口氏の引用よりも少し範囲を拡げて再掲する。

尸那国之宣宗皇帝は賢王也。道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む。彼は外道也、道士也。其の罪之軽し。之は内道也、仏弟子也。其の罪最も重し。速やかに重科に行へ。

尸那国は中国、これはわかる。九州の仏敵? これが最初はわからなかった。

漢土の武宗皇帝の九国の寺塔四千六百余所を消滅せしめ、僧尼二十六万五百人を還俗せし・・・

撰時抄からの引用であるが、ここにある九国がすなわち九州と同意なのだ。当然ながらこれは日本の九州ではない。どうやら中国はかつて九つに区分されていたらしく、大聖人の時代には中国全土を指して九国ないし九州と呼ぶ慣わしのようなものがあったごとくである。

それはともかく、武宗皇帝の仏教大弾圧が凄まじい。その数字の蓋然性をもってすれば、九国が中国全土の意味であることは間違いないだろう。

そこでいよいよ宣宗皇帝の登場である。

今回、山門入り口氏のお蔭で勉強することができた。この宣宗皇帝は武宗皇帝の次の皇帝なのだ。武宗は大弾圧を行なった。次の宣宗は一転して仏教を保護した。それが「宣宗皇帝は賢王也」の意味である。具体的には「道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む」との御文を拝するわけだが、この史実を裏付ける資料についてはわからなかった。

全体の文意は、為政者たるもの仏教を保護し仏敵を止めなくてはいけない、ということだ。さらに、仏教と外道の場合は単純明快であるが、仏教(法華経)と仏教(爾前経)は判断が難しい。その分、外道は罪が軽いが、内道(爾前経)は罪が重い。よって、重科に処すべき、という結論である。

以上、くだんの御文から直接的な意味での真言批判を見出すことはできない。

ただし、強いて言えば、「其の罪最も重し」に間接的な意味での真言批判を見出すことは可能である。大聖人は後年、真言宗の破折に精力を注いでいらっしゃる。ようするに、安国論当時は念仏を一凶とされたわけだが、後年は念仏よりも真言に重きを置いている。この意味を被せて「其の罪最も重し」を拝するならば、そこに真言宗が浮かび上がってくることは理の当然とも言うべきものである。

さて、山門入り口氏が読んだ本には、どのように書かれているだろうか?


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