2012/8/2

広本略解  
今回は、んっ?氏へのお返事から始めないといけない。

御存知だとは思いますが阿部さんの時代,本山に御本尊を取り扱う
内事部第三課が設置されてからは富士宮市内のK印刷が印刷し
群馬県のO表具店など数社の表具店に出し表装。
第三課で検査の後,別の段ボールに詰め換え、
末寺の入金に応じて宅配便で配送されてますので問題ありません。

日顕宗が問題にしているのは以下の二点です。
@法主の開眼が為されていない
A一機一縁の本尊の授与書きを削除している


(以下省略)

不勉強のわたくしは宗門がどこでどのようにして御本尊を印刷ないし表装しているか知らない。よって上掲が本当かどうかも判断し兼ねるが、まさかわざわざウソを書く必要もないだろうから、おおむねその通りなのだろう。

また、開眼については拙ブログでも書いたことがある。わたくしの意見はわりと宗門寄りであるが、しかし、正直なところを言えば、よくわからない。これが結論だ。

授与書きの削除云々はたぶん書いたことがない。

そこで前回の話に戻るわけだが、結局は既成事実化という現実が大きいと思う。創価学会の会館はそれこそ全国に無数ある。世界各地にもあるらしい。そこにはいわゆる創価学会版の本尊が安置されている。この事実は動かない。かれこれ二十年もこの状態が続いている以上、教義上の是非を論じたところで、どうにもならない。実際、創価学会員が激減したという話も聞かない。

翻って言えば、んっ?氏を始めとした理論家たちがいるからこそ、盤石なのだろう。わたくしはあくまで宗門寄りであるが、しかし、事実は事実として冷静に見つめる必要がある。

今の争点は貎下様が恣意的に許さないと思えば、功徳がなくなると宗門が主張している点ですね。

これはポリ銀氏のコメントだ。氏は結論を濁しておられるが、何となく言いたいことはわかる。おそらくは合理的な説明を欲しているのだ。何しろ教養人であるから、不合理な説明には納得しない。結局のところ、上掲のような話は創価学会の論客に通用しない、通用しないどころか、逆にやり込められてしまう。これも現実の話だ。

さて、次は沖浦氏であるが、わたくしが問うたことについては、いちおう、すべてご回答下さった。この一々の是非については省略させていただき、今回は次の一点に絞って追求したいと思う。

 戒壇も同じですね。
 宗教は布教が命ですから、拡大を目指とうすと言う宿命を持っています。
 成功する宗教ほど拡大し、信徒が莫大になります。
 当然組織として統一しないと、烏合の衆になりますので、色々やることが増えます。
 人は宗教に儀式を求めますから、そう言う儀式を行う場所が必要になって、そのうちの一つが戒壇としての建造物。

 これは、私共の身体を、建物で表現したものです。
 身体が生命活動の場であるように、この建物は、宗教活動の場です。

 戒壇も二つあるのです。


感想を申し上げよう。うまい!の一言だ。

ただし、上掲は他の事案と決定的に異なる。わたくしはそこが大問題だと思っている。すなわち御書にまったく触れていないことだ。

たとえば当体義抄の「譬喩即法体・法体即譬喩」についは、白米一俵御書を引いてご回答下さった。もう一つの事案も同様に、いちおうは正面から取り組んで下さった。

すでに述べたごとく、これらの是非は省略する。さて、そこで話を戻すが、上掲はいかがなものかと言わざるを得ない。説明はうまいのだ。なるほどと思わせるものがある。しかし、具体的な文証が示されていない。

つまり、一見すると、もっともらしいことであっても、それが御書に基づかないものであれば、しょせんは己義なのだ。

以上、沖浦氏には御書の提示を求めたい。

さて、今日のトリは山門入り口氏だ。

出し惜しみではなくて、参考書籍がどれだったか、探すのが大変なだけです。
宗教関係の書籍だけでも数百もあるので、どれに掲載されていたか覚えてないだけです。


それは残念な話だ。別に急がないので、見つかり次第、ご教示のほどをお願いしたい。

主人の曰く 客明らかに経文を見て猶お斯の言を成す。心之及ばざる歟。理之通ぜざる歟。全く仏子を禁むるに非ず。唯偏に謗法を悪む也。汝、上に引く所の経文は、専ら持戒正見・破戒無戒正見の者也。今悪む所は、持戒邪見・破戒破見・無戒悪見の者也。夫れ釈迦之以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能忍之以後の経説は則ち其の施を止む。此れ又一途也。月氏国之戒日大王は聖人也。其の上首を罰し五天之余黨を誡む。尸那国之宣宗皇帝は賢王也。道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む。彼は外道也、道士也。其の罪之軽し。之は内道也、仏弟子也。其の罪最も重し。速やかに重科に行へ。然れば則ち四海万邦、一切の四衆、其の悪に施さず。皆此の善に帰せば何なる難か竝び起り、何なる災か競ひ来たらん矣。

現代宗教研究所の資料を過去にコピーさせていただいたものである。そして今回の懸案であるが、山門入り口氏の引用よりも少し範囲を拡げて再掲する。

尸那国之宣宗皇帝は賢王也。道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む。彼は外道也、道士也。其の罪之軽し。之は内道也、仏弟子也。其の罪最も重し。速やかに重科に行へ。

尸那国は中国、これはわかる。九州の仏敵? これが最初はわからなかった。

漢土の武宗皇帝の九国の寺塔四千六百余所を消滅せしめ、僧尼二十六万五百人を還俗せし・・・

撰時抄からの引用であるが、ここにある九国がすなわち九州と同意なのだ。当然ながらこれは日本の九州ではない。どうやら中国はかつて九つに区分されていたらしく、大聖人の時代には中国全土を指して九国ないし九州と呼ぶ慣わしのようなものがあったごとくである。

それはともかく、武宗皇帝の仏教大弾圧が凄まじい。その数字の蓋然性をもってすれば、九国が中国全土の意味であることは間違いないだろう。

そこでいよいよ宣宗皇帝の登場である。

今回、山門入り口氏のお蔭で勉強することができた。この宣宗皇帝は武宗皇帝の次の皇帝なのだ。武宗は大弾圧を行なった。次の宣宗は一転して仏教を保護した。それが「宣宗皇帝は賢王也」の意味である。具体的には「道士一十二人を誅して九州の仏敵を止む」との御文を拝するわけだが、この史実を裏付ける資料についてはわからなかった。

全体の文意は、為政者たるもの仏教を保護し仏敵を止めなくてはいけない、ということだ。さらに、仏教と外道の場合は単純明快であるが、仏教(法華経)と仏教(爾前経)は判断が難しい。その分、外道は罪が軽いが、内道(爾前経)は罪が重い。よって、重科に処すべき、という結論である。

以上、くだんの御文から直接的な意味での真言批判を見出すことはできない。

ただし、強いて言えば、「其の罪最も重し」に間接的な意味での真言批判を見出すことは可能である。大聖人は後年、真言宗の破折に精力を注いでいらっしゃる。ようするに、安国論当時は念仏を一凶とされたわけだが、後年は念仏よりも真言に重きを置いている。この意味を被せて「其の罪最も重し」を拝するならば、そこに真言宗が浮かび上がってくることは理の当然とも言うべきものである。

さて、山門入り口氏が読んだ本には、どのように書かれているだろうか?


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