2012/8/18

駄文探訪  
今朝の沖浦氏のコメントはおおむね正しいが、細部に問題がある。

創価学会は一貫して創価三代の聖人方の神格化は拒んでいます。

聖人が問題だ。この表記自体がすでに神格化そのものであることに気がつかないといけない。

たとえば、法主本仏論と呼ばれるものがある。これは主に創価学会が主張していることで、早い話が日蓮正宗批判である。沖浦氏が唯授一人を否定するのも、おそらくは同じ方向性だと思われる。

しかし、わたくしの知る限り、日蓮正宗では御法主上人という表記が一般であって、御法主聖人とは表記しない。

沖浦氏はこの点をよく考えるべきだ。

そもそも氏が何を言おうがわたくしの知ったことではないが、しかし、矛盾は明らかだ。この際、三人の聖人方ではなく、三人の上人方に変更したらどうかと提案しておこう。いずれにしても違和感は拭えないのだが・・・

翻れ!三色旗! 投稿者:のび太 投稿日:2012年 8月18日(土)07時57分51秒 FL1-122-131-131-135.stm.mesh.ad.jp 返信・引用
「さよなら原発10万人集会」7.16代々木公園
あれから一ヶ月たちました。
同志も意気軒昂です。


のび太氏のコメントに付されたリンクをたどると、上掲の記事に行き当たった。時間が前後しているのが気になるが、それはどうでもいいことだ。

少し質問してみたくなった。

創価学会員は今般の消費増税をどのように考えているのだろうか?

先日、増税法案が可決された。これには公明党も賛成した。すると創価学会員も賛成なのだろうか?

わたくしはこれが疑問なのだ。まず、公明党は本来ならば増税に反対なのではないか、それが庶民の味方であるはずの公明党の面目ではなかったか、と思うのだ。そして公明党の支持母体であるところの創価学会は、まさしく庶民の集まりである。はたして増税を喜ぶ庶民がいるだろうか、というのがわたくしの素朴な疑問である。

たぶん沖浦氏がこれを読めば、だから自分は公明党の支援はしないのだ、というコメントを書くことだろう。

それはわかっている。そうではなくて、わたくしが聞きたいのは平均的な創価学会員の意見である。もし創価学会が断固反対を主張したら公明党も反対に回らざるを得ないだろう。だとすれば今回の増税法案は否決されたかもしれないのだ。このように考えると、何やってんだよ! と文句を言いたくもなるのだ。

そうそう、消費税の直前には内閣不信任案の可否が問われた。

さて、この時、公明党はどのように動いたか?

なんと自民党と共に欠席してしまったのだ。

これも創価学会員の意見を聞きたいものだ。単純に考えれば、公明党は野党なのだから不信任案に賛成すべきである。あるいは消費増税賛成と同様、政権与党に擦り寄るのであれば、否決の側に回る選択肢もあった。しかし、結果は第三の選択肢すなわち欠席(=棄権)だった。

何やってんだよ!

これが偽らざる感想である。わたくしの思うに、正常な感覚をお持ちの創価学会員であれば、公明党の不甲斐なさに減滅するはずである。沖浦氏のように支援しないことも有力な態度表明だ。次の総選挙は組織が何を言おうと支援しない、投票しない、これが正解ではないかと思う。

以上、脱原発のデモに創価学会員が参加するのはけっこうだが、それならば同様の意味で他の問題でも積極性を見せるべきだろう。自分の意見を持たない、単なる集票マシーンであってはいけない。

さて、本題である。

六千万は最近の顕正会における流行り言葉だが、たとえ六千万が合言葉のごとくになっていても、内心では疑問が渦巻いている。しょせん人間とはそういうものだろう。

上掲は前回の拙稿である。

わたくしは他人にイチャモンばかりをつけているけれども、実は自分自身の馬鹿さ加減にも気がついていて、どうしたものかと日々悩んでいるのだ。上掲は我ながらヒドイ文章だと思う。

たぶん、どこがどのようにヒドイのか、それほどでもないのでは? という意見もあることだろう。確かにそれはそうなのだが、実はこの前後の段を踏まえて読むと、ダメさ加減がよくわかるのだ。

煩瑣になるので掲げないが、興味のある人は前回の拙稿を確認されるとよいだろう。すなわち上掲の一段は、仮に丸々削除したとしても全体の文脈に支障を来たさない、つまりは蛇足だったのだ。あるいはもう少し丁寧に、幹部たちが六千万を云々している具体的な文言を引用するなどして、話を膨らませればよかった。それならば意味はあっただろう。ようは中途半端だったのだ。

駄文をもう一つ紹介しよう。

ゆえに、もし大聖人を偏屈で独善的ではないとする場合、残された道は一つしかないとわたくしには思える。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1704.html

これが最悪なのだ。

文章の良し悪しは判断が難しい。いろいろな角度からの判断が必要だ。しかし、最終的には直感的というか、平たく言えば理屈じゃない面が大きいと思う。そこでわたくしが心掛けていることは、意味が通じるかどうか、という一点のみである。ようは相手に伝わらなければ意味がない。最終的にはただそれだけの話なのだ。

残された道は一つしかない・・・

再掲であるが、これがなぜに最悪なのか、その答えは実に簡単である。もし残された道が一つしかないのであれば、それは誰もが容易に答えを出せるはずなのだ。ああ、なるほど、一つしかないね、アレだよね、確かに他には考えられない、ということだ。

ところがである。

上掲の文章はどこまで行っても意味不明なのである。前後を丹念に読んでもわからない。何しろ筆者がわからないのだから、読者はなおさらわからないだろう。

当然、書いた時はわかっていたはずだ。わからずにハッタリをかまして書く場合もあるかもしれないが、少なくともわたくしはそういうハッタリを使わない。ところが数ヵ月後の今は、自分で読んでもわからない。まさに駄文である。

切れ味の悪いブログ?

なるほど、自虐的なタイトルではあるが、まさにそのとおりだった。ハテナは要らなかったようだ。

鈍刀を振り回すブログ

これが次のブログのタイトルだ。どうやら自分でも自覚はあったごとくである。


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