2012/8/21

暑いのは嫌だ  
高速太郎氏は拙ブログを最近になって知ったという。これは驚きだ。

自惚れを承知で言えば、拙ブログは日蓮正宗系統の人たちには周知の存在であろう。もちろん、インターネットを活用している人たちに限っての話であるが、少なくとも足掛け十年近くもブログを続けているので、必ずどこかで閲覧する機会が訪れるはずなのだ。何しろ日蓮宗の人が来訪したこともあるし、今年になってからはキリスト教の人がお出ましになったほどである。

それはともかく話を進めよう。

 最近、厳虎さんの、このブログを知り遡って少しだけ読ませて頂きました。
 但し、充分には、理解していません。
 時間を見つけて、読み込んで理解したいと考えています。


ぜんぶ読もうと思ったら大変なことになるので、やめたほうがよろしいだろう。

わたくしが他人のブログを拝見する時、そのブログがすでに大量のバックナンバーを保有している場合、過去の投稿は読まないことにしている。面倒臭いからだ。その代わり、新規の投稿は必ずチェックする。その人が執筆意欲を失っていないのであれば、これからも有意義な文章を書くだろうから、とりあえずはそれでよしとしている。欲張っても疲れるだけだからだ。その上で、どうしても必要な場合に限って、過去の投稿も読む。

拙ブログの読者もそのようにしたほうが賢明だろう。

パソコンでご覧になっている人は左側にある検索窓を使って、何かしらのキーワードを入れてみる。日寛上人で検索すれば、今ならば七十数本の投稿が確認できる。総投稿数が一千七百有余あるので、それを片っ端から読むよりは効率的だろう。しかし、七十数本も多いと言えば多いので、さらに絞り込みを行ないたいところだが、拙ブログの検索窓にはそのような仕組みはない。

そういうわけで、実はわたくし自身も過去に何を書いたか、完全には把握し切れていないのだ。ゆえに、委細に調べれば、たくさんの自語相違があるかもしれない。

 最初から質問で申し訳ないのですが、教学(仏法)を厳虎さんは、どのように捉えていらっしゃ
いますか?
 いわゆる、宗門(日寛上人)の教学を正しいとしている立場なのでしょうか。


教学(仏法)をどのように捉えているか・・・

これは漠然とした質問なので、答えるのが難しい。

宗門(日寛上人)の教学を正しいとする立場なのか・・・

これはまず現証として、わたくしは法華講員ではない。いちおうは顕正会員である。この現証の意味するところは宗門教学を正しいとしない、ということになる。

ただし、これは単純化した話であって、現実は複雑怪奇である。

たとえば高速太郎氏は、宗門(日寛上人)と書かれているが、これはすなわち、宗門教学=日寛上人、という認識なのだろうと思われる。ところがどっこい、顕正会ではこれに異議を唱えているのだ。

いわゆる戒壇論における事の戒壇の定義であるが、現行の宗門の見解は日寛上人の御指南に反する、このように顕正会では言っているのだ。ようするに、現宗門の戒壇論は間違いであり、顕正会の主張する戒壇論こそが日寛上人の御指南そのままである、こう言っているわけなのだ。

もし高速太郎氏が正本堂問題に詳しいのであれば、この辺の事情はよくおわかりになることだろう。しかし、正本堂問題にはからっきし疎いとなると、これを説明するのは困難だ。とりあえずは浅井昭衛の著書をいくつか読んでみて、当然ながら宗門側の言い分にも耳を傾けて、その上で思索を重ねるしかないだろう。

宗門教学を正しいとする立場なのか・・・

修正を加えながらの再掲であるが、上述の件は戒壇論に限った話であって、本来ならば宗門と顕正会はそれ以外の問題で相反しない。しかし、これも現実は違っている。主には葬儀法要の問題だろう。これに関しては、宗門vs顕正会・創価学会、という構図になっている。実に複雑怪奇だ。

そこで今のわたくしのスタンスを申し上げるならば、事実上の無所属、ということになる。

無所属のわたくしにできることは、さしあたっては日々の勤行、それから御書の研鑽である。折伏はどうした、と言われると返答に窮する。実際、大沢氏から再三のお叱りを頂戴しているくらいだ。

なお、付言すれば、御書は大石寺の平成新編を使わせていただいている。ご存知のごとく、御書には真偽の問題が付きまとう。わたくしには真偽を判断するだけの実力がないので、今は平成新編を信用して拝読を重ねている段階である。

まあ、こんなところだ。


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