2012/8/26

泣き言は嫌いだ  
何やら過日の総幹部会において、サプライズがあったらしい。これはいつものごとく、新聞掲載を待ってから取り上げたい。

化義は時代とともに変わる必要があると考えます。

高速太郎氏のコメントである。たぶん化義は化儀の間違いだろう。化儀は時代と共に変わる必要があるとのことだ。

まず、化儀とは何か、それが難しい。化儀・化法という言葉があって、御書にも出てくることは出てくるのだが、どうも今は別の意味で使われているような印象が拭えない。ようするに化儀は儀式的な意味であり、化法は仏法の本質的部分を意味する、というのが現代的な解釈だ。なるほど、これならば化法は不変であるべきだが、一方の化儀は時代によって変遷があっても構わないという考え方もあり得るだろう。しかし、大聖人の御使用例がそっくりそのままであるとは思えない。ゆえにわたくしは化儀・化法について、巷間言われているような使い方をしない。

いずれにしても具体例が必要な話である。

大師講ををこなうべし。

顕正会では「御在世の信心」という言葉がよく使われる。おそらくは宗門で使っている「祖道の恢復」と同義なのだろう。浅井先生は平易な表現を好む。一方の宗門は難解な表現が好きのようだ。

それはともかく、上掲の御指南をどのように拝するかが問題だ。ようするに御在世の信心ないし祖道の恢復を言うのであれば、大師講を復活させなければいけない。

これがいわゆる化儀の問題なのだろう。

つまりはこういうことだ。用語としての化儀の適否はともかくとして、問題となるのは具体例である。おそらく創価学会は大師講をやらないだろうし、顕正会もやっていない。宗門も然りだ。これはあくまで一例であって、そこにはありとあらゆる問題が横たわっている。ゆえに高速太郎氏の結論はとりあえず前掲のごとくで結構だが、あとは具体的事案として何を挙げるかである。

信じると云うことは、その対象に常に不信を持つこと

抽象的な文章だ。含蓄のある文章と言い換えてもいいかもしれない。

そもそも御書の構成そのものが上掲のごとくなっている。つまりは問答形式ということだ。疑いを設けて、それを一つひとつクリアしていく。これによって信を強くするのだ。生意気を言うようだが、拙ブログがやっていることも同じである。

さて、話を変えよう。

最近は戒壇について考えるのに少々飽きてしまって…。

ポリ銀氏から厄介なコメントを頂戴した。

別に戒壇について考える必要はないというか、いわゆる信行学の範疇で言えば、まずは三大秘法の名目を知ることであり、その上で戒壇建立の御遺命がわかっていれば、合格なのだと思う。ポリ銀氏は教養人だから、さらに深いところまで考えてしまうのだろう。

末寺にあてがわれた御命題のことばかり

何となく顕正会における成果主義の雰囲気が感じられなくもないところだ。

ポリ銀氏の気持ちはわからなくもない。

たぶん今の中堅以上の僧侶は宗門と創価学会の蜜月時代をよく憶えていて、その頃のバラ色の生活(?)を回復したいという願望みたいなものがあるのだろう。祖道の恢復ではなく、欲望の恢復だ。しかし、なぜに宗門が隆盛をきわめたか、彼らにはその原動力がわかっていない。すなわち国立戒壇の大目標である。これが戦後の創価学会の大躍進につながり、結果として宗門の隆盛へとつながるわけである。ところが今の僧侶たちは二十数年前の記憶はあっても、それ以前の記憶はない。まったくないわけではないだろうが、きわめて記憶が薄くなっているのだ。

幸か不幸か、ポリ銀氏は教養人である。これがために普通の人ならば気がつかないようなところまで見えてしまっている。そこらの並みの僧侶よりもよく見えているのだ。

しかし、ここでポリ銀氏に苦言を呈しておこう。

泣きそうになります。

そのピュアな気持ちはわかる。

だが、しかし、ナイモノネダリをしても仕方がないのだ。

たとえば顕正会が絶好の例である。ポリ銀氏もよくご存知のごとく、戒壇論においては顕正会の主張にかなりの信憑性がある。顕正会が全面的に正しいと書けば、さすがに反論があるかもしれないが、ここでは仮にそうだとしておこう。

ところがである。その顕正会が今ではガタガタなのだ。国立戒壇だとか六千万だとかデカイことを言ってはいるものの、現実が伴なわない。外部からは窺い知れない部分が少なくないけれども、おそらくは見た目以上に深刻な状況だろう。

であれば、理想の組織はどこにもないことになる。つまり、ポリ銀氏はナイモノネダリをしているだけなのだ。

わたくしの思うに、自分の置かれた状況の中でベストを尽くす、それしかないのだ。先日の増税の話を思い出してほしい。政府はズルイ。財政が苦しいから増税やむなしと言う。ところがわれわれ一般人は家計が苦しくても収入を増やす術がない。ようは今あるお金で何とかヤリクリしなけければいけないのだ。

まったく同じ話だと思う。ナイモノネダリをしても仕方がない。自分の置かれた状況の中でやれることをやる、また逆に、やりたくないならやらなきゃいい、それだけの話なのだ。


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