2012/9/30
秋の宿題
まずはのび太氏にお返事申し上げたい。
浅井先生は以前に青森の会合で原発の必要性を説いていましたよね。
去年の3.11以降、彼は声高に反原発を叫んだんですよね。
それ以前の発言や行動に対する総括は無く、むしろ昔から反原発を言っていたようなパフォーマンス!?
世の中では、こいう人を称して『インチキ』と呼ぶのです。 (笑)
明らかに誤解している部分がある。昔から反原発を言っていたようなパフォーマンス・・・だ。これはまったくの誤解である。おそらくは漠然とした印象でそのように思い込んでしまっているのだろう。
それ以前の発言や行動に対する総括は無く・・・
これは確かに言えることだが、しかし、その絶対的必要性はないと思う。むしろ客観的には、単なるアラサガシ、重箱の隅を突付いているだけ、そんな感じだと思う。
極端な例を挙げれば、今まで曼荼羅本尊を掲げていた宗派がいきなり釈迦像に切り替えたとする。これは説明責任が問われるだろう。
ようは重要度の問題だ。
すると、遥か昔の質問会における一つの回答に過ぎない原発容認発言を取り上げて、今さら自語相違だの何だのと騒ぎ立てることがいかに大袈裟であるか、ということになる。ましてやインチキは言い過ぎであろう。
ただし、水掛け論をやっても仕方がないので、一つだけ付け加えておこう。
実現の見込みはないけれども、記者会見の場を設けてそこで質問をするのだ。過去の発言についてである。さて、どう答えるか、そこが問題だ。わたくしは素直に答えればいいと思う。当時は不勉強だった。愚かにも安全神話に乗っかってしまっていた。昨年の大震災で原発の危険性がよくわかった。ゆえに今は断固反対である。
これで問題ないだろう。
さて、次は高速太郎氏だ。
「違う選択肢を選んだ」理由を、大聖人様の仏教で捉えた上で、その選択肢を教えて頂ければ、私としては、嬉しかったのですが。
自殺以外の選択肢について、大聖人の御指南を基に論ぜよ、という意味だと理解した。
単純に言えば、生きることだ。自殺はよくない。もう一つの選択肢は他殺? しかし、それよりは生きるという選択肢だろう。
大聖人の念仏宗批判の一つに善導の自殺がある。柳の木に縄をかけて首を吊ったという話だ。よく知らないが、今はこの事実関係に疑義があるらしく、正宗では念仏破折のためにこれを使うことはないそうである。
それはともかく、大聖人の御考えは明瞭だ。自殺はよくないのだ。
いわゆる法華経の精神であるところの不惜身命は自殺を意味しない。あえて言うならば他殺である。小松原法難や熱原法難、これらはまさに他殺である。
以上、自殺がダメなのはもちろんのこと、不惜身命といえども命を粗末にしてはいけない、なるべくならば死を回避するのが理想、というのが大聖人の御考えであろうと思う。
不登校や退学、出社拒否や退社、これらは物凄く不本意なことなのかもしれないが、自殺よりは遥かにマシなのではないか、生きていればリベンジの可能性があるけれども、死んだら不可能、このようにわたくしは思うのだ。
さて、もう一つ宿題があった。
厳虎さんの記事の中に以下の文がある。
>仏教はもともと自然科学的な意味での齟齬が存在しない。
なぜ、この様に断言出来るのだろう。
仏教は、生命の内側(幸、不幸の三世の因果)を説いた法だから、物事の現象面を捉える自然科学とは、一線を画していると云うことか。
若しくは、一念三千には、自然界を始め宇宙の森羅万象の法則が含まれており、それを説いている法だから、齟齬は生じないと云うことなのだろうか?
はたして、そうだろうか。
ならば、一閻浮提とは、全て包括した宇宙全体と云うことに成りはしないだろうか。
◇厳虎さんに、真意を教えて頂ければ幸甚です。
ひじょうに面倒臭い。なぜならば高速太郎氏の考えが明確ではないからだ。ようするに、仏教は自然科学と齟齬するのか否か、これについての氏の考えがはっきりしていないのだ。
つまり、対立軸が明確ではないので、いわゆる議論を戦わせることができないのだ。
仏教は、生命の内側(幸、不幸の三世の因果)を説いた法だから、物事の現象面を捉える自然科学とは、一線を画している・・・
しかしながら、部分的にはひじょうに鋭いことを書いておられるわけで、具体的には上掲がそれである。わたくしは次の御文が当てはまると思う。
仏、地神に汝大地より重きものありやと問ひ給ひしかば、地神敬んで申さく、大地より重き物候と申す。仏の曰く、いかに地神偏頗をば申すぞ・・・
地神は地球を動かしている神だとしよう。すると、この時点ですでに自然科学者と相容れないことになりそうだ。そんな神がいるわけがないと。
それはともかく、仏は地神に聞いた。大地より重いものがあるのかと。上掲では省略してしまったが、端折って言えば人間のほうが重たいのだと、こう地神は答えるのだ。
この点では仏のほうが自然科学者の考えに近い。ようするに、人間なんてちっぽけなものだ、大地のほうが重いに決まっている、ということなのだ。
おわかりいただけるだろう。いわゆる質量としては大地のほうが圧倒的に重い。そんなことは誰だってわかることだ。つまり、当該御文の言わんとしていることは、そうした自然科学とは一線を画する話なのだ。
ここまで理解できれば、自然科学者といえども地神の存在がどうであれ、仏が説かんとしていることにはそれなりの意味がある、価値がある、という点は認めざるを得ないだろうと思う。
若しくは、一念三千には、自然界を始め宇宙の森羅万象の法則が含まれており、それを説いている法だから、齟齬は生じない・・・
地神の存在を科学的に証明するのは困難であるが、いわゆる概念的にはすでに充分に証明されているのではないかと思う。
夫一心に十法界を具す。
本尊抄の冒頭である。前掲の高速太郎氏の文章をさらに縮めれば、まさにこの御文に突き当たるのではないかと思う。そして本尊抄にはいわゆる観門の難信難解が説かれている。
不審して云はく、非情に十如是亘らば草木に心有って有情の如く成仏を為すべきや如何。
草木だけではない。
一草・一木・一礫・一塵、各一仏性・各一因果あり
これだ。概念的には証明されている、と書いたのは、これがためである。
いや、もちろん、わたくしは信仰者であるから、ある意味では手前味噌の論理に陥っている部分が無きにしも非ずだろう。ゆえに、客観的にはぜんぜん証明になっていないのかもしれないが、まあ、それは読者の批判を待つことにしたい。
一閻浮提とは、全て包括した宇宙全体・・・
ここでわたくしはつまづくことになる。高速太郎氏が何を考えておられるのか、さっぱりわからなくなるのだ。以前にも説明したはずだが、一閻浮提は宇宙ではなく、たぶん地球のことである。それもさることながら、何をおっしゃりたいのか、その全体の文脈がわからないのだ。
浅井先生は以前に青森の会合で原発の必要性を説いていましたよね。
去年の3.11以降、彼は声高に反原発を叫んだんですよね。
それ以前の発言や行動に対する総括は無く、むしろ昔から反原発を言っていたようなパフォーマンス!?
世の中では、こいう人を称して『インチキ』と呼ぶのです。 (笑)
明らかに誤解している部分がある。昔から反原発を言っていたようなパフォーマンス・・・だ。これはまったくの誤解である。おそらくは漠然とした印象でそのように思い込んでしまっているのだろう。
それ以前の発言や行動に対する総括は無く・・・
これは確かに言えることだが、しかし、その絶対的必要性はないと思う。むしろ客観的には、単なるアラサガシ、重箱の隅を突付いているだけ、そんな感じだと思う。
極端な例を挙げれば、今まで曼荼羅本尊を掲げていた宗派がいきなり釈迦像に切り替えたとする。これは説明責任が問われるだろう。
ようは重要度の問題だ。
すると、遥か昔の質問会における一つの回答に過ぎない原発容認発言を取り上げて、今さら自語相違だの何だのと騒ぎ立てることがいかに大袈裟であるか、ということになる。ましてやインチキは言い過ぎであろう。
ただし、水掛け論をやっても仕方がないので、一つだけ付け加えておこう。
実現の見込みはないけれども、記者会見の場を設けてそこで質問をするのだ。過去の発言についてである。さて、どう答えるか、そこが問題だ。わたくしは素直に答えればいいと思う。当時は不勉強だった。愚かにも安全神話に乗っかってしまっていた。昨年の大震災で原発の危険性がよくわかった。ゆえに今は断固反対である。
これで問題ないだろう。
さて、次は高速太郎氏だ。
「違う選択肢を選んだ」理由を、大聖人様の仏教で捉えた上で、その選択肢を教えて頂ければ、私としては、嬉しかったのですが。
自殺以外の選択肢について、大聖人の御指南を基に論ぜよ、という意味だと理解した。
単純に言えば、生きることだ。自殺はよくない。もう一つの選択肢は他殺? しかし、それよりは生きるという選択肢だろう。
大聖人の念仏宗批判の一つに善導の自殺がある。柳の木に縄をかけて首を吊ったという話だ。よく知らないが、今はこの事実関係に疑義があるらしく、正宗では念仏破折のためにこれを使うことはないそうである。
それはともかく、大聖人の御考えは明瞭だ。自殺はよくないのだ。
いわゆる法華経の精神であるところの不惜身命は自殺を意味しない。あえて言うならば他殺である。小松原法難や熱原法難、これらはまさに他殺である。
以上、自殺がダメなのはもちろんのこと、不惜身命といえども命を粗末にしてはいけない、なるべくならば死を回避するのが理想、というのが大聖人の御考えであろうと思う。
不登校や退学、出社拒否や退社、これらは物凄く不本意なことなのかもしれないが、自殺よりは遥かにマシなのではないか、生きていればリベンジの可能性があるけれども、死んだら不可能、このようにわたくしは思うのだ。
さて、もう一つ宿題があった。
厳虎さんの記事の中に以下の文がある。
>仏教はもともと自然科学的な意味での齟齬が存在しない。
なぜ、この様に断言出来るのだろう。
仏教は、生命の内側(幸、不幸の三世の因果)を説いた法だから、物事の現象面を捉える自然科学とは、一線を画していると云うことか。
若しくは、一念三千には、自然界を始め宇宙の森羅万象の法則が含まれており、それを説いている法だから、齟齬は生じないと云うことなのだろうか?
はたして、そうだろうか。
ならば、一閻浮提とは、全て包括した宇宙全体と云うことに成りはしないだろうか。
◇厳虎さんに、真意を教えて頂ければ幸甚です。
ひじょうに面倒臭い。なぜならば高速太郎氏の考えが明確ではないからだ。ようするに、仏教は自然科学と齟齬するのか否か、これについての氏の考えがはっきりしていないのだ。
つまり、対立軸が明確ではないので、いわゆる議論を戦わせることができないのだ。
仏教は、生命の内側(幸、不幸の三世の因果)を説いた法だから、物事の現象面を捉える自然科学とは、一線を画している・・・
しかしながら、部分的にはひじょうに鋭いことを書いておられるわけで、具体的には上掲がそれである。わたくしは次の御文が当てはまると思う。
仏、地神に汝大地より重きものありやと問ひ給ひしかば、地神敬んで申さく、大地より重き物候と申す。仏の曰く、いかに地神偏頗をば申すぞ・・・
地神は地球を動かしている神だとしよう。すると、この時点ですでに自然科学者と相容れないことになりそうだ。そんな神がいるわけがないと。
それはともかく、仏は地神に聞いた。大地より重いものがあるのかと。上掲では省略してしまったが、端折って言えば人間のほうが重たいのだと、こう地神は答えるのだ。
この点では仏のほうが自然科学者の考えに近い。ようするに、人間なんてちっぽけなものだ、大地のほうが重いに決まっている、ということなのだ。
おわかりいただけるだろう。いわゆる質量としては大地のほうが圧倒的に重い。そんなことは誰だってわかることだ。つまり、当該御文の言わんとしていることは、そうした自然科学とは一線を画する話なのだ。
ここまで理解できれば、自然科学者といえども地神の存在がどうであれ、仏が説かんとしていることにはそれなりの意味がある、価値がある、という点は認めざるを得ないだろうと思う。
若しくは、一念三千には、自然界を始め宇宙の森羅万象の法則が含まれており、それを説いている法だから、齟齬は生じない・・・
地神の存在を科学的に証明するのは困難であるが、いわゆる概念的にはすでに充分に証明されているのではないかと思う。
夫一心に十法界を具す。
本尊抄の冒頭である。前掲の高速太郎氏の文章をさらに縮めれば、まさにこの御文に突き当たるのではないかと思う。そして本尊抄にはいわゆる観門の難信難解が説かれている。
不審して云はく、非情に十如是亘らば草木に心有って有情の如く成仏を為すべきや如何。
草木だけではない。
一草・一木・一礫・一塵、各一仏性・各一因果あり
これだ。概念的には証明されている、と書いたのは、これがためである。
いや、もちろん、わたくしは信仰者であるから、ある意味では手前味噌の論理に陥っている部分が無きにしも非ずだろう。ゆえに、客観的にはぜんぜん証明になっていないのかもしれないが、まあ、それは読者の批判を待つことにしたい。
一閻浮提とは、全て包括した宇宙全体・・・
ここでわたくしはつまづくことになる。高速太郎氏が何を考えておられるのか、さっぱりわからなくなるのだ。以前にも説明したはずだが、一閻浮提は宇宙ではなく、たぶん地球のことである。それもさることながら、何をおっしゃりたいのか、その全体の文脈がわからないのだ。
2012/9/29
宿題の秋
更新をサボっていたら宿題が溜まってしまった。
まず、特筆すべきは瑠璃堂氏である。ブログの再開と同時にツイッターを始めたとのことだ。再び氏のご高説を伺えることは何よりの慶賀であるが、しかしながらツイッターには恐れ入った。現状ではついて行けない。ようするに、スピードについて行けないのだ。
何しろ拙ブログは週に数回の更新が限度である。もはやこれ以上のスピードアップは不可能だ。ゆえにツイッターなるものが流行っているのは承知しているが、わたくしのようなノロマには使いこなせないツールである。
そういうわけで、婦人部大会の話題にしても、わたくしの場合は顕正新聞の出来を待ってから書くつもりだ。
私なんか、楽しんで遠方の大会に参加したものですが、今の大会は随分と変わったのですね。それとも婦人部だけ?
さて、ユタ氏のコメントであるが、これはやや見当違いのような気がする。どちらかと言うと、ユタ氏の感覚が独特なのだろう。楽しんで遠方の大会に参加するという感覚は、顕正会の活動そのものを心底楽しんでいる人くらいのもので、それ以外の人はメンドウクサイだとかカッタルイだとか思うのが普通ではないかと思う。
もっとも、こういうことを書くから、バーズ氏に叱られるのだろう。
巌虎さんの最大の弱点は、顕正会の“現場”を知らないということです。
巌虎さんが知っている顕正会は“昔の顕正会”なのです。キツイ言い方をすれば、時代遅れ。
さらに提案として、五万人の男子部大会に参加せよ、とのことだ。
ようするに、これがメンドウクサイし、カッタルイのだ。バーズ氏の言わんとしていることは、認識せずして評価することなかれ、ということなのだろうけれども、わたくしは顕正新聞を通して評価を行なっているわけだ。ゆえに今の顕正会を知らないわけではない。顕正新聞を通して今の顕正会を見ているからである。
しかし、突っ込みの鋭いバーズ氏であれば、必ず言うに違いない。だったら顕正新聞のどこに、這ってでも来い、と書かれているのか、と。
早い話が、顕正新聞はキレイ事を書いているけれども現実は違う、というのが前回の拙稿だった。それにもかかわらず今回は顕正新聞を通して云々と書いている。当然、バーズ氏ならばこの矛盾を見逃さないだろう。だったら顕正新聞そのものから、這ってでも来い、を出すべきである。
まったくだ。
さて、読者がどのような感想を持つか、そこが興味深い。巌虎はまるで独りで墓穴を掘っているような文章を書いている。このように見えて当然だろう。
しかし、話はわりと単純なのである。
そもそもが婦人部大会の話だった。婦人部である。男子部や壮年部ならいざ知らず、婦人部ないし女子部において、這ってでも来い、などというセリフが飛び出すことは考え難いことだ。今も昔もである。
では、なぜにそのような乱暴な言葉を持ち出したのか?
つまり、これは一種のデフォルメなのである。
昨今はイジメによる自殺が社会問題化している。あるいは過労死だとか過労自殺もある。わたくしは思うのだ。自殺以外の選択肢はなかったのか、わたくしだったら違う選択肢を選んだはずであると。
小中学生であれば、不登校でいい。高校大学であれば、退学でもいいだろう。過労死・過労自殺の場合、仕事をサボっちゃえばいいのだ。それがダメなら仕事を辞めちゃえばいいのだ。
ひじょうに難しい問題ではある。やめちゃえばいいと、口で言うのは簡単だが、実際はメチャクチャ大変なことだ。
ただ、ここで言えることは、我々には共通の価値観があって、不登校だとか退学だとか、出社拒否だとか退社だとか、これらは総じてよろしくないものだという考え方があることだ。ゆえに悩み苦しむことになる。
さて、ここで顕正会に話を転じよう。
実は、這ってでも来い、というセリフはそれほど特殊なものではなく、社会全般における共通の価値観なのだ。これを逆の立場というか、本人の立場から言えば、這ってでも行かなければ、という責任感にも通じることになる。
すると、婦人部幹部の口から、そうした過激なセリフが出ようが出まいが、熱心に参加を呼び掛けられ、その上で約束をしてしまったとなれば、這ってでも行かなきゃ、という気持ちになって当然である。
結局のところ、広宣流布の大使命があって、地涌の菩薩の自覚であるとか、月々の折伏誓願だとか、集会の結集目標だとか、そうしたものが悉く本部主導で行なわれているという実態がある。
いわば、これを象徴的に表現したものが、這ってでも来い、なのだ。
以上、わたくしが現場を知らないのは事実であるが、さりとて顕正会の構造的な問題を指摘するにさしたる不自由はなく、それほど的外れなことを言っているとはとうてい思えない。
私も支隊長・副長時代は立替だけで100万円以上納めていますから・・・・・
のぶし氏はずいぶん前にもお越し下さったことがある。それはともかく、上掲は衝撃的だ。貴重な証言だと思う。
私は自分に正直であることが大切だと思い、相手が隊長だろうが誰であろうが遠慮なく正論をぶつけました。
再びバーズ氏のコメントである。う〜ん、やっぱりね、という感じだ。氏は骨のある人物だ。法華講員を蹴散らす(?)のも朝飯前だし、いわば百戦錬磨なのだろう。文章に余裕が感じられるゆえんである。
浅井先生のインチキ反原発は、いらねぇ〜!!!
のび太氏の本日未明のコメントだ。
さすがにインチキ反原発は言い過ぎだろう。確かに昔から言っていた人たちは立派である。さりとて後発がダメなわけではない。顕正会は現時点で反原発を表明している。これ自体が価値のあることなのだ。
最後になったが、高速太郎氏のコメントが厄介だ。これはどうしよう、ひじょうに面倒臭いので、とりあえず保留としたい。
まず、特筆すべきは瑠璃堂氏である。ブログの再開と同時にツイッターを始めたとのことだ。再び氏のご高説を伺えることは何よりの慶賀であるが、しかしながらツイッターには恐れ入った。現状ではついて行けない。ようするに、スピードについて行けないのだ。
何しろ拙ブログは週に数回の更新が限度である。もはやこれ以上のスピードアップは不可能だ。ゆえにツイッターなるものが流行っているのは承知しているが、わたくしのようなノロマには使いこなせないツールである。
そういうわけで、婦人部大会の話題にしても、わたくしの場合は顕正新聞の出来を待ってから書くつもりだ。
私なんか、楽しんで遠方の大会に参加したものですが、今の大会は随分と変わったのですね。それとも婦人部だけ?
さて、ユタ氏のコメントであるが、これはやや見当違いのような気がする。どちらかと言うと、ユタ氏の感覚が独特なのだろう。楽しんで遠方の大会に参加するという感覚は、顕正会の活動そのものを心底楽しんでいる人くらいのもので、それ以外の人はメンドウクサイだとかカッタルイだとか思うのが普通ではないかと思う。
もっとも、こういうことを書くから、バーズ氏に叱られるのだろう。
巌虎さんの最大の弱点は、顕正会の“現場”を知らないということです。
巌虎さんが知っている顕正会は“昔の顕正会”なのです。キツイ言い方をすれば、時代遅れ。
さらに提案として、五万人の男子部大会に参加せよ、とのことだ。
ようするに、これがメンドウクサイし、カッタルイのだ。バーズ氏の言わんとしていることは、認識せずして評価することなかれ、ということなのだろうけれども、わたくしは顕正新聞を通して評価を行なっているわけだ。ゆえに今の顕正会を知らないわけではない。顕正新聞を通して今の顕正会を見ているからである。
しかし、突っ込みの鋭いバーズ氏であれば、必ず言うに違いない。だったら顕正新聞のどこに、這ってでも来い、と書かれているのか、と。
早い話が、顕正新聞はキレイ事を書いているけれども現実は違う、というのが前回の拙稿だった。それにもかかわらず今回は顕正新聞を通して云々と書いている。当然、バーズ氏ならばこの矛盾を見逃さないだろう。だったら顕正新聞そのものから、這ってでも来い、を出すべきである。
まったくだ。
さて、読者がどのような感想を持つか、そこが興味深い。巌虎はまるで独りで墓穴を掘っているような文章を書いている。このように見えて当然だろう。
しかし、話はわりと単純なのである。
そもそもが婦人部大会の話だった。婦人部である。男子部や壮年部ならいざ知らず、婦人部ないし女子部において、這ってでも来い、などというセリフが飛び出すことは考え難いことだ。今も昔もである。
では、なぜにそのような乱暴な言葉を持ち出したのか?
つまり、これは一種のデフォルメなのである。
昨今はイジメによる自殺が社会問題化している。あるいは過労死だとか過労自殺もある。わたくしは思うのだ。自殺以外の選択肢はなかったのか、わたくしだったら違う選択肢を選んだはずであると。
小中学生であれば、不登校でいい。高校大学であれば、退学でもいいだろう。過労死・過労自殺の場合、仕事をサボっちゃえばいいのだ。それがダメなら仕事を辞めちゃえばいいのだ。
ひじょうに難しい問題ではある。やめちゃえばいいと、口で言うのは簡単だが、実際はメチャクチャ大変なことだ。
ただ、ここで言えることは、我々には共通の価値観があって、不登校だとか退学だとか、出社拒否だとか退社だとか、これらは総じてよろしくないものだという考え方があることだ。ゆえに悩み苦しむことになる。
さて、ここで顕正会に話を転じよう。
実は、這ってでも来い、というセリフはそれほど特殊なものではなく、社会全般における共通の価値観なのだ。これを逆の立場というか、本人の立場から言えば、這ってでも行かなければ、という責任感にも通じることになる。
すると、婦人部幹部の口から、そうした過激なセリフが出ようが出まいが、熱心に参加を呼び掛けられ、その上で約束をしてしまったとなれば、這ってでも行かなきゃ、という気持ちになって当然である。
結局のところ、広宣流布の大使命があって、地涌の菩薩の自覚であるとか、月々の折伏誓願だとか、集会の結集目標だとか、そうしたものが悉く本部主導で行なわれているという実態がある。
いわば、これを象徴的に表現したものが、這ってでも来い、なのだ。
以上、わたくしが現場を知らないのは事実であるが、さりとて顕正会の構造的な問題を指摘するにさしたる不自由はなく、それほど的外れなことを言っているとはとうてい思えない。
私も支隊長・副長時代は立替だけで100万円以上納めていますから・・・・・
のぶし氏はずいぶん前にもお越し下さったことがある。それはともかく、上掲は衝撃的だ。貴重な証言だと思う。
私は自分に正直であることが大切だと思い、相手が隊長だろうが誰であろうが遠慮なく正論をぶつけました。
再びバーズ氏のコメントである。う〜ん、やっぱりね、という感じだ。氏は骨のある人物だ。法華講員を蹴散らす(?)のも朝飯前だし、いわば百戦錬磨なのだろう。文章に余裕が感じられるゆえんである。
浅井先生のインチキ反原発は、いらねぇ〜!!!
のび太氏の本日未明のコメントだ。
さすがにインチキ反原発は言い過ぎだろう。確かに昔から言っていた人たちは立派である。さりとて後発がダメなわけではない。顕正会は現時点で反原発を表明している。これ自体が価値のあることなのだ。
最後になったが、高速太郎氏のコメントが厄介だ。これはどうしよう、ひじょうに面倒臭いので、とりあえず保留としたい。
2012/9/22
秋近し
顕正新聞第1252号の残りを片付けてしまおう。
婦人部大会についての諸注意
きわめて常識的なことが書かれている。たとえば、病気・体調不良の場合は参加を強行しないこと、とある。一般人ならば、そんなの当たり前じゃないか、と思うだろう。しかし、顕正会の場合は違うのだ。
活動会員たちにはノルマがある。月に折伏を何名やるとか、そういう目標が設定されるのだ。いわゆる成果主義である。
同様に、各種の集会には結集目標がある。婦人部大会の場合は全体で二万人の結集を謳っているので、当然ながら、活動会員たちにはそれぞれの実力に応じて数字が割り当てられるのだ。
意地悪く言えば、ダブルスタンダードである。
つまり、顕正新聞では常識的な注意事項を書き並べているわけだが、実際には結集のために相当の無理を強いている。病気だろうが体調不良だろうが欠席してはならない、這ってでも来い、ということなのだ。
意地悪く言えば上述のごとくであるが、もちろん、善意に捉えることもできる。
つまり、活動会員たちの暴走を食い止めるためには本部が明確な指針を打ち出す必要がある、ということだ。
実際、本当に具合が悪い場合だとか、もともと病気で体力的に自信がない人もいる。けれども約束した以上は行かなきゃならんと覚悟を決めている人は、まさに這ってでも行くことだろう。しかし、それで万一にも死んでしまったならば、大事件である。その意味で顕正新聞紙上において明確に指針を示すことには大きな意義がある。ようするに不参加の口実というか正当性を、本部が認めることになる。いわば本部のお墨付きを貰えるわけだ。これならば活動会員たちの暴走に歯止めが掛かる。
自己責任という言葉がある。
たとえば遊園地に遊びに行く。そこで病気になったとしても、それは事故自己責任である。
顕正新聞掲載の注意事項の意味は、この自己責任の意味も含んでいる。婦人部大会に行って、そこで病気になったとしても、それは自己責任なのだ。体調不良の場合は来なくてよいと謳っているわけだから、ここで本部の責任が問われることはなくなるわけだ。
これも意地悪く言えば、責任逃れの一手法となるわけだが、しかし、これはきわめて常識的であって、それほど特殊なことではない。どこの組織も同じことを謳っているからだ。
いずれにしても活動会員たちが熱心に参加を呼び掛けるという実態があり、その背後には自ずと本部の存在がある。つまり、本部がそのように仕向けていることも事実なのだ。この辺が責任問題の複雑さなのだろう。もちろん、それは問題が発生した場合のことであって、無事故で終わればそれでいいのだ。
なんと父の死因である狭心症は、父が原発誘致の仕事に関係したからであると、思わぬことを言ってきたのです。
さて、今度は男子部支隊長の活動報告だ。
この人は入信してから三十年になるという。年齢的にも壮年部系の男子部員であろう。このたび母親を入信させることができた。三十年間の逆縁を乗り越えてだ。ある意味、老いては子に従え、そのままであってそれほど不思議なことではないのかもしれない。先年、父が亡くなった。残った母にしてみれば、息子がどれほど頼もしい存在かと、感ずるものがあったに違いないのだ。ゆえに母の入信そのものよりも、むしろ三十年間も退転せずに顕正会員で居続けたことのほうが特筆すべき事柄なのかもしれないと思う。
それはさておき、上掲の話だ。
わたくしはうっかり読み間違えるところだった。あたかも放射能の影響で狭心症になったかのごとく読めてしまうのだ。しかし、話はぜんぜん違った。
この人の父親は福井県庁の職員だった。つまり、原発推進側の人なのだ。ゆえに職務として地元の原発反対の人たちを説得する役目を担っていた。反対派の人たちを説得するのは至難の業であり、ために心労・ストレスを溜め込んできた。往いてはそれが狭心症の原因となったらしい。
やや疑問である。
いや、狭心症の原因のことではない。顕正会における反原発との整合性に疑問を感ずるのだ。
顕正会は反原発を主張している。ここ一年ばかりは原発関連の話題を頻繁に取り上げている。放射能の危険性についてもかなり詳しく論じている。ゆえにわたくしは上掲を読み間違えそうになった。放射能が原因で狭心症になったかのようにだ。しかし、違った。早い話がストレスが原因なのだ。ここがまさに疑問である。
ようするにストレスが原因の病気はたくさんある。そしてストレスそのものにしてもさまざまの種類がある。原発誘致の仕事がストレスになったのはそのとおりかもしれないが、何もそれだけがストレスなのではない。世の中にはストレスがたくさんあるのだ。
つまり、この人の論理は短絡的であって、まるで説得力がない。あくまで情緒的なことを言っているだけであって、論理的には原発がダメという話にはならないのだ。
せっかくなので原発関連の話題を続けよう。
燃料費増大も自作自演だった!
原発メーカーのGEまで「脱原発」表明
当該号には原発関連のコラムが二つあって、いずれも有意義だった。
上段の記事は東電が子会社から燃料を九倍の値段で購入していたという話である。ヒドイ話だ。普通の会社にはマネのできないことである。本来、商売は安い値段で仕入れて、高い値段で売るものだ。しかし、今は低価格競争の時代なので、高い値段では売れない。すると儲けを出すためにはひたすらコスト削減に努めるしかない。当然、仕入れの値段も下げる以外にない。
それが上掲のごとく、九倍で購入なのだ。しかも子会社から購入という。これが何ともイヤらしい。
そもそもなぜにこのようなことが可能なのか、それは独占企業だからである。電力会社が複数あって、われわれに選択権があれば、話が変わってくる。いわゆる競争原理が働くので、東電も馬鹿なマネはできない。今は競争がないので東電が好き勝手な言い値を付けて、われわれに押し付けているのだ。今月から電気料金が上がったことも、まさに象徴的な出来事である。
もう一つの記事はアメリカの原子炉メーカーが脱原発を宣言したとのことである。この事実関係についてはもう少し見守る必要があるけれども、少なくとも日本よりアメリカのほうが自由な国だとは言えるだろう。自由に発言できること。自由競争の原理が働いていること。
ようするに、ガス火力のほうが遥かに経済的であり、原発には勝ち目がない、と言っているわけだ。
日本だって同じ理屈のはずであるが、なぜかいつまでも原発にしがみ付こうとしている人たちがいて、その力は強大である。実に不思議なことだ。すると、やはりエネルギー問題とは違った側面があるのだろうか?
最後にもう一つ紹介して終わりにしよう。
「このような野田政権は遠からず崩壊する」
との先生の仰せを第三十六区一同は身に体し、福井会館建立までに北陸全十四基の原発を廃炉へと持ち込む戦いを、巻き起こしてまいります。
三十六区長の大言壮語である。福井会館がいつ完成するか知らないが、現状では廃炉の道のりは遠い。いや、もちろん、その心意気は立派であり、決して侮るべきものではないが、しかし、もっと現実を見据えてものを言うべきだろう。
建立・・・
この言葉が気になった。いつ頃からだろうか、うっかり見落としていたが、最近は会館建立という表現が目立つようになった。普通、建立は寺院に用いる言葉である。
九月二十九日追記:アホな間違いをした。ダメだこりゃ。
婦人部大会についての諸注意
きわめて常識的なことが書かれている。たとえば、病気・体調不良の場合は参加を強行しないこと、とある。一般人ならば、そんなの当たり前じゃないか、と思うだろう。しかし、顕正会の場合は違うのだ。
活動会員たちにはノルマがある。月に折伏を何名やるとか、そういう目標が設定されるのだ。いわゆる成果主義である。
同様に、各種の集会には結集目標がある。婦人部大会の場合は全体で二万人の結集を謳っているので、当然ながら、活動会員たちにはそれぞれの実力に応じて数字が割り当てられるのだ。
意地悪く言えば、ダブルスタンダードである。
つまり、顕正新聞では常識的な注意事項を書き並べているわけだが、実際には結集のために相当の無理を強いている。病気だろうが体調不良だろうが欠席してはならない、這ってでも来い、ということなのだ。
意地悪く言えば上述のごとくであるが、もちろん、善意に捉えることもできる。
つまり、活動会員たちの暴走を食い止めるためには本部が明確な指針を打ち出す必要がある、ということだ。
実際、本当に具合が悪い場合だとか、もともと病気で体力的に自信がない人もいる。けれども約束した以上は行かなきゃならんと覚悟を決めている人は、まさに這ってでも行くことだろう。しかし、それで万一にも死んでしまったならば、大事件である。その意味で顕正新聞紙上において明確に指針を示すことには大きな意義がある。ようするに不参加の口実というか正当性を、本部が認めることになる。いわば本部のお墨付きを貰えるわけだ。これならば活動会員たちの暴走に歯止めが掛かる。
自己責任という言葉がある。
たとえば遊園地に遊びに行く。そこで病気になったとしても、それは事故自己責任である。
顕正新聞掲載の注意事項の意味は、この自己責任の意味も含んでいる。婦人部大会に行って、そこで病気になったとしても、それは自己責任なのだ。体調不良の場合は来なくてよいと謳っているわけだから、ここで本部の責任が問われることはなくなるわけだ。
これも意地悪く言えば、責任逃れの一手法となるわけだが、しかし、これはきわめて常識的であって、それほど特殊なことではない。どこの組織も同じことを謳っているからだ。
いずれにしても活動会員たちが熱心に参加を呼び掛けるという実態があり、その背後には自ずと本部の存在がある。つまり、本部がそのように仕向けていることも事実なのだ。この辺が責任問題の複雑さなのだろう。もちろん、それは問題が発生した場合のことであって、無事故で終わればそれでいいのだ。
なんと父の死因である狭心症は、父が原発誘致の仕事に関係したからであると、思わぬことを言ってきたのです。
さて、今度は男子部支隊長の活動報告だ。
この人は入信してから三十年になるという。年齢的にも壮年部系の男子部員であろう。このたび母親を入信させることができた。三十年間の逆縁を乗り越えてだ。ある意味、老いては子に従え、そのままであってそれほど不思議なことではないのかもしれない。先年、父が亡くなった。残った母にしてみれば、息子がどれほど頼もしい存在かと、感ずるものがあったに違いないのだ。ゆえに母の入信そのものよりも、むしろ三十年間も退転せずに顕正会員で居続けたことのほうが特筆すべき事柄なのかもしれないと思う。
それはさておき、上掲の話だ。
わたくしはうっかり読み間違えるところだった。あたかも放射能の影響で狭心症になったかのごとく読めてしまうのだ。しかし、話はぜんぜん違った。
この人の父親は福井県庁の職員だった。つまり、原発推進側の人なのだ。ゆえに職務として地元の原発反対の人たちを説得する役目を担っていた。反対派の人たちを説得するのは至難の業であり、ために心労・ストレスを溜め込んできた。往いてはそれが狭心症の原因となったらしい。
やや疑問である。
いや、狭心症の原因のことではない。顕正会における反原発との整合性に疑問を感ずるのだ。
顕正会は反原発を主張している。ここ一年ばかりは原発関連の話題を頻繁に取り上げている。放射能の危険性についてもかなり詳しく論じている。ゆえにわたくしは上掲を読み間違えそうになった。放射能が原因で狭心症になったかのようにだ。しかし、違った。早い話がストレスが原因なのだ。ここがまさに疑問である。
ようするにストレスが原因の病気はたくさんある。そしてストレスそのものにしてもさまざまの種類がある。原発誘致の仕事がストレスになったのはそのとおりかもしれないが、何もそれだけがストレスなのではない。世の中にはストレスがたくさんあるのだ。
つまり、この人の論理は短絡的であって、まるで説得力がない。あくまで情緒的なことを言っているだけであって、論理的には原発がダメという話にはならないのだ。
せっかくなので原発関連の話題を続けよう。
燃料費増大も自作自演だった!
原発メーカーのGEまで「脱原発」表明
当該号には原発関連のコラムが二つあって、いずれも有意義だった。
上段の記事は東電が子会社から燃料を九倍の値段で購入していたという話である。ヒドイ話だ。普通の会社にはマネのできないことである。本来、商売は安い値段で仕入れて、高い値段で売るものだ。しかし、今は低価格競争の時代なので、高い値段では売れない。すると儲けを出すためにはひたすらコスト削減に努めるしかない。当然、仕入れの値段も下げる以外にない。
それが上掲のごとく、九倍で購入なのだ。しかも子会社から購入という。これが何ともイヤらしい。
そもそもなぜにこのようなことが可能なのか、それは独占企業だからである。電力会社が複数あって、われわれに選択権があれば、話が変わってくる。いわゆる競争原理が働くので、東電も馬鹿なマネはできない。今は競争がないので東電が好き勝手な言い値を付けて、われわれに押し付けているのだ。今月から電気料金が上がったことも、まさに象徴的な出来事である。
もう一つの記事はアメリカの原子炉メーカーが脱原発を宣言したとのことである。この事実関係についてはもう少し見守る必要があるけれども、少なくとも日本よりアメリカのほうが自由な国だとは言えるだろう。自由に発言できること。自由競争の原理が働いていること。
ようするに、ガス火力のほうが遥かに経済的であり、原発には勝ち目がない、と言っているわけだ。
日本だって同じ理屈のはずであるが、なぜかいつまでも原発にしがみ付こうとしている人たちがいて、その力は強大である。実に不思議なことだ。すると、やはりエネルギー問題とは違った側面があるのだろうか?
最後にもう一つ紹介して終わりにしよう。
「このような野田政権は遠からず崩壊する」
との先生の仰せを第三十六区一同は身に体し、福井会館建立までに北陸全十四基の原発を廃炉へと持ち込む戦いを、巻き起こしてまいります。
三十六区長の大言壮語である。福井会館がいつ完成するか知らないが、現状では廃炉の道のりは遠い。いや、もちろん、その心意気は立派であり、決して侮るべきものではないが、しかし、もっと現実を見据えてものを言うべきだろう。
建立・・・
この言葉が気になった。いつ頃からだろうか、うっかり見落としていたが、最近は会館建立という表現が目立つようになった。普通、建立は寺院に用いる言葉である。
九月二十九日追記:アホな間違いをした。ダメだこりゃ。
2012/9/19
当たらないジンクス
ユタ氏よりコメントを頂戴しているが、今日は予定通り顕正新聞の話題を書こう。
宗門への「建白書」朗読に満場 衝撃
第1252号の一面の見出しの一つである。
ちなみに当該号は九月五日号であり、次の新聞は十五日・二十五日合併号である。わたくしの感想を一言で言えば、行事が少な過ぎる、ゆえに記事が書けない、仕方がないので合併号を出す、といったところだ。
近年の顕正会は夏のイベントをやっていない。
もっとも熱中症などのリスクがあるので、わざわざクソ暑い季節にやるべきではないとわたくしは思う。その意味で夏イベをやらないのは賢明なことだ。
しかし、毎月の御書講義も事実上、廃止されてしまったので、ネタの絶対数が足りない。それで月三回の新聞発行すら難しくなっているのが現状である。何ともお粗末な実態だ。
こうして見ると、建白書の真の目的がどこにあるか、何となくわかるような気がする。
会員へのサプライズというか、会員に刺激を与えるための材料として、建白書を書いた。逆に、もし建白書がなかったとしたらどうだったかを考えれば、よくわかるだろう。夏イベがなくて、何の話題もなく、ただ単に秋の三連戦に使役させられるのだ。活動会員たちのミジメさを思えば悲しくなってくる。
十八人
話は変わるが、一面の記事で注目したことがある。上掲は人事である。今回は女子部を中心に、ぜんぶで十八人の人事が発表された。いちおう、断わりを入れておこう。これはあくまでわたくしの漠然とした印象に過ぎないのだが、その上で言わせてもらうと、どうも最近の顕正会は人事異動が多いようだ。
内紛だろうか?
さすがにそれは大袈裟にしても、何かしらのゴタゴタがあって、幹部クラスの人が次々に退転している。役職を持った人がいなくなれば、当然ながら補てんが必要になる。ようはアトガマを決めなくてはいけない。それが頻繁な人事発表の理由ではないかと想像されるのだ。
七区長
具体的に書くと、上掲のごとく今回は女子部で七人の区長が誕生した。このうち新結成の区は二つだけである。残りの五つは区長が交代したわけだ。
難しいところだ。
女子部は百二十八箇区あるので、仮に毎月五区長の異動があったとしても不自然ではないのかもしれない。それに前区長が全員退転したわけでもないだろう。単に役職を降りただけかもしれないのだ。
ゆえに漠然とした印象に過ぎないと書いたわけだが、いずれにしても総合女子部長の交代があったりもするし、それがために余計に女子部の動向が気になるのかもしれない。
来年は三万人の女子部大会もあるし、大変なことだ。
このたび、宗門の早瀬日如管長に対し、改めて建白書を送付いたしました。
八月度総幹部会の会長講演、冒頭の一節だ。
改めて・・・
いわゆる先年の諫告書に続いて・・・という意味だろう。
宗門がこれを用いるかどうかは、全くわからない。
なるほど、これはそのとおりだ。
一国諫暁の時だったか別の時だったか忘れてしまったが、浅井先生は宗門にも諫暁書を送付したと言っていた。その時のセリフが印象的だ。
無駄だとは思いますが・・・
無駄を覚悟でいちおう宗門にも送った、という意味だ。
つまり、浅井先生はいつの頃からか、宗門の無反応ぶりに愛想を尽かしてしまったのだ。いわば諦めムードに陥っているわけなのだろう。それが、無駄だとは思いますが・・・、にあらわれている。
このわたくしの観察が正しければ、建白書の真の目的がどこにあるか、という最初の話も、よりいっそうの説得力を持つはずである。
尖閣に上陸して逮捕され「釣魚島は中国の領土だ」と猛々しく叫ぶ、香港の活動家
さて、八月度総幹部会の会長講演はいわゆる領土問題が話題の中心だった。これはもちろんタイムリーな話題であり、確かに深刻な問題である。
どうでもいいことを書くと、上掲は写真に付された説明である。当該写真を見ると、いかにも荒くれ者といった風貌の男が写っている。しかし、どういうわけか手の辺りにボカシが入っているのだ。たぶん手錠を掛けられているのだろう。ボンヤリながらもそれがわかるのだ。なぜにボカシが入っているのか、まさか顕正新聞社で施したわけではないだろうから、元の写真がそのようになっているのだろう。しかし、写真の提供者が書かれていない。津波の写真の時にも指摘したが、これは無断転載の疑いがある。
ともかく北方領土にしても竹島にしてもすでに奪われてしまっているわけだが、いよいよ尖閣諸島も危なくなってきた。
浅井先生は七月度総幹部会でも尖閣問題に言及し、本年中にも尖閣奪取が事実となるかもしれない、という意味のことを述べている。いわば予言であるが、これは当たってほしくない予言である。当たりそうなだけに余計に心配だ。
二十億円
ご存知のごとく、尖閣諸島が国有化された。つい先日のことだ。今までは個人が所有していた。最初は東京都が買う予定だった。それを政府が横車を押して買い取ってしまったのだ。
横車とは書いたものの、それがいわば高度な政治判断なのだろう。確かに石原都知事の東京都が買うよりはマシであると、このように思う人も少なくないはずだ。
いずれにしても導火線に火がついてしまった。
誰が考えたってわかるはずだ。今、中国では日本を抗議する意味のデモ行進が各所で行なわれているらしい。一方の日本人はおおむね紳士的というか、今のところは大人しくしている。けれども中国が尖閣を奪うような行動を起こしたならば、さすがに黙っていないだろう。
話は単純だ。尖閣は二十億円で売買された。これはわれわれの税金である。国家レベルで考えれば大した金額ではないのかもしれないが、庶民感情としてはベラボウな金額だ。ようするに、その買ったばかりの島を他人に奪われてしまうという、とんでもない事態に直面しているわけである。
大人しい日本人、忘れっぽい日本人。
しかし、今のタイミングで尖閣が奪われれば、誰もがその不条理に怒りを爆発させるはずなのだ。中国に対する怒りはもちろんのこと、当然のことながら、だらしのない日本の政府にも怒りを爆発させることになる。
なるほど、これが現代における自他の二難なのかもしれない。
繰り返しになるが、大人しい日本人は既成事実化してしまっている北方四島や竹島についてはそれほど文句を言わない。しかし、今のタイミングで尖閣が奪われれば黙ってはいないはずだ。
ひじょうに困った問題だ。
この際、消極的ではあるが、ジンクスに頼るしかなさそうだ。浅井先生の予言は当たらない、というジンクスだ。
宗門への「建白書」朗読に満場 衝撃
第1252号の一面の見出しの一つである。
ちなみに当該号は九月五日号であり、次の新聞は十五日・二十五日合併号である。わたくしの感想を一言で言えば、行事が少な過ぎる、ゆえに記事が書けない、仕方がないので合併号を出す、といったところだ。
近年の顕正会は夏のイベントをやっていない。
もっとも熱中症などのリスクがあるので、わざわざクソ暑い季節にやるべきではないとわたくしは思う。その意味で夏イベをやらないのは賢明なことだ。
しかし、毎月の御書講義も事実上、廃止されてしまったので、ネタの絶対数が足りない。それで月三回の新聞発行すら難しくなっているのが現状である。何ともお粗末な実態だ。
こうして見ると、建白書の真の目的がどこにあるか、何となくわかるような気がする。
会員へのサプライズというか、会員に刺激を与えるための材料として、建白書を書いた。逆に、もし建白書がなかったとしたらどうだったかを考えれば、よくわかるだろう。夏イベがなくて、何の話題もなく、ただ単に秋の三連戦に使役させられるのだ。活動会員たちのミジメさを思えば悲しくなってくる。
十八人
話は変わるが、一面の記事で注目したことがある。上掲は人事である。今回は女子部を中心に、ぜんぶで十八人の人事が発表された。いちおう、断わりを入れておこう。これはあくまでわたくしの漠然とした印象に過ぎないのだが、その上で言わせてもらうと、どうも最近の顕正会は人事異動が多いようだ。
内紛だろうか?
さすがにそれは大袈裟にしても、何かしらのゴタゴタがあって、幹部クラスの人が次々に退転している。役職を持った人がいなくなれば、当然ながら補てんが必要になる。ようはアトガマを決めなくてはいけない。それが頻繁な人事発表の理由ではないかと想像されるのだ。
七区長
具体的に書くと、上掲のごとく今回は女子部で七人の区長が誕生した。このうち新結成の区は二つだけである。残りの五つは区長が交代したわけだ。
難しいところだ。
女子部は百二十八箇区あるので、仮に毎月五区長の異動があったとしても不自然ではないのかもしれない。それに前区長が全員退転したわけでもないだろう。単に役職を降りただけかもしれないのだ。
ゆえに漠然とした印象に過ぎないと書いたわけだが、いずれにしても総合女子部長の交代があったりもするし、それがために余計に女子部の動向が気になるのかもしれない。
来年は三万人の女子部大会もあるし、大変なことだ。
このたび、宗門の早瀬日如管長に対し、改めて建白書を送付いたしました。
八月度総幹部会の会長講演、冒頭の一節だ。
改めて・・・
いわゆる先年の諫告書に続いて・・・という意味だろう。
宗門がこれを用いるかどうかは、全くわからない。
なるほど、これはそのとおりだ。
一国諫暁の時だったか別の時だったか忘れてしまったが、浅井先生は宗門にも諫暁書を送付したと言っていた。その時のセリフが印象的だ。
無駄だとは思いますが・・・
無駄を覚悟でいちおう宗門にも送った、という意味だ。
つまり、浅井先生はいつの頃からか、宗門の無反応ぶりに愛想を尽かしてしまったのだ。いわば諦めムードに陥っているわけなのだろう。それが、無駄だとは思いますが・・・、にあらわれている。
このわたくしの観察が正しければ、建白書の真の目的がどこにあるか、という最初の話も、よりいっそうの説得力を持つはずである。
尖閣に上陸して逮捕され「釣魚島は中国の領土だ」と猛々しく叫ぶ、香港の活動家
さて、八月度総幹部会の会長講演はいわゆる領土問題が話題の中心だった。これはもちろんタイムリーな話題であり、確かに深刻な問題である。
どうでもいいことを書くと、上掲は写真に付された説明である。当該写真を見ると、いかにも荒くれ者といった風貌の男が写っている。しかし、どういうわけか手の辺りにボカシが入っているのだ。たぶん手錠を掛けられているのだろう。ボンヤリながらもそれがわかるのだ。なぜにボカシが入っているのか、まさか顕正新聞社で施したわけではないだろうから、元の写真がそのようになっているのだろう。しかし、写真の提供者が書かれていない。津波の写真の時にも指摘したが、これは無断転載の疑いがある。
ともかく北方領土にしても竹島にしてもすでに奪われてしまっているわけだが、いよいよ尖閣諸島も危なくなってきた。
浅井先生は七月度総幹部会でも尖閣問題に言及し、本年中にも尖閣奪取が事実となるかもしれない、という意味のことを述べている。いわば予言であるが、これは当たってほしくない予言である。当たりそうなだけに余計に心配だ。
二十億円
ご存知のごとく、尖閣諸島が国有化された。つい先日のことだ。今までは個人が所有していた。最初は東京都が買う予定だった。それを政府が横車を押して買い取ってしまったのだ。
横車とは書いたものの、それがいわば高度な政治判断なのだろう。確かに石原都知事の東京都が買うよりはマシであると、このように思う人も少なくないはずだ。
いずれにしても導火線に火がついてしまった。
誰が考えたってわかるはずだ。今、中国では日本を抗議する意味のデモ行進が各所で行なわれているらしい。一方の日本人はおおむね紳士的というか、今のところは大人しくしている。けれども中国が尖閣を奪うような行動を起こしたならば、さすがに黙っていないだろう。
話は単純だ。尖閣は二十億円で売買された。これはわれわれの税金である。国家レベルで考えれば大した金額ではないのかもしれないが、庶民感情としてはベラボウな金額だ。ようするに、その買ったばかりの島を他人に奪われてしまうという、とんでもない事態に直面しているわけである。
大人しい日本人、忘れっぽい日本人。
しかし、今のタイミングで尖閣が奪われれば、誰もがその不条理に怒りを爆発させるはずなのだ。中国に対する怒りはもちろんのこと、当然のことながら、だらしのない日本の政府にも怒りを爆発させることになる。
なるほど、これが現代における自他の二難なのかもしれない。
繰り返しになるが、大人しい日本人は既成事実化してしまっている北方四島や竹島についてはそれほど文句を言わない。しかし、今のタイミングで尖閣が奪われれば黙ってはいないはずだ。
ひじょうに困った問題だ。
この際、消極的ではあるが、ジンクスに頼るしかなさそうだ。浅井先生の予言は当たらない、というジンクスだ。
2012/9/18
独白シンドローム
高速太郎氏はキリスト教に詳しいようだ。しかし、全体の文脈として、それがどのような意味を持つのか、やや不明瞭のように思う。
聖人シンドローム
これが物凄く難解だ。
内外の外のレベル
これもまた難しい。
おそらくは内外相対の意味であり、未だ内道に達していない、外道のレベルだ、と言っているのだろう。いずれにしても聞き慣れない単語が多いので、それが余計に話を難しくしているのではないかと思う。
ところでユタ氏はブログを再開したらしい。
手持ち無沙汰だったので、ブログ再開することにしましたよ。
わたくしがパソコンをやり始めた頃は、まだブログがなかった。いわゆるホームページを作って、そこに自分の書きたいことを載せるか、あるいは掲示板に書き込むか、それくらいしかなかったと思う。そして掲示板への投稿はわりと容易だったが、ホームページの作成はけっこう敷居が高かった。アップロードの作業が大変だったのだ。
それが今は物凄く簡単である。ゆえにユタ氏も上掲のごとく言うのだ。手持ち無沙汰だったので・・・と。
もし昔のように一々の作業が面倒臭いものだったら、そんな気軽には始められないだろう。逆に言うと、それがブログの乱立というか、あたかもゲームにおけるリセットボタンのごとく、立ち上げては潰し、立ち上げては潰し、という安易な行動につながるのだと思う。いや、もちろん、それは人それぞれの価値観だとか事情によるものなので、どのような利用方法であっても文句は言えない。ただ、わたくしの場合はケチな性格なので、せっかく立ち上げたブログをそう簡単には潰したくないのだ。
さて、話は変わる。
沖浦氏のコメントは失言みたいなものだ。もっとも本人はあまり気にしていないというか、むしろ己の主義主張に自信を持ってしまっているので、そこが厄介だ。
戒壇が、大御本尊がなどと行って見ても、拝む人がいればこそです。
この部分は問題ない。ごく当然のことを言っている。行って見てもは言って見てもの間違いだろうが、それはいつものことだ。問題は次である。
戒壇も、大御本尊も、信じて行じる人のためにありますし、無くても全く困りません。
無くても全く困らない・・・
善意に解釈するならば、拝む人がいなければ無くても全く困らない、という意味になるだろう。しかし、続きの文章を読むと、違う意味で言っていることがわかる。御本尊は信心の二字に収まっている、だから無くても困らない、と言っているのだ。この辺は御文の悪用だろう。まさか大聖人も、七百年後にこんな解釈をする人物が出てくるとは、思いもしなかったことだろう。
『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。』
(日女御前御返事)
御本尊が私共の信心の二字におさまっているのですから、安置する戒壇も当然同じです。
ただし、最後の部分はかなり難しい問題を秘めている。
本門戒壇を建築物だとして、考える事自体が間違えです。
いわゆる己心戒壇論だ。
難しい議論ではあるが、論理的には簡単だかもしれない。ようするに、己心本尊を主張する人は戒壇もしかり、ということになる。一方、曼荼羅御本尊の必要性を主張する人は戒壇も自ずと必要となる。御本尊は必要だが戒壇は不必要、マレにはこういう人もいるかもしれないが、それはヘソマガリである。
現状、創価学会は全国に多数の会館を有し、そこには必ず本尊があるはずだ。つまりは会館が戒壇の役割を担っていることになる。沖浦氏の主張に基づくならば、まずは会館の本尊を撤廃すべきだろう。これが実現してこそ、氏の主義主張が貫徹することになる。しかし、おそらくは実現しないだろう。
残暑お見舞い申し上げます。
>社会的圧力に屈して国立戒壇を捨てた立場の人がいったい何を主張できるだろうか?<相変わらず幼稚ですね。日蓮仏法を現代に蘇らせたとでもいいましょう。>しょせんは見え透いた言い訳に過ぎないのだ。<ちょっとずるい言い方ですが、42年経って国会議員40名/800万票、一方そちらは5万結集が目一杯でしょうか>わたくしの思うに、宗門にしても創価学会にしても、現在に至るまで言い訳に終始しているだけなのだ。<私が思うに浅井一族の己義の解釈だったという結果なのだ>これではまともな論争とは言えないだろう。<論争で広宣流布ができれば、大聖人の時代に広宣流布はとっくに終わっています>
と、まあ、こんな丁々発止を繰り返してきたんだ。
そうすると42年経って、さて、一方が事でもう一方が理だとすると、どちらが事であったか賢明なみなさんにはお判りでしょう。
今度はのび太氏だ。これはなかなかのレスポンスだと思う。ただし、一箇所だけ疑問が残った。
私が思うに浅井一族の己義の解釈だったという結果なのだ
結果論で物を言ってはいけないと思う。ようするに、解釈はそれ自体が正しいか間違っているかを純粋に追求すべきものであって、他の要素を入れてはいけないのだ。片や八百万、片や五万、たとえそうであったとしても、教義上の解釈そのものはまったく別次元のことであり、必ずしも八百万が正しいことにはならないのだ。これは聖愚問答抄に有名な御文があるけれども、あえて引くまでもないだろう。
今日は八月度総幹部会の記事を取り上げる予定だったが、次回に譲りたい。
聖人シンドローム
これが物凄く難解だ。
内外の外のレベル
これもまた難しい。
おそらくは内外相対の意味であり、未だ内道に達していない、外道のレベルだ、と言っているのだろう。いずれにしても聞き慣れない単語が多いので、それが余計に話を難しくしているのではないかと思う。
ところでユタ氏はブログを再開したらしい。
手持ち無沙汰だったので、ブログ再開することにしましたよ。
わたくしがパソコンをやり始めた頃は、まだブログがなかった。いわゆるホームページを作って、そこに自分の書きたいことを載せるか、あるいは掲示板に書き込むか、それくらいしかなかったと思う。そして掲示板への投稿はわりと容易だったが、ホームページの作成はけっこう敷居が高かった。アップロードの作業が大変だったのだ。
それが今は物凄く簡単である。ゆえにユタ氏も上掲のごとく言うのだ。手持ち無沙汰だったので・・・と。
もし昔のように一々の作業が面倒臭いものだったら、そんな気軽には始められないだろう。逆に言うと、それがブログの乱立というか、あたかもゲームにおけるリセットボタンのごとく、立ち上げては潰し、立ち上げては潰し、という安易な行動につながるのだと思う。いや、もちろん、それは人それぞれの価値観だとか事情によるものなので、どのような利用方法であっても文句は言えない。ただ、わたくしの場合はケチな性格なので、せっかく立ち上げたブログをそう簡単には潰したくないのだ。
さて、話は変わる。
沖浦氏のコメントは失言みたいなものだ。もっとも本人はあまり気にしていないというか、むしろ己の主義主張に自信を持ってしまっているので、そこが厄介だ。
戒壇が、大御本尊がなどと行って見ても、拝む人がいればこそです。
この部分は問題ない。ごく当然のことを言っている。行って見てもは言って見てもの間違いだろうが、それはいつものことだ。問題は次である。
戒壇も、大御本尊も、信じて行じる人のためにありますし、無くても全く困りません。
無くても全く困らない・・・
善意に解釈するならば、拝む人がいなければ無くても全く困らない、という意味になるだろう。しかし、続きの文章を読むと、違う意味で言っていることがわかる。御本尊は信心の二字に収まっている、だから無くても困らない、と言っているのだ。この辺は御文の悪用だろう。まさか大聖人も、七百年後にこんな解釈をする人物が出てくるとは、思いもしなかったことだろう。
『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。』
(日女御前御返事)
御本尊が私共の信心の二字におさまっているのですから、安置する戒壇も当然同じです。
ただし、最後の部分はかなり難しい問題を秘めている。
本門戒壇を建築物だとして、考える事自体が間違えです。
いわゆる己心戒壇論だ。
難しい議論ではあるが、論理的には簡単だかもしれない。ようするに、己心本尊を主張する人は戒壇もしかり、ということになる。一方、曼荼羅御本尊の必要性を主張する人は戒壇も自ずと必要となる。御本尊は必要だが戒壇は不必要、マレにはこういう人もいるかもしれないが、それはヘソマガリである。
現状、創価学会は全国に多数の会館を有し、そこには必ず本尊があるはずだ。つまりは会館が戒壇の役割を担っていることになる。沖浦氏の主張に基づくならば、まずは会館の本尊を撤廃すべきだろう。これが実現してこそ、氏の主義主張が貫徹することになる。しかし、おそらくは実現しないだろう。
残暑お見舞い申し上げます。
>社会的圧力に屈して国立戒壇を捨てた立場の人がいったい何を主張できるだろうか?<相変わらず幼稚ですね。日蓮仏法を現代に蘇らせたとでもいいましょう。>しょせんは見え透いた言い訳に過ぎないのだ。<ちょっとずるい言い方ですが、42年経って国会議員40名/800万票、一方そちらは5万結集が目一杯でしょうか>わたくしの思うに、宗門にしても創価学会にしても、現在に至るまで言い訳に終始しているだけなのだ。<私が思うに浅井一族の己義の解釈だったという結果なのだ>これではまともな論争とは言えないだろう。<論争で広宣流布ができれば、大聖人の時代に広宣流布はとっくに終わっています>
と、まあ、こんな丁々発止を繰り返してきたんだ。
そうすると42年経って、さて、一方が事でもう一方が理だとすると、どちらが事であったか賢明なみなさんにはお判りでしょう。
今度はのび太氏だ。これはなかなかのレスポンスだと思う。ただし、一箇所だけ疑問が残った。
私が思うに浅井一族の己義の解釈だったという結果なのだ
結果論で物を言ってはいけないと思う。ようするに、解釈はそれ自体が正しいか間違っているかを純粋に追求すべきものであって、他の要素を入れてはいけないのだ。片や八百万、片や五万、たとえそうであったとしても、教義上の解釈そのものはまったく別次元のことであり、必ずしも八百万が正しいことにはならないのだ。これは聖愚問答抄に有名な御文があるけれども、あえて引くまでもないだろう。
今日は八月度総幹部会の記事を取り上げる予定だったが、次回に譲りたい。
2012/9/15
いつまで続く、この残暑
高速太郎氏より難解なコメントをたまわった。正直なところ、半分も理解できていない。ゆえに、どのようにお返事申し上げるべきか、悩ましい。
■国立戒壇の論争は、休止した方が良い
ヘソマガリなことを言わせて貰うと、国立戒壇の論争はすでに休止状態なのだ。そもそもが論争はなかった。論争モドキはあったけれども、まともな論争はなかった。
顕正会の御遺命守護はシンプルである。日達上人の御指南においても、あるいは池田大作氏の発言においても、かつては国立戒壇を言っていた。昭和三十年代だ。それが四十年代に入ると言わなくなる。言わなくなるどころか、積極的に否定することになる。それが昭和四十五年だ。浅井はこの自語相違を責めた。ただそれだけのことなのだ。
当時は国立戒壇に対する社会的圧力みたいなものがあった。憲法違反ではないのか、と言った論難である。こうした背景から見ていくと、宗門と創価学会はその圧力に屈したごとくに思える。いかにもだらしがない。
この意味で妙信講は有利だった。あの弱小の妙信講が堂々と戦い、それなりの戦果を得られたのも、こうした背景によるわけだ。
結果的に論争と呼べるほどのものはなかった。
社会的圧力に屈して国立戒壇を捨てた立場の人がいったい何を主張できるだろうか? しょせんは見え透いた言い訳に過ぎないのだ。わたくしの思うに、宗門にしても創価学会にしても、現在に至るまで言い訳に終始しているだけなのだ。これではまともな論争とは言えないだろう。
◇天動説を地動説に変えてもキリスト教は衰退していない
これはよくわからない説明だった。あえて便宜的に図示すると次のごとくなるのだろうか?
国立戒壇=天動説
民衆立戒壇=地動説
上掲はわたくしが勝手に想像して書いたに過ぎない。高速太郎氏のコメントには民衆立云々の記述がないからだ。しかし、今はとりあえずこれで話を進めよう。わたくしの思うに、上掲は譬えの取り方が適切ではない。
おそらくキリスト教の場合は自然科学との齟齬が問題となったのだろう。キリスト教の宇宙観と現代科学とは相容れない。ゆえにさまざまの問題が生じた。進化論などもその一例なのだろう。しかし、これは仏教の場合は当てはまらない。もともと真っ向から対立するような事案は存在しないからだ。
そこで話を戻すが、国立戒壇が天動説であり、民衆立戒壇が地動説とするのは、単なる譬喩なのだろう。現代科学では地動説を唱える。これが科学的真実であると。民衆立=地動説。つまり、民衆立こそが真実であると。
もし高速太郎氏がこのような意味を言っているのだとすれば、ようは婉曲に表現しただけのことであって、実際には大したことを言っていないことになる。国立戒壇なんて天動説みたいなものだ。時代遅れだ。早い話がこういうことを言いたいわけなのだろう。
仏陀すでに仏法を王法に付し給ふ。
わたくしは天動説云々について、譬えの取り方が不適切だと書いた。ようするに仏教はもともと自然科学的な意味での齟齬が存在しない。むしろ、ここでは社会科学的側面において、論ずるべき事案が存するわけなのだ。
上掲はまさに王仏冥合の御指南そのものである。本門戒壇建立の意義は、仏法が社会の中にどのように反映されるかにある。
いわゆる仏国土の実現だとか依正不二の原理だとかは、一見すると自然科学の範疇に属するように思われる。ようは仏力・法力にはどのような作用があって、どのような化学反応を起こすか、それが国土世間にどのように反映されるか、という学問的考察である。
もちろん、これはきわめて重要な検討課題であるが、上掲の御指南の意味するところはそうではなく、いわば社会科学的範疇である。
為政者が仏法を実践する。創価学会流に言えば、それで人間革命するのだ。当然、くだんの為政者は善政を行なう。為政者のみならず、多くの人が仏法を実践する。そうすれば世の中がよくなるのは理の当然である。
以上、国立戒壇を天動説になぞらえることの不適切さを説明したつもりだが、はたしてどこまで理解できただろうか?
懺悔滅罪の戒法
多くの人が仏法を実践すれば世の中がよくなる。理屈は簡単だ。問題は実効性なのだ。戒壇建立の意義は懺悔滅罪にある。懺悔滅罪して人々が善人になる。善人ばかりの世の中になれば、文句はない。
たぶん、ここでようやく議論の土台が出来上がったのだと思う。
ようやくにして戒壇建立の意義が見えてきた。問題は国立か否かである。わたくしは直前で実効性を云々した。ああ、なるほど、国立のほうが実効性がありそうだ。このように感じていただければ、本稿の目的はいちおう達したことになるだろう。いや、もちろん、まだ議論の余地はたくさんある。つまり、議論は緒に就いたばかりなのだ。
御遺命の為にとするのであれば、現在の国立戒壇論争は、どこに立って行われているのだろう。私には、外道としているキリスト教の天動説論争までも行っていないように思われる。
しまった。しくじった。
わたくしは冒頭に、論争モドキはあったけど本格的論争はなかった、という意味を書いた。しかし、これは上掲のごとく、すでに高速太郎氏が言っていることだったのだ。
本日の拙稿はトンチンカンもいいところだ。
■国立戒壇の論争は、休止した方が良い
ヘソマガリなことを言わせて貰うと、国立戒壇の論争はすでに休止状態なのだ。そもそもが論争はなかった。論争モドキはあったけれども、まともな論争はなかった。
顕正会の御遺命守護はシンプルである。日達上人の御指南においても、あるいは池田大作氏の発言においても、かつては国立戒壇を言っていた。昭和三十年代だ。それが四十年代に入ると言わなくなる。言わなくなるどころか、積極的に否定することになる。それが昭和四十五年だ。浅井はこの自語相違を責めた。ただそれだけのことなのだ。
当時は国立戒壇に対する社会的圧力みたいなものがあった。憲法違反ではないのか、と言った論難である。こうした背景から見ていくと、宗門と創価学会はその圧力に屈したごとくに思える。いかにもだらしがない。
この意味で妙信講は有利だった。あの弱小の妙信講が堂々と戦い、それなりの戦果を得られたのも、こうした背景によるわけだ。
結果的に論争と呼べるほどのものはなかった。
社会的圧力に屈して国立戒壇を捨てた立場の人がいったい何を主張できるだろうか? しょせんは見え透いた言い訳に過ぎないのだ。わたくしの思うに、宗門にしても創価学会にしても、現在に至るまで言い訳に終始しているだけなのだ。これではまともな論争とは言えないだろう。
◇天動説を地動説に変えてもキリスト教は衰退していない
これはよくわからない説明だった。あえて便宜的に図示すると次のごとくなるのだろうか?
国立戒壇=天動説
民衆立戒壇=地動説
上掲はわたくしが勝手に想像して書いたに過ぎない。高速太郎氏のコメントには民衆立云々の記述がないからだ。しかし、今はとりあえずこれで話を進めよう。わたくしの思うに、上掲は譬えの取り方が適切ではない。
おそらくキリスト教の場合は自然科学との齟齬が問題となったのだろう。キリスト教の宇宙観と現代科学とは相容れない。ゆえにさまざまの問題が生じた。進化論などもその一例なのだろう。しかし、これは仏教の場合は当てはまらない。もともと真っ向から対立するような事案は存在しないからだ。
そこで話を戻すが、国立戒壇が天動説であり、民衆立戒壇が地動説とするのは、単なる譬喩なのだろう。現代科学では地動説を唱える。これが科学的真実であると。民衆立=地動説。つまり、民衆立こそが真実であると。
もし高速太郎氏がこのような意味を言っているのだとすれば、ようは婉曲に表現しただけのことであって、実際には大したことを言っていないことになる。国立戒壇なんて天動説みたいなものだ。時代遅れだ。早い話がこういうことを言いたいわけなのだろう。
仏陀すでに仏法を王法に付し給ふ。
わたくしは天動説云々について、譬えの取り方が不適切だと書いた。ようするに仏教はもともと自然科学的な意味での齟齬が存在しない。むしろ、ここでは社会科学的側面において、論ずるべき事案が存するわけなのだ。
上掲はまさに王仏冥合の御指南そのものである。本門戒壇建立の意義は、仏法が社会の中にどのように反映されるかにある。
いわゆる仏国土の実現だとか依正不二の原理だとかは、一見すると自然科学の範疇に属するように思われる。ようは仏力・法力にはどのような作用があって、どのような化学反応を起こすか、それが国土世間にどのように反映されるか、という学問的考察である。
もちろん、これはきわめて重要な検討課題であるが、上掲の御指南の意味するところはそうではなく、いわば社会科学的範疇である。
為政者が仏法を実践する。創価学会流に言えば、それで人間革命するのだ。当然、くだんの為政者は善政を行なう。為政者のみならず、多くの人が仏法を実践する。そうすれば世の中がよくなるのは理の当然である。
以上、国立戒壇を天動説になぞらえることの不適切さを説明したつもりだが、はたしてどこまで理解できただろうか?
懺悔滅罪の戒法
多くの人が仏法を実践すれば世の中がよくなる。理屈は簡単だ。問題は実効性なのだ。戒壇建立の意義は懺悔滅罪にある。懺悔滅罪して人々が善人になる。善人ばかりの世の中になれば、文句はない。
たぶん、ここでようやく議論の土台が出来上がったのだと思う。
ようやくにして戒壇建立の意義が見えてきた。問題は国立か否かである。わたくしは直前で実効性を云々した。ああ、なるほど、国立のほうが実効性がありそうだ。このように感じていただければ、本稿の目的はいちおう達したことになるだろう。いや、もちろん、まだ議論の余地はたくさんある。つまり、議論は緒に就いたばかりなのだ。
御遺命の為にとするのであれば、現在の国立戒壇論争は、どこに立って行われているのだろう。私には、外道としているキリスト教の天動説論争までも行っていないように思われる。
しまった。しくじった。
わたくしは冒頭に、論争モドキはあったけど本格的論争はなかった、という意味を書いた。しかし、これは上掲のごとく、すでに高速太郎氏が言っていることだったのだ。
本日の拙稿はトンチンカンもいいところだ。
2012/9/9
富士山大噴火と戒壇建立地の関係性
建白書についてはすでに感想を書いたわけだが、今日はその第二弾を書こうと思う。
わたくしは前回、建白書は文章が荒い、という意味を書いた。しかし、それは文体が荒いのであって、内容そのものが荒いわけではなかった。ある意味では緻密と言えるかもしれないのだ。
されば、すでに言い尽くしたことではあるが、改めて御遺命の大事と宗門の違背について、その大略を申し述べる。
ここから始まる一段はけっこう秀逸だかもしれない。いわば御遺命守護のダイジェスト版であり、戒壇論の要旨が見事に圧縮された形で書かれているのだ。
そもそも本門戒壇に関する具体的な御指南は希少であり、御書には数えるほどしか存在しない。そして国立戒壇であるが、この言葉は御書に拝することができない。では、どこに拝するかと言えば、歴代上人の御指南である。しかし、ご存知のごとく、その数は決して多くない。文証として使えるものは限定されているのだ。
浅井先生もここが悩みどころなのだと思う。近年、御遺命守護について詳述しなくなったのは、やはりどうしてもマンネリ化を払拭し切れないからなのだろう。
そこで今回は大略を述べるということにして、かなり説明を端折ってしまった。なんと大胆にも御書を引用せず、いきなり歴代上人の文証を持ち出してきた。わたくしはこれが大成功だと思った。
歴代上人の文証とて、すでに何度も拝してきたものばかりであって、何一つ目新しいものはない。
しかし、わたくしの思うに、その文証の組み合わせ方であるとか、説明の仕方によって、説得力を増すことができる。
あたかも俳句や短歌のようなものである。五七五などの制約の中で、常に新しいものを生み出していく。音楽だってそうだ。半音を入れても十二音しかない。しかし、音の組み合わせによって、美しいメロディを作り出していく。それと同様に、限られた文証ではあるけれども、その組み合わせを工夫することによって、マンネリ化を脱することができるのだ。
今回の建白書はその意味で成功していると思う。
天生原・事の戒壇・国立戒壇
歴代上人の御指南からキーワードと思われるものを抽出させていただいた。
広宣流布の暁に、国家意志の公式表明を以て、富士山天生原に建立される国立戒壇こそ、御遺命の戒壇であり、これを事の戒壇という。
これは建白書の本文であるが、まさに歴代上人の御指南を総合すれば、かくのごとし、ということなのだろう。
わたくしの意見を書いておくと、国立戒壇の名称には拘泥しないと断った上で、おおむね上掲のごとくでよろしいかと思う。問題は日蓮正宗の人たちだ。
事の戒壇の定義についてはややこしいのでやめておこう。たぶん天生原の問題が一つの有力な争点であり、現状では顕正会側がやや不利のように思われる。しかし、ここで喧嘩両成敗ではないが、わたくしは両者に新たな問題提起をしたいと考える。
天生原問題は未だ本質論に達していない、ということだ。
日蓮正宗の人たちは天生原戒壇説を否定する。しかし、わたくしの見るところ、彼らは本質がわかっていない。一方の顕正会もまた、本質がわかっているとは言い難い。ただ単に教条的に言っているだけだ。
総本山に激甚の被害を及ぼす可能性ある「富士川河口断層帯巨大地震」の切迫に鑑み・・・
建白書の冒頭の一節だ。浅井先生は巨大地震の切迫に鑑み、戒壇の大御本尊を守るべく、免震構造の新御宝蔵を建設すべきことを訴えた。
そこでわたくしは問いたい。富士山大噴火にはどのように備えるか、である。
つい先日も富士山噴火の可能性を云々するニュースが流れた。センセーショナルを売りにする週刊誌あたりは、それをさらに膨らませて書くことだろう。調べたわけではないが、富士山噴火に関する話題はけっこうの高頻度で出ているのではないかと思う。もちろん地震と同様であって、いつどの程度の噴火があるか、それはわからない。しかし、絶対にないとは言い切れない。それが自然災害というものだ。
ここまで書けばわかるだろう。近くは三宅島の全島避難、その前には大島でも全島避難があった。両島とも大噴火を起こした。もはや危険、避難するしかない、それが全島避難だ。富士山の場合は孤島ではないので、少し事情が異なるけれども、しかし、噴火の規模によっては大石寺も危ないかもしれないのだ。もちろん天生原もだ。
昨年の大震災は津波の被害が甚大だった。この教訓として、しょせん人間の力など高が知れている、いくら巨大な堤防を拵えても津波はそれをいとも簡単に乗り越えてしまう、だったら町ごと高台に移転したほうが賢明だ、という意見が多く出ている。大石寺や天生原は高台なので津波の心配はない。しかし、富士山の大噴火が心配である。
このような話は事が起こるまでは荒唐無稽に思えるものだ。浅井先生の講演がまさにそれであって、法華講員や創価学会員が馬鹿にするのはこのためである。今、わたくしが書いていることも同じ構造なのだ。
そろそろ結論を書こう。
富士山の噴火はそう滅多には起こらない。ましてや大噴火はなおさらだろう。しかし、いつかは起こるのだ。
天生原であろうと大石原であろうと、わたくしは構わない。そこに本門の戒壇が建つ。素晴らしいことだ。
しかし、もし戒壇建立後に富士山が大噴火して避難を余儀なくされたら、どうするのだろうか?
霊山浄土に似たらん最勝の地ではなかったのか?
吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず
もっとも顕正会員ならば本気で言うかもしれない、広宣流布すれば富士山の大噴火は起こらない、と。
さて、法華講員はいかがだろうか?
顕正会員と同じ思考であれば、これほどオメデタイこともあるまいと思う。
わたくしは前回、建白書は文章が荒い、という意味を書いた。しかし、それは文体が荒いのであって、内容そのものが荒いわけではなかった。ある意味では緻密と言えるかもしれないのだ。
されば、すでに言い尽くしたことではあるが、改めて御遺命の大事と宗門の違背について、その大略を申し述べる。
ここから始まる一段はけっこう秀逸だかもしれない。いわば御遺命守護のダイジェスト版であり、戒壇論の要旨が見事に圧縮された形で書かれているのだ。
そもそも本門戒壇に関する具体的な御指南は希少であり、御書には数えるほどしか存在しない。そして国立戒壇であるが、この言葉は御書に拝することができない。では、どこに拝するかと言えば、歴代上人の御指南である。しかし、ご存知のごとく、その数は決して多くない。文証として使えるものは限定されているのだ。
浅井先生もここが悩みどころなのだと思う。近年、御遺命守護について詳述しなくなったのは、やはりどうしてもマンネリ化を払拭し切れないからなのだろう。
そこで今回は大略を述べるということにして、かなり説明を端折ってしまった。なんと大胆にも御書を引用せず、いきなり歴代上人の文証を持ち出してきた。わたくしはこれが大成功だと思った。
歴代上人の文証とて、すでに何度も拝してきたものばかりであって、何一つ目新しいものはない。
しかし、わたくしの思うに、その文証の組み合わせ方であるとか、説明の仕方によって、説得力を増すことができる。
あたかも俳句や短歌のようなものである。五七五などの制約の中で、常に新しいものを生み出していく。音楽だってそうだ。半音を入れても十二音しかない。しかし、音の組み合わせによって、美しいメロディを作り出していく。それと同様に、限られた文証ではあるけれども、その組み合わせを工夫することによって、マンネリ化を脱することができるのだ。
今回の建白書はその意味で成功していると思う。
天生原・事の戒壇・国立戒壇
歴代上人の御指南からキーワードと思われるものを抽出させていただいた。
広宣流布の暁に、国家意志の公式表明を以て、富士山天生原に建立される国立戒壇こそ、御遺命の戒壇であり、これを事の戒壇という。
これは建白書の本文であるが、まさに歴代上人の御指南を総合すれば、かくのごとし、ということなのだろう。
わたくしの意見を書いておくと、国立戒壇の名称には拘泥しないと断った上で、おおむね上掲のごとくでよろしいかと思う。問題は日蓮正宗の人たちだ。
事の戒壇の定義についてはややこしいのでやめておこう。たぶん天生原の問題が一つの有力な争点であり、現状では顕正会側がやや不利のように思われる。しかし、ここで喧嘩両成敗ではないが、わたくしは両者に新たな問題提起をしたいと考える。
天生原問題は未だ本質論に達していない、ということだ。
日蓮正宗の人たちは天生原戒壇説を否定する。しかし、わたくしの見るところ、彼らは本質がわかっていない。一方の顕正会もまた、本質がわかっているとは言い難い。ただ単に教条的に言っているだけだ。
総本山に激甚の被害を及ぼす可能性ある「富士川河口断層帯巨大地震」の切迫に鑑み・・・
建白書の冒頭の一節だ。浅井先生は巨大地震の切迫に鑑み、戒壇の大御本尊を守るべく、免震構造の新御宝蔵を建設すべきことを訴えた。
そこでわたくしは問いたい。富士山大噴火にはどのように備えるか、である。
つい先日も富士山噴火の可能性を云々するニュースが流れた。センセーショナルを売りにする週刊誌あたりは、それをさらに膨らませて書くことだろう。調べたわけではないが、富士山噴火に関する話題はけっこうの高頻度で出ているのではないかと思う。もちろん地震と同様であって、いつどの程度の噴火があるか、それはわからない。しかし、絶対にないとは言い切れない。それが自然災害というものだ。
ここまで書けばわかるだろう。近くは三宅島の全島避難、その前には大島でも全島避難があった。両島とも大噴火を起こした。もはや危険、避難するしかない、それが全島避難だ。富士山の場合は孤島ではないので、少し事情が異なるけれども、しかし、噴火の規模によっては大石寺も危ないかもしれないのだ。もちろん天生原もだ。
昨年の大震災は津波の被害が甚大だった。この教訓として、しょせん人間の力など高が知れている、いくら巨大な堤防を拵えても津波はそれをいとも簡単に乗り越えてしまう、だったら町ごと高台に移転したほうが賢明だ、という意見が多く出ている。大石寺や天生原は高台なので津波の心配はない。しかし、富士山の大噴火が心配である。
このような話は事が起こるまでは荒唐無稽に思えるものだ。浅井先生の講演がまさにそれであって、法華講員や創価学会員が馬鹿にするのはこのためである。今、わたくしが書いていることも同じ構造なのだ。
そろそろ結論を書こう。
富士山の噴火はそう滅多には起こらない。ましてや大噴火はなおさらだろう。しかし、いつかは起こるのだ。
天生原であろうと大石原であろうと、わたくしは構わない。そこに本門の戒壇が建つ。素晴らしいことだ。
しかし、もし戒壇建立後に富士山が大噴火して避難を余儀なくされたら、どうするのだろうか?
霊山浄土に似たらん最勝の地ではなかったのか?
吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず
もっとも顕正会員ならば本気で言うかもしれない、広宣流布すれば富士山の大噴火は起こらない、と。
さて、法華講員はいかがだろうか?
顕正会員と同じ思考であれば、これほどオメデタイこともあるまいと思う。
2012/9/6
教祖化の事実
顕正新聞第1250号をすっ飛ばしてしまったようなので、ここで振り返っておきたい。
「諫臣」としての先生の諫暁なくして有り得なかった大罰の時代突入
七月度班長会での副総合婦人部長の登壇だ。
報恩抄には、謗法があってもそれを指摘する人がいなければ罰はあらわれない、という意味の御指南がある。たぶん彼女が言いたいのはそのことなのだろう。平成十六年に一国諫暁が行なわれた。その七年後に東日本大震災が起こった。先生の諫暁なくしてはあり得なかったというのは、この意味だと思われる。
しかし、これはいかがなものか、というのが正直な感想だ。
以前にも書いたはずだが、浅井先生は予言を外してしまった。正確に言えば、予言し損なったのだ。
大聖人は正嘉の大地震を予言していない。大聖人の予言は自他の二難である。ことに注目すべきは蒙古襲来を直前に予言していることだ。蒙古はいつ攻めてくるのか? 今年を過ぎることはない。これがすなわち文永十一年四月八日の発言である。そしてご存知のごとく、蒙古はその年の秋に攻めてきた。いわゆる文永の役である。
しょせん浅井先生は凡夫なので無理な話ではあるが、七年前の諫暁書で巨大地震を予言したことを、さらに直前に予言しておけばよかった。本年(昨年)は一国諫暁より七年目であるからして、いよいよ大地震が切迫してきたことを痛切に感ずる。このような意味のことを直前に発言していれば相当だった。
ところが言えなかった。
言えなかったにもかかわらず、後から後から言っているのだ。いわば上掲はその一例である。
しかし、懲りないものである。顕正会は新たな予言を打ち出しているのだ。今後の巨大地震についてだ。もっともこれは予言ではなく、日本全体の共通認識みたいなものだ。なぜならば、今や日本列島は地震の活動期であり、いつどこで大地震が起きても不思議ではない、ということなのだ。
日本全体の共通認識であれば、どうと言うことはない。もし地震が起こったとしても、先生の予言が当たったことにはならない。これでは顕正会が脚光を浴びることにはならないのだ。
やはり直前に、絶好のタイミングで、予言しなければいけない。
しかし、凡夫の浅井先生には、できっこない相談である。
これは何度でも言っておくが、凡夫には絶対にわからない、それが未来のことなのだ。大地震はそれこそ今すぐに発生しても不思議ではないし、逆に五年後十年後かもしれない、ようするにわからないのだ。
台風を例に説明しよう。
日本は台風の通り道である。毎年、台風が上陸している。しかし、上陸回数であるとか、具体的なコースであるとか、細かいことはわからないのだ。風速であるとか雨量もマチマチであって、当然ながら被害の程度も異なる。自然にはそういう気まぐれなところがある。
地震もまったく同じだ。
日本列島が地震の多発地帯であることは誰もが知っていることだ。しかし、いつどこでどの程度の地震が起こるかは、地震学者でさえ言い当てられないのだ。
よって、もし予言者なるものが存在して、自然界の気まぐれさというか不確定要素がたくさんあって予測不能・計算不能の事案を正確に言い当てられるのであれば、ぜひとも次の大地震を教えてほしいものである。来ることはわかっているのだ。問題はいつどこでどの程度の地震が発生するかだ。津波でもいいだろう。われわれは各種の映像によって津波の恐ろしさを学習しているので、その予言が可能ならば全員が事前に避難することが可能だ。巨大津波が来たけれども、死者不明者がゼロであったならば、その予言者はまさしく救世主である。
これで読者には予言の困難さがよく理解できたことと思う。それから救世主云々には興ざめしたかもしれない。顕正会員にその自覚があるかどうか知らないが、彼らは浅井先生をそういう類に祀り上げようとしているのだ。
建白書の載る第1251号においても注目すべき記事があった。以下は男子部第七十一隊長の発言だ。
富士大石寺は大聖人様の御法魂まします宗門なるゆえに、大事な時には大使命を有するお方がお出になるものと、お聞きしておりますが・・・
上掲の文章の続きには日寛上人と日霑上人のことが出てくる。ようするに彼は、浅井先生こそが大使命を有するお方であり、二上人に肩を並べるほどの存在であると、そう言いたいらしいのだ。
お聞きしております・・・
誰から聞いたかが問題だ。たぶん浅井先生だろう。すると先生は、自画自賛しているようなものだ。もし違うのであれば、当該記事をボツにすべきである。わたくしの認識では、いずれは宗門の中に英邁なる御方がお出ましになって顕正会を認めて下さる、という意味だった。しかるに七十一隊長はそれを浅井先生に摩り替えてしまった。これが顕正新聞に掲載されている以上は、すでに顕正会の公式見解のようなものである。浅井先生もそれでいいと思っているわけなのだろう。
副総合婦人部長と言い、七十一隊長と言い、先生を祀り上げるのに必死のようだ。
「諫臣」としての先生の諫暁なくして有り得なかった大罰の時代突入
七月度班長会での副総合婦人部長の登壇だ。
報恩抄には、謗法があってもそれを指摘する人がいなければ罰はあらわれない、という意味の御指南がある。たぶん彼女が言いたいのはそのことなのだろう。平成十六年に一国諫暁が行なわれた。その七年後に東日本大震災が起こった。先生の諫暁なくしてはあり得なかったというのは、この意味だと思われる。
しかし、これはいかがなものか、というのが正直な感想だ。
以前にも書いたはずだが、浅井先生は予言を外してしまった。正確に言えば、予言し損なったのだ。
大聖人は正嘉の大地震を予言していない。大聖人の予言は自他の二難である。ことに注目すべきは蒙古襲来を直前に予言していることだ。蒙古はいつ攻めてくるのか? 今年を過ぎることはない。これがすなわち文永十一年四月八日の発言である。そしてご存知のごとく、蒙古はその年の秋に攻めてきた。いわゆる文永の役である。
しょせん浅井先生は凡夫なので無理な話ではあるが、七年前の諫暁書で巨大地震を予言したことを、さらに直前に予言しておけばよかった。本年(昨年)は一国諫暁より七年目であるからして、いよいよ大地震が切迫してきたことを痛切に感ずる。このような意味のことを直前に発言していれば相当だった。
ところが言えなかった。
言えなかったにもかかわらず、後から後から言っているのだ。いわば上掲はその一例である。
しかし、懲りないものである。顕正会は新たな予言を打ち出しているのだ。今後の巨大地震についてだ。もっともこれは予言ではなく、日本全体の共通認識みたいなものだ。なぜならば、今や日本列島は地震の活動期であり、いつどこで大地震が起きても不思議ではない、ということなのだ。
日本全体の共通認識であれば、どうと言うことはない。もし地震が起こったとしても、先生の予言が当たったことにはならない。これでは顕正会が脚光を浴びることにはならないのだ。
やはり直前に、絶好のタイミングで、予言しなければいけない。
しかし、凡夫の浅井先生には、できっこない相談である。
これは何度でも言っておくが、凡夫には絶対にわからない、それが未来のことなのだ。大地震はそれこそ今すぐに発生しても不思議ではないし、逆に五年後十年後かもしれない、ようするにわからないのだ。
台風を例に説明しよう。
日本は台風の通り道である。毎年、台風が上陸している。しかし、上陸回数であるとか、具体的なコースであるとか、細かいことはわからないのだ。風速であるとか雨量もマチマチであって、当然ながら被害の程度も異なる。自然にはそういう気まぐれなところがある。
地震もまったく同じだ。
日本列島が地震の多発地帯であることは誰もが知っていることだ。しかし、いつどこでどの程度の地震が起こるかは、地震学者でさえ言い当てられないのだ。
よって、もし予言者なるものが存在して、自然界の気まぐれさというか不確定要素がたくさんあって予測不能・計算不能の事案を正確に言い当てられるのであれば、ぜひとも次の大地震を教えてほしいものである。来ることはわかっているのだ。問題はいつどこでどの程度の地震が発生するかだ。津波でもいいだろう。われわれは各種の映像によって津波の恐ろしさを学習しているので、その予言が可能ならば全員が事前に避難することが可能だ。巨大津波が来たけれども、死者不明者がゼロであったならば、その予言者はまさしく救世主である。
これで読者には予言の困難さがよく理解できたことと思う。それから救世主云々には興ざめしたかもしれない。顕正会員にその自覚があるかどうか知らないが、彼らは浅井先生をそういう類に祀り上げようとしているのだ。
建白書の載る第1251号においても注目すべき記事があった。以下は男子部第七十一隊長の発言だ。
富士大石寺は大聖人様の御法魂まします宗門なるゆえに、大事な時には大使命を有するお方がお出になるものと、お聞きしておりますが・・・
上掲の文章の続きには日寛上人と日霑上人のことが出てくる。ようするに彼は、浅井先生こそが大使命を有するお方であり、二上人に肩を並べるほどの存在であると、そう言いたいらしいのだ。
お聞きしております・・・
誰から聞いたかが問題だ。たぶん浅井先生だろう。すると先生は、自画自賛しているようなものだ。もし違うのであれば、当該記事をボツにすべきである。わたくしの認識では、いずれは宗門の中に英邁なる御方がお出ましになって顕正会を認めて下さる、という意味だった。しかるに七十一隊長はそれを浅井先生に摩り替えてしまった。これが顕正新聞に掲載されている以上は、すでに顕正会の公式見解のようなものである。浅井先生もそれでいいと思っているわけなのだろう。
副総合婦人部長と言い、七十一隊長と言い、先生を祀り上げるのに必死のようだ。
2012/9/3
一病息災を願って
めずらしい人たちが登場した。ことにユタ氏のコメントは衝撃的だ。これに対し、沖浦氏とおおひがし氏がそれぞれの立場からコメントされているが、いずれも含蓄のあるものだった。
まず、ユタ氏のコメントから拾おう。
早逝&堕獄の覚悟
具体的な病名まではわからないが、以前より難病に罹っていることは聞いていた。それが今回、癌化の恐れだとか入院治療の必要性を医師より告げられたとのことだ。
ウソだと思われるのを覚悟で書いておくと、実はわたくしも難病に罹っている。厚生労働省が指定する四十数個だったろうか、そのうちの一つの病気を患っているのだ。病名については、別に書いても差し支えないと思うが、とりあえず伏せておこう。
幸いなことに、わたくしの場合は元気である。
一口に難病と言ってもいろいろあるわけで、わたくしの罹患した病気はそれほど深刻なものではない。また、同じ病気であっても症状は人それぞれであり、わたくしの場合は至って軽度であり、現在は治療を行なっていない。それどころか経過観察さえ、やめてしまったほどだ。
さて、わたくしがユタ氏に対し言えることは、何もない。その代わりと言ったら語弊があるけれども、大聖人の御指南を掲げておきたい。
命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。
法華証明抄の一節だ。
この御書は弘安五年二月二十八日に上野殿に与えられた。どうやら上野殿は重病に倒れ、死の危機に瀕していたごとくである。弘安五年は大聖人御入滅の年だ。大聖人御自身も我が身の余命幾ばくもなきことを自覚あそばされていた。また、上野殿の父君は早くに亡くなっている。文永二年だ。そして、上野殿の弟は弘安三年に、わずか十五歳で亡くなっている。つい二年前のことだ。
こうした背景を踏まえて上掲の御文を拝すると、ただ単に字面を追うのとは違った味わいがあるのではないかと思う。
病によりて道心はおこり候か。
妙心尼御前御返事の有名な一節だが、ひじょうに短い御書なので、ぜひとも全文を拝したいものだ。
又人の死ぬる事はやまひにはよらず。
死ぬのは病気に限ったことではない、という意味だ。
当時のゆき・つしまのものどもは病なけれども、みなみなむこ人に一時にうちころされぬ。
いわゆる蒙古襲来によって、壱岐・対馬の人たちはみな打ち殺されてしまった。
病あれば死ぬべしといふ事不定なり。
難病だから必ず死ぬとは限らない。
又このやまひは仏の御はからひか。そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人、仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候か。
病気の人は仏になることができる? なぜ? おそらくは病気をキッカケにして信心が起こるからなのだろう。
どうせ今健康でも、100年生きられません。
最後には死ぬんです。
けだし名言である。
沖浦氏は御書が心肝に染まっているのだろう。だから御書を意訳的にしかも平易に自分の言葉に直すことができる。
ただし、創価の信心の是非は別だ。
まず、ユタ氏のコメントから拾おう。
早逝&堕獄の覚悟
具体的な病名まではわからないが、以前より難病に罹っていることは聞いていた。それが今回、癌化の恐れだとか入院治療の必要性を医師より告げられたとのことだ。
ウソだと思われるのを覚悟で書いておくと、実はわたくしも難病に罹っている。厚生労働省が指定する四十数個だったろうか、そのうちの一つの病気を患っているのだ。病名については、別に書いても差し支えないと思うが、とりあえず伏せておこう。
幸いなことに、わたくしの場合は元気である。
一口に難病と言ってもいろいろあるわけで、わたくしの罹患した病気はそれほど深刻なものではない。また、同じ病気であっても症状は人それぞれであり、わたくしの場合は至って軽度であり、現在は治療を行なっていない。それどころか経過観察さえ、やめてしまったほどだ。
さて、わたくしがユタ氏に対し言えることは、何もない。その代わりと言ったら語弊があるけれども、大聖人の御指南を掲げておきたい。
命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。
法華証明抄の一節だ。
この御書は弘安五年二月二十八日に上野殿に与えられた。どうやら上野殿は重病に倒れ、死の危機に瀕していたごとくである。弘安五年は大聖人御入滅の年だ。大聖人御自身も我が身の余命幾ばくもなきことを自覚あそばされていた。また、上野殿の父君は早くに亡くなっている。文永二年だ。そして、上野殿の弟は弘安三年に、わずか十五歳で亡くなっている。つい二年前のことだ。
こうした背景を踏まえて上掲の御文を拝すると、ただ単に字面を追うのとは違った味わいがあるのではないかと思う。
病によりて道心はおこり候か。
妙心尼御前御返事の有名な一節だが、ひじょうに短い御書なので、ぜひとも全文を拝したいものだ。
又人の死ぬる事はやまひにはよらず。
死ぬのは病気に限ったことではない、という意味だ。
当時のゆき・つしまのものどもは病なけれども、みなみなむこ人に一時にうちころされぬ。
いわゆる蒙古襲来によって、壱岐・対馬の人たちはみな打ち殺されてしまった。
病あれば死ぬべしといふ事不定なり。
難病だから必ず死ぬとは限らない。
又このやまひは仏の御はからひか。そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人、仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候か。
病気の人は仏になることができる? なぜ? おそらくは病気をキッカケにして信心が起こるからなのだろう。
どうせ今健康でも、100年生きられません。
最後には死ぬんです。
けだし名言である。
沖浦氏は御書が心肝に染まっているのだろう。だから御書を意訳的にしかも平易に自分の言葉に直すことができる。
ただし、創価の信心の是非は別だ。
2012/9/1
建白書の感想
前回のコメント欄には重要な記述がたくさん見られるが、割愛させていただくこととして、今日は建白書の感想を書こうと思う。
八月十三日、顕正会から宗門へ建白書が提出された。
正確に言えば、顕正会会長の浅井昭衛から日蓮正宗管長早瀬日如上人へ送られたものだ。
平成二四年八月一三日
冨士大石寺顕正会
会長 浅井昭衛
日蓮正宗管長
早瀬日如上人
玉机下
これは顕正新聞第1251号掲載の建白書の文末をほぼ正確に再現したものである。ちなみに浅井昭衛は浅と衛が難字なので、パソコン上では簡易表記に改めさせていただいた。
それはともかく、上掲の表記には少しばかり驚いた。いや、かなり驚いた。上人の尊称を付けているからだ。
わたくしは当初、ごく単純に、細井日達・阿部日顕という呼び捨て表記との対比において、驚いていた。
だが、しかし、諫告書のことを思い出して、あれはどうだったろうかと、必死に記憶を呼び覚まそうとした。
諫告書をお忘れの人も多いかと思うが、これは平成二十年に書かれたものである。いつものごとく、面倒臭がりのわたくしは過去の新聞を調べもせず、とりあえず拙ブログの記録を検索してみた。すると、どうやら当時の浅井先生は早瀬日如上人とは書かず、早瀬日如管長と書いているらしいのだ。ようするに諫告書では管長、そして今回の建白書では上人、ということなのだ。
これは重箱の隅を突付くような話とお思いの人もいるかもしれないが、けっこう重要な変化だと思う。
さしあたって御相承の断絶をどう捉えるかが問題だ。
ご存知のごとく、顕正会では日達上人から日顕上人への御相承を認めていない。ようするに断絶したと言っているのだ。するとそれ以降の猊下はすべて不相承となるべき道理である。このゆえに御当代猊下に対しても上人とは呼ばず、管長と呼称していた。それが諫告書における表記なのだろうと考えられる。
今一度、念を押しておくと、当時の新聞を確認していないので間違っているかもしれない。だが、もし、上述のとおりであれば、今回における上人の呼称はまったく説明がつかないことになる。
いよいよ浅井先生もボケが始まって、数年前のことすらすっかり忘れてしまっているのだろうか?
急ぎ完璧なる免震構造の新御宝蔵を建設し、本門戒壇の大御本尊を秘蔵厳護すべし。
さて、今回の建白書の内容であるが、要約すれば上掲のごとくである。わたくしは『迷走する顕正会を斬る』の記述を思い出した。
しかし、浅井会長の思うようにならないことは多い。「不敬の御開扉を中止せよ」や「悪人追放」等の求めは、いくら何でも無理筋の要求であろう。
ようするに浅井先生は宗門に対し、さまざまの要求を行なってきた。正本堂の撤去などはその好例であり、確かにそれはきわめて大きな出来事だったけれども、宗門としては顕正会の要求を呑んで正本堂を解体撤去したわけではなかった。いわんや、その後に建設された奉安堂をや、現時点で十年になるだろうか、それをホゴにして新たな御宝蔵を建設することなど、誰が賛成するものかと思う。まさに無理筋である。
浅井先生の言い分は、急拵え・安普請の奉安堂が西日本超々巨大地震に耐えられるか、ということである。
掲載されている図によれば、大石寺直下にも活断層があるらしい。それが西日本超々巨大地震に刺激されて連動すると大石寺も震度七の大激震に襲われる可能性がある。奉安堂では心配だ。よって免震構造の新御宝蔵を築くべし。これが先生の言い分だ。
大飯原発の再稼働問題で今も引き続き問われているのは原発直下の活断層だ。なるほど、今回の建白書はこの辺に発案のヒントがあるのだろう。
この意味で宗門側が真摯に対応するのであれば、まずは大石寺直下の活断層の危険度を調査すべきだろう。もちろん専門家に依頼すべきだ。その上で奉安堂の耐震チェックが必要だ。これも専門家の仕事だ。
しかし、基本的にはその必要はない。
ご存知のごとく、日本の技術レベルは相当に高い。建築基準も厳正であり、よほどの違法建築でもない限り、十年で朽ち果てることはあり得ない。ましてや西日本超々巨大地震という大仰な呼称はなかったにせよ、昔から東海地震のことは言われていたのだ。当然、奉安堂はそれを考慮して建てられているはずなのだ。
以上、今回の要求は無理筋、これが結論だ。
しかし、もしかしたら建白書の目的は別にあるのかもしれない。いちおう表向きは大御本尊の御安危を憂えている。けれども真の目的は別にある。たぶん、そんな憶測が飛び交っているのではないか、とりわけ元顕正会の法華講員たちの間で、そのような議論が交わされているのではないか、そんな気がしてならない。
話を戻そう。建白書を一読して感じたのは、文体的不整合だった。
わたくしの感覚が正常であれば、今回の浅井先生の文章は荒い。なぜならば、途中で文体が急変するのだ。まるで人格が変わったように、あたかも別人が書いているのではないかと錯覚するくらい、文章の質が異なるのだ。
具体的に指摘すると、最初は丁寧な言い回しに終始している。
〜であります。
〜しております。
これが途中から変わるのだ。
〜である。
〜ではないか。
こんな具合だ。
まるで音楽で言うところの転調みたいな感じであり、ある意味では効果的なのかもしれないと思う。計算ずくということだ。
まとめると、二つの可能性が考えられる。
単にモウロクしただけ。それが原因で文章がおかしくなっている。
そしてもう一つは計算ずく。これはまさに御遺命守護の戦いの一環なのだ。転調が始まるのは御遺命に関する話題に突入するあたりからのことであって、これ以降はもう二度とデスマス調は見られない。最後まで宗門を叱責するかのような厳しい文体を貫いている。
一見すると文体的不整合、その原因はモウロクのゆえか、それとも計算か、何とも微妙なところである。
最後にもう一つだけ書いておこう。
御遺命守護の戦いの一環と書いた。一貫でもいいのだが、一環のほうが適切だろう。ようするに宗門諫暁はいちおう終了した。最後に申すべき事が最後だった。しかし、その後も諫告書を書き、さらに今回は建白書である。つまり、御遺命守護の戦いは今も続いているのだ。
わたくしの知る限りでは、御当代上人は未だ顕正会について言及していない、何一つ言及していない。
ゆえに浅井先生としては反応を窺いたいという思いがあるのだろう。そこで今回はいちおう下手(?)に出て、日如上人と呼んでみた。しかし、年来の主張である御遺命守護に関しては一歩も譲らずに書いた。
さて、上人はどのようなリアクションを示すだろうか?
おそらくはその結果次第なのだろう。先代・先々代に引き続いて、早瀬日如と呼び捨てにされてしまうかどうか、今はその瀬戸際なのだと思う。
八月十三日、顕正会から宗門へ建白書が提出された。
正確に言えば、顕正会会長の浅井昭衛から日蓮正宗管長早瀬日如上人へ送られたものだ。
平成二四年八月一三日
冨士大石寺顕正会
会長 浅井昭衛
日蓮正宗管長
早瀬日如上人
玉机下
これは顕正新聞第1251号掲載の建白書の文末をほぼ正確に再現したものである。ちなみに浅井昭衛は浅と衛が難字なので、パソコン上では簡易表記に改めさせていただいた。
それはともかく、上掲の表記には少しばかり驚いた。いや、かなり驚いた。上人の尊称を付けているからだ。
わたくしは当初、ごく単純に、細井日達・阿部日顕という呼び捨て表記との対比において、驚いていた。
だが、しかし、諫告書のことを思い出して、あれはどうだったろうかと、必死に記憶を呼び覚まそうとした。
諫告書をお忘れの人も多いかと思うが、これは平成二十年に書かれたものである。いつものごとく、面倒臭がりのわたくしは過去の新聞を調べもせず、とりあえず拙ブログの記録を検索してみた。すると、どうやら当時の浅井先生は早瀬日如上人とは書かず、早瀬日如管長と書いているらしいのだ。ようするに諫告書では管長、そして今回の建白書では上人、ということなのだ。
これは重箱の隅を突付くような話とお思いの人もいるかもしれないが、けっこう重要な変化だと思う。
さしあたって御相承の断絶をどう捉えるかが問題だ。
ご存知のごとく、顕正会では日達上人から日顕上人への御相承を認めていない。ようするに断絶したと言っているのだ。するとそれ以降の猊下はすべて不相承となるべき道理である。このゆえに御当代猊下に対しても上人とは呼ばず、管長と呼称していた。それが諫告書における表記なのだろうと考えられる。
今一度、念を押しておくと、当時の新聞を確認していないので間違っているかもしれない。だが、もし、上述のとおりであれば、今回における上人の呼称はまったく説明がつかないことになる。
いよいよ浅井先生もボケが始まって、数年前のことすらすっかり忘れてしまっているのだろうか?
急ぎ完璧なる免震構造の新御宝蔵を建設し、本門戒壇の大御本尊を秘蔵厳護すべし。
さて、今回の建白書の内容であるが、要約すれば上掲のごとくである。わたくしは『迷走する顕正会を斬る』の記述を思い出した。
しかし、浅井会長の思うようにならないことは多い。「不敬の御開扉を中止せよ」や「悪人追放」等の求めは、いくら何でも無理筋の要求であろう。
ようするに浅井先生は宗門に対し、さまざまの要求を行なってきた。正本堂の撤去などはその好例であり、確かにそれはきわめて大きな出来事だったけれども、宗門としては顕正会の要求を呑んで正本堂を解体撤去したわけではなかった。いわんや、その後に建設された奉安堂をや、現時点で十年になるだろうか、それをホゴにして新たな御宝蔵を建設することなど、誰が賛成するものかと思う。まさに無理筋である。
浅井先生の言い分は、急拵え・安普請の奉安堂が西日本超々巨大地震に耐えられるか、ということである。
掲載されている図によれば、大石寺直下にも活断層があるらしい。それが西日本超々巨大地震に刺激されて連動すると大石寺も震度七の大激震に襲われる可能性がある。奉安堂では心配だ。よって免震構造の新御宝蔵を築くべし。これが先生の言い分だ。
大飯原発の再稼働問題で今も引き続き問われているのは原発直下の活断層だ。なるほど、今回の建白書はこの辺に発案のヒントがあるのだろう。
この意味で宗門側が真摯に対応するのであれば、まずは大石寺直下の活断層の危険度を調査すべきだろう。もちろん専門家に依頼すべきだ。その上で奉安堂の耐震チェックが必要だ。これも専門家の仕事だ。
しかし、基本的にはその必要はない。
ご存知のごとく、日本の技術レベルは相当に高い。建築基準も厳正であり、よほどの違法建築でもない限り、十年で朽ち果てることはあり得ない。ましてや西日本超々巨大地震という大仰な呼称はなかったにせよ、昔から東海地震のことは言われていたのだ。当然、奉安堂はそれを考慮して建てられているはずなのだ。
以上、今回の要求は無理筋、これが結論だ。
しかし、もしかしたら建白書の目的は別にあるのかもしれない。いちおう表向きは大御本尊の御安危を憂えている。けれども真の目的は別にある。たぶん、そんな憶測が飛び交っているのではないか、とりわけ元顕正会の法華講員たちの間で、そのような議論が交わされているのではないか、そんな気がしてならない。
話を戻そう。建白書を一読して感じたのは、文体的不整合だった。
わたくしの感覚が正常であれば、今回の浅井先生の文章は荒い。なぜならば、途中で文体が急変するのだ。まるで人格が変わったように、あたかも別人が書いているのではないかと錯覚するくらい、文章の質が異なるのだ。
具体的に指摘すると、最初は丁寧な言い回しに終始している。
〜であります。
〜しております。
これが途中から変わるのだ。
〜である。
〜ではないか。
こんな具合だ。
まるで音楽で言うところの転調みたいな感じであり、ある意味では効果的なのかもしれないと思う。計算ずくということだ。
まとめると、二つの可能性が考えられる。
単にモウロクしただけ。それが原因で文章がおかしくなっている。
そしてもう一つは計算ずく。これはまさに御遺命守護の戦いの一環なのだ。転調が始まるのは御遺命に関する話題に突入するあたりからのことであって、これ以降はもう二度とデスマス調は見られない。最後まで宗門を叱責するかのような厳しい文体を貫いている。
一見すると文体的不整合、その原因はモウロクのゆえか、それとも計算か、何とも微妙なところである。
最後にもう一つだけ書いておこう。
御遺命守護の戦いの一環と書いた。一貫でもいいのだが、一環のほうが適切だろう。ようするに宗門諫暁はいちおう終了した。最後に申すべき事が最後だった。しかし、その後も諫告書を書き、さらに今回は建白書である。つまり、御遺命守護の戦いは今も続いているのだ。
わたくしの知る限りでは、御当代上人は未だ顕正会について言及していない、何一つ言及していない。
ゆえに浅井先生としては反応を窺いたいという思いがあるのだろう。そこで今回はいちおう下手(?)に出て、日如上人と呼んでみた。しかし、年来の主張である御遺命守護に関しては一歩も譲らずに書いた。
さて、上人はどのようなリアクションを示すだろうか?
おそらくはその結果次第なのだろう。先代・先々代に引き続いて、早瀬日如と呼び捨てにされてしまうかどうか、今はその瀬戸際なのだと思う。