2012/9/18

独白シンドローム  
高速太郎氏はキリスト教に詳しいようだ。しかし、全体の文脈として、それがどのような意味を持つのか、やや不明瞭のように思う。

聖人シンドローム

これが物凄く難解だ。

内外の外のレベル

これもまた難しい。

おそらくは内外相対の意味であり、未だ内道に達していない、外道のレベルだ、と言っているのだろう。いずれにしても聞き慣れない単語が多いので、それが余計に話を難しくしているのではないかと思う。

ところでユタ氏はブログを再開したらしい。

 手持ち無沙汰だったので、ブログ再開することにしましたよ。

わたくしがパソコンをやり始めた頃は、まだブログがなかった。いわゆるホームページを作って、そこに自分の書きたいことを載せるか、あるいは掲示板に書き込むか、それくらいしかなかったと思う。そして掲示板への投稿はわりと容易だったが、ホームページの作成はけっこう敷居が高かった。アップロードの作業が大変だったのだ。

それが今は物凄く簡単である。ゆえにユタ氏も上掲のごとく言うのだ。手持ち無沙汰だったので・・・と。

もし昔のように一々の作業が面倒臭いものだったら、そんな気軽には始められないだろう。逆に言うと、それがブログの乱立というか、あたかもゲームにおけるリセットボタンのごとく、立ち上げては潰し、立ち上げては潰し、という安易な行動につながるのだと思う。いや、もちろん、それは人それぞれの価値観だとか事情によるものなので、どのような利用方法であっても文句は言えない。ただ、わたくしの場合はケチな性格なので、せっかく立ち上げたブログをそう簡単には潰したくないのだ。

さて、話は変わる。

沖浦氏のコメントは失言みたいなものだ。もっとも本人はあまり気にしていないというか、むしろ己の主義主張に自信を持ってしまっているので、そこが厄介だ。

 戒壇が、大御本尊がなどと行って見ても、拝む人がいればこそです。

この部分は問題ない。ごく当然のことを言っている。行って見てもは言って見てもの間違いだろうが、それはいつものことだ。問題は次である。

 戒壇も、大御本尊も、信じて行じる人のためにありますし、無くても全く困りません。

無くても全く困らない・・・

善意に解釈するならば、拝む人がいなければ無くても全く困らない、という意味になるだろう。しかし、続きの文章を読むと、違う意味で言っていることがわかる。御本尊は信心の二字に収まっている、だから無くても困らない、と言っているのだ。この辺は御文の悪用だろう。まさか大聖人も、七百年後にこんな解釈をする人物が出てくるとは、思いもしなかったことだろう。

 『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。』
 (日女御前御返事)

 御本尊が私共の信心の二字におさまっているのですから、安置する戒壇も当然同じです。


ただし、最後の部分はかなり難しい問題を秘めている。

 本門戒壇を建築物だとして、考える事自体が間違えです。

いわゆる己心戒壇論だ。

難しい議論ではあるが、論理的には簡単だかもしれない。ようするに、己心本尊を主張する人は戒壇もしかり、ということになる。一方、曼荼羅御本尊の必要性を主張する人は戒壇も自ずと必要となる。御本尊は必要だが戒壇は不必要、マレにはこういう人もいるかもしれないが、それはヘソマガリである。

現状、創価学会は全国に多数の会館を有し、そこには必ず本尊があるはずだ。つまりは会館が戒壇の役割を担っていることになる。沖浦氏の主張に基づくならば、まずは会館の本尊を撤廃すべきだろう。これが実現してこそ、氏の主義主張が貫徹することになる。しかし、おそらくは実現しないだろう。

残暑お見舞い申し上げます。

>社会的圧力に屈して国立戒壇を捨てた立場の人がいったい何を主張できるだろうか?<相変わらず幼稚ですね。日蓮仏法を現代に蘇らせたとでもいいましょう。>しょせんは見え透いた言い訳に過ぎないのだ。<ちょっとずるい言い方ですが、42年経って国会議員40名/800万票、一方そちらは5万結集が目一杯でしょうか>わたくしの思うに、宗門にしても創価学会にしても、現在に至るまで言い訳に終始しているだけなのだ。<私が思うに浅井一族の己義の解釈だったという結果なのだ>これではまともな論争とは言えないだろう。<論争で広宣流布ができれば、大聖人の時代に広宣流布はとっくに終わっています>

と、まあ、こんな丁々発止を繰り返してきたんだ。
そうすると42年経って、さて、一方が事でもう一方が理だとすると、どちらが事であったか賢明なみなさんにはお判りでしょう。


今度はのび太氏だ。これはなかなかのレスポンスだと思う。ただし、一箇所だけ疑問が残った。

私が思うに浅井一族の己義の解釈だったという結果なのだ

結果論で物を言ってはいけないと思う。ようするに、解釈はそれ自体が正しいか間違っているかを純粋に追求すべきものであって、他の要素を入れてはいけないのだ。片や八百万、片や五万、たとえそうであったとしても、教義上の解釈そのものはまったく別次元のことであり、必ずしも八百万が正しいことにはならないのだ。これは聖愚問答抄に有名な御文があるけれども、あえて引くまでもないだろう。

今日は八月度総幹部会の記事を取り上げる予定だったが、次回に譲りたい。


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