2012/10/31

情緒的婦人部大会考  
いよいよ婦人部大会の話題だ。

大失敗!顕正会の婦人部大会
大雨洪水警報のなか警察と救急車が出動
倒れた女子高生を放置、男性の参加が四割も


婦人部大会の話題はすでに各所で取り上げられている。上掲はフェイク第1328号の見出しであるが、当然ながら顕正会のことをよくは書かない。いきなり大失敗と書くあたりがまさにその象徴だ。内容的にはデタラメであり、話半分に聞いておくのが賢明だろう。

顕正会・婦人部大会を検証する@〜C

瑠璃堂氏のブログだ。こちらはフェイクと違って、傾聴に値する。いや、傾聴は上から目線でよくない。言い直すと、フェイクとは違って詳細かつ的確な検証作業が行なわれている。

そういうわけで、すでにわたくしの出る幕はない。

まあ、しかし、マレには巌虎の視点・着眼点に興味をお持ちの人もいるかもしれないので、いちおう書いてみたいと思う。

末法濁悪の世に咲く「白蓮華」

これが顕正新聞第1255号すなわち婦人部大会特集号の大見出しである。

同大会は九月二十三日に行なわれた。ちなみに冒頭紹介したフェイクの発行日は翌日である。その速報性は立派なものだが、しかし、内容的にはズサンである。

結集は一万三千人程度
男性の参加者が約四割


もちろん、ぜんぶが間違いとは言わない。しかし、上掲は明らかな誤報だろう。

顕正新聞に載る写真ではほぼ満席である。厳密にはスタンド席に空席が見られるけれども、フェイクが言うほどではない。
また、男性の参加が四割も間違いだ。いったいどうやって数えたのか、無責任な報道もほどほどにせよ、と言っておこう。
そこでわたくしの結論だが、あくまでアバウトな数字と断わった上で、結集はおおむね二万、そのうち男性の割合は一割程度、というのが妥当なところだと思う。

フェイクの場合は最初から悪意の報道なので、相手にしないのが賢明であるが、明らかな誤報の部分だけは指摘しておいた。

白蓮華・・・

そこで善意(?)のわたくしは、白蓮華というキーワードに注目した。

 本日の婦人部大会、本当に素晴らしいですね。日本一のこの大会場が、二万を超す婦人部員によって埋め尽くされて白一色。あたかも濁悪の世に咲く白蓮華のごとくであります。

会長講演の冒頭だ。白一色の白には「はく」のルビが振ってある。「はくいっしょく」と読むのだろうか?

その読み方はともかく、掲載写真を見ると確かに白一色なのだ。わたくしはここに注目すべきだと思う。少なくとも一般人のコンサートなどではあり得ない光景だ。つまり、統制が取れている。事前に服装について通達があったのだろう。それがしっかりと守られているのだ。

この点は評価してよいと思う。

さいたまスーパーアリーナで無料の催しがあるから一緒に行きませんか?

こんな軽い感じで誘えば誰もが軽い気持ちで出掛けるかもしれない。しかし、それでは白一色にはならない。そういう騙まし討ちのような結集ではなく、顕正会の崇高な目的を伝えた上で、参加を促がすのだ。掲載写真の白一色からは、そうした背景が窺えるのではないかと思う。

ちなみに男性会員はワイシャツにネクタイを締めているので、判別できる。いや、もちろん、ノーネクタイの人もいるだろうけれども・・・

千日尼御前の信心を鑑とせよ

さて、会長講演の内容だが、正直なところ、目を惹くものはなかった。もちろん、活動会員とわたくしとでは感じ方が異なるわけだが、もはや目新しいものは何もなく、古い会員ならば知っている話ばかりで、それほど感動しないのではないかと思う。

千日尼の話は昔の婦人部大会でも言及していたはずだし、合宿研修会などでも同じ話をしているはずなのだ。ゆえに新鮮な感動はないわけだが、強いて取り上げるならば、わたくしは次のくだりに注目した。

このとき阿仏房はすでに90歳ですよ。

浅井先生自身、すでに高齢である。そしてまた顕正会員も高齢化が進んでいる。もちろん、婦人部もだ。
夫である阿仏房が九十歳ならば、おそらくは千日尼もそれなりの高齢だったろうと思われる。
つまり、先生は自分自身に鞭打つと同時に、高齢の婦人部員たちを励ましているのだ。

先日、石原都知事が辞任を表明した。なんと国政に再挑戦するとのことだ。これは大ニュースである。

さまざまの評価があって当然だが、さすがは石原慎太郎だと思う。自分がその年齢になった時、いったい何が出来るだろうか? すでに死んでいるかもしれないし、生きていてもクソの役にも立たない老人になっているかもしれない。それを考えると凄いことだ。

断わっておくが、わたくしは石原ファンではない。好きでもなければ嫌いでもない。ただ、超高齢化時代における生き方を考える上で、今回の件はそれなりに参考になると思った次第である。

顕正会における高齢化問題も、ある意味では時代を反映しているのであって、必ずしも特殊なものではないのかもしれない。

さて、最初のほうでわたくしは、婦人部大会はほぼ満席と書いた。しかし、厳密には上階に空席があったわけで、完全な意味での満席ではなかった。

フェイクの大失敗は言い過ぎにしても、実は婦人部幹部の気持ちとしては内心忸怩たるものがあったに違いないのだ。

もちろん、浅井先生自身もだ。

会場の詳細を知らないので、どのように呼ぶのか知らないが、四階席に相当する部分は空席が目立つ。全体からすれば微々たる席数に過ぎないが、それでも数十席、あるいは百席以上だろうか、空席があるのだ。

昔話をしよう。

二十五年ほど前の話だ。当時、浅井先生は言っていた。百人集められれば、私は日本全国どこへでも出掛ける、と。地方組織を発展させるために、頑張っていた時期だ。

その一環だったと思うが、わたくしの居住地域でも浅井先生を迎える集会が開かれた。早くに会場に着いたので、かなり前列に着席することが出来た。開始直前、幹部たちがあわただしく動き始めた。何をしているのかと後ろを振り返ると、なんと座席を片付け始めたのだ。会場はいわゆる多目的ホールであり、座席は折りたたみ椅子だった。はっきりと憶えているわけではないが、後部の二三列が埋まらず、空席になっていたような気がする。そこで幹部たちは先生が入場する前に空席を片付けてしまったのだ。

結集目標に届かなかったのかもしれない。それを糊塗するために席を片付けた。しかし、さいたまスーパーアリーナの場合はそれが出来ない。もし、やるとすれば、アリーナ席を減らすしかないが、それも姑息である。

フェイクの記事をデタラメと書いた。その根拠はひじょうに簡単な話で、顕正会では毎月の総幹部会などで常にリサーチを行なっているのだ。班長会はざっと五千人くらい。これが中核メンバーだ。あとはビデオ放映だけに参加する消極的な会員がどのくらい存在するか、わたくしには皆目わからないが、本部のほうではしっかりと掌握しているはずなのだ。それでおおむね二万人の参加は見込めると踏んだわけであるから、それが大幅減の一万三千人にとどまるとは考え難いことなのだ。

今までの経験則で言えば、大きな会場で空席を作るより、小さな会場で超満員の状態のほうが見栄えがいいし、会員の士気を高めることが出来る。ましてや批判者たちが目を光らせているので、ヘタは打てない。ゆえに、無謀な結集はやらないものと考えたほうが自然だ。

その意味で、わずかながらも空席があったことは、先生以下幹部会員たちにとって、物凄く忸怩たるものがあるに違いないのだ。

最後にもう一歩だけ踏み込んで書いておきたい。

 カルト教団・顕正会の婦人部大会が二十三日、大雨洪水警報にもかかわらず、埼玉スーパーアリーナで強行されたが、大失敗に終った。

フェイクの記事だ。カルトだとか大失敗は余計なお世話だが、当日の豪雨は事実そのものである。わたくしは上のほうで、数十ないし数百の空席を云々した。この空席はもしかしたら悪天候の影響かもしれないのだ。すると顕正会は諸天善神に見放された、守られなかった、ということになるだろう。

大会前に、健康面に不安のある人は参加を控えるように、という意味の通達が出されていた。であれば、当日の体調次第、という条件付きで参加を約束した人もいたかもしれない。二万人規模の大会であれば、そういう人たちが数十人ないし数百人いたかもしれないのだ。それがあの悪天候でことごとく欠席した・・・

わたくしの漠然とした印象を書くと、今年は九州地方が水害に見舞われた。狙い撃ちされたかのごとく、たびたび豪雨が襲った。一方、関東地方は晴天が続いた。九月二十三日は久しぶりの雨、しかも豪雨だった。

これが婦人部大会のすべてを象徴しているのかもしれない。いや、婦人部大会のすべてではなく、顕正会のすべて・・・かもしれない。

2012/10/30

御都合主義の正体  
前回に続いて顕正新聞の話題だが、その前に高速太郎氏にご挨拶申し上げよう。

◇困ったものだ、いつまでも本題を見つめない情緒的的発言の厳虎さん

情緒的的発言・・・

単なる誤字なのか、それとも意味があるのか、そこが気になるところだ。それにしても本題とは何だろう? 拙ブログは表題のごとく、独白なのだ。より具体的に言えば、落ちぶれ顕正会員がグチをこぼしている、そんな感じのブログなのだ。

各々これを御教訓あるは嬉しき事なり。ただし、御身を教訓せさせ給へ。

こんなところで御書を使うと大聖人に叱られそうだが、気分的にはピッタシの御文だ。

ところで、傍観者v氏によれば、浅井先生の日蓮正宗批判ネタは創価新報とのことだ。すると例の日如上人が講習会を欠席した話は、創価新報の何号に出ているのだろうか?

引き続きご教示願いたい。

さて、顕正新聞第1254号の続きだ。

国家権力もひれ伏した絶大威徳
 眼前の証拠を以て「本仏」を示し給う


第三面には竜の口法難御報恩勤行会の会長講演が掲載されている。上掲はその見出しだが、本文中には次のごとく書かれている。

 このような不思議な光景は、人類史上どこにもない。

いわゆる光り物の話であるが、わたくしは先生の説明に欺瞞を感じている。

種々御振舞御書を顕正会では下種本仏成道御書と呼んでいる。この改名そのものはさしたる問題ではないだろう。むしろ、この御書を重視していることが窺われる事例だ。実際、顕正会では過去に繰り返し当該御書の講義が行なわれている。

ご存知のごとく、顕正会には御書がない。ゆえに講義の時には、資料として御書のコピーが配られる。

いかに八幡大菩薩はまことの神か、(中略)今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。

これでわたくしの言いたいことが見えてきたはずだ。

時間的制約があるので、長い御書の場合は抜粋だとか抄出が行なわれる。これ自体はさしたる問題ではない。しかし、もしそれが恣意的な抜粋ないし抄出であれば、いわゆる切り文のソシリは免れない。中略も同じである。

では、上掲の中略部分をご覧に入れよう。

いかに八幡大菩薩はまことの神か、和気清丸が頸を刎ねられんとせし時は長一丈の月と顕はれさせ給ひ、伝教大師の法華経をかうぜさせ給ひし時はむらさきの袈裟を御布施にさづけさせ給ひき。今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。

わたくしは浅井先生の当該講義を何回受けただろうか?

おそらく古参会員であれば、数え切れないくらい受けているはずだ。ぜひ証言を願いたい。わたくしの記憶ではそのすべてにおいて、くだんの箇所を中略としているのだ。これは明らかに都合が悪いからだろう。

こんなテイタラクでいいのだろうか?

大袈裟に言えば、御書の改竄だ。もしこの点を追求されたら、先生はどのように返答するつもりなのか、そこが気がかりである。このような不思議な光景は人類史上どこにもない、という説明のために、御書の文言を抹殺しているようなものなのだ。こんな本末転倒の話もあるまい。先生は大聖人を最大限尊崇しているようでいて、かえって逆のことをしているのではないか、と言いたいところだ。

さて、どうでもいいことを書くと、海側からの航空写真がけっこう目を惹いた。武蔵守邸、由比ヶ浜、七里ヶ浜、竜の口、江ノ島。掲載写真にはこれらの文字が書き込まれているわけだが、相模会館の表示はなかった。写真のフレーム内には確実に入っているはずなのだ。であれば、書き込みそうなものなのだが、今回は大聖人の御通りになったであろうポイントのみに限定したごとくである。

「モンゴルこそ東洋広布の先駆けに」
 先生のメッセージに感動のるつぼ


女子部総務の報告だ。彼女はモンゴル集会のために日本を飛び立った。現地までの道のりが凄まじい。空港からさらに車で十時間も走るらしいのだ。指導担当とは言え、ご苦労なことだ。

そこで浅井先生のメッセージが読み上げられた。

 このような不思議な光景は、人類史上、世界のどこにも見ることができません。

ここでも同じことを言っている。モンゴルでは比較的に教養のある人たちが顕正会員になっているようだが、もしそれが事実であれば浅井先生の欺瞞に気付くのもわりと早いのではないかと思う。

 大聖人御在世に「隣国の賢王」の使命を果たしたモンゴルこそ、こんどは東洋広布の先駆けとなるべきです。

もう少し引用範囲を拡げないと理解し難いのだが、そろそろ面倒臭くなってきたので、これでご勘弁願いたい。

わたくしは先生の思考力を疑った。以前、拙ブログでは蒙古脅威論について云々したことがある。手っ取り早く言えば、浅井先生は教条主義であり、御書を直訳的に解釈する人なのだ。であれば、今日においても中国脅威論ではなく、蒙古脅威論を唱えるべきが筋ではないかと。ところが上掲のごとく言っているわけだ。

ようは御都合主義なのだろう。何しろ御書であっても都合の悪い部分は中略で誤魔化してしまうのだから、丸っきりの教条主義でもないわけだ。結局は自分の都合で物を言っているだけなのだ。

先生は新御宝蔵の建設費用をも…

これはまた重要な話題だが、次の機会に譲りたい。

「電力不足」の脅しは大ウソだった!
 関電 再稼働なしでも供給に余裕


これはいい記事だ。数字がゴチャゴチャしていて、わかり難いけれども、まあ、それは致し方がないところだろう。

最後に女子部班長の記事を取り上げよう。彼女は女子部所属だが、失礼ながらかなりの高齢である。それはともかく次のくだりが理解不能だった。

 私には八百万円の借金がありましたが、債務整理により過払い金が七百万円も返って来たことで、借金は百万円だけになり、月々一万円の返済でよくなるという「初心の功徳」を頂き、有難さでいっぱいになったものであります。

幸か不幸か、わたくしには債務整理の経験がない。ゆえに、上掲の意味がよくわからないのだ。七百万も戻ってきたのであれば、それで百万の借金を相殺すればいいはずだ。手元には六百万もの大金が残ることになる。

さすがにそれでは話がうま過ぎるので、たぶん七百万円が相殺分なのだろう。それが無難な解釈だ。

2012/10/28

締め切りのない気ままさ  
今日は継続中の話題を休止して、顕正新聞第1254号をやっつけてしまおうと思う。沖浦氏には申し訳ないが、ご了承願いたい。

すでに九月度総幹部会の会長講演については述べた。いわゆる事実上の国立戒壇が新たなキーワードであり、今後も注視していきたい旨、述べた。

当該講演にはもう一つ注目すべき事案がある。宗門の動向を伝えるものだ。

浅井先生は、血を吐く思いで建白書を提出したが宗門がこれを用いるかどうかは全くわからない、と言った後、引き続き次のごとく発言している。

 その後、わかって来たことは、八月二九・三〇の両日にわたって開催された全国教師講習会に、早瀬日如管長が欠席したということだけです。(以下省略)

わたくしはガッカリした。

というのは基本的に新聞は順番に読むものだ。会長講演は二面から三面にかけて掲載されているわけだが、すでに一面の報道において、講演の要約が出ている。上掲に対応するのは次のくだりである。

 そして先生は、その後の早瀬日如管長の動向について述べられたが、その「不思議」に全幹部は身震いし、先生の建白書が大聖人の御悲憤のままであることを肌身に感じた。

わたくしはこれを読んで期待した。ほう、今回の会長講演は面白そうだ、と。ところが期待はずれだった。

浅井先生の情報源がいずこであるか知らないが、わたくしはこの話をすでに知っていた。あのフェイクが書いているのだ。創価学会系の謀略情報紙として有名なフェイクのことだ。どこまで信用してよいものか、そこは甚だアヤシイところだが、日如上人が講習会を欠席したのは事実なのだろう。ゆえに、わたくしは会長講演を読んでも驚かなかった。すでに知っていたからである。

この点は割り引いて考える必要があるわけだが、わたくしの思うに、この情報を知らない人がいきなり顕正新聞を読んだとしても、それほど驚かないのではないかという気がする。上人といえども生身の人間だ。身体の具合の悪いこともあるだろう。それが一月も二月も続くのであれば、日蓮正宗の管長としての職務も遂行できないわけで大いに問題だが、記事を読む限りでは二日間だけの話である。大事な行事に欠席するのはもちろん問題だが、わたくしの感覚ではそれほどの大問題でもなかろうと思う。

結論として言いたいのは、顕正新聞の紙面構成の失敗である。

一面で期待を持たせるような書き方をしているが、本文を読めばガッカリする。これでは失敗もいいところだ。本文の価値を損ねてしまっては本末転倒である。

さて、次は総合女子部長の記事だが、これがひじょうに悩ましい。

 この身に代えても先生の御供を

記事本文に出てくる文章だが、それが見出しにもなっている。ようは編集部もこれで問題ないと思っているのだろう。

わたくしの言語感覚からすると、甚だ疑問である。

この身に代えても・・・

これはよく使われるフレーズである。いや、もちろん、ドラマだとか芝居の世界の話であって、日常的にはまず使われない。つまり、顕正会は非日常的というか、現実離れした組織ということだ。

それはともかく、この身に代えてしまったら御供は出来なくなるではないか、というのがわたくしの意見だ。じゃっかんアゲアシ取りの気味がなくもないけれども、いちおう問題提起したいと思う。

普通は、この身に代えても○○を守る、というような使い方をするはずである。自分の命を楯にして何かを守るのだ。

この登壇の前後に総合婦人部長が登壇している。すでに先般、取り上げたごとく、彼女は四キロの道のりを云々しているのだ。つまり、生きていなければ四キロの御供は叶わない。すると総合女子部長の場合は誰かに遺影を持ってもらって、御供するつもりなのだろうか?

弁護士になり広宣流布のお役に
 ついに念願叶い司法試験に合格!


男子部班長の体験発表だ。彼は高校生大会の時に発奮し、猛勉強するようになった。その後、顕正会では逮捕事件が頻発した。顕正会側はそれを不当逮捕であると主張した。彼が弁護士を志したのは、そうした理不尽な不当逮捕を目の当たりにしてのことだった。

 振り返れば、高校三年生のときに弁護士を志してより七年。
 少ない勉強時間の中にも浪人することはなく、最短で司法試験に合格できたことに、御本尊様の御守護を強く実感・・・


顕正会における弁護士第一号であろうか?

これは物凄くいい話だが、これをベースに顕正会批判を書いておこう。

顕正会は公称百五十万を誇る。そこに弁護士は一人しかいない。すると顕正会が一千五百万の時、弁護士は十人となる。さらに一億五千万の時には百人だ。

今の日本に弁護士は何人いるのだろうか?

百人のはずはない。もっといるはずだ。

つまり、公称百五十万がウソっぱちであることは、この事実からもわかるわけだ。

さて、次回はいよいよ婦人部大会の話題・・・と行きたいところだが、まだ他にも宿題が残っているのだ。今回の顕正新聞には取り上げるべき話題がたくさんある。それを片付けてしまわないと先には進めないのだ。いや、進んでもいいのだが、しかし、別に急ぐ必要もないので、次回も当該号の話題を取り上げるつもりである。

2012/10/26

習い損ない軍団との戦い  
まったく困った人たちだ。

まあ、沖浦氏は昔からなので、今さらどうにもならないが、高速太郎氏は何とかしたいものである。

まず、沖浦氏からやっつけてしまおう。

 命はね、二つの意味があります。

 この世で生命活動をする生物としての現在する命。
 それの基本となる本源的な命。
 二重なんです。


ここは難しいところだが、とりあえず異論はない。

問題は次だ。

 その本源的生命は、どう言う方法でも破壊出来ません。
 無始無終です。

 大聖人がおおせですから、信受いたしましょうね。

 戒壇本尊は物です。
 無始無終ではありえません。


「生物」は無始無終だが、「物」は無始無終ではない。

もし、そう言いたいのであれば、もう少し説明が必要だろう。ようするに、生物における二重性についてはいちおう説明がなされている。ひじょうに難しい事案なので、そんな単純な説明で万人の納得を得られるとは思えないが、ともかく説明が付されている。ところが物のほうは説明がない。ずばり結論だけを書いてしまっているのだ。物は無始無終ではないと。

なぜに生物には二重性があって、物には二重性がないのか、である。これをどうやって説明するのか、それが沖浦氏の課題である。

わたくしの意見を書いておこう。

不審して云はく、非情に十如是亘らば草木に心有って有情の如く成仏を成すべきや如何。

これが結論だ。大聖人の仏法は究極的なところで有情・非情の差別を設けない。よって、○○は生物だから無始無終、△△は物だから無始無終ではない、などという考え方は成り立たない。

これで沖浦氏の習い損ないが確定した。

さて、今度は高速太郎氏である。 

 「一閻浮提」を地球とすると、法門と法体が不整合になりませんか。

まったくお話にならない。

しかし、このまま放置するのもどうかと思うので、可能な限り書こうと思う。まずは次のリンクを参照されたい。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1754.html

まず、表題が象徴的である。二ヶ月前にすでに予感していたごとくである。高速太郎氏との議論が今も続いていること自体、驚くべきことであるが、さらに内容そのものが一向に進歩していないことが驚きである。

これはお互いさまなのだろう。パンチ力が弱いので、一向に勝負がつかない、そういう感じなのだと思う。

しかし、いよいよ決着をつけるべき時が来た。

一閻浮提は地球のことである。

これがわたくしの意見だ。リンク先を見ればわかるように、わたくしは御書を二文引いて、そのように結論した。

ところが高速太郎氏は二ヵ月後の今日に至るまで、一度もまともな意見を書いていない。リンク先のコメント欄には次のごとく書かれている。

今まで私が接した方達は、宇宙と考えている方がほとんどでした。

それがどうしたと言いたい。そんなのは論証でも何でもない。まずは大聖人がどのように御考えであられるか、その上で世間一般の認識がどうか、そこに齟齬があればどのように整理すべきかが問題となるわけだ。しかるに高速氏は自分の周りの人間が一閻浮提を宇宙と認識しているとして、もはやそこで思考を停止してしまっているのだ。ゆえに二ヵ月後の今日も、前掲のようなわけのわからないことを書いて平然としていられるのだ。

 三大秘法は、法門では有りません、法体です。

前々回のコメント欄から拾ってきた。実はこの段階でもツッコミを入れる準備は出来ていた。ただ、前回の拙稿を読めばわかるように、散漫な議論を避けるために要点を絞った。それで見送ったのだ。

しかし、高速太郎氏にとって上掲はコダワリの部分なのだろう。前回のコメントにおいても、同様の書き込みが見られるのだ。

 厳虎さんは、法・法門・法体を自分に都合よく使い分けていませんか。

ほう、面白いことをおっしゃるものだ。

 「大事の法門」とは、地球に限った法門でしょうか。三大秘法は「法体」です。

最初に、もはやお話にならない、と書いた。なぜならば、一閻浮提と同じで、言葉の定義が明確ではないからだ。

まず、高速氏のやるべきことは、法・法門・法体の区別をしっかりと説明することだ。でなければ、いったい何を言っているのか、さっぱりわからない。

余談になるが、いちおう言っておこう。言葉の定義を論ずるのは面倒臭い場合が多い。ゆえにわたくしは嫌いである。通常、そうした煩瑣な作業をせずとも自ずと意味が見えてくる、それが優れた文章なのだと思う。文脈からそれとなく意味が理解できるのだ。生意気を言うようであるが、わたくしは御書を拝読するに当たって辞書や解説書をほとんど読まない。基本的には当時の信徒に宛てた御手紙なのだから、それほど難解のはずがないのだ。もちろん古語であるから現代人にはわからない言葉がある。当然ながら仏教用語もたくさん出てくる。しかし、基本的には信徒宛の御手紙なのだ。ゆえに、その信徒の気持ちになって拝するならば、自ずと見てくるものがある。これがわたくしの御書拝読法である。

話を戻そう。

まずは高速太郎氏に法・法門・法体の整理の仕方を伺う必要があるわけだが、わたくしは迂遠な議論が嫌いだし、自分の手の内を隠して質問するのも潔しとしないので、先に意見を書いてしまおう。

わたくしがもっとも信頼する(?)創価学会の公式サイトの御書検索によれば、法体は二十五件、法門は三百八十一件、そして法は今のところ無数にあるとだけ書いておこう。数の希少を重要度とするならば、なるほど法体は三者の中では最重要となる。しかも御相伝書に多く見られる言葉なのだ。

そこで再掲である。

 三大秘法は、法門では有りません、法体です。

これは間違いである。なぜならば、法華取要抄のいちばん最後に次のごとくあるからだ。

本門の三つの法門之を建立し・・・

これで高速太郎氏の習い損ないが確定した。御書を真剣に研鑽すべきである。

ただし、氏の言わんとしていることを善意に解釈すれば、三大秘法抄の次の一節に通じないわけではないと思う。

・・・三大秘法の其の体如何。

あるいは先日引用した草木成仏口決を再掲すれば、

一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。

とあり、さらに開目抄にはきわめて重要な一節がある。

一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。

当然、前者は大曼荼羅が法体であり、後者の場合は文の底に沈められている何かがそれに当たるわけだ。

これでおぼろげながらも法門と法体の関係が見えてきたのではないかと思う。そして単なる「法」の場合であるが、これはその都度、文脈から判断する以外にないだろう。まさに言葉は生き物であって、文脈によっては正反対の意味にもなり得るものなのだ。わたくしが言葉の定義を論ずるのは面倒臭いし嫌いだと書いたのは、まさにこれがためである。

以上、わたくしの法・法門・法体の認識はかくのごとしであるが、はたして高速太郎氏はどのように考えているのだろうか?

それにしても骨の折れる議論である。

2012/10/22

凡夫の浅知恵を恥ず  
今回は当然ながら高速沖浦連合軍との戦いである。

キリスト教では全知全能の神を崇めている。たぶん、裏を返せば、人間がいかに不完全な生き物であるかということなのだろう。ゆえに、完全・完璧なるものへの希求がある。

問題は神の存在そのものである。

人間が不完全なるがゆえに、完全なるものへの憧憬があって、それが神なる存在を作り上げた。となれば、これはもう架空の存在に他ならない。

おそらくは華厳経の次のくだりがその事情を物語っているのだろう。

心は工みなる画師の種々の五陰を造るが如く、一切世間の中に法として造らざること無し。心の如く仏も亦爾なり。仏の如く衆生も然なり。

この後のいわゆる心仏及衆生是三無差別が開会せられて、大聖人の御法門に取り入れられていることはよく知られるところであるが、それはさておく。

キリスト教の人には異論・反論があろうものの、しょせんは爾前・権経レベル、それがキリスト教なのだ。空想の産物と書けば気を悪くするかもしれないが、存在そのものを証明できない以上は、そう言われても仕方がないだろう。

完全なるものへの憧憬・・・

さて、ここからが本題だ。戒壇の大御本尊への批判はさまざまあるが、高速太郎氏は次のごとく言う。

※最大の齟齬は、一大秘法を、なぜ自然界のもので作れるのかと言うことである。

これに対してわたくしは、情緒的・気分的、と書いた。

ようするに我々には完全なるものへの憧憬がある。戒壇の大御本尊とて無常は免れない。いずれは朽ち果てる。つまりは不完全であると。

これが物凄く、情緒的・気分的なのだ。

たぶん、言っていることは正しいのだろう。自然界のもので作られている以上、いつかは朽ち果てるのだ。それはそのとおりだ。

では、何だったら永遠なのか、それが問題だ。

ここで無難な答えは、「法」なのだろう。わたくしに言わせれば、それがいちばんアヤシイことになる。なぜにそれが完全であると言えるのか、まったく説明できないのだ。

仏は文字に依って衆生を度し給ふなり。

これまた先般に引き続き禅宗破折の文証である。話によると仏教の中でも禅宗は西洋人にわりと好まれているらしい。他の仏教はおおむね仏像に向かって何やら唱えているわけだが、それが西洋人には物凄く違和感があるらしいのだ。確かに仏像も立てず経典も読まず、ただひたすら座禅にふける姿はシンプルであり、文化圏の違う人たちにも受け入れやすいのかもしれない。しかし、大聖人は禅宗を痛烈に批判している。上掲はそのいちばん平易なところを抽出させていただいたものである。

譬へば行く水にかずかくが如し。

法なるものがアヤシイと書いたのは、まさにここにある。完全無欠の法があるとしても、それを文字にしなければ誰にもわからないのだ。ここが一種のジレンマであって、完全無欠の法を文字にした瞬間に、それは完全無欠の法ではなくなってしまう。

因分可説・果分不可説

他にも言語道断など、さまざまの表現があるので上掲が適切かどうかわからないが、ともかく本来は、言葉をもって述べ難し、なのだ。

それを承知で、仏は化導を垂れる。高速氏や沖浦氏の考えていることなど、百も承知なのだ。

口決に云はく「草にも木にも成る仏なり」云云。此の意は、草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり。

いよいよ結論が見えてきたようだ。

一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり。

これで高速・沖浦の二氏が習い損ないであることが判明した。彼らは禅宗チックであるか、もしくは西洋カブレなのだろう。物質的なものが朽ち果てるのは当然であるが、ご覧のごとく、大聖人はそれを承知の上で大曼荼羅をあらわされたのだ。これを否定して、どうするつもりなのだろうか?

同じ草木なれども仏とつくらるゝは宿縁なるべし、仏なりとも権仏となるは又宿業なるべし。

これは傍証の意味でけっこう重要だかもしれない。つまり、直接的には大曼荼羅御本尊のことを仰せられてはいないわけだが、間接的にはそれを意味しているように拝されるからだ。何しろ続きの御文が次のごとくなのだ。

 此の文には日蓮が大事の法門どもかきて候ぞ。よくよく見ほどかせ給へ、意得させ給ふべし。一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ・・・

最後に蛇足を承知で書いておこう。

法華経の功力を思ひやり候へば不老不死目前にあり。

すべてのものが朽ち果てるのと同様、我々もまたやがては老い、そして死ぬのだ。

命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。

さて、そうすると、前掲の不老不死とはいったい何なのだろうか?

片や命は限りがあると言い、片や不老不死目前と言う。大聖人の自語相違であろうか?

わたくしにはうまく答えられないが、ともかくこの論理は戒壇の大御本尊にも当てはまるはずである。ようするに、命に限りがあることと不老不死とが矛盾しないとするならば、戒壇の大御本尊にもまったく同じ理屈が当てはまることになるのだ。つまり、いつかは朽ち果てるけれども、それでいて常住不滅なのだ。

2012/10/18

天生原への遠い道のり  
沖浦氏からさっそくのコメントを頂戴した。しかし、わかっとらん、としか言い様がないところだ。

 御書に書いてあるのですから、どうしようもありません。

それでは要望したい。そのものズバリ、御本尊は依報である、という文証をお願いしたい。話はそれからだ。

さて、今度は高速太郎氏である。

なぜ法華経の中に法華経そのものが説かれていないのか。もう一度、考える必要があると思います。

これは説明が必要のはずだ。法華経の中には法華経が説かれていない。一種のナゾナゾみたいな話である。もう少し丁寧な説明をお願いしたい。

 それらを考えるとき、唯一無二の全能的なご本尊が在ることは矛盾です。

これも説明不足だ。それらを考える時・・・というのは、高速太郎氏の思考を意味するのだろうけれども、他者にとってはいったい何を考えているのかわからない。この場合は何をどのように考えたのか、その思考プロセスそのものを開示しないと相手には伝わらない。ぶっちゃけ言えば、説明がヘタクソなのだと思う。

よって、これも再説明をお願いしたい。話はそれからである。

さて、今日は顕正新聞第1254号を取り上げる。当該号のメインは九月度総幹部会だ。

事実上の国立戒壇

会長講演における新境地(?)の発言である。八月度総幹部会に引き続き、今回も同じ発言をしている。

 その国立戒壇建立の鍵は国家意志の表明にある。そして国家意志表明の決め手は、一国の総意にある。
 「戒壇の大御本尊様を守護し奉る」との一国の総意が国家意志となって顕われれば、すでに事実上の国立戒壇である。このとき日本は始めて侵略に打ち勝ち、救われるのです。
 そして、この一国の総意を決するのが、国民の過半たる六千万の地涌出現であります。


これについては先日、すでに述べた。
顕正会ではいわゆる他国侵逼を二千二十年代に想定している。この想定自体はそれほど荒唐無稽ではない。問題は戒壇建立のほうだ。客観的には間に合わない。もし戒壇が建たないと日本が滅んでしまうというのであれば、すでに日本滅亡は確定したも同然となる。ともかく国家的な大戒壇なのだから、完成するまでに相当の時間が掛かるのだ。
この意味で顕正会のシナリオは破綻していることになる。

そこで浅井先生はシナリオを変更した。それが事実上の国立戒壇という概念なのだ。

穿った見方をすると、先般の建白書もこの話にリンクしていることになりそうだ。なぜならば、このまま行けば奉安堂が事実上の国立戒壇となる。いわば暫定的な国立戒壇だが、ともかく天生原に正式な戒壇が建つまでは奉安堂が国立戒壇の役割を果たすことになるのだ。浅井先生としてはこれがイヤなのだろう。だから建白書で御宝蔵の建設を提言したのだ。

ともかく浅井先生の新見解としては、天生原に戒壇堂が建つ以前に、すでに国家意志が表明された時点で、事実上の国立戒壇が成立する、ということになりそうだ。

しかし、そうなると、天生原でなければいけない絶対的な理由がなくなってしまう。この辺の法門上の整理をどうするのか、今後の言動を注視したいと思う。

ところで、次の総合婦人部長の発言もまた、ひじょうに興味深い。

晴れて先生と共に四キロの道のりを行進させて頂くその日まで・・・

今もなお天生原説は捨てていないようだ。ゆえに善意に解釈すれば、国家意志が表明された時点で奉安堂ないし御宝蔵が暫定的国立戒壇となり、その後、天生原に戒壇堂を建て、満を持して御遷座が行なわれる、といった感じだろうか?

わたくしはここで二つの疑問を差し挟んでおきたい。

まず、失礼ながら浅井先生の年齢的な問題である。すでに先生自身が戒壇建立をまだ先のことであると自覚している。二千二十年代は戒壇建立の気運を醸成させるのがやっとであって、仮に急展開があったとしてもそこから建設を開始して完成するのは、どう見積もっても三十年代ないし四十年代だろう。はたして健在でいられるか、である。

そしてもう一つの疑問は、そもそも四キロの行進とは何か、である。

実はわたくし自身も今まで幻想を懐いていた。浅井先生を先頭に大石寺から天生原までの四キロを行進することをである。
しかし、これにはまるで具体性がなかった。単なる夢の話なのだ。
イジワルなことを書くと、すでに現時点の浅井先生の体力では四キロも歩けないだろう。平坦な道ならばまだしも、大石寺から天生原まではずっと上り坂なのだ。現時点でも先生には無理。いわんや二十年後三十年後はもっとシンドイことになっているはずだ。
それはともかく、四キロの行進の意味は御遷座のことである。誰が戒壇の大御本尊を徒歩で御遷座すると決めたのか? そんなことは決まっていないはずだ。正本堂から奉安殿、そして奉安堂へと、大石寺の中で御遷座するにはそれほど問題を感じないけれども、それが天生原となると大問題である。
さしあたって、わたくしのイメージを申し上げれば、やはり自動車を使って御遷座申し上げるのが常識的ではなかろうかと思う。であれば、四キロの行進は自動車で御供申し上げることになる。

いかがだろうか、はたしてここまで具体的に考えた顕正会員が、かつていただろうか?

結論的には御供は無理である。自動車での御遷座となると、ごく少数の供しか適わない。まさか何百台何千台も連なるわけには行かないからだ。すると、大多数は沿道で御見送り申し上げる以外にない。

大きくは二つに分けて疑問を呈した。

一つは先生の存命中に戒壇が建つかどうか、である。そして二つ目は、四キロの行進の具体的なシナリオである。

そもそもがそれ以前に天生原戒壇説の是非が問題となる。何しろ戒壇の大御本尊を所有する大石寺がそれを否定しているのだから、まるで話にならない。

困ったものだ。

2012/10/17

双方向性こそが法華の深意  
久しぶりの更新であるが、さっそく本題に入ろう。

 宗門の教学では、自分は依報なのですね。
 ご本尊が正報だそうですから、自分自身に主体性がない、煙のような人生。

 魅力無いですね〜〜!


これは誤解だろう。日蓮正宗でそんなことを教えているとはとうてい思えない。

沖浦氏は続きの文章の中で、黒川氏の発言を紹介している。

>明確じゃないですか。依報=自分及び一切の環境は影であり、正報なくば依報なし=御本尊なくば自分なし」ですね。(黒川さん談)

もちろん部分的な引用なので、これが黒川氏の言いたいことを正確にあらわしているのかどうか、そこは何とも言えないところだが、ともかくこの部分に限って言えば、大間違いである。

 私共創価では自分は正報で、人生の生き様は自分が決めますし、主役は自分。

 ここが根源的な異なりです。

 『夫十方は依報なり衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし身なくば影なし正報なくば依報なし又正報をば依報をもつて此れをつくる、』
 (瑞相御書)

 十方とは、自分を囲む環境全てです。
 四方八方と上下で十方。
 それが全て依報です。

 衆生は正報ですから、私も貴方も衆生で正報。
 そして、本体で本、周りの環境は迹。

 私共衆生がないなら、環境である宇宙もない。
 御書に書いてあるのですから、信受いたします。


依正不二はいちおう基礎教学の範疇に入ると思う。顕正会では初心者が学ぶ本にこのことが書かれている。たぶん、宗門・法華講でも創価学会でも同様だろうと思う。

そこで沖浦氏だが、彼の場合は依正不二論ではなく、依正論を展開していて、これが初心者にとってはひじょうに迷惑な話であり、誤魔化されてしまうというか、眩惑されてしまうことにもなりかねないのだ。

まず、上掲について感想を申し上げれば、ひじょうによく書けている。

 特筆すべきは、環境である依報が、正報である私共を作っていると言う思想です。
 凄いですね。


当然、この部分は御書のままを説明しているので問題ない。

しかし、この直前に問題が存するのだ。

 ご本尊は環境の中にあるので迹。
 貴方や私がご本尊に祈る時、本体は私共でご本尊は影で迹。


ここがおかしい。

たぶん黒川氏はこれに対抗する意味でくだんのようなことを言ったのだろう。確かにその心情はよくわかる。しかし、うまくはなかった。

沖浦氏の依正論は大筋で正しいのだ。そこを充分に承知しておかないと、議論がややこしくなるだけなのだ。

わたくしなりに整理しておこう。

正報とは自分のことだ。依報は自分を取り巻く環境である。沖浦氏を例に取れば、氏は正報であり、氏にとって巌虎は依報である。しかし、これはきわめて自己中心的な発想であり、とても仏法とは言えない。ゆえに、双方向性が求められるのだ。

つまり、わたくしと沖浦氏の関係においては、双方が正報であり、かつまた依報なのだ。

このことは瑞相御書にも明確である。

依報は影のごとし、正報は体のごとし。

正報をば依報をもて此をつくる。


身と影との関係で言えば、身がなければ影はあり得ない。ところが下段の御文を拝するならば、その逆もまた真であることに気付く。

この双方向性こそが法華の深意である。

これで沖浦氏への破折はほぼ完了である。煩瑣ながら再掲しよう。

 ご本尊は環境の中にあるので迹。
 貴方や私がご本尊に祈る時、本体は私共でご本尊は影で迹。


氏は単なる自己中ということだ。少なくとも双方向性の意味からすれば、御本尊を一方的に影だとか迹などとは言えないはずである。自分中心にしか物を見られないようではまだまた修行が足りない。

汝、右を見るべし。このように言われたら、自分の右側を見る。これは当たり前だ。ゆえに、自分を中心にして物を見ることは正しい。では、「〜見るべし」と発言した人はどうか、である。向かい合っていれば、その人にとっては左なのだ。つまり、相手の立場に合わせて、右と言っているわけだ。たぶん、よほどの自己中でもない限り、これは誰もが普通に行なっていることだろう。実に簡単な話なのだ。

さらに噛み砕いて書こう。

自分を中心に物を見ることは正しいと書いた。しかし、平たく言えば、そこには例外規定があるのだ。

四恩

平成新編では好都合にも瑞相御書の次に上野殿御消息があって、そこに四恩についての御指南がある。

父母の恩・国主の恩・一切衆生の恩・三宝の恩

一切衆生の恩が面白い。沖浦氏が正報ならば巌虎は依報である。しかし、それは沖浦氏を中心に見た時の話であって、巌虎を中心にすれば逆になる。そのことをお互いが承知していれば問題ない。ところが世の中は、自分が自分がという人がたくさんいて、ぶつかり合っているわけだ。

三に一切衆生の恩を報ぜよとは、されば昔は一切の男は父なり女は母なり・・・

凄まじい御指南である。赤の他人だと思いきや、そうではない。これが仏法の凄いところである。

結論が見えてきたようだが、ここで諸宗問答抄の禅宗破折を一部紹介しておこう。

次に修多羅の教は月をさす指の如しと云ふは、月を見て後は徒者と云ふ義なるか。若し其の義にて候はゞ、御辺の親も徒者と云ふ義か・・・如何となれば父母は御辺を出生するまでの用にてこそあれ、御辺を出生して後はなにかせん・・・と云はん者の如し。

後は推して知るべしである。よほどの自己中でない限り、ここで反論する人はおるまい。

以上、自分が本で御本尊は迹、などと言う人は単なる自己中であり、四恩ことには三宝の恩がまったくわかっていない人である。

2012/10/8

重要度の比較問題  
沖浦氏より連続投稿をたまわった。その中から一つだけ取り上げよう。ジャパンクラシックパワーリフティング選手権大会の話だ。

 地元に200泊ほどの宿泊があって、色々出場者や関係者が買い物したりして、少しだけ貢献ができました。

少しだけ貢献できた・・・

この謙虚な表現が光っている。

 優れたラックが欲しくて数年間祈って来ました。

 先日、もう自分で作るしか無い・・・

 そう決意して200ボルト引いて、溶接の機械買って溶接覚えて、切断機やボール盤も買おう。
 そう決めた所です。


よく知らないが、パワーリフティングのための道具なのだろう。それを自分で作ろうと決意した。

溶接機・切断機・ボール盤・・・

極端に言えば、まるでピアニストがピアノを作るみたいな話だ。釣り師が釣竿を作るというのはよく聞く話だが、しかし、さすがに船を造ることはないだろう。沖浦氏がやろうとしていたことは、これに近いと思う。幸いにもメーカーが動いてくれたという。いわゆる沖浦モデルのマシンが開発されるということだ。

さて、次はのび太氏のコメントを取り上げる。

真面目に議論をする勇気がないことがよく判った。

いわば捨てゼリフのようなものだ。

真面目に議論をしたいのであれば、まずは論点をしっかりと整理するべきだろう。わたくしの主張に耳を貸さず、一方的な物言いに終始していることに気付かず、いったい何を言っておるものかと思う。

水掛け論をやっても仕方がないので・・・

この言葉が目に入らぬか、と申し上げたい。わたくしとしては、この時点で終わっているつもりなのだ。しかるに、のび太氏の態度は次のごとくである。

何度でもいう!インチキにだまされるな!!

何度でも構わないが、しっかりと整理整頓した上で、発言してほしいものである。

さて、今日はうっかり忘れていたことを書く。

九月度総幹部会を報ずる顕正新聞が届き、とりあえず三面まで読んだ。そこで気が付いたのだ。八月度総幹部会の会長講演のことだ。

ご存知のごとく、浅井先生は言っていることがコロコロ変わる。いや、もちろん、変わってもいいのだが、その重要度によっては、まさにのび太氏の指摘するように、過去の発言や行動に対する総括がないことが問題となる。その意味で、八月度の会長講演には看過できない発言があった。

 日本の柱を立てるとは、国立戒壇の建立であります。
 一国の総意を以て戒壇の大御本尊を守護し奉ると、この総意が国家意志となって現われれば、事実上の国立戒壇となる。このとき、日本は始めて侵略に打ち勝ち、救われるのであります。
 この一国の総意を決するのが、六千万の地涌出現であります。


少々長いが、重要な一段なので、丸々引用した。

日本の柱を立てるとは国立戒壇の建立・・・

この主張はまさに一貫不変であって、顕正会的には問題ない。

しかし、次の一節が問題なのだ。やや煩瑣なので、わたくしなりに要約しよう。

戒壇の大御本尊を守護し奉る・・・との国家意志が表明されれば、それが事実上の国立戒壇となる。

この時点で、日本は侵略に打ち勝ち、救われる。

そして改行の後、次のごとく結論している。

国家意志の表明はひとえに六千万人の地涌出現に懸かっている。

これはわたくしなりの意訳である。既出の原文と読み比べていただければと思う。

さて、読者には何が問題であるか、おわかりいただけるだろうか?

事実上の国立戒壇・・・

まさにここが問題なのだ。

わたくしの記憶では、こうした表現は今までなかった。おそらくは今回が初めてだと思う。

何が問題か端的に説明しよう。ようするに、戒壇を建立せずとも戒壇を建立したに等しい、このように言っていると解されるのだ。これは従来の主張に比して、明らかな後退である。

浅井先生の主張は、このまま行けば日本は亡ぶ、ということだ。日本を救うには国立戒壇を建立する以外にない。つまり、建立が日本を救うと言っていたのだ。それが今は建立せずとも救われると言っている。これは自語相違だ。

アゲアシ取りと思うかもしれない。

ようするに、先生は建立しなくていいと言っているわけではない、それにもかかわらず巌虎はそのように勝手に解釈している、けしからん、という反論である。

いや、もちろん、先刻承知のことだ。わたくしが言いたいのは、ともかく従来の主張とは明らかに異なることである。今一度、整理し直そう。建立によって仏国土が現出する。これが従来の主張だったはずだ。それが今は建立前にすでに仏国土が現出するかのように言っているわけだ。この違いは決して看過できないものである。

わたくしの想像では、浅井先生はコロコロと変わる己の発言に整合性を持たせるために、今回の発言を意図したのではないか、という気がする。

あと十二年

これは先年の三万人の男子部大会での発言である。

二〇二〇年代

ご存知のごとく、最近はこの発言が目立つ。

二千二十年代は二千二十九年の末までを言う。すると、あと十二年はウソになる。ゆえに、二千二十年代初頭だとか前半みたいなニュアンスなのだろう。いちおう、善意に解釈すれば、そうなる。

急拵え・安普請

これまた最近の発言だ。浅井先生は先般の建白書で、奉安堂について上掲のごとく発言した。

偽戒壇

これでほぼ材料は出揃った。

最近の顕正会では正本堂を偽戒壇などと表現しているわけだが、正本堂は計画発表から完成まで七年ほどの時間を要している。偽戒壇ですら七年、いわんや国立戒壇をや、ということだ。まさか国家的に建てる本門の戒壇が急拵え・安普請であるわけがない。ゆえに、本当に建てるとなると、完成までには相当の年月が掛かるはずだ。

あと十二年で戒壇が建つわけがない。甘く見積もったとしても二千二十年代は無理だ。

実は浅井先生自身がこれを自覚しているのだ。

ゆえに今の顕正会の目標を客観的にまとめると、二千二十年代に六千万を実現し、戒壇建立の目途を立てる、ということになるだろう。

いかがだろう。

これとても実現不能に思えるところだが、熱心な活動会員たちの中には、もっと手前にゴールがあるかのように思い込んでいる人もいる。不幸なことだ。浅井先生は己の自語相違をうまく糊塗して、現時点での社会情勢などを織り交ぜて、もっともらしい発言を繰り返している。しかし、現実には延び延びになっているわけだ。

この点の総括はまったく見られない。その重要度からして、大問題である。

2012/10/6

七面倒な議論  
法太郎に関するコメントが寄せられた。よく知らないが、彼も変わり者というか、組織からはみ出してしまうタイプなのだろう。降魔の剣を出入り禁止になったのはいつだったろうか? それ以来、わたくしは彼の消息を知らない。どこかで相変わらずの法太郎節を展開しているのだろうけれども、リンクが貼られていないし、自分で調べるのも面倒なので、今はそのままの状態だ。

私には厳虎氏の価値観がよく判らかった。

これはのび太氏のコメントだが、わたくしも氏の考えがわからなかった。不思議なのは、のび太氏をたしなめる意味のコメントを沖浦氏が寄せているにもかかわらず、それには無反応なことだ。漠然とした印象ながら、両者はかつて親密だった。しかし、今はワダカマリがあるようだ。

それはさておき、次は桜月氏のコメントだ。

現地の人の話では、それまで何度も地震の度に津波警報が鳴っても全然津波など来なかったことから、今度もまた大丈夫だろうという心理があったそうなのです。

天災は忘れた頃にやってくる、という有名な言葉が当てはまりそうだ。あるいは、喉元過ぎれば・・・といったところだろうか?

昭和三陸津波を経験した老人たちにとっては、遠い過去の記憶だった。若者たちにとっては未経験のことだ。つまり、頻度の問題なのだ。大津波の頻度はきわめて低い。一生に一度か二度、場合によっては一度も経験しない人もいるだろう。

わたくしの興味は、大聖人の時代に津波があったかどうか、である。

昨年の大震災以降はそれを念頭に置いて御書を拝読してきた。しかし、どうやら津波の記述はなさそうである。大聖人は外房で御生まれになられた。そして鎌倉にも相当期間いらした。御書には地震の記述がたくさんある。であれば、津波のことが書かれていても不思議はない。しかし、わたくしの知る限り、御書に津波の記述はない。

なるほど、人々が津波に対して無防備であるのも、ムベナルカナである。恐ろしく頻度が低いのだ。それこそ毎年のように襲ってくるのであれば、人々の意識も違うはずなのだが・・・

さて、いよいよ今日のメインイベントだ。

◇仏教の教えの中で、自然科学では説明(証明)できないこと
・成仏の状態を、自然科学的に説明(証明)できない。
・功徳、宿命転換を、自然科学で説明できない。
・信行学の信は、自然科学では説明できない。
 信力、行力を自然科学的に説明できるなら、顕正会、法華講員、学会等の信徒の何人が祈れば日本の繁栄が可能か計算出来るはずである。
・etc.・・・!


ひじょうに厄介な話題になってしまった。おっしゃるとおり、成仏にしても、功徳だとか宿命転換にしても、あるいは信力・行力にしても、おしなべて科学的に説明するのは困難である。しかし、これは科学が発展途上ゆえに現時点では未解明という可能性もなくはないだろう。なぜならば、我々は生きている。これは事実だ。この生身の人間が幸福だとか不幸を実感する。これも事実だ。しかし、このメカニズムはベラボウに複雑であって、必ずしも数値化できるものではないのだ。

所不能知

真面目に勤行している人ならば、ご存知の言葉だろう。ようするに、わからない、ということだ。確かに科学の発展によって、今までわからなかったことがわかってきた。それが現代だ。しかし、真面目な科学者であれば、未だにわからないことがたくさんある、という厳然たる事実についても素直に認めるはずなのだ。

信力、行力を自然科学的に説明できるなら、顕正会、法華講員、学会等の信徒の何人が祈れば日本の繁栄が可能か計算出来るはずである。

再掲であるが、これは一見もっともらしい思考ではあるものの、前述の複雑なメカニズムという点を度外視していることに気付かねばならない。たとえば経済学者の言うことを聞けば経済がよくなるとは限らないのと一緒だ。世の中は複雑なのだ。理論上はカクカクシカジカであったとしても、現実はそのとおりにならないのだ。

一例を挙げよう。

地震の予知が難しいのは、上掲の信力・行力×人数と同様の事情がある。割り箸に力を加えて曲げていくと、やがては折れる。おそらくは安い割り箸で実験したほうがわかり易いだろう。百本くらい折ればデータとしては充分だろう。どのくらいの力を加えると折れるか、その平均値がわかる。さらには最大値と最小値がわかる。おそらく安い割り箸はバラツキというか、数値の変動が大きいのではないかと思う。これを地震の話に置き換えるのだ。

思い切り端折って言えば、地下の岩盤がエネルギーに抗し切れずに破壊される、それが地震だ。

おわかりだろう。今日、鉄骨造の高層ビルはあっても、木造のそれはない。強度計算がひじょうに難しいのだ。いわんや地下の岩盤の状況など、そもそもが正確に把握できるものではない。仮に把握できたとしても、割り箸の話でわかるように、バラツキが激しいのだ。ゆえに地震のエネルギーが溜まりに溜まっていて、いつ大地震が起きても不思議ではない状況においても、それが今日明日のことなのか、一年後二年後のことなのか、さらに十年後二十年後のことなのか、わかる人はいないのだ。

これが現時点での地震学の限界である。

いわんや信力・行力×人数の計算など、机上の空論も甚だしい。一人ひとりの信力・行力の値にバラツキがあって、とてもじゃないが計算し切れないのだ。

◇仏教が自然科学と齟齬していること
・末法2,000年が物理的には、鎌倉時代に当たらない。
 (現在、種々の説明があるが自然科学的に齟齬しないで出来る証明は無いと思う)
・今の自然科学では、200万年前に3種類の人類がいたとしている。
 仏教で言うところの人とは、どの人類で、いつの時代からの人を指すのか。
 と言うより、そのような事を想定していない。現在の人類だけを対象としている。
・自我偈に永遠の生命が説かれているが、ビッグバン説をとれば、この宇宙は、始まりが有り終わりも有る事になり齟齬する。学者の中には、仏教の無、空につながるとする人もいるが、自然科学、仏教のお互いの説明が難しいところを都合良く使っているに過ぎないと思う。
・自然科学では、自然界は「促進」と「抑制」の繰り返しとしている。
 広宣流布の実現とその状態を保つことは、自然科学的には難しい。
・etc.・・・!


なかなか鋭い。

わたくしは二つの角度から答えたいと思う。

まずは前述の延長線上の話として、科学は発展途上であること。つまり、今現在の科学的知見が絶対的なものではないということだ。百年後にはぜんぜん違った結論になっているかもしれないとすれば、現時点での結論に左右される必要はないはずだ。

そして、もう一つの角度から言えば、実は仏法もまた発展途上にあるのだ。

こう書くと、なにそれ? ヘンじゃない? と思う人もいることだろう。しかし、この点では高速太郎氏とわたくしはわりと近いところにいるような気がする。

※自然科学の発展により生じた齟齬は、修正して行く必要があると考えています。

まったく同感である。

ただし、これはもう少し丁寧な説明が必要だろう。上掲は仏法が科学的知見を受けて修正を余儀なくされるという意味を言っているわけだが、前述のごとく科学もまた修正に次ぐ修正によって発展してきたのだ。○○の原理だとか、△△の法則と呼ばれるものは、ほぼ不動のものなのだろうけれども、そうした根本原理に属さないものは修正があってしかるべきと思う。

明日寅卯辰の刻にしやうじがはの水とりよせさせ給ひ候て、このきやうもんをはいにやきて、水一合に入れまいらせて候てまいらせさせ給ふべく候。

ここは議論の分かれるところかもしれないが、わたくしの意見を書いておきたい。

ようするに経文を焼いて、その灰を水一合に混ぜて、病人に飲ませるという話である。経文は法華経の薬王品。時間が寅卯辰の刻。精進河の水がいいらしい。
しかし、これがどこまで科学的であるか、だ。おそらく現代感覚で言えば、まさに迷信の類ではなかろうかと思う。
いわゆる化学の世界である。わたくしの思うに、同じ紙質であれば、そこに何が書かれていようが焼いて灰にした時の化学反応はまったく同じはずだ。法華経だろうが涅槃経だろうが、その他もろもろの経文であったとしても、違いはない。

たぶん現代においても、そうした化学反応とは別次元の、未解明ながらも何か不思議な力が宿ると、こう考えている人もいることだろう。おそらく日蓮正宗系統においてもいるはずだ。

しかし、わたくしは違うと思う。

これはまったくの空想というか、仮定の話に過ぎないのだが、もし日蓮大聖人が今の時代にましませば、あれは間違いだった、あれには何の薬効もない、と正直におっしゃるのではないかと思うのだ。

まさにこの意味で、高速太郎氏の言うごとく、修正が必要なのだ。

つまり、わたくしが主張するところの、仏法は科学と齟齬しない、の意味は、こうした柔軟な思考にあるわけで、間違いは間違いとして認めた上でさらにバージョンアップしていく、それが大聖人の仏法だと思うわけである。

※最大の齟齬は、一大秘法を、なぜ自然界のもので作れるのかと言うことである。

長々と書いてきたが、話は尽きないようだ。とは言え、ここだけは外せない。まさにこれは仏法の根幹に関わる話だからだ。

わたくしは仏法も発展途上にあると書いた。当然、修正が必要だ。ゆえに、もし高速太郎氏の言うことが正しいのであれば、たとえそれが根幹部分であったとしても、修正するべきと思う。しかしながら、はたして上掲の主張が正しいのか、そこは甚だ疑問である。

上掲の一大秘法云々はいわゆる戒壇の大御本尊を念頭に置いての発言だろう。仄聞するに、大御本尊はいわゆる板曼荼羅であり、それも楠の板とされている。氏はこれを最大の齟齬だと考えているらしい。

では、何だったらいいのか、自然界の物質ではないとすると、何を想定したらいいのか、まずはそれを確認しないといけないところだ。

いちおう、現時点での感想を申し上げておこう。

一大秘法について、かくのごとく言うのは、きわめて情緒的・気分的なことだ。つまり、現代人の感覚からすると、高速太郎氏の考え方のほうが馴染み易い、ただそれだけのことである。ゆえに、必ずしもそれが正しいことにはならない。もし正しいと言わんとするのであれば、もっと詳細な説明が必要だろう。

2012/10/2

逃げるが勝ち  
今朝、前々回のコメント欄に沖浦氏からの書き込みがあった。のび太氏をたしなめる意味の文章だった。この辺が沖浦氏の凄いところだと思う。同門だと遠慮が出てしまうのが世の常である。そこを氏は見事に脱却している。しかし、これがまた同時に、反感を買うことにもつながるわけである。難しいものだ。

高速太郎氏から迅速なコメントを頂戴した。失礼ながら話が噛み合わないというか、どうも要領を得ないようだ。

そこで今回はわたくしのほうから質問をさせていただくことにする。

質問:仏法は自然科学と齟齬するのか? それともしないのか?

二者択一なので、ぜひとも端的に答えていただきたい。

もちろん、第三の答えがあってもいいのだが、変化球ばかりを返されても話がややこしくなる一方だ。そこで次にわたくしなりの想定回答を書いておくことにする。

その一:齟齬しない。

その二:齟齬する。

その三:齟齬する部分もあれば、齟齬しない部分もある。


できれば理由を書き添えていただきたい。その三の場合、齟齬する部分・しない部分を、それぞれ一例ずつ挙げていただけるとありがたい。

さて、顕正新聞の話題だ。

第1253号は南房会館の記事を中心に組まれている。千葉県における三つ目の会館が当該会館であるが、掲載写真を見ると、誰もがその特殊性に気付くだろう。これまでの会館とは異なる外観なのだ。

 さて、この南房会館において私の念頭を離れなかったのは、巨大地震と大津波でした。

当該会館における九月二日の会長講演だ。巨大地震の想定は以前からあった。ゆえに顕正会の会館はすべて耐震に力を入れている。しかし、さすがの浅井先生といえども、昨年の大津波を目の当たりにするまでは、その脅威を深くは認識していなかった。千葉県初の会館である旭会館にどれどの被害があったか知らないが、旭市は昨年の大津波の被害地だった。今度の南房会館も旭会館同様、太平洋に面している。震源の位置によっては大津波をモロに被るかもしれない。

顕正新聞をお持ちでない人には恐縮だが、その外観には驚く以外にない。なんと建物の一階部分にはほとんど窓がないのだ。

 この会館は、他の会館とちょっと趣きが違うでしょ。ある幹部はこの会館を見て「美術館みたいだ」と言っていた。またある幹部は「軍事要塞みたいだ」(爆笑)と。

先生の考えとしては、津波が来ても会館の中にいれば大丈夫、完全密閉の建物なので津波が浸入してこない、ということらしい。

正直、わたくしはやり過ぎだと思った。

 津波が襲来してきた時は、一義的には高台に避難するのがいちばんよろしい。

正論である。

 しかし、大きな集会の時には警報が聞こえないかもしれない。警報の遅れることもある。また逃げるといっても、最近の顕正会は後期高齢者が多い(大爆笑)。逃げられない人もあるでしょう。

そういう時には津波が過ぎ去るまで会館に籠城しなければならない、ということだ。

後期高齢者云々は自虐的ながらも確かに重要なポイントだ。津波が来ても会館にいて、そのまま安全にやり過ごすことが可能ならば、これほど楽なことはない。そのための完全密閉の会館なのだ。

しかし、甘い。考えが甘い。

現地調査をしないと正確なことは言えないが、まず、海抜何メートルのところに立地しているかが問題である。上に、やり過ぎだと思う、と書いたのは、もし海抜が高いのであれば、そこまで神経質になる必要はない、ということなのだ。そして海抜が低いのであれば、くだんの津波対策などは焼け石に水である。やはり一目散に高台に逃げるべきだと思う。

理由を書こう。

当該会館には換気口がたくさんある。写真で確認できる範囲において、十六個もある。見えないところにも同数あるとすれば、ぜんぶで三十二個となる。ようするに完全密閉ではないのだ。そりゃそうだ。中にいる人が酸素不足で死んでしまっては意味がない。だから換気口は必要だ。しかし、建物を呑み込むほどの大津波が来たら、オシマイである。その換気口から海水が浸入してしまうのだ。もし大勢の会員がいる時にそのような事態になってしまったら、もはや地獄絵図である。会館にいる全員が水死することにもなりかねないのだ。

あるいは一時的に換気口を閉じるような装置があるのかもしれない。ずっと閉めていたら酸欠になるが、津波が引くまでの間、閉めておくという方法は有効だろう。

しかし、まだ甘い。

わたくしは専門家ではない。しかし、常識的な意味で言っておきたいと思う。建物の防水の困難さである。

集合住宅、ようはマンションなどであるが、ここにお住まいの人であれば、大なり小なり経験があるだろう。漏水事故のことだ。
もちろん屋上は防水工事を施している。ゆえに滅多に雨漏りはしない。
ところが途中階が問題なのだ。上階の人が相当量の水をこぼすと、それは確実に下の階への漏水となる。ありがちなのは洗濯機のホースの取り付け方を間違えて、それが漏水事故につながるケースである。今は全自動なので洗濯機を回したまま外出してしまう人も多い。その時にホースが外れてしまえば、大変なことになる。

ようするに鉄筋コンクリートそのものには防水機能がないので、水はじゃんじゃん漏れてしまうのだ。

さて、南房会館である。会長講演にも書かれているが、当該会館は鉄筋コンクリート造である。当然、屋上には防水が施されている。問題は壁面である。まあ、やっていないわけがなかろう。通常の建物はやらないが、当該会館に限っては必ずやっているはずだ。

では、大丈夫なのか?

いや、わたくしは心配だ。

そこで最後に問いたい。耐水試験を行なったのか、である。

ようするに本物の津波は滅多にやってこない。だから本当に大丈夫なのかどうか、確認できないのだ。もし確認したいのであれば、回りにダムを作って水没させる必要がある。これは大変なことなので、とりあえずは逆の方法をやるべきだろう。建物に水を入れて満杯にしてみるのだ。つまり、内側に水を入れて外に漏れてこなければ、合格である。

以上、津波対策は過剰、もしくは無意味と思う。やはり高台に逃げるべきなのだ。


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