2012/12/31

年の瀬の独白  
気がつけば本年最後の日である。まったく何をやっていたものか、何もやっていないじゃないかと、我ながら嫌になってくる。結局はダラダラと月日を過ごしているだけなのだ。

それはさておき話を進めよう。

沖浦氏との議論はいちおう終止符を打ってよさそうだ。また来年も、つまらないことでああだこうだと言い合うことになるだろう。それがダラダラ感の原因でもあるわけだが、こればかりは仕方がないことだ。しょせん人生とはそんなものだと達観(?)しておこう。

ユタ氏よりご挨拶をたまわった。

どうやら年越しの仕事を控えているらしい。氏のブログを読めば、たいていのことが包み隠さず書かれている。仕事の記述も多い。寒いので、くれぐれも身体に気をつけて頑張ってもらいたいものだ。ところで、勧誡をほのめかす記述があるけれども、その辺の真相はどうなのだろうか? そこが少し気になるところである。

桜月氏より好意的なコメントを頂戴した。

法華講員やその他の人の意見は、批判するという気持ちが強すぎてあまり参考にならないので・・・

自分自身を客観視するのは難しい。わたくし自身も例外ではない。ただし、今現在の立場はフリーであり、さしたるシガラミがない。いわば融通無碍である。それが幸いしてか、比較的に自分を客観視することも容易であるし、他人のこともよく見えるのだ。いや、もちろん、実際には自分で勝手にそう思っているだけで、本当のところは違うのかもしれない。読者から見れば、オマエはぜんぜんダメだ、というのが本当なのかもしれない。ゆえに、どっちが本当かわからないけれども、桜月氏からのコメントを拝見すれば、まだ少しはマシなのかもしれないと思うのだ。

わたくしは顕正会批判を書いているわけだが、実は同じことが法華講にも当てはまるのではないか、創価学会にも当てはまるのではないか、と思う。

たとえば組織批判がある。具体的には成果主義批判が好例だろう。ようはノルマの問題だ。わたくしは顕正会における成果主義を批判してきた。実は法華講にも同じことが言えるのではないか、当然、創価学会も同様である。

結局、その構成員は所属先が変わっただけであって、やっていることは同じなのだ。構造的には何も変わらないのだ。

ゆえに、顕正会員の異常心理(?)が取り沙汰されることがあるけれども、それを批判している法華講員も実はまったく同じ心理状態に陥っている、創価学会員もまた然り、ということになる。

同じ穴の狢、目くそ鼻くそを笑う、といった感じだろうか?

あるいは、オマエも同じだろうが、という反論があるかもしれない。

確かにそうかもしれないとは思う。

ただし、一点だけ異なるのだ。すでに答えは出ているけれども、ようは組織に属していない、すなわち無所属である。ゆえに、組織からのプレッシャーがない。同調圧力に晒される場面もない。よって、自由な言動ができるのだ。

それはともかく、誤解のないように書いておきたいことがある。

顕正会員の異常心理〜法華講員〜創価学会員〜は、あくまで一観察に過ぎない。組織批判の意味で言えば、もし会員の心理が異常であれば結果さまざまな問題を生む、もしそれが組織全体の傾向性ということであれば延いては社会問題に発展する、さてどうしたものか、といった議論が展開されることになる。

しかし、組織全体の傾向性なるものが客観的事実に基づくものなのかどうか、本当はここをしっかりと突き詰める必要があるのだ。

たとえば顕正会員が逮捕され、大きく報道されたとする。なんだかんだ言ってもテレビ・新聞の影響力は大きい。ゆえに、我々は錯覚してしまうのだ、あたかもそれが顕正会全体をあらわしているかのごとくに思い込んでしまうのだ。

以上のような理由で、異常心理云々はきわめて主観的、さらに言えば悪意の観察、という可能性もあながちには否定できないのだ。多くの人が認めているように、顕正会の中にだって善人はいるわけだ。ゆえに、頭ごなしの決め付けはいけない、批判ありきで論じてはいけない、ということを常に心掛けておく必要がある。

さて、ボヤボヤしているうちに大晦日を迎えてしまったが、顕正新聞の第1261号をまったく取り上げていなかったので、今日は大急ぎでそれを片付けてしまおうと思う。

第一面は十一月十五日の日目上人御報恩勤行会における会長講演だ。

 違失というのは過失ですね。全く過失がなかったというと、何か消極的なように聞こえるが、この「違失」とは、日蓮大聖人の弟子として為すべきことをしないのを違失というのです。

日興跡条々事に出てくる「敢えて違失の儀なし」について解説しているくだりである。もちろん、こういう説明も悪くはないが、しかし、わたくしは違うのではないかと思う。ここは単純に、過失がなかった、でいいのだ。

あとは特に取り上げる必要はないだろう。次は総合女子部長だ。

(浅井先生より)勿体ないまでの重大指導を授けて頂き、私自身、日目上人が最後の天奏の折
 「自分がこの大任を果さずして誰がやる。なさねば大聖人様に申しわけない」
 と身命を抛たれたお姿に、先生の広布最終段階にかけられるお姿を今ほど深く重ね拝させて頂いたことはなく・・・


心配していたことが今年も起きてしまった。どうやら毎年同じことを繰り返しているようだ。

目師再誕説は昔からあったわけだが、近年は年齢的な意味でも重なって見えるのだろう。世間では引退して後進に道を譲る年齢だ。しかし、顕正会はそうしない。最後まで浅井先生が指揮を執る。ある意味では目師を例に正当化を図っているとも受け取れるところである。上掲のカギカッコはまさしく先生自身の心境・決意である。ようするに目師に仮託する形で、実は自分のことを間接的に語っているわけなのだ。

福井会館御入仏式 熱涙のなか厳修

四面の記事だ。十二月九日に福井会館がオープンした。当初、鯖江会館の名称で発表されていたものだが、いつの間にか変更になっていた。五面の各種登壇記事にも鯖江会館のことは書かれていない。あたかも最初から福井会館と名づけられていたかのごとく登壇している。この辺がやや気になるところだ。これを単なるアラサガシ・イチャモンと思ってはいけない。顕正会では書籍を改訂する時、都合の悪い記述をこっそり書き直してきたという歴史があるので、要注意なのだ。

会長講演については特に触れないが、わたくしが気になったのは下段の写真である。

降り続いた吹雪も、式の開始直前にピタリと止み、お見送りの時には日差しさえ出た

右下の写真がよくない。浅井先生に向かって礼拝合掌している写真だ。それから同じ写真の話だが、城衛の尊大な姿もじゃっかん気になるところだ。

これまたイチャモンではない。わたくしの礼儀作法というか、美的感覚から進言しておこう。背広の前ボタンを留めるべきである。たとえば畳の上にアグラをかいてどっかと座る時はボタンを外していい。しかし、立ち上がった瞬間にすばやくボタンを一つ留めるのだ。この習慣をぜひ身に付けてもらいたい。

ともかく、全員が浅井先生に向かって合掌礼拝している中、城衛だけが踏ん反り返っている、この図はまさに顕正会を象徴するものである。

ネパールで官僚や教師等 23名入信
 ネパール版経本を涙を流して読誦


十一月度班長会の活動報告だが、婦人部多摩支区部長が班長とともにネパールへ渡航したことの報告だ。細かい点は省略しよう。わたくしが気になったのは、この成果が日本の成果とごちゃ混ぜになっているかどうかだった。そこで前号に載る折伏成果の一覧を確認してみた。当該班長は見当たらない。上掲の二十三名は彼女の成果に組み込まれるはずなのだ。班でそれだけの成果を出せば、まさしく優秀班である。しかし、さがし方が悪いのか見つからないのだ。

ところで、二年前の拙ブログを読むと、女子部支区長補の活動報告がある。同じくネパールの話だ。当地にはすでに自宅拠点がある。しかし、今回の記事ではそのことにはまったく触れられていない。女子部と婦人部は協調性がないのだろうか?

もっとも同じネパールであっても、地域が異なるのかもしれない。

最後は総合婦人部長に締め括ってもらおう。

「麗しい日本を汚染させてなるか」
 先生お一人が本気で原発廃絶を


浅井先生だけというのは言い過ぎだろう。市民運動家を無視してはいけない。彼らは功徳だとか罪障消滅だとか、そういう概念を持っていない。その意味では純粋無垢である。顕正会員の活動原理は御利益信仰的である。その意味では不純なのだ。

まあ、こんなところで終わりにしよう。

2012/12/25

老いの一徹  
沖浦氏は苦しい弁明に終始している。

 随自意で法を説く仏はいません。
 全て相手の機根にあわせて説きます。

 もし、随自意であるなら、大聖人が僧侶の格好を剃る必要すらありませんし、日本語を話す必要もありません。
 テレパシーか何かで伝えればいいでしょう。

 同じ人間で、しかも当時は衆生の尊敬に対象である僧形であられたのはなぜか?

 機根を考慮してのことです。
 ですので、あらゆる仏は随自意では法は説きません。


これはもう議論としては失格だ。わたくしは明確な文証を提示した。一方の沖浦氏は文証を提示せず、ああだこうだ言っているだけなのだ。

 感応妙をごぞんじですね。

 衆生が感じて仏が応じる。
 
 ですので、感じられない仏は出現致しません。

 あらゆる仏は、衆生が呼び出したものです。

 大聖人も例外ではあり得ません。

 ですので、衆生の求めに応じて出てくること自体が、随他意なんです。

 『第三唯以一大事因縁の事 文句の四に云く一は即ち一実相なり五に非ず三に非ず七に非ず九に非ず故に一と言うなり、其の性広博にして五三七九より博し故に名けて大と為す、諸仏出世の儀式なり故に名けて事と為す、衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名けて縁となす、是を出世の本意と為す。』
 (御義口伝巻上)

 この通りですから、仕方ありません。
 後は信じるか、信じないか?
 それだけの問題です。


さすがに批判を恐れたのだろう。後から文証を出してきた。しかし、インパクトが弱い。きわめて脆弱だ。

御義口伝の当該部分はわたくしが先に出してしまったので、今さら出されてもそれほどインパクトはない。一種の証文の出し遅れみたいなものだ。しかもこれがなぜに随他意なのかである。どこにも随他意とは書かれていないのだから、沖浦氏が勝手にそう解釈しているだけと言われてしまえば、それまでなのだ。

ひるがえって、わたくしの引用した新池殿御消息は紛れがない。

諸経は随他意、法華経は随自意

いかがだろうか?

大聖人は御自らを法華経の行者であると規定している。であれば随自意に他ならない。

それとも沖浦氏は大聖人を諸経の行者だと言いたいのだろうか?

末法に摂受・折伏あるべし。

さて、ワカラズヤのために、もう少し説明を続けよう。
日蓮宗ではかつて摂受折伏論争が行なわれていた。その後どうなったか、わたくしは近況を知らないけれども、議論の中身は実に単純である。ようするに大聖人の仏法は折伏なのか摂受なのか、どっちが正解か、ということで議論が戦わされたのだ。
日蓮正宗系では考えられない論争である。なぜならば、大聖人は折伏に決まっている、このように教えられてきたし、それを誰もが当然だと思っているからである。
実は日蓮宗でもそうだった。折伏が主流だった。そこに今成という人が一石を投じたのだった。大聖人は摂受であると。

そこで上掲であるが、これは開目抄の一節である。なんと末法にも摂受と折伏があるという。大聖人がおっしゃっているのだから、これはどうしようもない。

問題はどちらにウエイトがあるかだろう。結論は折伏であり、一般的にも折伏を支持する人が多い。

しかし、上掲の御文がある以上は、この論争の火種は永遠に消えない。摂受を主張している人たちは虎視眈々と反撃のチャンスを窺っているだろう。折伏側もそれを迎え撃つ準備を怠らない。わたくしに言わせれば、これ自体がすでにして折伏の姿そのものなのであるが、まあ、それはさておく。

ここで話を随自意・随他意に戻そう。

摂受折伏の論争は御書に原因があった。叱られるのを承知で書けば、ようするに大聖人が紛らわしい御文を残されたのがいけないのだ。では、随自意・随他意はどうか、である。まったく紛れがない。沖浦氏が勝手に言っているだけなのである。ゆえに、もし沖浦氏が本気でそのように思っているのであれば、もっと明確な反証を提示すべきであろう。

 もし、随自意であるなら、大聖人が僧侶の格好を剃る必要すらありませんし、日本語を話す必要もありません。

再掲である。実は総勘文抄に沖浦氏を助ける御文がある。

 二に自行の法とは是法華経八箇年の説なり。是の経は寤の本心を説きたまふ。唯衆生の思ひ習はせる夢中の心地なるが故に、夢中の言語を借りて寤の本心を訓ふるなり。

夢中の言語を借りて・・・

沖浦氏の言いたいことはたぶんこの辺にヒントがあるのだろう。趣きとしては随他意と言えなくもないが、しかし、当該御書には随他意の語はない。

結論を書く。

もし猊下クラスの人がおっしゃれば、わたくしも頭ごなしに否定することは出来ない。しかし、失礼ながら沖浦氏が言っている程度であれば、多少はその趣きがあったとしても用語としては不適切である。しょせんはアンタが勝手に言っているだけではないか、と言わざるを得ないのだ。

最後に桜月氏のコメントを紹介して終わりにしよう。

先の大会で亡くなった御婦人の最後という言葉にも現れているように、それは顕正会としての婦人部大会が最後ということなのか、或いは浅井会長が生きている間の婦人部大会は最後という意味なのか・・・

氏のコメントはいつも耳の痛い話である。もちろん、顕正会の首脳たちにとってだ。

それはともかく、くだんの亡くなった人のセリフについては、おそらく「顕正会の最後の婦人部大会」の意味なのだろう。先生が生きている間の・・・ではなく、いわゆる広宣流布のゴールを見据えての出陣式という意味において、である。

証拠がないことを書くと突っ込まれるので、昨日はあのように書いたけれども、あえて書けば上述のごとくだ。

まさか活動会員が、先生が生きている間の最後の・・・などとは言うまい。であれば、消去法としては一つしか残らない。熱心な活動会員ならば、参加を呼び掛ける時に言うだろう。こういう大会はそう何度も行なわれるものではない。おそらくこの大会が最後である。あとは広宣流布のゴールを見つめて突っ走るのみ。だからアナタもぜひ最後の大会に参加してほしい。

想像で書いているだけだが、当たらずとも遠からずだろう。状況証拠はいくらでもあるのだ。

2012/12/24

冬の一日  
沖浦氏より大量のコメントを頂戴した。感想を申し上げよう。盗人猛々しい。これが正直なところだ。

しかし、善意に解釈すれば、拙稿をよくお読みになっている証拠なのだろう。それが氏のコメントに反映されているのだと思う。再考すべしとのわたくしの要望を、聞き入れて下さったのだと理解したい。

 随自意と言うのは、釈迦の立場で法華経を何故最初から説かなかったのかの説明のためのものです。
 あらゆる仏のあらゆる法は、随他意です。
 当然大聖人も同じです。
 民衆の機根に応じて法を説くのが大原則ですから、大聖人も例外ではありません。


今日は一点だけ指摘しておこう。わたくしにはこれがわからなかった。御書に精通しているはずの沖浦氏が、まさかこんなことを書くとは思わなかった。これは明らかに大聖人への反逆である。

しかるに如来の聖教に随他意・随自意と申す事あり。譬へば子の心に親の随ふをば随他意と申す。親の心に子の随ふをば随自意と申す。諸経は随他意なり、仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に。法華経は随自意なり、一切衆生を仏の心に随へたり。

かくも平易な御指南を何と心得るのか、沖浦氏の見解を聞いてみたいものである。

さて、今日は十一月度総幹部会の残りをやっつけてしまおう。

婦人部大会に参加し、成仏を遂げさせて頂いた、私の母・・・

女子部総班長の登壇である。婦人部大会で一人の婦人が亡くなった。これについては拙ブログでも取り上げたが、その娘さんが総幹部会に登場したわけである。いわく、成仏を遂げさせて頂いた、と。このように認識している以上は、もはや他人がとやかく言う筋合いの話ではない。

 「誰が行がねくても最後だから行ぐ」

あえて取り上げるとすれば、ここだろう。本人の言葉だそうだ。最後? この意味がわからない。死を予期していたのだろうか?

話は変わる。

今回は三本の「正義にめざめて」があった。いずれも昨年から本年にかけて入会してきた人で、平会員ばかりだ。一人はいわゆる男性婦人部員である。それから次男の紹介による婦人、もう一人の婦人は男子部の紹介による女性男子部員だ。

一々の内容は省略するが、女性男子部員の話は読んでいてそれとなくわかった。何号か前に紹介者側からの活動報告が載っていたはずである。

これをどう評価するかが難しい。登壇者が有り余るほどいて、選出するのに苦労しているのか、それともいなくて苦労しているのか、である。いないとすれば、同じネタを紹介者と入信者の双方に発表させることで、ボリューム感を演出しているとも考えられるわけだ。

最後に女子部総班長の活動報告を紹介しよう。

 我が総班は本年九月に結成され、青森県三沢市とアメリカで戦っております。

この人は姓がカタカナで名が漢字で表記されている。ゆえに上掲のくだりを読んで、これは米軍関係の人と結婚したのだろうと想像した。

 私はこれまで三沢米軍基地内において食品を取り扱う部署に就き、アメリカ人で軍人の夫と結婚し、三沢基地内で折伏を進めてまいりました。

案の定、予想通りだった。

 去年は海軍の大量リストラがあり、就職先の斡旋もないまま、帰国せざるを得ない者がいたこと。
(中略)
 これらの現状を見聞きしては、在日米軍撤退の近きを感じるものであります。

この辺の事実関係はともかく、いずれは彼女の夫も本国へ帰ることだろう。その時、彼女はどうするのか、である。

あるいはこの人がアメリカ広布のパイオニアになるかもしれないので、記憶に留めておくことにしよう。

2012/12/23

沖浦流法門の誤謬を質す  
わたくしは沖浦氏に対し、支離滅裂であり、話に統一性がない、と書いた。すると、さっそく返信があった。どうやら話を整理し直したつもりらしい。この点は大いに賞賛したいと思う。ようするに氏は努力家である。ワカラズヤの巌虎に何としてもわからせようと、いろいろと工夫しているわけだ。

今回はコメントの量が多いので、こちらの都合で適宜引用させていただくことになるので、あらかじめ了解願いたい。

 釈迦仏法では今は末法ですが、大聖人の仏法では今は正法です。

これは何を根拠に言っているのだろうか?

もし根拠がなければいわゆる己義となる。己義を書き並べても意味がない。なぜならば、それは大聖人の仏法ではなく、沖浦教だからである。

ごく単純な疑問を書いておくと、今が正法だとすると、やがては像法になり、末法になるのだろうか?

 そして、永遠に続く大聖人の正法の中で、民の機根が様々に時代と共に変化をする。

なるほど、ここに答えが書かれている。正法が永遠に続くのだと。

しかし、ここに問題がある。

なぜに正法という語句を用いるのか、そこが問題なのだ。正法は正しい法のことに他ならない。その上で、もう一つの意味がいわゆる正像末の三時における正法となるわけだ。沖浦氏は釈迦仏法の呪縛から開放されるべきことを主張しているのだから、そもそもが正法などという紛らわしい語句を用いる必要はないはずなのである。

民の機根が様々に時代と共に変化・・・

再掲であるが、あれれれ? というのがわたくしの正直な感想である。

まず、再三にわたって文証の提示を求めているが、一向に答えようとしていない。それから機根が変化するのであれば釈迦仏法と何も変わらないことになる。もちろん、これは何度も言っているように、大枠の話である。

結局、沖浦氏の所論はまるで整理整頓が出来ていない。

 本来一切衆生が仏ですから、全ての衆生は本己有善。

 そして、その本己有善の衆生の機根が、様々に変化をするので法の広め方も様々にある。


繰り返し言わせてもらうが、あくまで大枠の話をしているのである。ゆえに機根が様々に変化することはあり得ない。当然、仏の化導は一貫不変である。

沖浦氏は随自意をご存知ないのだろうか?

あるいは随自意・随他意を釈迦仏法の呪縛と言うつもりなのだろうか?

すると、結局は自分の都合によって、これは釈迦仏法、これは大聖人の仏法、という具合に選別しているだけのように思えるのだが、違うのだろうか?

 機とは可発の状態である。
 したがって仏教でいう機とは、機感と熟字すれば衆生が仏教に対しこれを受け止めるべく、何らかの心意識の発動する状態をいう。
 また機根というときは教法に対する潜在的能力をいうのである。
 民衆の心に潜む仏法に関しての可能性の発現は、聖(仏)の応(導き)によって初めて開発せられるので、機と応の関係と意義を考えなければ、機の意味を正しく把握することはできない。


どこから拾ってきたものか知らないが、日蓮正宗の見解らしい。これに対し、沖浦氏は次のごとく言う。

 ここが全くダメですね。

>民衆の心に潜む仏法に関しての可能性の発現は、聖(仏)の応(導き)によって初めて開発せられるので、

 感応妙が全く理解出来ていません。
 これは仏法ではありませんね。


ダメかどうか、わたくしには判断できないが、ひじょうに難解であることは事実だ。もう少し平易な説明が出来ないものかと思う。もっとも沖浦氏も同様であって、単にダメだと言っているだけであって、まるで説明が出来ていない。いったい、どこがどのようにダメなのか、わかるように説明すべきである。

さて、相手にケチをつけるだけならば、誰にだって出来る。ようはその上で自分の考えを述べられるかどうかである。もちろん、わたくし自身も同様である。

そこで以下、私見を述べよう。

衆生に此の機有って仏を感ずる、故に名づけて因と為す。仏機を承けて而も応ず、故に名づけて縁と為す。是を出世の本意と為す。

御義口伝に出てくる文句の言葉だ。唯以一大事因縁の事と題される当該一段には次の一節がある。

此の五字は日蓮出世の本懐なり・・・

他門では都合が悪いので用いないが、ひじょうに重大な御指南である。詮ずるところ、大聖人が末法の御本仏であることの明証となるべき御文だと思う。

ようするに、仏は衆生の機を承けて出現し、衆生の機に応じて化導をあそばすのだ。そして後半の出世の本懐云々のくだりは、まさしく大聖人が御本仏の自覚の上から発せられている言葉なのだ。

ここで問いたい。まさか沖浦氏はこの御指南をも釈迦仏法の範疇に押し込めてしまうつもりだろうか?

 問ふ、夫諸仏の慈悲は天月の如し。機縁の水澄めば利生の影を普く万機の水に移し給ふべき処に、正像末の三時の中に末法に限ると説き給ふは、教主釈尊の慈悲に於て偏頗あるに似たり、如何。

三大秘法抄である。頑迷な沖浦氏ならば定めて釈迦仏法の枠に押し込めることだろう。それはそれで構わない。上掲は問いの部分であるが、答えの部分は少しばかり長いので引用を控えることにする。それぞれが確認されるとよいだろう。

わたくしの機に対する認識は、これでおおむね了解いただけたことと思う。

もし末法において機が変化していくのであれば、その都度、仏が出現して法を説かねばならなくなる。つまり、この考え方は大聖人の仏法を否定することになってしまうのだ。万年の外未来までも流れる大聖人の仏法を否定してどうするのか、ぜひとも沖浦氏にはこの点を再考いただきたいと思う。

2012/12/22

各種コメントと会長講演とのコラボ  
沖浦氏の所論は支離滅裂である。おそらくは、すでに原点を忘れてしまっているので、それで話に統一性がないのだろう。

 摂受と折伏は機根で使い分けるのですよ。

こう言っていたのだ。ゆえに、わたくしはこの点を追求してきたわけだが、沖浦氏の対応は一向に要領を得ない。

 釈迦仏法は本質的に無意味ですから、そう言う機根のたてわけはいりません。

先には機根で使い分けると言い、今は機根のたてわけを不要だと言う。困ったものだ。

ちなみに氏が引用した御文は、いわゆる四重興廃と呼ばれる最難関の御法門である。これについてはいずれ機会を改めて書きたいと思う。

のび太氏とユタ氏が好都合のコメントを残して下さった。そのキーワードは山本太郎と夢物語である。これらは今日これから書く、十一月度総幹部会の話題に直結するものなのだ。

以下は顕正新聞第1260号一面の見出しである。

初陣誓願大突破 六千万必ず成るの瑞相

9・10・11月度弘通、二万一千二一四名
「顕正会こそ唯一の異体同心の大集団」


ここだけでもいくらでもイチャモンがつけられる。初陣が多過ぎる。年がら年中、出陣だの初陣だのと言っている。誓願大突破はいわば数字のマジックである。目標を低く設定すればそうなる。何しろ昨年の同時期と比べると折伏成果は減少しているのだ。そして最後の一段は会長発言なのだろうけれども、やや疑問だ。

 「日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候」

会長講演ではこの御書を引用した上で前掲のごとく言っているわけだ。大集団だと。いかがなものかと思う。大聖人は「人々すくなく候へども」とおっしゃっているのだ。であれば、大集団などと威張るべきではないだろう。まるで謙虚さがない。

さて、一面の記事であるが、下段には人事が載っている。

婦人部 大規模人事断行
 4部長、16支区部長を抜擢


他に男子部と女子部の人事もあるが、こちらは通常の範囲だと思う。問題は婦人部だ。上掲のごとく、ぜんぶで二十一人もの人材が抜擢されたわけだ。まさにポストの乱発だ。

それとも婦人部大会で勢いがついて、組織が発展・充実している結果なのだろうか?

ここからは、のび太氏のコメントに関連する話題だ。

わたくしが山本太郎の当落に注目したのは、彼の選挙運動の様子を動画サイトで見たことがキッカケだった。芸能人だから注目される。街頭で演説していると他の候補者よりも人が集まる。ある意味では当然なのかもしれないが、彼の場合はちょっと違うように感じられたのだ。しゃべりがしっかりしている。自分の考えを自分の言葉でしっかりと伝えることが出来る。単なる客寄せパンダではなく、自分の意志で立候補し、自分の信念で行動している。わたくしにはそのように見えた。

街頭演説の様子を見ていると、その盛り上がりからして、これは当選するんじゃないか、そう思わせるものがあった。たぶん本人も、行けるんちゃうか、そう思っていたはずだ。支援者たちも手応えを感じていただろう。

わたくしは顕正会員の心理がまさにこれなのだと思った。

十一月度の総幹部会は大宮ソニックシティ大ホールで行なわれたわけだが、この会場はけっこう大きい。この手のホールの中では大きいほうだと思う。わたくしの記憶だと、もうかなり昔からここを使っていた。現・東京会館が本部会館だった時代からすでに使っていたはずだ。そして顕正会の集会はいつも超満員なのだ。少なくとも浅井先生の出席する集会は超満員が当たり前であって、月例の総幹部会は顕正会における中核的な幹部たちで会場が埋め尽くされるのだ。

その会場が醸し出す雰囲気を想像するがいい。なるほど、浅井先生自身もそうだろうし、そこに集いし幹部たちも同様である。誰もが「行けるんちゃうか」と思い込むのだ。

しかし、現実はどうか、である。

まさにユタ氏の夢物語という表現がピッタリと当てはまるのではないかと思う。もちろん先生だって馬鹿じゃない。それがわかっているから果敢なる挑戦を続けているのだろう。本年の婦人部大会もそうだし、明年の女子部大会、そして男子部大会と、大宮ソニックシティの大ホールに甘んじず、さらなる大会場を制覇すべく挑戦し続けているのだ。

ところで会長講演には、次のような興味深いくだりがある。

 たとえ「脱原発」を掲げている政党でも、その実現はみな一〇年、二〇年、三〇年先としているでしょ。「何とかそれまでに太陽光や風力など自然エネルギーの開発を」などと言っておりますが、これは夢です。ファンタジーですよ。

この批判はそのまま顕正会にも当てはまることだ。十年、二十年、三十年、はたして先生がいつまで頑張れるかわからないが、ともかく顕正会の実力が現状どまりのままであれば、先生の言っていることは単なる夢だったことになるのだ。その時、熱心な活動会員たちはどう思うのか、楽しい夢を見させてもらったと思うのか、人生を棒に振ったと思うのか、わたくしには何とも言えないところだ。

十一月度の総幹部会では地方会館の建設計画が発表される。

会津会館、京都会館、熊本会館

さらに追加の建設が発表された。

顕正新聞社別館

どうやら本部会館周辺は顕正会の施設で埋め尽くされていく運命のようだ。

そして明後年の建設計画も発表された。近年はこの傾向が顕著であるが、これは会員を鼓舞するための先行投資みたいな意味があるのだろう。

静岡会館、岡山会館、福岡会館

個人的な関心を書けば、藤枝会館がどうなるか、である。すでに浜松に会館がある。さらに静岡に会館が建てば不要になるのではないか、さすがに不要は言い過ぎにしても、顕正会の実力からすると現状ではそれほど必要としないのではないか、と思われるのだ。

岡山はよくわからないので言及しないが、福岡については言っておきたい。なんだ、まだ会館がなかったのか、と。福岡は九州の中ではいちばんの大都市のはずだ。そこに今まで会館がなかったのは、いかにも顕正会の組織分布が偏っていることの象徴である。

政治は大衆迎合、憂国の至情なし

総幹部会は十一月二十七日に行なわれた。会長講演はこの時点での政局を論じている意味で貴重である。浅井先生は政治家を褒めない。たいていが悪く言う。ボロクソだ。そして今回、もっともヤリダマに挙がったのが自民党の安倍総裁である。

結果はご存知のごとく、自民党の圧勝だった。何とも皮肉な話だ。

脱原発もごまかし

原発政策についても先生は厳しい。どの政党も看板は脱原発を言っているものの本気度が感じられない、とのことだ。総幹部会の時点では日本未来の党はまだ結党していなかったけれども、たぶん先生の評価は同じだろう。先生に言わせれば負けて当然となるだろうか?

ところでわたくしは先日、次のように書いた。

百五十万顕正会は今回も動かなかった。

これはまさしく会長講演を踏まえて書いたのだ。原発政策にかくも辛辣な発言をするのであれば、それを具体的な行動に移してもよさそうなものである。ただ言っているだけじゃ意味がない。百五十万顕正会の実力を見せつける絶好の機会でもあるはずだ。

いや、もちろん、そこまでの実力はないわけで、それは本部首脳もよくわかっているのだろう。

 私は思う。これは、政治家たちが原発の危険そして被災者の悲惨を、我がこととして感ずる心がないからだと。

けだし名言である。今回の会長講演ではもっとも感動的なくだりかもしれない。沖浦氏の好む表現を使えば、まさに同苦ということだろう。政治家には同苦の心がない。もちろん、全員がそうだとは言わないが・・・

2012/12/20

宿題の師走  
二氏より懇切なる回答をたまわりましたこと、まことにありがとうございます。

わたくしの感覚では、創価学会員が公明党候補に投票するのは当然としても、自民党候補に投票するのは抵抗があるのではないか、都知事選もまた同様であろうと、こんなふうに思うわけです。ゆえに組織的に動くにしても、ようは会員たちをどのように説得するのか、そこがひじょうに気になるところでした。会員はロボットではない。いわゆる集票マシーンみたいな表現があるけれども、一人ひとりには自分の考えがあるわけですから、公明党には入れるけど自民党には入れない、あの都知事候補は嫌いだ、こういう考えの人もいるはずなのです。

ところが創価学会はこの点において、ひじょうに団結力がある。はたして、その秘密は何なのか? 簡単に答えられるような話ではないのでしょうけれども、ここが物凄く気になるところですね。

もっとも今回の場合、投票率が低かったこと、それから民主党が勝手にズッコケたような意味もあるので、それが自公勝利の主因なのかもしれませんが・・・

いずれにしましても、ご丁寧な回答、ありがとうございました。

さて、いつもの文体に戻ろう。慣れない文体は疲れるだけだ。

新聞やニュースはご覧にならないのですか?

これはなかなか鋭い質問だ。わたくしは一般紙を購読していない。それからテレビを見ない。なぜならば自宅にテレビがないからである。かれこれ三十年くらい、テレビのない生活をしている。

余談ながら、自分ではけっこう面白い話だと思うので、書いておこう。初対面の人に、自分の家にはテレビがないんですよと告げると、たいていの人が信じない。テレビがない? それはウソでしょう? ところがである。しばらくすると、百パーセントの人が信じる。我が家に来訪すれば一目瞭然であるが、来訪しなくても同様である。何しろ会話が通じない。タレントの誰それがどうしたこうしたという話など、まったくわからない。ゆえに、しばらくすると、ああ、巌虎はテレビを見ないらしい。なるほど、テレビがないのは本当のようだ。というわけで、誰もが納得することになる。今まで一人として疑いを持った人はいない。

ちなみにテレビが嫌いなのではない。けっこう好きで、どこかテレビのある場所に行くと、熱心に見入ってしまう。新聞も同様で、自宅では購読していないけれども、喫茶店のようなところに行けば、必ず新聞を読んでいる。

しかし、自宅には新聞もテレビもない。

ようは変わり者である。ヘソマガリなのだ。

昨今の治安情勢に鑑み、少年法の廃止と在日外国人(特に某半島関係の!)の通名を廃止・禁止を公約に盛り込んでくれる政党があったら、それだけで得票率がダントツだと思うのですが……。残念ですね。

ユタ氏のコメントである。既述のごとく、わたくしはヘソマガリの変わり者であるが、テレビ・新聞にあまり毒されていない意味において、けっこう公平な見方・考え方が出来ているのではないかと、じゃっかん自負するものがある。そこで上掲であるが、いかがなものか、というのが第一印象である。少年法の廃止だとか在日云々、これが疑問なのではない。なぜに得票率がダントツなのか、それがわからないのだ。わたくしは現時点で、これらの案件がどのように議論され、どのような意見が多数を占めているのか、まったく知らない。ゆえに虚心坦懐に物を考えられる。そうすると少年法の是非だとかは難しくて答えが出せないけれども、得票率がダントツであるとする意見には納得しかねるわけである。だったらそれを看板に掲げて選挙に打って出る政党があってしかるべきではないか、それがないのはユタ氏が思っているほど有力な意見ではないからではないのか、と思うわけである。

以上、ユタ氏の論理の甘さを指摘させていただいた次第である。もっとも、こんな文章を書いていると、嫌われるだけなのだが・・・

さて、同様の意味で、わたくしは沖浦氏に思いっきり嫌われてもよさそうなものなのだが、どうもそうはならないようだ。

 天下は破れば破れよ 世間は滅びば滅びよ 人はともあれ 我が身さえ富貴ならば。

 以上は、これは天下を二分し11年も争われた「応仁の乱」の直後に記された軍記「応仁記」にありますが、当時の人々の心を示す言葉です。

 今はそう言う時代でも機根でもありません。
 東日本大震災の時の被災者の皆様方の、他者を思いやる行動は、世界中に感動を与えました。

 ある国の報道機関は、

 これは本当に強い国の強い国民だけが示せる振る舞いである。

 以上の様に絶賛いたしましたし、災害で家屋ごと流された金庫は、90%以上が持ち主に戻りました。
 更に、これだけの大災害で、一件の暴動も略奪も起こっていません。

 機根が変化した証拠です。

 現実を認めないといけませんね。


応仁記を知っているとは沖浦氏もなかなかの勉強家であるが、しかし、これは文証としては不可である。いわゆる現証の範疇なのだ。ゆえに現証としては可だが、文証としては不可である。

現実を認めないといけない・・・

なるほど、現証としてはいちおう認めることにしよう。では、文証はあるのか、そこが問題だ。

ようするに、大聖人の御書から証拠を出さないといけないのだ。

されば正法には教行証の三つ倶に兼備せり。像法には教行のみ有って証無し。今末法に入っては教のみ有って行証無く在世結縁の者一人も無く、権実の二機悉く失せり。

わたくしは前々回、大聖人の仏法は正像末の三時を基準に論ずる、それが大枠だ、と書いた。文証は数限りなくあるので上掲が適切かどうかはわからないが、いちおう、ここに提示した。

さて、沖浦氏の回答はいかに。

2012/12/19

師走の宿題  
話の流れとして、今日は選挙結果のことも書かないといけないし、沖浦氏との議論も継続中であるし、ひじょうに面倒だ。

 種脱相対は日蓮正宗の方や、創価学会の原理主義に近い方々が良く引用されますが、ほとんどが誤った解釈です。

 大聖人は下種で、釈迦は脱益。

 これは、釈迦仏法の立場です。
 大聖人のお立場では、全ての教えは下種なんです。
 
 釈迦も、天台も、伝教も、キリストも、マホメットも、孔子も、老師も、孟子も全て、下種です。

 この点を少し論じませんか?


また、わけのわからんことを言っている。しかし、沖浦氏にはその前にやることがある。すなわち前回の宿題だ。

まずは末法においても機根が変化していくことを、御書をもって論証する必要がある。

この問いに対し、沖浦氏は次のごとく答えた。

 機根はドンドン変化致します。

 『但し人の心は時に随つて移り物の性は境に依つて改まる、』
 (立正安国論)

 この人の心が機根です。
 時にしたがって移るのですよ。


まったくダメである。お話にならない。

なぜダメなのか、本人は気が付いていないだろうし、あるいは読者の中にも理解できない人がいるかもしれないので、いちおう書いておこう。まずは次をご覧いただきたい。

大枠で捉えた時の機根ですが・・・

これでほぼ理解できたことと思う。

人間は十人十色・百人百様・千差万別である。それを個別に論じたら際限がなくなる。ゆえに大枠で捉えた時にどうなるかが問題なのだ。

これは前々回の拙稿を書き直したものである。これに対し沖浦氏は大枠云々と返答した。今はまさにその流れの上にあるのだ。であれば、立正安国論の当該御文はまったく当てはまらない。

そもそも人の心が変わっていくことが、そのままイコールで機根の変化を意味するのかどうか、それすら議論が定まらない。もし仮に、それが正しいとしても、大枠の話とはぜんぜん別次元である。

シツコイようだが、再掲しよう。

大枠で捉えた時の機根ですが、鎌倉時代は機根は良くないですね。

現在は全く異なります。現在の日本は、機根が世界最高なんです。


これを御書をもって論証するのが沖浦氏の宿題である。個々人の心の変化ではなく全体の傾向性、それが大枠で捉えるという意味である。

さて、選挙の話だ。

大方の予想通り、自公政権の復活である。しかし、わたくし自身は腑に落ちないと書いた。納得しかねるものがある。どうも釈然としないのだ。

「でも、自民党だからこの程度で済んでるんだよ。他の政党に政権取らせてご覧なさい。もっと酷いことになるから」

これはユタ氏の友人がかつて言っていたことらしいが、なるほど、これが答えなのかもしれない。すると今回の選挙は消去法的選択ないし消極的選択、こんな表現が当てはまることになるかもしれない。実際、自民圧勝に国民がフィーバーしているようにも感じられないし、そもそも投票率の低さからしても、もはや政治には期待しないという人たちが国民の多くを占めるようになってきたことを、まさに象徴していることなのかもしれない。

自公政権にノーを突きつけた。それが前回の総選挙だった。

であれば、わたくしの感覚ではそう簡単に逆戻りすることはない。今回は民主が負けるにしても自民も負ける。第三極が票を伸ばして、どこがいちばんでもなくなる。ドングリの背比べのような感じになるだろう。そこで政界再編が行なわれる。具体的な再編図はまったく想像できないものの、いわばそれが今の混沌とした世相を反映しているというか、その縮図そのものだろう、などと思っていたのだ。

そんなわけで、結果が出る前から世論調査などでは自民圧勝が言われていたけれども、わたくしにはまったく腑に落ちなかった。電話アンケートの場合、たとえ無作為抽出で行なったとしても、今は自宅に電話を置かない若者も多いので、必ずしも正しい結果を反映しないのではないか、実際の投票結果は違ったものになるのではないか、などとも思っていたのだ。

ところがどっこい、である。自民が圧勝し、公明も党勢を回復した。自公だけでいわゆる安定多数を確保してしまったのだ。わたくしにはまったくの予想外だった。

さて、ここで質問である。

のび太氏やんっ?氏のような熱心な支持者に聞いてみたいことがある。答えて貰えるかどうか微妙だが、いちおう書いておこう。

小選挙区の場合、当然ながら地元に公明の候補が立たない地域がたくさんある。いわばほとんどの選挙区がそうなのだ。当然、比例は公明に入れるのだろう。では、選挙区のほうはどうするのか?

わたくしの興味はズバリ、自民党候補に投票したのかどうか、さらに言えば、組織として具体的な指示を出していたのかどうか、である。

東京在住の場合、都知事選での投票行動がどうであったか、それもまた興味深い。今度の知事はベラボウな高得票で当選したという。個人的な評価で恐縮だが、あの人そんなに取れるかな、というのが正直な感想である。ゆえに公明の組織票が相当に効いているのではないかと想像するのだが、この辺の真相も気になるところである。

ちなみに百五十万顕正会は今回も動かなかった。

もっとも百五十万は看板だけなので、動いたところで大勢に影響はないのかもしれないが・・・

2012/12/16

沖浦氏への反論  
今日は投票日だ。

昨日までの各種世論調査によると、自民の圧勝が言われている。これがわたくしには腑に落ちない。このままでは自公政権に逆戻りすることになりかねない。それがイヤだから三年前には民主党に期待したわけだろう。期待はずれだったのは事実であるが、さりとて再び自公に任せるという選択肢もどうかと思う。そこで登場したのがいわゆる第三極だったはずだ。しかし、諸般の事情を勘案すると、第三極はいまいち信用しかねるのも事実である。

なお、きわめて個人的な関心で恐縮だが、わたくしは山本太郎の当落に注目している。彼はそこらのタレント候補とは一線を画している。本物だと思う。

さて、結果はいかに・・・

いちおう、時間を書いておこう。これは十六日午前十時現在の所感である。

 大枠で捉えた時の機根ですが、鎌倉時代は機根は良くないですね。
 御書に明白です。

 『然るに今の世は闘諍堅固白法隠没なる上悪国悪王悪臣悪民のみ有りて正法を背きて邪法邪師を崇重すれば国土に悪鬼乱れ入りて三災七難盛に起れり、』
 (如説修行抄)

 こう言う状況です。
 現在は全く異なります。
 東日本大震災での被災者の方々の他人を思いやる非難の姿が、外国のメディアで大きく取り上げられ、驚きと尊敬の対象となったことは記憶にあたらしいです。

 ある海外のメディアは、階段に座って避難する方々が、通路を開けているのを見て書きました。

 本当に力のある国の国民だけが、こう言うことが出来る。

 現在の日本は、機根が世界最高なんです。

 『破戒無戒を毀り持戒正法を用ん世には諸戒を堅く持べし』
 (佐渡御書)

 これが現在の日本です。
 そう言う国で、

 お前は邪宗だ!
 
 こんな事言って広宣流布できませんよ。


沖浦氏のコメントだ。少しばかり長いので、次に要点のみを再掲しよう。

大枠で捉えた時の機根ですが、鎌倉時代は機根は良くないですね。

現在は全く異なります。現在の日本は、機根が世界最高なんです。


これは恣意的解釈だ。まず、大聖人の仏法においては正像末の三時を基準に論ずる。それが大枠である。ところが沖浦氏は末法においても機根がコロコロ変わると言っているわけだ。鎌倉時代は悪かった。しかし、今は世界最高であると。

ゆえに、まずは末法においても機根が変化していくことを、御書をもって論証する必要がある。

次に、誰が機根の善し悪しを判断するか、そこが問題である。沖浦氏が今は世界最高であると言ったところで、説得力はゼロである。その理由は御書に明白である。

智慧第一の舎利弗すら尚機を知らず。何に況んや末代の凡師機を知り難し。

いかがだろう。これですでに充分なのだが、せっかくなのでダメ押しをしておこう。

所謂病は重し薬はあさし。

これは末法の機根を端的に御教示あそばすものである。

日本一州円機純一

この響きが素晴らしい。おわかりだろうか、これは世界最高の意味に他ならない。つまり、沖浦氏が言う遥か以前に、すでに日本は世界最高の機根を有しているのだ。

一閻浮提八万の国の中に大なる国は天竺、小なる国は日本なり。名のめでたきは印度第二、扶桑第一なり。

国に約しての御教示であるが、意味するところは前掲と同じである。以上、三つの御書を勘案すれば、答えは明瞭だろう。

末法の衆生は最悪の機である。もちろん日本人も例外ではない。病は重しである。しかし、そこに御本仏出現して三大秘法を弘通あそばす。ゆえに日本人は世界に先駆けて御本仏に縁することが出来る立場にいるのだ。その意味においては最高の機である。

これで沖浦氏のごとき凡師(?)が機根のことをとやかく言うことの愚かしさがよくわかったはずだ。

 貴方のご引用の御書は、曾谷入道殿許御書ですね。
 これは釈迦仏法の立場でのご指南で一面の真理です。

 既に南無妙法蓮華経が表に出ている現在、釈迦仏法にとらわれる必要はありませんし、むしろ害を与えることが多いのです。
(以下省略)

これも沖浦氏である。懲りない人だ。

いわゆる種脱相対という言葉がある。これは日蓮正宗の専売特許みたいなもので、日蓮宗では認めていない。この意味を踏まえて上掲を読むと、あるいは錯覚を起こす人がいるかもしれない。確かに沖浦氏にも一理あると。

もし沖浦氏がこれを意図しているのであれば、これはもう大悪党である。たぶん、そうではなくて、気が付いていないのだろう。

沖浦氏の宿題は、釈迦仏法と大聖人仏法の画然たる相違について、もっと詳細に論証すべきことである。その上で機根の捉え方についても論ずるべきだろう。はたして矛盾なく説明できるかどうか、ひじょうに興味深いところである。

ようするに沖浦氏は自分にとって不都合な御文が出てくると、それを釈迦仏法の枠に押し込んでしまって、深く考えようとしない。それが結論なのではないかと思う。


同日追記:一部訂正した。

2012/12/11

外用・内証についての一考察  
沖浦氏は開目抄と佐渡御書を引用し、次のごとく言っている。

 摂受と折伏は機根で使い分けるのですよ。

これはそのとおりだが、機根の考え方をもう少し整理する必要がある。人間は十人十色であり、容姿にしても性格にしても一様ではない。まさに千差万別だ。この意味においては沖浦氏の考え方で問題ない。現に大聖人御自身も相手のレベルによって、説く内容を変えていらっしゃる。しかし、大枠で捉えた時にどうなるか、そこが問題なのだ。

機を論ずれば已逆と未逆と、已謗と未謗と・・・

この辺にヒントがあるので、沖浦氏にはぜひとも時間を掛けて思索してほしいものだ。

 大聖人が久遠の南無妙法蓮華経如来なら、私共一切衆生も同じですよ。

これは明らかに別件だ。今回の話題とは関係がない。

浅井先生のレヴェルの低さにビックラカメラです!?

のび太氏であるが、どうもその文脈からすると、創価学会ではレベルによって教えている内容が異なるらしい。なるほど、これは機根の話と通ずるところがありそうだ。しかし、どうなのだろう。わざわざ間違っていることを教えてどうするのかと思う。最初の段階ではこのように教えたほうがいいという、そうした必然性みたいなものがあればいいのだが、どうもそれが見えてこないのである。

宗門では「御大会式」とは呼ばないんですよね。「御会式」または「御大会」だったと思います。見事に足しで2で割る名称なわけですね。

ユタ氏のコメントであるが、この話題はどこかの掲示板でも取り上げられていたことがある。もしかしたら浅井先生もそうしたネット上の議論を踏まえているのか、近年の御大会式では講演の中で次のような表現を使っている。

ただいま謹んで御大会の儀を奉修させて頂いた次第であります。

ということで、今日もまた御大会式講演の続きであるが、まずは再び、のび太氏にご登場願おう。

「自明の理」という言葉をご存知だろうか。
証明するまでもなく明らかな道理である。


ようするに、本地・自受用身、垂迹・上行菩薩、再誕・日蓮について、わたくしが悩ましいと書いたことに対するコメントである。

もし創価学会の幹部たちが全員、同じことを言うのであれば、大したものである。まだ、教学的には崩れていない。しっかりしている。

ただし、何をもって自明の理とするのか、そこが問題である。

ご存知のごとく顕正会の場合は会員個々が御書を持たない。ゆえに浅井先生の指導がすべてなのだ。ましてや先般も紹介したごとく、大幹部ですら自力では御書を拝し得ないと言っているわけであるから、なおさらのことである。

しょせん創価学会の幹部とて同様なのではないか、誰かに教わって、それで知り得たことではないのか、独力ではわからないのではないか、とわたくしは思うのだが、いかがだろうか?

 大聖人様の御境界を拝するに、二つのお立場があられる。一つは外用、もう一つは内証です。

浅井講演であるが、ここに答えが出ている。ようするに内証なのである。それが簡単にわかってしまったら、内証でも何でもないことになる。

 「内証の寿量品」の意は、冨士大石寺門流以外にはわからない。

これはまさに日寛上人などの英邁なる上人たちが、御書を懇切丁寧に解説して下さったからこそである。そこでようやくにしてわれわれは知り得たのだ。

つまり、のび太氏の言う自明は結果論であって、もし自力で筋道立てて論証しようと思ったならば、並みの人間にはとうてい不可能のことである。この意味で日蓮正宗を否定せんとする現創価学会は、自家撞着に陥っているとしか言い様がないだろう。

さて、今日はヘリクツを承知で、浅井講演にイチャモンをつけてみようと思う。

 外用とは、一切衆生を教化するための外面の姿。内証とは、内面に秘められた真実のお覚り、お姿であります。

外用は「姿」で、内証は「お姿」。ほとんどアゲアシ取りと変わらないかもしれないが、あえて突っ込んでおこう。外用は上行菩薩、内証は自受用身、この両者は表裏一体という。ならば、ここは同じであるべきはずだ。

しかし、浅井先生のつもりとしては、上行は身皆金色・三十二相なので、あえて勝劣をつけたのかもしれない。

そこでここからが素朴な疑問というか、ヘリクツながらも半分は真面目な気持ちで書くわけだが、実は外用が自受用身で内証が上行菩薩なのではないか、ということを問題提起したいと思うのだ。

 本地たる久遠元初の自受用身が、本の姿を変えて「身皆金色・三十二相」(涌出品)で法華経の会座に垂迹したのが上行菩薩。そして本のままの名字凡身の姿で再誕されたのが日蓮大聖人であるということです。

いかがだろうか?

この説明は最初の定義と矛盾するのだ。外用は外面の姿、内証は内面の姿。大聖人の御姿はそのままで久遠元初の自受用身なのだろう。であれば、外用そのものであり、むしろ上行菩薩の姿は内面に隠れているわけだから内証となるのだ。

ヘリクツではあるが、半分は真面目な気持ちである。

たぶん、これは教学史的な考察が必要なテーマなのだと思う。ごく簡単に説明すると、外用・内証の捌きは後年、おそらくは日寛上人であろうか、ようするに整足した形で使われるようになったのはかなり時代が下ってからのことなのだ。その証拠は本因妙抄の冒頭に出ている。

 予が外用の師・伝教大師は・・・

伝教は薬王菩薩の再誕ではなかったか?

大聖人の外用は上行菩薩、その師が薬王菩薩、まったくわけがわからんことだ。

ようするに、外用も内証も御書に出てくる言葉なのだが、必ずしも今日われわれが使っているような整足した形では出てこない。後年、まとめられていくのだ。

 夫日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘通の大権なり。

この五人所破抄の一節もまた、この間の事情を物語って余りあるものがある。大聖人滅後、最初は上行菩薩かどうか、それすら理解できない連中がいたのだ。ゆえに上掲のごとくの御文が存するわけである。いわば、この段階では上行菩薩そのものが内証だったのだ。時代が下るにつれて、日蓮=上行は当たり前になっていく。すると、今度は大聖人が御本仏かどうかが争点になるわけだ。おそらく日寛上人の御指南はこうした時代背景を反映しているのだろう。

以上、外用・自受用身、内証・上行菩薩は、単なるヘリクツに過ぎないかもしれないが、さりとてまったくの無価値でもあるまい。そう思って一文を草した次第である。

2012/12/8

御大会式講演を読んで  
信行氏の口の悪さは天下一品であるが、それはどうでもいいことだ。ようは話の中身が肝心なのである。

浅井はついにボケてしまったのであろう。
我が宗門において佐前外用上行菩・内証久遠元初自受用身は当然であって、そうでなければ発迹顕本にはならないではないか。
そもそも立宗宣言の題目とは三大秘法の本門の題目である。浅井はその意味すら理解できぬのであろう。
「日蓮正宗入門」「日蓮大聖人正伝」「日蓮正宗要義」などに浅井がいうごときの記述が無いのも当然。ただ云いがかり難癖をつけているだけではあるまいか。
いよいよ謗法者浅井の頭破七分が顕現する時か。


なるほど、これは真っ当な反論である。

昨日の復習を兼ねて、会長講演のくだんの部分を再掲しよう。

 宗門においても、次のような論説がしばしば目につく。

そして続きは次のごとくである。

 「立宗以後の大聖人は上行菩薩。そして竜の口以後は久遠元初の自受用身である」と。

カギカッコで括って引用文のような体裁を取ってはいるものの、具体的な出典が明記されていない。一方、信行氏は具体的な書名を三点挙げた上で、反論しているわけだ。

つまり、現時点では顕正会側に挙証義務がある。しばしば目につく。こう言っている以上は最低でも二つは出すべきだろう。宗門側の書籍に上掲のような記述があるかどうか、もしなければ浅井先生はウソツキである。

顕正新聞当該号では明年の教学試験の大綱が発表されている。そこには四級試験の試験範囲として、本年の御大会式講演が挙げられている。このままではウソの講演を試験範囲に入れることになる。さすがにマズイだろう。

わたくしの思うに、たまたま信行氏のご覧になった資料には浅井先生の指摘するような記述はなかった。しかし、たぶん宗門のどなたかが、そのようなことを言ったり書いたりしているはずなのだ。火のないところに煙は立たない。必ず何かしらの文証が存在するはずである。

四級試験が実施される日までに、顕正新聞紙上にその具体的な文証を出すべきだろう。それが顕正会側の宿題である。

以上、そういうわけなので、信行氏には申し訳ないが、この件はしばらく保留とさせていただくことになる。

さて、そこで昨日の続きである。

表裏一体、同時進行、並行の御化導

今回の会長講演は素晴らしかった。一つ余談を書けば、二面の写真が印象的である。総合部長ないし副部長という顕正会における大幹部たちの真剣さが伝わってくる写真なのだ。ようは先生の講演に全神経を集中しているわけで、一人としてダラけた表情をしている人がいないのが凄いところだ。世間ではなかなかお目に掛かれない光景だかもしれない。

さて、上掲は二面の見出しの一つであるが、昨日紹介した一面の大見出しと同義である。つまり、上行菩薩と自受用身は表裏一体であり、同時進行・並行の御化導であるとのことだ。

並行・・・

わたくしはこれが気になった。まず、どのように読むのか、それが俄かにはわからなかった。普通に読むならば「へいこう」だろう。しかし、「びょうぎょう」と読むのかもしれない。そのほうが仏法用語らしく感じられるからだ。
それはともかく、ごく単純に言えば、同時進行と並行は重複表現であり、わざわざ並べて表記する必要性はないと思う。
さらに言えば、表裏一体と並行は矛盾しているようにも感じられるのだ。

わたくしは以前、釈尊=大聖人、というような論述をしたことがある。この時、ある人がコメントで言っていた。もし巌虎の言うごとくであれば、釈尊=上行、となる。霊山において、釈尊は上行に付属した、自分で自分に付属したことになる、ヘンだなあ、という感じだったと思う。

実はこれこそが並行なのだと思う。

七百年前においては大聖人御一人が出現された。ゆえに本地が自受用身であり、垂迹が上行菩薩とする捌きにおいては、まさに表裏一体の関係である。しかし、実際に御化導をあそばすのは大聖人御一人なのだから、並行は表現的に相応しくないのではないかと思うのだ。

同様の意味で、同時進行もやや不適切だかもしれない。

ただし、デフォルメ的というべきか、これらの表現をあえて意図的に用いたのだとしたら、ある意味では成功しているとも言えるかもしれない。

すなわち大聖人の御化導を佐前・佐後に切り分けて、それぞれを上行と自受用身に配当する捌きに対する破折の意味においてである。

信行氏のコメントによって宗門側の見解はさにあらずということになりそうだが、少なくとも創価学会ではそのように教えているわけだろう。だとすれば、それは違うんだよ、同時進行なんだよ、というふうに説明することは便宜的な意味でひじょうにわかり易いはずである。

なるほど、浅井先生のネライはこの辺にあるのだろう。

「本地、垂迹、再誕」の大事を深く拝せよ

先生は、久遠元初の自受用身と上行菩薩と日蓮大聖人の関係をズバリ端的に示す御指南として、百六箇抄を引用している。

本地・自受用身、垂迹・上行菩薩、再誕・日蓮

悩ましいところだ。

第三婦人部長の言葉が思い起こされる。たとえ御書にズバリ説かれていても我々ごときには拝し得ないと。

では、平成新編における当該御指南がどのようになっているか、確認しておきたい。

本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮

なるほど、わたくしにもさっぱりわからない。第三婦人部長の言っていることはあながち間違いではないようだ。

ついでながら書いておくと、浅井先生は自受用身を多用するけれども、自受用報身とは言わない。しかし、顕正会版の観念文は自受用報身となっているので、それをことさら否定するつもりはないのだろう。たぶん、ここは報中論三といって、かなり難解な概念が含まれる部分なので、先生としては避けている意味があるのだろう。きわめて賢明だ。

倶出霊鷲山

真面目に勤行している人ならば、誰もが知っている自我偈の一節だ。当該講演ではもう少し引用範囲が広いけれども、ようはここに重大な意味があるという。もしかしたら過去にも同様の講演があったかもしれないが、わたくしの記憶にはない。ゆえにけっこう驚いた。

広宣流布の時、戒壇の大御本尊はいよいよ国立戒壇にお出ましになる。

国立戒壇の用語はともかくも、あの自我偈の文がこのような意味をあらわしているとは驚きである。はたしてこれが正当な解釈なのかどうか、わたくしにはまったく判断がつかない。ようするに浅井流法門なのか、それとも先師上人の御指南に基づくものなのか、そこが問題である。


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