2012/12/31

年の瀬の独白  
気がつけば本年最後の日である。まったく何をやっていたものか、何もやっていないじゃないかと、我ながら嫌になってくる。結局はダラダラと月日を過ごしているだけなのだ。

それはさておき話を進めよう。

沖浦氏との議論はいちおう終止符を打ってよさそうだ。また来年も、つまらないことでああだこうだと言い合うことになるだろう。それがダラダラ感の原因でもあるわけだが、こればかりは仕方がないことだ。しょせん人生とはそんなものだと達観(?)しておこう。

ユタ氏よりご挨拶をたまわった。

どうやら年越しの仕事を控えているらしい。氏のブログを読めば、たいていのことが包み隠さず書かれている。仕事の記述も多い。寒いので、くれぐれも身体に気をつけて頑張ってもらいたいものだ。ところで、勧誡をほのめかす記述があるけれども、その辺の真相はどうなのだろうか? そこが少し気になるところである。

桜月氏より好意的なコメントを頂戴した。

法華講員やその他の人の意見は、批判するという気持ちが強すぎてあまり参考にならないので・・・

自分自身を客観視するのは難しい。わたくし自身も例外ではない。ただし、今現在の立場はフリーであり、さしたるシガラミがない。いわば融通無碍である。それが幸いしてか、比較的に自分を客観視することも容易であるし、他人のこともよく見えるのだ。いや、もちろん、実際には自分で勝手にそう思っているだけで、本当のところは違うのかもしれない。読者から見れば、オマエはぜんぜんダメだ、というのが本当なのかもしれない。ゆえに、どっちが本当かわからないけれども、桜月氏からのコメントを拝見すれば、まだ少しはマシなのかもしれないと思うのだ。

わたくしは顕正会批判を書いているわけだが、実は同じことが法華講にも当てはまるのではないか、創価学会にも当てはまるのではないか、と思う。

たとえば組織批判がある。具体的には成果主義批判が好例だろう。ようはノルマの問題だ。わたくしは顕正会における成果主義を批判してきた。実は法華講にも同じことが言えるのではないか、当然、創価学会も同様である。

結局、その構成員は所属先が変わっただけであって、やっていることは同じなのだ。構造的には何も変わらないのだ。

ゆえに、顕正会員の異常心理(?)が取り沙汰されることがあるけれども、それを批判している法華講員も実はまったく同じ心理状態に陥っている、創価学会員もまた然り、ということになる。

同じ穴の狢、目くそ鼻くそを笑う、といった感じだろうか?

あるいは、オマエも同じだろうが、という反論があるかもしれない。

確かにそうかもしれないとは思う。

ただし、一点だけ異なるのだ。すでに答えは出ているけれども、ようは組織に属していない、すなわち無所属である。ゆえに、組織からのプレッシャーがない。同調圧力に晒される場面もない。よって、自由な言動ができるのだ。

それはともかく、誤解のないように書いておきたいことがある。

顕正会員の異常心理〜法華講員〜創価学会員〜は、あくまで一観察に過ぎない。組織批判の意味で言えば、もし会員の心理が異常であれば結果さまざまな問題を生む、もしそれが組織全体の傾向性ということであれば延いては社会問題に発展する、さてどうしたものか、といった議論が展開されることになる。

しかし、組織全体の傾向性なるものが客観的事実に基づくものなのかどうか、本当はここをしっかりと突き詰める必要があるのだ。

たとえば顕正会員が逮捕され、大きく報道されたとする。なんだかんだ言ってもテレビ・新聞の影響力は大きい。ゆえに、我々は錯覚してしまうのだ、あたかもそれが顕正会全体をあらわしているかのごとくに思い込んでしまうのだ。

以上のような理由で、異常心理云々はきわめて主観的、さらに言えば悪意の観察、という可能性もあながちには否定できないのだ。多くの人が認めているように、顕正会の中にだって善人はいるわけだ。ゆえに、頭ごなしの決め付けはいけない、批判ありきで論じてはいけない、ということを常に心掛けておく必要がある。

さて、ボヤボヤしているうちに大晦日を迎えてしまったが、顕正新聞の第1261号をまったく取り上げていなかったので、今日は大急ぎでそれを片付けてしまおうと思う。

第一面は十一月十五日の日目上人御報恩勤行会における会長講演だ。

 違失というのは過失ですね。全く過失がなかったというと、何か消極的なように聞こえるが、この「違失」とは、日蓮大聖人の弟子として為すべきことをしないのを違失というのです。

日興跡条々事に出てくる「敢えて違失の儀なし」について解説しているくだりである。もちろん、こういう説明も悪くはないが、しかし、わたくしは違うのではないかと思う。ここは単純に、過失がなかった、でいいのだ。

あとは特に取り上げる必要はないだろう。次は総合女子部長だ。

(浅井先生より)勿体ないまでの重大指導を授けて頂き、私自身、日目上人が最後の天奏の折
 「自分がこの大任を果さずして誰がやる。なさねば大聖人様に申しわけない」
 と身命を抛たれたお姿に、先生の広布最終段階にかけられるお姿を今ほど深く重ね拝させて頂いたことはなく・・・


心配していたことが今年も起きてしまった。どうやら毎年同じことを繰り返しているようだ。

目師再誕説は昔からあったわけだが、近年は年齢的な意味でも重なって見えるのだろう。世間では引退して後進に道を譲る年齢だ。しかし、顕正会はそうしない。最後まで浅井先生が指揮を執る。ある意味では目師を例に正当化を図っているとも受け取れるところである。上掲のカギカッコはまさしく先生自身の心境・決意である。ようするに目師に仮託する形で、実は自分のことを間接的に語っているわけなのだ。

福井会館御入仏式 熱涙のなか厳修

四面の記事だ。十二月九日に福井会館がオープンした。当初、鯖江会館の名称で発表されていたものだが、いつの間にか変更になっていた。五面の各種登壇記事にも鯖江会館のことは書かれていない。あたかも最初から福井会館と名づけられていたかのごとく登壇している。この辺がやや気になるところだ。これを単なるアラサガシ・イチャモンと思ってはいけない。顕正会では書籍を改訂する時、都合の悪い記述をこっそり書き直してきたという歴史があるので、要注意なのだ。

会長講演については特に触れないが、わたくしが気になったのは下段の写真である。

降り続いた吹雪も、式の開始直前にピタリと止み、お見送りの時には日差しさえ出た

右下の写真がよくない。浅井先生に向かって礼拝合掌している写真だ。それから同じ写真の話だが、城衛の尊大な姿もじゃっかん気になるところだ。

これまたイチャモンではない。わたくしの礼儀作法というか、美的感覚から進言しておこう。背広の前ボタンを留めるべきである。たとえば畳の上にアグラをかいてどっかと座る時はボタンを外していい。しかし、立ち上がった瞬間にすばやくボタンを一つ留めるのだ。この習慣をぜひ身に付けてもらいたい。

ともかく、全員が浅井先生に向かって合掌礼拝している中、城衛だけが踏ん反り返っている、この図はまさに顕正会を象徴するものである。

ネパールで官僚や教師等 23名入信
 ネパール版経本を涙を流して読誦


十一月度班長会の活動報告だが、婦人部多摩支区部長が班長とともにネパールへ渡航したことの報告だ。細かい点は省略しよう。わたくしが気になったのは、この成果が日本の成果とごちゃ混ぜになっているかどうかだった。そこで前号に載る折伏成果の一覧を確認してみた。当該班長は見当たらない。上掲の二十三名は彼女の成果に組み込まれるはずなのだ。班でそれだけの成果を出せば、まさしく優秀班である。しかし、さがし方が悪いのか見つからないのだ。

ところで、二年前の拙ブログを読むと、女子部支区長補の活動報告がある。同じくネパールの話だ。当地にはすでに自宅拠点がある。しかし、今回の記事ではそのことにはまったく触れられていない。女子部と婦人部は協調性がないのだろうか?

もっとも同じネパールであっても、地域が異なるのかもしれない。

最後は総合婦人部長に締め括ってもらおう。

「麗しい日本を汚染させてなるか」
 先生お一人が本気で原発廃絶を


浅井先生だけというのは言い過ぎだろう。市民運動家を無視してはいけない。彼らは功徳だとか罪障消滅だとか、そういう概念を持っていない。その意味では純粋無垢である。顕正会員の活動原理は御利益信仰的である。その意味では不純なのだ。

まあ、こんなところで終わりにしよう。


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