2013/1/26

顕正会の誇張体質を問う  
今回の一件について、各方面からコメントをたまわった。いずれも好意的なものばかりだったので安心したが、しかし、慢心してはいけない。しょせんは凡夫であるからして、同じ間違いを繰り返さないとも限らないのだ。

そもそもわたくしは誤字脱字にうるさい。そういう文章を書いている人を見ると、ダメだこりゃ、と思う。実際、そういう文章は内容そのものがズサンな場合が多い。

かく言うわたくし自身が誤字脱字だらけで、内容も間違いだらけの文章を書いていたら、お話にならない。目くそ鼻くそだ。それゆえに、今回の一件はゆるがせに出来ないことだったのだ。

さて、今日は顕正新聞第1263号の話題であるが、実は先日来の話題とつながっている。

諸天の働きは何と凄まじいのか!
 六千万は一時に成る≠強く確信


当該号の一面は元旦勤行と年末の広布御供養奉告勤行の記事であるが、それは特に書くこともないので省略する。特筆すべきは二面以降の十二月度班長会の記事だ。

上掲は総男子部長の記事に付された見出しであるが、諸天の働きとはいったい何であろうか?

 これらを見るとき、先生のご発言に感応する諸天の働きに、息を呑むばかりであります。

本文からの引用である。総男子部長以下、副総男子部長・第七男子部長・総合婦人部長・副総合婦人部長・第十二婦人部長・総合女子部長・第二十二女子部長も同様のことを言っているので、煩瑣ながらすべて列記してみたいと思う。

先生の戦いに相呼応する諸天の厳然たる働きと確信し、大感激いたしました。

先生の発言に相呼応する諸天の働きに、胸の奥より大感動が込み上げたものであります。

 これも地上の戦いと諸天が相呼応することを思えば、憂国護法の先生の強きご一念に諸天が感応したと思わずにいられません。

先生の仏弟子としての大道念に、たちまち反応する諸天の働きは何と早いのかと、感嘆の他はありません。

この先生の戦いに瞬時に相呼応する諸天の働きは大衝撃でありました。

先生の戦いに諸天が感応しているに他ならず、大感動に打ち震えたものであります。

まさに先生の戦いに諸天が呼応していることを実感を以て拝しては、なんと偉大な師匠に師事し得たのかと、有難さで全身が震える思いとなったものであります。


大袈裟にも程がある。まさに誇張体質そのものである。

たぶん、新聞をお持ちでない人には何がなんだかわからないと思うので、もう少し引用範囲を拡げてみたい。以下は副総男子部長の記事である。

 思えば昨年、浜松会館御入仏式前日に浜岡原発は停止し、本年、福井会館御入仏式の翌日には敦賀原発が、黒石会館新本館御入仏式の後には東通原発が、原子力規制委員会により「直下に活断層の可能性」との決断を受けたことには、先生の戦いに相呼応する諸天の厳然たる働きと確信し、大感激いたしました。

一月九日の拙稿でも同様の話題を取り上げたけれども、浜岡原発が停止した話と今回の活断層の話ではまったくつり合わない。現在稼動中の大飯原発が停止するくらいでないとバランスが取れないのだ。

なぜならば総合女子部長は次のごとく言っているのだ。

 また原発推進を持論とする自民党であれば、今後、原発再稼働が進むと思われること等を伺い、ますます亡国が加速することに身震いを禁じ得ず・・・

まったく支離滅裂である。顕正会の錚々たる大幹部たちの悩乱ぶりは度し難いほどだ。

おわかりだろうか。もし安倍総理が、かつての菅総理が浜岡を止めたごとく大飯原発を止めたとしたら、これは凄いことだと思う。しかし、現実にはそのような動きはない。規制委員会は文字どおり規制をする委員会なのだ。つまり、彼らは当然のことをやっているだけであって、それ自体は驚くに値しない。ようは職務を全うしている、ただそれだけのことなのだ。それを大仰にも諸天の働きなどと言うのは片腹痛い話である。

再掲しよう。

六千万は一時に成る≠強く確信

これがまるで根拠のない確信であることは、もはや誰の目にも明らかだろう。

さて、ここで原発についてのわたくしの見通しを書いておきたい。

自民党は原発推進だと言われている。これはそのとおりなのだろう。ただし、少数かもしれないが、原発反対を唱える議員もいる。河野太郎氏が有名だ。
また、世論そのものも原発反対が有力である。自民党が大勝したとは言え、必ずしも世論が変わったわけではない。
そしてもっとも重要なことは、福島の事故は終わっていない、今も続いていることだ。日本人は忘れっぽい国民性と言われているけれども、さすがに事故そのものをなかったことには出来ない。

本年、四号機の燃料取り出し作業が始まる。これがいつ完了するか、ともかく始めてみないとわからないことだ。
一から三号機はさらに困難を極める。燃料プールの燃料を取り出すことは四号機同様、いずれは行なうことになるのだろうが、しかし、原子炉の中の燃料をどうするか、これが大問題なのだ。何しろメルトダウンしてしまったと言われているのだ。つまり、燃料が通常の形では存在しない。溶けてしまって、それが流れ落ちてしまい、今現在、どこにどのような形で存在するか、それすらわからない状態なのだ。

これではいつ事故が収束するか、わからない。そして今も多くの人が避難生活を余儀なくされている。場所によってはほぼ永遠に、少なくとも自分が生きている間には帰れない、そういう高線量の地域もあるわけだ。

こういう背景がある以上、さすがの自民党も馬鹿なマネは出来ないだろう。

以上がわたくしの見通しである。

さて、再び顕正新聞に戻って、第十二婦人部長の記事で気になった部分があるので紹介しておこう。

 そしてこの十二月、原発の恐ろしさを知れば知るほど、取り除くことも困難な危険極まりない時限爆弾が設置されてしまった事実を告げ知らしめる戦いが力強く展開されておりますが、その中、青森県民の憤りと国への不信感を目の当たりにしては、明らかに動執生疑が強まっていることを実感するばかりであります。

青森県民の憤りと国への不信感・・・

これがよくわからなかった。

 その一方で、原発に関わった人の癌死が後を絶たない事実と、国の命令により原発所在地の放射線濃度を測定した自衛隊員が
 「実は六ヶ所はもう住めない濃度だ」
 と証言していたことを耳にしては、万一の事態を招く以前から、こうして日々確実に悪化し続ける放射能汚染は一体どこまで広がっているのかと戦慄が走り・・・


具体的な数字を書くべきだろう。

わたくしは原発反対である。この点では顕正会と方向性が一致している。しかし、顕正新聞の記事はいかがなものかと思わざるを得ない。以前の奇形イチゴもそうだが、上掲の記事も同じである。あまり誇張が過ぎるとウソ臭く感じてしまう、それでは逆効果だろうが、ということなのだ。

2013/1/24

体質改善プロジェクト  
前回はしくじった。失敗だった。これは言い逃れの出来ない事実である。

2013/1/20 12:33
投稿者:無名くん
>>記事にはどこにも高線量などとは書かれていない。
>>つまりは風評被害なのだ。


「那須町」と「廃校」でネット検索して情報を提供してあげたのだから、
高校の名前をキーワードにしてネット検索して、自分の目で独自に情報を
確認・検証なさった方がよかったのに。



※ネットで拾った東京新聞12月8日の記事より

東京電力福島第一原発事故の影響で、東京都多摩市に全校避難している
全寮制の中高一貫男子校「那須高原海城中学・高校」(栃木県那須町)が
今後、生徒を募集しないことを決めた。校舎の周辺は放射線量が比較的高く、
生徒を集めるのが難しいという。在校生の卒業を見届けて廃校になる。

校舎は、国が汚染状況の重点調査地域に指定する那須町の農村地帯にある。
福島第一からは百キロ弱。正門から校舎を見ると、柱や壁に亀裂が入るなど、
東日本大震災の爪痕はいまだに生々しい。

先月下旬、正門前の公道でNPOに放射線量を計測してもらったところ、
地上一メートルで重点調査の基準値の毎時〇・二三マイクロシーベルトを上回る
〇・五マイクロシーベルト台。地表の芝生上では〇・七〜〇・八マイクロシーベルトに
なった。


わたくしは顕正会の体質を批判した。何事にも大袈裟すぎる。いわば誇張体質であると。

この体質を変えるのは難しいことだと結論した。

今もその考えに変わりはないのだが、しかし、わたくしのほうにも相当の間違いが存する以上、それに頬かむりしたままでは説得力に欠けるだろう。

巌虎よ、オマエのほうこそ、体質改善すべきではないか!

こう言われても仕方がないところだ。

顕正新聞の記事は信用性に欠ける。こうも書いたわけだが、これもまた、そっくりそのまま返されそうだ。

巌虎独白の記事は著しく信用性に欠ける。

顕正会の活動会員からは相手にされないので、自分で自分を批判してみた。

さて、ここで新聞のほうに目を転じてみよう。先刻承知のことかもしれないが、読売新聞と東京新聞では報道姿勢に大きな隔たりがある。今回の件に関して言えば、原発推進と原発反対、この基本的スタンスが両社の報道姿勢に如実にあらわれているのだと思う。いわば、わたくしは読売の偏向報道にまんまとハメられたわけである。

いや、もちろん、これには反論があるかもしれない。読売のファンならば、東京新聞のほうが偏向だと言うかもしれない。

放射能の問題は学者によって意見がまちまちなので簡単ではないが、いずれにしても両方の記事を読んでいればわたくしの判断も違ったし、従って前回の拙稿も違っていたことだろう。ようはわたくしの不勉強というか、横着が露呈した格好である。

記事にはどこにも高線量などとは書かれていない。つまりは風評被害なのだ。

改めて拙稿の問題箇所を提示した。

読売には放射線量のことが書かれていないので、わたくしはそれを信用した。一方、東京のほうにはしっかりと書かれている。ゆえに読売にハメられたと書いた。

ただし、廃校の直接的な理由は違うところにあると思う。すでに書いたことだが、もし学校を存続させるつもりならば移転すればいいのだ。事実、今現在は校舎を東京の多摩に移して授業を続けているらしいので、元の場所には戻れないにしても存続は可能のはずなのだ。ここで日興上人の身延離山の精神を持ち出すのもどうかと思うが、当該学校は全寮制でもあるわけだから、確固たる教育理念があるのならば、いずこであろうとも続けることは可能である。

この意味からすると、放射線量云々は副次的というか、たまたまのキッカケであって、廃校の本質的な理由とは異なることになるだろう。

であれば、むしろ東京新聞のほうが、何が何でも放射能に結び付けようとしている意味において、かなりバイアスが掛かっているとも言えるだろう。

誤解のないように書いておくが、わたくしは読売の肩を持つわけでもなければ、自己を正当化しようなどと思っているわけでもない。ようは盗人にも三分の理なのだ。

ともかく当該地域が高線量であることは疑いない。

校舎は、国が汚染状況の重点調査地域に指定する那須町の農村地帯にある。

何しろ国が言っているくらいなのだ。原発事故を矮小化しようと企てているフシがある、その日本国でさえ上掲のごとく重点調査地域に指定している、それが那須町なのだ。

先月下旬、正門前の公道でNPOに放射線量を計測してもらったところ、
地上一メートルで重点調査の基準値の毎時〇・二三マイクロシーベルトを上回る
〇・五マイクロシーベルト台。地表の芝生上では〇・七〜〇・八マイクロシーベルトに
なった。


おそらくは多くの人がこれらの数字の意味を知らない。わたくしもそうだ。

俄か勉強ながら、一昨年の事故以降に得た知識として言えることは、以前の放射線量は一時間当たり0・05マイクロシーベルトだった。これが日本における自然放射線の平均値だったという話である。

現在の那須町はその十倍以上の値を示している。ようするに原発事故で通常の十倍以上の汚染を被っている。ようは被害を受けているわけだ。つまり、風評被害ではなく実害なのだ。

放射能の問題は学者によってまちまちなので簡単ではないと書いた。

いわゆる御用学者の人たちは言うのだ。ぜんぜん大したことないと。安全防護の考え方からして、もともと数値を過大に設定している。安全側に余裕を持たせてある。だから大丈夫なのだと。

確かにそうなのかもしれない。

だが、しかし、わたくしはこれを認めることは出来ない。その理由を端的に言えば、御用学者が言っているからだ。たぶん、こう書くと反論があるかもしれない。御用学者というレッテル貼りはよろしくない、そういう偏見こそがもっとも非科学的であると。

科学が科学として独立することは理想である。しかし、現実は違う。科学が社会に運用される時には、そこに何らかの思想が加味されるのだ。これはどうすることも出来ない事実だと思う。

そうすると、科学者が純粋に己の学問的結論として、放射能は安全であると発言したとしても、そしてそれが真実だったとしても、それが社会に反映される段階においては何かが付加されてしまうのだ。

残念ながら御用学者と呼ばれる人たちは、その学問成果が国家権力によって汚されてしまっている。台無しにされてしまっている。わたくしにはそう思えるのだ。

御用学者の言っていることを認めることが出来ないのはこのためである。

ややこしい話のようだが、実は簡単な話なのだ。

今のタイミングで発言するのは事故矮小化に与することになる。科学的真実を云々する以前に、こうした構造的・背景的な障壁をクリアしなければいけない。話はそれからだ。

もし彼らが平時から、ようは事故前から盛んに言い続けていたのならば、それは評価に値する。しかし、そういう人はあまりいないようである。

一方、反原発の中には事故前から一貫して言い続けてきた人がたくさんいる。小出裕章氏はその代表格だろう。

最初のほうで、巌虎独白は信用性に欠ける、と自己批判を書いた。今回は不勉強かつ横着が災いしたわけだが、結局のところ、いちばん信用されないのは言っていることがコロコロ変わる人だろう。それだけは戒めたいものである。

2013/1/20

体質改善プログラム  
各方面よりコメントを頂戴しているが、とりわけ喫緊の課題は廃校の事実関係だろう。

わたくしは公立の学校を想定していた。すなわち行政による判断だと思ったのだ。であるとすると、栃木県でこのような決断を下すくらいだから、福島県はなおさらのことだろう。それこそ軒並み廃校になっているはずだ。これは大変なことだと思った。

しかし、現実にはそうしたセンセーショナルな報道を聞かない。ゆえに、大袈裟なことを言っているのだろうと思った。

案の定というべきか、くだんの登壇はウソではないにしても、実際にはかなりニュアンスの違うものであることが判明した。

 私が住む栃木県北の那須町は放射線量が高く、十一月には、ついに廃校が決定した高校すら出てまいりました。

百四区長の記事だ。

一方、ご紹介の新聞報道は次のごとくである。

 校舎などの修復に多額の費用がかかることや、東京電力福島第一原子力発電所事故の風評被害で全国からの生徒募集が難しくなったのが理由という。

放射能汚染による風評被害で生徒の募集が難しいと判断した。

当該の学校はいわゆる私立である。ゆえに行政の判断ではなく、独自の判断で廃校を決めたわけだ。

そもそも政府は福島事故を矮小化しようとしているフシがあって、地方行政もまた、多くは右に倣えのテイタラクだ。そんな連中が高線量だから廃校にするなどと、そう簡単には言わないだろう。ゆえに公立の学校がどのようになっているかと言えば、多くは除染という小手先の小細工でお茶を濁しているのが現状である。

そこで当該学校だが、ここは私立であるから、ぶっちゃけ言えば経営が成り立つかどうか、それが存続のための最大の要件なのだ。上掲二紙が伝えるごとく、生徒の募集が難しくなった、ようは生徒が集まらない、これじゃ話にならん、というのが廃校の理由である。記事にはどこにも高線量などとは書かれていない。つまりは風評被害なのだ。

以上、区長の記事はウソじゃないにしても、ニュアンスが捻じ曲げられていることは否めない。奇形イチゴの話と併せて考えると、誇張が過ぎると言わざるを得ないだろう。

ここに顕正会の体質があらわれている。

身延派貫首の悪臨終 眼前に見る

曹洞宗住職の祖父や一族の多くが悪臨終


十二月度総幹部会における正義にめざめてと体験発表の見出しである。

当然ながら顕正会員も亡くなることがある。記憶に新しいところでは、婦人部大会の会場で亡くなったという話があるけれども、それ以外にも顕正新聞には父の臨終だの母の臨終だの、さまざまのケースの話が掲載されている。

それらはほとんどすべてと言っていいだろう、美事な臨終、と書かれている。普通は見事だが、顕正会では美しいを使うことが多い。いわば顕正会用語だ。

一方で、他宗や敵対勢力の人が亡くなると、悪臨終と書くわけだ。

顕正会では臨終の大事ということを教えている。何しろ大聖人の御書に基づいて教えているので、これを頭から否定することは出来ない。顕正会は大聖人の教えに忠実である。

逆に言うと、だからこそ厄介なのだ。

ここでわたくしなりの見解を書いておくと、臨終云々は主観に左右されるところが少なくない。ことに顕正会員は謗法者は悪臨終であると頭から思い込んでいるので、その先入観に引っ張られてしまう可能性を否定できない。つまりは信用性に欠けるということだ。

さて、ここで顕正会の体質に話を転じてみよう。

くだんの区長は事実を捻じ曲げて伝えた。捻じ曲げてが適切でないとしたら、誇張と言い換えてもいいだろう。まさに一事が万事、これが顕正会の全体的な傾向、すなわち体質なのだ。

つまり、臨終の話も同様なのである。

自分たちの仲間が亡くなれば美事な臨終で、そうじゃない人が亡くなると悪臨終。顕正会の体質を考えると、これは物凄く信用性に欠けることなのだ。それぞれを誇張して大袈裟に言っているだけなのだ。

文章表現は難しい。誇張が絶対的に悪いとも言い切れない。ようはそのサジ加減が問題なのだ。たぶん熱心な活動会員は気付いていないだろうし、顕正新聞の編集部も同様だろうが、今の顕正会はとてつもなく誇張が過ぎるのである。これがどのように映るか、考えてみるべきだ。おそらくは、本人たちにはまったく感じられないけれども、ハタからは物凄く胡散臭く感じられる、という状態なのだ。

この体質を改善するのは相当に難しいことである。

2013/1/18

奇形イチゴは本当か?  
ユタ氏より引き続きコメントを頂戴しているが、今日は顕正新聞第1262号から話題を拾ってみたい。

栃木では放射能汚染で廃校や奇形イチゴ

十二月度総幹部会で女子部第百四区長が発表しているものだ。

 私が住む栃木県北の那須町は放射線量が高く、十一月には、ついに廃校が決定した高校すら出てまいりました。

本当だろうか?

もしこれが事実ならば大変なことだ。栃木がこのテイタラクだとすれば、福島はもっと深刻だろう。

 そして私自身、小学生の娘を持つ母親として・・・

高校が廃校になるくらいの高線量地域に居住している。大人はまだしも子供を住まわせるのはどうなのかと思う。

廃校の理由は単に少子高齢化なのではないか?

今は全国的に学校の数が減っている。少子化で必要なくなっているからだ。一方、老人の介護施設が増えているのは、誰もが実感していることだろう。ゆえに廃校の理由もそこにあるのではないか。なぜならば、もしどうしても必要ならば、廃校ではなく移転するはずだからである。

こうして見ると、どうも大袈裟な感じが否めない。

 またその周辺のイチゴ農園では、一つのイチゴに幾つものヘタがついた不気味な奇形のイチゴが大量に出ており、私の父も百年間つづいた農業をやめざるを得なくなりました。

廃校の話はいちおう合理的な説明が可能だとは思う。ようするに少子化がもともとの理由だった。さらにここに放射能汚染の問題が加わった。とすれば、どの学校を廃校とし、どの学校を残すか、その選定基準に放射能汚染が組み入れられたとしてもおかしくないだろう。

さて、今度は奇形イチゴだ。

これは大問題である。栃木はイチゴの名産地であるからして、上掲が事実であれば大打撃である。そして、もしこれが単なるガセネタだとしたら、顕正会は風評を撒き散らしていることになるのだ。社会的責任問題である。

顕正新聞では奇形児の話もこれまでに何度か出している。

わたくしは思う。顕正新聞は奇形イチゴを写真掲載すべきである。奇形が事実ならば風評ではなく実害そのものとなる。それこそ原発の危険性をよりいっそう訴えることが出来るだろう。ぜひともやるべきだ。奇形児はさすがに人道上の問題からして難しいけれども、イチゴの写真を掲載することは容易のはずである。それをやるのが真の報道機関というものだ。

沖縄の反米気運に米軍幹部が憤り

男子部第四十二隊の総支隊長補の登壇であるが、ひじょうに悩ましい。うまく要約できないので、少々長い引用になることをお許し願いたい。

 また、ここまで危機が迫っているにもかかわらず、オスプレイ配備反対派が基地ゲートを塞いで反対運動を行なっている姿を見て、この上司は
 「オスプレイが嫌いなのは結構だが、これでは中国の思うツボ。尖閣は中国に必ず取られる」と憤っておりました。


沖縄の基地問題の一端が窺えるが、さらに続きをご覧いただこう。

 最近、一部の米軍人の犯罪により、在日米軍に対し夜間外出禁止令が発令されていることに関しても
 「犯罪を犯す米軍兵がいちばん悪いのは当然だが、なぜ沖縄県民は、わずか一部の不良米兵の事件を、駐留米軍あげての大事件のごとくに大宣伝し、米軍撤退を叫ぶのか。我々には理解不能だ。これでは真面目な米軍兵でさえ、尖閣や沖縄を守る士気が下がるではないか」
 と憤慨しており、沖縄や日本に対する米軍の不信感は曽てないほど強くなっております。
 一方、相変わらずの沖縄の新聞各社の偏向報道は凄まじく、
(以下省略)

この登壇者は米軍基地で働いているため、米軍人と話をする機会があるという。尖閣諸島国有化以降、日本は中国との関係がギクシャクしている。また、北朝鮮のミサイル発射問題もあった。いわば日本には危機が迫っている。そうした経緯を踏まえて軍関係者が語ったことが上掲のことどもである。

悩ましいと書いた。

手っ取り早い話をしよう。民主党が政権を取って最初の総理大臣だった人がこの基地問題に取り組んだ。しかし、この人は早々と失脚してしまった。これが答えだ。

民主党は途中で変節したものの、最初は理想に燃えていたのだ。つまり、基地移転は理想であり、民意だったのだ。しかし、それを実行しようとした総理大臣は失脚してしまった。総理大臣よりエライ人がいるのか、総理大臣より権力を持っている人がいるのか、本来はいるわけがないのだが、現実にはいるらしいのだ。一般的にはアメリカがそれなのだろう。日本はアメリカの属国と言われるゆえんである。

残念ながら当該登壇者には、これらの視点が欠けている。一方的にアメリカ本位の意見を垂れ流している。

沖縄の基地問題は複雑怪奇である。反対運動をやっている人は必ずしも一様ではない。たぶん、左翼もいれば右翼もいる。中間派もいる。一方で、賛成運動(?)もある。いや、現実には運動しているわけではないだろうが、くだんの登壇者のように米軍関係の仕事に携わっている人は賛成側の人間だと考えられる。軍に撤退してもらっては困るのだ。

原発問題にも通ずるところがある。

地元には原発関連でメシを食っている人がたくさんいるのだ。そういう人たちにとっては、原発が動いてくれないと困る。オマンマの食い上げになってしまう。すでにこの構造が出来上がって数十年を経ているので、今さら変えられない、どうすることも出来ない、ということなのだ。

同様の意味で、沖縄はすでに半世紀以上、米軍と共存してきた。米軍で食ってきた人にとっては必要不可欠な存在であり、肯定的な意見を述べるのは至極当然のことである。

もう少しだけ引用を続けよう。

当該登壇者は中国ないし北朝鮮の動向を云々することによって、あたかも基地の必要性を訴えているかのごとくであるが、最後は違った結論になっている。

 これら米軍の士気低下を見ますとき、いざ有事になったとき
 「アメリカは日本を守らない」
 との先生の仰せを強く実感するとともに、他国侵逼の舞台装置が着々と整いつつあることに戦慄を覚え、すべては顕正会の前進にかかっていることを強く肝に銘じるものであります。


実は顕正会の見解が不明なのだ。原発問題では明確に反対を表明した。では、基地問題ではどうなのか、それがはっきりしないのだ。

では、巌虎よ、オマエはどうなのだ?

悩ましいと書いたのは、これがためである。わたくしにはわからない。基地移転が理想であり民意と書いた。では、防衛をどうするのか。自主防衛、軍備増強、たぶん右翼が言っていることがこれだろう。九条を守ろう。これはさしずめ左翼だろうか。平和憲法にすがってさえいれば、大丈夫。しかし、これもどうかと思う。

申し訳ないが、わたくしの結論は保留としたい。

しかし、顕正会の場合はちゃんと見解を示さないといけない。何しろ顕正会の前進にかかっていると言っているわけだから、具体的な方策なり何なりを示すべきだろう。顕正会員が増えると自然と守られる、いわゆる諸天の働きで守られる、そんな考え方ではダメだ。

高校の教師が顕正会を悪口中傷
 男子部長等が糾弾、高校側 全面謝罪


第六隊の班長の登壇だ。男子部長らが学校に乗り込んで行って、教師を糾弾したという勇ましい話である。大したもんだと言っておこう。

わたくしは思う。当該班長は数年後には社会人となる。どこかの職場で働くことになるだろう。当然、今のような活動をしていれば、トラブルが発生することにもなりかねない。その時どうするか、である。

またしても男子部長が乗り込んできてくれるのだろうか?

たぶん、そういうわけにも行かないと思うので、自分で対処しないといけなくなる。実は高校生の時に頑張ってたくさん折伏していた人が、社会人になるとなかなか成果を上げられなくなる場合がある。そうして退転していくケースが少なくないのだ。

2013/1/16

多重購読問題再考  
一昨日、首都圏は突然の大雪に見舞われた。予報は雨だった。実際、朝のうちは雨が降っていた。それがいつの間にか雪に変わり、見る見るうちに積もっていった。もともと首都圏は雪に弱いわけだが、想定外の降雪だったこともあり、交通機関は完全に麻痺してしまった。

わたくしはその日、所用で外出していた。車だった。これは帰れないかなと思った。雪対応のタイヤを履いているわけではないので、積雪量によっては走行不能になると思ったのだ。しかし、どうにか無事に帰ってくることが出来た。

それはさておき、沖浦氏のコメントは衝撃的だった。

入院八週間、リハビリ一年。これを機にネットから撤退することも考えているという。

それは本人の自由であるから、わたくしがとやかく言うことではないが、しかし、ネットが気分転換だとか暇つぶしに有効なのは事実だと思う。病院は退屈なところである。だから雑誌だとか新聞が置いてあったりするのだ。大病院になれば、売店に入院患者のためだろう、週刊誌だの月刊誌、さらには文庫本などもあったりする。ゆえにネットにしても節度をもって利用する分には許されるのではないか、電磁波が医療機器に悪影響を及ぼすので場所が限定されたりもするのだろうけれども、全面禁止ではないはずだ。

余談ながら、今の病院は全面禁煙である。敷地内では喫煙できない。すると、敷地を出たところでタバコを吸っている光景をよく目にする。なんと、そこにはパジャマ姿の人が混ざっていたりするのだ。

たいがい、松葉杖の人である。

骨折だとかで入院しているのだろう。すると、内科的には悪いところがない。ようは元気なのだ。おそらくは医者もしょうがねえと思いつつ、黙認しているのだろう。

沖浦氏も基本的には元気なのだから、やれることは今までどおり、やればいいのだ。

浅井会長は、公明党が百万票減らしたことをどうこう言うよりも、今年が、自身が「日蓮大聖人」に堅く誓い奉った「(公称)一千万」の達成期限であることを1月度総幹部会で宣言するべき。でなければ、ほかをどうこう言う資格は無い。

一千万には言及しないだろう。頬かむりだ。一月度総幹部会で言うことは、二月の折伏目標である。本当は年間目標くらいは言いたいところなのだが、たぶん難しいだろう。今の顕正会は目先の目標をクリアするのが精一杯であって、中期的な目標を立てられないのだ。ゆえに長期目標に相当するであろう六千万が、しょせんはファンタジーに過ぎないと言わざるを得ないのである。

未だに多重購読を続けている役職者がそれなりに存在する

顕正会が拡大路線を続けているうちは解決しない、いわば構造的な問題なのだ。

折伏成果の水増し報告が取り沙汰されることがある。わたくし自身は具体的な証拠を持たないが、コメント欄にその手の情報が寄せられることがある。
仮にどこかの組織で成果が出せずに困っているとしよう。班長レベルのほうがわかり易いかもしれない。ある班長が一名の成果を架空で計上したとする。次の法戦も、また次の法戦も、同じことをしたとする。しかし、そんなことをやっていれば、いずれはバレる。
オマエはそれだけ成果を上げているのに、集会には一人も連れて来ないじゃないか、オイ、どうなっているんだ、ちゃんと答えろ、と。スミマセン、どうにか入信には漕ぎ着けたんですが、その後がダメでして、電話をしても通じない、そんな人ばかりなのです。
この話の延長線上に見えてくるのが多重購読だ。ウソを一回つくと、次から次にウソをつき続けなければいけなくなる。架空入信を誤魔化すために、架空購読を行なうのだ。実際には存在しない人のために、その班長は購読料金を肩代わりする。

断わっておくが、上述のことはわたくしの勝手な想像である。はたしてこんな馬鹿げたことがあり得るのか、わたくしは自分で書いていながら半信半疑のままでいる。

ただし経験上、幹部からのプレッシャーがあるのは事実だ。すなわち入信者がまだ新聞を購読するほどの自覚に立っていない場合、紹介者が代わりに購読するべきであると、こう幹部が言うのだ。紹介者はたまったものじゃない。これでは入信者をしっかり育てないと、負担が大きくなる一方だ。

ここで架空計上に戻れば、なるほど、入信者は存在しないのだから、育てようがない。つまり、多重購読だけが残るのだ。

さて、皮肉な話のようだが、ユタ氏のところに送られてくる顕正新聞は、ある意味ではひじょうに幸せなのである。存在する人物に対して送られてくるわけだから、少なくとも読まれる可能性がある。ところが活動会員が一人で何部も抱え込んでいる場合、そのほとんどの新聞が封を切られずにどこかに仕舞われてしまうことになる。何とも悲しい運命なのだ。

2013/1/10

ファンタジーからの脱出  
今日は十二月度総幹部会の会長講演を取り上げる。同集会は十二月二十日に行なわれた。ようは衆院選直後だ。当然、会長講演は選挙結果にスポットを当てている。

今回の講演はなかなか面白かった。これが正直な感想である。

選挙結果を踏まえた上での政治評論、これが当該講演の中心的な話題である。総選挙の結果分析も正鵠を射ているし、新政権の方向性に対する懸念もまた、的を外していない。たぶん、政治に関心のある人にとっては、興味をそそる講演なのではないかと思う。

一例を挙げよう。

公明党は百万票減

公明党は三年前に比べて百万票近くも得票数を減らしている。これを浅井先生は事細かく説明した上で、次のごとく言っている。

 これ、御遺命に背く学会の崩壊が加速しつつあることの表われである、こう私は思っておりますが、どうです。(大拍手)

さすがにこのくだりは一般の読者には理解不能であるが、ともかく百万票減はベラボウな数字である。余談を書くと、このところフェイクが宗門のことで、参詣者が激減しているかのごとく書き立てている。もともとフェイクはそんなことばかり書いているので、深い意味はないのかもしれないが、もしかしたら今回の百万票減が背景にあるのかもしれない。攻撃は最大の防御であるからして、会員の意識を外に向けさせる目的で、元朝勤行の参詣者が減少しただの何だのと盛んに宗門ネタを書き殴っている、そんなふうにも見えるのだ。

 選挙戦術のいちばんの巧者は公明党ですよ。どの政党も太刀打ちできない。

再び浅井先生の言葉だ。この後、だがいつまでも栄えるはずはない、と言っている。

しかし、わたくしは結果オーライだと思う。得票減は事実だが、結果はちゃんと出している。公明党は勝ったのだ。

野球で言えば、打線が低調でギリギリ一点差で勝つこともあれば、打線が爆発して大量差で勝つこともある。しかし、いずれも一勝なのだ。

ゆえに、得票減は事実であり、おそらくは創価学会ないし公明党の首脳も深刻には受け止めているだろうけれども、それと同時に、今回の勝利にはそれなりに満足しているはずなのだ。

そこでわたくしの結論であるが、浅井先生の「崩壊が加速しつつある」、「いつまでも栄えるはずはない」との分析は、やや的を外しているのではないか、これは分析ではなく願望なのではないか、願望が入り混じった分析なのではないか、と思う次第である。

橋下維新が思ったほどのムーブメントを起こさなかった。ひるがえって、三年前にはなぜ民主党があれほどの大勝利を得たのか、それが今になってみるとよくわからない。

ようするにムーブメントは滅多に起きないのだ。

わたくしが何を言いたいか、察しのいい人にはおわかりだろう。今もなお創価学会の組織票は有効なのだ。投票率の低さが公明党勝利の要因だとする向きもあるけれども、もちろん、それも一因ではあるけれども、基本はあくまで組織票なのだ。それを凌駕するほどのムーブメントが起きるか起きないか、こればかりは誰にもわからないことである。すると、今後も当分は公明党が堅実に議席を確保し続けるのではないか、と考えられるのである。

 まず今回の衆議院選挙を全体的に見ると、投票率はわずか59.32%であった。戦後の最低ですよ。四割が棄権、十人のうち四人が選挙に行かなかったのです。

順番が逆になってしまったが、会長講演の一節である。わたくしは今回の講演を、面白かった、選挙の結果分析も的を射ている、といちおうは評価した。その上で、イチャモンをつけているわけだが、公明党については上述のごとくである。その他の政党については、おそらく先生の言っているとおりなのだろう。ただし、かく言う浅井先生自身が自己矛盾に陥っているのではないか、と思うのだ。そのヒントは上掲の文章にあらわれている。

ズバリ言おう。顕正会の組織票すなわち百五十万票をどうしたのか、もしこれをどこにも投じなかったとしたら、偉そうなことは言えない。投票率の低さを云々する資格はない。

話があちこち飛んで恐縮だが、当該講演では年末の総幹部会ということもあって、冒頭で本年の戦いを顧みている。前半には原発全廃特集号・原発廃絶特集号が立て続けに発刊され、全顕正会員が盛んに配布活動を展開した。

 二つの特集号合わせて、実に三六五万部ですよ。この膨大な部数が、全顕正会員の信心の力で日本全土に浸透したのです。

三百六十五万部・・・

これは微妙な数字だ。これがどれほどの影響力を発揮するか、わたくしにはわからないが、先生は引き続き次のごとく言っている。

 いまさまざまな世論調査で、「原発反対」が六割を超えているのも、顕正会の真剣なる諫暁が、大いに与って力ありと、私は確信をしております。

与って力あり・・・

不勉強のわたくしには馴染みのない言い回しであるが、それはどうでもいいことだ。

読者は上掲をどのように読むだろうか?

意外に思うかもしれないが、わたくしはこれを肯定的に読む。これにイチャモンをつける人は馬鹿だと思う。ようするに、事実はわからない、どれほどの影響力があるかわからない、けれども顕正会として大量配布を行なったのは事実なのだ。そうした活動が世の中に影響を与えていると信じることは、活動家として自然なことである。

ただし、すでに述べた投票行動との矛盾は否めない。

 顕正会はもう小さな団体ではない。一国社会を動かすに足る仏弟子の大集団になっているのであります。

ここはまさに突っ込みどころだ。社会に影響力を発揮することが出来ると、こう言っているわけなのだろう。だったら、なぜに組織的な投票行動に打って出ないのか、ここがまさに大いなる自己矛盾なのである。

そうそう、選挙の結果分析は正鵠を射ている、こうは書いたものの、唯一、遺漏とも言うべき事案がある。

卒原発

未来の党のキャッチフレーズだ。反原発・脱原発を含めて、今回の選挙ではこれらの勢力が総崩れとなってしまった。浅井先生はこれについての分析を行なっていない。もっとも、これは「大いに与って力あり」と矛盾するので、言及しようにも出来なかったのだろう。

以上、顕正会は未だファンタジーの域を脱していない。辛辣ながらも、このように言わざるを得ないところだ。

もし現実に百五十万票あれば、さすがに動いたかもしれない。しかし、ご存知のごとく、せいぜいが数万票である。

そうすると、逆にイヤミながらも顕正会の目には百万票減がベラボウな数字に映るのかもしれない。一方、当の創価学会ないし公明党にしてみれば、何を目くじら立てているのか、それくらいの増減は大したことない、ということなのかもしれない。

スケールが違いすぎて比較にもならない。これが現実のようだ。

2013/1/9

会長本仏論の見本市  
ドリン氏より心温まるコメントをたまわった。ありがたいことだ。これを励みに今年も頑張ろう。

“決然護法に一人立つ 孤忠貫く師の苦闘”

ユタ氏のコメントから引用させてもらった。これは「両眼滝のその日まで」と題する歌の一節であり、かつて顕正会の集会で歌われていたものである。確か平成五年に作られたのだと思う。

驚くべきことに、これは浅井先生自らが作詞作曲したという。

当時、わたくしは思った。作詞はともかく、作曲はどうなんだろう、先生に作曲なんか出来るのだろうか、と。もっとも、譜面は書けなくても、メロディを口ずさんで誰かに書いてもらうことは可能だ。当時の総合女子部長だとか、音楽に堪能な幹部はたくさんいるわけだから、おそらくはそのようにして作ったのだろうと想像した。

後年、インターネットを利用するようになってから、実は作曲ではなく、作詞のほうにイチャモンがつけられていることを知った。

それが上掲のくだりである。

孤忠貫く師の苦闘・・・

ここでの師とは誰のことか、それが問題である。たぶん浅井先生のことなのだろう。そうすると、先生は自分で自分のことを師であると言ってしまっているわけだ。なるほど、これはおかしい。もし仮に、別の人すなわち弟子が書いたのであれば、わからなくもない。しかし、自分で言っちゃあオシマイである。自作自演の自画自賛、それを会員に歌わせるのだから、洗脳教育そのものと言われても仕方がないだろう。

今さら言っても遅いが、実はわたくし自身、最初からおかしいと思っていた。思っていたけれども、どうすることも出来なかった。組織の中にいると、どうしてもその雰囲気に飲まれてしまう。自然と染まってしまう。そうしてダラダラと何年も居続けたのだった。

 最後まで頑張るのは個人としてするべきです。
 組織の長として、最後まで頑張っては老害を回りに及ぼすだけですよ。


わたくしの説明が及ばないようだ。沖浦氏の言っていることは一般論として正しい。しかし、わたくしが論じているのはそれとは違うのだ。

多選禁止

ご存知の言葉だと思うが、権力は腐敗する、ゆえに一人の人間がずっと権力を握り続けているとよくないので、選挙で人を入れ替えていく、しかし、ずっと当選し続けるような人気者には効果がないので、多選禁止というルールを設けるわけだ。

これは政治権力の話であるが、会社の場合も同様である。健全な会社はそれ相応の頻度で社長の交代が行なわれる。問題を起こす会社は得てしてワンマン社長の会社だったりする。

沖浦氏の言っていることは、この範疇の話だろう。しかし、わたくしの言っていることは、それとは違うのだ。

政治家でも企業家でも、その人に能力があるのならば、多選も構わないし、ずっと社長でいてもいい。実際、この人じゃなきゃダメだ、この人がいなきゃ成り立たない、という会社もある。もちろん政治家もだ。それを多選禁止で葬り去るのはどうか。これは政治の世界で言えば国家の損失であるし、会社の場合は業績そのものに直結する問題なのだ。

つまり、一般論としては沖浦氏の言うとおりだが、特殊なケースだってたくさんあるわけなのだ。

世襲議員も同様だろう。世襲議員はダメなヤツばかりだから禁止にしろという意見があったとしても、マレ(?)には能力のある世襲議員もいるわけだから、簡単ではないのだ。

以上、ゴチャゴチャと書いたけれども、ようは宗教団体の長は特殊なケースの最たるものである。いや、もちろん、任期制を設けてもいいし、そういう団体が実際にあるのかもしれないが、逆に宗教団体においてはそれこそ特殊なケースであろう。

いわば、ここまでが前置きである。その上で昨日の拙稿を再読していただきたいものである。

ぶっちゃけ言えば、浅井先生が終身会長であっても構わない。しかし、落とし前をつけなきゃいけない。ケジメをつけなきゃいけない。無責任な発言を繰り返して、それでいて誰にも弾劾されず、そのまま会長で居続けられることが問題なのだ。及ばずながらも、わたくしはその点を糾弾しているわけである。

さて、顕正新聞第1262号すなわち新春号であるが、一面の年頭の辞はすでに取り上げた。そして二面は三者各部長の年頭決意、三面以降は十二月度総幹部会の会長講演と各者の登壇、大体こんな紙面構成になっている。

そこで今日は年頭決意を取り上げよう。

先生のご発言に諸天が呼応・・・

総男子部長だ。三者それぞれが同様のことを言っているわけだが、次に紹介するのは総合女子部長の登壇である。

六千万の初陣を戦い終えた直後、先生が御入仏式を挙行された福井と青森の二つの地において展開した不思議こそ、これまた諸天の働きに他ならず・・・

これだけでは何を言っているのかわからないので説明しよう。原子力規制委員会が青森の六ヶ所村で活断層調査を開始した。また、同規制委員会は福井の敦賀原発直下に活断層が通っている可能性があることを発表した。これらは浅井先生がそれぞれの地に赴いた直後のことだという。当然、先生はそこで原発問題に言及している。それを総男子部長は「先生のご発言に諸天が呼応」と言っているわけだ。

せっかくなので、総合婦人部長の登壇も紹介しておこう。

その中に起きた不思議には驚嘆・・・

凡夫の思慮を超える諸天の働き・・・


切り文のソシリは免れないが、ともかく凄いことを言うものである。

今回の最高幹部たちの登壇は、会長本仏論の見本市である。浅井先生は諸天善神を自由自在に駆使できるのだと、あたかもそのように聞こえてしまうのだ。

すでにお忘れの人も多いかと思うが、浜岡原発の時にも同様のことがあった。ちょうど浜松会館とリンクするのだ。それで当時も、諸天の呼応だの感応だのと大騒ぎしていた。

その意味で行くと、今回はややインパクトに欠けるのではないかと思う。

つまり、現在稼動中の大飯原発が突然停止するくらいでなければ、ツジツマが合わないのだ。

それを上掲のごとく大仰に発表するところが何ともイヤラシイところだ。なぜならば先生を偉く見せたいという意図が感じられて仕方がないからである。

2013/1/8

敗戦処理  
昨日、本年の初投稿を行なったところ、さっそく各種のコメントを頂戴した。

年末のスレに年始の挨拶を書くのも変だと思い
お待ちしておりました。
遅くなりましたが明けましておめでとうございます!


なるほど、これが礼儀作法なのだろう。無頓着のわたくしはまったく考えもしなかった。

しかしながら、拙ブログはメールアドレスも表示していないし、また、他の掲示板などにもまったく出掛けて行かないので、コメント欄だけが唯一の接点なのだ。その意味では、年末のコメント欄に新年の挨拶を書いたとしても致し方がなかった。と言うよりは、もしそうしたコメントが一つも寄せられなかったならば、わたくしもやる気をなくしてそのまま永遠に更新が止まってしまったかもしれないのだ。

たぶん客観的にも言えると思うのだが、以前に比べると、どこのサイトもパッとしない。掲示板も盛り上がりに欠ける。

主観的に言えば、まさにわたくし自身、長年やってきてウンザリしている気味がなくもないのだ。
他のブログを眺めていても、個人サイトはたいていが長続きしない。おそらくは、ネタ切れで書くことがなくなってしまったり、あるいは仕事や生活全般の雑事に追われて更新する余裕がなくなってしまうのだろう。しょせんはそんなものだ。
掲示板も同様で、しょせんは個人の集まりに過ぎない。投稿者がいなくなればオシマイである。それぞれが投稿する情熱を失ったり、あるいは上述のような理由で投稿しなくなる。投稿者が減るとスパイラルを起こして、ますます悪化して行く。そうして閉鎖を余儀なくされるか、開店休業状態になる。ブログを含めて、いわゆる放置サイトと呼ばれるものがどれほどあるだろうか?

今の話はあらゆるサイトに通ずることではあるけれども、わたくしの念頭にあるのはいわゆる日蓮正宗系統の括りである。

主観的にも客観的にも盛り上がりに欠けることは否めない。この理由をさらに考えると、論客の不在が挙げられるのではないかと思う。かつては法華講の論客と創価学会の論客が丁々発止の論戦を繰り広げていた。しかし、今はそれが見られない。休戦状態というか、ある意味では議論そのものが陳腐化して、戦いの当事者にしてもギャラリーにしても、すでに飽き飽きしてしまっているのだろう。今は論客そのものが出てこないし、仮に出てきたとしても論じていることは過去の焼き直しに過ぎない。すると目の肥えた読者はあまり関心を寄せないのだ。

そうした中で、わたくしの個人的な感想を言えば、樋田氏の法論映像は衝撃的だった。掲示板での文章オンリーの法論とは違って、物凄く刺激的だったのだ。

しかし、それとても賞味期限があるのだろう。失礼ながら樋田氏の映像も陳腐化を免れない。少なくともわたくし自身は徐々に魅力を失いつつあるのだ。

ここで全方面に向かって、言っておこう。

信徒対信徒の法論ではなく、僧侶対職業幹部の法論を行なうべきだ。もちろん映像を残すことが必須条件である。

インターネットが普及してほぼ十年が経った。この間、信徒レベルの法論は数限りなく行なわれた。しかし、掲示板での法論はすでに陳腐化している。次に映像付き法論が行なわれた。しかし、これも限界を呈し始めた。

であれば、いよいよ本格的法論を行なうべき時である。

本当ならば猊下対会長をやるべきなのだが、たぶんそれは無理だろう。本人がやりたがっても周囲が許さない。ある程度の組織になれば、それが現実というものである。しかし、信徒の本音としてはやってほしいのだ。そうしてコテンパンにやっつけてほしいのだ。猊下の、あるいは先生の、その勇姿を見たいのだ。

政治家の世界では党首討論だとか、やっているのだから、本当はやらなきゃおかしいのだ。

せめて現時点では、僧侶対職業幹部を期待したい。もし顕正会が参戦するとしたら、人数の割合なども勘案して隊長・区長クラスが相当だろうか、さしあたってはそのレベルから始めるべきだろう。

挑発的であることを承知の上で、書かせていただいた次第である。

さて、次はユタ氏である。

こんにちは。浅井会長が最後まで頑張るということは、それに比例して多くの若い顕正会員の人生が奪われるということになります。最初はいい宗門への入口と思っていたのですが、アンチ仏法の増加や宗内における元顕正会員が引き起こすトラブルを見るにつけ、そうもいかなくなってきました。緒天におかれては、早いとこ鉄槌をと思うようになりました。

宗門への入り口・・・

面白いことを言う人である。ユタ氏が法華講員であれば話はわかるが、今は違うはずなのだ。それでいて上掲のように言うのは、日蓮正宗に対し好意的であることを意味するのではないかと思う。それはともかく、諸天の鉄槌は顕正会のお株を奪って、見事である。

最後は沖浦氏だ。

 美徳ではなく、老人の権力への醜い執着だと思います。
 私共の師匠は、後輩に全てを託し、第一線から身を惹かれました。
 大聖人も身延へ入られ、後は弟子の戦いを見守って人生を終えられました。

 これが正しいと思います。


これはじゃっかん意見が異なるので、その点を書いておきたいと思う。

わたくしは最後の一分一秒まで戦うことを美徳だと思う。最後は最期と書いてもいいだろう。現役のまま死ぬのは悪くない。それが権力者であっても同じである。
もちろん老醜という言葉は承知しているし、後継に道を譲ることの大切さもわかっているつもりだ。
しかしながら、最期まで己の使命を全うする、これもあながちに否定できるものではないはずなのだ。

では、何を問題視しているのかであるが、まずは次をご覧になられたい。

顕正会の会長として、謹んで大聖人様に誓い奉る。一千万は、あと十五年、平成二十五年までに必ず成し遂げること、堅く誓い奉る。

現在の顕正会は、百五十万なのである。そして昨日の拙稿でしつこく書いたように、ここ最近は六千万を云々している。

単純に言えば、一千万未到達の落とし前をどうするのか、それすらケジメをつけていないのに、今度は六千万を言っている、これほどの大ぼら吹きもあるまい、という話なのだ。

わたくしはここに投了の概念を加味して書いたわけである。

一千万の話で言えば、平成二十五年の十二月三十一日が最終期限となる。あるいはさらに拡大解釈して、平成二十五年度としてもいいだろう。すると、あと一年ないし一年三ヶ月の時間が残されている。勝負は最後までわからない。最後の一分一秒まで全力を尽くす。この考え方は悪くない。しかし、わたくしの予言(?)を書いておくと、一千万は無理である。この予言(?)は大地を的として外れないだろう。

馬鹿にしている、おちょくっている、こんなふうに読めるかもしれない。

しかし、そうではないのだ。これが投了の意味なのである。

さすがに十年後の予言は不可能であるが、それでも六千万は無理と考えるのが妥当なところだ。つまり、これも投了なのだ。

浅井会長が最後まで頑張るということは、それに比例して多くの若い顕正会員の人生が奪われるということになります。

ユタ氏のコメントを再掲したわけだが、結局はこの問題に行き着くことになる。

浅井先生はまるで展望のない、ファンタジーを語っているに過ぎない。それは本人も半ば承知しているはずである。しかし、無知の若い会員たちは本当のことだと信じて疑わない。人生のすべてを賭けて戦っている。いわば騙されているのと同じことなのだ。

先生がたった一人で戦っているのならば、問題はない。それで最期まで戦い切れば立派なものだ。しかし、多くの人を巻き込んでしまっている。この責任をどうするかである。ようは敗戦処理をどうするかなのだ。

以上、単に権力にしがみ付いているというレベルの話ではないことがわかっただろう。

負け戦の大将がどのように責任を取るか、なのである。

2013/1/7

平成二十五年の年頭の辞を斬る  
ボヤボヤしているうちに、七日も経ってしまった。この間、各方面よりご挨拶をたまわっているけれども、いつものごとく省略させていただくことにする。

今日は前回の拙稿で書き漏らしたことから始めよう。

 北陸三県は、東北と西日本を裏日本において繋ぐ位置にある。

福井会館での会長講演だ。裏日本云々と。わたくし自身はさほど気にならないが、この表現を問題視する向きもあるので、使わないほうが賢明だったと思う。そもそも東北と西日本を云々するのは不自然だ。西日本と対になるのは東日本のはずだからである。

さて、いよいよ新年号だ。

六千万地涌出現は必ず成る

いわゆる年頭の辞であるが、それに付されたタイトルが上掲である。内容そのものはいつもの浅井節であり、あえて取り上げるほどのことはない。

ここで言っておきたいのは、六千万云々をいつまで言い続けるか、である。

ここ一年ほどは六千万をずっと聞かされて来た。そろそろウンザリして来る頃だろうし、あるいはすでにウンザリしている人もいることだろう。やはりこうしたキャッチフレーズにはどうしても賞味期限が付きまとうのだ。

しかし、これを言わなくなると、それはそれでまた批判のネタにされてしまうので、浅井先生としてはツライところである。

問題は本気度なのだ。

六千万は非現実的数字である。活動会員がいちばんよくわかっている。ゆえに、ここで先生としては本気度を示さないといけない。

本部首脳よ、おわかりか?

簡単な話だ。いわゆる折伏法戦の成果が短期的目標だとすると、六千万はいわば最終目標に近いわけだ。これを長期的目標と言い換えてもいい。ところが今の顕正会は中期的目標がないのだ。ゆえに、傍目にはどうしても六千万は絵空事にしか見えない。いわゆるファンタジーということだ。

前回の折伏法戦は大勝利だった。いちおう、そういうことになっている。しかし、それが六千万に直結するとは思えない。おそらくは活動会員にしても、その思いは拭えないはずである。

たとえば囲碁でも将棋でもいい。何にでも当てはまるのだが、仮に囲碁にしておこう。近所で負けなしの子供がいる。囲碁歴ウン十年の大人たちが束で掛かっても勝てない。まさに神童だ。
大人たちは言うのだ。君はプロになるべきだ。君なら名人になれると。
しかし、プロの世界は厳しい。そりゃそうだ。同じような人たちが全国から集まってくるのだ。ゆえに、プロになれるかどうかすらわからないし、ましてや名人になれる保証はどこにもないのだ。

近所のおっちゃんより強いくらいで名人になれると思ったら大間違い、思い上がりも甚だしいってことだ。

やや譬えが不適切だったかもしれないが、顕正会の場合も同じことなのだ。一回の折伏法戦で勝ったくらいで、思い上がってはいけない。さらに言えば、今のレベルではどれほど折伏成果を積み上げても届かない。六千万は不可能である。近所のおっちゃんに百回勝とうが千回勝とうが一万回勝とうが、名人になれないのと同じである。

これで顕正会の六千万がファンタジーであることがよくわかったことだろう。

話を本気度に戻そう。

もし浅井先生が本気で六千万の実現を目指しているのであれば、まさに中期的目標を示すべきである。一回の法戦で一万人だとか二万人が入信したところで六千万には直結しない。ケタが違い過ぎるから、これでは誰も信用しない。しかし、そこに中期目標を掲げて、着実にそこに近づいていくならば、かなり現実味を帯びてくる。ファンタジーではなくなるのだ。

これ以外に本気度を示す方法はない。

しかし、結論は無理、である。

ここまでは建設的な意見を書いてきた。常識的な意見と言い換えてもいいだろう。しかし、すでにそれは無理というか、もはや修正不能に陥っていて、どうすることもできない。これが顕正会の偽らざる姿なのだと思う。

 日本に残された時間は少ない。

浅井先生の得意のフレーズであるが、今回の年頭の辞にも使われている。仮に残された時間が十年だとしよう。十年で六千万を実現するためには、三年後にこれくらい、五年後にこれくらい、七年後にこれくらい、という逆算が必要だ。ようはこれが中期的目標となるわけだが、もはや客観的には実現不可能であり、目標すら立てられない。立てたとしても達成できない。これが現実である。

投了

囲碁将棋の用語であるが、まさに投了も止むを得ない状態、それが今の顕正会なのだ。

スポーツの世界では最後の一分一秒まで全力を尽くすことが美徳とされている。実際、それが効を奏して、奇跡の大逆転が起こることもある。ところが囲碁将棋の世界は違う。プロの勝負はたいていが投了で終わるのだ。それが美徳なのである。

活動会員は思うだろう。十年あれば何が起こるかわからない。奇跡の大逆転もあり得ると。

もちろん、わたくし自身は凡夫であるからして、未来のことはわからない。しかし、客観的には無理である。顕正会の六千万は実現不可能だ。浅井先生は潔く投了すべきである。

シツコイようだが、言っておこう。

浅井先生は最後まで全力を尽くすつもりなのだろう。これはあらゆる発言からして明白なことだ。

しかし、それは決して美徳ではない。


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