2013/2/28

三氏へのお返事  
ユタ氏のコメントには、やや腑に落ちないくだりがある。

入信間もない新人に登用試験だなんて、私がいた頃には考えられないですね。会社では入社間もない新人に、幹部登用試験を受けさせるようなものです。有り得ませんよね。

以前より、入信間もない人でも登用試験を受けていた。ようするに、前年の十一月に入信していれば、翌年の一月の試験に間に合うわけで、それは当たり前に行われていることのはずである。

確かに幹部登用の意味であれば、顕正会のそれは拙速となる。しかし、顕正会の場合はもともと幹部登用とは別次元で試験を行なっていた。すなわち教学部員への登用なのだ。

以前は一級試験まで行なわれていた。

一級教学部員ともなれば、これはこれで物凄いステイタスだった。ただし、幹部とは別次元というか別枠だった。いわゆる信行学兼備の人材、たぶん法華講や創価学会でも同じような表現が使われているだろうが、教学も出来るし折伏もたくさんやっている、こういう人が理想なのだ。ゆえに教学だけでもダメ、折伏だけでもダメ、その両立が求められたのだ。

そうすると、教学は物凄いのだけれども折伏がぜんぜんダメな人は、幹部になれない。

では、折伏は物凄いのだけど教学がぜんぜんダメな人はどうかであるが、これは本来ならば同じ理屈でダメなはずだけれども、実際にはこちらのほうが幹部に抜擢される可能性が高いのではないかと思われる。

ゴチャゴチャとまとまりのないことを書いてしまったが、いずれにしても顕正会の登用試験は幹部登用試験ではなく教学部員への登用を目指した試験である。

なお、ユタ氏のコメントを敷衍して言うならば、二月三月四月の折伏法戦で入信した人と、九月十月十一月の場合では時間的なハンデが大きい。それを翌年の一月に一緒くたに受験させるのはどうかという考え方はあるだろう。秋に入信した人は翌年の試験を見送る・見送らせる・・・こういう幹部がいれば大したものであるが、いかんせんノルマに苦しんでいるものだから、そんな悠長なことはやっていられないのだ。まさに顕正会の構造的な問題である。

いい加減廃止にして、皆で慰安旅行に行く費用にでも充てた方が、よっぽど会員のつなぎ止めになると思うのですがね。

面白いことを言うものである。

以前、合宿研修会があった。ある意味ではこれが慰安旅行に相当するのかもしれないと思う。第一回の合宿研修会では飲酒が許され、ことに男子部は大いにハメを外したと言われている。顕正新聞の報道では、水泳大会などが開かれ、大いに盛り上がっている様子が写真で紹介されていた。

しかし、二回目以降は飲酒禁止となり、何となく生真面目な方向性に軌道修正されたような記憶がある。もっとも研修会なのだから、それが本来の姿なのだろう。

その研修会も行なわれなくなって久しい。

某モバイルサイトでも試験に参加したくないなあという会員が歎いていて断る理由も尽きたから白紙で提出した旨の投稿がありました。

ドリン氏のコメントであるが、もはやインターネットの力は甚大である。活動会員の熱心な勧めで試験に参加させられた人の証言がこうした形で残ってしまう。ネットのない時代では考えられないことだ。ともかく本人は受けたくなかった。それを強引に受けさせられた。だから試験は受けたものの白紙で提出した。

考えてみるがいい。高校受験でも大学受験でも受験者は受かるつもりで臨んでいるはずである。だから白紙で出す人はいない。仮にわからない問題があったとしても、とりあえず当てずっぽうで何か書き込むはずである。万が一、それがまぐれでも当たれば、得点になるのだ。

ところが顕正会の試験では、あえて白紙で提出する人がいるという。前回、登用試験の合格率の低さを云々したわけだが、なるほど、これでは合格率が下がる一方である。

素人の私からするとそれでも3万近く受験される方がいるのが意外でした。案外会員さんているのねって感じでした。

これは好感の持てる感想だ。顕正会を悪く言うだけの人には、なかなか書けないコメントである。

わたくしなりに解釈すると、意外にたくさんいるのは事実であるが、しかし、看板がデカイので逆に少な過ぎるとも言えるのだ。ようするに公称百五十万に対して、実際には数万人しかいない。しかも現状維持が精一杯であり、もはや衰退に向かいつつあるとの見方もあるくらいなのだ。

ゆえにシャカリキになってかき集めて、登用試験では過去最高の受験者を数えたものの、本人たちは受かる気がないので白紙のまま提出する、そんな人もいる有り様なのだ。

悲しい現実である。

2013/2/26 9:03
投稿者:【教育委員会】


新しい人の登場である。

と言っても、わたくしはこの人のことを以前から知っている。それはバーズ氏を介してである。バーズ氏のブログにはこの人の話題がたびたび出てくる。そんなわけで、以前から知っていた。

それはともかく、コメントの内容に入ろう。

 ところで巌虎さんは、カルト教団 顕正会を辞めてないのですか?浅井会長を信じてない! なら、一刻も早く辞めるべきです。退会・脱会すべきです。

辞めていないのか?

この答えは二つある。まだ辞めていない。すでに辞めている。ようするに正式な手続きを取っていない意味では、まだ顕正会員である。しかし、現在は事実上、非顕正会員である。まったく活動していないし、活動に復帰するつもりもない。強いて言えば、顕正新聞を購読している意味では、顕正会とつながっているわけであるが、しかし、これはブログのネタに活用しているだけであって、それ以上の意味はない。

 私【教育委員会】も、ブログを更新しました。

拝見したが、特に感想はない。

2013/2/25

異性部員が顕著である理由  
ユタ氏のコメントでふと気になったのは、旧・宇都宮会館のその後がどうなったかである。ご存知の人がいれば、情報を寄せられたい。

さて、今日は教学試験のことだ。それほど書きたいことがあるわけではないが、いちおう書き残しておいたほうがいいだろう。

登用試験 14386 1270
五級試験  5131 1992
四級試験 10027 2577


上掲は試験種目・受験者数・合格者数の順で表記したものである。

第一印象は受験者数のイビツさだった。普通は級が上がるにつれ、受験者数が少なくなるはずである。ところが顕正会の教学試験は違うのだ。

これをどのように解釈するかが難しい。

さしあたって言えることは、新しい人が育っていないのではないか、ということだ。毎年コンスタントに人材が育っていれば、五級試験の受験者だって、もっといてもよさそうである。しかし、現実は上掲のごとくだ。

上掲のデータからは、もう一つの際立った事実が見える。

登用試験の合格率の低さ、である。

誰が考えたって不自然だろう。これもまた級が上がるにつれ、合格率が低くなるのが普通のはずだ。そうじゃなきゃ、級の意味がない。イヤミを言えば、顕正会の場合は登用が最上級で、数字が若くなるほど低級なのかもしれない。

ともかく五級の受験者が少ない理由はこれで明瞭だ。登用の合格者がかくも少ないとなれば、明年の五級試験だって、受験者はそれほど増える道理がない。一方、四級を受けるくらいの人は、それなりに顕正会でキャリアを積んでいるわけで、言葉を換えれば長く居る、すなわち定着している、ということで仮に不合格であっても次の年に再受験すると考えられる。それが数字にもあらわれているわけだ。

 登用試験は一月二十日、全国一一九会場で行われた。受験者数は過去最高の一万四、三八六名であった

顕正新聞第1264号の記事である。

過去最高はけっこうであるが、もしかして合格率は過去最低なのではないかと勘繰りたくなるくらいの数字である。これは熱心な活動会員が嫌がる人を強引に連れて来て受験させた。いわば、お義理受験の人がたくさんいたことを物語っているのだろう。

新聞に掲載されている登用試験の問題を見ると、けっこう難しい。これはどれほど教養があろうと一般人には解けない問題だ。少なくとも事前にテキストを勉強しておかないと合格は無理である。逆に言えば、ロクに勉強もしていない人がたくさん受験していたことになる。これは過去最高という名のノルマを課せられているので、活動会員たちが帳尻あわせのために人を引っ張ってきたことによる。一言で言えば員数あわせだ。

ちなみに、三種目の総受験者数は過去最高を塗り替えられなかった。

受験者総数 29544

昨年は三万人を突破していたので、残念な結果であろう。

試験に関して、もう一つだけ書いておくと、登用試験の合格者一覧の異様さ、である。これはやや大袈裟かもしれないが、たぶん事情を知らない人が一覧を見れば、何だ、これは、と思うはずである。

異性部員

これは今回、わたくしが作った言葉である。ようは男子部の合格欄に女性の名前が入っていたり、女子部・婦人部のそれに男性の名前が入っていたりすることが、たぶん顕正会のことを知らない人には異様に見えるはずなのだ。

今や男性女子(婦人)部員や女性男子部員の存在は、ほぼ常態化していると考えられる。とりわけ登用試験の場合は入信間もない人たちが受験するわけだから、異性から折伏を受けて入信した人は所属が異性のままでも当然なのだ。

ゆえに、もしこれを活動会員が読めば、思うだろう。オマエ、何言ってんの、別に普通じゃんか、何も問題ないじゃんか、と。

やや話が回りくどくなるが、第1265号の次の記事をご覧になられたい。

 そこに先般、爆弾低気圧による大雪の中、熱烈に開催された顕正会の成人式に、私も成人を迎えた娘と共に参列させて頂きましたが・・・

この文章だけでは何が問題かわからないだろう。驚くなかれ、これは女子部第八十八区の区長が発表しているのだ。

女子部の区長が成人を迎えた?

これならば、若い区長だなあ、となるだろう。いわゆる出世頭だ。しかし、区長が成人を迎えたのではなく、区長の娘が成人を迎えたのである。

娘は女子部でいいだろう。しかし、本人は婦人部のはずだ。もちろん、普通の考え方であれば、だ。

すでに男子部と壮年部は一体化した。もはや年齢的な垣根がなくなってしまい、別々である必要がなくなったのだ。同様に婦人部と女子部も年齢的な垣根がなくなりつつある。何しろ後期高齢の女子部員がいたり、その逆がいたりするのだ。

そしてここに来て、とうとう男女の垣根が壊れ始めた。

さて、原因は何だろうか?

わたくしは成果主義の弊害そのものだと思う。ぶっちゃけ言えば、ノルマに苦しんでいるのだ。

たとえば今回の教学試験で言えば、男子・女子・婦人それぞれが成果を競っている。いや、競っているのではなく、苦しんでいるのだ。だから異性部員を離さない。本来ならば一定期間を経て所属替えになるはずである。男子部に折伏された若い女性であれば女子部に、年輩の女性であれば婦人部に、という具合に受け渡しが行なわれるはずなのだ。しかし、成果のことを考えると離したくない。離したらノルマが達成できなくなる。

このことが如実にあらわれたのが今回の登用試験の合格者一覧である。

かなりイジワルな観察であるが、こうして見ると今の顕正会はあらゆるところに綻びが出てきている。端的に表現すれば、まさに衰退化が始まっているごとくである。

2013/2/24

今さらながら一月度総幹部会会長講演について  
セロリ氏より懇切なるコメントをたまわった。

また会館が百にならなくても、顕正会員は全国の自宅拠点を使っておりますから、入信勤行のやりやすさには大きくは影響しないと思います。

他にも大事なことがたくさん書かれているけれども、割愛させていただいた。

上掲はわたくしも考えていたことだ。今や全国各地に自宅拠点が無数にある。ゆえに会館が百になろうがなるまいが関係ないだろうと。

しかし、もう一歩踏み込んで考えた時、やはり会館の存在はとてつもなく大きいのだ。

入信報告書偽造問題

報告書を偽造する。言い換えれば、ウソの報告をする。いわゆる架空計上だとか水増し計上のことだが、この舞台となるのは自宅拠点である。まさか会館では出来まい。

本部首脳としてはこうした水増し報告をなくしたいと考えている。何しろそんなことをやっていたら、いつまで経っても組織は伸びない。

つまり、自宅拠点にはメリット・デメリットがある。もし報告書の偽造が常態化しているとしたら、自宅拠点制度そのものを見直さないといけない。すなわち自宅拠点は違法行為の温床であり、これを抜本的に見直さない限り顕正会の体質は永遠に変わらないことになるのだ。

また、全国を飛び回っている活動会員の立場で考えれば、自宅拠点より会館のほうが圧倒的に使い勝手がいい。しょせんは個人宅なのだから、さまざまの制約がある。同じ顕正会員とは言え、面識のない人同士なのだ。この点を考慮すると、やはりどうしても会館の必要性は否めない。

以上、浅井先生が百会館を云々するのもムベナルカナである。

顕正会は会館が増えても衰退していると思います!

再びセロリ氏にご登場たまわったが、まさにここが前回のポイントである。全国ネットが完成すれば、それがダイナミックに機能して弘通が伸びる。いちおう、そういう理屈は言えると思う。しかしながらデータを見れば、すでに衰退の兆しがあらわれている。

事業家であれば、傷が大きくなる前に撤退するという選択肢もあるだろう。しかし、顕正会の場合はとことん突き進むことになる。はたして、これがどのような結末を迎えるか、まったく読めないところだ。

さて、一月度総幹部会の会長講演については、経済問題のところを少し取り上げただけで終わりにしてしまった。しかし、後で考えると、いくつか書き残しておいたほうがよさそうな事案があることに気付いた。

油断なき勤行で広宣流布を進めん

ということで、当該講演では相当の紙数を使って勤行のことを書いている。とりわけ具体論としては題目三唱のことを詳しく書いている。

三唱のリズム整えん

この見出し以降、かなり詳細に題目三唱を論じている。ぶっちゃけ言えば、題目三唱がバラバラで合わない、これを改善したい、ということだ。

わたくしの記憶では、過去にも紙上座談会のような形で、題目三唱の是正を図ったことがあった。たぶん十年、いや十五年以上前のことかもしれない。その頃はわたくしも会館に参詣していたのでよく憶えているが、ともかく題目三唱が長い。だから合わないのだ。ちなみに唱題もバラバラで、これはもう二十年以上前になるだろうか、メトロノームを採用して唱題のテンポを是正した。たぶん、メトロノームは今も使われていることだろう。

さて、話は飛んで、今度は中国問題である。

 中国という修羅の国に企業が進出することがどれほど危険か。「膨大な市場」ということで、日本企業は先を争うように進出したが、イザというとき日本政府は守ってくれないのです。

ようするに先般のアルジェリア人質事件を見れば、いかに政府が頼りにならないかと言いたいらしい。では、どうしたらいいかであるが、浅井先生は次のごとく言う。

 だから、有事の前に早く引き揚げたほうがいいと私は思っております。

わたくしはここで二つのことを言いたい。

まず、アベノミクス批判との整合性はいかに、これが一つ目である。そしてもう一つは、引き揚げるタイミングはいつなのか、である。

経済問題は難しい。ゆえにわたくしはよくわかっていないが、もしアベノミクスが失敗して制御の利かない悪性インフレが起きたら困ると思う。これは浅井先生の言うとおりだ。では、現在中国に進出している日本企業二万有余、それに伴なう十四万の中国在住日本人、これらが一斉に撤退したらいったいどうなるのか、である。

日中関係そのものを完全に断ち切れば、今の国際社会における波紋の大きさはとてつもないものであろう。何がどうなるか、あらゆる意味で想定不能の事態になる。

わたくしはごく卑近な意味において、経済的に困ると思っている。われわれの身近には中国製品がたくさんあるのだ。浅井先生は困らないかもしれないが、われわれ庶民は廉価な中国製品に頼らざるを得ないのだ。これは中国が好きか嫌いかではない。目の前にほぼ同じ品質のものがあって値段が違う場合、さて、どうするか、ということなのだ。わたくしは一々確認しないけれども、結果的に中国製品をたくさん利用しているのだ。

浅井先生には日本企業が中国から撤退することによる経済的影響がどのようなものか、そこまで考えてほしいものである。アベノミクス批判は大いに結構だが、先生のやり方ではもっと深刻な経済的混乱を招きかねないのだ。これでは本末転倒だろう。

次に引き揚げるタイミングが問題である。

経済などはどうでもいいと言ったら語弊があるけれども、最後は人命である。この意味では先生の言うように、有事の前に帰ってくるのが賢明なことだ。しかし、先ほども書いたように、今の段階で全員が一斉に引き揚げたら大混乱になる。中国側も思うだろう、ケンカ売ってんのか、と。

ゆえにタイミングが難しいのである。

イヤミながら言いたい。この際、浅井先生の得意な予言(?)でもって、引き揚げるタイミングを決めてほしいものである。まあ、無理だろう。そんなことは誰にも出来ないことだ。

敵国条項

最後にもう一つ書いておこう。浅井先生は敵国条項の話を持ち出したが、これは年来の主張とやや矛盾するようにも思える。中国が日本侵略の意志を懐くに至った原因は御遺命破壊による。これが先生の主張ではなかったか。であれば、時系列的にツジツマが合わない。

ちなみに、顕正新聞の翌号すなわち第1266号において、この点を意識して書いたと思われる記事がある。班長会での第三婦人部長と女子部総務の登壇がそうだ。とりわけ第三婦人部長の文章は浅井先生の講演を見事に会通している。

それはともかく、会長講演に戻ろう。

 もし日本およびドイツが、再び侵略的な行動を見せたとき、あるいは第二次世界大戦で出来た国際秩序を棄損する行為に出たときには、国連加盟国は、安保理の決議や承認がなくても、自国の判断で日本またはドイツに対して軍事的制裁ができる・・・

これが敵国条項なのだそうである。

 いいですか。中国が圧倒的軍事力を背景に、「国防動員法」で在留邦人十数万人を人質にし、「敵国条項」で突如侵略してきたら、日本はどうすることもできない。ただ滅亡を待つのみとなる。

煩瑣になるので国防動員法には触れなかったが、まさに上掲は浅井先生の持論、浅井節とも言うべきものである。

しかし、わたくしは思う。敵国条項がナンボノモンか知らないが、そこまで卑屈になることもなかろうと。

その理由はドイツである。

わたくしの思うに、ドイツは決して卑屈ではない。むしろ今のヨーロッパ諸国の中ではもっとも優秀な国なのではないか。いや、もちろん、さまざまの指標があるだろうし、価値観にもよることなので、一概には言えないが、しかし、そんなにダメな国とは思えない。

もしドイツがどうしようもない国であれば相当であろう。日本も一緒になっていつまでも卑屈になっていなければいけないのかもしれない。しかし、事実は違うのだ。

以上、浅井先生は何でもかんでも他国侵逼に結び付けて考えてしまうので、話が極端になってしまうのだ。

2013/2/23

ペースダウンは隠せない  
のぶし氏のコメントは衝撃的である。拙ブログは本部首脳もその存在を承知しているだろうし、定期的に閲覧しているだろうと思われる。その意味で氏の記述は危険である。あるいは吹っ切れたということか? もはや顕正会に対して恐れるものは何もない、ということなのだろうか?

さて、本題である。

これは現役時代に上長から聞いた話ですが、地方会館の職員はパートなどの非正規雇用がほとんどなのだそうです。ホテル東横インの支配人に女性が多いのと同じことですね。

これはわたくしの疑問に対し、一つの見解というか情報を提供してくれているわけだが、はたしてどこまで信用してよいものか、俄かには判断し難いところである。

休館時間もある地方会館のこと、本部のように高給取りを配置しておくわけにもいかないのでしょう。

これが事実ならば、ずいぶんと馬鹿にした話だと思う。そもそも宗教団体における労使関係がどのようなものか、それ自体がよくわからないことなのであるが、本部と地方でこのような格差があるとしたら許せないことである。どうせならば本部も地方もすべて非正規雇用にすべきだ。いや、もちろん、話は逆である。すべてを正規雇用にするのが筋である。

私のような素人考えからすると女性が多いのはやはり男性より活動時間が長く取れる方が多い。もしくは男性よりより熱心な活動家が多いのではないでしょうか?様々な理由から退転活動休止をされる方も多いでしょうからその流れでこういう収まり方をしてるのかもしれません。〇〇すれば達成という人参、飴をぶらさげられそれを肝心に活動をする。はたからみると馬鹿げてることでも活動家にとってはそれが真理であり拠り所になってしまうのでしょうね。

前掲はユタ氏のコメントであるが、今度はドリン氏のものである。

様々な理由から退転活動休止をされる方も多いでしょうからその流れでこういう収まり方をしてるのかもしれません。

氏のコメントから、さらに抽出した。たぶん、この辺が真相に近いのかもしれない。

ようするに、もともとは男女の区別を設けてはいなかったが、自然淘汰の原理でいつの間にか女性ばかりの状態になってしまった、ということなのだろう。ここにユタ氏の見解を加味すれば、雇用形態がどうかは定かでないにしても、管理主任は薄給である、激務の割りには給料が安い、だから、やってられねえ、こう思うのは自然かもしれない。この場合、とりわけ男性のほうが不満を感じる割合が高いのではないかと思われるのだ。

さて、別件でユタ氏から長文のコメントを頂戴した。ここには掲げないが、なかなか興味深い文章である。わたくしは思った。もし顕正会に論客がいるのであれば、これをヒントに前回の拙稿を破折できるのではないかと。

 「全県に建つのもあとわずかである。やがて百会館になる。そうなったら広宣流布は近い」

浅井先生の言葉である。わたくしはこれに反論した。要を取って言えば、広宣流布が近い? どこが近いものか、ぜんぜん遠いではないか、と。百会館=広宣流布近し、これは先生が情緒的に言っているだけであって、根拠はどこにもない。客観的には甚だ遠いということだ。

ただし、顕正会側に立って言えば、可能性としては全否定されるものではない、となるかもしれない。

熱心な活動会員は行動範囲が広い。それこそ全国の会館を飛び回っているような幹部もいることだろう。もちろん、職業幹部を除いてのことだ。しかし、いかんせんインフラ整備が間に合わない。すなわち、まだ会館のない地域があって、そこでの活動はひじょうに不自由である。ゆえに、もし全県に会館が建ち、さらに人口の多い県においては第二第三の会館が建つようになれば、熱心な活動会員たちの力が十二分に発揮されるようになる。そうなれば爆発的に弘通が伸びる。つまりは広宣流布に一気に近づくのだ。

いかがだろう。顕正会に論客がいれば、この程度の反論は容易いはずである。わたくしもこう言われれば、確かにそのとおりだと認めざるを得ないのだ。

つまり、浅井先生の発言は充分に会通が可能なのである。

インフラの整備、すなわち会館の全国的ネットワークが完成すれば、弘通が爆発的に伸びる。確かに理屈は通っている。

しかし、わたくしにも再反論の用意はある。

顕正会の崩壊は近い

広宣流布は近いとの浅井発言を、真っ向から否定するサイトが存在する。ご存知、櫻川忠氏の立ち上げた新サイトである。ここに注目すべき記述があるのだ。

 発足より今日までの弘通の足跡を、顕正会が顕正会新聞紙上で毎年、公式発表しています。
 百万達成以降、グラフの伸びが鈍化していることが、読み取れるでしょう。


http://saku.nows.jp/1/index.php/2013-01-18-05-33-14

わたくしのようなアバウトな人間は、グラフを見てもまだまだ上向きではないかと思ってそれほど気にも留めなかったが、なるほど言われてみればそのとおりである。グラフの伸びが鈍化しているのは間違いないことだ。

櫻川氏の分析はさらに詳細をきわめる。

 さて、右のグラフは、顕正会が顕正新聞(平成25年1月5日)に掲載したもので、これを分析するといろいろなことが判る。
 1) 100万から156万まで、ほとんど直線で推移している。
 2) その間に巨大地震・原発事故という大災害があったが、顕正会の進展にはその影響が見られない。
 3) したがって、過去の推移から補間した今後の予測は、言葉だけの「妄想」と違って確実性が高い。


http://saku.nows.jp/1/index.php/12-2013-01-20-00-43-05/78-2013-02-04-05-34-55

少し間を端折るが、必要な人はリンク先に飛ばれたい。

 それでは、今後の顕正会のタイムテーブルを、確認してみよう。
 グラフから読み取れば、200万は7年後の平成32年(2020年)に達成され、浅井会長の年齢は88才となっている。
 さらに補間すれば、300万は22年後の平成47年(2035年)に達成され、浅井会長の年齢は105才。だが、このときすでに浅井会長は亡く、顕正会は「崩壊」しているだろう。
 そして計算上のことだが、6,000万は928年後の2941年となる。短慮の人・浅井昭衛氏が言う 「近き・近き・近き」未来とは、この現実を反映したグラフが指し示す帰結では、今よりさらに700年以上のはるか先である。


なかなか厳しい指摘である。

結論を申し上げよう。インフラが整えば・・・は確かに言えることであるが、あくまで可能性の話である。つまりは希望的観測に過ぎないわけで、櫻川氏に言わせれば妄想に過ぎないことになりそうだ。むしろ客観的なデータが示すごとく、百万以降の伸びの鈍化は否めない。これは毎年三会館ずつ建設されている中での出来事、すなわちインフラが整いつつある中での伸びの鈍化なのだ。データによれば、六千万達成は今のペースで九百数十年後である。もしさらにペースが落ちればどうなるか、もはや語るまでもないだろう。

以上、アナタは客観的なデータを信じますか、それとも希望的観測(=妄想?)を信じますか、ということである。

2013/2/19

百会館構想について  
常連の人たちから引き続きのコメントを頂戴しているが、今日は顕正新聞第1264号に戻って、書きたい。

全国会館管理責任者会議に列席して

六面に上掲の見出しが付された記事が二本載っている。列席は表現としてどうかと思うが、ともかく記事を取り上げよう。以下は八戸会館管理主任の記事である。

 宗門においては、学会との抗争が起きた平成三年以来、一箇寺も末寺は建っておらず、寺は日蓮大聖人の仏法を渡世の具とする住職夫婦の生活の場であり、一方、学会の会館は池田大作の名利と選挙の拠点でしかなく、これら広宣流布など眼中にない輩とは、一線を画し、広布推進のために真剣に次々と会館を建設される先生のご決意を拝見しては、もう広宣流布に戦う資格は顕正会以外にはないことを、改めて確信させて頂きました。

今現在、顕正会の会館は全国に四十四箇所あるそうだ。そこで話は前後するが、記事では浅井先生の言葉として次の一文を載せている。

 「全県に建つのもあとわずかである。やがて百会館になる。そうなったら広宣流布は近い」

今日はこれを材料にあれこれ書くが、その前に基本的なことを指摘しておこう。当該号の一面と六面には会議中の写真が掲載されている。すると一目で気がつくことがある。

女性が圧倒的に多いことだ。

わたくしの記憶が確かならば、顕正会の会館が建ち始めた最初の頃は、男性が管理していた。いわゆる管理主任は主に男性だった。ところがいつの間にか女性の管理主任が多くなり、今では四十四会館の大半が女性の管理主任である。

これがいったい何を意味するのか、わたくしにはよくわからない。ぜひとも諸賢の見解を伺いたいところである。

さて、宗門の末寺は抗争勃発以降、一つも建っていないという話であるが、これは事実誤認らしい。山門入り口氏のブログで指摘されているので、すでにご存知の人も多いはずだ。
しかし、現実問題として閑古鳥が鳴いている末寺があるのも事実であり、創価学会員が参詣しなくなってからは、むしろ末寺を整理縮小してもおかしくない状況なのだと思う。
対する顕正会は毎年三会館ずつコンスタントに建てている。浅井先生にとってはこれが自慢(?)なのだろう。

わたくしはここにイチャモンをつけておきたい。

そもそも宗門を敵対勢力と見なしてしまっていることがおかしい。邪宗の寺院が寂れていくのであれば、それは大いに結構なことだが、日蓮正宗は邪宗ではない。
昨夏、浅井先生は建白書を提出した。その文面には書かなかったものの、新御宝蔵の建設費用を全額顕正会で出してもよい、そのような思いを懐いていた旨、理事長を介して会員に伝えたのではなかったか。
であるならば、宗門末寺が疲弊していることと顕正会の会館が繁盛(?)していることを対比するのは、ちゃんちゃらおかしな話であろう。末寺の面倒を見るくらいの度量がなくてどうするのか、それが在家の本分だろう。
すなわち大御本尊の御安危を憂えて新御宝蔵を建立寄進申し上げるつもりならば、その精神に準じて宗門末寺の建立寄進をもなすべきが筋なのだ。

もしそうでなければ、顕正会は完全に分派独立教団と化し、宗門への復帰は永久に閉ざされることになるだろう。

裏を返せば、浅井先生の本音がここに出ているとも言えるわけだ。顕正会さえ繁盛すれば、宗門はどうでもいいと。

一箇寺も末寺は建っておらず、一方、学会の会館は池田大作の名利と選挙の拠点でしかなく・・・

部分的に再掲した。ここにも矛盾というか欺瞞がある。

やがて百会館になる。そうなったら広宣流布は近い。

これまた再掲であるが、もうおわかりだろう。

宗門の末寺が一箇寺も建っていない。もしそれが正しいとして、では、創価学会の会館はどうなのか、そこが問題である。平成三年以降、創価学会の会館が一つも建っていないのであれば、相当である。しかし、現実にはたくさん建っているのではないかと思われる。しかも顕正会の会館に比べれば遥かに大規模な建造物のはずなのだ。

つまり、浅井先生は自分に都合のよい部分を継ぎはぎして論じているだけであり、全体的には整合性が取れないのだ。

そして今回の最大の目玉は、百会館=広宣流布は近い、である。

日蓮正宗の末寺がいくつあるか、創価学会の会館がいくつあるか、単純にそれと比較しただけでも、なぜに百会館が広宣流布近しになるのか、まったく説明できない。

百万達成以前の話だが、わたくしは次のような話を聞いていた。

いわゆる十人力とか百人力という言葉がある。顕正会員は信心の情熱から何から創価学会員の比ではない。信力・行力・教学力、すべてにおいて創価学会員の十倍も百倍も勝るのだ。ゆえに百万を達成すれば、事実において一千万創価学会を遥かに凌駕する、と。

今となっては笑い話にしか聞こえないかもしれない。けれども当時のわたくしはこれで納得していたのだ。

ゆえに百万達成時の失望は相当だった。

これで百会館=広宣流布近しが根拠のないものであることがわかっただろう。たぶん、いずれは百会館が建つ。その前に崩壊する可能性もあるが、まあ、今のペースで行けばわたくしの目の黒いうちには百会館が建つことだろう。しかし、その時になっても広宣流布は遠いままのはずである。

さらにダメ押しを書いておこう。

百会館は都道府県単位でいえば、各県にほぼ二会館ずつ建てば達成されることになる。今現在、すでに二会館建っている県がある。二会館どころか三会館建っている県もある。はたして、これらの県が広宣流布に近づいているかどうか、ということなのだ。顕正会の中では比較的に活発なだけの話であって、客観的にはぜんぜんダメである。

熱心な活動会員にはこうした単純な道理が見えないものらしい。

2013/2/17

本領発揮の巻  
早朝、のび太氏よりコメントが寄せられた。

私が求めているものは、浅井先生が一般社会に向けて布教を勧めていくならば、発信されたメッセージに対して説明責任も発生するということです。

おっしゃるとおりである。

昨年は原発問題に相当の力を入れていた。具体的には特集号を組んで大量部数を配布した。これは明らかに社会運動的な側面が強いものだ。たぶん既存の反原発運動家たちも顕正会の存在を知ったことだろう。

ただし、顕正会の評価は必ずしも高くない。何となく冷ややかな目線で見られているようにも感じられるところである。

その理由はたぶん簡単なことだろう。

のび太氏ならずとも誰もが思うはずなのだ。顕正会は反原発を布教の道具に利用していると。

これは致し方のないところであって、顕正会だけがそのように見られているわけではなく、おそらくはあらゆる宗教団体がそのように見られているのだろう。それがいわば運命なのだ。

たとえば慈善事業がわかり易い。

すでに大聖人の時代において、同様の事例があった。いわゆる極楽寺の良観が行なったさまざまの慈善事業を大聖人は批判している。もともと顕正会は大聖人の側にいるわけだから、慈善事業のようなことは一切やらないと公言していた。創価学会が信心とは直接関係ないことをやれば、それを痛烈に批判していたのも同様の意味からである。

それが今度の原発問題に限っては、どういうわけか熱心に取り組んでいる。

もちろん、これについての説明はすでになされていて、ようは大聖人の本国土すなわち仏国土を放射能で汚染するのはケシカランことだと言っているわけである。

しかし、どのような説明がなされようとも一般人にはあまり響かない。慈善事業をやろうが何をやろうが結局は宣伝行為、すなわち布教の一環だと見られてしまうのだ。

ずいぶんと話が回りくどくなってしまったが、もし顕正会の活動が今以上に社会的影響力を持つようになれば、ジャーナリストと呼ばれる人たちが取り上げるようになる。直接取材を申し込む人も出てくるはずだ。わたくしは思う。そのような時が早く訪れないかと。

ここでのび太氏のコメントに結び付くのだ。

ジャーナリストは辛辣である。提灯持ちのような記事は書かない。当然、浅井先生に直接まみえる機会があれば、遠慮会釈のない質問をぶつけることだろう。その時、先生がどのように答えるか、ぜひとも見てみたいものである。

さて、先ほど沖浦氏からコメントが寄せられた。

ある意味、氏の主張は一貫不変(?)なので、多くは取り上げないが、次の一文には少し驚いた。

 先ず、本体である創価学会本部が、現時点でハンネの人を一切創価学会員と認めないとしています。

これは公に出ている話なのだろうか?

沖浦氏の論旨から外れて恐縮であるが、創価学会員はたくさんいるのでマレ(?)には犯罪者もいることだろう。昨今はネット犯罪も横行している。こうした事情を勘案すると上掲のことはごく自然の対応なのではないかと思う。いわゆるナリスマシの存在も看過できないことであって、創価学会のイメージを悪くするためにさまざまの策謀をめぐらしている人もいないとも限らないのだ。以上の理由から、創価学会が上掲のような公式見解を出したとしても不思議はないだろう。わたくしはただそれだけの話だと思う。

不平不満 裏切り 追放
ドロドロしたものは 色々あると思いますが
なにも社会の組織の中では検証会に
限った話ではないと思います

比較相対の話


久しぶりに旦氏からコメントを頂戴した。確かにおっしゃるとおりだと思う。

ただし、顕正会の場合はそんじょそこらの組織と違う。何しろ広宣流布・国立戒壇を言っているのだ。つまり、もしこれが実現するとなると、日本人で無関係の人は一人もいなくなるのだ。延いては世界で無関係の人は一人もいなくなるのだ。

この意味ではとてつもなく大きな問題なのである。

もちろん、今のテイタラクでは実現しないだろうから、放って置けばいいという考え方もある。

ここでわたくしにはいくつかの選択肢がある。

一つは顕正会問題から足を洗って別の人生を歩むことだ。たぶん、それがいちばん真っ当な人生なのだろう。公称百五十数万の顕正会も、その会員の大半がすでに別の人生を歩んでいる。顕正会のことなど、まったく記憶にない人もいるはずだ。何しろ入信したという自覚すらない人もいるくらいだからだ。

正直なところ、上述がいちばんだと思う。いくつかの選択肢とは書いたものの、大きく分ければ顕正会に関わるか関わらないかの二つである。そして関わらないのが正解である。

では、なぜにこんなブログをやっているのか?

拙ブログの副題を見るがいい。オチブレ顕正会員云々と。わたくしに気負いはない。使命感などさらさらない。自己正当化を考えるならば、顕正会で苦しんでいる人の一助だとか、顕正会の被害者をこれ以上出さないためとか、そんな説明が可能かもしれない。しかし、そんなことを言うつもりはまったくない。

結論はグチを書いているだけなのだ。

少しばかり小奇麗にまとめると、わたくしは顕正会に縁をして何かを失った、何かを傷つけられた、今もその傷が癒えないまま、何年も引きずり続けている、ということなのだと思う。

この意味で行くと、拙ブログが続いているうちは傷が癒されていないことになるだろう。わたくし自身が傷つき、その痛みに呻き声を上げている。それが拙ブログなのだ。

何だか深刻な話になってしまったようなので、少し軌道修正しよう。

客観的な意味で顕正会の行く末はひじょうに興味深い。実現不能の目標を掲げて猛進していること。傍目には実現不能なのに、内部では実現すると思い込んでいること。それがために人生のすべてを投げ打って活動に集中している人が多くいること。まるで制御不能の核暴走に陥っているごとくだ。

ともかく顕正会は類例を見ない組織であるから、その結末がどうなるかもまったく予想がつかない。

この意味でも注目に値するのではないかと思う。

こう考えると、拙ブログも多少はやり甲斐があるし、存在価値もあるのではないか、という気がしないでもない。しかし、しょせんはグチを書いているに過ぎない、というのが本当のところである。

2013/2/16

前代未聞の大人事が意味するものは何か?  
沖浦氏のコメントはまさに沖浦氏らしいものである。他の誰にもマネの出来ないことだ。そして同時に思うことは、なるほど沖浦氏が他の創価学会員から敬遠されるのも当然だ、ということだった。

さて、本題に入ろう。一月度総幹部会を報ずる顕正新聞第1265号を読んでの感想である。

新しい前進開始 期を画する大人事

これが当該号の大見出しである。では、実際にどのような人事が行なわれたか、浅井先生に語ってもらおう。

 さて、きょうの総幹部会は、顕正会始まって以来の大人事ですね。

先生は何事にも誇張が過ぎる人であるが、どうやら顕正会始まって以来の大人事はそのとおりのようである。

 まず顕正会の本陣を守り堅める理事室が、理事長以下九人の新陣容となった。

この詳細で特筆すべきことは、まず小峰氏が理事から外れたことだ。しかし、今度は奥さんが理事に任命された。また、加藤理事が退任したことも報じられている。この点は意外と言えば意外だった。退任がではなく、報じられたことがである。だったら、かつての主任理事がどうなったか、これも報じていなければおかしい。

 また男子部できょう発令された隊長以上の幹部は二十八人、同じく女子部の区長以上は三十三人、婦人部の支区部長以上は十人、計七十一人です。

わたくしの個人的興味は婦人部の人事だった。あえて名前は記さないが、寿能支区部長がひじょうに気になる。顕正会ウォッチャーならば、誰もが注目することだろう。

さて、今回は辞令の授与が省略された。一人ひとりに授与していたら一時間以上掛かる。よって読み上げただけで授与は省略した。それほどの大規模な人事だったわけだ。

これをどのように解釈するかが難しい。

櫻川氏は顕正会の崩壊を近いものと見ている。あるいはわたくし自身、内部で何かしらのゴタゴタが起こっているのではないか、という意味を先日書いたばかりである。

人事の解釈には二通りあると思う。

一つは組織がどんどん成長・拡大しているので、それに伴なって新ポストを増設する必要がある。それが大規模な人事につながるわけだ。

もう一つは人材が流失しているという見方である。すなわち役職に就いていた人が退転してしまって、その後任人事が必要となる場合だ。

女子部の例を見てみよう。

二十九人の新区長が別掲のごとく任命された。

浅井先生は部長や幹事を含めて三十三人と言っているわけだが、区長だけだと上掲のごとくである。

ここでの新区長は二つに分類される。

新設区の区長
既設区の区長


おそらく第百三十区から百四十四区は新設されたのだろう。しかし、それよりも若い数字の区は既設の区である。

つまり、前者はまさに成長拡大に伴なうポストの新設であるが、後者は単に人が入れ替わっただけなのだ。

いや、もちろん、前任者がすべて退転したわけではないだろう。それはさすがにイジワルな見方である。しかし、新設区が十五で、既設区における交替が十四という、この微妙な数字が何とも言えないところである。穿った見方をすれば、批判者から突っ込まれたくないので、新設区のほうを意図的に多くした・・・というようにも思えるのだ。

ところで会長講演のほうであるが、今回は特に書きたいと思う事案はなかった。強いて言えば、浅井先生のアベノミクス批判はそれなりに評価してよいのではないか、ということだ。経済の話は難しくてよくわからない。そこを先生は比較的平易に説明していて、誰もがそれなりに納得できる話になっている。

わたくしは思った。先生の安倍批判は、そっくりそのまま先生にも当てはまるのではないか、と。

お金に関して言えば、顕正会は健全(?)であり、何の心配もない。しかし、組織運営そのものが、まさにアベノミクス化しているのではないか、というふうにも思えるのだ。

日銀が政府のいいなりになって、お札を刷って国債を買うだけの「印刷マシーン」に成り下がったら、国の財政は崩壊してしまう。

会長講演である。わたくしもこの意見に賛成だが、同時に思うことは、これが顕正会にも当てはまるのではないか、ということだ。

浅井先生は、ポストさえ乱発すれば、あとは活動会員が頑張って組織を成長拡大してくれる、と思っているのだろうか?

しかし、それは甘い考えだ。

会員だって人間である。われわれは折伏マシーンじゃないぞ。こういう不平を懐いたとしても不思議はないのだ。

以上、わたくしの書いていることは、顕正会員が内心に不平不満を懐いていると仮定しての話である。もしこれが事実ならば顕正会の崩壊は近いだろう。しかし、そうではなくて、会員の多くが感激に満ち満ちて、それが活動の原動力となっているのであれば、話は違ってくる。

さて、どちらが本当だろうか?

2013/2/14

のび太氏のコメントを中心に  
櫻川氏の登場には驚いた。氏は先年、顕正会批判の本を出版した。『迷走する顕正会を斬る』だ。それ以降はそれほど目立った動きを見せなかった。わたくしの感触では、もう顕正会問題からは足を洗ったのではないか、顕正会批判の決定版を出したことが一つの区切りで、いわば大役を果して引退した、ということではないかと勝手に思っていた。

しかし、そうではなかった。新しいサイトを立ち上げたのだ。

顕正会の崩壊は近い

これが当該サイトのタイトルである。物凄くセンセーショナルだ。

さて、櫻川氏関連はこの先いくらでも書く機会があるだろう。そこで今日は別のことを書くことにする。

2013/2/13 0:18
投稿者:のび太

のび太:仮にも宗教指導者だったら前言に対する説明があってもよいのでは!?

厳虎:これもちゃんと釈明すればいいのだが、たぶんそれはしないだろう。

なんと都合のよい解釈だろうか?

昨日は、原発賛成!今日は、原発反対!死者が二万人でても知ったことではない。反原発は教勢拡大の手段だから…。一事が万事この調子です。

こんな人間に振り回されて、人生をボロボロにされた方を見てきました。

残念でなりません。


最後の残念でならないというのが何となく捨てゼリフのように感じられて不快である。しかし、わたくしの個人的感情などはどうでもいいことだ。問題は理非曲直である。

まず、大枠で捉えるために、次のキーワードをご覧に入れたい。

性根の腐った詐欺師
妄想老人


ボロクソである。しかし、わたくしはこれに抗議しなかった。浅井先生が釈明をしない以上、このように言われても仕方がないのだ。

つまり、わたくしは間接的ながらも、浅井先生を性根の腐った詐欺師ないし妄想老人であると、肯定しているわけだ。

ただし、原発問題における自語相違はそれほど罪がない。むしろ、これを針小棒大に取り上げるほうがどうかしているのだ。この点は創価学会員や法華講員にクギを刺しておきたい。

いかがだろうか。これが理非曲直ということなのだ。

のび太氏の主張は順番が逆さまである。もし原発問題での自語相違を持ち出すのであれば、それは序分の役目としてである。すなわち、浅井先生は原発に対する評価を百八十度転換した、ところが前言への釈明をまったくしていない、これはケシカランことだ、しかし、これはまだ罪が浅い、何よりも重大な問題は大聖人に誓い奉った一千万を反故にしたことである、と。

事の重大性が違い過ぎるのだ。

これを弁えずに、何でもかんでも批判するのは、かえって混乱を生じるだけである。

死者が二万人でても知ったことではない。

再掲であるが、これが好例だろう。わたくしには何が何だかまったく理解できない。この死者二万人は何を意味しているのだろう。浅井先生の自語相違とどのような関係があるのだろう。まさか先生の発言が二万の死者を生んだとは思えない。まったくの意味不明である。

のび太:仮にも宗教指導者だったら前言に対する説明があってもよいのでは!?

厳虎:これもちゃんと釈明すればいいのだが、たぶんそれはしないだろう。

なんと都合のよい解釈だろうか?


これまた再掲である。何を言っておるものかと思う。

大枠を思い出してほしい。わたくしは性根の腐った詐欺師・妄想老人に同意した。ようするに浅井先生は何らの釈明もせず頬かむりしているからだ。

そしてこの文脈上に上掲のやり取りが乗っかってくるのである。

つまり、わたくしは原発問題においても、本来ならば釈明すべきだと言っているわけだ。しかし、たぶん先生はしないだろうと、いわば見通しを述べているわけである。ただそれだけのことなのだ。これを都合のよい解釈と言われても困惑するだけである。

一事が万事この調子です。

これはおっしゃるとおりだろう。ただし、繰り返しになるが事の重大性を踏まえた上で、書くべきだった。

http://www.youtube.com/watch?v=UxIzv9FcppQ&feature=player_detailpage

ここで元記事について言及しておこう。リンク先の動画は樋田氏の一味が作ったものと思われる。浅井先生のアニメはよく特徴を捉えている。ある意味、挑発的である。ことに舌をペロペロ動かしているところなどは、熱心な顕正会員を激昂させるだろうことが想像される。

何度も書くが、原発問題における自語相違はそれほど罪がない。ゆえに、もし法華講員たちがこれを針小棒大に言い募るのであれば、それは大間違いである。

ただし、樋田氏は先年、浅井先生に対決を申し込んでいる。一方の顕正会側は完全に殻に閉じこもっている。

もはや、ここまで来ると何を言われても仕方がない。言われるのがイヤならば反撃に打って出るしかない。しかし、それはヤブヘビなのだろう。だから、じっとしているしかないのだ。

顕正会の崩壊は近い。なるほど、櫻川氏の言うとおりかもしれない。

2013/2/12

拙ブログの深刻な内部事情  
各方面からのコメントは後に取り上げるとして、今日はまず十二月度女子部班長会における第十九女子部長の活動報告について書く。

猛吹雪の中、空前3295名の大結集叶う

なかなか感動的な記事だった。十二月九日の集会には上掲の人数が集まったという。当日は猛吹雪であり、十二月初旬としては二十七年ぶりの大雪だった。このため、交通機関が麻痺し、約二百名が会場にたどり着けなかったとのことだが、これもまた一つの美談として話に盛り込まれている。

女子部員のうち約二〇〇名が最後まで会場に辿り着けず、動かぬ新幹線や車の中で涙をのんだグループもありましたが、最後の最後まで皆が「三千名結集」の無事成功を祈り、中には集会参加の叶わぬ無念を信心で切り替え、動かぬ新幹線の中で乗客に特集号を配布し、後日の折伏予定を取った組織もあったと聞き、みなの真心と異体同心の有難さでいっぱいになったものであります。

この部分は感動的だと思う。

では、次のくだりはどうだろうか?

 未活動者は二〇七名が瞳を輝かせ集い、青森・秋田・山形・栃木・静岡をはじめ遠方からのバス三九台も長時間かけて続々と到着し・・・

顕正新聞をお持ちでない人にはよくわからないはずだ。ようするにこの集会がどのような性質のものであるか、上掲の記述だけでは判然としないからである。

第十九女子部は新潟中心の組織である。ここで三千名の集会を企画した。猛吹雪の中、二百名がたどり着けないというアクシデントがあったけれども、集会そのものは三千名を突破し、大成功だった。

新潟中心なのである。

ところが上掲のごとく、遠隔地からの参加が多数あった。バスで数えれば三十九台である。具体的には何人なのだろうか?

未活動者を二百七人とカウントするくらいだから、各地からの参加者の詳細も把握していることだろう。

本年は女子部大会が開催される。いわば、その予行演習が各地で行なわれているわけだ。各組織ごとの結集力がどの程度であるか、それをリサーチする意味もあるのだろう。まさか水増し発表をするとは思えない。なぜならば今の段階でそんなインチキをしていたら本番はなおさらインチキせざるを得なくなってしまうからだ。それではリサーチの意味がない。ゆえに水増しはないと思うのだが、しかし、問題は応援部隊がどのくらい含まれているかだ。こればかりは内部の人間にしかわからないので話はここまでである。

ともかく遠隔地からの参加もあるので、外部の人間からは組織形態が複雑で把握できない。ゆえに本当の数字すなわち真水がどの程度なのか、まったくわからない。ある意味、本部首脳も同様なのではないか、という気がしないでもないところである。

以上は顕正新聞第1263号からの話題である。そして次号は前回取り上げた成人式などの話題が掲載されている。

爆弾低気圧による大雪の中、新成人は全国から続々と本部会館に

雪の話題で揃えたわけだが、こちらは掲載写真が秀逸だった。雪化粧の本部会館も悪くない。本人たちにとってはいい思い出となったことだろう。

成人代表はいずれも立派である。そりゃそうだ。ぜんぶで何人いるかわからないが、晴れの舞台で登壇するわけだから、この四人がいわば同世代の中では秀でているわけなのだろう。

特筆すべきは男子部第二十隊支隊長の登壇だろうか?

この人は同級生の折伏で入信したと書かれている。近年ではめずらしいケースかもしれない。というのは、たいていが親の紹介で高校入学と同時に入信している、いわば二世会員だからである。実はもう一人の支隊長も親の紹介なのかどうか、はっきりしないのだが、それはさておくことにしよう。

もう一つだけ紹介すると、外語大学云々の女子部総班長もさることながら、もう一人の総班長の記事が面白かった。

 現在は同世代のほか、婦人や壮年の総班員も多く集い・・・

これは凄い。二十歳そこそこの小娘などと書くと叱られるかもしれないが、ともかくオジサン・オバサンたちをも束ねるだけの力があるわけなのだろう。これは逸材だ。

最後に各氏のコメントを紹介して終わりたい。

東スポみたいになってきたねえ。

具体的にどこがどのようにとは書かれていないが、確かにそう言われても仕方がないかもしれない。ようは憶測だけの根拠薄弱な文章だからだ。その割にはタイトルが大袈裟だったことは否めない。

 こんばんは。まだ私の手元にある折伏理論書には、しっかり1000万人の誓いが掲載されてますよ。浅井会長、お若いですねぇ(笑)
 今ではこの理論書で破折できるという皮肉です。顕正会員に、御書による破折は必要ありませんね。


ともかく浅井先生も相当に気にしている。かつての「あと二十五年」はあまりにも古いのでインパクトが少ないが、今度の場合はかなりインパクトがある。時間的な距離の問題もさることながら、会員数の問題もあるだろう。ようするに武道館大総会の時はそんなに会員がいなかった。ようは古い話だし会員もそれほどいなかったので、憶えている人の絶対数が少ないのだ。一方、十五年前はほぼ現在に匹敵するくらいの活動会員がいたと考えられる。しかもネット上にはわたくしを含めてこれに言及する人たちがたくさんいるのだ。イジワルな話だが、ほぼ今年いっぱいは使えるネタなので、わたくしが書かずとも誰かが書くことだろう。

いずれ時が来たら••••••••。
この、もったいぶった表現、今だ健在なんですね。この男性根の腐った詐欺師か病気なのか。
朦朧な老人に騙されてはいけない。自分が特別な人間であるとの演出か思い込みか。恐らく後者の方でしょうね。救い難い。願わくば、妄想老人に人生を台無しにされぬよう。


かなり厳しいコメントであるが、ともかく浅井先生が釈明をしない限りは言われても仕方がないことである。

浅井先生、口うま!!

仮にも宗教指導者だったら前言に対する説明があってもよいのでは!?


これもちゃんと釈明すればいいのだが、たぶんそれはしないだろう。

ただし、原発問題における自語相違はそれほど罪がない。むしろ、これを針小棒大に取り上げるほうがどうかしているのだ。この点は創価学会員や法華講員にクギを刺しておきたい。

2013/2/7

顕正会の深刻な内部事情をさぐる  
ユタ氏には、ご丁寧な回答をたまわり、ありがとうございました。また、その他の皆さまにも、コメントをたまわりましたこと、ありがとうございました。

さて、本題である。

顕正新聞第1264号が届いたのは二月四日だった。紙面そのものはいつもと変わらない。ゆえに考え過ぎかもしれない。

その上で、申し上げよう。

顕正会の内部で何か深刻な事態が発生しているのではないか?

当該号の一面のトップ記事は教学試験である。そしてメイン記事は成人式だろう。これが一面左側を占めており、二面以降は会長講演、総男子部長と総合女子部長の祝辞、そして成人代表による誓いの言葉と続く。

実は、一面にはもう一つ記事が載っている。

全国の会館管理責任者会議 開く

一月十八日に青年会館第一集会室で上掲の会合が開かれた。

もしこれが定例の会合であれば不審はない。毎年行なわれているのであれば何の疑問も持たない。しかし、わたくしの記憶では全国の会館管理責任者が一堂に会することは、滅多にないことなのだ。ゆえに、何かノッピキナラナイことが起こっているのではないか、その対応のために招集を掛けたのではないか、という気がするのである。

考え過ぎと言われればそれまでだ。

しかし、次の比較を見れば、誰もが何かを感ずるはずである。

成人式    約四十分
くだんの会議 約五十分


すなわち浅井先生の講演の所要時間である。

成人式での会長講演は顕正新聞当該号の二面から四面にわたって掲載されている。なかなか充実した内容である。しかし、一方の会議の中身は要約というか、ごく部分的に紹介されているに過ぎないのだ。時間的には成人式のそれより長い。ゆえに全文掲載すると最低でも三ページ分の紙数が必要になる。

わたくしの言いたいことがわかるだろうか?

ようするに新聞で報道されている会議の模様はほんの一部分に過ぎない。おそらくそれは当たり障りのない部分なのだろう。実際には物凄い発言がたくさんあったのではないか?

そもそも当該号はいわゆる一月二十五日号である。前々号はいわゆる新春号であり、一月五日号と謳ってはいるものの元旦に届くようになっている。わたくしのところには大晦日に届いた。前号はめずらしく日付どおり一月十五日に届いた。そして既述のごとく、二十五日号が届いたのは二月四日である。

まさに不審である。一月は実質的に一回しか発行できなかったことになるからだ。顕正新聞の発行は遅れがちではあるけれども、今回はあまりにもヒドイ。これは内部において相当の事態が発生している証拠ではないかと、こう思わざるを得ないところである。

大量脱会?

もちろん、わたくしの勝手な想像である。何かが起こっている。たぶん、それは間違いないのだろうけれども、具体的にはわからない。そこで勝手な想像を書くわけだが、大量脱会があったのではないかと思うのだ。

たとえば一千万誓願の問題がある。

今年は一千万達成の年なのだ。しかし、ご存知のごとく、浅井先生はそれを反故にして、今は盛んに六千万を言っている。おかしいではないかという声が内部から発せられたとしても不思議はない。

わたくしが顕正会に距離を置くようになったのは平成十六年である。その直接の理由は浅井先生が宗門への批判を激化させたことだった。宗門との融和を目指すべきが筋であると思っていたので、あの時の先生の方針にはとうてい付いて行けなかった。それで離れたわけである。

その上で、強いて別の理由を挙げれば、前年に百万を達成したことが顕正会への失望を大きくした、という面も否めないところだ。

今となってはわたくしも古い部類だ。何しろ顕正会に入ったのは昭和の時代だから、単純に二十五年以上経過している。当時はまだ顕正会が二十万にも満たない時代だった。ゆえに百万達成が夢のようにも感じたものである。

そして幹部たちもまた、別の意味で夢を語っていた。

百万までの顕正会は苦闘の連続かもしれないが、百万以後の顕正会は楽ちんだ。

いや、もちろん、これは今わたくしが当てずっぽうに書いているわけだが、幹部たちがそんな意味のことを言っていたのは事実だ。いわば上昇気流に乗って飛躍的に組織が発展するのだと、こんなニュアンスだったろう。

こうも言っていた。

今は逆縁の連続だが、順縁広布の時が到来すれば、劇的に変化する。折伏が信じられないくらい決まるようになる。

百万がその一つの目安だったわけだ。

しかし、百万になっても何も変わらなかった。劇的な変化は起こらなかった。今も逆縁続きであることに変わりはない。

わたくしは根性なしなので、そこで挫けてしまった。しかし、歯を食いしばって今日まで頑張ってきた人たちも、さすがに疲れてきたのだろう。平成十年の時点で在籍していた人は一千万の誓いを知っている。今年は達成の年だ。しかるに先生は一千万にはまったく言及せず、あろうことか六千万を云々しているのだ。ここで気が付いても不思議はないだろう。浅井先生の欺瞞にである。

成人式の会長講演は素晴らしかった。

父母の恩を知り報ずる人たれ

この一段はかなりの紙数を費やしているが、決して冗長ということはなく、大事なことがたくさん詰まっている。わたくしの思うに、世間一般の人にも読ませたいと思うくらい秀逸である。

当該講演は全体的にも充実した内容であるが、唯一、引っ掛かる部分があった。

 ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計らいとして、日本国一時に信ずる事あるべし

もちろん、この御文に罪はない。問題はこの後に続く、浅井発言である。

 ついでに言っておきます。私がいま「六千万の地涌出現」といっているのは、この仰せを拝しての確信であります。いずれ時が来たら、詳しいことを申します。

いかがだろうか。一千万達成の年であることと、どこかでリンクしていることが窺える発言なのだ。

わたくしもついでに言っておこう。

この文章の次には、小見出しが掲げられている。

今こそ、その時

そして、次に続くのだ。

 では、この広宣流布はいつなのか。私は「今こそその時である」と確信しております。

アゲアシ取りのように感ずる人もいるかもしれないが、わたくしはこれを読んで物凄く違和感を持った。浅井先生は悩乱しているのではないか? こう思わざるを得ないくらいである。

ようするに、詳しいことは時が来たら話すと言っておきながら、その直後に今がその時であると言っているわけである。だったら話せよ、とわたくしは言いたい。

これは単なるアゲアシ取りなのだろうか?

わたくしの勝手な想像では、内部でゴタゴタがあって先生も相当に疲弊している、その影響がここに出ているのではないか、という気がしてならない。

いずれ時が来たら、詳しいことを申します。

再掲である。

ともかく一千万の釈明をしなければいけない。しかし、どのように言い繕おうとも、無理がある。ゆえに上掲のようにしか言えなかった。

今回はすべて想像で書いているわけだが、案外に当たっているのではないかという気がしてならない。いや、もちろん、嬉しいとか、いい気味だとか、そんな気持ちはサラサラない。暗澹たる気分だ。


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