2013/4/30

やる気のないブログ  
各方面からコメントが寄せられているが、やはりどうしても沖浦氏との議論を優先せざるを得ないようである。

 本尊とは根本尊敬ですので、それ自体が非常に大きな尊敬を意味する言葉です。
 ですので、御本尊と書こうと、本尊と書こうと大差はありません。

 そう言う重箱の隅を箸で突く様な非難は、対話を損なうと思います。


御本尊と書こうが本尊と書こうが大差はない・・・

確かにおっしゃるとおりである。

我ながら証文の出し遅れを否めないが、実は前回の拙稿では当初その意味の文言を書き入れていた。すなわち、本尊と書くことが直ちにアウトになるわけではない、本尊と御本尊は微妙な差異に過ぎない、しかしながらその微妙な差異が重要なのだ、といった感じである。
本尊は一般的な語彙として世間に広く流通している。もちろん御本尊も一般的に使われているわけであるが、我々の認識、つまりは日蓮正宗系の認識であるが、それは一般人の感覚とは格段に違うはずなのだ。
たぶん今の創価学会員にしても、おそらくは一般の感覚ではなく正宗の感覚に近いと思われる。ゆえに重箱の隅をつつくような指摘ではあるけれども、あえて書かせていただいたわけである。

あとは現証がどうか、であろう。

つまり、現今の創価学会員が自宅ないし会館の曼荼羅をどのように呼んでいるか、アンケートを取ればいいのだ。わたくしの予想では圧倒的に御本尊であろう。単に本尊と呼ぶ人はきわめて少数のはずである。

 本題です。
 創価学会がご書の講義集を宗門時代にも沢山だしておりますが、常に戒壇については以下の記載がございました。

 戒壇とは創価思想では、生命活動の場。

 多くの人が見逃していて、私もその中の一人でしたが、数年前息子が教えてくれました。

 お確かめ下さいませ。


二点申し上げよう。

まず、具体的な文証をお願いしたい。講義集の何巻の何ページに、これこれこういう文言がある、と書いて下さればいいのだ。単にお確かめ下さいませと言われても、確認の仕様がない。

そして二点目だが、こちらのほうが重要だ。再掲しよう。

 戒壇とは創価思想では、生命活動の場。

わかっとらんとしか言い様がない。わたくしが聞いているのは違うことである。ここでは上掲をベースに書き直してみよう。

戒壇とは創価思想では、生命そのものである。

賢明な読者ならば、すでにおわかりだろう。わたくしは先日来、戒壇=五体の文証を求めているのである。はたして創価学会の書籍にそのような意味のことが書かれているのかどうかを聞いているのだ。

以上、沖浦氏は二重の意味でわたくしの問いに答えていない。

 『文無く義無きは信受すべからず』
 (開目抄下他)

 これを教条的に読むと、誤ります。
 大聖人は常に仰せです。

 『教主釈尊』
 (守護国家論他九九回あり)
 
 誰がどう読んでも、大聖人の教主が釈迦です。
 
 それで、貴方方顕正会では本仏は釈迦ですか?


沖浦氏らしい切り返しである。

煩瑣になるので簡単に済ませるが、いわゆる日蓮本仏論はけっこう大変な議論である。しかし、およそ四百年前に日寛上人が論証して下さった。ゆえに我々のような一般の信徒はそれを信受すればいいのだ。

 戸田先生だけがなさいました。

だから、今さら何を言っておるものかと思う。もう四百年も前に解決している話なのだ。

さて、話は変わる。

顕正新聞が溜まってきたので、少しずつでも片付けていかないといけない。第1271号からいくつか話題を拾うと、まずは訂正から書かねばならないようだ。

 私は入信以来、二十五年間・・・

女子部第百四十二区長の記事である。一月ほど前に、第十九女子部長と上掲の区長が親子であることを書いた。わたくしはてっきり娘のほうが先に入信したものと思っていたのだが、上掲の記述からすると必ずしもそうとは言い切れないようである。二人の年齢がわからないのでどちらとも断定できないが、まあ、普通に考えれば母親が先に入信したのだろう。

さて、次は男子部第三十一隊支隊長の活動報告だ。

 また、私が勤務する病院には学会員が多く入院しておりますが、このたび学会員の患者が勤務中に突然死する出来事がありました。

登壇者は愛媛で看護師をしているそうだ。立派な職業だとは思うが、それにしても上掲はいかがなものかと思う。一言でいえば、職業倫理は如何、ということだ。

いわゆる守秘義務違反に当たらないのか、そこが問題である。

また、勤務中に突然死・・・という表現はややヘボな感じが否めないがそれはともかく、自分の勤務中に患者が突然死するというのは、いわば己の恥を晒しているような意味にも受け取れるところである。

さらに言えば、上掲は内部告発のような雰囲気も感じられるところで、俗な言い方をすれば、チクリを入れる、ということである。入院中の患者が突然死したとなれば、何らかの医療ミスがあった可能性も否めない。いわば登壇者はそれをチクッたのだ。

わたくしは心配だ。こんなことを総幹部会で発表して、かえって自分の立場が危うくなるとは思わないのかと。発表させるほうもどうかしている。ましてや顕正新聞に掲載するのは危険きわまりないことである。わたくしはこうしてブログを綴るのみであるが、おそらくは裏でさまざまの謀略を仕掛ける連中もいることだろう。ひじょうに心配である。

アベノミクスにより国家破産 切迫
地銀副支店長として先生のご指摘 実感


沖縄の男子部組長である。この人の記事はそれほど問題を感じなかった。たとえ銀行関係者に読まれたとしても、立場が危うくなるようなことはないだろう。大雑把に言って、くだんの看護師の場合は人の生き死にに関わる話であるが、こちらはそこまで切迫した話ではないからだ。

そこで、もし彼の上司が上掲を読んだとしたら、いったい何が起こるだろうか?

立場が危うくなることはないと書いた。しかし、そこには必ず何らかの作用が生ずるはずである。

わたくしの思うに、彼に求められるのは具体的戦略である。

アベノミクス批判にしてもTTPにしても浅井先生の言っていることはそれなりに説得力がある。ただし、今は問題点を指摘するだけであり、具体的対案があるわけではないのだ。顕正会的には広宣流布・国立戒壇がすべての根本解決なのだろうけれども、銀行の副支店長としてはさらに具体的な戦略が求められるところなのだ。

彼の上司となると、支店長だろうか?

いわく、浅井さんの言っていることは確かにそのとおりだ。キミが師匠と仰ぐだけのことはある。なかなかの見識だ。しかし、それはそれとして我々がさしあたって打つべき手は何か、ぜひ銀行マンとしてのキミの意見を聞かせてほしい。

いや、ダメです。支店長が入信しなければ、この銀行は潰れます。まずはそれからです。

この登壇者はさすがにそこまでバカではないだろう。しかし、熱心な活動会員の中には上述のような発想をする人が少なからずいるのである。おそらくはそこが顕正会の構造的な欠陥なのだろう。

2013/4/28

自堕落なブログ  
難解なコメントが寄せられた。以下、全文を紹介しよう。

2013/4/27 20:21
投稿者:旦
本尊を信じれば本尊が宿るなら
戒壇も当然五体に宿るんでしょう
ただ本迹でいうなら
五体は迹に当たるんじゃないでしょうか

本迹一致したらいけないという御文があったような…


説明を端折って結論だけを書いたような文章だが、より厳密に言えば、結論すら濁しているようなアンバイだ。

本尊が宿るなら戒壇も宿る・・・

まず、これがわからない。単に戒が宿ると表現するのであればわからなくもないが、戒壇が宿ると表現するのは違和感がある。

五体は迹に当たる・・・

これもよくわからない。文脈から推理すると、この場合は本尊が本で五体が迹であるとおっしゃりたいのだと思われるが、そうするとこれは沖浦氏への反論なのだろう。ならば、もう少し丁寧に論ずる必要があると思う。なぜに五体が迹なのかを説明しないといけないのだ。

本迹一致したらいけない・・・

これは論理的にどうかという感じだ。いちおう、本尊が本で五体が迹であるとしても、それを本迹一致の話に当てはめるのは的外れであろう。まったく次元の異なる話なのだ。

以上、率直な感想を書かせていただいた。

 人の命が本門の題目と本尊で、五体が戒壇であって、戒壇とは生命活動の場であるとは、創価学会では常識となっています。

沖浦氏から大量のコメントを頂戴した。ぜんぶを掲げるのは大変なので、大事なところに絞って引用させていただくが、まずは上掲が問題である。

創価学会では常識となっている・・・

であるならば、五体=戒壇の文証をお願いしたいところだ。もちろん、ここでの文証は御書のことではなく、創価学会の出版物全般のことである。すでに御書での論証は失敗に終わった。しかし、沖浦氏によれば五体=戒壇は創価学会における常識なのだそうだ。ならば、ぜひとも文証をお願いしたいと思う。

 本尊に対する私どもの思想を次に貼って置きましょう。

いちおう、一通り拝見した。その感想を申し上げれば、もしかしたら沖浦氏の主張は創価学会の見解から外れているかもしれない、ということである。

あえて誤解を恐れずに申し上げれば、総じては、『人間の生命をもって本尊とせよ』 ということであります

煩瑣になるので必要最小限の引用にとどめた。これは新・人間革命の記述なのだそうだが、あえて誤解を恐れず云々のくだりがひじょうに意味深である。つまり、ここは誤解が生じやすい部分であることを承知しつつも、あえて誤解を恐れずに書いているわけだ。

その誤解とは何かが問題であるが、そのヒントは総じて云々にあるのだろう。たぶん一般人の言語感覚であれば、「総じて」に何も疑問を懐かないだろう。そのまま素通りしてしまうところだ。しかし、我々は違うのだ。いわゆる総別の二義ということがある。ゆえに、上掲は続きの文章において、「別して」が論じられていなければいけないのだ。

はたして原文はどうなっているのだろうか?

もし「別して」が論じられていないとすれば、この本に問題がある。誤解を恐れずに言うのはけっこうだが、わざわざ誤解を招くような発言をして、そのままにしておくのは大問題である。会員を意図的に操作・誘導していることにもなりかねないからだ。

さて、もう一つの可能性は沖浦氏による切り文である。

あるいは本人にその自覚がない可能性もある。もしそうだとすると、まさに沖浦氏一人が勝手に誤解してしまって、創価学会の公式見解から外れてしまっていることになるだろう。

つまり、あえて誤解を恐れずに申し上げる、ということは、決して誤解をしてほしくはないのだが、という意味にも受け取れるわけで、まさにこれこそが文章表現の妙なのである。よって、もし新・人間革命の当該記述がこの意味であるならば、沖浦氏の誤解はなんとも皮肉な話である。

 私共の命が本尊で、それを映し出し湧現させる手段として、大聖人が明鏡として御本尊をご図顕なされた。

この部分は沖浦氏の文章そのものであるが、新・人間革命の記述を要約したものなのでさしたる相違はない。しかし、続きの文章が問題だ。

 音楽に喩えるなら、楽器が手段で曼荼羅本尊。
 弾き手がメロディーを創りだす本体。
 双方が境智冥合するなら、素晴らしい音楽が生まれます。


創価学会では自身の生命を本尊として、大聖人があらわされた曼荼羅を御本尊としている。本尊と御本尊、この違いが重要なのだ。

これでおわかりだろう。

沖浦氏は曼荼羅御本尊と書くべきところを曼荼羅本尊と書いてしまっている。

つまり、沖浦氏は新・人間革命の原文が御本尊となっていることを承知しつつも、最後に自説の結論を述べる段においては本尊と書いてしまっているのだ。

これは御本尊を迹であると言わんがための作為に他ならないだろう。

以上、創価学会の公式見解と沖浦氏の主張には差異があることが、今回、図らずも露呈したごとくである。

2013/4/26

怠惰なブログ  
各方面から心配の声が上がっているようなので、ここらで重い腰を上げようかと思う。

拙ブログは最初の三年間こそ毎日更新していたものの、その後は不定期更新とした。ゆえに、丸一週間更新がなかったとしても、それほど驚くに値しない。単なる怠け癖が出ただけの話だ。

そうは言っても心配して下さる方々がいる以上、それなりにお応えしないといけない。

文無く義無きは信受すべからず

沖浦氏との一連の議論はいちおう決着した。上掲がいわば結論である。

顕正会は御書がない。しばしば法華講員や創価学会員があげつらうところである。しかし、たとえ御書を自前で出版していたとしても、それを読まなければ同じことだ。ネコに小判である。

結局のところ、顕正会員のみならず法華講員でも創価学会員でも、さしあたってはその教団が出している解説書から学ぶ。はたしてそれが大聖人の御意に適っているかどうかは、なかなか自力で判断できるものではない。

すると、沖浦氏がしばしば言うところの教団の内部規定を学んでいるに過ぎず、本来の大聖人の御教えとは違っていることもあり得るわけである。

今回、わたくしが問題提起した本尊所住の処=戒壇にしても、御書だけで論証するとなるとけっこう大変な作業である。このことは図らずも沖浦氏が証明してくれた。

 戒壇は本尊の安置する場所です。

 他宗は知らず、日蓮正宗ではそういうことになっています。


そういうことになっている・・・

まさに象徴的なコメントである。結局、教団の出している本に書いてあることが、そのままイコールで大聖人の御教えであると錯覚してしまう。失礼ながら多くの人がそのレベルにいるわけである。

しかし、ネット上で論陣を張っている人はそれなりに自信がある。教団の教科書だけではなく、たくさんの資料ないし史料を読み込んでいる。すると教団とは一線を画す独自の見解を持つようにもなる。

おそらくは沖浦氏もその一人なのだろう。

 私は戒壇とは伽藍を示すとともに、本来は私共の肉体だと思っています。
 御書を勉強すると自然にそう言う結論になります。
 ですが、直接的な文証は提示できません。


直接的な文証は提示できないそうだ。御書に精通している沖浦氏が言うのだから、たぶん、正解なのだろう。

そこで冒頭に示した天台の言葉が意味を持つのだ。再掲しよう。

文無く義無きは信受すべからず

戒壇は私共の肉体である・・・この直接的な文証はないが義はある。沖浦氏はそう言いたいのだろう。

であれば、その義をとことん説明する必要がある。

 後は、学ぶ人の努力ですね。

学ぶ人の努力はそのとおりであるが、沖浦氏には別の努力が課せられていることを知るべきだ。

すなわち説明する努力である。

 御書を勉強すると自然にそう言う結論になります。

再掲であるが、これでは説明になっていないことに気がつくべきである。直接の文証はないが義はある。であるならば、それをしっかりと説明するべきである。誰もが認めざるを得ないような明快な説明を期待したい。

ということで現時点の結論は、戒壇=五体の直接的な文証は存在しない。ただし、文はないが義はある。これが沖浦氏の主張である。そしてわたくしの主張は上述のごとく、沖浦氏の説明はいまだ不十分であり、現段階では説明し切れているとは言い難い、というものである。

浅井さんて何も出来ないんですね。ただ見てるだけなんですか?もし、本当に経済が悪化するんなら止めなきゃでしょ。いつするのかって?今でしょ

たぶんこの人も、拙ブログの更新が滞っているのを見て、チョッカイというか、様子見でコメントされたのだろう。

おっしゃることは確かに正論である。

顕正会は原発問題で即時廃炉を主張している。同様の意味で経済問題においても顕正会なりの対案を示すべきだとは思う。
しかし、顕正会が懐いているシナリオというのは、日本がある程度のレベルまで疲弊する必要があるわけで、手っ取り早く言えば全日本人が罰に気づいてそこで一気に広宣流布が実現するというものである。だから経済がよくなってもらっては困るのだ。
原発の場合は放射能汚染の問題が深刻で、それこそ戒壇建立の勝地たる富士山が汚染されてしまっては元も子もないので、盛んに反対を唱えているわけである。

自分勝手なシナリオではあるけれども、顕正会的にはいちおう筋が通っているわけだ。

最後に、ユタ氏には大変ご心配をお掛けしました。わたくしのような身勝手な人間のことまで気に掛けて下さり、本当にありがたく思います。冒頭に記したごとく、単なる怠け癖でありますが、そもそもが不定期更新なので、今後も長期休載(?)をご覚悟下さい。まあ、とりあえず一週間くらいでは驚いてはいけません。もし一ヶ月更新がなかったら、その時は何かあったのだろうと思って下さい。

2013/4/17

安倍批判の三本柱  
今日は遅ればせながら三月度総幹部会の話題に入りたい。

とは言うものの、沖浦氏からのコメントを無視するわけにはまいらない。すでに決着はついているけれども、本人にその自覚がないのだから仕方がない。

 厳虎さんは、寛師教学に見られる、戒壇は本尊の住所であることに疑問がおありのようですが、寛師教学では当然そうなります。

誤解である。わたくしは日寛上人に疑問を懐いているのではなく、沖浦氏に疑問をぶつけているのだ。

 戒壇は、本尊の住所。

だから、その根拠を問うているのだ。

 ですので、その生命の器が五体であって、宝器と言います。
 これが戒壇です。


文証を示すべきである。

 戒壇は本尊安置の場所ですね。

これも文証を求めたい。

伽藍の戒壇より、人々の命の戒壇

同じく文証を求めたい。

さて、顕正新聞第1271号に入ろう。当該号は三月度総幹部会の記事を中心に組まれている。まず、一面の次のくだりが気になった。

 席上、浅井先生は「大聖人御入滅後七三〇有余年、ついに広宣流布の時が到来した」と高らかに宣言された・・・

誰が書いているのか知らないが、ずいぶん大仰である。会長講演の本文を読むと、そこまで大仰な感じがしない。もう少しトーンが抑えられているような気がするのだ。もっとも、わたくしは生の講演を聴いたわけではないので、実際の講演と文章とでは違った印象を受けるという可能性も考えられる。しかし、いずれにしても宣言などというものは年がら年中、行なうものではないだろう。上掲の言い様では、総幹部会の開催日であるところの平成二十五年三月二十八日が、特別の意義を持つようにも受け取れてしまう。編集部はそのつもりで書いたのだろうか?

それから一面で気になったのは、左下の小さな囲みである。

どうやら今回の総幹部会では人事発表と辞令授与が行なわれなかったようである。どこにもその旨の記載がないのだ。しかし、左下の囲み記事には婦人部の人事が書かれている。顔写真入りで紹介されているのは群馬支区部長だけであるが、実はその陰に隠れるようにして気になることが書かれているのだ。

第十婦人部長は武蔵野支区部長を、第十一婦人部長は福井支区部長を、第十六婦人部長は前橋支区部長を、それぞれ兼任する。

これはけっこう深刻だかもしれない。勝手な想像をめぐらせれば、支区部長クラスが次々に退転、後任に相応しい人材が育っていない、それで仕方なく部長クラスが兼任、という状況が思い浮かんでしまうのだ。これが事実であれば、まさに拡大路線の破綻である。

さて、いよいよ会長講演である。

今回の講演はわりと好印象だった。二面から四面にかけて掲載されているわけだが、カラーの図版が盛り込まれたりして、その意味でもなかなか見応えのある紙面だった。

南海トラフ巨大地震の想定避難者数(950万人)・被害額(220兆円)

関東以西の都道府県別の避難者数、東海・近畿・四国といった広域別の被害額などが書かれた、カラー刷りのキレイな図版がある。これは顕正会が作製したのだろうか? それともパクッたものか? ちょっと気になるところである。

首都圏直下地震において未曾有の被害をもたらす「火災旋風」の予想図

これもよく描けているが、独自に作成したものなのか、それとも借用か、気になるところである。

ようするに、今回の会長講演は特にツッコミどころが見当たらなかったので、上掲のような瑣末なところでイチャモンをつけるしかなかったということだ。

安倍政権の悪政は必ず裏目に

この一段も特に問題を感じなかった。あえてイチャモンをつけるならば、悪政が裏目に出るというのはやや語義矛盾のように感じられるところで、安倍政権の政策は必ず裏目に出る、結果として悪政だった、というのが正しい順序ではないかと思う。悪政が裏目に出れば善政になるのだ。いや、もちろん、これは単なるアゲアシ取りであって、必ずしも上掲が不適切な表現とは言い切れないだろう。

 安倍首相はいまTPPと、アベノミクスと、原発推進にのめり込んでいる。
 だが、必ずこれが裏目となるから、よく見ててごらんなさい。


浅井先生は今回、初めてTPP問題に踏み込んだ。これは評価に値することだ。賛成か反対かで言えば、先生は反対なのだろう。その理由を二段構えで論じているところが素晴らしい。

一つはTPPそのものの問題点を正面から論ずること。これは当たり前のことである。そしてそれ以前の問題として、自民党の変節を指摘しているのだ。

先の衆院選で「TPP大反対」を訴えた自民党の選挙ポスター

証拠資料としてポスターが二つ掲げられている。

わたくし自身、ウッカリしていたというか、この点をすっかり忘れていたので、ひじょうに感銘を受けた。TPPに賛否があるのは当然であって、どちらが正しいかは一概に言えないことだ。しかし、自ら選挙公約として掲げたものを踏みにじるとはまったくケシカラン話である。理非曲直の上から言えば、自分はTPPに賛成だが自民党のやり方には反対だ、という人がいてもおかしくないだろう。

さて、TPPの問題点であるが、浅井先生はこれを詳細に論じている。わたくし個人は、よくわからん、というのが現時点での結論だ。反対論者の意見を聞いていると確かに説得力がある。しかし、ではなぜに日本政府はTPPをやりたがっているのか、それがいまだによくわからないのだ。

 アベノミクスは、黒田日銀総裁との二人三脚になったので、いま「アベクロミクス」などと言われているが、そのうちに「アベコベミクス」になってしまう(大笑)。必ず裏目となる。

アベノミクス批判についてはすでに何度か言及しているが、こういう冗談を交えた話術が浅井先生の魅力でもある。経済の話は難しいので、それだけだと聴衆が退屈してしまう。先生はその辺の呼吸を弁えているのだろう。

さて、原発関連では、先日の停電事故に言及しているが、ネズミが原因でショートしたとのことだ。わたくしの思うに、今回は大事故には発展しなかったけれども、もしネズミで大事故が起きたらシャレにならないだろう。ずいぶんズサンなものである。

それはともかく、重要度としては次のくだりがいちばんである。

 日蓮大聖人の清浄なる仏国土をこれ以上穢すことは、断じて許されない。

TPPやアベノミクスもさることながら、やはり仏法上の動機づけとしては原発問題がいちばん重要であろう。悪政と断ずるゆえんである。

2013/4/15

這っても黒豆  
ユタ氏は謙虚な人なので、自分を偉く見せようとはしない。そこはひじょうに好感が持てるところだ。

 いや、全く仰る通り、ダメな人間です。

しかし、これは誤解である。わたくしはユタ氏をダメな人間だとは思わない。ただ、信仰に限らず何でも同じだと思うが、誰々がやっているから自分もやるというのはよくないわけで、誰がやろうがやるまいが関係なく自分の判断でやるべきが筋なのだ。

それが巌虎さんの授誡であれば、物凄く大きいことだと思うんですよね。

このように言っていただけることは嬉しいことであるが、わたくしの意見は上に書いたとおりである。

2013/4/15 7:56
投稿者:沖浦克治
 御書には、私ども自身が一大秘法であると説かれています。
 ですので、戒壇も私ども自身に自然に備わります。
 
 『今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり、聞信戒定進捨慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへばさにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、』
 (阿仏房御書)

 貴方方の寛師教学では、宝塔とは御本尊ですね?
 戒壇とはその住所でしょう?
 阿仏房が唱題する場所が、宝塔の住所だとあります。
 読めますか??
 寛師教学と言う、きわめて低い破理屈でも読めますね?
 御書読まないと駄目です。


さて、今度は沖浦氏との議論であるが、マグマグ氏の予想通り、いよいよ堂々巡りが始まったごとくである。

参考までに聞いてみよう。

宝塔とは御本尊ですね?
戒壇とはその住所でしょう?


これはおっしゃるとおりなのだが、では、その根拠はどこにあるのだろうか?

宝塔が御本尊であることは阿仏房御書を読めばわかる。問題はその次である。御本尊の住所が戒壇であるというのは、いったいどこから導き出されるのか、教えてほしいものである。

参考までに聞いてみよう・・・と書いた。そう、あくまで参考までに、である。

ようするに、これは別の議論なのだ。

すでにお忘れの人もいようかと思うので、煩瑣ながらも改めて議論の出発点を示しておこう。今調べてみたら、半月前のことだった。

2013/3/31 15:04
投稿者:沖浦克治
 今日は、厳虎さん。

 三大秘法は前にも書きましたが、衆生己心の妙法である、南無妙法蓮華経が本門の題目と本尊です。
 それを収める五体が、本門の戒壇。

(以下省略)

http://white.ap.teacup.com/ganko/1833.html#comment

五体を戒壇だと言っているのだ。さすがにこれは飛躍だろうと思って、そんなことが御書のどこに説かれているのか、どこにもないだろう、あるならばはっきりと示せ、とわたくしは追求しているのである。

わりと最近のコメントでも同様のことを言っている。

 私共が仏身ですから、その住所は戒壇です。
 突き詰めて言うなら、私共の身体が戒壇で、広義に訳すなら、その私共の活動の場所が戒壇です


http://white.ap.teacup.com/ganko/1839.html?b=10#comment

上掲には「住所は戒壇」とか「活動の場所が戒壇」とあるが、ここは特に問題にしていない。先ほど参考までに聞いてみようと書いたのは、いわばこの部分に相当するわけである。つまり、これはあながち間違いではないのだ。

私共の身体が戒壇・・・

まさにここが大問題なのである。

ところが直近のコメントではこれにまったく答えていない。おそらくは答えられない、ようは回答不能なのだろう。であれば、ここは素直に認めるべきではあるまいか?

ところでマグマグ氏は連想ゲームにひそむワナについて興味津々のごとくであるが、ワナというのは相手が引っ掛からないと意味がないので、当分は種明かしをしないことにする。

それからもう一つ余談がある。

開山上人の実相寺申状に云わく、大覚世尊、霊山虚空二処三會、二門八年の間三重の秘法を説き究むと雖も、仏滅後二千二百三十余年の間而も之れを伝えず、第三の秘法今に残る所なりと云云。権実、本迹、種脱云云。云云。

依義判文抄である。毎度のことながらnb資料室からお借りした。

過去にも何度か書いているが、わたくしは歴代上人の御指南をほとんど存じ上げない。日寛上人の御指南もよく知らないのだ。何しろナマケモノであるから、面倒臭くて読んでいられないのだ。

そういうわけで依義判文抄も読んだことがなかったのだが、今回はいちおう全文通して読んだ。いわゆる切り文の批判を免れるためには、全体を把握しておかないといけない。面倒臭がりのわたくしでも、そういうところは弁えているのだ。

さて、最近の顕正会では、事実上の国立戒壇が流行している。その根拠として用いられたのが四十九院申状である。

第三の秘法、今に残す所なり。

あれれ? これはどういうことだろうか?

日寛上人の依義判文抄には、開山上人の実相寺申状としてほぼ同一の御文が掲げられているのだ。開山上人とは日興上人の御事であろう。実相寺申状は四十九院申状のことだと考えられる。そして平成新編をお持ちの人はご存知のごとく、四十九院申状は掲載されていない。

これは平成新編の編纂に関わった人に聞いてみないとわからないことだが、単純に考えればくだんの申状は大聖人の御書ではなく日興上人の御著と判断して不収録としたのだろう。

であれば、今度は浅井先生の見解を聞きたいところだ。

先生が現宗門に反抗的であるのは当然にしても、日寛上人に反抗するとは何事か、ということなのだ。前掲のごとく、開山上人の実相寺申状に云わく、とおっしゃるわけだから先生がこれに背いているのは明々白々である。

2013/4/14

戒壇論、連想ゲーム的手法を用いての考察  
ユタ氏のコメントは微妙である。まず、ここ一連の議論をよくわからないとおっしゃる。これには少し落胆した。御法門の話は難しいので、なかなか理解できないかもしれないが、わたくしは誰が読んでもわかるように書いているつもりなので、わからないと言われると困るのだ。それから顕正会の内情を暴露する使命については、使命などという大仰なものではないが、確かにおっしゃるとおりである。しかし、次はひじょうに悩ましい。

もしまだ私がヘソ曲げて無宗教やってたら・・・

自虐的にも思えるが、どのような心境で書いているのか、そこがよくわからないところである。むしろ今の日本人の大多数は無宗教であるからして、その意味ではユタ氏がヘソを曲げていることにはならないだろう。

一緒に勧誡しましょう。巌虎さんとなら、いい信心ができそうです。

苦笑を禁じえないところだ。おいおい、それじゃダメだろう、と苦言を呈しておきたい。いや、もちろん、物凄く嬉しい気持ちではあるのだが・・・

さて、沖浦氏との議論だが、これはいちおう決着を見たようである。

 私共が仏身ですから、その住所は戒壇です。
 突き詰めて言うなら、私共の身体が戒壇で、広義に訳すなら、その私共の活動の場所が戒壇です


だから、その文証を求めているのである。

結論的にはそのものズバリの文証は存在しないのだろう。だから富士宮ボーイ掲示板でいみじくもマグマグ氏が言っているように、連想ゲーム的に答えをひねり出すしか方法がないのだ。わたくしはそれがダメだと言うつもりはない。連想ゲームはトンチンカンな答えが出てくるところに面白さがある。いわばワナな仕掛けられていて、なかなか正解にたどり着けない。しかし、正解はあるのだ。ゆえに御法門を考える上でも、連想ゲーム的な手法を用いて正解を導き出すことは可能だと思う。その確度がどれほどのものかはわからないが、まったくダメだということではないだろう。

次に興味深いデータを示そう。

戒壇 29件

創価学会公式サイトの御書検索で戒壇を調べると二十九件のヒットがある。これが多いと思うか少ないと思うかであるが、比較対照のために本尊と題目も調べてみよう。

本尊 102件
題目 140件


これで戒壇が少ないことがわかった。その理由は大聖人の御化導の順序を考えればわかる。題目→本尊→戒壇である。上掲のデータは必ずしも本門の本尊・戒壇・題目に限ったものではないのだが、それでもなお整合性があるところが素晴らしい。

戒壇は出現頻度が低いわけだが、これはわたくしのようなズボラには好都合である。ようするに本尊や題目は多過ぎて検討するのが面倒だが、戒壇はぜんぶの御文を検討することが容易に出来る。

すると、沖浦氏の言うような戒壇=五体は、どこにも見出せない。一方の戒壇=築壇は、ほとんどの御文がその意味を含んでいると考えられるのだ。

ただし、注意すべき御文が二つある。

実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字

これは直接的には築壇の概念が当てはまらない。普通に考えれば戒定慧の三学の意味に相当するのだろう。すると次の下山御消息の御文を勘案して、いわば連想ゲーム的に答えを出すしかないことになる。

教大師像法の末に出現して法華経の迹門の戒定慧の三が内、其の中の円頓の戒壇を叡山に建立・・・

ここから本門の戒定慧にも築壇が含意せられているだろうことが想像されるわけである。

さて、問題は次である。

脱益の説所と戒壇の本迹 霊山(事戒)は本、天台山(理戒)は迹。久遠と末法とは事行の戒(事戒理戒)。今日と像法とは理の戒体なり。

これが物凄く悩ましいのだ。冒頭には戒壇とあるが、最後は戒体と表現されている。あたかも戒壇=戒体のごとくだ。

さて、ここからは戒壇から少し離れることになる。全集未収録の戒法門に注目すべき御文があるのだ。

二つの足、二つの手、一つの頭、是も五戒より出でたり。

つまり、五体=五戒である。

一切衆生も五戒に依らずと云ふことなし。魚に五つのひれあり、是即ち五戒の体なり。馬に四支有りて又一頭あり、是五戒なり。之に準じて一切衆生を知んぬべし。

ひじょうに興味深い御文である。さらに続きをご覧に入れよう。

三悪道の衆生も知んぬ、五戒の体なりと云ふことを。戒は破るれども戒体は失せずと云ふことをば、是を以て意得べき事なり。

とうとう戒体という言葉が出てきた。

百六箇抄では戒壇=戒体だった。そして戒法門では五戒=五体であり、これを五戒の体と表現あそばす。五戒の体=戒体である。すると辛うじて戒壇=五体という答えが導き出せそうである。

はたして、この連想ゲームは正解なのだろうか?

これについてのわたくしの見解はいちおう用意してあるが、ここには書かないことにする。最初のほうに書いておいたように、連想ゲームにはワナが仕掛けられているのだ。そのワナに気がつかないといけない。

2013/4/12

戒壇論、延長戦  
のび太氏より迅速なるコメントをたまわった。

原理主義者が絵に描いた餅を煮て食おうが、一生眺めて暮らそうが勝手である。
まして評論しかできないものが何をのたまうか?(笑)


これも沖浦氏同様、逆ギレみたいなものであろう。

まあ、しかし、言っていることはそれなりに的を射ている。評論しか出来ない云々は、わたくしのことを意味しているのだろうけれども、それは確かにそのとおりなので、ムキになって否定するつもりはない。ただ、その評論が読むに値するかどうか、もし読むに値しないのであれば拙ブログもそろそろ店じまいを考えないといけないだろうし、それなりに読む価値があるのであればもう少し頑張ろうと思う。ちなみに、どうでもいいことを書いておくと、餅は煮るよりも焼くほうが好きである。もっとも画餅であれば、煮ても焼いても美味くはないだろうが・・・

2013/4/7 17:13
投稿者:沖浦克治
 厳虎さん、今晩は

 三大秘法は一大秘法を開いたものだと言いますね。
 一大秘法は御書に明らかです。

 『大覚世尊仏眼を以つて末法を鑒知し此の逆謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたもう、所謂法華経本門久成の釈尊宝浄世界の多宝仏高さ五百由旬広さ二百五十由旬の大宝塔の中に於て二仏座を並べしこと宛も日月の如く十方分身の諸仏は高さ五百由旬の宝樹の下に五由旬の師子の座を並べ敷き衆星の如く列座したもう、四百万億那由佗の大地に三仏二会に充満したもうの儀式は華厳寂場の華蔵世界にも勝れ真言両界の千二百余尊にも超えたり一切世間の眼なり、』
 (曾谷入道殿許御書)

 虚空会の儀式がそのままで一大秘法ですし、集約するなら、虚空に立った宝塔が一大秘法です。

 そして、その宝塔こそが、阿仏房の五体だと仰せです。

 『今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり、』
 (阿仏房御書)

 ですから、阿仏房がそのままで一大秘法です。
 開けば三大秘法。
 本門の戒壇も備わっています。

 厳虎さん、どうしてここまで明確に書かれたことを疑いますか?

 今の貴方は否定のための否定です。

 更には、、戒壇本尊本懐は御書にありません。

 御書にないことを信じ、あることを否定する。

 おかしいですね。


これはひじょうに難しい。はたして論理的に正しいのか否か、わたくしにはわからない。漠然とした印象で言わせてもらえば、無理やりコジツケているだけなのではないか、ということになる。しかし、それを明快に指摘するのは難しい。かなり複雑な論理構成なので、どこがどのように間違っているかを具体的に説明するのが困難なのだ。

五体=戒壇

そもそも、どのような話であったか、簡略に説明しておこう。沖浦氏の主張を端的に図式化すれば上掲のごとくなる。すなわち戒壇とは建物ではなく、自分の身体そのものなのだと主張するわけである。わたくしは反論した。そんなことが御書のどこに説かれているかと。沖浦氏は当初、巌虎に文証を示したところでハナッから認める気がないのだから無意味だと言って、話を打ち切ろうとした。わたくしは沖浦氏らしくないとなじった。そこで返ってきたのが前掲のコメントである。

戒壇=築壇

これがわたくしの基本的な考えである。実にシンプルだ。一方の沖浦氏は戒壇を五体であるとした。つまり、この場合、わたくしのほうが常識的な解釈をしているわけであり、沖浦氏の解釈はきわめて特殊である。ゆえに文証を求めた。

 ですから、阿仏房がそのままで一大秘法です。
 開けば三大秘法。
 本門の戒壇も備わっています。


再掲であるが、沖浦氏は二つの御書を重ね合わせて、一つの結論を導いた。上掲がその結論部分である。

う〜ん、悩ましい。

はたして論理的に正しいのか、甚だ疑問である。さりとて、それを具体的に指摘できなければ単なる感情論であり、まさにわたくしが感情的に認めたくないだけという話になってしまう。ひじょうに困ったものである。

そこで、いちおう消極的ながら、次のごとく言っておこう。

戒壇=築壇は常識的であるが、一方の戒壇=五体はきわめて特殊な解釈である。すると、その証明において沖浦氏の論述はきわめて脆弱なのではないか、仮に論理的に正しいとしてもそれが直ちに完全なる証明とはならないのではないか、すなわち現段階においては戒壇=五体を証明するための一つの手掛かりを提示したに過ぎないのではないか、とわたくしは思うのだ。

柔道になぞらえれば、いまだ一本には至っていない。技ありですらない。つまりは有効である。有効と言えば聞こえはいいが、決定打とはならない。

さて、ここからが本番である。

 三大秘法は一大秘法を開いたものだと言いますね。

これまでは論理的に正しいと仮定して書いた。いわば与えて論じたわけである。今度は奪って論ずることにしよう。

論理的に正しいかどうか以前に、実は重大な問題があるのだ。三大秘法は一大秘法を開いたものだと言われている。確かにそのとおりだが、では、いったいその根拠はどこにあるのだろうか?

以下は依義判文抄、nb資料室からの拝借である。

一大秘法とは即ち本門の本尊なり、此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為し、此の本尊を信じて妙法を唱うるを名づけて本門の題目と為すなり。故に分かって三大秘法と為すなり。 又本尊に人有り法有り、戒壇に義有り事有り、題目に信有り行有り、故に開して六義と成り、此の六義散じて八万法蔵と成る。

いわゆる三大秘法開合の相を御説明あそばす段である。まさか沖浦氏はこれを根拠に言っているわけではあるまい。何しろ日寛上人の御事を口汚く罵っているのだから、まさか都合のいいところだけ借用するような破廉恥なことは出来るはずがないのだ。

念のため、続きの御文を紹介しておこう。

本尊は万法の総体なり、故に之れを合する則んば八万法蔵は但六義と成り、亦此の六義を合する則んば但三大秘法と成り、亦三大秘法を合すれば則ち但一大秘法の本門の本尊と成る。

次が重要である。

故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり。

沖浦氏は戒壇本尊本懐論を邪義だと罵る。それでいて都合のいい部分だけは借用する。そんなことは絶対に出来まい。

シツコイようだが、再掲しよう。

 三大秘法は一大秘法を開いたものだと言いますね。

新しい宿題である。沖浦氏がやらねばならないことは、上掲を御書をもって証明することである。もしそれが不可能であれば、沖浦氏のここ一連の主張はすべて瓦解することになる。戒壇=五体はまったく証明できなかったことになるのだ。

2013/4/7

戒壇論、番外編  
昨夕から今朝にかけての沖浦氏のコメントは、その悪逆非道ぶりがよくあらわれているものだった。

 御書を引用しても、貴方が認めたくないものは認められないでしょう。

 ですので、無意味なのです。


こう言っていたわけだが、今度はわたくしの発言を逆手に取って次のごとく言うのだ。

 大聖人が一言もおっしゃられない、戒壇本尊本懐。

逆ギレみたいなものであろう。

話を戒壇論に戻そう。沖浦氏の言いぶりでは、文証はあるが巌虎に示したところで難クセをつけるだけなので無意味である、と言っているように聞こえる。もしそうならば、沖浦氏らしくないなあ、というのがわたくしの率直な感想である。相手が聞こうが聞くまいが説き伏せる、納得しようがしまいがとにかく言うことは言う、そういうタイプだと思っていたのだが、少し違ったようである。いずれにしても第三者が判断して下さるので、もし文証があれば遠慮せずに示すべきだろう。仮にわたくしが意固地になって認めようとしなくても、それが明々白々の文証であれば第三者が認めてくれるはずなのだ。

厳虎氏と沖浦氏の戒壇義おもしろかったです。(拍手)

のび太氏である。何がどのように面白かったのか、それが不明であるが、おそらく最近は各種掲示板が不調なのだろう。いや、最近ではなく、もうかなり前からずっとそのような状態が続いているようである。

論客がいない。今まで活躍していた人も、いつの間にか出てこなくなったりして、丁々発止の議論が行なわれなくなった。すると閲覧者も自ずと減ってくる。それが悪循環となって、ますます低調になる。

のび太氏は議論に参加するのではなく、観戦するのが好きなタイプなのだろう。すると、おそらく現時点では他に興味を惹くような議論が行なわれておらず、必然的に沖浦氏とわたくしとの議論に注目せざるを得ない状況なのだと思われる。

例えば、三秘抄も文上読みをすれば国立戒壇が是とも読める。原理主義者の陥穽は、字面どおり読むことが正しいと錯覚することである。

教相と観心という視点から展開するならば、原理主義は教相に捕らわれ易い側面がある。

解釈論はどこまでいっても解釈論でしかない。

のび太氏のコメントを抜粋させてもらったわけだが、きわめて模範的な問題提起である。おそらくは議論の一助というか、議論の発展を期待して、ご自身の見解を示されたのだろうと思われる。

いわく、三大秘法抄は文上読みすると国立戒壇になる、と。文上の対義語は文底だと思われるが、では、聞きたい。文底読みの場合、どのような戒壇になるのだろうか?

別にそれほど言いたくもないが、いちおう言っておこう。創価学会はかつて国立戒壇を言っていた。当然ながら三大秘法抄がその根拠である。しかし、今は言わなくなった。はたして、その総括は出来ているのだろうか?

いわく、原理主義者は字面どおりに読むことが正しいと錯覚する、と。

相手にイチャモンをつけるのは簡単であるが、では、どのように読むのが正しいのか、それが問題である。

教相と観心・・・

これまた大変な問題提起である。しかし、言っていることは先の文上読み・文底読みと同じだろう。ここで問題となるのは文底読みの是非である。観心釈という表現もある。

日蓮宗と正宗との議論で争点になるのがこれである。たとえば大聖人を御本仏と拝するのが日蓮正宗であるが、それを日蓮宗では批判する。これはいわば文底読みに対する批判であり、文底読みは勝手読みである、というのが彼らの言い分であろうと思われる。

のび太氏はお気づきであろうか、ねじれ現象とも言うべきことが起こっていることに、である。

つまり、のび太氏の論理であれば、日蓮宗こそが原理主義の親玉であり、日蓮正宗はその逆に位置することになるのだ。いったい、これはどういうことであろうか?

解釈論はどこまでいっても解釈論でしかない。

これは再掲であるが、では、解釈論に代替されるものは何か、というのが問題である。文脈上、のび太氏は現証を言わんとしているごとくである。しかし、それを言っちゃあオシマイよ、と言いたいところだ。今までの文上読みに対する文底読み、あるいは教相に対する観心、これらはいったいどうなったのだろうか?

つまり、解釈論の決着はどこまでいっても解釈論で決すべきなのである。

のび太氏のコメントを逆手に取って言わせてもらったわけだが、顕正会の、あるいはわたくしの御書の読み方が、原理主義的であり間違いであると言うのであれば、正しい読み方・正しい解釈を示すべきなのである。

もしそうでなければ、しょせんは自分勝手な解釈に過ぎないものを、文底読みだとか観心釈だとかいう装飾を施して権威づけているだけになってしまうだろう。

これは創価学会が痛烈に批判するところの日蓮正宗と、実はまったく同じであるという、イヤミな結論にならざるを得ないところなのだ。

今日はこんなところで終わりにしよう。

2013/4/6

第1270号精読  
早朝、沖浦氏からコメントを頂戴したが、何を言っているのかさっぱりわからない。まずは具体的な文証を示し、その上で説明するべきである。ようするに大聖人がどのようにおっしゃっているかが重要なのである。大聖人が言ってもいないことを、我々がああだこうだ言っても仕方がないのだ。ぜひとも、その点を踏まえて再論願いたい。

さて、顕正新聞第1270号だ。

一面はまたしても日曜勤行の指導。それと京都会館の工事進捗を伝える記事。そして二面以降が凄まじい。今号は登壇特集である。

代表決意 15
活動報告  4
体験発表  6


各地の集会での登壇がぜんぶで二十五本も載っている。例の食べ物だとか時事問題のコラムは一つもない。手抜きもいいところだ。

それはともかく中身に入ろう。代表決意はその数にもウンザリするが、内容がまたウンザリなのだ。何しろ浅井先生の講演をなぞるだけだからである。今回は当然のごとく、事実上の国立戒壇への言及がほぼ全幹部にわたっている。どれもこれも似たり寄ったりであるが、一つだけ異彩を放つ記事があったので紹介しよう。

 このたびの総幹部会における「事実上の国立戒壇」との重大指導には息を呑み、大衝撃でありました。

(中略)

 まさに先生が見つめられる広宣流布の決戦場の姿が胸に思い浮かぶ思いであり、中国の空母機動部隊が日本近海に出没し、圧倒的な核戦力で脅されて全日本人が震え上がるとき、国立戒壇建立は何年も時間がかかってしまう。
 しかしこのとき、六千万の地涌の熱願を背景に、日本を代表する国主が命かけて戒壇の大御本尊様に祈り奉る。これが「国主此の法を用いて」すなわち「事実上の戒壇建立」であり、
(以下省略)

男子部第七十一隊長の記事であるが、これは凄い。何が凄いかと言えば、具体性の高さである。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1768.html

もし時間に余裕のある人は、ぜひともリンクを開いて確認してほしい。これが拙ブログにおける「事実上の国立戒壇」批判の出発点である。今はポイントのみを紹介しておこう。

まさか国家的に建てる本門の戒壇が急拵え・安普請であるわけがない。ゆえに、本当に建てるとなると、完成までには相当の年月が掛かるはずだ。

七十一隊長は拙ブログを意識しているごとくである。彼の記事を部分的に再掲しよう。

国立戒壇建立は何年も時間がかかってしまう。

「事実上の戒壇建立」

もはや客観的には間に合わない。他国侵逼の前に国立戒壇を建てることは不可能である。彼もそれは充分に承知しているわけだ。ゆえに、戒壇建立には間に合わなくとも「事実上の戒壇建立」という新概念を用いて、それでどうにか間に合わせようとしているわけである。

次の第八十隊幹事の文章は意味不明ながらも、上述のことを思い合わせるならば、伝わるものがあるはずである。

 今回「事実上の国立戒壇」と改めてその緊急性を示されたことに、これが浅井先生のお心なのかと思い、改めて日本には残された時間が少ないこと、(以下省略)

緊急性の意味が不明なのである。しかし、ぶっちゃけ言えば、すでに戒壇建立は間に合わない、せめて事実上の国立戒壇は間に合わせよう、という意味に他ならないだろう。

もう一つ、婦人部三重支区部長の記事を紹介しておく。

めざすべきゴールは「事実上の国立戒壇」の実現と六千万地涌出現!

あれ? おかしいなあ? そこがゴールだったっけ?

たぶん、熱心な活動会員であれば、わたくしを物凄くイジワルな人間だと思うかもしれないが、あくまで客観的な事実を述べているに過ぎない。そこはゴールではなく、ゴールの四キロ手前なのである。

顕正会側の論客ならば、さしずめ「事実上のゴール」と言ってくるかもしれない。気持ちはわかるし、善意に解釈すればそれもあながち間違いとは言えないだろう。ただし、浅井先生と歩むはずだった四キロの道のりはこの先にある。本当のゴールはまだ先なのだ。はたして間に合うだろうか?

さて、話を少し変えよう。次の二つも代表決意であるが、活動会員の心理をさぐる意味で注目に値すると思う。

遅れた戦いをここから一気に進めてまいります。

遅れた戦いを一気に挽回し、三月達成を固く決意するものであります。

上段の婦人部五所川原支区部長は誓願比八〇%の御奉公が叶っていると言いながら、遅れた戦いなどと言っているのだ。下段の女子部第二十二幹事・第八区長は具体的な数字を書いていないけれども、そもそも顕正新聞に登場する人たちは活躍しているわけであり、結果を出しているからこそ幹部にも登用され、なおかつ記事にもなるのだ。

いったい何が遅れているのだろうか?

これは簡単なことである。本年は一千万達成の年である。また、それ以前の青写真ではすでに広宣流布が達成しているはずだったのだ。代表決意をするほどの大幹部であれば、そうした過去の浅井発言を承知している。すると、目の前のノルマを達成したくらいでは、とうてい追いつかない。

さらに穿った見方をすれば、目の前のノルマを達成するのも難しくなっているのだろう。顕正新聞に載る人は活躍している。しかし、それは顕正会全体の規模からすれば微々たるものであって、実際にはノルマを達成できずに苦しんでいる人のほうが圧倒的に多い。

たぶん、上掲の二幹部の書いていることは、こうした実態を図らずも吐露するものだったと思われるのだ。

さて、他の記事も紹介しておこう。

「先生が書かれていることは凄い!」
 元自衛隊「顕正会対策部」の壮年が感歎


婦人部福島支区支区長の記事の見出しであるが、自衛隊に顕正会対策部があるとは驚きである。

すでに六ヶ所村の放射線濃度は人が住めるような数値ではない

婦人部津軽支区の班長が書いているわけだが、これは疑問である。具体的な数値が書かれていないことがまずもって問題である。そしてわたくしの聞いたところでは、揮発性の放射性物質は捕捉するのが大変なので、そのまま大気中に放出しているのが実情とのことだ。しかし、半減期がきわめて短いこともあり、大気中に放出すると同時に拡散・希釈されて、無害になる。もちろん、無害かどうかについては異論もあるわけだが、実際の放射線濃度は問題にならないくらい低いとのことだ。わたくしとて素人の俄か勉強に過ぎないけれども、ともかく人が住めないくらいの濃度と言うのであれば、それは重大問題であるからして、確実な資料を提示すべきだろう。

 そして私事ではありますが、今月、夫の転勤でアメリカへ移り住むことになりました。

以前にも取り上げた女子部の総班長である。アメリカへ行くのは相当の覚悟であろう。

ルーマニアから来日 仏法に巡り会う

かと思えば、今度はルーマニアの女性である。こちらは本年一月三十一日入信の平会員であるからして、はたしてこの先どこまで信心を続けることが出来るか、まったくの未知数である。

2013/4/4

第1269号拾い読み  
どうやら沖浦氏との議論も結末を迎えたようである。

 阿仏房の五体がそのまま宝塔と仰せです。

 虚空会で虚空に湧現した宝塔がそのまま阿仏房なのです。
 ですから、阿仏房がいる所が宝塔の住所ですね。
 宝塔の住所を戒壇と言うのです。

 阿仏房がいる場所がそのまま戒壇です。
 そして、大聖人のお題目は先代とは異なって、自行化他の本門の題目です。
 当然阿仏房は自行化他の行者ですから、その住所がそのままで本門の戒壇です。


残念ながら宿題としては失格である。ぜんぜん説明になっていない。それどころか、またしても言っていることが変わってしまっている。

三大秘法は、衆生己心の妙法である、南無妙法蓮華経が本門の題目と本尊。それを収める五体が、本門の戒壇。

こう言っていたはずである。すなわち五体が戒壇であると。ところが今度は五体が戒壇なのではなく、その住所が戒壇だと言っているわけだ。よくもまあ、コロコロ変わる人である。

いずれにしても説明がまるで出来ていない。これは読者の誰もが同感のはずだ。

さて、そういうわけで、今日は顕正新聞第1269号の話題を取り上げよう。一面の記事は日曜勤行の指導であるが、これについては特に申し上げることはない。強いて言えば、前の国家主席が来日した時、国会議員が一人十秒ずつの割り当てで握手してもらって感激していた中、池田氏だけが特別室での面会の栄に浴したという話が印象的だった。わたくしの知る限り、浅井先生は先般の公明党訪中についてまったく言及していない。その一方で今頃になって何年も前の話をしている。この辺のチグハグさが気になるところだが、まあ、どうでもいいことだ。

二面以降は班長会特集だ。

わたくしは総男子部長の記事が気になった。彼は四十九院申状の「国主此の法を用いて兵乱に勝つべきの秘術なり」を挙げて、次のように言っているのだ。

まさしく事実上の国立戒壇の意義を示す御文

より正確に言えば、彼が言っているのではなく、浅井先生が言っているわけだが、そこに「意義を示す」と付け加えたのは彼自身である。

「事実上の国立戒壇」はひじょうにアイマイな表現である。そこにあえて被せるように意義という語彙を持ってきたところがなんともイヤラシイところだ。

正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。

絵里奈氏との議論の蒸し返しになりかねないが、わたくしには似ているように思えて仕方がないのだ。

義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処、即ちこれ義理・事の戒壇に当るなり。

わたくしが事実上の国立戒壇は義の戒壇であるはずだと主張したのは、まさに日寛上人の御指南に基づいてのことである。総男子部長が意義などという言葉を使うものだから、余計にそう思えて仕方ない。前もって建ててしまった正本堂とは正反対ではあるものの、建ってもいない戒壇を事実上の国立戒壇など言うのはおかしなことである。これはもう二度と言わないほうがいいだろうと忠告しておきたい。

さて、この件に関しては、また次号の時に取り上げることになるので、これくらいにしておこう。

染色体異常の奇形児が急増!
 大病院勤務の組長の話に衝撃


これは茨城県在住の婦人部支区長補の活動報告であるが、物凄くセンセーショナルな見出しだ。

本文を読むとかなり専門的なことが書かれている。他人のの話を紹介しているにしてはやたらと詳しいのでそこが不審だが、ともかく次の一節が凄まじい。

 ところが、このところ入院してくる出生児の染色体異常は若い番号のもので、一人の赤ちゃんにおいて心臓の奇形、両眼が離れている、耳の位置が低い、鼻が低く平面的である等の異常が一度に現われていたり、また指が六本ある、肛門がない、気管支が通常よりも狭い等の異常が複合して出ているとも話していました。

凄まじい内容である。染色体の番号がどうのこうのと書かれているが、そこは素人には難し過ぎる。しかし、それ以降の記述は誰が読んでもわかるだろう。

これらがすべて本当ならば大変なことだ。原発事故から二年、この先どうなるのだろうと暗澹たる気持ちにさせる記事である。

学会では池田大作を「御本仏」と
 宗門末寺では住職がカネに執着

ついに正師のもと本物の信心が・・・


婦人部班長会における「正義にめざめて」の登壇である。昭和十一年生まれで、昭和三十四年に創価学会に入り、五十五年に宗門末寺に移籍、そして顕正会へは平成二十年に入ったらしい。かれこれ五年も経つのに、いまだに平会員なのが不審な点かもしれない。もっとも年齢的にはそれが相当かもしれないが・・・

それはともかく、次の文章が気になった。

学会では恐れ気もなく「池田大作先生は御本仏、香峯子夫人は千日尼」などと言い放ち・・・

いわゆる会長本仏論問題であるが、さすがにそこまでの露骨な表現はなかったのではないかと思う。それとも活字化されなかっただけで、クチコミではそのようなことが言われていたのだろうか?

ちなみに、池田夫人が千日尼というのは、まったくの初耳だ。池田氏が大聖人で夫人が千日尼。ややもすれば大聖人と千日尼が夫婦関係のように錯覚しかねないところだ。まったくケシカラン話である。

正師・・・

以前にも書いたが、この表現は疑問である。わたくしは思うのだ、顕正会員に池田本仏論を云々する資格はないと、自分たちだって同じじゃないかと。

今となっては浅井先生の神格化が著しい。神格化が謗法チックだと思うならば、文字どおりの仏格化、すなわち本仏化である。顕正会員の熱心さを見るならば、今は池田本仏論よりも浅井本仏論のほうが遥かに深刻であろう。


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