2013/5/31

教子氏の怪しげな情報について  
いつものことながらバーズ氏の着眼点は素晴らしい。

ひょとしたら、中等部や高等部があるのかなと思いまして・・・

ようするに、わたくしが顕正新聞の記事にイチャモンをつけたことに対して、反論を試みようとしたのだが、その目のつけどころが素晴らしいのだ。普通ならそこまで調べないだろう、そんなの決まり切ったことである、というような点まで調べ上げるのだ。この姿勢は敬服に値する。

大石寺関係団体・・・

その余慶とでも言うべきなのだろうか、上野小学校のホームページから思わぬ収穫を得ることになった。

当然ながら上掲は創価学会を意味するのだろう。大石寺そのものは由緒ある寺院なので問題ないが、おそらく公立学校の立場としては特定の宗教団体の名前を出すことを控えざるを得ないのだろうと思われる。それにしても大石寺関係団体とは凄い表現である。

大石寺無関係団体(言わずと知れたアレ)はいつも無関係だね

これは諸般の事情通氏のコメントだが、まあ、大した意味はないのだろう。バーズ氏のコメントに触発されて、ちょっとイヤミを書いてみたくなったのだと思われる。

さて、次が問題だ。

 結論から言いますと、この女子部 総班長たるオバサンは嘘を付いてます。そう、『成り済まし』です。

 考えてみて下さい。いくら勇ましい女性だって、痴漢をされた事をさも【武勇伝】の如く
『私、痴漢を捕まえたのよ(笑)』
なぁんて、言うだろうか?
 実際に痴漢に遭った女性は、親にも言えない!警察にも言えない。
 この総班長オバサンは、目立ちたいだけ!なんです。
 本物の被害女性への冒涜です。


オバサン・・・

まずはこれがひじょうに気になった。教子氏はくだんの総班長よりも若いらしいが、だからどうしたと言っておきたいところである。教子氏だって、そのうちオバサンになるのだ。

それはともかく、なぜにナリスマシだと断言できるのか、そこがわたくしにはまったく理解できない。上掲にはその理由らしきものが書かれているけれども、それはあくまで一面的な見方に過ぎない。ようするに、一般的には教子氏の指摘するように、親にも警察にも言えないような場合が多いのだろう。しかし、マレには勇敢なタイプもいるわけだ。それがくだんの総班長である。ゆえに教子氏の所論は何か決定的な証拠がない限り、まったく説得力を持たない。

 さて、私のブログで
【ひき逃げをした顕正会 信者(不良少年)】
をアップしました。おかげさまで、大反響でした。


教子氏は大馬鹿野郎だ。

バーズ氏から再三にわたって指摘されているにもかかわらず、まったく改まっていない。反省できないタイプということか? あるいは何がどのように間違っているか理解できないのだろうか? ひじょうに面倒臭いけれども、大事なことなので書いておきたい。

 8日午前7時50分ごろ、横須賀市武3の県道交差点で、同市に住む在日朝鮮人の定時制高1年の少年(16)が運転する原付きバイクが、横断歩道を渡っていた小学4年生の女児(9)をはねた。

これは教子氏のブログである。いちおうリンクを貼っておこう。

http://ameblo.jp/kyouiku-iinkai/entry-11521145445.html

在日朝鮮人・・・

わたくしはすでにこの時点でおかしいと思った。こんなニュース報道があるはずがない。

 8日午前7時50分ごろ、神奈川県横須賀市武の県道交差点で、横断歩道を歩いて渡っていた同市の小学4年の女児(9)が、ミニバイクにはねられた。女児は右太ももに軽傷を負った。

 県警横須賀署は自動車運転過失傷害と道交法(救護措置義務)違反の現行犯で、ミニバイクに乗っていた同市の定時制高校1年の少年(16)を逮捕した。少年は容疑を認めた上で、「免許も持ってない」と供述しているといい、道交法違反(無免許運転)容疑でも調べる。

 同署によると、事故直前に警戒中の白バイが、ヘルメットを着用せずにミニバイクを運転する少年を発見し、サイレンを鳴らして追跡していた。少年は事故後に逃走しようとしたが、近くで交通取り締まり中の署員が取り押さえた。

 現場は信号機のある十字路。女児は登校途中だったという。


http://sankei.jp.msn.com/region/news/130408/kng13040813340006-n1.htm

いずれリンクは切れてしまうと思うが、これは産経ニュースのウェブ版である。

在日朝鮮人とはどこにも書かれていないではないか?

教子氏はこの釈明をしなければいけない。それともどこか産経以外の他のニュースではその旨の報道をしたのだろうか? 正規のニュースソースとしてそのような情報が流れるとはとうてい思えないのだが、いかがだろうか?

次はいよいよ大馬鹿野郎の本領発揮である。

 実は最近になって、この無免許 ひき逃げ少年が、顕正会(けんしょう会・新興宗教)の信者だと言う事が発覚しました。

以下、馬鹿馬鹿しい限りだが、大事なところなので全文転載する。

 私(教育委員会)の上司たる「教育長」と、神奈川県警 生活安全部の「警部補」が→大学の同期生で親友。現在も付き合い(飲み会)が有る、大の仲良し。

警部補『少年は、一応 反省してはいるが、謝罪の言葉は まだ無い。女の子に対しても
『悪いのは俺だけど、飛び出して来る女の子も、イケナイんです。普通 飛び出さないっしょ(笑)

 女の子は耳が悪いんすか?まぁ白バイのサイレンも聞こえづらいんすかね?

 あのオマワリも、俺なんか捕まえないで、強盗とかヒッタクリ、暴走族を捕まえれば良かったのに…

 これで俺も、少年院行きだよね(泣)』

と言う始末。

 少年の自宅を家宅捜索したら、浅井昭衛(顕正会の教祖)の本や顕正新聞が多数有り、まるでゴミ屋敷だった。』

以上、警部補が→親友の教育長に対して語った内容。


ツッコミどころ満載で、何をどのように書いたらよいのか、迷うところだ。

客観的な立場で書けば、少年が顕正会員であるかどうか、それはわからない。わたくしには確かめようのないことだ。しかし、こんなこと書いちゃって大丈夫なの、というのが普通の感覚だと思う。警部補が教育長に語ったこと自体、守秘義務違反であり、それを教育長が教子氏に伝え、それがさらにこうしてネット上に漏洩してしまっているのだ。

警部補と教育長は親友だそうである。であれば、酒の場において、いわゆる「ここだけの話」として上掲のような会話があったとしても不思議はない。しかし、それを部下の教子氏に漏らしてはいけないだろう。ましてやそれを教子氏がブログに書いてしまうのは言語道断の所業である。上司の顔を潰すだけでなく、自分自身の信頼をも失う行為なのだ。

つまり、本当ならば教子氏は知っていても書かないのが筋なのだ。ところがである。文面から伝わってくるのは自慢である。今一度、コメントを再掲しよう。

 さて、私のブログで
【ひき逃げをした顕正会 信者(不良少年)】
をアップしました。おかげさまで、大反響でした。


わたくしやバーズ氏はともかくとして、はたして一般の読者がどのように感じるか、ひじょうに気になるところである。まさに教子氏に必要なのは冷静な自己分析だ。

それと家宅捜索が気になった。素人感覚ではなぜ家宅捜索が必要なのかがわからない。必要性の認められない家宅捜索が許可されるとも思えない。たとえば殺人犯がいて、いまだに凶器が発見されないとしよう。すると自宅のどこかに隠している可能性もあるので、これならば捜索令状が出るだろう。もちろん犯人が特定されている場合の話である。ひるがえって、くだんのひき逃げを起こした少年の自宅がなぜに捜査の対象になるのか、わたくしにはまったく理解できない。教子氏にはぜひともこの点についてのご教示をお願いしたいものである。

最後にもう一言だけ言っておくと、理屈はともかく感覚的には、いかにもウソ臭い、というのが率直な感想である。

今回の話は教子氏が情報源であって、他には傍証となるべきナニモノも存在しないのだ。ゆえに教子氏の創作である可能性もあり得るわけで、まさにカギカッコの会話そのものがそれを物語っているようにも感じられるところである。又聞きに過ぎない話をあれほど克明に再現できるものなのか、ということである。

しかし、面白いものだ。

わたくしとバーズ氏は立場が異なる。顕正会を批判する立場と擁護する立場。ある意味、正反対である。ところがここに教子氏が加わると俄然、違ってくる。わたくしとバーズ氏の距離が一気に縮まってくるように思えるのだ。



同日追記:更新直後、在日朝鮮人云々について、次のニュースを発見したので、全文転載する。

ひき逃げ:白バイ追跡中の少年、女児はね軽傷−−横須賀 /神奈川
毎日新聞 2013年04月09日 地方版

 8日午前7時50分ごろ、横須賀市武3の県道交差点で、同市に住む在日朝鮮人の定時制高1年の少年(16)が運転する原付きバイクが、横断歩道を渡っていた小学4年生の女児(9)をはねた。少年は逃走したが、近くにいた横須賀署員が取り押さえ、自動車運転過失傷害と道路交通法違反(ひき逃げ)の両容疑で現行犯逮捕した。女児は右足打撲の軽傷。

 同署によると、少年は交差点の約200メートル手前で、ヘルメットをかぶらずにバイクを運転していたところを県警第1交通機動隊の白バイに見つかり、追跡されていた。女児をはねた際に転倒し走って逃げたが、近くで通学中の児童を見守っていた同署員が数十メートル追いかけて取り押さえたという。

 追跡中の事故について、同隊は「事実を詳細に確認したうえで適切に対応します」としている。【河津啓介】


http://mainichi.jp/area/kanagawa/news/20130409ddlk14040234000c.html

これは意外だった。この件について、教子氏には謹んで訂正及びお詫び致します。

2013/5/26

顕正新聞第1274号拾い読み  
たいぶ間が空いてしまったが、四月度総幹部会の記事を片付けたいと思う。会長講演はすでに取り上げた。次に来るのは代表決意である。すなわち大幹部たちの決意発表であるが、めずらしくも今回の総幹部会ではこの登壇がなかった。そこで次は活動報告である。

「早く先生を佐渡に…」と全員奮起
 佐渡支区集会に233名の大結集!


婦人部佐渡支区部長の登壇である。ご記憶の人も多いかと思うが、少し前に女子部でも動きがあった。佐渡を中心に戦う区が結成されたのだ。しかし、失礼ながらその区長はかなりの年齢である。上掲の婦人部支区部長とどっこいどっこいの年齢なのではないかと思われる。過去にも何度か指摘したことだが、もはや女子部と婦人部との境界線がまったくわからなくなっているのが現状だ。

さらには次のような問題が存する。

毎週二泊三日の日程で新潟市から佐渡に渡り・・・

佐渡支区部長は佐渡に住んでおらず、わざわざ毎週泊り掛けで通っているという。確かくだんの女子部区長も佐渡在住ではなかったはずだ。

これはもう、かなり無理をしているという印象が拭えない。

さて、この話はまた近々取り上げる機会があると思うので、話を次に進めるが、今度は女子部の総班長である。

取り押えた痴漢は警部補だった!
 不当逮捕の神奈川県警また不祥事


上掲のごとく、この人は勇敢にも痴漢を捕まえたのであるが、なんと驚くことにはこの人自身が痴漢の被害者であり、いわばその場で相手を返り討ちにしたわけである。登壇ではその時の様子を事細かに説明し、さらに次のように言っている。

 翌朝、早速、NHKのニュースを始め、各局のテレビの全国ニュースで神奈川県警・警部補が痴漢行為で逮捕されたことが実名で報道され、インターネットのニュースサイトにも掲載されておりました。

こんなことを書けば思わず調べたくなるのが人情だ。ネット上の情報は上書きされるか、もしくは時間が経つと埋没していく。次々に新しい事件が起こるからだ。そういうわけで、くだんの事件は徐々に見つけにくくなっているけれども、まだ残っているようである。

ニュースサイトの記事と登壇記事を読み比べると、細かい点で異なるところがある。たぶん登壇のほうが正確なのだろう。ニュース報道など、いい加減なものである。単発の記事はそれっきりで誰も検証しない。

わたくし的にはいろいろ面白い点があって、それを書くだけでも相当の紙数が必要なのだが、おそらく客観的にはつまらないのでやめておこう。一つだけポイントを示しておく。

(実名+顔写真)×(年齢+職業)

本人は勇ましい人なので、あまり意に介していないのだろうが、まさに個人情報ダダ漏れ状態なのだ。ご存知のごとく、顕正新聞には実名と顔写真が載っている。一方、一般のニュース報道では実名も顔写真も出ていない。痴漢をやっつけるような勇ましい人ではあるが、いちおうは痴漢の被害者なのでプライバシー保護の観点から報道しないのが普通である。しかし、その代わりと言うべきなのか、年齢と職業が書かれている。

つまり、顕正新聞と一般報道の両方を見れば、彼女のことが相当部分わかってしまうのだ。

さて、次は体験発表である。

特に書きたいことがあるわけではないが、三つの発表に共通する部分を書き出してみようと思う。

作業中に四五〇トンのプレス機械に手を挟まれ、左手は親指と小指を残して他三本の指を根本から切断され、右手は人さし指と中指を第一関節から上を切断するという大事故に・・・

宿命に縛られ死ぬことばかりを…

首吊りロープを用意し「死にたい」

たぶん、ここから立ち直ったという意味を言っているのだと思うが、しかし、何と言うべきか、少し興ざめのような気がしないでもない。いや、もちろん、これはわたくしの主観に過ぎないことをお断りしておくが、それにしても強烈過ぎるものばかりだ。

そして今回は正義にめざめてに力を入れたというべきか、この手の登壇が三本あって、さらに取り上げなかったが活動報告の中でも創価学会の若者が入会したと書かれている。

以下は婦人部の班長さんの登壇だ。

宗門僧侶の堕落 地元では有名!
「法師の皮を著た畜生」目の当たり


すでに見出しからして凄いことになっている。

 私の家は大石寺の塔中・久成坊の墓檀家で、私は大石寺のすぐそばの富士宮市上野で生まれ育ちました。

なるほど、こういう人が顕正会に入ってくれば、それなりにインパクトがある。いろいろ紹介したいところだが、まず、わたくしが注目したのは次のくだりである。

 私が通っていた上野小学校では五・六年生になると、大石寺の「大坊」に居住する所化僧たちが毎年、三十人ほど転校してきます。

三十人は凄い。もしこの人たちが修行を積んで全員僧侶になるとしたならば、大石寺は僧侶が増え過ぎて困るのではないか? それとも引退する僧侶を見込めばバランスが取れているのだろうか?

おそらく、この登壇者が小学生の頃は、創価学会が離反する前だったのだろう。ゆえに、その頃に比べれば、今は所化さんもそれほど多くはいないと思うのだが、いかがだろうか?

さらに次の記述が悩ましい。所化さんたちの学校での振る舞いを次のごとく描写している。

 しかし中学・高校・大学と上がるにつれ、そのほとんどの者たちが、大石寺内の上下関係の締めつけからなのか、ストレスを発散するかのように、学校では態度が悪く不良となり、また生命力の弱い者はイジメの対象になっていました。

これは事実なのだろうか?

彼女の同級生に大石寺の所化さんがいる。三十人もいるとなると、それこそ十人十色であり、いい人もいれば悪い人もいるのが普通ではないかと思う。ところが彼女は上掲のごとく、所化さんたちは不良かイジメの対象か、その二つに一つのように書いてしまっているのだ。主観が混じっていると言わざるを得ないのではないか?

もう一つツッコミを入れておくと、中学・高校・大学云々と。これはもうダメだろう。中学はまだしも高校・大学となると、三十人が揃って同じところに進学するとは限らない。当然、彼女も同じところに進学していなければいけないのだ。

 地元では
 「悪いことをするのは大坊」
 「スキンヘッドと言えば、地元の暴力団か大坊」
 と言われるほど、夜な夜な繰り出しては酒を飲み、女遊びをしていたのは有名な話です。


このくだり、もしウソがあるとしたら大坊だろう。わたくしの感覚では外部の人間が大坊などと呼称することはあり得ないのだ。たとえば塔中がわかりやすい。○○坊だとか△△坊など、大石寺の檀家であれば理解しているかもしれないが、そうじゃない人は知らないだろう。大石寺の主要な建物であれば、奉安堂だとか御影堂だとか、あるいは三門だとか、それくらいはわかっているかもしれないが、さすがに事細かに知っている人は少ないはずである。

ましてや遊びに行くとしたら富士宮だろうと思われるが、まさかそこで大坊と言われることは考えられない。普通なら大石寺だろう。あそこのスキンヘッドの人って誰? ああ、あの人は大石寺の坊さんらしいよ。

さて、キリがないので、次のくだりを紹介して終わりにしよう。

 また地元住民は「宗門と学会とどちらに付いたら損か、得か」で行ったり来たりしている信徒の姿を見てきたので・・・

これは物凄く重要な視点である。我々は正しいか間違っているかの二者択一だけでは行動しない。他にもさまざまな要素があるのだ。その一つが損か得かである。宗教的信念の上から言えば、損か得かではなく正しいか間違っているかで行動すべきが筋である。しかし、現実は違うのだ。このわたくしにしても、こうして偉そうなことを書いてはいるものの、イザという時にはどっちに転ぶかわからないのだ。

2013/5/25

大石寺への郷愁  
一年前の拙稿にコメントがついた。しかも英語である。そのまま放置するのもどうかと思い、いちおう翻訳ソフトのようなものを使って内容を理解することに努めた。しかし、英語の原文が悪いのかソフトの精度の問題なのかわからないが、まったくわけのわからない日本語に翻訳されてしまった。そういうわけでコメント投稿者には申し訳ないが、この件はお蔵入りとしたい。

さて、御書の件であるが、これがまたひじょうに厄介である。ようするにキーワード検索には限界があるのだ。意味内容まで検索可能なシステムがあればいいのだが、たぶんそれは無理だろう。すると、地道に拝読を続けていくしかないというのが結論である。いわゆる、学問に王道なし、なのだ。

今朝、たまたま拝読していた御書に、次の一節があった。

善無畏等が大日経は法華経に勝れたりといふ。法華経の心をしらざるのみならず、大日経をもしらざる者なり。

たぶん、意中の御文とは異なるのだろうが、何となく雰囲気的にはこういった感じではないかと思う。いちおう、今後も気に留めておくので、見つかり次第、報告させていただくつもりだ。

こんばんは。巌虎さんは“顕正会試練と忍従の歴史”をご存知でしょうか?顕正会視点で書かれた内容ですので、かなり宗門が悪く書かれていますが、そこに登場した『悪の』関係者ほぼ全員が逝去されていること考えると、時代を感じます。
『大化城』と聞いて、昔あった大石寺の堂宇だとピンと来る人、どれだけいるのでしょうか?
因みに私は正本堂ですら、ピンと来ません。世代間の何とかなのかもしれませんが、今の30代以下の中途採用……もとい、中途入信者はそういう感覚です。


いわゆる「御遺命守護の戦い」と「試練と忍従の歴史」は、顕正会の歴史を学ぶための教科書であり、必読書だった。ゆえに自覚のある顕正会員ならば、誰もが一度は目を通していたし、熱心な活動会員ともなれば何度も繰り返し読んで、大袈裟に言えば丸暗記してしまったのではないかと思われるくらいのツワモノもいたものだった。

わたくしはそれほど熱心な活動会員ではなかったが、たぶん二三回は読んだと思う。

その後、一般の書店にも並んだ、「なぜ学会員は功徳を失ったか」や「学会・宗門、抗争の根本原因」は、まさに「御遺命守護の戦い」をベースに書かれており、また、折伏理論書改訂版や平成十六年の一国諫暁書なども同様である。ともかく御遺命守護こそが顕正会の大看板であるからして、浅井先生は重複を承知しつつも何度も同じ内容の本を書いているわけだ。

逆に「試練と忍従」は、ほとんどあの一冊だけと言っても過言ではなく、それがために今でも組織内では読み継がれているのではないかと思われる。

ある意味、御遺命守護に比して潤色が少なく、わりと好感の持てる一冊、それが試練と忍従なのだと思う。

因みに私は正本堂ですら、ピンと来ません。

これは当然だかもしれない。平成十年に御遷座があって、その後直ちに解体されてしまったのだ。あれからすでに十五年。当時、赤ん坊だった人は絶対に知り得ないだろうし、年齢はどうであれ正宗と無縁の人生を送っている人にとっては知らなくて当然のことなのだ。東京タワーであるとか東京スカイツリーであれば報道もたくさんある。しかし、しょせんは一宗教団体の施設に過ぎない、それが正本堂だったのだ。

ちなみに今の奉安堂も同じである。一宗教団体の施設に過ぎない意味においては同じなのだ。

もっとも、こんなことを書くと法華講の諸氏から文句を言われそうだが、まあ、しかし、客観的には上述のごとくであって、こればかりはどうしようもないことなのだ。

こうした観点からすると、顕正会が国立戒壇を主張するのはなかなか筋の通ったことであり、まさしく未来の大理想そのものである。

『大化城』と聞いて、昔あった大石寺の堂宇だとピンと来る人、どれだけいるのでしょうか?

正本堂すら知らないとすれば、大化城はなおさらのことだろう。試練と忍従にはこの大化城のことが出てくる。いわば、ここが試練と忍従の時代から御遺命守護の時代へと移る、ターニングポイントのような場所なのである。当時の妙信講員はもとより後の顕正会員にとっても思い入れのある場所なのだ。不思議なもので、実際にそこに行ったことはないはずなのに、あの本を読むと何となく郷愁のようなものを感じるのである。それはたぶん浅井先生の文章力によるのだろうし、熱心な活動会員たちであれば感情移入しやすいという面もあるだろう。

彼らが顕正会員の身分のままで、晴れて御登山の叶う日が来るとしたら、これほどの感慨無量もあるまいと思う。

2013/5/19

記憶の糸を手繰って  
桜月氏のコメントはきわめて重要な視点であろうと思う。

日蓮正宗に責任があるとすれば・・・

以前、邪義破折班が浅井先生を徹底的にやっつけたことがあった。ネット上にその全文が出ているので、わたくしもいちおうは目を通しているが、いかがなものかと思わざるを得ない部分がいくつかあった。いや、もちろん、なかなか鋭いところもあるわけだが、逆にずいぶんとトンチンカンなことを書いているなあと思う部分もあった。

これは書いている人たちが若いからである。この若いの意味は青二才だとかそういう侮蔑の意味ではなく、ようは当事者ではないということである。恐れながら申せば、御当代上人も当事者ではなかった。当時、妙信講と折衝に当たっていたのは上人の御父君であり、もう一人が現在の御隠尊猊下である。

年月の経つのはまことに早い。今となっては実感が持てないが、当時の阿部教学部長はいわば若手のホープだった。いわゆる宗門首脳部では最年少だった。浅井先生はさらに若かったのだ。

それが今は八十を越えているのだから、早いものである。

さて、話を戻すが、すでに当事者の大半が物故者となりつつあるのが今日であり、宗門においてはすでに当時のことをつぶさに知る人がほとんどいない状況なのだと思われる。ゆえに邪義破折班が見当外れの批判を書くのは無理からぬことなのだ。単に過去の文書の上っ面を読んでいるだけでは、わからないこともたくさんあるわけである。

もはや、このような状況では、責任を感ずること自体が難しい。ゆえに、おそらくはこのままズルズルと、いたずらに時間だけが経過していくのだろう。悲しい現実である。

2013/5/19 2:15
投稿者:昔の名前で出ています
厳虎様失礼いたします。
以前 厳虎様は 法華経を理解したと思う事は 解ったつもりか解ったふりをしているだけで法華経ではない と言う御書の一文をあげられていたと思います。
あれはなんと言う御書の一文でしたでしょうか
お忙しい所 大変申し訳ありません。


今日未明に上掲のコメントが入った。いきなりこういう質問をされても困る。何しろ付け焼き刃教学であり、スリハンドク状態なので、適切な御書が思い浮かばないのだ。

当世も法華経をば信じたるやうなれども、法華経にてはなきなり。

さしあたって開目抄の当該御文を想起したが、おそらくは違うのだろう。なぜならば同抄には次のようなくだりもあるからだ。

 されば日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども・・・

法華経の理解においては天台伝教に及ばないと。

と思いきや、立正観抄では次のごとく仰せなのだ。

本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず、何に況んや菩薩・凡夫をや。

開目抄と立正観抄では自語相違と思えるほどの違いがある。

ところで理深解微をご存知だろうか?

これはいわば念仏宗側の婉曲的な法華経批判なのだ。法華経を直接的には批判せず、法華経はありがたい教えである、けれどもあまりにも難し過ぎて凡夫の我々には理解できない、ゆえに念仏を唱えて極楽往生し、そこで法華経を聞いて悟りを得るのだと、大雑把に言えばそんな理屈のようである。確かに法華経は難信難解とも言われている。この意味で法華経は難行であり念仏は易行であると、まあ、こんな感じだろうか?

つまり、わかったつもりでいても、実は何もわかっていない、というのは念仏宗側の言い分でもあるわけだ。

ただし、話を戻して、大聖人が仰っている意味であれば、やはり最初に示した御文が相当と思う。類文としては報恩抄の次の一節が挙げられる。

法華経をよむ人の此の経を信ずるやうなれども、諸経にても得道なるとをもうは、此の経をよまぬ人なり。

大聖人の視点というか論点は、わかった・わからないではなく、得道・無得道の違いにある。しかし、往いては同じことなのだろう。ようするに、当時も今も同じ考え方として、御経はすべてありがたいものだ、法華経もありがたいが観経もありがたい、大日経もありがたい、という考え方があって、それに大聖人は異を唱えているわけである。連中はわかったようなことを言っているが何もわかっておらんのだと。

ちなみに立正観抄はほぼ御相伝書に近い存在なのだろう。いわゆる種脱相対の領域に入れば天台伝教など物の数ならずなのだ。しかし、この辺は御書の真偽問題も視野に入ってきて、ひじょうに難解な議論にならざるを得ない。わたくしの出る幕ではないということだ。

2013/5/14

二氏へのお返事を兼ねて  
櫻川氏より重要な指摘をたまわった。

「昨年の三・一一以降、日本列島の地殻は極めて不安定になっている。この四月も…」(顕正新聞 第1274号)
 これは、不味いでしょう。「昨年」じゃなく、「一昨年」ですよね。


これはウッカリしていた。ごくごく単純な錯誤であり、どうして編集部は気がつかないものかと思うが、かく言うわたくし自身も素通りしてしまったのだから偉そうなことは言えない。

言い訳がましいことを書くと、歳を取ると時間的な感覚が麻痺してくる、ということはあると思う。

わたくしは手帳を使っている。仕事用である。ある時、以前の仕事のことで気になったことがあって、手帳を読み返していたのだが、その仕事のことが書かれたページがなかなか出てこない。あれ? おかしいなあ? 去年の今頃のはずなのだが・・・いや、待てよ、去年ではなく、一昨年のことだったろうか?

ところがである。一昨年の手帳にもその記載がないのだ。

このミステリーの答えであるが、あるいはすでに察しのいい人ならばわかっているかもしれない。

その案件は昨年でも一昨年でもなく、三年前の出来事だったのだ。

時間の経つのは早いものである。自分的には一年前のことだと思っていたのだが、実はすでに三年も経過していたのだった。たぶん浅井先生も同様だろう。昔の出来事をつい最近の出来事のように錯覚してしまうのだ。たとえば流行歌の話がわかり易いかもしれない。わたくし的には五年ないし十年くらい前の歌であっても最近の歌なのだ。ところが若い人に言わせれば、そんなの古いよ、となる。明らかに若い人とは時間的な感覚が異なるのだ。

ということで、自己弁護と共に浅井先生の弁護をしたわけだが、しかし、編集部の責任は免れない。複数の人間がチェックしていて誰も気がつかないとすると、これはもう深刻である。

大借金帳消しの陰謀?

さて、せっかくなので、会長講演で気になったところを一箇所ピックアップしておこう。上掲はアベノミクス批判の中の小見出しの一つであるが、物凄いことが書かれている。本文を引用しよう。

 で、私は思うことがある。
 アベノミクスは、「景気をよくするため」などという無邪気なものではない。これは一千兆円の大借金を帳消しにする陰謀ではないかと――。


経済オンチのわたくしにはなかなか実感を持って理解することが難しいのだが、ようは意図的にハイパーインフレを引き起こして国家の抱えている大借金を帳消しにしようと企んでいるのだそうである。先生いわく、安倍さんがそこまで考えているかはわからんが、財務省なら考える、と。

これが事実ならばとんでもないことである。狂気の沙汰だ。

それにしても、これは先生が独自に考えたことか、あるいはどこかの識者が言っていることをパクッたのか、気になるところではある。

さて、話は変わる。

ユタ氏のコメントはきわめて核心的である。

先の戒壇論では御書にあるかないか、すなわち文証を提示できるか否かが争点だった。しかし、これはわかり切ったことなのだが、すべて一から十まで御書で論証することは不可能である。

以前、ある人物から伺った話で印象に残っていることを紹介すると、明治何年にどこそこの小学校で運動会が行なわれたのだそうである。ようはそうした文献が残っているわけなのだろう。しかし、その人の言うには、当時の小学生たちがいわゆる運動靴を履いていたのか、それとも裸足だったのか、あるいは足袋だったのか、草鞋だったのか、わからないというのだ。

わたくしはこれを聞いて、ああ、なるほど、百年前のことでもわからないことがたくさんあるわけだ、いわんや、七百年前のことなどなおさらわからないだろう、と思った。

現在の創価学会は御相伝について、かなり懐疑的のようである。わたくし自身、宗門の言っていることを全面的に信用してよいものかどうか、少し懐疑的なのは事実だ。しかし、上述のことを踏まえるならば頭ごなしには否定できないと思う。伝統ある宗門なのだ。御書の文面にはあらわれていない部分を、宗門が伝えてきたという側面はあるだろう。

左翼化した公明党・・・

このレッテルにはやや疑問がある。自民党と組んでいる以上は右翼なのではないか? いわゆる一翼を担う立場だからである。また、逆説的にというべきか、自民が右翼ならば公明は左翼という、政権内におけるパワーバランスの意味はあるのかもしれない。のび太氏が以前、公明党には自民党の暴走を食い止める使命がある、という意味を言っていたのはこれであろう。

2013/5/12

願望にもとづく幻想  
ずいぶん前の拙稿にコメントがついた。昨年の九月一日付の拙稿へのコメントなのだが、いささか唐突さを否めない。

2013/5/9 17:49
投稿者:前進
顕正会や宗門は伏せ拝という御書にないことをしていますから完全に謗法ですね。
学会が本物です


法華講員のブログないし掲示板への投稿をお勧めしたい。どういう議論になるか興味関心がある。

さて、沖浦氏から情熱的なコメントが寄せられているけれども、今日は別の話題を書かせていただくことにする。顕正新聞第1274号が題材だ。

2・3・4月の弘通 空前22,240名

「真言亡国」の厳しき現証 全員心腑に
 濁悪の日本国に百六十万の地涌出現


当該号は四月度総幹部会の記事を中心に組まれているわけだが、わたくしの率直な感想は凄いの一言だ。四月度総幹部会は大成功だった。いろいろな意味において、大成功だったと思う。

今回の折伏法戦は一万九千の目標を掲げていた。はっきり言って、これは控えめな数字だとは思う。つまり、目標を突破できて当たり前という意味はあっただろう。そもそもなぜに控えめの目標設定なのか、それは活動会員を慮ってのことである。顕正会の現在の実力をさまざまの観点から総合的に判断して、この程度の目標が妥当であろうと考えたのだろう。これが浅井先生一人の判断なのか、首脳部による協議の結果なのか、さすがにそこまではわからないが、無理な目標を設定すれば必ず行き詰ることになるので、控えめな目標設定にするのは理の当然なのだ。

勝手な推測を言わせてもらうわけだが、一万九千の目標に対し、二万を突破できれば御の字くらいに考えていたのではないかと思う。

しかし、フタを開けてみれば、二万二千突破である。

これほど理想的な結果もあるまい。活動会員たちは達成感を味わい、それがさらに次の法戦への原動力となる。会長ないし首脳部にとって、これほど嬉しい展開もないだろう。

何しろ百六十万の大台が見えてきたのだ。

次の六七月法戦の目標は百六十万屹立である。具体的な数字についての言及はないが、一万五千弱の折伏成果を上げれば達成されることになる。

これもまた今回の成果が二万二千突破だったからである。もしこれが一万九千ギリギリの成果であったとしたら、百六十万達成を打ち出せなかったかもしれない。こればかりは先生がいくら力んでもどうしようもないわけで、活動会員たちの頑張りに期待するしかない。それが今回、望外の成果が上がったことによって、百六十万の大台に一気に近づくことが出来たわけである。

真言の祈祷は「始めは良し、後で必ず大罰」
 安倍首相、広布前夜の真言亡国を現ずるか
 濁悪の日本に百六十万地涌の大集団出現


前に掲げたのは一面の大見出しだった。そしてこれが会長講演の大見出しである。

総幹部会大成功の理由は会長講演にある。ようは浅井先生の講演が集会における締め括りであり、終わり良ければすべて良しという言葉があるごとく、やはり最後の会長講演の出来不出来がすべてに影響を与えるわけだ。まさに今回は活動会員の頑張りと会長講演とが函蓋相応して、上昇ムードを作り上げるという、理想的な展開である。

真言密教は亡国の悪法

広布前夜の真言亡国


これらは前掲の大見出しに対応する中見出しであるが、浅井先生は御書に説かれる真言亡国の事例を丁寧に拾い集めて、安倍首相が真言密教に傾注していることの危険性を強く訴えるわけである。シツコイようだが、再掲しよう。

安倍首相、広布前夜の真言亡国を現ずるか

これは凄まじい発言である。今回の講演においても安倍政権を政策レベルすなわち世法レベルで批判するくだりがあるわけだが、上掲はそうした世間の安倍批判とは一線を画する、いわば浅井先生独自の安倍批判である。しかも当然ながら、これは浅井先生の己義ではなく、大聖人の御指南に基づくものであるから、とてつもなく重い発言である。

ただし、これをはたして過去の真言亡国の事例と同一視してよいものかどうかは一考を要するところで、このことは顕正会員たちも承知しておく必要があると思う。

三三蔵の祈雨の現証
後鳥羽上皇の現証
阿弥陀堂法印の祈雨


一言で片付けるならば、現代とは時代背景が違うということだ。

上掲はいわゆる祭政一致の時代における現証であって、祈雨などはまさにその典型である。つまり、雨がほしい時に聖職者に雨の祈りをさせることが、いわば政策そのものだったのだ。今、安倍首相が何を信仰しようが、それは基本的にはあくまで個人レベルの話であって、国家とは無関係である。何しろ浅井先生は国立戒壇を主張している人であって、国家とは無関係の私的な戒壇では仏国実現は不可能と言って来たのである。その論理を当てはめるならば、安倍首相が個人的に何をやろうが国に影響を与えないはずなのだ。改憲論議が喧しい昨今であるが、現時点では安倍首相がどれほど真言に肩入れしようが国家的に用いることは不可能である。すると、上掲の御書に説かれる真言亡国の事例と、現在の安倍首相のそれとを同一線上で論じることは出来ない、という考え方も有力である。

たぶん顕正会に論客がいれば、これに対する反論もあるかと思う。それを期待したいところだ。

さて、今回の会長講演はひじょうに中身が濃いので、具体的な内容を取り上げていたらキリがない。そこでどうでもいいところを紹介すると、

 TPPという言葉は「環太平洋戦略的経済連携協定」と訳されているが、その実態を知れば、こう訳すべきだと私は思う。
 いいですか、TPPとは
 「トンデモナイ
  ペテンだらけの
  パートナーシップ」(大爆笑)


先生の発案か、誰かのパクリなのか、それは知らないが、確かに面白い。

 さて、三万人の女子部大会のことでありますが、二月の総幹部会で「一二月一日、幕張メッセ」と発表いたしましたが、これを変更いたします。

最後に女子部大会のことを取り上げておこう。当初、地方の会場を取っていた。どうやら長野の例の会場らしいが、先生はどうしても首都圏で開催したかった。それで幕張メッセにした。さらに今回、それを変更した。一一月四日(月)さいたまスーパーアリーナで行なうとのことだ。

終わり良ければすべて良しというべきか、別にそれで決まったのならばとやかく言う必要はないのだが、しかし、不審が残るのは否めない。二転三転の理由は何だろうかと勘繰りたくなってしまうのだ。

もう一つ、オマケだ。

願望にもとずく幻想

もとずく・・・

ありがちな誤植とは言え、みっともない限りだ。これを国会議員に配るのは考えものであろう。

2013/5/9

本尊所住即戒壇についての試論  
このところ旦氏からのコメントが増えてきたような気がする。

2013/5/8 22:16
投稿者:旦
情報源は米政治学者のジェラルド・カーチス?という人だと書いてます

TPPは25各道県の試算だそうです


これはわたくしの疑問に答えて下さったのだろうけれども、ちょっとピントがずれているように思う。ようは媒体が何なのかを知りたいのだ。まさか顕正新聞の記者がジェラルド・カーチス氏にアポを取って、そこで直に情報を得たわけではあるまい。二十五都道府県の試算もしかりである。

いつだったか、ガンダーセン氏の写真が顕正新聞に載ったことがある。これが物凄く画質の粗いもので、いかにも週刊誌からスキャンしましたというシロモノだった。そこでわたくしは言った。顕正新聞の記者がガンダーセン氏のところに出向いて写真を撮ってくればよかったのにと。

わたくしは何も著作権がどうのこうのと言いたいわけではない。ある意味、情報の共有というか、情報の融通はあってしかるべきことだと思う。ましてやネットの発達した今日においては、もったいぶっても仕方がないという面もある。ただ、わたくしが言いたいのは、顕正新聞もせっかく新聞社の看板を掲げているのだから、頑張って独自の情報を発信してみたらどうか、ということなのである。そうすれば国会議員たちも、こちらから送らなくても向うから積極的に購読を申し込んでくることだろう。浅井先生が講演で何を言おうが、コラムで時事問題を取り上げようが、しょせんは一次情報としての価値が低い、というのが現時点での客観的な評価だと思う。

2013/5/8 10:26
投稿者:沖浦克治
 厳虎さん、今日は。

>これまでの議論で明らかなごとく、日蓮正宗では本尊所住の処を戒壇と見なすのだ。

 所が貴方はこのようにお書きですよ。

>宝塔が御本尊であることは阿仏房御書を読めばわかる。問題はその次である。御本尊の住所が戒壇であるというのは、いったいどこから導き出されるのか、教えてほしいものである。

 教えるとか教えないとかではなく、それが常識ですよ。


沖浦氏はわたくしの自語相違を責めているつもりなのかもしれないが、しかし、もしそうだとすると、とんでもない見当違いである。事情を知らない人のためにリンクを貼っておこう。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1841.html

ここに明らかなごとく、わたくしは参考までに聞いたのである。つまり、日蓮正宗では本尊所住の処即戒壇が常識となっていることをわたくしは承知していて、その上で沖浦氏に聞いてみたのである。沖浦氏はこの意味がまだわからないのだろうか?

沖浦氏は日蓮正宗を否定しているのだ。ことには日寛上人を否定している。であれば日蓮正宗では常識となっている、本尊所住即戒壇をそのまま使うわけには行かない。そんな御都合主義が通用するわけがないのだ。

ゆえに問うているのだ。沖浦氏はどこから本尊所住即戒壇を導き出すのかと。

脱益の説所と戒壇の本迹

さて、情報の共有などと気取ったことを言うつもりはないが、もったいぶっても仕方がないので、わたくしの考えていることを書いておこう。

上掲は百六箇抄の三十九番である。ここに本尊所住即戒壇の直接的な御文は見出せないが、義はおぼろげながらも見て取れるのではないかと思う。本文では説所として霊山と天台山が比較される。当然、霊山が本で天台山が迹である。説所には説者がいる。いや、もちろん、そんな用語は聞いたことがないけれども、ようは説法者のことだ。すると釈尊と天台大師が比較されていることになる。ひるがえって三十九番の表題を拝すると、脱益の説所と戒壇の本迹となっている。つまりは釈尊所住ないし天台所住が即戒壇なのだ。ならば大聖人所住もまた即戒壇のはずである。そして本尊とは法華経の行者の一身の当体であるからして、本尊所住即戒壇となる。

拙ブログの愛読者ならば、少し前に連想ゲームにはワナがひそんでいると書いたことをご記憶かもしれない。その答えを今から説明しよう。

下種の弘通戒壇実勝の本迹

先ほどの三十九番は、正確には脱の三十九番である。そして今度は脱ではなく種の四十二番である。ようするに百六箇抄は前半が脱、後半が種と分かれているのだ。内容的にはひじょうに入り組んでいて簡単ではないが、単純に言えば脱よりも種が優先される。大聖人の仏法を下種仏法と呼ぶゆえんである。

では、種の四十二番の本文を拝そう。

三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり。

ワナの意味をもう少し説明しておくと、沖浦氏は一期弘法付嘱書の富士山云々を頭ごなしに否定した。ゆえに、もし沖浦氏が百六箇抄の脱の三十九番に飛びついたならば、そこでわたくしは種の四十二番を出すつもりだったのだ。性格の悪いヤツだと思ってはいけない。ご覧のとおり、ここですべて種明かしをしているのだから、それほど性格は悪くない。本当の悪党ならば、ここでは言わずに将来を見据えて温存しておくはずである。

それはさておき、上掲はけっこう難しい御文である。いろいろな解釈があり得ると思う。そこで今日はごく簡単に書いておく。

三箇の秘法とは、本門の本尊・戒壇・題目である。その建立の勝地は富士山本門寺の本堂である。すると本堂に本尊・戒壇・題目が集約されることになる。ここでは題目を省略させていただくが、手っ取り早く言えば本堂即戒壇堂であり、本堂には本尊が安置される。であれば本尊所住即戒壇である。

我ながら粗雑な議論だと思う。本当はもう少し時間を掛けて思索したかったのだが、沖浦氏が堂々巡りを繰り返しているので、一歩前進の意味で書かせていただいた次第である。

2013/5/7

第1273号拾い読み  
ユタ氏のおっしゃるにはコメントが早いのは偶然とのことだ。なるほど、昨日の例で言えば沖浦氏のほうが一歩早かったわけで、これもまた偶然なのだろう。

さて、その沖浦氏であるが、次のごとく言っている。

 戒壇が日蓮正宗や、顕正会では、伽藍だけを示す言葉になっているのに、疑問を持っています。

伽藍だけを示す?

これは何を根拠に言っているのだろう。そして伽藍だけでないとすると、いったい何を意味するのだろうか?

これまでの議論で明らかなごとく、日蓮正宗では本尊所住の処を戒壇と見なすのだ。伽藍の響きからすれば立派な建造物が想像されるわけだが、仮にそれが質素な草庵であっても御本尊がましませば即戒壇なのである。

建物をいくら建てても、使う人がいないなら無意味

これは当たり前のことであって、日蓮正宗にしても顕正会にしてもムダに建物を建てているわけではない。

聞くところによると、創価学会では全国の風光明媚な観光地に研修道場なるものをたくさん建てているらしい。これはもしかしたら日興上人の御指南に基づくものなのだろうか?

凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。

どうも沖浦氏の言っていることは、自家撞着の気味が感じられてならない。研修道場がどれほど機能しているのか知らないが、ハタから見れば財力に物を言わせてムダに建てているように思えてならないのだ。他宗を批判する前に、まずはそこから直すべきである。

さて、今日は顕正新聞第1273号から話題を拾ってみたい。

 この有難い信心口唱に住することが叶うのも、先生が日興上人の清き源流を我ら愚弟の身に注いで下さるゆえであり、この師恩はいかなる言葉でも表わせません。

第十六男子部長も凄いことを言うものである。今一度、大事な部分のみ再掲しよう。

先生が日興上人の清き源流を我ら愚弟に注いで下さる・・・

おそらくは単なる文章表現であって、他意はないのだろう。しかし、注ぐというのはけっこう際どい表現であり、誤解を生じかねないところなのだ。

灌頂、潅頂

興味のある人はこの辺りをキーワードに調べてみるといい。第十六部長に他意はなかったとしても、やはりこれはマズイと思う。こういうのは使わないほうが無難だろう。

五面の活動報告から二つ紹介しよう。

 また、集会への参加を促すと、店を一日でも休むと売上に響いて苦しいはずなのに、○○さんは「じゃあ、店休んで行けばいいのね?」といってきたのです。

いきなりの引用で恐縮だが、わたくしの言いたいことはすでに明瞭のはずである。この登壇をしている奥州支区総班長はケシカランと思う。商売は店を開けてこそ成り立つものなのだ。集会のために店を休業するなど言語道断である。むしろ総班長がそれを注意しないといけない。

次は男子部支隊長である。

 △△さんは勇気をふり絞って知り合いのカフェに赴いたものの、折伏は叶いませんでした。しかし「精いっぱいお応えしたい」と思う意識と行動を起こせただけで、翌朝母親から二十万円も貰い・・・

馬鹿野郎である。何を考えておるものかと思う。そりゃ二十万円もタダでもらえれば、これほどラッキーな話もあるまい。しかし、これを功徳と言わんばかりのところが気に入らない。まさかこれを短絡的に理解する人がいるとは思えないが、ようするに意識と行動を起こしただけで二十万円がもらえるというのが大聖人の仏法の本質であるならば、経済問題などは一発で解決してしまうことだろう。しかし、そんなことはあり得ないのだ。世間一般の人で顕正新聞を隈なく読んでいる人はいないだろうからいいものの、もしこれを一般人が読んだらどのように感じるのか、本部首脳はそこまで考えないといけない。

七面には八十六歳の男性婦人部員の体験発表がある。長崎の被爆者らしいので、その意味では貴重な存在だ。

五十歳のころに病院に行くと「心筋梗塞」と診断され、以来三十年余ずっと入院生活を送っていました。

これは批判とかではなく、素朴な疑問として掲げさせていただいた。三十年余の入院生活とは凄いことだ。よほど重症だったのだろう。

ところがである。

 そして二年半前に入院期間の制限のため病院を出される・・・

これが理解不能だった。三十年も入院していたのは重症だからのはずである。そういう人が追い出されるとはとうてい思えないのだが、いったいどういうことなのだろうか?

大手メディア幹部 首相と相次ぎ会食
 悪政批判どころか宣伝紙に!


八面の記事だが、これはなかなか読み応えのある記事だ。ただし、気になるのは情報源である。当然、大手メディアがこれを報じるわけがないので、中小メディアのいずれかのスクープ情報なのだろう。それとも顕正新聞社独自のスクープなのだろうか? だとしたら大したものであるが・・・

TPPで農林水産業 壊滅的打撃
 地域経済にも甚大な影響!


これもまた充実した記事だ。細かい数字が煩瑣であるものの、TPPの問題点がよく浮き彫りになっていると思う。しかし、またしても情報源が書かれていない。

2013/5/6

異例の日曜勤行記事を中心に  
ユタ氏から迅速なるコメントを頂戴した。わたくしが更新して間もなくのことだ。どのようにして拙ブログの更新を知るのか、それが気になるところである。機械オンチのわたくしにはさっぱりわからないが、あるいは自動的に更新をキャッチすることが出来るのだろうか? それとも頻繁に拙ブログをチェックして下さっているのだろうか? であれば、なんとも申し訳ない限りである。何しろ更新頻度が低いので、ムダ骨を折らせてしまっていることになるからだ。

 戒壇ってね、いくら大伽藍建てても、人がいないならタダの物です。

沖浦氏のコメントであるが、それはそのとおりである。ゆえに三大秘法抄には王臣一同とあるのだ。あるいは三国並びに一閻浮提の人ともある。つまり、沖浦氏の言っていることは当たり前のことなのである。

さて、顕正新聞第1273号に入ろう。

「法門を以て邪正を糺すべし」
 真言等の邪宗は通力で人々を誑かす
 安倍首相は「真言亡国」を深く知れ


一面には四月七日の日曜勤行指導が掲載されているが、なんと一面にとどまらず、二面に続いているのだ。この手の記事としては異例だろう。わたくしの記憶では初めてだと思う。

しかし、御書講義が消滅してしまったので、いわば日曜勤行の指導がその代替を担っているわけで、その意味では相当なのだろう。

もっとも日曜勤行の指導が長過ぎると聴いているほうは足がしびれて大変だし、その後の戦いにも支障を来たさないとも言えないだろう。その意味では簡潔な指導が求められるところである。

ともかく当該の指導はひじょうに中身の濃いものである。

 ことに今の安倍晋三総理大臣は、怪しげな真言密教の邪僧を深く頼っている。

僧侶の名は池口恵観。けっこう有名なので、ネットで調べればいろいろ出てくることだろう。この後、この人物について事細かく紹介し、週刊文春の情報を元に、安倍首相とくだんの僧侶の関係について、詳しく書いている。

 また池口は二〇〇七年九月、体調不良で苦しむ安倍首相に総理辞任を勧め、このとき五年後の再登板まで予言した。

わたくしが注目したのはこのくだりである。池口恵観って凄いじゃないか、何しろ予言が当たるのだから、浅井先生よりも凄い!

イヤミを書いてしまったが、実際、浅井先生の言っていることは当たらないのだから仕方がないだろう。

ただ、上掲は予言というほどのものではないだろう。ごく常識的なアドバイスに過ぎない。もし本人が誇大宣伝よろしく予言が当たったことを言い触らしているのならばとんでもないことだが、顕正新聞の記事を読む限りそうとは思えない。

ようするに病気で苦しんでいる人に対し、どのようなアドバイスが可能かという話なのだ。

スポーツ選手であれば、わかりやすい。怪我や病気のまま競技を続けても結果は出せない。当然、しっかりと治療をして、再起を期すべきが筋である。その場合、アバウトな目安として一年だとか三年、あるいは五年・十年という数字が示されるわけだ。もっともスポーツの場合、五年・十年は長過ぎるわけで、年齢的な意味からして選手寿命が終わってしまうかもしれない。しかし、政治家であれば相当だろう。つまり、こんなのは予言でも何でもないのだ。

それはさておき、今回の安倍批判はかなり説得力があると思う。ようするにアベノミクスだとかTTPなどは政策次元の話であって、顕正会的には本筋ではないのだ。その意味では今回の真言亡国を正面に据えての指導こそが本筋であって、まさに浅井先生の面目躍如である。世間広しと言えども、この手の安倍批判は他に見当たらないに違いない。

では、ここで問いを発しておこう。浅井先生に問いたい。

現時点での最善は何か、である。

政治家が間違った宗教をやっているとそれが国に悪影響をもたらす。ゆえに正しい宗教を立てなければいけない。せんずるところは国立戒壇の建立なのだろう。しかし、それは将来に属することである。

今、さしあたって政治家が信仰すべきものは何か、なのだ。

創価学会など論外であろうことはわかっている。では、日蓮正宗ならばいいのか、それを先生に聞いてみたいのだ。もし現職の総理大臣が日蓮正宗の信徒であったならばどうなのか、である。

たぶんダメなのだろう。御遺命違背の宗門ではダメなのだ。これが浅井先生の考えのはずである。

すると残るは一つ、総理大臣を始め閣僚たちが顕正会の会館に赴き入信勤行をする。

はっきり言って想像不可能である。しかし、消去法で行けば、それしか残されていないことになる。

さて、これが現時点での最善のはず・・・なのであるが、実際は少し違うのだ。

ようするに、日本はこの先もっと悪い状態になる、その極限状態になった時にようやく気がつくのだ、大聖人に帰依しなければダメだということに、である。

話をまとめよう。

先生の安倍批判は顕正会への入信を促がすものではない。客観的に見て、現職の総理大臣が入信勤行に来るとは思えない。先生もそれは百も承知のことなのだ。ともかく安倍首相の耳に届こうが届くまいが言うべきことは言っておく。これが現時点での最善なのだろう。

その心は・・・

見ててごらんなさい。

なのである。

しかし、もし仮に安倍政権が失敗しても、である。その時に顕正会が脚光を浴びるという保証はどこにもないのだ。どうも浅井先生はこの点を軽視しているというか、おそらくはわかってはいるが他に有効な手立てがないということなのだろう。すると、また次の政権に対しても、ああだこうだとイチャモンをつけるのだろう。その繰り返しである。

2013/5/2

第1272号拾い読み  
沖浦氏よりご丁寧な返信を頂戴しているが、これについては省略させていただく。また、諸般の事情通氏のコメントはやや真意を測りかねるものである。

そこで今日もまた顕正新聞第1272号から話題を拾うことにする。

あと七年の重大さが迫り、身が震えました。

これは三月度婦人部班長会における総合婦人部長の発言である。

実に思い切った発言だ。

ご存知のごとく、顕正会はあと○○年が好きである。過去の会長発言を調べれば枚挙に暇がないくらい、同じようなフレーズが出てくる。しかし、十年を切ることはなかった。さすがに十年を切ってしまうと後戻りができなくなる。ゆえに一頃は「あと十有余年」を言い続けて、一向に数字が減らなかった。

ところがここに来て、総合婦人部長が大胆な発言をした。上掲がそれである。

では、あと七年とは何か?

ここでは第三婦人部長に語ってもらうことにしよう。あらかじめ、やや切り文ぎみの引用であることをお断りしておくが、ともかく重大発言であることに変わりはないだろう。

先生が定められた広宣流布の決戦場まで、あと七年
 「六千万地涌出現は必ず間に合う」
 との確信を胸に、テンポを上げて走り抜けんと、決意を固めるものであります。


実に大胆な発言だ。

ようするに、あと七年で六千万を達成する、と言っているに等しいわけだ。これはある意味、浅井先生に対する反逆みたいなものだろう。先生の発言を拡大解釈して、先生にプレッシャーを掛けているのだ。

もう少し丁寧に説明しよう。

浅井先生は他国侵逼が現実となる時期を二千二十年代と想定している。その時までに六千万を達成すると言っているわけだ。それが何年後のことであるか、正確にはわからない。ゆえに、予言の好きな(?)浅井先生も、さすがにそこまでは言わないのだ。単に数字の上で言うのであれば、最短で七年である。しかし、浅井先生はただの一度も七年とは言っていない。ところが婦人部の最高幹部たちが言ってしまったのだ。これは大変なことである。あと七年で六千万など、できっこないのだ。それにもかかわらず彼女たちは、浅井先生の仰せであるとして、上掲のように発言しているわけである。これはもう先生に対する反逆ないしプレッシャーとしか思えないのだが、それとも違うのだろうか?

幹部たちも浅井先生の大言壮語には辟易しているのだ。あと○○年が延び延びになって、いつまで経っても広宣流布にならないことに、ほとほとウンザリしているのだ。ゆえに、もういい加減にして下さいね、あと七年で達成できなかったら終わりですよ、いつまでも付き合いきれません、という意味なのだろう。わたくしにはそうとしか読めないのだ。

ところがである。今度は副総合婦人部長と第六婦人部長がおかしなことを言っているのだ。

二〇二〇年代の決戦場から逆算すれば、もういつ起きてもおかしくないほど近い・・・

副総合の発言だ。何がいつ起きてもおかしくないのか、新聞をお持ちでない人のために説明すると、首都圏直下地震と南海トラフ地震のことである。副総合はこの二つの地震をいつ起きてもおかしくないといっているわけだが、しかし、これは顕正会の身勝手なシナリオ以外の何物でもないだろう。いや、もちろん、地震はいつ起きるかわからないので、その意味で彼女の言っていることはそれほど間違っているわけではない。だが、以前にも書いたごとく、今日かもしれないし明日かもしれない、あるいは一年後かもしれないし二年後かもしれない、さらには十年後かもしれないし二十年後かもしれない、ようはわからないのだ。それが自然の気紛れさなのである。

これで副総合の言っている逆算の意味がよくわかるはずだ。六千万を達成するためには何か衝撃的な出来事が必要である。このままのペースでは誰が考えたって六千万は不可能である。ゆえにエポックメーキングが必要なのだ。それを彼女は、というよりも顕正会は、巨大地震に求めているわけである。

ここで第六婦人部長の発言を紹介しておこう。

首都圏直下地震まであとわずか・・・

繰り返し言っておくが、わたくしは二つの地震が起きないと思っているわけではない。それはいつ起きてもおかしくないだろう。しかし、彼女たちとは異なる。失礼ながら彼女たちの発想は明らかに常軌を逸しているのだ。

話をまとめよう。

総合部長と第三部長は先生に反逆していると書いたが、それはわたくしの誤解なのだろう。二人は本気で七年後の六千万を考えているのだ。しかし、それは今のままでは無理である。では、どうするかであるが、その答えを副総合と第六が述べているわけである。巨大地震が起きて、それがキッカケとなって爆発的に弘通が伸びると。それが彼女たちのシナリオである。

自然は気紛れである。いつ起きるかわからない地震に頼っているようではダメである。それに以前も書いたが、たとえ地震が起きたとしてもそれで入信勤行の行列ができることはない、多少は伸びるだろうが爆発的とまでは行かないはずだ。つまりは身勝手なシナリオということである。

 本年一月、自分ごとき者が先生より鷹巣支区部長の大任を拝命し、緊張感で一杯でありましたが、(中略)今度こそ浅井先生にお頷き頂ける人材となって最後まで忠誠を貫く覚悟を固めたものであります。

おや、まあ、久しぶり、という感じである。

今度こそ・・・

この一語に明らかなごとく、この人はしばらく鳴りを潜めていた。もちろん、理由はわからないし、完全に組織から離れていたのか、それとも活動に消極的だったのか、あるいは単に降格の憂き目にあっていただけなのか、その辺はまったく不明である。ともかく観察していると、こうした幹部クラスの復活劇もしばしば見られるところである。

さて、ユタ氏からは潰瘍性大腸炎の体験発表について何か書けとの催促(?)が少し前にあったけれども、特に書きたいことが見当たらなかった。強いて挙げるならば、次のくだりだろうか?

一日に十回ほど排便のためにトイレに行き・・・

当然、これは小用ではなく、大のほうなのだろう。十回はいかにも多過ぎる。これでは生活に支障を来たすだろう。想像するだに深刻である。

さて、わたくし個人としては、これよりも隣のページの二つの体験発表のほうがツッコミ甲斐(?)があると思った。まずは女子部班長のほうから紹介しよう。

 入信以前の私は郷里の茨城から二十五歳で上京し、住み込みで昼は喫茶店、夜はスナックの雇われママとして働いておりましたが、わずかな給料で社長にいいように使われ、辞めたくても辞めさせてもらえず、まさに地獄界の生活を送っておりました。

この後、彼女は入信し、勤行を実践するようになる。

すると・・・

客が行列をなすほどスナックが大繁盛するという初心の功徳を頂きました。

行列のできるスナック? これは想像が難しい。

それはともかく、彼女は功徳をいただいて、その感激のまま同僚を折伏したという。

すると・・・

私の信心を大怨嫉した社長が暴言を吐いて怒り狂い、私は部屋を追い出され解雇となりました(以下省略)

わたくしがおかしいと思ったのは、彼女は辞めたくても辞めさせてもらえなかったのだろう、であれば、ここで解雇になることは願ったり叶ったりなのだ、ところが続きの文章にはその意味のことがまったく書かれていないのである。善意に解釈すれば、行列ができるようになって給料も上がり辞めたい気持ちも失せていた、ということなのだろう。ともかく文脈的には解雇になったことこそ大功徳であると、感激を述べてもよさそうなところなのである。

さて、次は婦人部組長である。

 入信以前の私は中学卒業後、進学もせず、まともに働くこともなく、ずっと親からお小遣いをもらっては好き放題の生活でした。結婚後もおカネが足りなくなると、百万円単位で父からおカネをもらい、家具や洋服等を買いあさり、ぜいたくをしてきました。

羨ましい話だが、まあ、しかし、このくだりを読んだだけで、すでにマトモじゃないことがわかるだろう。

この後、頼りの父親が亡くなり、生活が逼迫するようになる。そして、やがて家賃も払えないような状況になるわけだが、次のくだりがまさに圧巻である。

 実は入居以来四年間、一度も払っていない家賃の催促が来ないことを、勝手に「御守護」と思い込み、やり過ごしてきた・・・

なんだ、これは?

いや、もちろん、この文章には続きがある。ようは総班長から叱られるわけだが、それはそうである。まさかこんな話が是認されるわけがない。さすがに顕正会もそこまでは狂っていないのだ。

それにしても苦笑を禁じえない話だ。


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