2013/6/27
教育者の視点に学ぶ
沖浦氏のコメントは難解をきわめる。
人と太陽と何方が輝いているか?
人なんです。
人は眠っている時でも、体重60キロの人が70Wの熱を出しています。
太陽は60キロあたりだと、0.001Wしか出せません。
人は太陽の7000倍明るいのです。
一度戦いに望む時、この100倍1000倍の力を出します。
私共が本気で戦っている時、それぞれの人は、太陽の、何百万倍輝いているのです。
我即宇宙と言いますが、あれは物理学から見ても、本当なのです。
その輝きの元が、南無妙法蓮華経です。
命そのものなんです。
これは、へえ〜そうなんだ、という新鮮な驚きをおぼえた。
しかし、イジワルなことを言えば、たぶん誰かの受け売りなのだろう。太陽と人間を比較することなど、ずぶの素人にはできっこないことだからだ。
今、どれほど苦しくても、人して生まれ、南無妙法蓮華経を唱えている。
最高の功徳です!!!
この部分は素晴らしい。信仰者として大いに見習うべきと思う。
『弘決の六に云く「此の身の中に具さに天地に倣うことを知る』
(三世諸仏総勘文教相廃立)
『然るに此の金剛不壊の身を以て生滅無常の身なりと思う僻思は譬えば荘周が夢の蝶の如しと釈し給えるなり』
『今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う此を唯仏与仏乃能究尽と云う、不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり金剛不壊の体なり、』
明快に説かれてあります。
私共一切衆生の命こそが、南無妙法蓮華経だ!!
寛師はここを迷ったのです。
習い損ないと呼ぶ所以です。
しかし、この部分がやたらと難解で、いったいどこが明快なのかと言いたいところだ。
ホイットマンです。
「さあ出発だ、悪戦苦闘を突き抜けて。
決められた人生の決勝点は、取り消すことが出来ないからだ。」
ここでのホイットマンの引用の意味がわからない。
この事実を知ってしまうなら、宗派の異なりなど、
小さい、小さい・・・・
そしてこの結論であるが、前掲の総勘文抄と矛盾することに気がつくべきだ。
不退の菩薩と極果の二乗とは少分も知らざる法門なり。然るを円頓の凡夫は初心より之を知る。
これは宗派の異なりを意味するものに他ならない。単純に言えば、権経の人はどれほど位が高かろうがダメであり、実経の人は初心であってもスゴイのだ。これを無視して、私共一切衆生の命こそが南無妙法蓮華経だ!!などと叫んだところで、まったくの無意味である。難しい御書を引用するのは結構であるが、よく理解してからにすべきだろう。
さて、教子氏からはけっこう長文のコメントが寄せられている。長文ゆえに全文掲載は見送ることにするが、どうも瑣末な議論に終始しているように思えてならない。まあ、しかし、二つ目のコメントはそれなりに有意義だった。
巌虎さん。貴方は子供の様に「好き嫌い」が激しく、エコヒイキをする輩です。
エコヒイキをしているつもりはないのだが、教子氏にはそのように見えるということなのだろう。それはさておき、「輩」が興味深い。教子氏はこれを多用する人のようだ。これが何に影響されてのことなのか、ひじょうに気になるところである。死語ではないにしても、今はそれほど多用される言葉ではないと思う。
最早、バーズは仏弟子じゃない! 浅井教祖の弟子では有るが、日蓮大聖人の弟子じゃない!
バーズのブログに何ら、日蓮大聖人を賛嘆する文言が無い。仏法の事をまるで書いてない…。
ここも興味深いところだ。
わたくしは前回、教子氏のブログタイトルを批判した。タイトルの中に「日蓮」という表記があったからである。顕正会的に言えば呼び捨てそのものがケシカランことなのだが、わたくしはそれ以上に順番が気になった。大聖人が筆頭に掲げられていればまだしも、何だか中途半端な位置に列せられていたからである。本日現在、先方のブログを確認したところ、どうやら「日蓮」の表記は削除されたごとくであるが、ともかく事実は上述のとおりである。
さて、そこで改めて今回のコメントを読むと、上掲のごとく「日蓮大聖人」と表記されている。これはわたくしの批判を素直に受け止めたのだろう。大いに結構なことだが、新たな疑問というか、興味が湧いてきた。
日蓮大聖人の弟子・・・
日蓮大聖人を賛嘆・・・
この辺は物凄く顕正会員的な表現に思えて仕方がないのである。いや、もちろん、教子氏はバーズ氏を痛烈に批判しているわけであるから、顕正会員のわけがない。しかし、もしかしたら顕正会経験者なのではないか、だからこそ上掲のような表現が出てくるのではないか、と思えるのだ。
バラバラ茜は⇒自称 女性だが、男です。オヤジです。まぁ、言葉が乱暴…怖い。
登米市⇒これはバーズが書いてます。バーズが『登米市』と名乗ってる!に過ぎません。
何か決定的な証拠があるのだろうか?
性別の問題はさておくことにしよう。問題は下段だ。ようするにバーズ氏の自作自演であると。
もし事実だとすると、これほどサミシイ話もあるまい。そんなことをしても疲れるだけである。営利目的のサイトであれば、何でもアリというか、ようは売り上げに直結することならば何でもやるという、そういうエゲツナサがあるような気がする。しかし、ごく普通の個人サイトであれば、そんな自作自演はやらないはずなのだ。それをやったところで、何が変わるわけでもない。何の意味もないのだ。
ゆえに、自作自演の可能性はきわめて低いと思う。しかし、これもまた教子氏にはエコヒイキに映るのだろうか?
さて、次が最後である。
そして、私も教師になって、悲しきかな 苦手な生徒も居る。
あえて順番を変えて最後に持ってきたわけだが、これが今回のコメントでもっとも注目したくだりである。一言で言えば、物凄くリアルだ、ということである。これは先生と生徒の関係だけでなく、人間関係全般に共通することだと思う。会社であれば上司と部下の関係だとか同僚との関係、あるいは取引先との関係。家族関係もそうだし、友人関係、あるいは宗教団体の中での関係。すべて人間対人間である。教子氏は、苦手な生徒もいればその逆もいるけれども決してエコヒイキはしない、生徒には平等に接すると言っているわけだ。
これは立派なことである。なるほど、教子氏の目にはわたくしが子供に見えるとのことだが、それは確かにそのとおりなのかもしれないと思う。なぜならば、わたくしは嫌いなヤツは嫌いであり、そういうヤツに対してはオベンチャラを言ったりしないタイプなのだ。それがまさに拙ブログの文面にもあらわれているのだろう。
以上、わたくし自身はエコヒイキをしているつもりはないのだが、しかし、教子氏の指摘も相当であろうと思う。
人と太陽と何方が輝いているか?
人なんです。
人は眠っている時でも、体重60キロの人が70Wの熱を出しています。
太陽は60キロあたりだと、0.001Wしか出せません。
人は太陽の7000倍明るいのです。
一度戦いに望む時、この100倍1000倍の力を出します。
私共が本気で戦っている時、それぞれの人は、太陽の、何百万倍輝いているのです。
我即宇宙と言いますが、あれは物理学から見ても、本当なのです。
その輝きの元が、南無妙法蓮華経です。
命そのものなんです。
これは、へえ〜そうなんだ、という新鮮な驚きをおぼえた。
しかし、イジワルなことを言えば、たぶん誰かの受け売りなのだろう。太陽と人間を比較することなど、ずぶの素人にはできっこないことだからだ。
今、どれほど苦しくても、人して生まれ、南無妙法蓮華経を唱えている。
最高の功徳です!!!
この部分は素晴らしい。信仰者として大いに見習うべきと思う。
『弘決の六に云く「此の身の中に具さに天地に倣うことを知る』
(三世諸仏総勘文教相廃立)
『然るに此の金剛不壊の身を以て生滅無常の身なりと思う僻思は譬えば荘周が夢の蝶の如しと釈し給えるなり』
『今経に之を開して一切衆生の心中の五仏性五智の如来の種子と説けり是則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり本有常住なり本覚の如来なり是を十如是と云う此を唯仏与仏乃能究尽と云う、不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり金剛不壊の体なり、』
明快に説かれてあります。
私共一切衆生の命こそが、南無妙法蓮華経だ!!
寛師はここを迷ったのです。
習い損ないと呼ぶ所以です。
しかし、この部分がやたらと難解で、いったいどこが明快なのかと言いたいところだ。
ホイットマンです。
「さあ出発だ、悪戦苦闘を突き抜けて。
決められた人生の決勝点は、取り消すことが出来ないからだ。」
ここでのホイットマンの引用の意味がわからない。
この事実を知ってしまうなら、宗派の異なりなど、
小さい、小さい・・・・
そしてこの結論であるが、前掲の総勘文抄と矛盾することに気がつくべきだ。
不退の菩薩と極果の二乗とは少分も知らざる法門なり。然るを円頓の凡夫は初心より之を知る。
これは宗派の異なりを意味するものに他ならない。単純に言えば、権経の人はどれほど位が高かろうがダメであり、実経の人は初心であってもスゴイのだ。これを無視して、私共一切衆生の命こそが南無妙法蓮華経だ!!などと叫んだところで、まったくの無意味である。難しい御書を引用するのは結構であるが、よく理解してからにすべきだろう。
さて、教子氏からはけっこう長文のコメントが寄せられている。長文ゆえに全文掲載は見送ることにするが、どうも瑣末な議論に終始しているように思えてならない。まあ、しかし、二つ目のコメントはそれなりに有意義だった。
巌虎さん。貴方は子供の様に「好き嫌い」が激しく、エコヒイキをする輩です。
エコヒイキをしているつもりはないのだが、教子氏にはそのように見えるということなのだろう。それはさておき、「輩」が興味深い。教子氏はこれを多用する人のようだ。これが何に影響されてのことなのか、ひじょうに気になるところである。死語ではないにしても、今はそれほど多用される言葉ではないと思う。
最早、バーズは仏弟子じゃない! 浅井教祖の弟子では有るが、日蓮大聖人の弟子じゃない!
バーズのブログに何ら、日蓮大聖人を賛嘆する文言が無い。仏法の事をまるで書いてない…。
ここも興味深いところだ。
わたくしは前回、教子氏のブログタイトルを批判した。タイトルの中に「日蓮」という表記があったからである。顕正会的に言えば呼び捨てそのものがケシカランことなのだが、わたくしはそれ以上に順番が気になった。大聖人が筆頭に掲げられていればまだしも、何だか中途半端な位置に列せられていたからである。本日現在、先方のブログを確認したところ、どうやら「日蓮」の表記は削除されたごとくであるが、ともかく事実は上述のとおりである。
さて、そこで改めて今回のコメントを読むと、上掲のごとく「日蓮大聖人」と表記されている。これはわたくしの批判を素直に受け止めたのだろう。大いに結構なことだが、新たな疑問というか、興味が湧いてきた。
日蓮大聖人の弟子・・・
日蓮大聖人を賛嘆・・・
この辺は物凄く顕正会員的な表現に思えて仕方がないのである。いや、もちろん、教子氏はバーズ氏を痛烈に批判しているわけであるから、顕正会員のわけがない。しかし、もしかしたら顕正会経験者なのではないか、だからこそ上掲のような表現が出てくるのではないか、と思えるのだ。
バラバラ茜は⇒自称 女性だが、男です。オヤジです。まぁ、言葉が乱暴…怖い。
登米市⇒これはバーズが書いてます。バーズが『登米市』と名乗ってる!に過ぎません。
何か決定的な証拠があるのだろうか?
性別の問題はさておくことにしよう。問題は下段だ。ようするにバーズ氏の自作自演であると。
もし事実だとすると、これほどサミシイ話もあるまい。そんなことをしても疲れるだけである。営利目的のサイトであれば、何でもアリというか、ようは売り上げに直結することならば何でもやるという、そういうエゲツナサがあるような気がする。しかし、ごく普通の個人サイトであれば、そんな自作自演はやらないはずなのだ。それをやったところで、何が変わるわけでもない。何の意味もないのだ。
ゆえに、自作自演の可能性はきわめて低いと思う。しかし、これもまた教子氏にはエコヒイキに映るのだろうか?
さて、次が最後である。
そして、私も教師になって、悲しきかな 苦手な生徒も居る。
あえて順番を変えて最後に持ってきたわけだが、これが今回のコメントでもっとも注目したくだりである。一言で言えば、物凄くリアルだ、ということである。これは先生と生徒の関係だけでなく、人間関係全般に共通することだと思う。会社であれば上司と部下の関係だとか同僚との関係、あるいは取引先との関係。家族関係もそうだし、友人関係、あるいは宗教団体の中での関係。すべて人間対人間である。教子氏は、苦手な生徒もいればその逆もいるけれども決してエコヒイキはしない、生徒には平等に接すると言っているわけだ。
これは立派なことである。なるほど、教子氏の目にはわたくしが子供に見えるとのことだが、それは確かにそのとおりなのかもしれないと思う。なぜならば、わたくしは嫌いなヤツは嫌いであり、そういうヤツに対してはオベンチャラを言ったりしないタイプなのだ。それがまさに拙ブログの文面にもあらわれているのだろう。
以上、わたくし自身はエコヒイキをしているつもりはないのだが、しかし、教子氏の指摘も相当であろうと思う。
2013/6/22
教子氏の馬鹿さ加減を叱る
今日未明、教子氏からコメントが寄せられた。
2013/6/22 4:15
投稿者:【教育委員会】
コピペばかりの手抜きブログ 等、過去記事を読みましたよ。
さて、バーズの件ですが、
私は巌虎氏の質問に答える気は、有ります。
ですが、バーズが横槍コメントなんか するから⇒私は答える気を無くしちゃうんです。失っちゃうんです。
石川遼くんの、試合中に着信音に激怒!に同じです。
巌虎さん、貴方 このブログの管理人でしょ!もう少しシッカリして下さい。
例せば、ラーメン屋で、他の客に迷惑をかける者(⇒バーズのような男)が居て、回りの客は⇒怖くて注意できません。
ですが店長なら
『バーズよ、ここから出て行きなさい!2度とウチの店に来るな!出入り禁止だ!』
と、言えるんです。言わなければ なりません。
ですので巌虎さん、バーズに対して
『バーズよ、横槍コメントを止(や)めなさい』
と、言って下さい。
私が、他の人のアメーバ・ブログにコメントをした際も、バーズの馬鹿が横槍コメントをして来ましたが、他の人 お2人は(男性と女性)
『バーズさん、余計なコメントをしないで下さい。迷惑です』
と返信したら、それ以上バーズは⇒横槍を入れなく なったんです。立派なブロガーです。
最後に、私【教育委員会】もブログを更新。
『殺人までやる顕正会 宇高容疑者。
殺されたのは、何と女性の顕正会信者(泣)』
をアップ。是非 読んで下さい。
http://ameblo.jp/kyouiku-iinkai/
未明と書いたが、四時を回れば今の季節はもう明るいかもしれない。
それはさておき、教子氏はバーズ氏のことがよほど嫌いなのだろう。上掲を読めば、誰もがそのように感じるはずである。
教子氏はわたくしの質問に答える用意があるという。しかし、そのためにはバーズ氏を排除しないといけない。バーズ氏がいる限り、質問には答えない。ゴチャゴチャと書いているが、結局はそういうことのようだ。
しかし、何もそこまでもったいぶることもなかろう。回答の用意があるならば、回答すればいいだけの話だ。ゆえに、ハタから見れば自信がないだけなのではないか、しょせん回答しても反論されて一発で終わってしまうから、本人もそれがわかっているから、だから回答を渋っているだけなのではないかと、おそらくは誰もがそのように見ているのではないかと思う。
わたくしは質問に答えろとは言わない。すでに終わったことなのだ。ようは回答不能であると。
ゆえにバーズ氏が横槍を入れるからなどというのは、その場しのぎの言い訳にしか聞こえない。残念ながら、これが結論なのである。
巌虎さん、貴方 このブログの管理人でしょ!もう少しシッカリして下さい。
再掲であるが、これはバーズ氏を悪人と決め付けた上で言っているのだろう。ゆえに続きの文章で次のごとく書いている。
ですが店長なら
『バーズよ、ここから出て行きなさい!2度とウチの店に来るな!出入り禁止だ!』
と、言えるんです。言わなければ なりません。
出入り禁止にするほどの違法を犯しているとは思えない。減らず口を叩かせてもらえば、むしろ教子氏のほうこそ表現の自由を奪うという違法を犯していることになりそうである。
ところでバーズ氏だが、今は教子氏をかまっている余裕はないはずである。拙ブログにも何度かコメントを寄せているセロリ氏とかなり込み入った議論をしているので、それが解決するまでは他のことには手を出さないと思われる。ゆえに教子氏もとうぶんは安心されたらいいだろう。
コピペばかりの手抜きブログ 等、過去記事を読みましたよ。
これまた再掲であるが、本当に読んだのかしらと首を傾げたくなるところだ。
最後に、私【教育委員会】もブログを更新。
『殺人までやる顕正会 宇高容疑者。
殺されたのは、何と女性の顕正会信者(泣)』
をアップ。是非 読んで下さい。
教子氏の最新ブログはまたしても手抜きの連続である。しかもわたくしの言っていることをまったく理解できないらしい。
とうとう、殺人までやる 顕正会(けんしょう会・カルト教団)。場所は⇒高知県の女性宅にて。
教子氏のブログから拾ってきたものであるが、これは問題発言である。なぜならば上掲は顕正会が殺人を犯したかのごとく書いてしまっているからだ。もしワザと書いているのであれば、物凄く悪質である。はたして本人にその自覚があるのかどうか、そこが気になるところである。
過去に殺人をやった⇒カルト宗教と言えば⇒オウム真理教(教祖 麻原彰晃)だけかと思ってましたが…
顕正会よ、オマエもか
オウム真理教は殺人を犯した。いわば殺人集団である。ようするに信者個人の犯罪ではなく、組織的な犯罪だったわけだ。
では、顕正会はどうか?
これは明らかに違うだろう。顕正会員が殺人を犯したことは紛れもない事実なのかもしれないが、顕正会が組織的に犯罪を犯したわけではないのだ。それを教子氏は、あたかも顕正会が殺人集団・殺人組織であると、このように錯覚させることを企んでいるごとくなのだ。
もし、これが図星であるならば、まさに悪質である。教子氏はこれに気がつかないといけない。
証拠のリンクは【後程】
顕正会員が事件を起こしたとしても、わたくしには確かめる術がない。教子氏がウソを書いているかもしれないのだ。
当然、教子氏もそう思われるのは不本意なことなのだろう。ゆえに、証拠のリンクを貼っているわけだ。
宇高明男受刑者
【高知新聞】
証拠のリンクは後程などともったいぶっていたわけだが、そのリンクとはこれである。一見すると高知新聞のサイトにつながるかのごとく思えるが、事実は違っていた。
なんと、あの悪名高きフェイクの記事だったのだ。
犯人の宇高は20年ほど前から顕正会に入り、浅井に洗脳されて狂い、顕正会館にも頻繁に出入りして人々を不幸に陥れる勧誘に狂奔して幹部になっていた。
では、高知新聞はウソなのかと言うと、必ずしもそうではない。ここが教子氏の悪辣さを象徴する部分である。
二十年ほど前から宗教活動に没頭し、高知市内の支部に頻繁に出入り。「熱心な信仰で勧誘にも力を入れている」と信者からも信頼され、支部幹部になった。
どうやらこれが高知新聞の記事のようである。フェイクはこれをベースに前掲のごとく書いているわけだ。当然、教子氏も承知していることだろう。つまり、フェイクが悪辣なのは今さら言うまでもないことだが、教子氏もまったく同罪と言わざるを得ないのである。
今月の初めに、わたくしは次のごとく書いた。
わたくしの思うに、たとえ犯人が顕正会員だったとしても一般の新聞・テレビはそれを報じないはずである。なぜならば無関係だからである。
さらに次のようにも書いた。
つまり、ここで特定の宗教団体の名前を出せば、報道の名を借りた宗教弾圧であるとの批判を免れないのだ。別の言い方をすれば、故意にその団体のイメージダウンを図っている、ということになるだろう。
高知新聞では犯人が宗教活動に没頭していると書いている。しかし、その宗教団体の名前は伏せている。それを暴いたのはフェイクである。
シツコイようだが、再掲しよう。
とうとう、殺人までやる 顕正会(けんしょう会・カルト教団)。
顕正会よ、オマエもか
証拠のリンクは【後程】
宇高明男受刑者
【高知新聞】
これで教子氏の悪辣非道が明白となった。わたくしは教子氏を同罪と書いた。フェイクと同罪と書いたのだ。しかし、あるいはフェイク以上の重罪かもしれないと思う。
最後にもっとも基本的なことを書いておこう。
教育委員会 創価学会 顕正会 工藤美桜 日蓮 武井咲 芹那 芦田愛菜 百田夏菜子 有安杏果 綾瀬はるか ももクロZ 篠崎愛 吉永小百合 上戸彩
これが教子氏のブログの本日現在の総タイトルである。以前、釣りを目的としたタグの多用を批判したけれども、今回は別の批判だ。
日蓮
顕正会的に言えば、大聖人を呼び捨てにするだけでもケシカラン話だ。しかし、それよりも何よりも順列がまったくの意味不明である。教育委員会から見て五番目、個人名としては二番目に大聖人が列せられている。ふざけるのもいい加減にせよと言いたい。これほどの摧尊入卑もあるまい。
2013/6/22 4:15
投稿者:【教育委員会】
コピペばかりの手抜きブログ 等、過去記事を読みましたよ。
さて、バーズの件ですが、
私は巌虎氏の質問に答える気は、有ります。
ですが、バーズが横槍コメントなんか するから⇒私は答える気を無くしちゃうんです。失っちゃうんです。
石川遼くんの、試合中に着信音に激怒!に同じです。
巌虎さん、貴方 このブログの管理人でしょ!もう少しシッカリして下さい。
例せば、ラーメン屋で、他の客に迷惑をかける者(⇒バーズのような男)が居て、回りの客は⇒怖くて注意できません。
ですが店長なら
『バーズよ、ここから出て行きなさい!2度とウチの店に来るな!出入り禁止だ!』
と、言えるんです。言わなければ なりません。
ですので巌虎さん、バーズに対して
『バーズよ、横槍コメントを止(や)めなさい』
と、言って下さい。
私が、他の人のアメーバ・ブログにコメントをした際も、バーズの馬鹿が横槍コメントをして来ましたが、他の人 お2人は(男性と女性)
『バーズさん、余計なコメントをしないで下さい。迷惑です』
と返信したら、それ以上バーズは⇒横槍を入れなく なったんです。立派なブロガーです。
最後に、私【教育委員会】もブログを更新。
『殺人までやる顕正会 宇高容疑者。
殺されたのは、何と女性の顕正会信者(泣)』
をアップ。是非 読んで下さい。
http://ameblo.jp/kyouiku-iinkai/
未明と書いたが、四時を回れば今の季節はもう明るいかもしれない。
それはさておき、教子氏はバーズ氏のことがよほど嫌いなのだろう。上掲を読めば、誰もがそのように感じるはずである。
教子氏はわたくしの質問に答える用意があるという。しかし、そのためにはバーズ氏を排除しないといけない。バーズ氏がいる限り、質問には答えない。ゴチャゴチャと書いているが、結局はそういうことのようだ。
しかし、何もそこまでもったいぶることもなかろう。回答の用意があるならば、回答すればいいだけの話だ。ゆえに、ハタから見れば自信がないだけなのではないか、しょせん回答しても反論されて一発で終わってしまうから、本人もそれがわかっているから、だから回答を渋っているだけなのではないかと、おそらくは誰もがそのように見ているのではないかと思う。
わたくしは質問に答えろとは言わない。すでに終わったことなのだ。ようは回答不能であると。
ゆえにバーズ氏が横槍を入れるからなどというのは、その場しのぎの言い訳にしか聞こえない。残念ながら、これが結論なのである。
巌虎さん、貴方 このブログの管理人でしょ!もう少しシッカリして下さい。
再掲であるが、これはバーズ氏を悪人と決め付けた上で言っているのだろう。ゆえに続きの文章で次のごとく書いている。
ですが店長なら
『バーズよ、ここから出て行きなさい!2度とウチの店に来るな!出入り禁止だ!』
と、言えるんです。言わなければ なりません。
出入り禁止にするほどの違法を犯しているとは思えない。減らず口を叩かせてもらえば、むしろ教子氏のほうこそ表現の自由を奪うという違法を犯していることになりそうである。
ところでバーズ氏だが、今は教子氏をかまっている余裕はないはずである。拙ブログにも何度かコメントを寄せているセロリ氏とかなり込み入った議論をしているので、それが解決するまでは他のことには手を出さないと思われる。ゆえに教子氏もとうぶんは安心されたらいいだろう。
コピペばかりの手抜きブログ 等、過去記事を読みましたよ。
これまた再掲であるが、本当に読んだのかしらと首を傾げたくなるところだ。
最後に、私【教育委員会】もブログを更新。
『殺人までやる顕正会 宇高容疑者。
殺されたのは、何と女性の顕正会信者(泣)』
をアップ。是非 読んで下さい。
教子氏の最新ブログはまたしても手抜きの連続である。しかもわたくしの言っていることをまったく理解できないらしい。
とうとう、殺人までやる 顕正会(けんしょう会・カルト教団)。場所は⇒高知県の女性宅にて。
教子氏のブログから拾ってきたものであるが、これは問題発言である。なぜならば上掲は顕正会が殺人を犯したかのごとく書いてしまっているからだ。もしワザと書いているのであれば、物凄く悪質である。はたして本人にその自覚があるのかどうか、そこが気になるところである。
過去に殺人をやった⇒カルト宗教と言えば⇒オウム真理教(教祖 麻原彰晃)だけかと思ってましたが…
顕正会よ、オマエもか
オウム真理教は殺人を犯した。いわば殺人集団である。ようするに信者個人の犯罪ではなく、組織的な犯罪だったわけだ。
では、顕正会はどうか?
これは明らかに違うだろう。顕正会員が殺人を犯したことは紛れもない事実なのかもしれないが、顕正会が組織的に犯罪を犯したわけではないのだ。それを教子氏は、あたかも顕正会が殺人集団・殺人組織であると、このように錯覚させることを企んでいるごとくなのだ。
もし、これが図星であるならば、まさに悪質である。教子氏はこれに気がつかないといけない。
証拠のリンクは【後程】
顕正会員が事件を起こしたとしても、わたくしには確かめる術がない。教子氏がウソを書いているかもしれないのだ。
当然、教子氏もそう思われるのは不本意なことなのだろう。ゆえに、証拠のリンクを貼っているわけだ。
宇高明男受刑者
【高知新聞】
証拠のリンクは後程などともったいぶっていたわけだが、そのリンクとはこれである。一見すると高知新聞のサイトにつながるかのごとく思えるが、事実は違っていた。
なんと、あの悪名高きフェイクの記事だったのだ。
犯人の宇高は20年ほど前から顕正会に入り、浅井に洗脳されて狂い、顕正会館にも頻繁に出入りして人々を不幸に陥れる勧誘に狂奔して幹部になっていた。
では、高知新聞はウソなのかと言うと、必ずしもそうではない。ここが教子氏の悪辣さを象徴する部分である。
二十年ほど前から宗教活動に没頭し、高知市内の支部に頻繁に出入り。「熱心な信仰で勧誘にも力を入れている」と信者からも信頼され、支部幹部になった。
どうやらこれが高知新聞の記事のようである。フェイクはこれをベースに前掲のごとく書いているわけだ。当然、教子氏も承知していることだろう。つまり、フェイクが悪辣なのは今さら言うまでもないことだが、教子氏もまったく同罪と言わざるを得ないのである。
今月の初めに、わたくしは次のごとく書いた。
わたくしの思うに、たとえ犯人が顕正会員だったとしても一般の新聞・テレビはそれを報じないはずである。なぜならば無関係だからである。
さらに次のようにも書いた。
つまり、ここで特定の宗教団体の名前を出せば、報道の名を借りた宗教弾圧であるとの批判を免れないのだ。別の言い方をすれば、故意にその団体のイメージダウンを図っている、ということになるだろう。
高知新聞では犯人が宗教活動に没頭していると書いている。しかし、その宗教団体の名前は伏せている。それを暴いたのはフェイクである。
シツコイようだが、再掲しよう。
とうとう、殺人までやる 顕正会(けんしょう会・カルト教団)。
顕正会よ、オマエもか
証拠のリンクは【後程】
宇高明男受刑者
【高知新聞】
これで教子氏の悪辣非道が明白となった。わたくしは教子氏を同罪と書いた。フェイクと同罪と書いたのだ。しかし、あるいはフェイク以上の重罪かもしれないと思う。
最後にもっとも基本的なことを書いておこう。
教育委員会 創価学会 顕正会 工藤美桜 日蓮 武井咲 芹那 芦田愛菜 百田夏菜子 有安杏果 綾瀬はるか ももクロZ 篠崎愛 吉永小百合 上戸彩
これが教子氏のブログの本日現在の総タイトルである。以前、釣りを目的としたタグの多用を批判したけれども、今回は別の批判だ。
日蓮
顕正会的に言えば、大聖人を呼び捨てにするだけでもケシカラン話だ。しかし、それよりも何よりも順列がまったくの意味不明である。教育委員会から見て五番目、個人名としては二番目に大聖人が列せられている。ふざけるのもいい加減にせよと言いたい。これほどの摧尊入卑もあるまい。
2013/6/21
熊本会館での会長講演を中心に
高速太郎氏より、ご自身の経験を踏まえての、有意義なコメントを頂戴した。
アメリカに対して、私は好印象を持っていません。
しかし、今まで出会ったアメリカ人の方達には、好印象を持っています。
アメリカは嫌いだがアメリカ人は好きだ。手っ取り早く言えば、こんなところだろうか?
創価学会は嫌いだが創価学会員は好きだ。
法華講は嫌いだが法華講員は好きだ。
顕正会は嫌いだが顕正会員は好きだ。
この辺は言葉のアヤというか、厳密には違うだろうし、また、組織ごとにも事情が異なるはずだ。
正確には、創価学会は嫌いだが高速太郎氏は好きだ、とするのが妥当なところだろう。アメリカの話に戻せば、アメリカは嫌いだがアメリカ人の○○さんは好きだ、となるはずで、いわゆる人物本位というヤツである。選挙などもわかり易い。政党ではなく人物で選ぶ。こういう投票の仕方もあるわけだ。
組織ごとに事情が異なると書いたのは、まさに顕正会を念頭に置いてのことである。上述のごとく、人物本位という考え方はもっともなことなのだが、組織にドップリと浸かっている熱心な活動会員は自ずとその組織の体質を体現することになる。組織そのものが過激であれば、意識するとしないとにかかわらず、その人も過激にならざるを得ないのだ。
いや、もちろん、例外もあるだろう。それは当然のことであるが、しかし、全体の傾向性として過激な組織にいれば過激になるのが普通である。
ゆえに、顕正会は嫌いだが顕正会員は好き、というケースは少ないように思うのだ。
残念ながら、顕正会は嫌いだし顕正会員も嫌いである、というケースが圧倒的に多いだろう。
さて、そこで顕正新聞第1278号の話題に入ろう。当該号のトップ記事は熊本会館での会長講演であるが、ちょうど上述の話と被る部分がある。
強敵がなければダメなんです。ほめられてばかりではダメなんだ(大笑)。
長崎会館の建設時には凄まじい妨害工作があったそうで、今回の講演では当時のことを振り返って、あれこれと述べている。まさに上掲は、そのような妨害があったからこそ、かえって九州は伸びたのだと、言っているわけである。
わたくしの思うに、この話の延長線上には摂受折伏論がある。結局、三類の強敵があらわれるのは折伏のゆえなのだ。先生は、強敵を悦ぶ信心に立て、と言う。早い話がもっと折伏をやれと言っているようなものなのだ。折伏の結果として相手から嫌われることは自身の罪障消滅になるし、往いては逆縁下種で相手を救うことにもなる。だからいいことなのだと。
この意味では、顕正会そして顕正会員がもっとも日蓮大聖人の精神を受け継いでいるようにも思えるのだが、いかがだろうか?
顕正会は嫌いだし顕正会員も嫌いだ。
こう言われてこそ、仏弟子の面目躍如なのだと。
かつての創価学会がそうだった。日本中から総バッシングを受けていた。創価学会は大嫌いだし創価学会員も大嫌い。もちろん、今もなお毛嫌いしている人はいる。しかし、当時はもっと凄まじかったはずである。
この意味で言えば、創価学会は変質してしまった。まさに変節したのだ。仏弟子からの脱落である。
まあ、しかし、このままでは不満もあるだろうから、顕正会の批判を書いて締め括りたい。顕正会が嫌われるのは仏弟子として当然の姿である・・・と書けば格好いいけれども、現実はちょっと違うと思う。顕正会そして顕正会員が嫌われるのは、ノルマに追われて強引な折伏をするからなのだ。この現実はどのように言葉を取り繕っても覆い隠せるものではないだろう。
一万人の九州大会を
会長講演の続きである。三年後に一万人の九州大会を開くとのことだ。しかし、以前にも同様のことを言っていたはずで、おそらくは時期が違っているはずである。どんどん遅れているのだ。ともかく先生の発言で反故になっているものは数知れずある。たくさんあり過ぎるので、誰も憶えていない。憶えているのは顕正会批判をナリワイ(?)にしている人たちだけである。しかし、いずれは現役会員たちも気がつく時が来るだろう。あれ?おかしいな?と。
「恋慕渇仰」について
これは新鮮だった。わたくしの記憶ではここまで詳しく論じたことはなかったはずである。
日蓮をこいしくをはしせば、常に出ずる日、ゆうべにいづる月ををがませ給え
瑣末な点ながら上掲が気になった。これはわたくしが拝読している平成新編とは異なる。なぜにこの表記を用いたのだろうか?
日蓮をこいしく・をはしせば常に出ずる日ゆうべに・いづる月ををがませ給え
日蓮こいしくをはせば、常に出ずる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。
すなわち前者が御書全集で後者が平成新編である。つまり、浅井先生は全集の表記をベースに書いているわけである。この意味がわからなかった。
さらに瑣末な点を指摘しておこう。
恐るべきは悪智識
なぜに知識ではなく智識なのか、それがわからなかった。
アベノミクス、必ず崩壊
最後にこれを取り上げておこう。当該講演は五月十二日現在のものである。先生の見通しはそれなりに的確だったと言えるだろう。当時はまだ株価も好調だったのだ。
しかし実体経済は少しも改善されていないから、やがて株は暴落する。
きわめて重要な指摘である。
アメリカに対して、私は好印象を持っていません。
しかし、今まで出会ったアメリカ人の方達には、好印象を持っています。
アメリカは嫌いだがアメリカ人は好きだ。手っ取り早く言えば、こんなところだろうか?
創価学会は嫌いだが創価学会員は好きだ。
法華講は嫌いだが法華講員は好きだ。
顕正会は嫌いだが顕正会員は好きだ。
この辺は言葉のアヤというか、厳密には違うだろうし、また、組織ごとにも事情が異なるはずだ。
正確には、創価学会は嫌いだが高速太郎氏は好きだ、とするのが妥当なところだろう。アメリカの話に戻せば、アメリカは嫌いだがアメリカ人の○○さんは好きだ、となるはずで、いわゆる人物本位というヤツである。選挙などもわかり易い。政党ではなく人物で選ぶ。こういう投票の仕方もあるわけだ。
組織ごとに事情が異なると書いたのは、まさに顕正会を念頭に置いてのことである。上述のごとく、人物本位という考え方はもっともなことなのだが、組織にドップリと浸かっている熱心な活動会員は自ずとその組織の体質を体現することになる。組織そのものが過激であれば、意識するとしないとにかかわらず、その人も過激にならざるを得ないのだ。
いや、もちろん、例外もあるだろう。それは当然のことであるが、しかし、全体の傾向性として過激な組織にいれば過激になるのが普通である。
ゆえに、顕正会は嫌いだが顕正会員は好き、というケースは少ないように思うのだ。
残念ながら、顕正会は嫌いだし顕正会員も嫌いである、というケースが圧倒的に多いだろう。
さて、そこで顕正新聞第1278号の話題に入ろう。当該号のトップ記事は熊本会館での会長講演であるが、ちょうど上述の話と被る部分がある。
強敵がなければダメなんです。ほめられてばかりではダメなんだ(大笑)。
長崎会館の建設時には凄まじい妨害工作があったそうで、今回の講演では当時のことを振り返って、あれこれと述べている。まさに上掲は、そのような妨害があったからこそ、かえって九州は伸びたのだと、言っているわけである。
わたくしの思うに、この話の延長線上には摂受折伏論がある。結局、三類の強敵があらわれるのは折伏のゆえなのだ。先生は、強敵を悦ぶ信心に立て、と言う。早い話がもっと折伏をやれと言っているようなものなのだ。折伏の結果として相手から嫌われることは自身の罪障消滅になるし、往いては逆縁下種で相手を救うことにもなる。だからいいことなのだと。
この意味では、顕正会そして顕正会員がもっとも日蓮大聖人の精神を受け継いでいるようにも思えるのだが、いかがだろうか?
顕正会は嫌いだし顕正会員も嫌いだ。
こう言われてこそ、仏弟子の面目躍如なのだと。
かつての創価学会がそうだった。日本中から総バッシングを受けていた。創価学会は大嫌いだし創価学会員も大嫌い。もちろん、今もなお毛嫌いしている人はいる。しかし、当時はもっと凄まじかったはずである。
この意味で言えば、創価学会は変質してしまった。まさに変節したのだ。仏弟子からの脱落である。
まあ、しかし、このままでは不満もあるだろうから、顕正会の批判を書いて締め括りたい。顕正会が嫌われるのは仏弟子として当然の姿である・・・と書けば格好いいけれども、現実はちょっと違うと思う。顕正会そして顕正会員が嫌われるのは、ノルマに追われて強引な折伏をするからなのだ。この現実はどのように言葉を取り繕っても覆い隠せるものではないだろう。
一万人の九州大会を
会長講演の続きである。三年後に一万人の九州大会を開くとのことだ。しかし、以前にも同様のことを言っていたはずで、おそらくは時期が違っているはずである。どんどん遅れているのだ。ともかく先生の発言で反故になっているものは数知れずある。たくさんあり過ぎるので、誰も憶えていない。憶えているのは顕正会批判をナリワイ(?)にしている人たちだけである。しかし、いずれは現役会員たちも気がつく時が来るだろう。あれ?おかしいな?と。
「恋慕渇仰」について
これは新鮮だった。わたくしの記憶ではここまで詳しく論じたことはなかったはずである。
日蓮をこいしくをはしせば、常に出ずる日、ゆうべにいづる月ををがませ給え
瑣末な点ながら上掲が気になった。これはわたくしが拝読している平成新編とは異なる。なぜにこの表記を用いたのだろうか?
日蓮をこいしく・をはしせば常に出ずる日ゆうべに・いづる月ををがませ給え
日蓮こいしくをはせば、常に出ずる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ。
すなわち前者が御書全集で後者が平成新編である。つまり、浅井先生は全集の表記をベースに書いているわけである。この意味がわからなかった。
さらに瑣末な点を指摘しておこう。
恐るべきは悪智識
なぜに知識ではなく智識なのか、それがわからなかった。
アベノミクス、必ず崩壊
最後にこれを取り上げておこう。当該講演は五月十二日現在のものである。先生の見通しはそれなりに的確だったと言えるだろう。当時はまだ株価も好調だったのだ。
しかし実体経済は少しも改善されていないから、やがて株は暴落する。
きわめて重要な指摘である。
2013/6/20
第1277号拾い読み
一週間ぶりの更新であるが、今日は五月度総幹部会の記事を取り上げる。
「中国の増日教育を眼前にして」
増日?
単なる誤植だろう。憎日と書くべきところだが、わたくしのパソコンでは変換できない。たぶん顕正新聞編集部で使っているパソコンも同様なのだろう。
さて、記事の内容だが、これは男子部組長の登壇である。彼は四歳まで中国で生活していたそうで、その後、日本で生活するようになって、高校一年生の時に諫暁書を配布に来てくれた女子部の人の縁で入信した。大学受験に失敗し、再び中国へ渡ったという。ようはそこでの見聞がこの記事の主眼である。
テレビ番組の2/3以上が反日ドラマ
学校では「日本人を殺せ」の演説も
わたくしにはよくわからないが、生活実感として言えることは、日本にはたくさんの中国人がいることだ。コンビニのアルバイト店員など、見た目ではまったくわからないが、名札を見ると中国名だったりする。また、駅近辺には各種の専門学校があって、そこの若者たちが何やら会話しているのを聞くと、どうやら日本語ではないようなのだ。いったい何の専門学校なのかを確かめてみると、外国語の学校らしい。まさか日本人同士の専門学校生がわざと外国語でしゃべっているとも思えないので、たぶん彼らは中国人なのだろう。中国人たちが日本語を学ぶ専門学校なのだと思われるのだ。
また、町の中華屋さんも時代と共に変貌を遂げてきた。今は激安のチェーン店がそちこちにあって、個人の中華料理店は経営が苦しい。日本人で新規開業する人はほとんどいない。わたくしの地域では、新しい店ができたとすると、その十中八九は中国人によるものである。これはたぶん全国的にも同じ傾向ではないかと思う。
さて、憎日教育に話を戻そう。
わたくしがオヒトヨシなだけなのか、どうも日本に来ている中国人には親日家が多いのではないかという気がする。もし、これが事実だとすると、彼らにとって中国本土における憎日教育とは何なのだろうかという疑問が残る。この辺がわたくしにはよくわからないのだ。尖閣問題をはじめ、日中間にはさまざまのワダカマリがあるのは事実だ。しかし、庶民感情としてはそれほど極端に関係が悪化しているとも思えない。繰り返しになるが、わたくしがオヒトヨシなだけなのか、考えが甘すぎるのか、自問自答を繰り返すのみである。
活動報告が凄い。四本のうち、三本が真言関係である。
江の島大師・竜の口一帯に特集号配布
池口恵観の秘書に「真言亡国」告げる
邪宗群がる京都についに会館屹立
東寺と比叡山延暦寺で特集号配布
前者が第十五女子部長で後者が第五十四区長である。女子部の活動力は凄まじい。
しかし、やや疑問ではある。
両方の記事とも真言宗破折がメインであり、かの叡山もまた、いわゆる台密であるからして真言破折の一環に括られるわけなのだろう。それは結構だが、いずれも信仰というよりは観光の意味合いが強いところだ。そこで真言亡国を息巻いても効果があるとは思えない。どうせならば御遺命守護の特集号を新たに作って、正宗寺院をターゲットにしたらどうかと進言しておきたい。
さて、もう一つの真言関係の登壇は、男性婦人部員によるものである。この記事は真言の罰の現証の凄まじさをこれでもかというくらい書き連ねているが、次のくだりを紹介するにとどめておく。
四国八十八ヶ所巡礼の際に、新車のハンドルが抜けたり・・・
マンガみたいな話だ。
「どうしてそんなに元気なの?」
82歳の私の元気を見て入信相次ぐ
この活動報告は素晴らしい。婦人部の組長さんだが、上掲のごとく、八十二歳の老婦人だ。
私は八二歳になりますが、自ら車を運転して尋ねて行きますと、対象者がまず私のその姿に驚き・・・
素晴らしい記事だが、悩ましい意味もある。ようするに他の宗教をやっている人でも元気な人はたくさんいるのだ。もしかしたら真言宗の人でもっと凄い人がいるかもしれないのだ。あるいは創価学会にもいるかもしれないし、当然ながら法華講員にもいることだろう。ゆえに簡単ではない。悩ましいのだ。
釈尊の話ばかりの正信会住職
正義にめざめてであるが、ちょっと解せない。正信会は日蓮正宗の分派である。それが釈尊の話ばかりするとは考えられない。ただし、宗門の立場から言うならば、しょせん異流儀団体とはそんなものだ、時間の経過と共にどんどん変質してしまうものである、と言ったところだろうか?
つまりは顕正会にも同様の危険性があるわけだ。
九州女子部、二箇部の新体制で
この記事で目を惹いたのは、いままで九州女子部のトップだった人物が熊本会館の管理主任専任となったことだ。わたくしの勝手なイメージを書けば、これは裏方に回ったに等しいことである。ややもすれば降格のような印象も拭えない。
「敦賀原発に活断層」規制委認定
廃炉ドミノ≠フ可能性も
廃炉ドミノが斬新な表現だと思った。
上海に豚の屍骸一万頭漂流!
病死豚肉はミートソース等に流用
シリーズものであるが、今回もまた凄まじい。中国の河川に投棄された大量の豚の屍骸・・・この写真は衝撃的だ。
「中国の増日教育を眼前にして」
増日?
単なる誤植だろう。憎日と書くべきところだが、わたくしのパソコンでは変換できない。たぶん顕正新聞編集部で使っているパソコンも同様なのだろう。
さて、記事の内容だが、これは男子部組長の登壇である。彼は四歳まで中国で生活していたそうで、その後、日本で生活するようになって、高校一年生の時に諫暁書を配布に来てくれた女子部の人の縁で入信した。大学受験に失敗し、再び中国へ渡ったという。ようはそこでの見聞がこの記事の主眼である。
テレビ番組の2/3以上が反日ドラマ
学校では「日本人を殺せ」の演説も
わたくしにはよくわからないが、生活実感として言えることは、日本にはたくさんの中国人がいることだ。コンビニのアルバイト店員など、見た目ではまったくわからないが、名札を見ると中国名だったりする。また、駅近辺には各種の専門学校があって、そこの若者たちが何やら会話しているのを聞くと、どうやら日本語ではないようなのだ。いったい何の専門学校なのかを確かめてみると、外国語の学校らしい。まさか日本人同士の専門学校生がわざと外国語でしゃべっているとも思えないので、たぶん彼らは中国人なのだろう。中国人たちが日本語を学ぶ専門学校なのだと思われるのだ。
また、町の中華屋さんも時代と共に変貌を遂げてきた。今は激安のチェーン店がそちこちにあって、個人の中華料理店は経営が苦しい。日本人で新規開業する人はほとんどいない。わたくしの地域では、新しい店ができたとすると、その十中八九は中国人によるものである。これはたぶん全国的にも同じ傾向ではないかと思う。
さて、憎日教育に話を戻そう。
わたくしがオヒトヨシなだけなのか、どうも日本に来ている中国人には親日家が多いのではないかという気がする。もし、これが事実だとすると、彼らにとって中国本土における憎日教育とは何なのだろうかという疑問が残る。この辺がわたくしにはよくわからないのだ。尖閣問題をはじめ、日中間にはさまざまのワダカマリがあるのは事実だ。しかし、庶民感情としてはそれほど極端に関係が悪化しているとも思えない。繰り返しになるが、わたくしがオヒトヨシなだけなのか、考えが甘すぎるのか、自問自答を繰り返すのみである。
活動報告が凄い。四本のうち、三本が真言関係である。
江の島大師・竜の口一帯に特集号配布
池口恵観の秘書に「真言亡国」告げる
邪宗群がる京都についに会館屹立
東寺と比叡山延暦寺で特集号配布
前者が第十五女子部長で後者が第五十四区長である。女子部の活動力は凄まじい。
しかし、やや疑問ではある。
両方の記事とも真言宗破折がメインであり、かの叡山もまた、いわゆる台密であるからして真言破折の一環に括られるわけなのだろう。それは結構だが、いずれも信仰というよりは観光の意味合いが強いところだ。そこで真言亡国を息巻いても効果があるとは思えない。どうせならば御遺命守護の特集号を新たに作って、正宗寺院をターゲットにしたらどうかと進言しておきたい。
さて、もう一つの真言関係の登壇は、男性婦人部員によるものである。この記事は真言の罰の現証の凄まじさをこれでもかというくらい書き連ねているが、次のくだりを紹介するにとどめておく。
四国八十八ヶ所巡礼の際に、新車のハンドルが抜けたり・・・
マンガみたいな話だ。
「どうしてそんなに元気なの?」
82歳の私の元気を見て入信相次ぐ
この活動報告は素晴らしい。婦人部の組長さんだが、上掲のごとく、八十二歳の老婦人だ。
私は八二歳になりますが、自ら車を運転して尋ねて行きますと、対象者がまず私のその姿に驚き・・・
素晴らしい記事だが、悩ましい意味もある。ようするに他の宗教をやっている人でも元気な人はたくさんいるのだ。もしかしたら真言宗の人でもっと凄い人がいるかもしれないのだ。あるいは創価学会にもいるかもしれないし、当然ながら法華講員にもいることだろう。ゆえに簡単ではない。悩ましいのだ。
釈尊の話ばかりの正信会住職
正義にめざめてであるが、ちょっと解せない。正信会は日蓮正宗の分派である。それが釈尊の話ばかりするとは考えられない。ただし、宗門の立場から言うならば、しょせん異流儀団体とはそんなものだ、時間の経過と共にどんどん変質してしまうものである、と言ったところだろうか?
つまりは顕正会にも同様の危険性があるわけだ。
九州女子部、二箇部の新体制で
この記事で目を惹いたのは、いままで九州女子部のトップだった人物が熊本会館の管理主任専任となったことだ。わたくしの勝手なイメージを書けば、これは裏方に回ったに等しいことである。ややもすれば降格のような印象も拭えない。
「敦賀原発に活断層」規制委認定
廃炉ドミノ≠フ可能性も
廃炉ドミノが斬新な表現だと思った。
上海に豚の屍骸一万頭漂流!
病死豚肉はミートソース等に流用
シリーズものであるが、今回もまた凄まじい。中国の河川に投棄された大量の豚の屍骸・・・この写真は衝撃的だ。
2013/6/13
コピペばかりの手抜きブログを叱る
各方面からコメントが寄せられているので、まずはそれぞれご挨拶申し上げよう。
2013/6/9 15:09
投稿者:へな
「気になったのは、たくさんの写真が掲載されているにもかかわらず、会館の外観を示す写真が一枚もないことだ。何か理由があるのだろうか?」
これは単に5/5号に掲載しているから省いたのではないでしょうか。
ああ、なるほど、これは確かにそのとおりだ。どうもわたくしはアラサガシというか、何かしらイチャモンをつけたいという、悪いクセが身に付いてしまっているようで、顕正新聞批判と書けば聞こえはいいものの、実際はケチをつけることが目的化してしまっているような感じが否めないのだ。これは大いに反省しないといけない。
2013/6/9 10:11
投稿者:【教育委員会】
4つ前の記事
『火に油を注ぐブログ?』
にて、私【教育委員会】と、【バーズ(顕正会の信者?と言うより、浅井昭衛狂)】
との コメントのやり取りを【再掲】します。
☆まず、私【教育委員会】から(以下省略)
2013/6/9 10:45
投稿者:【教育委員会】
「バーズ」からの「横槍コメント」を【再掲】します
バーズの異常性が、よく解ります(以下省略)
これはむしろ教子氏の異常性がよくわかる事例ではないかと思う。
省略部分は単なるコピペなので、煩瑣を避けて掲載を控えた。ようするに、教子氏の今回のコメントは上掲だけであり、まったく中身がない。まるで何が言いたいのか伝わらない文章なのだ。
強いて挙げるならば、バーズ氏を浅井昭衛狂と決め付けていることが一点、そしてこれまた頭ごなしに異常性がよくわかるなどと決め付けていること、この二点だろう。
教師の教子氏に説教するのも失礼な話だが、あえて言わせてもらおう。教子氏は説明能力ゼロである。
わたくしの予想では上掲のコメントの後に、具体的な説明がなされるものと思っていた。ようするに、バーズ氏のコメントの一々を取り上げて、具体的にどこがどのように異常であるかを詳しく説明するのではないかと思っていたのだ。
ところがナシの礫である。
確かに世の中には、これは誰が読んでも異常だという文章もあるわけで、そういう場合はあえて説明せずにその文章を晒しておくのも手ではある。しかし、バーズ氏の文章がそれほど異常であるとは思えないので、この場合はそれなりの説明が必要のはずなのだ。
それともう一つ、教子氏はご自分の文章も再掲しているわけだが、そこには例のナリスマシの話が出てくる。
これもおかしな話なのだ。
ようするにわたくしは反証を示したのだ。いや、厳密には反証と呼べるほどのものではないのだが、ようするにくだんの総班長がナリスマシであるとする決定的な理由がどこにもないことを指摘したわけである。ゆえに、もし教子氏がそれでもなお自説を主張したいのであれば、何かしら新材料を用意しないといけないはずなのだ。同じ主張を繰り返したところで、こちらとしてはそこに疑義を差し挟んでいるわけだから、まったく無意味である。
結局のところ、教子氏のやっていることは、バーズ氏を浅井昭衛狂だの異常だのと罵倒すること、ただそれだけなのだ。
こうして見ると、逆に教子氏の異常性が浮き彫りになってきたのではあるまいか?
いかがだろう。説明とはこういうものである。面倒臭いようでも、書くべきところはしっかり書いておかないと相手には伝わらないのだ。
2013/6/11 0:30
投稿者:バーズ
>教子ちゃん
まだ懲りないのかい?
では場外乱闘の続きといきますか、教子ちゃん。
一方のバーズ氏は場外乱闘と断わってはいるものの、議論の仕方を心得ているわけで、以下の文章は理路整然としたものである。具体的には省略させていただくが、単なるコピペではなく、自説をしっかりと展開している。
そして文末は次のごとく締め括っている。
とりあえずゴチャゴチャ言う前に、まず巌虎さんの質問にキチンと答えなさい。宿題を先にやりなさい。
キミが巌虎さんの質問に真面目に答えることができたら、みんなから本物の教師だと信じてもらえるかもしれない。
教子ちゃん、頑張れ!
この部分について思うところを書いておこう。
教子氏はわたくしの疑問・質問に答えていない。しかし、わたくしはあまり深く追求しない。相手が同じことを繰り返し書いてくる場合は、仕方がないのでこちらも同じことを繰り返し書く場合もある。しかし、そうじゃない場合は繰り返さない。いわば、それが一つの結論なのだ。ようするに質問に答えられない、すなわち回答不能である、という結論なのである。わたくしとしてはそこでダメ押しをせず、あとは読者の判断に委ねることにしているわけだ。
みんなから本物の教師だと信じてもらえるかもしれない。
再掲であるが、ここはひじょうに面白いところだ。
ようするに教子氏は疑われているのだ。大勢の人たちから疑われている。ニセの教師というか、単にネット上で教師を騙っているだけの、現実には教師とはまるで無縁の人であると、このように疑われているわけである。
ところがである。すでにお気づきというか、拙ブログの読者ならば先刻承知のことと思うが、わたくしは教子氏を教師であると前提してあれこれと書かせてもらっているわけである。
この意味はひじょうに簡単で、わたくしには確かめる術がないこと、これがまず一つ、そしてもう一つは昔から言っていることだが、基本的には相手の言うことを善意に解釈する、これがわたくしのスタンスなのだ。
ゆえに今回の拙稿では冒頭に反省の意味を書いたわけで、最初から疑って掛かるのは失礼であるし、また、そのような姿勢が判断を曇らせることにもなる。いや、もちろん、逆もまた真であり、最初から無条件に信じ込んでしまうのも危険なことではあるのだが、いずれにしても教子氏が教師であろうがなかろうがわたくしには実害がないので、その意味では疑う必要はないわけだ。
さて、常識人のバーズ氏であれば、上述のことなど百も承知のことだろう。
では、なぜにバーズ氏は教子氏が教師であることを疑うのか?
たぶん、難しい理屈は必要ないのだろう。
つまり、いかにもウソ臭い、ということなのだ。
ここからはわたくしの個人的な感覚で書くことになるが、確かにウソ臭いことは事実だ。その理由はいくつもある。まず、ブログの内容がきわめて偏向的であることだ。顕正会の中にも教師はいる。創価学会にはもっとたくさんいるだろう。この人たちは決して教子氏に同調しないはずである。ようするに、教師という立場で顕正会や創価学会を批判する人もいれば、逆に擁護する人もいるわけである。まさにここがポイントである。わたくしの個人的感覚からすれば、むしろ本物の教師であれば己の立場を隠すはずなのだ。
ゆえに教子氏が教師を名乗ることはいかにもウソ臭いことであるが、さらに極端なことを言わせてもらえば、いかにも中途半端であることだ。
ネット上には実名で活動している人もいる。卑近な例では沖浦氏が挙げられよう。日本ではいわゆるハンドルネームが一般的であるが、諸外国では実名が一般的なところもあると聞く。日本で実名の人は、元々が有名人であるか、これから有名人になりたい人なのだろう。
これで中途半端の意味がわかったはずだ。教子氏に進言したい。どうせならば実名でいっそのこと顔写真も公開してしまったらどうかと。
昔話をしよう。
わたくしは子供の頃、いわゆる貧乏長屋に住んでいた。近所の子供たちで集まっている時、一人の子供が言った。ウチのお父さんは社長なんだよと。他の子供たちが一斉に叫んだ。ウソだろうがと。
この話の続きが面白い。
くだんの子供が言った。じゃあ、今、ウチにお母さんがいるから聞いてみる? そうだそうだ、聞きに行こう。
ねえ、お母さん。ウチのお父さん、社長なんだよね?
ええ、そうよ。
小学校の低学年だったと思う。子供たちはポカンとしているだけだった。素直に信じてしまったのか、あるいは内心で疑いを払拭できずにいたのか、今となっては思い出せないが、たとえ疑いを拭えなかったとしても、さすがに大人の女性に向かってウソだろうがとは言えなかったに違いないのだ。
さて、話を戻そう。
わたくしがウソ臭いことを承知しつつも、あくまで教子氏を教師であると前提してあれこれ書いている意味が見えてきたのではないかと思う。この際、実名顔写真公開でやればと進言したのも同様である。ようするに、いかにも子供っぽ過ぎるのである。ウチのお父さんが社長であると言っていた子供と、いったいどれほどの差があるのだろうかと言いたいのだ。
以前、バーズ氏から教子氏に対し、面会の申し込みがあった。これが実現していれば、かなり話は違ったはずだ。しかし、今のままであれば、十年経とうが二十年経とうが何も変わらないのだ。
もっとも、教育委員会だとか教師だとか、そういう肩書きがお遊びの範疇であれば、それでいいのだろうけれども・・・
お説教を続けよう。
バーズ氏と教子氏、いずれも文末にリンクを貼っている。そこで本日現在のリンク先の状況を確認してみたわけだが、彼我の差歴然と言わざるを得ないだろう。
バーズ氏のミステリータッチ(?)の文章はひじょうに面白い。相手のあることなので、反論があるかもしれないが、ともかく現時点では相当の説得力を有している。しかも続きがあるらしく、ぜひ続きも読んでみたいと思わせるだけの力が彼にはある。
一方の教子氏であるが、残念と申し上げる以外に言葉がない。ようするにコピペの繰り返しなのだ。毎回、新しい文章が加味されてはいるものの、全体の分量からすると大したことがない。大半が過去の文章のコピペである。しかもリンクのコピペがやたらと多い。おそらくは次の更新もまた次の更新も同じことの繰り返しだろう。純粋に新規の文章だけを載せたらどうかと進言したい。それでこそ己の実力がわかるというものだ。
2013/6/9 15:09
投稿者:へな
「気になったのは、たくさんの写真が掲載されているにもかかわらず、会館の外観を示す写真が一枚もないことだ。何か理由があるのだろうか?」
これは単に5/5号に掲載しているから省いたのではないでしょうか。
ああ、なるほど、これは確かにそのとおりだ。どうもわたくしはアラサガシというか、何かしらイチャモンをつけたいという、悪いクセが身に付いてしまっているようで、顕正新聞批判と書けば聞こえはいいものの、実際はケチをつけることが目的化してしまっているような感じが否めないのだ。これは大いに反省しないといけない。
2013/6/9 10:11
投稿者:【教育委員会】
4つ前の記事
『火に油を注ぐブログ?』
にて、私【教育委員会】と、【バーズ(顕正会の信者?と言うより、浅井昭衛狂)】
との コメントのやり取りを【再掲】します。
☆まず、私【教育委員会】から(以下省略)
2013/6/9 10:45
投稿者:【教育委員会】
「バーズ」からの「横槍コメント」を【再掲】します
バーズの異常性が、よく解ります(以下省略)
これはむしろ教子氏の異常性がよくわかる事例ではないかと思う。
省略部分は単なるコピペなので、煩瑣を避けて掲載を控えた。ようするに、教子氏の今回のコメントは上掲だけであり、まったく中身がない。まるで何が言いたいのか伝わらない文章なのだ。
強いて挙げるならば、バーズ氏を浅井昭衛狂と決め付けていることが一点、そしてこれまた頭ごなしに異常性がよくわかるなどと決め付けていること、この二点だろう。
教師の教子氏に説教するのも失礼な話だが、あえて言わせてもらおう。教子氏は説明能力ゼロである。
わたくしの予想では上掲のコメントの後に、具体的な説明がなされるものと思っていた。ようするに、バーズ氏のコメントの一々を取り上げて、具体的にどこがどのように異常であるかを詳しく説明するのではないかと思っていたのだ。
ところがナシの礫である。
確かに世の中には、これは誰が読んでも異常だという文章もあるわけで、そういう場合はあえて説明せずにその文章を晒しておくのも手ではある。しかし、バーズ氏の文章がそれほど異常であるとは思えないので、この場合はそれなりの説明が必要のはずなのだ。
それともう一つ、教子氏はご自分の文章も再掲しているわけだが、そこには例のナリスマシの話が出てくる。
これもおかしな話なのだ。
ようするにわたくしは反証を示したのだ。いや、厳密には反証と呼べるほどのものではないのだが、ようするにくだんの総班長がナリスマシであるとする決定的な理由がどこにもないことを指摘したわけである。ゆえに、もし教子氏がそれでもなお自説を主張したいのであれば、何かしら新材料を用意しないといけないはずなのだ。同じ主張を繰り返したところで、こちらとしてはそこに疑義を差し挟んでいるわけだから、まったく無意味である。
結局のところ、教子氏のやっていることは、バーズ氏を浅井昭衛狂だの異常だのと罵倒すること、ただそれだけなのだ。
こうして見ると、逆に教子氏の異常性が浮き彫りになってきたのではあるまいか?
いかがだろう。説明とはこういうものである。面倒臭いようでも、書くべきところはしっかり書いておかないと相手には伝わらないのだ。
2013/6/11 0:30
投稿者:バーズ
>教子ちゃん
まだ懲りないのかい?
では場外乱闘の続きといきますか、教子ちゃん。
一方のバーズ氏は場外乱闘と断わってはいるものの、議論の仕方を心得ているわけで、以下の文章は理路整然としたものである。具体的には省略させていただくが、単なるコピペではなく、自説をしっかりと展開している。
そして文末は次のごとく締め括っている。
とりあえずゴチャゴチャ言う前に、まず巌虎さんの質問にキチンと答えなさい。宿題を先にやりなさい。
キミが巌虎さんの質問に真面目に答えることができたら、みんなから本物の教師だと信じてもらえるかもしれない。
教子ちゃん、頑張れ!
この部分について思うところを書いておこう。
教子氏はわたくしの疑問・質問に答えていない。しかし、わたくしはあまり深く追求しない。相手が同じことを繰り返し書いてくる場合は、仕方がないのでこちらも同じことを繰り返し書く場合もある。しかし、そうじゃない場合は繰り返さない。いわば、それが一つの結論なのだ。ようするに質問に答えられない、すなわち回答不能である、という結論なのである。わたくしとしてはそこでダメ押しをせず、あとは読者の判断に委ねることにしているわけだ。
みんなから本物の教師だと信じてもらえるかもしれない。
再掲であるが、ここはひじょうに面白いところだ。
ようするに教子氏は疑われているのだ。大勢の人たちから疑われている。ニセの教師というか、単にネット上で教師を騙っているだけの、現実には教師とはまるで無縁の人であると、このように疑われているわけである。
ところがである。すでにお気づきというか、拙ブログの読者ならば先刻承知のことと思うが、わたくしは教子氏を教師であると前提してあれこれと書かせてもらっているわけである。
この意味はひじょうに簡単で、わたくしには確かめる術がないこと、これがまず一つ、そしてもう一つは昔から言っていることだが、基本的には相手の言うことを善意に解釈する、これがわたくしのスタンスなのだ。
ゆえに今回の拙稿では冒頭に反省の意味を書いたわけで、最初から疑って掛かるのは失礼であるし、また、そのような姿勢が判断を曇らせることにもなる。いや、もちろん、逆もまた真であり、最初から無条件に信じ込んでしまうのも危険なことではあるのだが、いずれにしても教子氏が教師であろうがなかろうがわたくしには実害がないので、その意味では疑う必要はないわけだ。
さて、常識人のバーズ氏であれば、上述のことなど百も承知のことだろう。
では、なぜにバーズ氏は教子氏が教師であることを疑うのか?
たぶん、難しい理屈は必要ないのだろう。
つまり、いかにもウソ臭い、ということなのだ。
ここからはわたくしの個人的な感覚で書くことになるが、確かにウソ臭いことは事実だ。その理由はいくつもある。まず、ブログの内容がきわめて偏向的であることだ。顕正会の中にも教師はいる。創価学会にはもっとたくさんいるだろう。この人たちは決して教子氏に同調しないはずである。ようするに、教師という立場で顕正会や創価学会を批判する人もいれば、逆に擁護する人もいるわけである。まさにここがポイントである。わたくしの個人的感覚からすれば、むしろ本物の教師であれば己の立場を隠すはずなのだ。
ゆえに教子氏が教師を名乗ることはいかにもウソ臭いことであるが、さらに極端なことを言わせてもらえば、いかにも中途半端であることだ。
ネット上には実名で活動している人もいる。卑近な例では沖浦氏が挙げられよう。日本ではいわゆるハンドルネームが一般的であるが、諸外国では実名が一般的なところもあると聞く。日本で実名の人は、元々が有名人であるか、これから有名人になりたい人なのだろう。
これで中途半端の意味がわかったはずだ。教子氏に進言したい。どうせならば実名でいっそのこと顔写真も公開してしまったらどうかと。
昔話をしよう。
わたくしは子供の頃、いわゆる貧乏長屋に住んでいた。近所の子供たちで集まっている時、一人の子供が言った。ウチのお父さんは社長なんだよと。他の子供たちが一斉に叫んだ。ウソだろうがと。
この話の続きが面白い。
くだんの子供が言った。じゃあ、今、ウチにお母さんがいるから聞いてみる? そうだそうだ、聞きに行こう。
ねえ、お母さん。ウチのお父さん、社長なんだよね?
ええ、そうよ。
小学校の低学年だったと思う。子供たちはポカンとしているだけだった。素直に信じてしまったのか、あるいは内心で疑いを払拭できずにいたのか、今となっては思い出せないが、たとえ疑いを拭えなかったとしても、さすがに大人の女性に向かってウソだろうがとは言えなかったに違いないのだ。
さて、話を戻そう。
わたくしがウソ臭いことを承知しつつも、あくまで教子氏を教師であると前提してあれこれ書いている意味が見えてきたのではないかと思う。この際、実名顔写真公開でやればと進言したのも同様である。ようするに、いかにも子供っぽ過ぎるのである。ウチのお父さんが社長であると言っていた子供と、いったいどれほどの差があるのだろうかと言いたいのだ。
以前、バーズ氏から教子氏に対し、面会の申し込みがあった。これが実現していれば、かなり話は違ったはずだ。しかし、今のままであれば、十年経とうが二十年経とうが何も変わらないのだ。
もっとも、教育委員会だとか教師だとか、そういう肩書きがお遊びの範疇であれば、それでいいのだろうけれども・・・
お説教を続けよう。
バーズ氏と教子氏、いずれも文末にリンクを貼っている。そこで本日現在のリンク先の状況を確認してみたわけだが、彼我の差歴然と言わざるを得ないだろう。
バーズ氏のミステリータッチ(?)の文章はひじょうに面白い。相手のあることなので、反論があるかもしれないが、ともかく現時点では相当の説得力を有している。しかも続きがあるらしく、ぜひ続きも読んでみたいと思わせるだけの力が彼にはある。
一方の教子氏であるが、残念と申し上げる以外に言葉がない。ようするにコピペの繰り返しなのだ。毎回、新しい文章が加味されてはいるものの、全体の分量からすると大したことがない。大半が過去の文章のコピペである。しかもリンクのコピペがやたらと多い。おそらくは次の更新もまた次の更新も同じことの繰り返しだろう。純粋に新規の文章だけを載せたらどうかと進言したい。それでこそ己の実力がわかるというものだ。
2013/6/9
会長講演拾い読み
顕正新聞第1277号は五月二十二日の総幹部会を中心に記事が組まれている。今回の会長講演にはそれほどの目新しさはないが、いくつか書き残しておこうと思う。
沖縄県に自界叛逆
これは簡単な話ではない。
今の沖縄は基地問題を中心に動いている。早い話が基地反対である。これが強い勢力を持っているわけで、新聞・テレビの報道もこの辺りにスポットが当てられている。そうした民意を受け取ってのことだろう、某総理が基地移転を謳ったこともあった。しかし、ご存知のごとく、実現しなかった。
一方で、基地に依存して生活している人もいる。この人たちにとっては、基地こそが生活の基盤なのだ。ぶっちゃけ言えば、メシのタネである。
また、琉球独立を夢見る人たちもいる。はたしてどのくらいの人数がいるのか定かではないが、琉球王国の末裔だっているだろうから、王国の復活を夢見る人がいても不思議はない。ただし、現実問題として、日本から独立してやっていけるのか、そこは甚だ疑問であろう。ゆえに夢なのだ。
今、わたくしの拙い知識で思いつくままに書いたわけだが、ともかくさまざまの思惑が渦巻いている。それを自界叛逆と言えば、それはそうなのかもしれないが、必ずしも中国の対日工作が効を奏しているとは言えないのではないか、基地反対はごく自然な住民感情であり必ずしも中国に踊らされていることにはならないのではないか、と思う。
尖閣奪取はある意味、簡単である。中国がその気になれば可能なことだ。しかし、沖縄は簡単ではない。なぜならば人が住んでいるからだ。
以上、浅井先生の他国侵逼論に批判を加えさせていただいた。たとえ中国が沖縄を狙っている・ほしがっていることが事実であったとしても、今すぐどうなるものでもなかろう。これが結論だ。
アメリカは守ってくれない!
わたくしはこの件に関して、あまり大局的には考えていない。先ほどの基地問題で書いたごとく、地元の生活者の目線で見たいと思う。ようするに安全保障上の理由から基地が必要なのではなく、地元の雇用のために必要なのだ。
実は原発問題も同じであって、原発が稼働してくれたほうがどれだけ雇用が守られるか、ようは人々の生活が守られるかという側面がある。しかし、ご存知のごとく、放射能の問題があるからダメなのだ。
ひるがえって基地問題の場合、はたして安全保障の上から米軍がどれだけ有効であるかは疑問がなくもない。浅井先生の言うようにイザという時には守ってくれないかもしれない。しかし、それは別の問題なのだ。ようは我々にとって大事なのは目の前の生活なのである。
日米関係にすきま風
浅井先生の言っていることは決して間違いではない。けれども、やや偏重があるようにも感じられるところである。ようは自分にとって都合の良い情報だけをかき集めて、それで論を組み立てているのだ。
このように、いま日米の間では、歴史認識とか従軍慰安婦問題で、いつのまにか隙間風が吹いているのであります。
橋下発言を念頭に置いて論じているのだろう。かの人物はこれまでにも過激な発言で物議を醸してきた。ようは少々のバッシングではへこたれない胆力の持ち主なのだろう。しかし、今回は様子が違った。かなりのダメージを受けているのではないかと思う。
ところで浅井先生も歴史認識については一家言を持っている。
しかし、今回の講演では煩瑣になるので避けたのか、あるいは別の意図からか、ともかくうまく言及を避けたようである。この辺が浅井先生の巧妙なところで、もし発言するとしたら、おそらくは橋下問題が一段落した頃を見計らってのことだろう。
そのうえ、安倍政権のロケットスタートは必ず「始め良し、後で大罰」となる。
浅井先生の予言が当たったわけではないだろうが、六月に入ってから株価も為替もあやしくなって来た。もちろん、相場は上がったり下がったりを繰り返すものなので、この先どうなるかはわからない。それにしても都議選と参院選を目前に控えた時期である。この意味で経済の動向はきわめて重要だ。
その顕正会は、いよいよ七月に一六〇万に成る。この一六〇万はまもなく二百万になり、五百万になり、一千万になる。そしてこの死身弘法を進める中に、客観状勢の緊迫により、国立戒壇を決する六千万地涌出現は一時に成るのであります。
当該講演における最も重要な発言である。従来の発言との差異を挙げるならば、年限を切らなかったことだ。ようは、あと○○年、という得意のフレーズを使わなかったのだ。より厳密に言えば、使わなかったのではなく、使えなかったのだろう。
沖縄県に自界叛逆
これは簡単な話ではない。
今の沖縄は基地問題を中心に動いている。早い話が基地反対である。これが強い勢力を持っているわけで、新聞・テレビの報道もこの辺りにスポットが当てられている。そうした民意を受け取ってのことだろう、某総理が基地移転を謳ったこともあった。しかし、ご存知のごとく、実現しなかった。
一方で、基地に依存して生活している人もいる。この人たちにとっては、基地こそが生活の基盤なのだ。ぶっちゃけ言えば、メシのタネである。
また、琉球独立を夢見る人たちもいる。はたしてどのくらいの人数がいるのか定かではないが、琉球王国の末裔だっているだろうから、王国の復活を夢見る人がいても不思議はない。ただし、現実問題として、日本から独立してやっていけるのか、そこは甚だ疑問であろう。ゆえに夢なのだ。
今、わたくしの拙い知識で思いつくままに書いたわけだが、ともかくさまざまの思惑が渦巻いている。それを自界叛逆と言えば、それはそうなのかもしれないが、必ずしも中国の対日工作が効を奏しているとは言えないのではないか、基地反対はごく自然な住民感情であり必ずしも中国に踊らされていることにはならないのではないか、と思う。
尖閣奪取はある意味、簡単である。中国がその気になれば可能なことだ。しかし、沖縄は簡単ではない。なぜならば人が住んでいるからだ。
以上、浅井先生の他国侵逼論に批判を加えさせていただいた。たとえ中国が沖縄を狙っている・ほしがっていることが事実であったとしても、今すぐどうなるものでもなかろう。これが結論だ。
アメリカは守ってくれない!
わたくしはこの件に関して、あまり大局的には考えていない。先ほどの基地問題で書いたごとく、地元の生活者の目線で見たいと思う。ようするに安全保障上の理由から基地が必要なのではなく、地元の雇用のために必要なのだ。
実は原発問題も同じであって、原発が稼働してくれたほうがどれだけ雇用が守られるか、ようは人々の生活が守られるかという側面がある。しかし、ご存知のごとく、放射能の問題があるからダメなのだ。
ひるがえって基地問題の場合、はたして安全保障の上から米軍がどれだけ有効であるかは疑問がなくもない。浅井先生の言うようにイザという時には守ってくれないかもしれない。しかし、それは別の問題なのだ。ようは我々にとって大事なのは目の前の生活なのである。
日米関係にすきま風
浅井先生の言っていることは決して間違いではない。けれども、やや偏重があるようにも感じられるところである。ようは自分にとって都合の良い情報だけをかき集めて、それで論を組み立てているのだ。
このように、いま日米の間では、歴史認識とか従軍慰安婦問題で、いつのまにか隙間風が吹いているのであります。
橋下発言を念頭に置いて論じているのだろう。かの人物はこれまでにも過激な発言で物議を醸してきた。ようは少々のバッシングではへこたれない胆力の持ち主なのだろう。しかし、今回は様子が違った。かなりのダメージを受けているのではないかと思う。
ところで浅井先生も歴史認識については一家言を持っている。
しかし、今回の講演では煩瑣になるので避けたのか、あるいは別の意図からか、ともかくうまく言及を避けたようである。この辺が浅井先生の巧妙なところで、もし発言するとしたら、おそらくは橋下問題が一段落した頃を見計らってのことだろう。
そのうえ、安倍政権のロケットスタートは必ず「始め良し、後で大罰」となる。
浅井先生の予言が当たったわけではないだろうが、六月に入ってから株価も為替もあやしくなって来た。もちろん、相場は上がったり下がったりを繰り返すものなので、この先どうなるかはわからない。それにしても都議選と参院選を目前に控えた時期である。この意味で経済の動向はきわめて重要だ。
その顕正会は、いよいよ七月に一六〇万に成る。この一六〇万はまもなく二百万になり、五百万になり、一千万になる。そしてこの死身弘法を進める中に、客観状勢の緊迫により、国立戒壇を決する六千万地涌出現は一時に成るのであります。
当該講演における最も重要な発言である。従来の発言との差異を挙げるならば、年限を切らなかったことだ。ようは、あと○○年、という得意のフレーズを使わなかったのだ。より厳密に言えば、使わなかったのではなく、使えなかったのだろう。
2013/6/8
第1276号斜め読み
沖浦氏のコメントから一文だけ抜き出せば、次のくだりが印象的だった。
私は元々信じる宗教で人を差別致しません。
ここでの差別がどのような意味を持つかよくわからないが、ともかく上掲は立派なことである。おそらくは顕正会員のみならず、創価学会員にしても法華講員にしても、差別ではないだろうけれども、他宗教の人を色眼鏡で見てしまうという、一種の性癖みたいなものがあると思う。ようするに、そのままだと謗法与同になるとか、破折しないといけないとか、そういう意識がいつもどこかにあるのだ。ゆえに、上掲のごとく堂々と言い切れることは立派なことであるが、しかし、これがまた逆に内部からの反発を買う原因にもなっているのだろう。沖浦氏が他の創価学会員からバッシングを受けているのは、つとに有名なことである。
さて、今日は顕正新聞第1276号を駆け足でやっつけてしまおう。
熊本会館御入仏式 厳粛に挙行
これがメインの記事だ。気になったのは、たくさんの写真が掲載されているにもかかわらず、会館の外観を示す写真が一枚もないことだ。何か理由があるのだろうか?
一面下段、二段組みで六枚の写真が掲載されている。右下の写真、素人目にはわけのわからない光景だが、何となく好感の持てる写真である。たぶん総合婦人部長がしゃべっているのだろう。それを婦人部員たちが取り囲んでいるわけだが、レコーダーのようなものを差し出している人が何人もいて、いわゆるぶら下がり会見のような感じなのだ。また、婦人達に混じって男性婦人部員もちらほら見えるが、ある意味、いちばん存在感を示しているのは真ん中辺りにいる高齢の女性だろう。老婆と呼んでも失礼に当たらないくらいの年齢だと思う。ともかく面白い写真だ。
逆に、左上の写真はよくないと思った。素人目にはまったく理解できない。あえて修正案を言わせてもらえば、この場合は単独のキャプションが必要だろう。感涙に咽ぶ幹部たち・・・みたいな感じだ。そうすれば一般人にも理解できたはずだ。
さて、次は女子部第百二十二区長の体験発表だ。
そこに昨年一二月から急遽四ヶ月間、二年生を受け持ったことも、今となっては指導上で生かされており・・・
この人は新体操でちょっと有名だった。ゆえあって、その世界からは離れたわけだが、今は小学校の講師をしているそうである。
そこで本題だが、さすがに上掲は問題だろう。やや不適切というか、人によっては本末転倒のように感じるはずである。この人はあくまで顕正会の活動が中心なのだ。小学校での経験が顕正会の活動に生かされていると。これは本来、逆じゃないといけない。顕正会での経験がその他の社会活動に生かされるようでないといけないのだ。
いや、もちろん、全体を通して読むと、そうした意味のことも書かれているわけだが、しかし、部分的とは言え、上掲は一般人に違和感を与える文章だろう。
決起集会
四面には四つの集会の記事が出ている。そこでわたくしが最近気になっていることは、どれもこれもが決起集会であることだ。今までは単に集会と呼称される例が多かった。ところがである。いつの間にか決起が冠されるようになった。女子部の場合、女子部大会が控えているので、決起集会と呼ぶのも頷ける。しかし、男子部と婦人部は当てはまらない。その辺がよくわからないところだ。
佐渡広布に体をぶつけ戦うなか
失明の恐れがあった眼病が完治!
女子部第百四十二区長の活動報告である。しかし、活動報告にしては妙な見出しだ。まるで体験発表みたいである。
それはともかく、この記事で驚いたのは高齢女子部員の活躍ぶりである。本人の年齢も書かれていて、六十五歳とのことだ。失礼を省みず言えば、まさに高齢区長だ。
そして所属の女子部員たちが凄まじい。次に出てくる順で年齢を列記しよう。
七十八歳(組長)
八十七歳(班長)
九十九歳(新入信)
先日、顕正会が伸びたところで、佐渡汽船が恩恵を被ることはないと書いた。しかし、じゃっかんの訂正が必要だろう。元気な老人が増えれば、自ずと行動範囲が拡がる。するとそれ相応の経済効果が期待できるわけだ。
知らないと危険、中国の大汚染!
写真が印象的である。何色だろうか、河川が不自然な色に染まっている。まるで絵の具を溶いたような強烈な着色である。
しかし、前にも書いたけれども、我々のような貧乏人は中国製品に依存しないと生活できないのが現実である。記事を読むと恐ろしくなって来るが、それでも中国製品を完全に断ち切ることは難しい。これは活動会員とて同じではないだろうか?
私は元々信じる宗教で人を差別致しません。
ここでの差別がどのような意味を持つかよくわからないが、ともかく上掲は立派なことである。おそらくは顕正会員のみならず、創価学会員にしても法華講員にしても、差別ではないだろうけれども、他宗教の人を色眼鏡で見てしまうという、一種の性癖みたいなものがあると思う。ようするに、そのままだと謗法与同になるとか、破折しないといけないとか、そういう意識がいつもどこかにあるのだ。ゆえに、上掲のごとく堂々と言い切れることは立派なことであるが、しかし、これがまた逆に内部からの反発を買う原因にもなっているのだろう。沖浦氏が他の創価学会員からバッシングを受けているのは、つとに有名なことである。
さて、今日は顕正新聞第1276号を駆け足でやっつけてしまおう。
熊本会館御入仏式 厳粛に挙行
これがメインの記事だ。気になったのは、たくさんの写真が掲載されているにもかかわらず、会館の外観を示す写真が一枚もないことだ。何か理由があるのだろうか?
一面下段、二段組みで六枚の写真が掲載されている。右下の写真、素人目にはわけのわからない光景だが、何となく好感の持てる写真である。たぶん総合婦人部長がしゃべっているのだろう。それを婦人部員たちが取り囲んでいるわけだが、レコーダーのようなものを差し出している人が何人もいて、いわゆるぶら下がり会見のような感じなのだ。また、婦人達に混じって男性婦人部員もちらほら見えるが、ある意味、いちばん存在感を示しているのは真ん中辺りにいる高齢の女性だろう。老婆と呼んでも失礼に当たらないくらいの年齢だと思う。ともかく面白い写真だ。
逆に、左上の写真はよくないと思った。素人目にはまったく理解できない。あえて修正案を言わせてもらえば、この場合は単独のキャプションが必要だろう。感涙に咽ぶ幹部たち・・・みたいな感じだ。そうすれば一般人にも理解できたはずだ。
さて、次は女子部第百二十二区長の体験発表だ。
そこに昨年一二月から急遽四ヶ月間、二年生を受け持ったことも、今となっては指導上で生かされており・・・
この人は新体操でちょっと有名だった。ゆえあって、その世界からは離れたわけだが、今は小学校の講師をしているそうである。
そこで本題だが、さすがに上掲は問題だろう。やや不適切というか、人によっては本末転倒のように感じるはずである。この人はあくまで顕正会の活動が中心なのだ。小学校での経験が顕正会の活動に生かされていると。これは本来、逆じゃないといけない。顕正会での経験がその他の社会活動に生かされるようでないといけないのだ。
いや、もちろん、全体を通して読むと、そうした意味のことも書かれているわけだが、しかし、部分的とは言え、上掲は一般人に違和感を与える文章だろう。
決起集会
四面には四つの集会の記事が出ている。そこでわたくしが最近気になっていることは、どれもこれもが決起集会であることだ。今までは単に集会と呼称される例が多かった。ところがである。いつの間にか決起が冠されるようになった。女子部の場合、女子部大会が控えているので、決起集会と呼ぶのも頷ける。しかし、男子部と婦人部は当てはまらない。その辺がよくわからないところだ。
佐渡広布に体をぶつけ戦うなか
失明の恐れがあった眼病が完治!
女子部第百四十二区長の活動報告である。しかし、活動報告にしては妙な見出しだ。まるで体験発表みたいである。
それはともかく、この記事で驚いたのは高齢女子部員の活躍ぶりである。本人の年齢も書かれていて、六十五歳とのことだ。失礼を省みず言えば、まさに高齢区長だ。
そして所属の女子部員たちが凄まじい。次に出てくる順で年齢を列記しよう。
七十八歳(組長)
八十七歳(班長)
九十九歳(新入信)
先日、顕正会が伸びたところで、佐渡汽船が恩恵を被ることはないと書いた。しかし、じゃっかんの訂正が必要だろう。元気な老人が増えれば、自ずと行動範囲が拡がる。するとそれ相応の経済効果が期待できるわけだ。
知らないと危険、中国の大汚染!
写真が印象的である。何色だろうか、河川が不自然な色に染まっている。まるで絵の具を溶いたような強烈な着色である。
しかし、前にも書いたけれども、我々のような貧乏人は中国製品に依存しないと生活できないのが現実である。記事を読むと恐ろしくなって来るが、それでも中国製品を完全に断ち切ることは難しい。これは活動会員とて同じではないだろうか?
2013/6/5
空梅雨と空文
諸般の事情通氏のコメントを拝見して、この人は法華講員なのだろうか? と思った。もちろん、これは漠然とした印象に過ぎないが、どうもこの手の話は法華講員が多用しているように思うのだ。
須弥山は金色なり。一切の牛馬・人天・衆鳥等、此の山に依れば必ず本の色を失して金色なり。
ところで沖浦氏は次のごとく言っている。
一昨日大阪の著名な牧師さんとお会いいたしました。
とてもご立派な人格者でした。
どれほど口に南無妙法蓮華を唱えても、振る舞いが駄目なら駄目なのです。
牧師さんは南無妙法蓮華は唱えませんが、怨嫉謗法に明け暮れる、若鷹、富士ボーの方に一万倍は勝ります。
これは微妙なところだ。
持戒げなる僧尼
俄かには適切なる御文が思い浮かばないので、ワンフレーズだけを引用した。
いつの時代にも立派そうな僧侶がいる。しかし、それはあくまで立派そうに見えるだけであって、本当のところは違うのだ。大聖人の御論法では、たとえ立派そうに見えたとしても、その人が念仏を唱えていたらダメなのだ。逆に、どれほど身分が低かろうが教養がなかろうが、御題目を唱える人は百千万億倍勝れるのである。
上述は沖浦氏もよくご存知の四信五品抄を踏まえて書いた。
それからもう一つの視点として、人間関係の微妙なアヤが判断を曇らせるという側面があると思う。
身贔屓
単純に言ってしまえば、身内には甘いということだ。いや、もちろん、くだんの牧師は身内でも何でもないだろう。ゆえに人間関係の微妙なアヤと書いたのだ。
ネット上で丁々発止の議論をしている人が何かのキッカケで論敵と対面することがある。すると、どうしたことだろう。それ以後の議論がやや緩くなるような印象を受けるのだ。対面前と対面後の変化が意味するものは何か?
こればかりは当事者がその胸の内を語らない限り、わからないことだ。しかし、わたくしの拙い人生経験からして、そうした傾向があることは間違いないと思う。
これを沖浦氏に当てはめれば、実際に対面した牧師には甘く、ネット上でバッシングに明け暮れている人たちに厳しいのは、わかる気がするのだ。
ただし、その評価が正しいかどうかは別のことである。すでに書いたごとく、人間関係の微妙なアヤが判断を曇らせる、ということなのだ。
我ながら面倒臭い文章を書いているものだ。
話をまとめると、創価学会が正しいと仮定した上で言えば、沖浦氏の主張は御書に反しているのではないかと思う。そしてそのメカニズムを考えると、さまざまな要因があるだろうけれども、自分に甘い人に対しては甘い評価をし、自分に厳しい人に対しては厳しい評価を下す、という傾向があるのだと思う。ゆえに、沖浦氏をバッシングしている人に対し、沖浦氏が厳しい評価をするのは理の当然であり、その逆もしかりである。
う〜ん、ぜんぜん話がまとまっていないではないか・・・
どうも不調のようなので、今日はそろそろ終わりにしようと思うのだが、やはりどうしても書いておかなければならないことがある。
信教の自由
現在の日本国憲法に謳われている信教の自由を踏まえて考えると、大聖人の仏法には物凄く高いハードルが待ち構えているような気がする。
わたくしは上のほうで、拙い人生経験を基に身贔屓だの何だのと書いた。しかし、これまた拙い人生経験を基に言わせてもらえば、キリスト教であろうがイスラム教であろうが立派な人はいるのだ。たぶん創価学会員であろうが法華講員であろうが、あるいは顕正会員であろうが、立派な人はいるのだ。そしてその逆の人もいるのだ。もはやこれは贔屓だとか個人の好みの問題ではなく、客観的に立派な人もいればその逆もいるのだ。
そうすると大聖人のおっしゃる、御題目を唱える人は諸宗の元祖よりも百千万億倍勝れるは、信教の自由が謳われる現代においては通用しない。いや、通用しないは言い過ぎにしても通用し難いわけで、信仰者を励ます意味においては有効であるけれども、他宗教の人に対しては意味をなさないことになる。
わたくしはくだんの牧師を知らないけれども、あるいは沖浦氏の贔屓目ではなく、誰の目にも立派な人物に映るのかもしれない。
すると、再掲であるが、
牧師さんは南無妙法蓮華は唱えませんが、怨嫉謗法に明け暮れる、若鷹、富士ボーの方に一万倍は勝ります。
これは御書に照らして必ずしも正しいとは言えないが、しかし、世間の大多数の人からは支持を得られるかもしれないのだ。
悩ましい限りである。
それにしても、そろそろ終わりにしようと言ってからが長いのだから、困ったものだ。
須弥山は金色なり。一切の牛馬・人天・衆鳥等、此の山に依れば必ず本の色を失して金色なり。
ところで沖浦氏は次のごとく言っている。
一昨日大阪の著名な牧師さんとお会いいたしました。
とてもご立派な人格者でした。
どれほど口に南無妙法蓮華を唱えても、振る舞いが駄目なら駄目なのです。
牧師さんは南無妙法蓮華は唱えませんが、怨嫉謗法に明け暮れる、若鷹、富士ボーの方に一万倍は勝ります。
これは微妙なところだ。
持戒げなる僧尼
俄かには適切なる御文が思い浮かばないので、ワンフレーズだけを引用した。
いつの時代にも立派そうな僧侶がいる。しかし、それはあくまで立派そうに見えるだけであって、本当のところは違うのだ。大聖人の御論法では、たとえ立派そうに見えたとしても、その人が念仏を唱えていたらダメなのだ。逆に、どれほど身分が低かろうが教養がなかろうが、御題目を唱える人は百千万億倍勝れるのである。
上述は沖浦氏もよくご存知の四信五品抄を踏まえて書いた。
それからもう一つの視点として、人間関係の微妙なアヤが判断を曇らせるという側面があると思う。
身贔屓
単純に言ってしまえば、身内には甘いということだ。いや、もちろん、くだんの牧師は身内でも何でもないだろう。ゆえに人間関係の微妙なアヤと書いたのだ。
ネット上で丁々発止の議論をしている人が何かのキッカケで論敵と対面することがある。すると、どうしたことだろう。それ以後の議論がやや緩くなるような印象を受けるのだ。対面前と対面後の変化が意味するものは何か?
こればかりは当事者がその胸の内を語らない限り、わからないことだ。しかし、わたくしの拙い人生経験からして、そうした傾向があることは間違いないと思う。
これを沖浦氏に当てはめれば、実際に対面した牧師には甘く、ネット上でバッシングに明け暮れている人たちに厳しいのは、わかる気がするのだ。
ただし、その評価が正しいかどうかは別のことである。すでに書いたごとく、人間関係の微妙なアヤが判断を曇らせる、ということなのだ。
我ながら面倒臭い文章を書いているものだ。
話をまとめると、創価学会が正しいと仮定した上で言えば、沖浦氏の主張は御書に反しているのではないかと思う。そしてそのメカニズムを考えると、さまざまな要因があるだろうけれども、自分に甘い人に対しては甘い評価をし、自分に厳しい人に対しては厳しい評価を下す、という傾向があるのだと思う。ゆえに、沖浦氏をバッシングしている人に対し、沖浦氏が厳しい評価をするのは理の当然であり、その逆もしかりである。
う〜ん、ぜんぜん話がまとまっていないではないか・・・
どうも不調のようなので、今日はそろそろ終わりにしようと思うのだが、やはりどうしても書いておかなければならないことがある。
信教の自由
現在の日本国憲法に謳われている信教の自由を踏まえて考えると、大聖人の仏法には物凄く高いハードルが待ち構えているような気がする。
わたくしは上のほうで、拙い人生経験を基に身贔屓だの何だのと書いた。しかし、これまた拙い人生経験を基に言わせてもらえば、キリスト教であろうがイスラム教であろうが立派な人はいるのだ。たぶん創価学会員であろうが法華講員であろうが、あるいは顕正会員であろうが、立派な人はいるのだ。そしてその逆の人もいるのだ。もはやこれは贔屓だとか個人の好みの問題ではなく、客観的に立派な人もいればその逆もいるのだ。
そうすると大聖人のおっしゃる、御題目を唱える人は諸宗の元祖よりも百千万億倍勝れるは、信教の自由が謳われる現代においては通用しない。いや、通用しないは言い過ぎにしても通用し難いわけで、信仰者を励ます意味においては有効であるけれども、他宗教の人に対しては意味をなさないことになる。
わたくしはくだんの牧師を知らないけれども、あるいは沖浦氏の贔屓目ではなく、誰の目にも立派な人物に映るのかもしれない。
すると、再掲であるが、
牧師さんは南無妙法蓮華は唱えませんが、怨嫉謗法に明け暮れる、若鷹、富士ボーの方に一万倍は勝ります。
これは御書に照らして必ずしも正しいとは言えないが、しかし、世間の大多数の人からは支持を得られるかもしれないのだ。
悩ましい限りである。
それにしても、そろそろ終わりにしようと言ってからが長いのだから、困ったものだ。
2013/6/4
顕正新聞第1275号拾い読み
今朝、昔の拙稿にコメントが寄せられた。
http://white.ap.teacup.com/ganko/248.html#comment
英語はまったく読めないのだが、丸ごと翻訳ソフトに入れてみたら、そこそこ意味のわかる文章が出てきた。どうやら拙ブログを好意的に見て下さっているようだ。これはひじょうに嬉しいことである。
しばらくぶりに沖浦氏からコメントが寄せられた。
大きく宿命転換を致しました。
今じんわり嬉しいです。
氏のことは当時から知っていたので、わたくしも何となく嬉しい気持ちだ。はたしてそれが創価学会の功徳なのかどうか、それには疑問があるけれども、ともかく過去の不祥事を清算して、新天地において成功を収めたことは、まことに慶賀の至りである。今後のさらなる活躍を陰ながら応援したい。
さて、次は教子氏だ。
話しを戻し、顕正会の女子部 総班長のオバサン 改め⇒御婦人が、痴漢を捕まえた件。
やはり、総班長・御婦人の成り済ましです。顕正会は、神奈川県警に恨み・怨みが有るんです。
顕正新聞で
『神奈川県警に罰?』
変な話しです。悪いのは、痴漢をした地域部の自動車警ら隊の警部補でしょ!
嘘を付かないで!本当は痴漢の被害に遭って無い⇒総班長・御婦人⇒成り済まし(怒)
上掲はただ一点を除いて、いかがなものかと思わざるを得ない。
神奈川県警に罰・・・
なるほど、これは教子氏のおっしゃるとおりであり、なかなか鋭いと思う。ようするに、ひき逃げ犯人と同じ道理なのだ。
ひき逃げ事件があった。教子氏はその犯人を顕正会員だと言っている。わたくしはこの事実関係に疑問を持っているわけだが、仮にもし犯人が顕正会員だったとしても、それが直ちに顕正会の問題とはならない。あくまで個人の問題なのだ。これがいわば先日の議論における一つの結論だった。
同様に神奈川県警の警察官が事件を起こしたとしても、基本的にはその本人が責任を負うことであって、それが直ちに県警全体の問題とはならない。
いや、もちろん、警察官が犯罪を犯すことは言語道断であるからして、同様の事件が頻発すれば県警全体の体質が問われることになるのは当然のことである。
しかし、今回の一件はそこまで大袈裟なものではないだろう。よって、一警官が逮捕されたくらいで県警に罰が出たというのは、まさに教子氏の指摘するごとく、おかしな話なのだ。
それはともかく、なぜにナリスマシと言えるのか、である。上掲には根拠がまったく示されていない。県警に恨みがある? 確かにそれはそのとおりかもしれないが、だからどうしたのだ、と言われればそれまでの話である。
事件があったのは事実である。実際に報道があった。しかし教子氏は、くだんの総班長はその当事者ではなく、ナリスマシである、と言っているわけだ。
わくしは思う。この場合、真犯人ならぬ真の被害者がいるはずなのだ。
つまり、くだんの総班長はニセモノの被害者よ、なぜならばワタシがホンモノの被害者だからよ、という人物がいなければいけない。教子氏はその人物を知っているのだろうか?
以上、教子氏がそこまで強弁するからにはそれなりの根拠があるはずで、わたくしには上述のごとく真の被害者を知っているという選択肢しか思い浮かばないのであるが、あるいは他にも違った考え方があるのだろうか?
もしあるとしたら、ぜひとも教えていただきたいものである。
旭日に輝く金色の御尊容ただ拝跪合掌
さて、顕正新聞第1275号の話題であるが、実はずいぶん前に読んではいるものの、すっかり忘れてしまった。なぜすぐに書かなかったのかと言えば、たまたま雑事に追われていたのも事実であるが、以前に比べるとブログ更新の意欲が薄れてきたのも事実である。
それはともかく、内容に入ろう。
上掲は立宗御報恩勤行会における会長講演の見出しである。しかし、これには少し驚いた。
金色の御尊容・・・
末法の御本仏はいわゆる凡夫僧であられる。通常、仏は三十二相で身を飾っているが、大聖人は異なる。色相荘厳の仏と大聖人との違い、すなわち脱益の仏と下種の御本仏との違いはまさにここにある。ゆえに、上掲のごとく金色の御尊容などと表現しようものならば、かえって大聖人を貶めることになるのではないかと思うのだ。
しかし、本文を読むと、じゃっかん意味が異なるようだ。
旭日に照らされて金色に輝く大聖人様の尊い御姿を偲び奉れば、ただ跪き合掌するのほかはありません。
ああ、なるほど、太陽に照らされて金色に輝いたのだと。
さて、各種の登壇はほとんど内容を忘れてしまったわけだが、わりと印象に残っているのは男子部第八十四隊支隊副長の活動報告だろう。
私は現在、静岡県三島市の中学校で臨時用務員として勤務しており、赴任から一年が経ちました。
以下、細かいことは省くが、この人は教師ではないにもかかわらず生徒からの人望が厚く、生徒指導の教師や校長から「学校を救ってくれ」と言われるほどの人物なのである。おいおい、本当かよ、と思うが、わたくしには確認する術がないので、そのまま素直に受け取るしかない。余談ながら教子氏やその他の人たちも同様に、何か決定的な証拠でもない限りは、頭ごなしに疑って掛かるのはやめたほうがよかろうと思う。
希望どおりの幼稚園に就職叶う
女子部第八区の班長は今春大学を卒業し、幼稚園に就職したごとくである。しかし、順風満帆ではなく、就職が決まるまでには紆余曲折があった。
私は御奉公しやすい環境を第一条件に就職活動を行なってまいりましたが・・・
なるほど、これが原因のようだ。実際、面接で自分が顕正会で信心していることを告げたがために不合格になったことが、続きの文章に出てくる。同級生が次々に就職が決まっていく中で、この人はなかなか就職が決まらなかった。
そして卒業を間近に控えた時期になって、大学の進路指導部から、急遽欠員が出た幼稚園があるから受けてみないかと言われ、採用試験を受けた。
すると採用試験終了後、園長の方から「ぜひ来てほしい」と言われ、何と即日内定が決まったのでした。その後、進路指導部に園長から電話が入り「こんな良い子がよく残っていた」と大へん高く評価され・・・
さしずめ残り物には福があるといったところか?
少し心配を書いておくと、こんな良い子がよく残っていた・・・というのはあくまで善意の解釈であって、イジワルな人ならば別の解釈をするはずである。一見すると良い子に見えるが、何か問題を抱えているのだろう、だからなかなか就職が決まらずにいたのだと。
つまり、これからが勝負なのだ。もし顕正会の活動にのめり込むあまり、それが非常識な行動となってあらわれれば、園長先生を後悔させることになるだろう。それだけは気をつけてほしいものである。
そうそう、すっかり忘れていたが、佐渡に関することで書こうと思っていたことがある。
佐渡集会当日は、乗船客の増大が佐渡汽船社内で話題になり
「顕正会の集会を毎月やってほしい」との声まであがり、今後を見越して一隻造船されるとのことで、広宣流布への道が大きく開かれたこと・・・
第十九女子部長の文章である。先日、婦人部の人が毎週二泊三日の日程で佐渡に渡っていることを書いたが、女子部長の母親も負けてはいない。
毎週末、朝三時に起床して始発の船で佐渡へ渡り・・・
しかし、先日も書いたが、ずいぶん無理をしている印象がある。わたくしは佐渡汽船のことを詳しく知らないが、たぶん路線バスに近い雰囲気があると思う。通勤通学でバスを利用している人ならばわかると思うが、毎日同じ時間に利用していると運転手と顔馴染みになることがある。言葉を交わすことはなくても、お互いに顔を見知っているわけだ。同じことが佐渡汽船でも言えるのではないかと思う。たぶん、毎週同じ時間に乗船していれば、顔を覚えられてしまうだろう。あるいは船員に諫暁書だとか顕正新聞を渡しているとすれば、なおさらのことである。
しかし、顕正会の利用者が多いから一隻造船するという話はいかがなものかと思う。
さすがにそれはないだろうと思う。
ただ、リップサービス的に、そのような意味のことを佐渡汽船の人が発言した可能性は考えられる。たまたま造船する計画があって、ちょうどそのタイミングで顕正会員が大量に佐渡に渡ったとなれば、顕正会さんのお蔭であるかのように言うのは決して不自然ではない。
わたくしはここで上野小学校の記事を思い出した。
大石寺関係団体の隆盛・・・
しかし、顕正会が佐渡に力を入れているのは、さしあたって佐渡会館を建てる目標があるからだ。会館の建つ要件は地元会員がどれだけいるかである。ようするに、佐渡に会館が建つのは佐渡に一定数の活動会員が定着した暁のことであり、そうなれば女子部や婦人部の幹部たちが毎週のように本土から佐渡へ通う必要がなくなる。つまり、頻繁な往来がなくなるのだ。
結局のところ、顕正会の隆盛によって佐渡汽船が潤うことにはならないのだ。
かるがもがやって来た!!
これは物凄くいい写真だと思う。もっともカルガモは人馴れしているので、被写体としてはわりと撮りやすい部類だ。
かるがも親子の行列は皇居のお堀端の名物だが、この春から本部会館の池にも、かるがもの番が棲みついた。唱題の声に誘われたのであろうか。このかるがも、そのうち入信するカモ…
いわゆるベタな文章であるが、決して悪くはないと思う。
http://white.ap.teacup.com/ganko/248.html#comment
英語はまったく読めないのだが、丸ごと翻訳ソフトに入れてみたら、そこそこ意味のわかる文章が出てきた。どうやら拙ブログを好意的に見て下さっているようだ。これはひじょうに嬉しいことである。
しばらくぶりに沖浦氏からコメントが寄せられた。
大きく宿命転換を致しました。
今じんわり嬉しいです。
氏のことは当時から知っていたので、わたくしも何となく嬉しい気持ちだ。はたしてそれが創価学会の功徳なのかどうか、それには疑問があるけれども、ともかく過去の不祥事を清算して、新天地において成功を収めたことは、まことに慶賀の至りである。今後のさらなる活躍を陰ながら応援したい。
さて、次は教子氏だ。
話しを戻し、顕正会の女子部 総班長のオバサン 改め⇒御婦人が、痴漢を捕まえた件。
やはり、総班長・御婦人の成り済ましです。顕正会は、神奈川県警に恨み・怨みが有るんです。
顕正新聞で
『神奈川県警に罰?』
変な話しです。悪いのは、痴漢をした地域部の自動車警ら隊の警部補でしょ!
嘘を付かないで!本当は痴漢の被害に遭って無い⇒総班長・御婦人⇒成り済まし(怒)
上掲はただ一点を除いて、いかがなものかと思わざるを得ない。
神奈川県警に罰・・・
なるほど、これは教子氏のおっしゃるとおりであり、なかなか鋭いと思う。ようするに、ひき逃げ犯人と同じ道理なのだ。
ひき逃げ事件があった。教子氏はその犯人を顕正会員だと言っている。わたくしはこの事実関係に疑問を持っているわけだが、仮にもし犯人が顕正会員だったとしても、それが直ちに顕正会の問題とはならない。あくまで個人の問題なのだ。これがいわば先日の議論における一つの結論だった。
同様に神奈川県警の警察官が事件を起こしたとしても、基本的にはその本人が責任を負うことであって、それが直ちに県警全体の問題とはならない。
いや、もちろん、警察官が犯罪を犯すことは言語道断であるからして、同様の事件が頻発すれば県警全体の体質が問われることになるのは当然のことである。
しかし、今回の一件はそこまで大袈裟なものではないだろう。よって、一警官が逮捕されたくらいで県警に罰が出たというのは、まさに教子氏の指摘するごとく、おかしな話なのだ。
それはともかく、なぜにナリスマシと言えるのか、である。上掲には根拠がまったく示されていない。県警に恨みがある? 確かにそれはそのとおりかもしれないが、だからどうしたのだ、と言われればそれまでの話である。
事件があったのは事実である。実際に報道があった。しかし教子氏は、くだんの総班長はその当事者ではなく、ナリスマシである、と言っているわけだ。
わくしは思う。この場合、真犯人ならぬ真の被害者がいるはずなのだ。
つまり、くだんの総班長はニセモノの被害者よ、なぜならばワタシがホンモノの被害者だからよ、という人物がいなければいけない。教子氏はその人物を知っているのだろうか?
以上、教子氏がそこまで強弁するからにはそれなりの根拠があるはずで、わたくしには上述のごとく真の被害者を知っているという選択肢しか思い浮かばないのであるが、あるいは他にも違った考え方があるのだろうか?
もしあるとしたら、ぜひとも教えていただきたいものである。
旭日に輝く金色の御尊容ただ拝跪合掌
さて、顕正新聞第1275号の話題であるが、実はずいぶん前に読んではいるものの、すっかり忘れてしまった。なぜすぐに書かなかったのかと言えば、たまたま雑事に追われていたのも事実であるが、以前に比べるとブログ更新の意欲が薄れてきたのも事実である。
それはともかく、内容に入ろう。
上掲は立宗御報恩勤行会における会長講演の見出しである。しかし、これには少し驚いた。
金色の御尊容・・・
末法の御本仏はいわゆる凡夫僧であられる。通常、仏は三十二相で身を飾っているが、大聖人は異なる。色相荘厳の仏と大聖人との違い、すなわち脱益の仏と下種の御本仏との違いはまさにここにある。ゆえに、上掲のごとく金色の御尊容などと表現しようものならば、かえって大聖人を貶めることになるのではないかと思うのだ。
しかし、本文を読むと、じゃっかん意味が異なるようだ。
旭日に照らされて金色に輝く大聖人様の尊い御姿を偲び奉れば、ただ跪き合掌するのほかはありません。
ああ、なるほど、太陽に照らされて金色に輝いたのだと。
さて、各種の登壇はほとんど内容を忘れてしまったわけだが、わりと印象に残っているのは男子部第八十四隊支隊副長の活動報告だろう。
私は現在、静岡県三島市の中学校で臨時用務員として勤務しており、赴任から一年が経ちました。
以下、細かいことは省くが、この人は教師ではないにもかかわらず生徒からの人望が厚く、生徒指導の教師や校長から「学校を救ってくれ」と言われるほどの人物なのである。おいおい、本当かよ、と思うが、わたくしには確認する術がないので、そのまま素直に受け取るしかない。余談ながら教子氏やその他の人たちも同様に、何か決定的な証拠でもない限りは、頭ごなしに疑って掛かるのはやめたほうがよかろうと思う。
希望どおりの幼稚園に就職叶う
女子部第八区の班長は今春大学を卒業し、幼稚園に就職したごとくである。しかし、順風満帆ではなく、就職が決まるまでには紆余曲折があった。
私は御奉公しやすい環境を第一条件に就職活動を行なってまいりましたが・・・
なるほど、これが原因のようだ。実際、面接で自分が顕正会で信心していることを告げたがために不合格になったことが、続きの文章に出てくる。同級生が次々に就職が決まっていく中で、この人はなかなか就職が決まらなかった。
そして卒業を間近に控えた時期になって、大学の進路指導部から、急遽欠員が出た幼稚園があるから受けてみないかと言われ、採用試験を受けた。
すると採用試験終了後、園長の方から「ぜひ来てほしい」と言われ、何と即日内定が決まったのでした。その後、進路指導部に園長から電話が入り「こんな良い子がよく残っていた」と大へん高く評価され・・・
さしずめ残り物には福があるといったところか?
少し心配を書いておくと、こんな良い子がよく残っていた・・・というのはあくまで善意の解釈であって、イジワルな人ならば別の解釈をするはずである。一見すると良い子に見えるが、何か問題を抱えているのだろう、だからなかなか就職が決まらずにいたのだと。
つまり、これからが勝負なのだ。もし顕正会の活動にのめり込むあまり、それが非常識な行動となってあらわれれば、園長先生を後悔させることになるだろう。それだけは気をつけてほしいものである。
そうそう、すっかり忘れていたが、佐渡に関することで書こうと思っていたことがある。
佐渡集会当日は、乗船客の増大が佐渡汽船社内で話題になり
「顕正会の集会を毎月やってほしい」との声まであがり、今後を見越して一隻造船されるとのことで、広宣流布への道が大きく開かれたこと・・・
第十九女子部長の文章である。先日、婦人部の人が毎週二泊三日の日程で佐渡に渡っていることを書いたが、女子部長の母親も負けてはいない。
毎週末、朝三時に起床して始発の船で佐渡へ渡り・・・
しかし、先日も書いたが、ずいぶん無理をしている印象がある。わたくしは佐渡汽船のことを詳しく知らないが、たぶん路線バスに近い雰囲気があると思う。通勤通学でバスを利用している人ならばわかると思うが、毎日同じ時間に利用していると運転手と顔馴染みになることがある。言葉を交わすことはなくても、お互いに顔を見知っているわけだ。同じことが佐渡汽船でも言えるのではないかと思う。たぶん、毎週同じ時間に乗船していれば、顔を覚えられてしまうだろう。あるいは船員に諫暁書だとか顕正新聞を渡しているとすれば、なおさらのことである。
しかし、顕正会の利用者が多いから一隻造船するという話はいかがなものかと思う。
さすがにそれはないだろうと思う。
ただ、リップサービス的に、そのような意味のことを佐渡汽船の人が発言した可能性は考えられる。たまたま造船する計画があって、ちょうどそのタイミングで顕正会員が大量に佐渡に渡ったとなれば、顕正会さんのお蔭であるかのように言うのは決して不自然ではない。
わたくしはここで上野小学校の記事を思い出した。
大石寺関係団体の隆盛・・・
しかし、顕正会が佐渡に力を入れているのは、さしあたって佐渡会館を建てる目標があるからだ。会館の建つ要件は地元会員がどれだけいるかである。ようするに、佐渡に会館が建つのは佐渡に一定数の活動会員が定着した暁のことであり、そうなれば女子部や婦人部の幹部たちが毎週のように本土から佐渡へ通う必要がなくなる。つまり、頻繁な往来がなくなるのだ。
結局のところ、顕正会の隆盛によって佐渡汽船が潤うことにはならないのだ。
かるがもがやって来た!!
これは物凄くいい写真だと思う。もっともカルガモは人馴れしているので、被写体としてはわりと撮りやすい部類だ。
かるがも親子の行列は皇居のお堀端の名物だが、この春から本部会館の池にも、かるがもの番が棲みついた。唱題の声に誘われたのであろうか。このかるがも、そのうち入信するカモ…
いわゆるベタな文章であるが、決して悪くはないと思う。
2013/6/2
余慶は余計?
前々回の拙稿では重大なミスを犯したわけだが、実はもう一つミスがあった。それが本日の表題である。
余慶
何となく気分で書いてしまって、あとで気がついた。ぜんぜん意味が違うのだ。わたくとしては余禄だとか余得のつもりで書いたのだが、どうも適切ではなかったようだ。
さて、今日は顕正新聞から話題を拾うことにしよう。まずは第1274号に載る正義にめざめての一つだ。
また入会以来、細井日達書写の御本尊に手を合わせておりましたが、浅井先生の
「御遺命を曲げた貫首に御本尊様を書写する資格があろうか」
とのご指導にハッとし、御本尊を本部会館に納め、遥拝勤行をしていきました。
この人は平成十四年十月に創価学会から顕正会に移籍してきた。上掲の入会以来云々より察するに、入会後も当初は日達上人御書写の御本尊に向かって勤行をしていたのだろう。そしていつの時点かわからないが、御本尊を本部会館に納め、遥拝勤行をするようになった。
ここがひじょうにアイマイなところである。ようするに日達上人の御本尊を認めるのか認めないのか、その方針が明確ではないのだ。
この理由は二つ考えられる。
一つは過去の発言との整合性の問題であり、もう一つは成果主義の弊害である。
一つ目はいわゆる試練と忍従の歴史に書かれていることで、たとえ御遺命違背の貫首であっても、その御本尊の力にはいささかの変化もない、という意味の発言がある。つまり、この当時の顕正会は日達上人・日顕上人の御本尊を認めていたのだ。
そしてもう一つの理由であるが、これはもう成果に追われるあまり、厳格なことは言っていられないということなのだ。もはや今となっては過去の発言との整合性などどうでもいいわけで、ともかく日達上人・日顕上人の御本尊は認めたくないのである。理屈じゃなくて感情の問題なのだ。
ゆえに今はまだ具体的な事例を知らないが、おそらくは日如上人の御本尊をも認めないのではないかと思う。つまり、法華講員で日如上人の御本尊を御安置している人がもし顕正会に入会したとなると、いずれは例の日寛上人の御本尊に取り替えられるか、もしくは遥拝勤行となるか、この二つに一つだと思うのだ。
そこで成果主義に話を戻すと、ようは上述のことをいきなり要求すると入会を拒まれる可能性があるので、ともかく最初のうちはあまり厳しいことを言わないのだ。そして徐々に説得していくわけである。
現状では、冨士大石寺顕正会と名乗っているものの、それは建て前であって、本音は独立教団路線なのだろう。
東電 汚染水の破綻を隠蔽
なんと嘘の発表をしていた!!
汚染水問題の続報である。この記事の隣にはTPPに関する話題も書かれている。大手マスコミはTPP反対の動きを一切報道しないのだそうだ。いわゆる偏向報道であるが、どうやら東電に関することも積極的には報道したがらないようである。しかし、報道しようがしまいが、深刻な事態であることに変わりはない。
海洋投棄への布石
海は広いな大きなである。確かに大海は死屍をとどめずと言うくらいであるから、おそらくは相当に希釈されることだろう。しかし、そういう問題ではないはずだ。また、実際問題としては海におけるホットスポットが生じることが考えられるわけで、その地域の魚介類は高濃度の汚染を受けることになるだろう。我々日本人にとって魚介類は貴重な食料資源のはずだ。しかも海には壁も仕切りもない。汚染がどこに行くかわからない。外国から莫大な額の賠償を求められたらそれだけで国家破産だ。
安倍首相 EXILEに大はしゃぎ
「拉致国民大集会」にはわずか30分
これはやや酷な感じがする。総理大臣のスケジュールは秘書が決めているはずで、もちろん本人の意向もゼロではないだろうけれども、基本的には秘書任せのはずだ。ゆえに、拉致集会には三十分でコンサートに二時間いたとしても、それが本人の意向とは言い切れない。いや、もちろん、秘書が決めたことであっても行動するのは首相である。過去の首相で何か都合の悪いことがあると秘書に罪を被せるような、確かそんな人物もいたような気がするけれども、当然ながらそれは論外である。
ちなみに、わたくしの個人的感覚で言わせてもらえば、よほどのファンでもない限り、二時間はけっこう苦痛だと思う。それで批判されたら堪らないという気がする。
余慶
何となく気分で書いてしまって、あとで気がついた。ぜんぜん意味が違うのだ。わたくとしては余禄だとか余得のつもりで書いたのだが、どうも適切ではなかったようだ。
さて、今日は顕正新聞から話題を拾うことにしよう。まずは第1274号に載る正義にめざめての一つだ。
また入会以来、細井日達書写の御本尊に手を合わせておりましたが、浅井先生の
「御遺命を曲げた貫首に御本尊様を書写する資格があろうか」
とのご指導にハッとし、御本尊を本部会館に納め、遥拝勤行をしていきました。
この人は平成十四年十月に創価学会から顕正会に移籍してきた。上掲の入会以来云々より察するに、入会後も当初は日達上人御書写の御本尊に向かって勤行をしていたのだろう。そしていつの時点かわからないが、御本尊を本部会館に納め、遥拝勤行をするようになった。
ここがひじょうにアイマイなところである。ようするに日達上人の御本尊を認めるのか認めないのか、その方針が明確ではないのだ。
この理由は二つ考えられる。
一つは過去の発言との整合性の問題であり、もう一つは成果主義の弊害である。
一つ目はいわゆる試練と忍従の歴史に書かれていることで、たとえ御遺命違背の貫首であっても、その御本尊の力にはいささかの変化もない、という意味の発言がある。つまり、この当時の顕正会は日達上人・日顕上人の御本尊を認めていたのだ。
そしてもう一つの理由であるが、これはもう成果に追われるあまり、厳格なことは言っていられないということなのだ。もはや今となっては過去の発言との整合性などどうでもいいわけで、ともかく日達上人・日顕上人の御本尊は認めたくないのである。理屈じゃなくて感情の問題なのだ。
ゆえに今はまだ具体的な事例を知らないが、おそらくは日如上人の御本尊をも認めないのではないかと思う。つまり、法華講員で日如上人の御本尊を御安置している人がもし顕正会に入会したとなると、いずれは例の日寛上人の御本尊に取り替えられるか、もしくは遥拝勤行となるか、この二つに一つだと思うのだ。
そこで成果主義に話を戻すと、ようは上述のことをいきなり要求すると入会を拒まれる可能性があるので、ともかく最初のうちはあまり厳しいことを言わないのだ。そして徐々に説得していくわけである。
現状では、冨士大石寺顕正会と名乗っているものの、それは建て前であって、本音は独立教団路線なのだろう。
東電 汚染水の破綻を隠蔽
なんと嘘の発表をしていた!!
汚染水問題の続報である。この記事の隣にはTPPに関する話題も書かれている。大手マスコミはTPP反対の動きを一切報道しないのだそうだ。いわゆる偏向報道であるが、どうやら東電に関することも積極的には報道したがらないようである。しかし、報道しようがしまいが、深刻な事態であることに変わりはない。
海洋投棄への布石
海は広いな大きなである。確かに大海は死屍をとどめずと言うくらいであるから、おそらくは相当に希釈されることだろう。しかし、そういう問題ではないはずだ。また、実際問題としては海におけるホットスポットが生じることが考えられるわけで、その地域の魚介類は高濃度の汚染を受けることになるだろう。我々日本人にとって魚介類は貴重な食料資源のはずだ。しかも海には壁も仕切りもない。汚染がどこに行くかわからない。外国から莫大な額の賠償を求められたらそれだけで国家破産だ。
安倍首相 EXILEに大はしゃぎ
「拉致国民大集会」にはわずか30分
これはやや酷な感じがする。総理大臣のスケジュールは秘書が決めているはずで、もちろん本人の意向もゼロではないだろうけれども、基本的には秘書任せのはずだ。ゆえに、拉致集会には三十分でコンサートに二時間いたとしても、それが本人の意向とは言い切れない。いや、もちろん、秘書が決めたことであっても行動するのは首相である。過去の首相で何か都合の悪いことがあると秘書に罪を被せるような、確かそんな人物もいたような気がするけれども、当然ながらそれは論外である。
ちなみに、わたくしの個人的感覚で言わせてもらえば、よほどのファンでもない限り、二時間はけっこう苦痛だと思う。それで批判されたら堪らないという気がする。