2013/7/28
真夏の法門談義
ひじょうに面倒臭いことになっているが、どうしても書いておかねばならないことが二つほどある。
「一、日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之これを相伝す、本門寺に懸け奉るべし」
これを持って戒壇本尊を本懐と宗門が言いますね。
それが、大矛盾であることがわからないほど、宗門は愚かの極みなのです。
まずは一点目。これはとんでもない言い掛かりである。いったい何がどのように矛盾しているのか、まるで説明できていない。それにもかかわらず愚かの極みなどと断じているのだから、沖浦氏こそ愚の骨頂である。
弘安二年にご図顕された数多くの御本尊全体を示す文章で、戒壇本尊である確立は恐らく100分の1程度でしょう。
確立は確率の間違いと思われるが、ようするに弘安二年の大御本尊とは具体的にどの御本尊を指すのか特定できない、百分の一は極端にしても確率的に低いと言いたいわけなのだろう。
これはまったくの言い掛かりである。
話は簡単だ。大石寺が昨日今日できたばかりの新興の寺院であれば沖浦氏の言うとおりだろう。しかし、そうではないのだ。七百有余年の伝統があるのだ。その由緒ある寺院において、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊とは戒壇本尊のことである、と言っているのだから、それを素直に受け取るのが当然なのだ。繰り返し言っておくが、大石寺は昨日今日できたアヤシゲな寺院なんかではない。由緒正しき寺院なのだ。
二点目は法門の考え方についてである。
夫小大定めなし。一寸の物を一尺の物に対しては小と云ひ、五尺の男に対しては六尺・七尺の男を大の男と云ふ。外道の法に対しては一切の大小の仏教を皆大乗と云ふ。「大法東漸、通指仏教、以為大法」等と釈する是なり。
仏法は階層構造ないし入れ子構造で成り立っている。ゆえに、普通は小乗に対しての大乗であるが、上掲の御指南に明らかなごとく、外道に対すれば仏教全般が大乗と呼ばれることになるのだ。あるいは大法もここでは仏教全般を指して大法と言っているわけである。
前代未聞の大法此の国に流布して、月氏・漢土・一閻浮提の内の一切衆生仏に成るべき事こそ有り難けれ有り難けれ。
では、ここでの大法はどうだろうか?
答えは書くまでもないことである。つまり、表記はまったく同じでも、意味合いはまったく異なる。同じ大法であっても、前者は仏教全般を意味し、後者は大聖人の下種仏法を意味するのだ。すなわち階層構造ないし入れ子構造とはこのことである。
ここで早くも結論を書いてしまおう。
大聖人のあらわされた御本尊にもこの原理が当てはまる。大聖人の御本尊はいわゆる未曾有の大曼荼羅である。そしてここで冠せられる「大」は、物理的な大小の意味ではない。たとえ小型の御本尊であっても大曼荼羅なのだ。つまり、大聖人のあらわされた御本尊はいずれも大曼荼羅であって、小曼荼羅などというものは存在しない。
では、大御本尊はどうか?
日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊
御書に御本尊という表記はあっても大御本尊の表記はない。つまり、弘安二年の大御本尊は大曼荼羅の異名であることはもちろんのこと、それと同時に物理的な意味において大きな御本尊であることを示唆しているのだ。
よって、大聖人のあらわされた大曼荼羅はいずれもいずれも出世の本懐にあらざるはなしであるが、その中でとりわけ本懐中の本懐と申し上げるべき御本尊、それが弘安二年の大御本尊すなわち戒壇の大御本尊なのである。
さて、入れ子構造について、もう少し説明しよう。
法華経は如来出世の本懐・・・
この御文はいわゆる権実相対を意味している。すなわち諸経と法華経とを比較して、法華経こそが如来出世の本懐であると仰せられるわけだ。しかし、教学をかじったことのある人ならば、すでにこの話の延長線上に何が待っているか想像できることだろう。この先にはいわゆる本迹相対・種脱相対が待っている。
一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名づく。
もはや言葉を失うほどだ。最初に示した御書では、外道に対すれば仏教全般が大乗ないし大法だった。ところがここでは一品二半以外は小乗教だの邪教だのと仰せられる。また、法華経は如来出世の本懐だったはずだ。ところがここではその法華経ですら一品二半以外は小乗教・邪教なのだ。
これを普通の人が言っていたら、オマエは何を支離滅裂なこと言っているんだ、さっきと言っていることが違うじゃないか、と怒鳴りつけるところだろう。しかし、相手は大聖人だ。ここは前向きに会通をしなければいけない。つまり、この結論が階層構造ないし入れ子構造ということなのである。
以上、この論理を当てはめれば、大聖人の御真筆御本尊はいずれも本懐にあらざるはなしであるが、別して戒壇の大御本尊を本懐中の本懐の御本尊と拝することに何らの不都合もないことがわかるはずである。
「一、日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之これを相伝す、本門寺に懸け奉るべし」
これを持って戒壇本尊を本懐と宗門が言いますね。
それが、大矛盾であることがわからないほど、宗門は愚かの極みなのです。
まずは一点目。これはとんでもない言い掛かりである。いったい何がどのように矛盾しているのか、まるで説明できていない。それにもかかわらず愚かの極みなどと断じているのだから、沖浦氏こそ愚の骨頂である。
弘安二年にご図顕された数多くの御本尊全体を示す文章で、戒壇本尊である確立は恐らく100分の1程度でしょう。
確立は確率の間違いと思われるが、ようするに弘安二年の大御本尊とは具体的にどの御本尊を指すのか特定できない、百分の一は極端にしても確率的に低いと言いたいわけなのだろう。
これはまったくの言い掛かりである。
話は簡単だ。大石寺が昨日今日できたばかりの新興の寺院であれば沖浦氏の言うとおりだろう。しかし、そうではないのだ。七百有余年の伝統があるのだ。その由緒ある寺院において、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊とは戒壇本尊のことである、と言っているのだから、それを素直に受け取るのが当然なのだ。繰り返し言っておくが、大石寺は昨日今日できたアヤシゲな寺院なんかではない。由緒正しき寺院なのだ。
二点目は法門の考え方についてである。
夫小大定めなし。一寸の物を一尺の物に対しては小と云ひ、五尺の男に対しては六尺・七尺の男を大の男と云ふ。外道の法に対しては一切の大小の仏教を皆大乗と云ふ。「大法東漸、通指仏教、以為大法」等と釈する是なり。
仏法は階層構造ないし入れ子構造で成り立っている。ゆえに、普通は小乗に対しての大乗であるが、上掲の御指南に明らかなごとく、外道に対すれば仏教全般が大乗と呼ばれることになるのだ。あるいは大法もここでは仏教全般を指して大法と言っているわけである。
前代未聞の大法此の国に流布して、月氏・漢土・一閻浮提の内の一切衆生仏に成るべき事こそ有り難けれ有り難けれ。
では、ここでの大法はどうだろうか?
答えは書くまでもないことである。つまり、表記はまったく同じでも、意味合いはまったく異なる。同じ大法であっても、前者は仏教全般を意味し、後者は大聖人の下種仏法を意味するのだ。すなわち階層構造ないし入れ子構造とはこのことである。
ここで早くも結論を書いてしまおう。
大聖人のあらわされた御本尊にもこの原理が当てはまる。大聖人の御本尊はいわゆる未曾有の大曼荼羅である。そしてここで冠せられる「大」は、物理的な大小の意味ではない。たとえ小型の御本尊であっても大曼荼羅なのだ。つまり、大聖人のあらわされた御本尊はいずれも大曼荼羅であって、小曼荼羅などというものは存在しない。
では、大御本尊はどうか?
日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊
御書に御本尊という表記はあっても大御本尊の表記はない。つまり、弘安二年の大御本尊は大曼荼羅の異名であることはもちろんのこと、それと同時に物理的な意味において大きな御本尊であることを示唆しているのだ。
よって、大聖人のあらわされた大曼荼羅はいずれもいずれも出世の本懐にあらざるはなしであるが、その中でとりわけ本懐中の本懐と申し上げるべき御本尊、それが弘安二年の大御本尊すなわち戒壇の大御本尊なのである。
さて、入れ子構造について、もう少し説明しよう。
法華経は如来出世の本懐・・・
この御文はいわゆる権実相対を意味している。すなわち諸経と法華経とを比較して、法華経こそが如来出世の本懐であると仰せられるわけだ。しかし、教学をかじったことのある人ならば、すでにこの話の延長線上に何が待っているか想像できることだろう。この先にはいわゆる本迹相対・種脱相対が待っている。
一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名づく。
もはや言葉を失うほどだ。最初に示した御書では、外道に対すれば仏教全般が大乗ないし大法だった。ところがここでは一品二半以外は小乗教だの邪教だのと仰せられる。また、法華経は如来出世の本懐だったはずだ。ところがここではその法華経ですら一品二半以外は小乗教・邪教なのだ。
これを普通の人が言っていたら、オマエは何を支離滅裂なこと言っているんだ、さっきと言っていることが違うじゃないか、と怒鳴りつけるところだろう。しかし、相手は大聖人だ。ここは前向きに会通をしなければいけない。つまり、この結論が階層構造ないし入れ子構造ということなのである。
以上、この論理を当てはめれば、大聖人の御真筆御本尊はいずれも本懐にあらざるはなしであるが、別して戒壇の大御本尊を本懐中の本懐の御本尊と拝することに何らの不都合もないことがわかるはずである。
2013/7/27
真夏の大馬鹿野郎たち
のん氏、へな氏から貴重なコメントを頂戴しているが、今回は割愛させていただくことになる。
2013/7/25 19:01
投稿者:高速太郎
巌虎さん こんにちは!
「早くも梅雨明け」(2013/7/7)の中で、巌虎さんは、
>沖浦氏は創価学会の中枢に知らず知らずのうちに利用されているのではないかと
>いう気がする。
と述べられています。
私は、末端会員なので本部の実情は知りませんが、それだけでは無いと思っています。
日蓮大聖人の仏法を現在に訳し、それが出来るだけ崩れない理論体系にすることに、
時間を割いているのではないかと考えています。
ここでも行われている、戒壇本尊本懐論の法論が700年後に行われるなど、
日蓮大聖人は思っていなかったのではないでしょうか。
皆さんの対話では、御書に無ければ、その論は間違っている(文証)となっています。
はたして、これからの社会で広宣流布を行おうとした時に、御書の文証の有無だけで、
論の正しさを判断することで構わないのでしょうか。
例えば、先に巌虎さんが私に間違いを認めるのか認めないのかと迫った、一閻浮提の
件もそうです。確かに御書を読む限りでは、一閻浮提は現在で云う地球でしょう。
しかし、数十年以内には、多くの方達が宇宙ステーションへと行くことが可能となり
そこを起点として、宇宙への旅も可能になるようです。他の星へ移住(?)出来るのも
そんなに遠くないことのようです。
それが実現した時に、一閻浮提を地球だけと固守するなら一閻浮提総与の御本尊様は、
地球から外に持って出てはいけないと云うことになるのでしょうか。
仏力法力は、大気圏内だけのものなのでしょうか・・・。
高速太郎氏のコメントはきわめて重要である。上掲をわたくしなりに圧縮させてもらえば、おそらくは次のごとくなるだろう。
一閻浮提を地球のことであるとすると、一閻浮提総与の御本尊は地球限定の御本尊となる。仏法は本来、大宇宙すべてを包含するもののはずだ。とすれば、閻浮総与は仏法の矮小化に他ならない。大聖人の仏法はそんなチャチなものであるはずがない。
圧縮ではなく意訳と言ったほうが適切かもしれないが、高速太郎氏の以前からの主張を勘案すれば、おおむねこのようになるだろうと思う。
これに対してわたくしが言えることは、仏法には此土・他土という概念があることだ。此土を地球と解釈すれば、他土は他の天体であり、とりわけ地球みたいに生命の存在する星を意味することになるだろう。そして御書には二仏並出の失という言葉が出てくるごとく、一つの天体において化導を垂れる仏は基本的に一仏のみとなっている。二仏が同時に出現すると混乱を来たすことになるわけだ。
此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊
ひじょうに難しい御文なので、ここでは此土の用例として挙げさせていただくのみとする。
高速太郎氏は言う。近い将来、宇宙への旅が可能となり、他の星への移住も出来るようになると。
ここでわたくしの予言を書いておくと、宇宙への旅が可能になるとしても、たぶん距離的には限界があるだろう。他の天体への移住は無理、少なくともわたくしの目の黒いうちは不可能だろう。宇宙旅行のイメージを書いておくと、泳ぎの苦手な人がプールサイドにしがみ付いて離れられないところを勇気を振り絞って少し泳いでみる、だが、しかし、すぐにプールサイドに戻ってしまう、というのが現実だと思う。つまり、大宇宙の広大さからみれば、まったくお話にならないくらいの距離しか地球から離れられないのだ。
宇宙人の存在については、誰もが多かれ少なかれ興味を持っているはずだが、いわゆる空飛ぶ円盤に乗って他の天体の生物が地球に飛来しているかどうかはわたくしにはわからない。ただし、おそらくはどこか遠いところに地球のような条件を備えた天体があって、人間のような生物がいるだろうことは、多くの人がたぶんそうだろうと考えているのではないかと思う。それが人間よりも進化しているのかどうか、あるいは地球上の生物概念とはまったく異なる生き物が存在するのかどうかはわからない。もし人間よりも優れた生物ならば、われわれがこうして大聖人の仏法をああだこうだと論じていることをアホなことだと思うのかもしれないが、それもよくはわからないことだ。
さて、話を戻そう。
高速太郎氏の意見は相当に高度であるが、杞憂のような感じも否めない。すでに述べたごとく、わたくしの目の黒いうちには他の天体への移住は不可能であり、地球外生物との接触もまずあり得ないことだと思う。そうすると一閻浮提という括りは今もなお有効であり、おそらくはこの先もずっと有効であろうことが予想されるのだ。つまり、この点においては教義上、破綻の心配はないものと思われるのだ。
更に、戒壇本尊が本懐でない御書があります。
『あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ、子にあらずんばゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。』
(阿仏房御書)
この御書は、文永九年ですから、戒壇本尊図顕とされるかなり前です。
ここで大聖人は、御本尊図顕が出世の本懐だと受け取れる発言をされています。
ご図顕がご本懐だと受け取った場合、2週類の考え方があります。
阿仏房へ与えられた特定の御本尊がご本懐。
全ての御本尊がご本懐。
以上2点しかございません。
何れを採用しても、戒壇本尊本懐を否定する文証です。
さて、今度は沖浦氏だ。まずは結論を書こう。上掲は勝手読みの典型である。阿仏房御書が戒壇本尊本懐を否定する文証のはずがない。いや、もちろん、証明することにもならないわけだが、さりとて否定することにもならない。都合よく読めば、そのように読めるだけの話である。
沖浦氏によれば、当該御書は二種類の解釈が可能だそうである。再掲しよう。
阿仏房へ与えられた特定の御本尊がご本懐。
全ての御本尊がご本懐。
わたくしの知る限り前者を主張する人はいない。おそらくは後者が一般的であろうと思う。さらに再掲しよう。
以上2点しかございません。
何れを採用しても、戒壇本尊本懐を否定する文証です。
ここに論理の飛躍がある。まあ、善意に解釈して沖浦氏側に立って言えば、説明が足りていないことに気がつくべきだ。
つまり、阿仏房へ与えられた御本尊のみが出世の本懐ならば、戒壇本尊本懐は否定されることになる。しかし、すべての御本尊が本懐ならば、戒壇本尊本懐はそこに含まれるわけだから否定されないのだ。
これで説明が足りていないことがわかっただろう。沖浦氏としては、戒壇本尊のみが本懐であるという主張は成り立たないと言いたかったわけだ。
同じことを何度も言わせるものではない。大聖人の御真筆御本尊はすべて本懐の御本尊である。わたくしはこれを否定したことがない。とりわけ戒壇の大御本尊は本懐中の本懐の御本尊なのだ。これはもう何年も前から言っていることであり、そこには沖浦氏もいた。つまりは何回言っても理解できない大馬鹿野郎ということだ。
http://white.ap.teacup.com/ganko/864.html
ずいぶん前の拙稿であるが、わたくしの考え方は今も一貫しているつもりである。もっとも沖浦氏も一貫していると言えばそのとおりなのだが・・・
書きたいことはたくさんあるが、面倒臭いので終わりにしたい。
2013/7/25 19:01
投稿者:高速太郎
巌虎さん こんにちは!
「早くも梅雨明け」(2013/7/7)の中で、巌虎さんは、
>沖浦氏は創価学会の中枢に知らず知らずのうちに利用されているのではないかと
>いう気がする。
と述べられています。
私は、末端会員なので本部の実情は知りませんが、それだけでは無いと思っています。
日蓮大聖人の仏法を現在に訳し、それが出来るだけ崩れない理論体系にすることに、
時間を割いているのではないかと考えています。
ここでも行われている、戒壇本尊本懐論の法論が700年後に行われるなど、
日蓮大聖人は思っていなかったのではないでしょうか。
皆さんの対話では、御書に無ければ、その論は間違っている(文証)となっています。
はたして、これからの社会で広宣流布を行おうとした時に、御書の文証の有無だけで、
論の正しさを判断することで構わないのでしょうか。
例えば、先に巌虎さんが私に間違いを認めるのか認めないのかと迫った、一閻浮提の
件もそうです。確かに御書を読む限りでは、一閻浮提は現在で云う地球でしょう。
しかし、数十年以内には、多くの方達が宇宙ステーションへと行くことが可能となり
そこを起点として、宇宙への旅も可能になるようです。他の星へ移住(?)出来るのも
そんなに遠くないことのようです。
それが実現した時に、一閻浮提を地球だけと固守するなら一閻浮提総与の御本尊様は、
地球から外に持って出てはいけないと云うことになるのでしょうか。
仏力法力は、大気圏内だけのものなのでしょうか・・・。
高速太郎氏のコメントはきわめて重要である。上掲をわたくしなりに圧縮させてもらえば、おそらくは次のごとくなるだろう。
一閻浮提を地球のことであるとすると、一閻浮提総与の御本尊は地球限定の御本尊となる。仏法は本来、大宇宙すべてを包含するもののはずだ。とすれば、閻浮総与は仏法の矮小化に他ならない。大聖人の仏法はそんなチャチなものであるはずがない。
圧縮ではなく意訳と言ったほうが適切かもしれないが、高速太郎氏の以前からの主張を勘案すれば、おおむねこのようになるだろうと思う。
これに対してわたくしが言えることは、仏法には此土・他土という概念があることだ。此土を地球と解釈すれば、他土は他の天体であり、とりわけ地球みたいに生命の存在する星を意味することになるだろう。そして御書には二仏並出の失という言葉が出てくるごとく、一つの天体において化導を垂れる仏は基本的に一仏のみとなっている。二仏が同時に出現すると混乱を来たすことになるわけだ。
此土有縁深厚・本有無作三身の教主釈尊
ひじょうに難しい御文なので、ここでは此土の用例として挙げさせていただくのみとする。
高速太郎氏は言う。近い将来、宇宙への旅が可能となり、他の星への移住も出来るようになると。
ここでわたくしの予言を書いておくと、宇宙への旅が可能になるとしても、たぶん距離的には限界があるだろう。他の天体への移住は無理、少なくともわたくしの目の黒いうちは不可能だろう。宇宙旅行のイメージを書いておくと、泳ぎの苦手な人がプールサイドにしがみ付いて離れられないところを勇気を振り絞って少し泳いでみる、だが、しかし、すぐにプールサイドに戻ってしまう、というのが現実だと思う。つまり、大宇宙の広大さからみれば、まったくお話にならないくらいの距離しか地球から離れられないのだ。
宇宙人の存在については、誰もが多かれ少なかれ興味を持っているはずだが、いわゆる空飛ぶ円盤に乗って他の天体の生物が地球に飛来しているかどうかはわたくしにはわからない。ただし、おそらくはどこか遠いところに地球のような条件を備えた天体があって、人間のような生物がいるだろうことは、多くの人がたぶんそうだろうと考えているのではないかと思う。それが人間よりも進化しているのかどうか、あるいは地球上の生物概念とはまったく異なる生き物が存在するのかどうかはわからない。もし人間よりも優れた生物ならば、われわれがこうして大聖人の仏法をああだこうだと論じていることをアホなことだと思うのかもしれないが、それもよくはわからないことだ。
さて、話を戻そう。
高速太郎氏の意見は相当に高度であるが、杞憂のような感じも否めない。すでに述べたごとく、わたくしの目の黒いうちには他の天体への移住は不可能であり、地球外生物との接触もまずあり得ないことだと思う。そうすると一閻浮提という括りは今もなお有効であり、おそらくはこの先もずっと有効であろうことが予想されるのだ。つまり、この点においては教義上、破綻の心配はないものと思われるのだ。
更に、戒壇本尊が本懐でない御書があります。
『あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ、子にあらずんばゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。』
(阿仏房御書)
この御書は、文永九年ですから、戒壇本尊図顕とされるかなり前です。
ここで大聖人は、御本尊図顕が出世の本懐だと受け取れる発言をされています。
ご図顕がご本懐だと受け取った場合、2週類の考え方があります。
阿仏房へ与えられた特定の御本尊がご本懐。
全ての御本尊がご本懐。
以上2点しかございません。
何れを採用しても、戒壇本尊本懐を否定する文証です。
さて、今度は沖浦氏だ。まずは結論を書こう。上掲は勝手読みの典型である。阿仏房御書が戒壇本尊本懐を否定する文証のはずがない。いや、もちろん、証明することにもならないわけだが、さりとて否定することにもならない。都合よく読めば、そのように読めるだけの話である。
沖浦氏によれば、当該御書は二種類の解釈が可能だそうである。再掲しよう。
阿仏房へ与えられた特定の御本尊がご本懐。
全ての御本尊がご本懐。
わたくしの知る限り前者を主張する人はいない。おそらくは後者が一般的であろうと思う。さらに再掲しよう。
以上2点しかございません。
何れを採用しても、戒壇本尊本懐を否定する文証です。
ここに論理の飛躍がある。まあ、善意に解釈して沖浦氏側に立って言えば、説明が足りていないことに気がつくべきだ。
つまり、阿仏房へ与えられた御本尊のみが出世の本懐ならば、戒壇本尊本懐は否定されることになる。しかし、すべての御本尊が本懐ならば、戒壇本尊本懐はそこに含まれるわけだから否定されないのだ。
これで説明が足りていないことがわかっただろう。沖浦氏としては、戒壇本尊のみが本懐であるという主張は成り立たないと言いたかったわけだ。
同じことを何度も言わせるものではない。大聖人の御真筆御本尊はすべて本懐の御本尊である。わたくしはこれを否定したことがない。とりわけ戒壇の大御本尊は本懐中の本懐の御本尊なのだ。これはもう何年も前から言っていることであり、そこには沖浦氏もいた。つまりは何回言っても理解できない大馬鹿野郎ということだ。
http://white.ap.teacup.com/ganko/864.html
ずいぶん前の拙稿であるが、わたくしの考え方は今も一貫しているつもりである。もっとも沖浦氏も一貫していると言えばそのとおりなのだが・・・
書きたいことはたくさんあるが、面倒臭いので終わりにしたい。
2013/7/21
沖浦氏との果てしない議論
まず、各方面からコメントを頂戴しているが、すべてに行き届かないことをあらかじめご了承願いたい。
浅葱氏よりご挨拶をたまわった。拙ブログは取っ付き難い雰囲気があるのかもしれないが、コメントの投稿そのものはまったくの自由である。ゆえに、何かおっしゃりたいことがあれば、遠慮せずに投稿されるとよい。ただし、わたくしはこのようにきわめてブッキラボウなので、レスポンスをあまり期待してはいけない。
相撲に勝って勝負に負けた。
さて、沖浦氏である。相撲に勝って勝負に負ける、あるいはその逆の、勝負に勝って相撲に負ける、いずれも大相撲の解説で使われていると思う。
相撲道という言い方がある。単純に言えば、柔道や剣道に合わせたという意味もあるだろうが、より本質的には、相撲は単なる勝ち負けの世界ではない、相撲とはかくあるべき、というような一つの道の追求を意味するのだろう。
沖浦氏には勝てば官軍的な考えがあるのかもしれないが、実はほとんど自爆に近い状態であることに気がつかないといけない。身延は相撲に勝って勝負に負けた。創価学会は勝負に勝って相撲に負けた。相撲道という意味で言えば、創価学会の負けである。
これで沖浦氏への反論は終わったようなものだ。相撲道を仏道に置き換えれば一目瞭然である。
そしてもっとも大事なことは、戸田城聖氏が戒壇本尊本懐論者であることだ。つまり、この部分がもっとも根幹であり、ここで小平氏が負けたのであれば戸田氏の負けであり、すなわち創価学会の負けなのである。
『宗祖大聖人が、この御本尊も、ただ信心の2字におさまると言われたのである。信心の2字の中にしか、本尊はないんです。本門戒壇、板御本尊、何だ。寛尊は「信心の中にしか本尊はない」と。ただの物です。いちおうの機械です、幸福製造機だから。』
(第70回本部幹部会H5.9.7)
ひじょうに面白い文証を出してきた。
沖浦氏に要望がある。上掲の出典を教えてほしいのだ。当然、聖教新聞に出ているはずであるが、当該の本部幹部会が平成五年九月七日に行なわれたのであれば、その翌日の新聞だろうか?
http://sudati.iinaa.net/ikeda/wav-mono.html
ところがである。もしかしたら沖浦氏はこのサイトから写し取ったのではあるまいか?
リンク先には仰天スピーチと書かれている。わたくしの想像するに、当時の聖教新聞はこのスピーチをそっくりそのままでは載せなかった。あまりにも過激だからである。それを法華講側がすっぱ抜いたのだ。
いかがだろう。沖浦氏の出してきた文証とは、こういう性質のものなのである。一種の開き直りだろうか?
そこで再度、文証の提示を要求したい。
今度は創価学会側の公式文書としての文証をお願いしたい。聖教新聞やその他もろもろ、創価学会が出版している書籍の中から、文証の提示をお願いしたい。
ちなみに、上掲の池田発言は時期的にひじょうに悩ましい。ようするに宗門との喧嘩が始まってからの発言だからである。当然、相手憎しの意味で、とんでもないことを言い出す、それが喧嘩というものだ。ゆえに、この発言を有効と見るか無効と見るか、わたくしは無効だと思う。ましてや沖浦氏は、池田大作氏を戸田城聖氏の後継者であると強調した上で、くだんの文証を出してきた。この辺がひじょうにイヤラシイところで、あたかも池田氏が戸田氏の遺志を受け継いであのような発言をしたかのように、錯覚させる意図が感じられるところである。
以上で終わりにしようかと思ったが、なんと今朝、再び沖浦氏からコメントが寄せられた。
2013/7/21 6:03
投稿者:沖浦克治
巌虎さん、おはようございます
>沖浦氏は拙ブログのコメント欄において、それこそ再三再四にわたって戒壇本尊本懐論を否定してきた。いつも決まって言うのは、文証を出してみろ、である。つまり、こちらが文証を出せないことを承知していて、いわばその弱点を突いているわけだ。
巌虎さんは、興門流で恐らく最初に、戒壇本尊本懐論が、御書に無いことを認めた方ですね。
貴方はどうして、御書にないことを信じますか?
出世の本懐が御書に無い道理は無いとおもうのですが?
私は貴方を責めているのではありません。
不思議に思えるのでお聞きしております。
弟子分帳をご存知だろう。日興上人は御本尊授与の記録を事細かに残している。もし大聖人においても同様の記録があればいいのだが、残念ながらそれはない。つまり、現存する御真筆御本尊にはその傍証となるべき記録がない。日本全国に御真筆御本尊を所有している寺院がいくつあるか知らないが、そこで聞いてみるがいい。その御本尊は御書に出てきますかと。たぶん、そのほとんどはノーだろう。ゆえに戒壇本尊に文証がなくとも不思議はないのだ。
だが、しかし、沖浦氏は言うだろう、出世の本懐の御本尊なのだから他の御本尊の比ではない、文証があってしかるべきだ、と。
確かに一理はある。一理あるのは認めよう。しかし、ナイモノネダリをしても仕方がない。実際にないのだから仕方がない。そして、他の御本尊においてもその大半は文証がないのだから、戒壇本尊に文証がなくても不思議はない。文証があってしかるべきという意見も相当であるが、しかし、なくても不思議はないのだ。
では、決め手はないのか?
これはやや爆弾発言に近いかもしれないが、最終的には実物を鑑定するしかないだろう。御真筆御本尊が御真筆として認知されているのは、それなりの鑑定結果によるわけだ。すると戒壇本尊も同様のはずである。
しかし、いわゆる秘仏という考え方がある。戒壇本尊は秘仏にてまします。ゆえに鑑定などはもってのほかであると。
これは決して特殊な考え方ではない。
なぜならば他宗の寺院においても秘仏という考え方があって、何年かに一回、御開帳するという秘仏もあれば、絶対の秘仏もある。つまり、絶対の秘仏は永遠に公開されないのだ。
日蓮正宗においては国立戒壇思想を放棄してしまったが、それでも三大秘法抄を否定しているわけではないので、将来的には三国並びに一閻浮提の人たちが拝するようになる。これはある意味、国立戒壇以上の難関が待っているのかもしれない。なぜならば戒壇本尊が国際的・世界的に広く認知されるようになるからで、あるいは世界的な広がりで真贋論争が巻き起こるかもしれないのだ。
さて、この時どうするか、である。
たぶん今の段階で日蓮正宗の僧侶たちはあまり深刻に考えていないと思われるが、もし本気で広宣流布を実現するつもりならば考えておく必要があるだろう。
貴方はどうして、御書にないことを信じますか?
出世の本懐が御書に無い道理は無いとおもうのですが?
再掲である。今回はかなり踏み込んで書いたが、それは沖浦氏との議論が面倒臭くなったからだ。つまり、本来は御本尊の真贋を云々するのではなく、出世の本懐とは何かを論ずるのが筋なのである。なぜならば、話は簡単である。戒壇本尊を鑑定したところ、本物であることが判明したとしよう。しかし、ヘソマガリの連中は素直に認めないのだ。今度は戒壇本尊が出世の本懐であるかどうか証明せよという議論を吹っ掛けてくるのだ。ああじゃない、こうじゃない、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う、しょせんはこの繰り返しなのだ。
まったく面倒臭い話である。
浅葱氏よりご挨拶をたまわった。拙ブログは取っ付き難い雰囲気があるのかもしれないが、コメントの投稿そのものはまったくの自由である。ゆえに、何かおっしゃりたいことがあれば、遠慮せずに投稿されるとよい。ただし、わたくしはこのようにきわめてブッキラボウなので、レスポンスをあまり期待してはいけない。
相撲に勝って勝負に負けた。
さて、沖浦氏である。相撲に勝って勝負に負ける、あるいはその逆の、勝負に勝って相撲に負ける、いずれも大相撲の解説で使われていると思う。
相撲道という言い方がある。単純に言えば、柔道や剣道に合わせたという意味もあるだろうが、より本質的には、相撲は単なる勝ち負けの世界ではない、相撲とはかくあるべき、というような一つの道の追求を意味するのだろう。
沖浦氏には勝てば官軍的な考えがあるのかもしれないが、実はほとんど自爆に近い状態であることに気がつかないといけない。身延は相撲に勝って勝負に負けた。創価学会は勝負に勝って相撲に負けた。相撲道という意味で言えば、創価学会の負けである。
これで沖浦氏への反論は終わったようなものだ。相撲道を仏道に置き換えれば一目瞭然である。
そしてもっとも大事なことは、戸田城聖氏が戒壇本尊本懐論者であることだ。つまり、この部分がもっとも根幹であり、ここで小平氏が負けたのであれば戸田氏の負けであり、すなわち創価学会の負けなのである。
『宗祖大聖人が、この御本尊も、ただ信心の2字におさまると言われたのである。信心の2字の中にしか、本尊はないんです。本門戒壇、板御本尊、何だ。寛尊は「信心の中にしか本尊はない」と。ただの物です。いちおうの機械です、幸福製造機だから。』
(第70回本部幹部会H5.9.7)
ひじょうに面白い文証を出してきた。
沖浦氏に要望がある。上掲の出典を教えてほしいのだ。当然、聖教新聞に出ているはずであるが、当該の本部幹部会が平成五年九月七日に行なわれたのであれば、その翌日の新聞だろうか?
http://sudati.iinaa.net/ikeda/wav-mono.html
ところがである。もしかしたら沖浦氏はこのサイトから写し取ったのではあるまいか?
リンク先には仰天スピーチと書かれている。わたくしの想像するに、当時の聖教新聞はこのスピーチをそっくりそのままでは載せなかった。あまりにも過激だからである。それを法華講側がすっぱ抜いたのだ。
いかがだろう。沖浦氏の出してきた文証とは、こういう性質のものなのである。一種の開き直りだろうか?
そこで再度、文証の提示を要求したい。
今度は創価学会側の公式文書としての文証をお願いしたい。聖教新聞やその他もろもろ、創価学会が出版している書籍の中から、文証の提示をお願いしたい。
ちなみに、上掲の池田発言は時期的にひじょうに悩ましい。ようするに宗門との喧嘩が始まってからの発言だからである。当然、相手憎しの意味で、とんでもないことを言い出す、それが喧嘩というものだ。ゆえに、この発言を有効と見るか無効と見るか、わたくしは無効だと思う。ましてや沖浦氏は、池田大作氏を戸田城聖氏の後継者であると強調した上で、くだんの文証を出してきた。この辺がひじょうにイヤラシイところで、あたかも池田氏が戸田氏の遺志を受け継いであのような発言をしたかのように、錯覚させる意図が感じられるところである。
以上で終わりにしようかと思ったが、なんと今朝、再び沖浦氏からコメントが寄せられた。
2013/7/21 6:03
投稿者:沖浦克治
巌虎さん、おはようございます
>沖浦氏は拙ブログのコメント欄において、それこそ再三再四にわたって戒壇本尊本懐論を否定してきた。いつも決まって言うのは、文証を出してみろ、である。つまり、こちらが文証を出せないことを承知していて、いわばその弱点を突いているわけだ。
巌虎さんは、興門流で恐らく最初に、戒壇本尊本懐論が、御書に無いことを認めた方ですね。
貴方はどうして、御書にないことを信じますか?
出世の本懐が御書に無い道理は無いとおもうのですが?
私は貴方を責めているのではありません。
不思議に思えるのでお聞きしております。
弟子分帳をご存知だろう。日興上人は御本尊授与の記録を事細かに残している。もし大聖人においても同様の記録があればいいのだが、残念ながらそれはない。つまり、現存する御真筆御本尊にはその傍証となるべき記録がない。日本全国に御真筆御本尊を所有している寺院がいくつあるか知らないが、そこで聞いてみるがいい。その御本尊は御書に出てきますかと。たぶん、そのほとんどはノーだろう。ゆえに戒壇本尊に文証がなくとも不思議はないのだ。
だが、しかし、沖浦氏は言うだろう、出世の本懐の御本尊なのだから他の御本尊の比ではない、文証があってしかるべきだ、と。
確かに一理はある。一理あるのは認めよう。しかし、ナイモノネダリをしても仕方がない。実際にないのだから仕方がない。そして、他の御本尊においてもその大半は文証がないのだから、戒壇本尊に文証がなくても不思議はない。文証があってしかるべきという意見も相当であるが、しかし、なくても不思議はないのだ。
では、決め手はないのか?
これはやや爆弾発言に近いかもしれないが、最終的には実物を鑑定するしかないだろう。御真筆御本尊が御真筆として認知されているのは、それなりの鑑定結果によるわけだ。すると戒壇本尊も同様のはずである。
しかし、いわゆる秘仏という考え方がある。戒壇本尊は秘仏にてまします。ゆえに鑑定などはもってのほかであると。
これは決して特殊な考え方ではない。
なぜならば他宗の寺院においても秘仏という考え方があって、何年かに一回、御開帳するという秘仏もあれば、絶対の秘仏もある。つまり、絶対の秘仏は永遠に公開されないのだ。
日蓮正宗においては国立戒壇思想を放棄してしまったが、それでも三大秘法抄を否定しているわけではないので、将来的には三国並びに一閻浮提の人たちが拝するようになる。これはある意味、国立戒壇以上の難関が待っているのかもしれない。なぜならば戒壇本尊が国際的・世界的に広く認知されるようになるからで、あるいは世界的な広がりで真贋論争が巻き起こるかもしれないのだ。
さて、この時どうするか、である。
たぶん今の段階で日蓮正宗の僧侶たちはあまり深刻に考えていないと思われるが、もし本気で広宣流布を実現するつもりならば考えておく必要があるだろう。
貴方はどうして、御書にないことを信じますか?
出世の本懐が御書に無い道理は無いとおもうのですが?
再掲である。今回はかなり踏み込んで書いたが、それは沖浦氏との議論が面倒臭くなったからだ。つまり、本来は御本尊の真贋を云々するのではなく、出世の本懐とは何かを論ずるのが筋なのである。なぜならば、話は簡単である。戒壇本尊を鑑定したところ、本物であることが判明したとしよう。しかし、ヘソマガリの連中は素直に認めないのだ。今度は戒壇本尊が出世の本懐であるかどうか証明せよという議論を吹っ掛けてくるのだ。ああじゃない、こうじゃない、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う、しょせんはこの繰り返しなのだ。
まったく面倒臭い話である。
2013/7/19
改革氏に妙案はあるのか?
沖浦氏より種々のコメントを頂戴しているが、しょせんは堂々巡りに過ぎない。こちらとしてはあくまで同じことを繰り返し追及するのみである。
法論自体は、創価学会の大勝利です。
ところが次のごとく言うのだ。
小平さんは負けています。
つまり、法論は創価学会の大勝利だが、小平氏は負けであると。
だからわたくしは言ったのだ。これでは小平氏の立つ瀬がないと。何しろ氏は創価学会側の弁士なのだ。創価学会の代表として法論の場にいたのだ。その人物が負けであって、なぜに創価学会の大勝利と言えるのか、まったく理解できない。
池田先生、戸田先生の卓越した実力が、双方の勝敗を分けたのです。
詭弁である。小平氏が負けならば、池田氏も戸田氏も負けなのだ。
ですので、戸田先生がああ言われたのでしょう。
戒壇本尊本懐論が、宗門の一凶。
これを捨てない限り、身延に勝てる道理がございません。
引用を端折っているので、詳しく知りたい人はコメント全文を確認されたい。ともかく沖浦氏はとんでもないことを言っている。ここでのポイントは戸田氏の立場である。ようするに、戸田氏が戒壇本尊本懐論者であるか否か、これが最大の争点である。結論は本懐論者のはずだ。ところが沖浦氏は、あたかも戸田氏が否定論者だったかのごとく言ってしまっているのだ。これは断じて許されないことだ。
そして今回の一連のコメントにおける最終稿では次のごとく言っている
私がこう言う事を書くと、よく反論があります。
ではどうして創価学会は戒壇本尊本懐論を唱えたのか?
方便ですよ、それは。
一切衆生を救うために、一時的に借りたんです。
ここは反撃の絶好のチャンスだ。
沖浦氏は拙ブログのコメント欄において、それこそ再三再四にわたって戒壇本尊本懐論を否定してきた。いつも決まって言うのは、文証を出してみろ、である。つまり、こちらが文証を出せないことを承知していて、いわばその弱点を突いているわけだ。
ならば、わたくしも同じことを問おう。
創価学会はかつて戒壇本尊本懐論を方便で用いたと・・・
何? 方便?
ほほう、では、文証の提示をお願いしたい。
四十余年未顕真実
正直捨方便
御書のあらゆるところに出てくる言葉だ。大聖人は法華最勝を主張あそばす。いわゆる権実相対の辺で言えば、諸経は方便であって、法華経のみが真実であると。その代表的な文証が上掲なのである。
よって、沖浦氏は文証を示すべきである。なるほど、そうか、戒壇本尊本懐論は方便だったのかと、誰もが納得するような文証を出すべきである。
2013/7/18 8:42
投稿者:顕正会改革派
櫻川忠氏(本名佐野氏)の除名理由については、やはり顕正新聞や会員への説明にもあったように本門戒壇大御本尊を贋作と断じている犀角独歩氏等の邪義に紛動されたのが最大原因と思います。
その人に迷惑がかかるのでお名前は出せませんが妙信講以来の古参会員であった櫻川氏と交友のある方から、「あの人はすっかり身延の学者にかぶれて講演をしたり、冨士の教学や本門戒壇大御本尊を否定したり、『日蓮聖人』とお呼びするようになり変節した。」と聞きました。
私は顕正会員ですが現在の浅井体制の運営方針に賛同してません。「御遺命守護」の精神を今こそ取り戻すべきとも思います。厳虎様のスタンスにも共感するところあります。
顕正会の改革派として櫻川氏に期待していましたけど正直裏切られたような感じです。櫻川氏が「本門戒壇の本義」の本を出したのに公式見解もなく本門戒壇大御本尊や寛師の教学を否定するのでは、沖浦氏の主張とあまり変わりないように思います。
やはり櫻川氏は「冨士大石寺顕正会」の枠から外れたために除名されたと思わざるを得ないのが残念です。
これは爆弾発言だ。
いちおう櫻川氏については保留としよう。たぶん氏は拙ブログをわりと頻繁に閲覧しているはずなので、何か反論があれば自ら発言するに違いない。
私は顕正会員ですが現在の浅井体制の運営方針に賛同してません。
再掲であるが、まさに名は体をあらわすということだろう。改革派を名乗るだけのことはある。問題はその具体的な方策だ。
浅井体制云々の意味からすると、極論すれば浅井先生を打破する以外に抜本的な改革はあり得ない、しょせん改革派とは現体制を打破するところにその眼目がある、というふうに読めるが、いかがだろうか?
しかし、結論的には無理だと思う。
ゆえに、わたくしはこうしてグチ日記を書いているだけであるし、賢明な人たちはとっくの昔に顕正会を去って違う人生を歩んでいる。あるいは宗門法華講へ移籍しているわけである。
よって、改革氏に何か名案があって、顕正会を抜本的に改革できるという確信があるのならば、ぜひともその具体的な改革案を披露願いたいとは思うが、しかし、現実的には無理だろう。
浅井ワンマン体制打破の後、何が残るのか?
そこには何も残らない。つまり、終わりである。顕正会の崩壊である。
ここに国家との根本的な相違がある。
国家体制が崩壊しても、そこには人民がいる。人民がいる以上、そこには新しい体制の国家が作られるのだ。
しかし、顕正会は国家ではない。あくまで任意の団体である。ゆえに潰れたらそこで終わりである。会員たちは去って行く。
まさか浅井先生に取って代わる人物が出現して、顕正会をそっくりそのまま引き受けるようなことは、それこそ確率的にはほとんどゼロに近いだろう。
ずいぶん後ろ向きのことを書いているようだが、これがもっとも現実的な話だと思う。
その上で、あえて建設的なことを書くならば、わたくしの改革案はきわめて単純明快、すなわち宗門復帰である。今の状態はまさに浅井ワンマン体制であるが、宗門復帰が実現すればかなり事情が違ってくるはずである。今は宗教法人顕正会という独立した組織であり、いわば浅井先生はそこの教祖なのである。それが宗門復帰となれば、教祖の立場は返上しなければならない。あくまで在家の一人であり、仮に厚遇したとしても法華講の大講頭であろう。まさか僧侶よりも偉いことにはならないはずだし、他の法華講のニラミもあるから傍若無人なことは出来るはずもない。つまり、宗門復帰こそが顕正会にとって、もっとも有効な改革なのである。
もし仮に、浅井先生が心を入れ替えて、いろいろな改革に着手したとしよう。しかし、たぶんダメなのだと思う。すでに浅井体制そのものがダメであって、そこをいじらずに小手先の小細工を弄したところで何も変わらない。とすれば浅井先生に退いてもらわないといけないが、それでどうなるものでもない。先生に代わる人物はいないのだ。
つまりは宗門復帰しかない。これがわたくしの結論である。
法論自体は、創価学会の大勝利です。
ところが次のごとく言うのだ。
小平さんは負けています。
つまり、法論は創価学会の大勝利だが、小平氏は負けであると。
だからわたくしは言ったのだ。これでは小平氏の立つ瀬がないと。何しろ氏は創価学会側の弁士なのだ。創価学会の代表として法論の場にいたのだ。その人物が負けであって、なぜに創価学会の大勝利と言えるのか、まったく理解できない。
池田先生、戸田先生の卓越した実力が、双方の勝敗を分けたのです。
詭弁である。小平氏が負けならば、池田氏も戸田氏も負けなのだ。
ですので、戸田先生がああ言われたのでしょう。
戒壇本尊本懐論が、宗門の一凶。
これを捨てない限り、身延に勝てる道理がございません。
引用を端折っているので、詳しく知りたい人はコメント全文を確認されたい。ともかく沖浦氏はとんでもないことを言っている。ここでのポイントは戸田氏の立場である。ようするに、戸田氏が戒壇本尊本懐論者であるか否か、これが最大の争点である。結論は本懐論者のはずだ。ところが沖浦氏は、あたかも戸田氏が否定論者だったかのごとく言ってしまっているのだ。これは断じて許されないことだ。
そして今回の一連のコメントにおける最終稿では次のごとく言っている
私がこう言う事を書くと、よく反論があります。
ではどうして創価学会は戒壇本尊本懐論を唱えたのか?
方便ですよ、それは。
一切衆生を救うために、一時的に借りたんです。
ここは反撃の絶好のチャンスだ。
沖浦氏は拙ブログのコメント欄において、それこそ再三再四にわたって戒壇本尊本懐論を否定してきた。いつも決まって言うのは、文証を出してみろ、である。つまり、こちらが文証を出せないことを承知していて、いわばその弱点を突いているわけだ。
ならば、わたくしも同じことを問おう。
創価学会はかつて戒壇本尊本懐論を方便で用いたと・・・
何? 方便?
ほほう、では、文証の提示をお願いしたい。
四十余年未顕真実
正直捨方便
御書のあらゆるところに出てくる言葉だ。大聖人は法華最勝を主張あそばす。いわゆる権実相対の辺で言えば、諸経は方便であって、法華経のみが真実であると。その代表的な文証が上掲なのである。
よって、沖浦氏は文証を示すべきである。なるほど、そうか、戒壇本尊本懐論は方便だったのかと、誰もが納得するような文証を出すべきである。
2013/7/18 8:42
投稿者:顕正会改革派
櫻川忠氏(本名佐野氏)の除名理由については、やはり顕正新聞や会員への説明にもあったように本門戒壇大御本尊を贋作と断じている犀角独歩氏等の邪義に紛動されたのが最大原因と思います。
その人に迷惑がかかるのでお名前は出せませんが妙信講以来の古参会員であった櫻川氏と交友のある方から、「あの人はすっかり身延の学者にかぶれて講演をしたり、冨士の教学や本門戒壇大御本尊を否定したり、『日蓮聖人』とお呼びするようになり変節した。」と聞きました。
私は顕正会員ですが現在の浅井体制の運営方針に賛同してません。「御遺命守護」の精神を今こそ取り戻すべきとも思います。厳虎様のスタンスにも共感するところあります。
顕正会の改革派として櫻川氏に期待していましたけど正直裏切られたような感じです。櫻川氏が「本門戒壇の本義」の本を出したのに公式見解もなく本門戒壇大御本尊や寛師の教学を否定するのでは、沖浦氏の主張とあまり変わりないように思います。
やはり櫻川氏は「冨士大石寺顕正会」の枠から外れたために除名されたと思わざるを得ないのが残念です。
これは爆弾発言だ。
いちおう櫻川氏については保留としよう。たぶん氏は拙ブログをわりと頻繁に閲覧しているはずなので、何か反論があれば自ら発言するに違いない。
私は顕正会員ですが現在の浅井体制の運営方針に賛同してません。
再掲であるが、まさに名は体をあらわすということだろう。改革派を名乗るだけのことはある。問題はその具体的な方策だ。
浅井体制云々の意味からすると、極論すれば浅井先生を打破する以外に抜本的な改革はあり得ない、しょせん改革派とは現体制を打破するところにその眼目がある、というふうに読めるが、いかがだろうか?
しかし、結論的には無理だと思う。
ゆえに、わたくしはこうしてグチ日記を書いているだけであるし、賢明な人たちはとっくの昔に顕正会を去って違う人生を歩んでいる。あるいは宗門法華講へ移籍しているわけである。
よって、改革氏に何か名案があって、顕正会を抜本的に改革できるという確信があるのならば、ぜひともその具体的な改革案を披露願いたいとは思うが、しかし、現実的には無理だろう。
浅井ワンマン体制打破の後、何が残るのか?
そこには何も残らない。つまり、終わりである。顕正会の崩壊である。
ここに国家との根本的な相違がある。
国家体制が崩壊しても、そこには人民がいる。人民がいる以上、そこには新しい体制の国家が作られるのだ。
しかし、顕正会は国家ではない。あくまで任意の団体である。ゆえに潰れたらそこで終わりである。会員たちは去って行く。
まさか浅井先生に取って代わる人物が出現して、顕正会をそっくりそのまま引き受けるようなことは、それこそ確率的にはほとんどゼロに近いだろう。
ずいぶん後ろ向きのことを書いているようだが、これがもっとも現実的な話だと思う。
その上で、あえて建設的なことを書くならば、わたくしの改革案はきわめて単純明快、すなわち宗門復帰である。今の状態はまさに浅井ワンマン体制であるが、宗門復帰が実現すればかなり事情が違ってくるはずである。今は宗教法人顕正会という独立した組織であり、いわば浅井先生はそこの教祖なのである。それが宗門復帰となれば、教祖の立場は返上しなければならない。あくまで在家の一人であり、仮に厚遇したとしても法華講の大講頭であろう。まさか僧侶よりも偉いことにはならないはずだし、他の法華講のニラミもあるから傍若無人なことは出来るはずもない。つまり、宗門復帰こそが顕正会にとって、もっとも有効な改革なのである。
もし仮に、浅井先生が心を入れ替えて、いろいろな改革に着手したとしよう。しかし、たぶんダメなのだと思う。すでに浅井体制そのものがダメであって、そこをいじらずに小手先の小細工を弄したところで何も変わらない。とすれば浅井先生に退いてもらわないといけないが、それでどうなるものでもない。先生に代わる人物はいないのだ。
つまりは宗門復帰しかない。これがわたくしの結論である。
2013/7/16
ギャクロカヤダのバカヤロウ
今朝も沖浦氏から精力的な投稿があった。しかし、重複する部分が少なくないので省略し、昨夜のコメントを中心に思うところを書かせていただきたい。
創価学会がどの御本尊を書写するか?
戒壇本尊で無いことだけは確かですし、あるいは創価学会の内部で、どの御本尊も書写せず、相貌が御書に基づいて問題ない御本尊を、独自で書く事もあり得ます。
ともあれ、将来の事は将来の人が決めればいいのです。
現時点で、書写の元を限定する必要は全くありませんし、そういう事をすると、かえって将来の方の自由な判断を、束縛しかねません。
無益ですね。
まったく解せない話だ。シツコイようだが再掲しよう。
近い将来、戒壇本尊を書写の対象としなくなると思います。
将来のことは将来の人が決めればいい、将来の人の自由な判断を束縛しかねない、などと言うのであれば、口を慎むべきである。なぜならば、戒壇本尊を書写の対象としなくなるかどうかは、将来の人が決めればいいことだからである。つまり、沖浦氏は自己矛盾に陥っているのだ。創価学会が公式に戒壇本尊本懐論を撤回するまでは口を慎む、これが沖浦氏の取るべき態度のはずだ。
小樽法論の録音をお聞き下さい。
完全に理論では負けています。
戒壇本尊は御書にない。
御伝土台にもない。
興師も一言も言わない。
その通りです。
大聖人仏法に、戒壇本尊本懐はありません。
そこを突かれると、
身延は狐や狸、鬼子母神を祭っているからおかしい。
と切り返しています。
巌虎さん、少し冷静に判断して下さいね。
身延が狐を祀ると、戒壇本尊が本懐になる道理が何処のありますか?
全く別の事です。
それをリンクさせること自体、負けている証拠です。
違いますか?
相変わらず曲線的な議論が好きな人である。再掲しよう。
もし沖浦氏が日蓮宗側に軍配を上げるのであれば、創価学会の負けである。理屈で勝てないところを祈りで大勝利に変えたなどというのは、詭弁以外のナニモノでもないだろう。
ようするに沖浦氏は創価学会の負けを認めているわけだ。
ところで小樽問答であるが、わたくしは今までその音源を聴いたことがなかった。そこで今朝、ユーチューブに出ている小樽問答@〜Cを聴いてみた。どうやら続きがあるらしい。ようはCで完結しているわけではないのだ。ならば、ぜひとも最後まで聴いてみたいものだが、どこかにあるのだろうか?
ちなみに現時点での感想を書くと、必ずしも沖浦氏の言っているとおりではない、氏の言っていることは不正確である、ということになる。具体的に言えば、順番が違うのだ。まず、創価学会側が身延の本尊雑乱を責めている。相手はそれに対抗する意味で戒壇本尊に対する疑義を述べているのだ。ゆえに沖浦氏の説明は間違っているのだ。
ただし、すべてが間違っているわけではない。
小平さんは、
信心がないからわからない。
これだけです。
なるほど、この部分は沖浦氏の言っているとおりだろう。完全に負けているかどうかは微妙だが、ここは確かに苦しいところだと思う。
いずれにしても今の段階で小樽問答を持ち出し、日蓮宗側の勝利を叫ぶのは、創価学会員にあるまじき行為だろう。沖浦氏にその自覚がないとしたら困り者である。
さて、今日は顕正新聞第1279号から話題を拾うつもりでいたが、暑いので一つだけ取り上げて終わりにしよう。
中国人も食べぬ汚染食品、日本に
「殺虫剤のカクテル」と農業担当主任
シリーズ三回目も凄まじい。具体的な内容については省くが、どうしてもツッコミを入れたいところがある。それは次のくだりだ。
工場の煙突から立ち上る煙により周辺は靄(もや)がかかり、一時間いるだけで気分が悪くなる。
どこの話かと思えば、中国山東省の話なのだ。おいおい、オマエは中国まで取材に行ったのかよ、と言いたいところだ。
創価学会がどの御本尊を書写するか?
戒壇本尊で無いことだけは確かですし、あるいは創価学会の内部で、どの御本尊も書写せず、相貌が御書に基づいて問題ない御本尊を、独自で書く事もあり得ます。
ともあれ、将来の事は将来の人が決めればいいのです。
現時点で、書写の元を限定する必要は全くありませんし、そういう事をすると、かえって将来の方の自由な判断を、束縛しかねません。
無益ですね。
まったく解せない話だ。シツコイようだが再掲しよう。
近い将来、戒壇本尊を書写の対象としなくなると思います。
将来のことは将来の人が決めればいい、将来の人の自由な判断を束縛しかねない、などと言うのであれば、口を慎むべきである。なぜならば、戒壇本尊を書写の対象としなくなるかどうかは、将来の人が決めればいいことだからである。つまり、沖浦氏は自己矛盾に陥っているのだ。創価学会が公式に戒壇本尊本懐論を撤回するまでは口を慎む、これが沖浦氏の取るべき態度のはずだ。
小樽法論の録音をお聞き下さい。
完全に理論では負けています。
戒壇本尊は御書にない。
御伝土台にもない。
興師も一言も言わない。
その通りです。
大聖人仏法に、戒壇本尊本懐はありません。
そこを突かれると、
身延は狐や狸、鬼子母神を祭っているからおかしい。
と切り返しています。
巌虎さん、少し冷静に判断して下さいね。
身延が狐を祀ると、戒壇本尊が本懐になる道理が何処のありますか?
全く別の事です。
それをリンクさせること自体、負けている証拠です。
違いますか?
相変わらず曲線的な議論が好きな人である。再掲しよう。
もし沖浦氏が日蓮宗側に軍配を上げるのであれば、創価学会の負けである。理屈で勝てないところを祈りで大勝利に変えたなどというのは、詭弁以外のナニモノでもないだろう。
ようするに沖浦氏は創価学会の負けを認めているわけだ。
ところで小樽問答であるが、わたくしは今までその音源を聴いたことがなかった。そこで今朝、ユーチューブに出ている小樽問答@〜Cを聴いてみた。どうやら続きがあるらしい。ようはCで完結しているわけではないのだ。ならば、ぜひとも最後まで聴いてみたいものだが、どこかにあるのだろうか?
ちなみに現時点での感想を書くと、必ずしも沖浦氏の言っているとおりではない、氏の言っていることは不正確である、ということになる。具体的に言えば、順番が違うのだ。まず、創価学会側が身延の本尊雑乱を責めている。相手はそれに対抗する意味で戒壇本尊に対する疑義を述べているのだ。ゆえに沖浦氏の説明は間違っているのだ。
ただし、すべてが間違っているわけではない。
小平さんは、
信心がないからわからない。
これだけです。
なるほど、この部分は沖浦氏の言っているとおりだろう。完全に負けているかどうかは微妙だが、ここは確かに苦しいところだと思う。
いずれにしても今の段階で小樽問答を持ち出し、日蓮宗側の勝利を叫ぶのは、創価学会員にあるまじき行為だろう。沖浦氏にその自覚がないとしたら困り者である。
さて、今日は顕正新聞第1279号から話題を拾うつもりでいたが、暑いので一つだけ取り上げて終わりにしよう。
中国人も食べぬ汚染食品、日本に
「殺虫剤のカクテル」と農業担当主任
シリーズ三回目も凄まじい。具体的な内容については省くが、どうしてもツッコミを入れたいところがある。それは次のくだりだ。
工場の煙突から立ち上る煙により周辺は靄(もや)がかかり、一時間いるだけで気分が悪くなる。
どこの話かと思えば、中国山東省の話なのだ。おいおい、オマエは中国まで取材に行ったのかよ、と言いたいところだ。
2013/7/15
ギャクロカヤダのタワゴト
バーズ氏が一発屋の事例を紹介下さっている。
主人公のフィギュアなど、関連グッズも大量に販売され、おそらく彼は、印税で相当稼いだでしょう。
ただし、一発で終わったとのことだ。
どれほどの大ヒットだったか知らないが、まあ、さすがに一生食って行けるわけではないだろう。ゆえに、くだんの年収八百万の青年も、毎年、コンスタントにそれだけの額を稼げるかどうかはわからない。ユタ氏も指摘するように、そんなに甘い世界ではないはずだ。
本当に大功徳を自慢させたいのなら、せっかくですから、顕正新聞でその作品を宣伝してあげてもいいでしょうに。ちょっと腑に落ちないですね。
いわゆる組織利用の是非が問われるところである。
たとえば顕正会の中に小説家が複数いるとしよう。すると、一人だけを宣伝するのは不公平なので、もし宣伝するならば全員の宣伝をしないといけない。小説家に限らない。作曲家でもいいし、画家でもいい。あるいはラーメン屋でもいいだろう。しかし、これでは収拾がつかなくなる。もはや何の新聞なのか、わけがわからなくなるのだ。
いちおう顕正会は信心一本の純粋無垢な団体であることが売りなので、顕正会の組織と個人の商売とがリンクしないように心掛けているのだと思われる。
それとはやや違ったことを書けば、浅井先生の沽券というかプライドに関わる問題なのかもしれない。
浅井先生も作家である。本を出版し、一般の書店にも並べられたことがある。ゆえに先生の弟子の中に作家がいて、先生よりもヒットするようなことがあると、面白くないのかもしれない。ケチな了見だが、これには先例が無きにしも非ずなのだ。
櫻川忠氏によれば、氏の最初の著作である『本門戒壇の本義』の出版が、実は除名処分の本当の理由なのだそうである。
除名処分の本当の理由は、拙著「本門戒壇の本義」(パレード、平成十六年十一月)の出版が、浅井会長の逆鱗に触れたことによる。
これは『迷走する顕正会を斬る』の冒頭に、いきなり出てくる話なのだ。いや、もちろん、これはくだんの話と同一レベルではないわけで、彼は一般の小説であり、こちらは専門の宗教書である。宗教団体において、その教団の許可を得ずして宗教書を出すのは確かに問題がありそうだ。しかし、かれこれ十年前の著書なので、内容をご存じない人も多かろうと思うので書いておくが、『本門戒壇の本義』は基本的に顕正会の主張と違うところがない。『迷走する〜』が逆鱗に触れたとすれば誰もが納得するところだが、『本門戒壇〜』が除名の真の理由とは少し考え難いところである。
つまり、櫻川氏の言っていることが本当ならば、浅井先生はいかにも了見の狭い人、ぶっちゃけ言えばケツの穴の小さい人ということになるだろう。
さて、次は沖浦氏であるが、相変わらず元気な人だ。いろいろなテーマで書いておられる。
東電の、吉田昌郎元所長がお亡くなりになられました。
この方がおられなければ、福島は国を滅亡させていたと思います。
恩人が亡くなられ、寂しいです。
慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
合掌・・・・・・
原発問題には関心があるので、わたくしも上掲の報道を耳にした時には、かなりの衝撃を受けた。何しろ五十八歳だったそうである。今の時代ではいかにも若い。
死者にムチ打つつもりはないけれども、わたくしは沖浦氏とは違った感想を持っている。吉田所長をヒーローのごとく称えるのは、ある意味、オヒトヨシのような気がしないでもない。何しろ原発を四基も爆発させてしまったからだ。二号機は建屋の原形を保っているが、他はすべてボロボロである。なぜ爆発を止められなかったのか、結果論ながらそこが悔やまれるところである。
よくチェルノブイリとの比較がなされているが、事故を矮小化したい人は、フクシマはチェルノブイリよりも放射能の放出量がはるかに少なく、よって被害も小さい、などと言っている。しかし、放射能のことなど素人にはわからない。たぶん専門家だって、本当のところはわかっていないはずだ。それよりも何よりも百聞は一見にしかずである。チェルノブイリで爆発したのは一基であるが、フクシマは四基である。ことに一号や三号は爆発の瞬間が動画に残されているのだ。この事実の前には、小難しい理屈などまったく通用しない。
>>近い将来、戒壇本尊を書写の対象としなくなる・・・
>これがまた凄い。じゃあ、いったい何を書写するのよ、ということなのだ。
富士門流の方々の大きな過ちは、戒壇本尊本懐論を採用したことです。
御書には一言もありませんし、寛師の邪義を大聖人仏法に取り入れてしまった。
天台宗が、3代目から邪義に染まったのと同じ現象です。
戒壇本尊本懐を、御書に基づいて証明される方がいるなら、私は即時創価学会を退会しその方の宗派に入信すると宣言し、数年が経過しております。
今に至るもそう言う方はお一人もおられません。
これは、戒壇本尊本懐を御書に基づいて証明出来ない査証だと思います。
それはそれで、大石寺の歴代法主たちは、戒壇本尊を書写の元としておりません。
戒壇本尊には頭破作七分も副十号もありません。
滅度後には10年の異なりがあります。
少しだけ冷静に判断するなら、何方でも戒壇本尊以外を書写した事実が理解出来ます。
ですので、戒壇本尊以外のどの本尊を書写するというのかと言う設問は、富士門流では最初から成り立ちません。
曲線的な議論である。沖浦氏は当初、創価学会は戒壇本尊本懐論を採用していたが今は少しずつ距離を置き始めている、という意味のことを言っていたのだ。そして、創価学会は近い将来、戒壇本尊を書写の対象としなくなる、と言い放った。ゆえにわたくしは、じゃあ何を書写するのか、と問うたのだ。それが上掲の文章では、話が捻じ曲がってしまい、おかしな方向に流れている。
戒壇本尊の相貌と歴代書写のそれは異なる。これは以前から指摘されていることであり、御法門に関心のある人ならば誰もが知っていることである。しかし、それがなぜなのかは誰もわからない。おそらく現時点でわかっている人は世界で二人だけだろう。すなわち御当代と御隠尊である。それ以外の人は誰もわからないのだ。
しかし、この問題と沖浦氏の言っていることは別次元のことである。相貌が異なるのは事実であるが、そもそも出発点が異なるのだ。沖浦氏は自分の発言に責任を持つべきである。
近い将来、戒壇本尊を書写の対象としなくなると思います。
これで曲線的な議論の意味がわかっただろう。だから何を書写するのかを聞いているわけだが、沖浦氏はこれにまったく答えていない。わざと話をはぐらかしているだろうか?
富士ボーに、何方かが、小樽法論の録音を貼っておられます。
今私も聴きました。
あの部分だけを聴いての感想ですが、小平さん完全に負けていますね。
身延の長谷川さんは、戒壇本尊が御書に全く無い、家中抄で始めてそれらしき記載がある。
こう言う内容で批判されています。
小平さんは、
信心がないからわからない。
これだけです。
信心がない証拠として、身延が狐や狸、鬼子母神を拝んでいることを挙げています。
論理のすり替えですね。
戸田先生、池田先生の凄まじい実力がわかります。
完全に理屈で勝てない所を、祈りで大勝利に変えておられる。
凄い!!!
これもおかしな議論だ。これでは小平氏の立つ瀬がない。もし沖浦氏が日蓮宗側に軍配を上げるのであれば、創価学会の負けである。理屈で勝てないところを祈りで大勝利に変えたなどというのは、詭弁以外のナニモノでもないだろう。第一、戸田氏は戒壇本尊本懐論者であり、その弟子の池田氏も同様のはずである。ゆえに小平氏が負けならば、戸田・池田氏も負けと断ずるのが道理である。
主人公のフィギュアなど、関連グッズも大量に販売され、おそらく彼は、印税で相当稼いだでしょう。
ただし、一発で終わったとのことだ。
どれほどの大ヒットだったか知らないが、まあ、さすがに一生食って行けるわけではないだろう。ゆえに、くだんの年収八百万の青年も、毎年、コンスタントにそれだけの額を稼げるかどうかはわからない。ユタ氏も指摘するように、そんなに甘い世界ではないはずだ。
本当に大功徳を自慢させたいのなら、せっかくですから、顕正新聞でその作品を宣伝してあげてもいいでしょうに。ちょっと腑に落ちないですね。
いわゆる組織利用の是非が問われるところである。
たとえば顕正会の中に小説家が複数いるとしよう。すると、一人だけを宣伝するのは不公平なので、もし宣伝するならば全員の宣伝をしないといけない。小説家に限らない。作曲家でもいいし、画家でもいい。あるいはラーメン屋でもいいだろう。しかし、これでは収拾がつかなくなる。もはや何の新聞なのか、わけがわからなくなるのだ。
いちおう顕正会は信心一本の純粋無垢な団体であることが売りなので、顕正会の組織と個人の商売とがリンクしないように心掛けているのだと思われる。
それとはやや違ったことを書けば、浅井先生の沽券というかプライドに関わる問題なのかもしれない。
浅井先生も作家である。本を出版し、一般の書店にも並べられたことがある。ゆえに先生の弟子の中に作家がいて、先生よりもヒットするようなことがあると、面白くないのかもしれない。ケチな了見だが、これには先例が無きにしも非ずなのだ。
櫻川忠氏によれば、氏の最初の著作である『本門戒壇の本義』の出版が、実は除名処分の本当の理由なのだそうである。
除名処分の本当の理由は、拙著「本門戒壇の本義」(パレード、平成十六年十一月)の出版が、浅井会長の逆鱗に触れたことによる。
これは『迷走する顕正会を斬る』の冒頭に、いきなり出てくる話なのだ。いや、もちろん、これはくだんの話と同一レベルではないわけで、彼は一般の小説であり、こちらは専門の宗教書である。宗教団体において、その教団の許可を得ずして宗教書を出すのは確かに問題がありそうだ。しかし、かれこれ十年前の著書なので、内容をご存じない人も多かろうと思うので書いておくが、『本門戒壇の本義』は基本的に顕正会の主張と違うところがない。『迷走する〜』が逆鱗に触れたとすれば誰もが納得するところだが、『本門戒壇〜』が除名の真の理由とは少し考え難いところである。
つまり、櫻川氏の言っていることが本当ならば、浅井先生はいかにも了見の狭い人、ぶっちゃけ言えばケツの穴の小さい人ということになるだろう。
さて、次は沖浦氏であるが、相変わらず元気な人だ。いろいろなテーマで書いておられる。
東電の、吉田昌郎元所長がお亡くなりになられました。
この方がおられなければ、福島は国を滅亡させていたと思います。
恩人が亡くなられ、寂しいです。
慎んでご冥福をお祈り申し上げます。
合掌・・・・・・
原発問題には関心があるので、わたくしも上掲の報道を耳にした時には、かなりの衝撃を受けた。何しろ五十八歳だったそうである。今の時代ではいかにも若い。
死者にムチ打つつもりはないけれども、わたくしは沖浦氏とは違った感想を持っている。吉田所長をヒーローのごとく称えるのは、ある意味、オヒトヨシのような気がしないでもない。何しろ原発を四基も爆発させてしまったからだ。二号機は建屋の原形を保っているが、他はすべてボロボロである。なぜ爆発を止められなかったのか、結果論ながらそこが悔やまれるところである。
よくチェルノブイリとの比較がなされているが、事故を矮小化したい人は、フクシマはチェルノブイリよりも放射能の放出量がはるかに少なく、よって被害も小さい、などと言っている。しかし、放射能のことなど素人にはわからない。たぶん専門家だって、本当のところはわかっていないはずだ。それよりも何よりも百聞は一見にしかずである。チェルノブイリで爆発したのは一基であるが、フクシマは四基である。ことに一号や三号は爆発の瞬間が動画に残されているのだ。この事実の前には、小難しい理屈などまったく通用しない。
>>近い将来、戒壇本尊を書写の対象としなくなる・・・
>これがまた凄い。じゃあ、いったい何を書写するのよ、ということなのだ。
富士門流の方々の大きな過ちは、戒壇本尊本懐論を採用したことです。
御書には一言もありませんし、寛師の邪義を大聖人仏法に取り入れてしまった。
天台宗が、3代目から邪義に染まったのと同じ現象です。
戒壇本尊本懐を、御書に基づいて証明される方がいるなら、私は即時創価学会を退会しその方の宗派に入信すると宣言し、数年が経過しております。
今に至るもそう言う方はお一人もおられません。
これは、戒壇本尊本懐を御書に基づいて証明出来ない査証だと思います。
それはそれで、大石寺の歴代法主たちは、戒壇本尊を書写の元としておりません。
戒壇本尊には頭破作七分も副十号もありません。
滅度後には10年の異なりがあります。
少しだけ冷静に判断するなら、何方でも戒壇本尊以外を書写した事実が理解出来ます。
ですので、戒壇本尊以外のどの本尊を書写するというのかと言う設問は、富士門流では最初から成り立ちません。
曲線的な議論である。沖浦氏は当初、創価学会は戒壇本尊本懐論を採用していたが今は少しずつ距離を置き始めている、という意味のことを言っていたのだ。そして、創価学会は近い将来、戒壇本尊を書写の対象としなくなる、と言い放った。ゆえにわたくしは、じゃあ何を書写するのか、と問うたのだ。それが上掲の文章では、話が捻じ曲がってしまい、おかしな方向に流れている。
戒壇本尊の相貌と歴代書写のそれは異なる。これは以前から指摘されていることであり、御法門に関心のある人ならば誰もが知っていることである。しかし、それがなぜなのかは誰もわからない。おそらく現時点でわかっている人は世界で二人だけだろう。すなわち御当代と御隠尊である。それ以外の人は誰もわからないのだ。
しかし、この問題と沖浦氏の言っていることは別次元のことである。相貌が異なるのは事実であるが、そもそも出発点が異なるのだ。沖浦氏は自分の発言に責任を持つべきである。
近い将来、戒壇本尊を書写の対象としなくなると思います。
これで曲線的な議論の意味がわかっただろう。だから何を書写するのかを聞いているわけだが、沖浦氏はこれにまったく答えていない。わざと話をはぐらかしているだろうか?
富士ボーに、何方かが、小樽法論の録音を貼っておられます。
今私も聴きました。
あの部分だけを聴いての感想ですが、小平さん完全に負けていますね。
身延の長谷川さんは、戒壇本尊が御書に全く無い、家中抄で始めてそれらしき記載がある。
こう言う内容で批判されています。
小平さんは、
信心がないからわからない。
これだけです。
信心がない証拠として、身延が狐や狸、鬼子母神を拝んでいることを挙げています。
論理のすり替えですね。
戸田先生、池田先生の凄まじい実力がわかります。
完全に理屈で勝てない所を、祈りで大勝利に変えておられる。
凄い!!!
これもおかしな議論だ。これでは小平氏の立つ瀬がない。もし沖浦氏が日蓮宗側に軍配を上げるのであれば、創価学会の負けである。理屈で勝てないところを祈りで大勝利に変えたなどというのは、詭弁以外のナニモノでもないだろう。第一、戸田氏は戒壇本尊本懐論者であり、その弟子の池田氏も同様のはずである。ゆえに小平氏が負けならば、戸田・池田氏も負けと断ずるのが道理である。
2013/7/8
売れてナンボの世界
ユタ氏は小説家志望なので関心があるのだろう。以下のコメントが寄せられた。
2013/7/7 13:13
投稿者:ユタ
こんにちは。一番最後のクリエイターさんの発表なんですが、何度検索してもヒットしないんですよ。
どこまで本当なのかと思いましてね。
ようするに年収八百万の作曲家兼小説家のことを疑っているわけだ。
問題は何をどのように検索したかだろう。くだんの人物はどうやら本名を使わず、ペンネームを使っているらしいのだ。すると、単純に本名を検索したところで、何の結果も得られない。ゆえに、ユタ氏がどのような方法で検索したかによって、答えが違ってくるのだ。
初の小説が10万部
これは確かに凄いことだが、上には上がいるわけで、十万部やそこらでは世間で注目されることはないだろう。たぶん百万部を突破するくらいになれば、誰もが知る存在となるはずだ。
アニメ主題歌で
年収八〇〇万円
なるほど、この辺にカギがあるらしい。わたくしはアニメに造詣がないというか疎いので、まったく見当もつかないが、アニメに詳しい人ならばこの辺が手掛かりになりそうだ。
ただし、上掲は顕正新聞の小見出しの一つであるが、必ずしも本文に忠実ではない。それは次のくだりを読めば一目瞭然である。
その他にも、漫画原作の仕事や、自身が制作したドラマCD作品に・・・
つまり、さまざまな仕事をこなした結果が年収八百万なのである。
もし一つのアニメだけでそれだけの収入になるのであれば、それは超人気アニメなのだろうことが想像されるわけで、確かに有力な手掛かりとなる。しかし、本文に「数億円かけて作る地上波作品」とは書いてあるものの、その仕事で得られるギャラがいくらであるかは不明なのだ。
以上、年収八百万はわたくしのような貧乏人から見れば羨ましい限りであるが、業界的には大したことがない。ゆえに、まだ名前が売れていないのだろう。よって、検索しても出てこないわけである。
さて、次は沖浦氏であるが、後半部分だけ紹介しておこう。
以前、は、
『創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。』
(広布と人生を語る)
この時から比較して、戒壇本尊の位置づけは大きく後退しています。
近い将来、戒壇本尊を書写の対象としなくなると思います。
広布と人生を語るという本は、よく法華講員が用いているような気がする。ようは自語相違を責めるためだ。
そして上掲はまさにその典型であろう。
創価学会の根本中の根本・・・
沖浦氏は自ら創価学会の自語相違ないし変節を暴露しているわけだ。根本中の根本がコロコロ変わってたまるか、と言いたいところだ。
近い将来、戒壇本尊を書写の対象としなくなる・・・
これがまた凄い。じゃあ、いったい何を書写するのよ、ということなのだ。
前回の繰り返しになるが、これは見事な牽制球である。沖浦氏がこんなことを書くと、創価学会の首脳部は動きが取れなくなる。きわめて逆説的ながら沖浦氏は創価学会の暴走に歯止めを掛けているわけだ。なるほど、功徳が出るのも道理である。
さて、顕正新聞第1279号である。
「飢へて食を願い…恋いて人を見たきがごとく」
仏様への恋慕渇仰こそ成仏の直道
一面には六月二日の日曜勤行指導が掲載されているが、これは見出しに明らかなごとく、恋慕渇仰がテーマだ。
わたくしはうまいと思った。
というのは、五月十二日の熊本会館での講演でも恋慕渇仰について論じており、今回はその再論というか敷衍というべきか、見事な掘り下げ方なのである。
同一テーマでありながら、内容的には重複しない。角度を変えて論じているというか、掘り下げ方を変えたというべきか、テーマは同じでも違った味わいがあるところが素晴らしい。
具体的に言えば、熊本では法華経本門寿量品を典拠として恋慕渇仰を論じたわけだが、今回は御書を基に論じているのだ。しかも上野殿の人物像についても掘り下げており、なかなか充実した内容である。
毎週、コンスタントにこれだけの講義が出来れば、大したものと思う。
2013/7/7 13:13
投稿者:ユタ
こんにちは。一番最後のクリエイターさんの発表なんですが、何度検索してもヒットしないんですよ。
どこまで本当なのかと思いましてね。
ようするに年収八百万の作曲家兼小説家のことを疑っているわけだ。
問題は何をどのように検索したかだろう。くだんの人物はどうやら本名を使わず、ペンネームを使っているらしいのだ。すると、単純に本名を検索したところで、何の結果も得られない。ゆえに、ユタ氏がどのような方法で検索したかによって、答えが違ってくるのだ。
初の小説が10万部
これは確かに凄いことだが、上には上がいるわけで、十万部やそこらでは世間で注目されることはないだろう。たぶん百万部を突破するくらいになれば、誰もが知る存在となるはずだ。
アニメ主題歌で
年収八〇〇万円
なるほど、この辺にカギがあるらしい。わたくしはアニメに造詣がないというか疎いので、まったく見当もつかないが、アニメに詳しい人ならばこの辺が手掛かりになりそうだ。
ただし、上掲は顕正新聞の小見出しの一つであるが、必ずしも本文に忠実ではない。それは次のくだりを読めば一目瞭然である。
その他にも、漫画原作の仕事や、自身が制作したドラマCD作品に・・・
つまり、さまざまな仕事をこなした結果が年収八百万なのである。
もし一つのアニメだけでそれだけの収入になるのであれば、それは超人気アニメなのだろうことが想像されるわけで、確かに有力な手掛かりとなる。しかし、本文に「数億円かけて作る地上波作品」とは書いてあるものの、その仕事で得られるギャラがいくらであるかは不明なのだ。
以上、年収八百万はわたくしのような貧乏人から見れば羨ましい限りであるが、業界的には大したことがない。ゆえに、まだ名前が売れていないのだろう。よって、検索しても出てこないわけである。
さて、次は沖浦氏であるが、後半部分だけ紹介しておこう。
以前、は、
『創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。』
(広布と人生を語る)
この時から比較して、戒壇本尊の位置づけは大きく後退しています。
近い将来、戒壇本尊を書写の対象としなくなると思います。
広布と人生を語るという本は、よく法華講員が用いているような気がする。ようは自語相違を責めるためだ。
そして上掲はまさにその典型であろう。
創価学会の根本中の根本・・・
沖浦氏は自ら創価学会の自語相違ないし変節を暴露しているわけだ。根本中の根本がコロコロ変わってたまるか、と言いたいところだ。
近い将来、戒壇本尊を書写の対象としなくなる・・・
これがまた凄い。じゃあ、いったい何を書写するのよ、ということなのだ。
前回の繰り返しになるが、これは見事な牽制球である。沖浦氏がこんなことを書くと、創価学会の首脳部は動きが取れなくなる。きわめて逆説的ながら沖浦氏は創価学会の暴走に歯止めを掛けているわけだ。なるほど、功徳が出るのも道理である。
さて、顕正新聞第1279号である。
「飢へて食を願い…恋いて人を見たきがごとく」
仏様への恋慕渇仰こそ成仏の直道
一面には六月二日の日曜勤行指導が掲載されているが、これは見出しに明らかなごとく、恋慕渇仰がテーマだ。
わたくしはうまいと思った。
というのは、五月十二日の熊本会館での講演でも恋慕渇仰について論じており、今回はその再論というか敷衍というべきか、見事な掘り下げ方なのである。
同一テーマでありながら、内容的には重複しない。角度を変えて論じているというか、掘り下げ方を変えたというべきか、テーマは同じでも違った味わいがあるところが素晴らしい。
具体的に言えば、熊本では法華経本門寿量品を典拠として恋慕渇仰を論じたわけだが、今回は御書を基に論じているのだ。しかも上野殿の人物像についても掘り下げており、なかなか充実した内容である。
毎週、コンスタントにこれだけの講義が出来れば、大したものと思う。
2013/7/7
早くも梅雨明け
沖浦氏から長文のコメントが寄せられている。相変わらずの沖浦節なので一々を取り上げることはしないが、しかし、腑に落ちないところがあるので指摘しておきたい。
沖浦さん、戒壇本尊本懐は嘘なんですか?
私は御書を引用し、嘘であることを説明致しました。
少しショックを受けられ、それでも、
わかりました、戒壇本尊本懐論は、この場で捨てました。
そう言ってお帰りになられました。
この部分が腑に落ちないのだ。
沖浦氏は話を作っているのではないか、ウソをでっち上げているとは言わないけれども、相当に潤色された話のように思えるのである。
私の本部長さん・・・
長野県の教宣のトップだった人・・・
こういう人がである。たとえ沖浦樋田法論を見て、沖浦氏に信頼を寄せたとしても、その場で直ちに戒壇本尊本懐論を捨てることを宣言するとは考えられないことだ。イヤミを言えば、創価学会から沖浦教に改宗するも同然の話だからである。
さらに、話がややこしくなることを承知で書けば、創価学会は戒壇本尊との決別という選択肢をかなり早い段階から模索していた。それはフェイクの記事を丹念に調べればわかることだし、ネット上においては宿坊というハンドルネームの人物がかなり早い時期から戒壇本尊を誹謗するような言動をしており、これらは沖浦樋田法論よりも先行するのだ。ゆえに、まさか長野県の教宣のトップだった人が、これらの事実をまるで知らないとは考え難いことである。そんな純粋無垢な人が教宣のトップのはずがない。このように見るのが普通の感覚ではないかと思う。
たぶん前にも書いたはずだが、沖浦氏は創価学会の中枢に知らず知らずのうちに利用されているのではないかという気がする。
創価学会は戒壇本尊から決別するタイミングを窺っているが、ご存知のごとく古くからの会員には物凄く抵抗があることなので、なかなか踏み切れずにいるのだ。この意味で沖浦氏の存在は好都合である。沖浦氏がネット上で戒壇本尊本懐論を否定することに対し、他の創価学会員たちがどのようなリアクションを示すか、観察することができる。ようするにリサーチができるのだ。そして現状では無理というのが創価学会中枢の判断ではないかと思う。
ある意味、沖浦氏は宗門の功労者である。創価学会にではなく、宗門に貢献しているのだ。
なぜか沖浦氏は他の創価学会員たちに不人気である。ゆえに、言っていることが正しいか間違っているかではなく、沖浦氏が言っているから気に食わないという、感情的な反応を他の創価学会員たちが示しているようにも見えるのだ。これが事実であれば、沖浦氏が戒壇本尊本懐論を否定すればするほど、他の創価学会員たちは反発する・反発せざるを得ないという図式が成り立つことになる。何とも皮肉な結果である。
以上、沖浦氏がいる限り、創価学会はいつまで経っても戒壇本尊との決別に踏み切れない、というのがわたくしの分析である。
さて、顕正新聞第1278号から話題を拾おう。
株高に騙されている国民救わん
証券業界の一員として奮い立つ
女子部支区長補の記事であるが、ひじょうに悩ましい。この人は証券会社に勤めている。こういう人が株高に騙されている云々と書くことに疑問を拭えない。
アベノミクス効果で株が上がった。顕正会ではこれを批判しているわけだが、証券マンとしては今が稼ぎ時と考えるのが普通ではないかと思う。上がった株はいつかは下がる。株価の急激な暴騰を見れば、これは危ないと感じるのも経験則である。その辺の見極めをするのが証券マンの仕事であろう。ところがこの人は、ややもすれば株の取り引きそのものを否定するかのごとく言ってしまっているのだ。
金融事情を知るプロでさえ目先の利益しか頭にない・・・
じゃあ、どうするのよ、という話なのだ。わたくしにはこの人が証券会社で働いている意味がわからない。少なくとも証券マンとしての自覚があるならば、顧客に損失を与えないように売り抜けるタイミングを教える、それが当面の仕事だろう。繰り返しになるが、しょせん株とは上がりもすれば下がりもするものだ。それを商売にしているのが証券会社なのだ。それがイヤなら転職するしかないだろう。
さて、次は婦人部延岡支区部長だ。
また以前、川に流した有機水銀により奇形の魚が見つかっても、河川事務所に持って行けばおカネが支払われるため楯突く者はおらず・・・
有機水銀で有名なのは水俣病であるが、延岡でも同様のことが起きたのだろうか?
記事では会社名を明記した上で批判的なことを書いている。旭化成のことだ。しかし、わたくしのイメージではそれほどブラックな企業とは思えない。ましてや今は環境問題に率先して取り組んでいるのが一流企業の一流企業たるゆえんである。いつものことだが、どうも顕正会の記事は極端なものが多い。これもその一つだろうと思う。
八方塞がりの社長がお題目を
婦人部筑波支区班長の記事だが、次のくだりが凄まじかった。
社長の家の外壁には「死ね!」「給料払え!」等と、すでに辞めていった従業員たちによりペンキで落書きされ、ビニールハウスは滅茶苦茶に壊わされ、娘さんの黒い車はスプレーで真っ白にされた上で、傷だらけになっていました。
この後、社長は顕正会に入信し、その功徳によって会社を立て直すことができた、メデタシメデタシという話である。
わたくしの疑問は、はたしてこれが国家にも当てはまるのだろうか、ということである。浅井先生は学者や評論家などの意見を参考にして安倍政権を批判している。当然ながら学者や評論家は独自の対案を持っている。しかし、浅井先生は必ずしもそれには同調しないはずである。なぜならば、仏法を立てない以上はすべての施策が裏目に出る、という考えだからである。だったら政策批判は無意味ではないか、ただひたすら仏法を立てることだけを訴えるべきではないか、と思えてしまうのである。たぶん、この辺は微妙なところなのだろう。仏法のことだけだと底が浅いと思われてしまう。ゆえに世法のことを交えて論ずる。しかし、最終的には仏法を立てなければダメであるというのが結論なのだ。だったら最初からそれだけ言っていればいいじゃないかと。こういうのを堂々巡りと呼ぶのだろう。
成人式の指導で母に報恩の思い
音大を中退、経済苦の母を支える
男子部支隊副長であるが、この人は前にも取り上げたことがあるはずだ。名前がいかにも芸名みたいで印象的である。
作曲・小説が成功、年収800万超!
おお、これは羨ましい。大学中退は残念だが、作曲と小説でこれだけ稼げれば文句はないだろう。
沖浦さん、戒壇本尊本懐は嘘なんですか?
私は御書を引用し、嘘であることを説明致しました。
少しショックを受けられ、それでも、
わかりました、戒壇本尊本懐論は、この場で捨てました。
そう言ってお帰りになられました。
この部分が腑に落ちないのだ。
沖浦氏は話を作っているのではないか、ウソをでっち上げているとは言わないけれども、相当に潤色された話のように思えるのである。
私の本部長さん・・・
長野県の教宣のトップだった人・・・
こういう人がである。たとえ沖浦樋田法論を見て、沖浦氏に信頼を寄せたとしても、その場で直ちに戒壇本尊本懐論を捨てることを宣言するとは考えられないことだ。イヤミを言えば、創価学会から沖浦教に改宗するも同然の話だからである。
さらに、話がややこしくなることを承知で書けば、創価学会は戒壇本尊との決別という選択肢をかなり早い段階から模索していた。それはフェイクの記事を丹念に調べればわかることだし、ネット上においては宿坊というハンドルネームの人物がかなり早い時期から戒壇本尊を誹謗するような言動をしており、これらは沖浦樋田法論よりも先行するのだ。ゆえに、まさか長野県の教宣のトップだった人が、これらの事実をまるで知らないとは考え難いことである。そんな純粋無垢な人が教宣のトップのはずがない。このように見るのが普通の感覚ではないかと思う。
たぶん前にも書いたはずだが、沖浦氏は創価学会の中枢に知らず知らずのうちに利用されているのではないかという気がする。
創価学会は戒壇本尊から決別するタイミングを窺っているが、ご存知のごとく古くからの会員には物凄く抵抗があることなので、なかなか踏み切れずにいるのだ。この意味で沖浦氏の存在は好都合である。沖浦氏がネット上で戒壇本尊本懐論を否定することに対し、他の創価学会員たちがどのようなリアクションを示すか、観察することができる。ようするにリサーチができるのだ。そして現状では無理というのが創価学会中枢の判断ではないかと思う。
ある意味、沖浦氏は宗門の功労者である。創価学会にではなく、宗門に貢献しているのだ。
なぜか沖浦氏は他の創価学会員たちに不人気である。ゆえに、言っていることが正しいか間違っているかではなく、沖浦氏が言っているから気に食わないという、感情的な反応を他の創価学会員たちが示しているようにも見えるのだ。これが事実であれば、沖浦氏が戒壇本尊本懐論を否定すればするほど、他の創価学会員たちは反発する・反発せざるを得ないという図式が成り立つことになる。何とも皮肉な結果である。
以上、沖浦氏がいる限り、創価学会はいつまで経っても戒壇本尊との決別に踏み切れない、というのがわたくしの分析である。
さて、顕正新聞第1278号から話題を拾おう。
株高に騙されている国民救わん
証券業界の一員として奮い立つ
女子部支区長補の記事であるが、ひじょうに悩ましい。この人は証券会社に勤めている。こういう人が株高に騙されている云々と書くことに疑問を拭えない。
アベノミクス効果で株が上がった。顕正会ではこれを批判しているわけだが、証券マンとしては今が稼ぎ時と考えるのが普通ではないかと思う。上がった株はいつかは下がる。株価の急激な暴騰を見れば、これは危ないと感じるのも経験則である。その辺の見極めをするのが証券マンの仕事であろう。ところがこの人は、ややもすれば株の取り引きそのものを否定するかのごとく言ってしまっているのだ。
金融事情を知るプロでさえ目先の利益しか頭にない・・・
じゃあ、どうするのよ、という話なのだ。わたくしにはこの人が証券会社で働いている意味がわからない。少なくとも証券マンとしての自覚があるならば、顧客に損失を与えないように売り抜けるタイミングを教える、それが当面の仕事だろう。繰り返しになるが、しょせん株とは上がりもすれば下がりもするものだ。それを商売にしているのが証券会社なのだ。それがイヤなら転職するしかないだろう。
さて、次は婦人部延岡支区部長だ。
また以前、川に流した有機水銀により奇形の魚が見つかっても、河川事務所に持って行けばおカネが支払われるため楯突く者はおらず・・・
有機水銀で有名なのは水俣病であるが、延岡でも同様のことが起きたのだろうか?
記事では会社名を明記した上で批判的なことを書いている。旭化成のことだ。しかし、わたくしのイメージではそれほどブラックな企業とは思えない。ましてや今は環境問題に率先して取り組んでいるのが一流企業の一流企業たるゆえんである。いつものことだが、どうも顕正会の記事は極端なものが多い。これもその一つだろうと思う。
八方塞がりの社長がお題目を
婦人部筑波支区班長の記事だが、次のくだりが凄まじかった。
社長の家の外壁には「死ね!」「給料払え!」等と、すでに辞めていった従業員たちによりペンキで落書きされ、ビニールハウスは滅茶苦茶に壊わされ、娘さんの黒い車はスプレーで真っ白にされた上で、傷だらけになっていました。
この後、社長は顕正会に入信し、その功徳によって会社を立て直すことができた、メデタシメデタシという話である。
わたくしの疑問は、はたしてこれが国家にも当てはまるのだろうか、ということである。浅井先生は学者や評論家などの意見を参考にして安倍政権を批判している。当然ながら学者や評論家は独自の対案を持っている。しかし、浅井先生は必ずしもそれには同調しないはずである。なぜならば、仏法を立てない以上はすべての施策が裏目に出る、という考えだからである。だったら政策批判は無意味ではないか、ただひたすら仏法を立てることだけを訴えるべきではないか、と思えてしまうのである。たぶん、この辺は微妙なところなのだろう。仏法のことだけだと底が浅いと思われてしまう。ゆえに世法のことを交えて論ずる。しかし、最終的には仏法を立てなければダメであるというのが結論なのだ。だったら最初からそれだけ言っていればいいじゃないかと。こういうのを堂々巡りと呼ぶのだろう。
成人式の指導で母に報恩の思い
音大を中退、経済苦の母を支える
男子部支隊副長であるが、この人は前にも取り上げたことがあるはずだ。名前がいかにも芸名みたいで印象的である。
作曲・小説が成功、年収800万超!
おお、これは羨ましい。大学中退は残念だが、作曲と小説でこれだけ稼げれば文句はないだろう。
2013/7/6
教育者も人間だから時にはキレる?
東京都議選のことを書いていなかった。自公の圧勝、共産の躍進。他はあまり芳しくなかった。そして次はいよいよ参院選であるが、自公が優勢のようだ。他に期待できる政党がないから仕方がないのだろう。野党は四分五裂の状態であり、とてもじゃないが大同団結は無理だ。すると、まだ始まったばかりであるが、すでに結果が見えているようでもある。
わたくし個人は特に支持政党を持たないが、さしあたって消費増税に対する姿勢を問いたいと考える。国民の中にも増税やむなしというモノワカリのよい人たちがたくさんいて、それが自公を支持する人たちだったりする。しかし、過去の経験からして、増税は不況を招くだけであり、結果としてトータルでは税収が減ってしまうことになると指摘する識者もいる。つまり、国民感情というか庶民の感情として増税はイヤだというのが普通であり、しかも景気低迷を招くことが確実視されているのだから、そうすると増税にはどこにもメリットがないはずなのだ。それにもかかわらず増税を主張する人がいるのは不思議な話である。わたくしにはまったく理解できない。
幸いにも拙ブログには創価学会員の閲覧者が相当数いるようなので、もしよければ上述に対する回答のようなものをいただければありがたいと思う。
さて、各方面からコメントが寄せられているわけだが、まずは沖浦氏からである。
ハンネで一万回ネットで書いても、実名の一回の書き込みで木っ端微塵!
言わんとしていることはわかるが、実際は少し違うと思う。
ハンネの馬鹿がまたフガフガ言ってるな・・・
おっしゃるとおり、これでオシマイと言われればそのとおりかもしれないと思う。ただし、実名か虚名かにかかわらず、言っていることが正しいか間違っているかという側面は必ずあるわけだ。ゆえに、わたくしは実名で活躍している沖浦氏を立派だとは思うけれども、しかし同時に、虚名だからダメという一方的な斬り捨て方には賛成できない。
これは己を卑下して言うことになるわけだが、たぶん、沖浦氏は戦国武将であり、わたくしは農民なのだろう。武将と農民が一対一で戦うことはあり得ない。もし農民が武将に戦いを挑むとしたら、ゲリラ的な戦術を用いるしかないのだ。それが当時においては一揆であり、現代においてはインターネットを駆使したさまざまな活動なのだ。
さて、そこで今度は教子氏の話題に移ろう。
オマエそれでも、日蓮大聖人の弟子か?
とうとう本性をあらわしたようである。上掲はわたくしを挑発する意味で書いているのかもしれないが、まずは自分自身を見つめるべきだろう。ハシタナイことを書いてしまっていることに気がつかないといけない。
教子氏は前回の拙稿を理解していないようなので、ここで今一度、書いておこう。
鳥人間ばーず?って、
脳が鳥で、体が人間(呆)気持ち悪い〜。頭が悪そう〜。
アッチへ行け、シッ シッ!
何たる物言いか、こんなのは議論ではなく、単なる罵倒である。教子氏は反省しなければいけない。そもそも前回の拙稿のタイトルを思い返すがいい。上掲のごとき発言は教育者にあるまじきことである。もし教子氏に教育者としての矜持があるならば、こんなハシタナイ発言は絶対にしないはずなのだ。
しかるに、逆ギレと言うべきか、今度はわたくしに対して罵倒する始末である。こんなテイタラクだから教師であることを疑われてしまうのだ。
次回からは真摯なコメントを期待したい。
2013/7/2 22:57
投稿者:ユタ
こんばんは。確かに戸田会長の話は分かりやすいですね。
浅井会長も原発や地震の話ばっかりしないで、そういうことを話してくれるといいのですがね。
浅井会長の話が信用できないから、法華講に身を置いたのです。
沖浦さんと同世代の元学会員さんのお話を聞くと、やはり居場所は変わっても戸田会長から精神を注入されたのだなと感じます。
私も注入されたかった。あと50年早く生まれていれば……非常に残念です。
http://blog.goo.ne.jp/localfor
ユタ氏のコメントを全文掲載した。
戸田会長からの精神を注入・・・
私も注入されたかった・・・
わたくしにはナイモノネダリのように思える。もう少し気取った表現を使えば、未知・未経験に対する憧憬のようなものだと思う。
浅井先生と戸田氏を比較するのも、じゃっかん無理があるように思う。
戸田氏は過去の人物であり、いわば伝説化された人物である。一方の浅井先生は現役である。この違いはとてつもなく大きい。
過去の人物は評価が固定化されている。評価が変わることもあり得るが、基本的には一定である。
一方、現役は評価が一定しない。今後、評価が上がるかもしれないし、下がるかもしれない。そういう不安定さがあるのだ。
俳優だとか歌手だとかで、若くして人生を終えた人物がいる。具体名は各々の想像に任せるが、こういう人たちは伝説化していく。ある意味、老醜を晒すことなく、絶頂期に人生の終焉を迎えたことが効を奏するのだろう。麒麟も老いれば駑馬に劣るのだ。長生きに越したことはないけれども、たいていの人が馬齢を重ねるだけであり、極端に言えば生き恥を晒しているようなものなのだ。
ひるがえって、戸田氏は必ずしも若くしてこの世を去ったわけではないが、伝説化するだけの要素をさまざま持っていたと考えられる。また、その後の創価学会の驚異的な発展が、伝説化によりいっそうの拍車をかけたことも事実だろう。小説人間革命などの効果も決して小さくはなかった。
この意味で行くと、浅井先生の評価が決まるのは死後である。
今、ハタから見ると滑稽なくらい、浅井先生を賛嘆する記事が顕正新聞の紙面に躍っているが、これは欲張りな話だろうと思う。しょせんは自画自賛であり、客観的な評価とは言えない。幹部たちが本心から先生を賛嘆しているのであれば、それはそれで結構なことかもしれないが、しかし、しょせんは自画自賛の範疇である。第三者が浅井先生に注目するようにならないと話にならないのだ。
それは顕正会が名実共に日本国に影響力を発揮するような組織になった時であり、たぶんそれはまだ先のことだと考えられるのだ。おそらくは浅井先生の死後である。不謹慎なことを書いているようだが、これがいちばん現実的なはずである。
しかし、これもしょせんは条件付きの話であって、今後も顕正会が順調に伸びていくと仮定したならば、ということなのだ。
こうして見ると、思い半ばに過ぎるものがある。ああ、なるほど、幹部たちが浅井先生を賛嘆するのはもはやそれが唯一の頼みの綱であり、それ以外には何もないからなのだ。先生がいなくなれば、そこでオシマイなのだ。そこで顕正会は終わりであり、そこで浅井先生の評価も終わるのだ。
ユタ氏のコメントからだいぶ脱線してしまったようだ。
いずれにしても、戸田氏が今も伝説の人物として名を残しているのは、創価学会という巨大組織の礎を築いた人物だからである。
一方、浅井先生が名を残すかどうかは、顕正会に懸かっている。顕正会が潰れれば、そこで終わりである。
わたくし個人は特に支持政党を持たないが、さしあたって消費増税に対する姿勢を問いたいと考える。国民の中にも増税やむなしというモノワカリのよい人たちがたくさんいて、それが自公を支持する人たちだったりする。しかし、過去の経験からして、増税は不況を招くだけであり、結果としてトータルでは税収が減ってしまうことになると指摘する識者もいる。つまり、国民感情というか庶民の感情として増税はイヤだというのが普通であり、しかも景気低迷を招くことが確実視されているのだから、そうすると増税にはどこにもメリットがないはずなのだ。それにもかかわらず増税を主張する人がいるのは不思議な話である。わたくしにはまったく理解できない。
幸いにも拙ブログには創価学会員の閲覧者が相当数いるようなので、もしよければ上述に対する回答のようなものをいただければありがたいと思う。
さて、各方面からコメントが寄せられているわけだが、まずは沖浦氏からである。
ハンネで一万回ネットで書いても、実名の一回の書き込みで木っ端微塵!
言わんとしていることはわかるが、実際は少し違うと思う。
ハンネの馬鹿がまたフガフガ言ってるな・・・
おっしゃるとおり、これでオシマイと言われればそのとおりかもしれないと思う。ただし、実名か虚名かにかかわらず、言っていることが正しいか間違っているかという側面は必ずあるわけだ。ゆえに、わたくしは実名で活躍している沖浦氏を立派だとは思うけれども、しかし同時に、虚名だからダメという一方的な斬り捨て方には賛成できない。
これは己を卑下して言うことになるわけだが、たぶん、沖浦氏は戦国武将であり、わたくしは農民なのだろう。武将と農民が一対一で戦うことはあり得ない。もし農民が武将に戦いを挑むとしたら、ゲリラ的な戦術を用いるしかないのだ。それが当時においては一揆であり、現代においてはインターネットを駆使したさまざまな活動なのだ。
さて、そこで今度は教子氏の話題に移ろう。
オマエそれでも、日蓮大聖人の弟子か?
とうとう本性をあらわしたようである。上掲はわたくしを挑発する意味で書いているのかもしれないが、まずは自分自身を見つめるべきだろう。ハシタナイことを書いてしまっていることに気がつかないといけない。
教子氏は前回の拙稿を理解していないようなので、ここで今一度、書いておこう。
鳥人間ばーず?って、
脳が鳥で、体が人間(呆)気持ち悪い〜。頭が悪そう〜。
アッチへ行け、シッ シッ!
何たる物言いか、こんなのは議論ではなく、単なる罵倒である。教子氏は反省しなければいけない。そもそも前回の拙稿のタイトルを思い返すがいい。上掲のごとき発言は教育者にあるまじきことである。もし教子氏に教育者としての矜持があるならば、こんなハシタナイ発言は絶対にしないはずなのだ。
しかるに、逆ギレと言うべきか、今度はわたくしに対して罵倒する始末である。こんなテイタラクだから教師であることを疑われてしまうのだ。
次回からは真摯なコメントを期待したい。
2013/7/2 22:57
投稿者:ユタ
こんばんは。確かに戸田会長の話は分かりやすいですね。
浅井会長も原発や地震の話ばっかりしないで、そういうことを話してくれるといいのですがね。
浅井会長の話が信用できないから、法華講に身を置いたのです。
沖浦さんと同世代の元学会員さんのお話を聞くと、やはり居場所は変わっても戸田会長から精神を注入されたのだなと感じます。
私も注入されたかった。あと50年早く生まれていれば……非常に残念です。
http://blog.goo.ne.jp/localfor
ユタ氏のコメントを全文掲載した。
戸田会長からの精神を注入・・・
私も注入されたかった・・・
わたくしにはナイモノネダリのように思える。もう少し気取った表現を使えば、未知・未経験に対する憧憬のようなものだと思う。
浅井先生と戸田氏を比較するのも、じゃっかん無理があるように思う。
戸田氏は過去の人物であり、いわば伝説化された人物である。一方の浅井先生は現役である。この違いはとてつもなく大きい。
過去の人物は評価が固定化されている。評価が変わることもあり得るが、基本的には一定である。
一方、現役は評価が一定しない。今後、評価が上がるかもしれないし、下がるかもしれない。そういう不安定さがあるのだ。
俳優だとか歌手だとかで、若くして人生を終えた人物がいる。具体名は各々の想像に任せるが、こういう人たちは伝説化していく。ある意味、老醜を晒すことなく、絶頂期に人生の終焉を迎えたことが効を奏するのだろう。麒麟も老いれば駑馬に劣るのだ。長生きに越したことはないけれども、たいていの人が馬齢を重ねるだけであり、極端に言えば生き恥を晒しているようなものなのだ。
ひるがえって、戸田氏は必ずしも若くしてこの世を去ったわけではないが、伝説化するだけの要素をさまざま持っていたと考えられる。また、その後の創価学会の驚異的な発展が、伝説化によりいっそうの拍車をかけたことも事実だろう。小説人間革命などの効果も決して小さくはなかった。
この意味で行くと、浅井先生の評価が決まるのは死後である。
今、ハタから見ると滑稽なくらい、浅井先生を賛嘆する記事が顕正新聞の紙面に躍っているが、これは欲張りな話だろうと思う。しょせんは自画自賛であり、客観的な評価とは言えない。幹部たちが本心から先生を賛嘆しているのであれば、それはそれで結構なことかもしれないが、しかし、しょせんは自画自賛の範疇である。第三者が浅井先生に注目するようにならないと話にならないのだ。
それは顕正会が名実共に日本国に影響力を発揮するような組織になった時であり、たぶんそれはまだ先のことだと考えられるのだ。おそらくは浅井先生の死後である。不謹慎なことを書いているようだが、これがいちばん現実的なはずである。
しかし、これもしょせんは条件付きの話であって、今後も顕正会が順調に伸びていくと仮定したならば、ということなのだ。
こうして見ると、思い半ばに過ぎるものがある。ああ、なるほど、幹部たちが浅井先生を賛嘆するのはもはやそれが唯一の頼みの綱であり、それ以外には何もないからなのだ。先生がいなくなれば、そこでオシマイなのだ。そこで顕正会は終わりであり、そこで浅井先生の評価も終わるのだ。
ユタ氏のコメントからだいぶ脱線してしまったようだ。
いずれにしても、戸田氏が今も伝説の人物として名を残しているのは、創価学会という巨大組織の礎を築いた人物だからである。
一方、浅井先生が名を残すかどうかは、顕正会に懸かっている。顕正会が潰れれば、そこで終わりである。
2013/7/1
教育者にあるまじきコメントを叱る
エコヒイキについて、思うところを書いておこう。
正信掲示板を開くと、相変わらずの沖浦バッシングが見られる。沖浦氏は敵の多い人だ。そして敵を作るのがうまいのか、どんどん敵を増やしているようにも見える。
当然、沖浦氏本人に何かしらの原因があるのだろうけれども、一方のバッシングをしている側にも問題があるように思う。
ようするに、過去の事件を蒸し返すのはどうか、ということなのだ。
犯罪を犯せば法律によって罰せられる。もしくは広く報道されることによって、社会的制裁を受けることになる。わたくしはこの時点で終了だと認識している。もしそうでないとすると、一度犯罪を犯した人は二度と更生できないことになるからだ。
ゆえにわたくしは、沖浦氏の事件はすでに終わっていることなので蒸し返すべきではない、と考えるのだ。何年も前の事件を未だにああだこうだと言っている人はどうかしているのではないか、と思う。
ところがである。
かく言うわたくし自身を省みると、物凄く嫌なヤツがいて、そいつが何年も前にやらかしたことを未だに憶えていて、コイツは許せない・とんでもないヤツだ、などと思っているのである。
ひるがえって、沖浦氏に対しては相当に甘い。たぶん、客観的にはそう言わざるを得ないと思う。
つまりは、これがエコヒイキなのだろう。
しかし、ある意味ではこれが現実社会の実相であり、如何ともし難いことなのかもしれないと思う。顕正会の人事がひじょうに恣意的であり、身内ビイキとの批判が出ているのはすでに周知のことであるが、しかし、これは顕正会に限った話ではなく、社会全般に言えることなのだ。会社の人事にしたって、相当にエコヒイキがまかり通っているような気がする。総理大臣の最初の仕事は組閣であるが、これまた万人を納得させるような完璧な組閣は無理である。
お友達内閣だとか派閥均衡内閣だとか、ともかく何かしらのイチャモンがつくのが常であり、百点満点をもらえることはまずあり得ないことなのだ。
以上、エコヒイキについて、思うところを書かせていただいたわけだが、しかし、教子氏とバーズ氏に対する扱いはほぼ平等のつもりである。つまり、上述のごとく、わたくしにも好き嫌いがあってエコヒイキをしてしまうようなケースがないわけではないが、このことを自覚した上で、では教子氏とバーズ氏に対してはどうかと自問自答した時に、それほどエコヒイキをしているつもりはない、ということなのだ。
両者を比較すると、バーズ氏のほうが一枚も二枚もウワテである、というのが客観的な評価であろう。
ここ一連の応酬がそれを物語っていると思う。
そこで巌虎さんに折り入って御願いが有ります。
バーズに対して注意して下さい。バーズを叱って下さい。私【教育委員会】を叱ったように。
わたくしにお願いするのがそもそもの間違いである。教子氏とバーズ氏は拙ブログのコメント欄において、対等に論ずる環境を与えられている。ゆえに言いたいことがあれば直接言えばいい。実際、バーズ氏はそのようにしているわけで、わたくしに対してつまらない要求はしない。わたくしに要求してくるのはいつも教子氏なのだ。
ちなみに、リンクを貼っておくので確認されたい。
http://white.ap.teacup.com/ganko/1830.html
教子氏がどのように感ずるかはわからないが、これはかなり痛烈な文章だと思う。主にはバーズ氏のコメントを受けて書いたわけで、いわばバーズ氏への反論である。教子氏はなおもエコヒイキと言い張るのだろうか?
さて、話を戻して、直近の両者のやりとりをご覧に入れたい。
教子氏:
相変わらずのヒネクレ者だな。肝心な所は、全く答えてない。
バーズ氏:
そうだ、私はヒネクレ者だ。
ヒネクレ者だから肝心な所の答えは全く教えないのだ(笑)
答えは自分で探してね。
簡単にタネ明かしをしたら面白くない(笑)
教子氏:
ヒネクレ者のクセに、
『僕はネットの健全化を目指し、悪い奴を退治する?』
無理だろ!警察でも無いのに、偉そうに。
オマエ如きに、出来るわけ無いだろ!
どっちもどっちであるが、しかし、わたくしはバーズ氏のほうがウワテであると書いた。その理由は教子氏の続きの文章にある。
まず、そのヒネクレた性格をちゃんと病院に行って⇒治しなさい!
ありがちな展開である。論に詰まると相手を罵倒する、病気扱いにして病院に行くことを勧める、ありがちなパターンだ。
鳥人間ばーず?って、
脳が鳥で、体が人間(呆)気持ち悪い〜。頭が悪そう〜。
アッチへ行け、シッ シッ!
もはや議論のテイをなしていない。単なる罵倒である。教子氏には反省を促したい。
さて、痴漢の被害に遭った女性(泣)
普通なら、泣き寝入り(泣)の所を勇気を出して犯人の男を捕まえた。
しかも犯人の正体(職業)は⇒何と現職の 神奈川県警の警察官・自動車警ら隊の「警部補」だった。
このニュースは
『また神奈川県警の不祥事』
として⇒テレビ&全国紙で報道されました。
その後、顕正会の総幹部会にて、女の信者が
『痴漢を捕まえて、警察に突き出したのは、この私(笑)』
と、さも武勇伝の如く、自慢してましたが…
(呆れ)
私は、この女信者を
『浅井昭衛に好かれる為の 成り済まし』
と断罪し、
巌虎さんは
『何故、成り済まし!と言えるのか?』
⇒その女信者は、第3者の目撃者⇒証人を連れて来なかったからです。
顕正会とは関係の無い、第3者の目撃者・証人を引き連れて⇒
『この女信者さんは、痴漢を捕まえた勇者です』
と、証言をさせれば、良かったんです。
痴漢を捕まえる勇ましい女性なら、出来るはず!
失礼ながら教子氏の知的水準を疑いたくなった。手っ取り早く言わせてもらえば、挙証義務は教子氏の側にあるのだ。つまり、まずは教子氏がくだんの体験発表がウソであることを証明しないといけない。これがモノの順序である。
もし、その証明が万人を納得させるだけのものであれば、今度はくだんの総班長がそれを覆すだけの反証を示さないといけない。それが教子氏の要求するところの第三者の目撃者・証人(他の反証方法があればそれも可)ということになるのだ。これが順序である。
ところが教子氏は、頭ごなしに顕正新聞の記事をウソであると決め付け、証人を立てろと要求しているのだ。ずいぶん身勝手な人である。
学無学
最後に沖浦氏のコメントから話題を拾わせていただくが、この学無学がひじょうに面白い。学と無学は現代では意味が真逆になっている。つまり、あの人は学がある、こう書けば褒めていることになるのが現代である。私は無学でして・・・こう書けば謙遜の意味もあるだろうが、実際に低学歴だったり、教養には疎い人、これが現代における意味である。しかし、御書に出てくる学・無学は意味が正反対であり、学が現代における無学に相当し、無学が学に相当するのだ。御書を独力で読んでいると、こういう部分でつまづくことになる。しかし、生意気を言うようであるが、繰り返し拝読していると段々わかってくるのだ。
正信掲示板を開くと、相変わらずの沖浦バッシングが見られる。沖浦氏は敵の多い人だ。そして敵を作るのがうまいのか、どんどん敵を増やしているようにも見える。
当然、沖浦氏本人に何かしらの原因があるのだろうけれども、一方のバッシングをしている側にも問題があるように思う。
ようするに、過去の事件を蒸し返すのはどうか、ということなのだ。
犯罪を犯せば法律によって罰せられる。もしくは広く報道されることによって、社会的制裁を受けることになる。わたくしはこの時点で終了だと認識している。もしそうでないとすると、一度犯罪を犯した人は二度と更生できないことになるからだ。
ゆえにわたくしは、沖浦氏の事件はすでに終わっていることなので蒸し返すべきではない、と考えるのだ。何年も前の事件を未だにああだこうだと言っている人はどうかしているのではないか、と思う。
ところがである。
かく言うわたくし自身を省みると、物凄く嫌なヤツがいて、そいつが何年も前にやらかしたことを未だに憶えていて、コイツは許せない・とんでもないヤツだ、などと思っているのである。
ひるがえって、沖浦氏に対しては相当に甘い。たぶん、客観的にはそう言わざるを得ないと思う。
つまりは、これがエコヒイキなのだろう。
しかし、ある意味ではこれが現実社会の実相であり、如何ともし難いことなのかもしれないと思う。顕正会の人事がひじょうに恣意的であり、身内ビイキとの批判が出ているのはすでに周知のことであるが、しかし、これは顕正会に限った話ではなく、社会全般に言えることなのだ。会社の人事にしたって、相当にエコヒイキがまかり通っているような気がする。総理大臣の最初の仕事は組閣であるが、これまた万人を納得させるような完璧な組閣は無理である。
お友達内閣だとか派閥均衡内閣だとか、ともかく何かしらのイチャモンがつくのが常であり、百点満点をもらえることはまずあり得ないことなのだ。
以上、エコヒイキについて、思うところを書かせていただいたわけだが、しかし、教子氏とバーズ氏に対する扱いはほぼ平等のつもりである。つまり、上述のごとく、わたくしにも好き嫌いがあってエコヒイキをしてしまうようなケースがないわけではないが、このことを自覚した上で、では教子氏とバーズ氏に対してはどうかと自問自答した時に、それほどエコヒイキをしているつもりはない、ということなのだ。
両者を比較すると、バーズ氏のほうが一枚も二枚もウワテである、というのが客観的な評価であろう。
ここ一連の応酬がそれを物語っていると思う。
そこで巌虎さんに折り入って御願いが有ります。
バーズに対して注意して下さい。バーズを叱って下さい。私【教育委員会】を叱ったように。
わたくしにお願いするのがそもそもの間違いである。教子氏とバーズ氏は拙ブログのコメント欄において、対等に論ずる環境を与えられている。ゆえに言いたいことがあれば直接言えばいい。実際、バーズ氏はそのようにしているわけで、わたくしに対してつまらない要求はしない。わたくしに要求してくるのはいつも教子氏なのだ。
ちなみに、リンクを貼っておくので確認されたい。
http://white.ap.teacup.com/ganko/1830.html
教子氏がどのように感ずるかはわからないが、これはかなり痛烈な文章だと思う。主にはバーズ氏のコメントを受けて書いたわけで、いわばバーズ氏への反論である。教子氏はなおもエコヒイキと言い張るのだろうか?
さて、話を戻して、直近の両者のやりとりをご覧に入れたい。
教子氏:
相変わらずのヒネクレ者だな。肝心な所は、全く答えてない。
バーズ氏:
そうだ、私はヒネクレ者だ。
ヒネクレ者だから肝心な所の答えは全く教えないのだ(笑)
答えは自分で探してね。
簡単にタネ明かしをしたら面白くない(笑)
教子氏:
ヒネクレ者のクセに、
『僕はネットの健全化を目指し、悪い奴を退治する?』
無理だろ!警察でも無いのに、偉そうに。
オマエ如きに、出来るわけ無いだろ!
どっちもどっちであるが、しかし、わたくしはバーズ氏のほうがウワテであると書いた。その理由は教子氏の続きの文章にある。
まず、そのヒネクレた性格をちゃんと病院に行って⇒治しなさい!
ありがちな展開である。論に詰まると相手を罵倒する、病気扱いにして病院に行くことを勧める、ありがちなパターンだ。
鳥人間ばーず?って、
脳が鳥で、体が人間(呆)気持ち悪い〜。頭が悪そう〜。
アッチへ行け、シッ シッ!
もはや議論のテイをなしていない。単なる罵倒である。教子氏には反省を促したい。
さて、痴漢の被害に遭った女性(泣)
普通なら、泣き寝入り(泣)の所を勇気を出して犯人の男を捕まえた。
しかも犯人の正体(職業)は⇒何と現職の 神奈川県警の警察官・自動車警ら隊の「警部補」だった。
このニュースは
『また神奈川県警の不祥事』
として⇒テレビ&全国紙で報道されました。
その後、顕正会の総幹部会にて、女の信者が
『痴漢を捕まえて、警察に突き出したのは、この私(笑)』
と、さも武勇伝の如く、自慢してましたが…
(呆れ)
私は、この女信者を
『浅井昭衛に好かれる為の 成り済まし』
と断罪し、
巌虎さんは
『何故、成り済まし!と言えるのか?』
⇒その女信者は、第3者の目撃者⇒証人を連れて来なかったからです。
顕正会とは関係の無い、第3者の目撃者・証人を引き連れて⇒
『この女信者さんは、痴漢を捕まえた勇者です』
と、証言をさせれば、良かったんです。
痴漢を捕まえる勇ましい女性なら、出来るはず!
失礼ながら教子氏の知的水準を疑いたくなった。手っ取り早く言わせてもらえば、挙証義務は教子氏の側にあるのだ。つまり、まずは教子氏がくだんの体験発表がウソであることを証明しないといけない。これがモノの順序である。
もし、その証明が万人を納得させるだけのものであれば、今度はくだんの総班長がそれを覆すだけの反証を示さないといけない。それが教子氏の要求するところの第三者の目撃者・証人(他の反証方法があればそれも可)ということになるのだ。これが順序である。
ところが教子氏は、頭ごなしに顕正新聞の記事をウソであると決め付け、証人を立てろと要求しているのだ。ずいぶん身勝手な人である。
学無学
最後に沖浦氏のコメントから話題を拾わせていただくが、この学無学がひじょうに面白い。学と無学は現代では意味が真逆になっている。つまり、あの人は学がある、こう書けば褒めていることになるのが現代である。私は無学でして・・・こう書けば謙遜の意味もあるだろうが、実際に低学歴だったり、教養には疎い人、これが現代における意味である。しかし、御書に出てくる学・無学は意味が正反対であり、学が現代における無学に相当し、無学が学に相当するのだ。御書を独力で読んでいると、こういう部分でつまづくことになる。しかし、生意気を言うようであるが、繰り返し拝読していると段々わかってくるのだ。