2013/8/31
顕正新聞第1283号を中心に
ユタ氏のコメントはきわめて常識的であるが、たぶん、例外があると思う。たとえば天皇がわかりやすいだろう。あるいは総理大臣もそれに近いかもしれない。たとえば今の菅官房長官が日々の記者会見において、安倍総理をどのように表現するか、ということである。一般の企業であれば、ユタ氏のおっしゃるように、「安倍は・・・」となるだろう。しかし、官房長官はそうは言っていないはずである。「総理は・・・」のはずである。つまり、民間企業であれば、どれほどの大会社の社長であろうとも、対外的には呼び捨てが常識である。しかし、総理は一国を代表する立場である。いわんや天皇は全国民にとって尊敬すべき存在なのだ。さらに飛躍して、天皇は全地球的に尊敬すべき存在だとする考え方もあるわけだ。そこで結論だが、顕正会の場合もそれに近いニュアンスがあるのだと思う。浅井先生は全人類が尊敬すべき存在であると。ようは会長本仏論なのである。
すると御本仏の御子息であるところの克衛だとか城衛を呼び捨てにしているわたくしに対し、敏感に反応する人がいてもおかしくないわけで、その意味では教子氏の感覚もあながち間違いではないことになる。
まあ、この話題はこのくらいにしておこう。
沖浦氏の神社参詣についての所論はけっこう興味深いものがある。直接的には先般の応神天皇陵における読経唱題の是非について、沖浦氏は樋田氏を弁護しているわけなのだろう。しかし、これは簡単な話ではない。けっこう難解な問題である。そういうわけで、今しばらく時間をいただきたいと思う。ともかく簡単には結論を出せないことなのだ。
濁悪の日本国に160万法城 厳然屹立
顕正新聞第1283号の大見出しだ。
今回の会長講演もそれほど目新しさはない。過去の焼き直しというか、同じ話の繰り返しである。ようは常に中身は同じであって、数字だけが変わっていく。今は百六十万であり、やがて二百万になり、五百万になり、一千万になると。
中身は同じで数字だけが変わっていく・・・
これは我ながらイミシンだと思う。直接的には会長講演の内容を言ったつもりだったが、実は組織の実態にも通じる話なのだ。公称人数は増えても実数は増えない。
まあ、いちおうは微増なのだろう。大きな集会を開いて、少しずつは結集を伸ばしているわけだ。しかし、公称数との乖離は、もはやどうしようもないレベルになっている。
いよいよ二百万めざし師子王の前進を
二百万みつめ出陣を
会長講演の見出しから拾ったものだが、やや興ざめである。なぜならば今年は一千万達成の年だからである。しかも百六十万の次がなぜに二百万なのか、その合理的な説明が見えてこない。
普通であれば百万を達成した段階で、次なる目標として二百万を掲げるものだと思う。あるいは大目標として百万の段階で一千万を言ってもいいだろう。そして当面の目標として百五十万だとか二百万だとかを言えばいいのだ。
ともかく一昨年、百五十万を達成した。
やはり普通であれば、ここで二百万を云々するべきだろう。なぜに百六十万が二百万への出陣となるのか、まったく理解できないのだ。
しかもである。
この百五十万から百六十万までの十万増加に、およそ一年半を要している。ということは、二百万まで何年掛かるか、簡単に計算できてしまうのだ。
六年だ。
これで興ざめの意味がわかっただろう。かつて浅井先生が得意としていた「あと○○年」が、もはや使えない段階に突入しているのだ。ゆえに今は場当たり的に、さして意義があるとも思えない百六十万を基盤などと称して、会員を鼓舞するしか方法がないのである。
そうそう上述の話題は七月度総幹部会である。八月の終わりにこんなことを書いているようではいけないが、まあ、その辺はお許しいただくとして、当該幹部会の活動報告で興味深いのは次の記事である。
国家権力を笠に威す飯島内閣官房参与
弟の入信に激昂、暴言を吐き恫喝!
実は第1279号に飯島氏の弟が入信した旨の活動報告があって、いわば今回はその続編である。
飯島勲本人から・・・
飯島勲は・・・
飯島勲に・・・
いろいろと興味深いことが書かれているわけだが、わたくしが最も注目したのは、発表者である男子部第十六隊支隊長の物言いである。ご覧のごとく、呼び捨てなのだ。
弟さんの気持ちを考えると、けっこう悩ましいものがあると思うのだが、いかがだろうか?
ともかく微妙である。弟さんが顕正会にどれだけ信を置いているかという問題と、切っても切れない血縁関係の血の濃さとを天秤に掛けた時に、さて、どちらに傾くか、である。兄貴とそれほど仲がよくなかったとしても、イザという時は兄弟であるから、やはりお互いに協力し合うこともあるだろう。それを考えると、さすがに呼び捨てには抵抗を感じるのではあるまいか、おいおい、いくらなんでも他人のアンタに、そこまで言われたくない。別に兄貴と仲がいいわけではないが、さりとて自分にとってはかけがえのない兄貴なのだから、他人に悪く言われて気持ちのいいわけがないだろう。顕正会の人たちはそんなこともわからないのかい?
微妙と書いた。それはそうだ。上述のことはわたくしが勝手に想像して書いているだけのことであり、実際に弟さんがどのような気持ちでいるのかはまったくわからない。ただ、わたくしが本部首脳であれば、登壇させるにしても、もう少し表現に気を使うことだろう。
「胃ろうをやめ父の成仏を見つめよ!」
一会員への先生のご慈愛に感涙
第九男子部長の体験発表である。そして翌号には婦人部の班長さんが同様の発表をしている。
いちおう、私見を書いておこう。本部首脳とて馬鹿ではないだろうから当然わかっていることと思うが、これはあくまでケースバイケースだと思う。もし胃瘻を全否定するかのごとき見解であれば、わたくしは断固反対する。顕正会の危うさは、こういう記事が立て続けに出てしまうところにある。そして単純思考の人は、胃瘻はダメであると結論してしまうことだ。もしこれが顕正会のスタンダードとなってしまったら、かなり特異な宗教団体に映ずることだろう。医療とのカラミで言えば、輸血を認めない宗教団体と、近似のところにいることになるだろう。もし輸血が教義上絶対に認められないことだとしても、現代医学においては輸血の有効性は絶大なものがある。それでどれだけ多くの人命が救われたかを思えば、輸血を拒否するのはおかしなことだと言われても、仕方がないことなのだ。
福島原発 海洋汚染が拡大!
顕正新聞は最近、また原発事故関連の記事が多くなってきたような印象を受けるけれども、それも無理のない話である。東電の福島第一で次々と問題が発覚しているからだ。
巨額の国際賠償を求められる恐れ・・・
記事の詳細は省くが、最終的にはこれがいちばん痛い。いずれ東電だけの責任では済まなくなる。日本全体の責任である。つまりは我々にも責任がある。具体的にはどういうことになるのか、想像を絶するところであるが、ともかくタダじゃ済まないだろう。いわゆる与同罪の原理である。
九月一日追記:胃ろうをやめ云々は胃瘻をやめ云々だった。パソコンが古いためか、変換できなかった。途中から意識的に変換したものの、最初のところをうっかり見落としていた。
すると御本仏の御子息であるところの克衛だとか城衛を呼び捨てにしているわたくしに対し、敏感に反応する人がいてもおかしくないわけで、その意味では教子氏の感覚もあながち間違いではないことになる。
まあ、この話題はこのくらいにしておこう。
沖浦氏の神社参詣についての所論はけっこう興味深いものがある。直接的には先般の応神天皇陵における読経唱題の是非について、沖浦氏は樋田氏を弁護しているわけなのだろう。しかし、これは簡単な話ではない。けっこう難解な問題である。そういうわけで、今しばらく時間をいただきたいと思う。ともかく簡単には結論を出せないことなのだ。
濁悪の日本国に160万法城 厳然屹立
顕正新聞第1283号の大見出しだ。
今回の会長講演もそれほど目新しさはない。過去の焼き直しというか、同じ話の繰り返しである。ようは常に中身は同じであって、数字だけが変わっていく。今は百六十万であり、やがて二百万になり、五百万になり、一千万になると。
中身は同じで数字だけが変わっていく・・・
これは我ながらイミシンだと思う。直接的には会長講演の内容を言ったつもりだったが、実は組織の実態にも通じる話なのだ。公称人数は増えても実数は増えない。
まあ、いちおうは微増なのだろう。大きな集会を開いて、少しずつは結集を伸ばしているわけだ。しかし、公称数との乖離は、もはやどうしようもないレベルになっている。
いよいよ二百万めざし師子王の前進を
二百万みつめ出陣を
会長講演の見出しから拾ったものだが、やや興ざめである。なぜならば今年は一千万達成の年だからである。しかも百六十万の次がなぜに二百万なのか、その合理的な説明が見えてこない。
普通であれば百万を達成した段階で、次なる目標として二百万を掲げるものだと思う。あるいは大目標として百万の段階で一千万を言ってもいいだろう。そして当面の目標として百五十万だとか二百万だとかを言えばいいのだ。
ともかく一昨年、百五十万を達成した。
やはり普通であれば、ここで二百万を云々するべきだろう。なぜに百六十万が二百万への出陣となるのか、まったく理解できないのだ。
しかもである。
この百五十万から百六十万までの十万増加に、およそ一年半を要している。ということは、二百万まで何年掛かるか、簡単に計算できてしまうのだ。
六年だ。
これで興ざめの意味がわかっただろう。かつて浅井先生が得意としていた「あと○○年」が、もはや使えない段階に突入しているのだ。ゆえに今は場当たり的に、さして意義があるとも思えない百六十万を基盤などと称して、会員を鼓舞するしか方法がないのである。
そうそう上述の話題は七月度総幹部会である。八月の終わりにこんなことを書いているようではいけないが、まあ、その辺はお許しいただくとして、当該幹部会の活動報告で興味深いのは次の記事である。
国家権力を笠に威す飯島内閣官房参与
弟の入信に激昂、暴言を吐き恫喝!
実は第1279号に飯島氏の弟が入信した旨の活動報告があって、いわば今回はその続編である。
飯島勲本人から・・・
飯島勲は・・・
飯島勲に・・・
いろいろと興味深いことが書かれているわけだが、わたくしが最も注目したのは、発表者である男子部第十六隊支隊長の物言いである。ご覧のごとく、呼び捨てなのだ。
弟さんの気持ちを考えると、けっこう悩ましいものがあると思うのだが、いかがだろうか?
ともかく微妙である。弟さんが顕正会にどれだけ信を置いているかという問題と、切っても切れない血縁関係の血の濃さとを天秤に掛けた時に、さて、どちらに傾くか、である。兄貴とそれほど仲がよくなかったとしても、イザという時は兄弟であるから、やはりお互いに協力し合うこともあるだろう。それを考えると、さすがに呼び捨てには抵抗を感じるのではあるまいか、おいおい、いくらなんでも他人のアンタに、そこまで言われたくない。別に兄貴と仲がいいわけではないが、さりとて自分にとってはかけがえのない兄貴なのだから、他人に悪く言われて気持ちのいいわけがないだろう。顕正会の人たちはそんなこともわからないのかい?
微妙と書いた。それはそうだ。上述のことはわたくしが勝手に想像して書いているだけのことであり、実際に弟さんがどのような気持ちでいるのかはまったくわからない。ただ、わたくしが本部首脳であれば、登壇させるにしても、もう少し表現に気を使うことだろう。
「胃ろうをやめ父の成仏を見つめよ!」
一会員への先生のご慈愛に感涙
第九男子部長の体験発表である。そして翌号には婦人部の班長さんが同様の発表をしている。
いちおう、私見を書いておこう。本部首脳とて馬鹿ではないだろうから当然わかっていることと思うが、これはあくまでケースバイケースだと思う。もし胃瘻を全否定するかのごとき見解であれば、わたくしは断固反対する。顕正会の危うさは、こういう記事が立て続けに出てしまうところにある。そして単純思考の人は、胃瘻はダメであると結論してしまうことだ。もしこれが顕正会のスタンダードとなってしまったら、かなり特異な宗教団体に映ずることだろう。医療とのカラミで言えば、輸血を認めない宗教団体と、近似のところにいることになるだろう。もし輸血が教義上絶対に認められないことだとしても、現代医学においては輸血の有効性は絶大なものがある。それでどれだけ多くの人命が救われたかを思えば、輸血を拒否するのはおかしなことだと言われても、仕方がないことなのだ。
福島原発 海洋汚染が拡大!
顕正新聞は最近、また原発事故関連の記事が多くなってきたような印象を受けるけれども、それも無理のない話である。東電の福島第一で次々と問題が発覚しているからだ。
巨額の国際賠償を求められる恐れ・・・
記事の詳細は省くが、最終的にはこれがいちばん痛い。いずれ東電だけの責任では済まなくなる。日本全体の責任である。つまりは我々にも責任がある。具体的にはどういうことになるのか、想像を絶するところであるが、ともかくタダじゃ済まないだろう。いわゆる与同罪の原理である。
九月一日追記:胃ろうをやめ云々は胃瘻をやめ云々だった。パソコンが古いためか、変換できなかった。途中から意識的に変換したものの、最初のところをうっかり見落としていた。