2013/9/29

第1286号拾い読み  
三氏よりコメントを頂戴している。それぞれから一文を抜き出してみよう。

 布教布教で凝り固まると、人間にゆとりがなくなります。
 顕正会もそろそろ考え時でしょうね。


 居心地が良ければ、脱会しようとは思いませんよ。

あんなに必死で口説いても拒否されるのはよっぽどなにか不信感や胡散臭さが垣間見えるのだと・・・

本部首脳だって考えていないわけではないだろう。だが、しかし、布教をやめるわけにはいかない。なぜならばそれが仏弟子の使命だと考えているからだ。今、折伏をやめてしまったならば、目くそ鼻くそと一緒である。すなわち創価学会と何も変わらなくなってしまう。顕正会は折伏大行進時代の創価学会を肯定し、いわばその後の創価学会を否定するのである。ゆえに、今のスタイルを変えるわけにはいかない。

また、それとは別の意味で、組織そのものが自転車操業的な状況にあって、ともかく折伏を続けないと組織が維持できないという切羽詰った状況にあるのも事実である。

ゆえに、居心地が良ければ云々は重々承知しているものの、どうすることも出来ないでいるのだ。

成果至上主義をやめてしまえば、居心地が良くなる。しかし、それで組織が維持できるかどうかは微妙なところで、たぶん難しいのだろう。極端なことを書けば、後期高齢部員がたくさんいる。残念ながら人には寿命がある。つまりは死ぬのだ。これに比して若い世代がどれほどいるのか知らないが、日本の人口減少の仕組みと同じならば顕正会も自ずと会員を減らさざるを得ないのだ。つまり、居心地が良くて脱会しないにしても、徐々に減っていくことになる。これがいわゆる少子高齢社会である。

不信感・・・

胡散臭さ・・・

ということで、仏弟子の看板を掲げている以上は折伏を続けなければいけないし、また、組織を維持するためにも折伏は必須である。そこで最後に問題になるのが不信感ないし胡散臭さであろう。これについても本部首脳は物凄く考えているはずだ。

たとえば先般、顕正会関連の報道があった。こういうのを本部首脳は物凄く気にしているはずで、ようは今後の折伏に影響が出まいかと心配しているのだ。折伏の伸びが鈍化するのではないか、結果として組織の衰退につながるのではないか、ということが気が気でならないのだ。

創価学会の謀略である。

従来、逮捕報道などがあると、顕正会では上述のようなことを言ってきた。これがいちばん手っ取り早い説明なのだろう。何でもかんでも創価学会のせいにしておけば楽なのである。

わたくしの思うに、確かに創価学会の謀略という一面もあるだろう。ただし、はたしてそれだけなのか、顕正会には一分の過ちもないのか、こう問われれば答えに窮することになる。

本部首脳としては、不信感だとか胡散臭さがどこから生じているのか、他人のせいにするばかりではなく、自分たちにも原因があることを知るべきだろう。

いや、もちろん、具体的にどこをどのように改善すればよいのかは、ひじょうに難しいことなのだが・・・

さて、以下は顕正新聞第1286号からの話題である。

大村市議20年 長崎会館建設反対 運動の渦中にあった父
 重病の中、死を前にしてついに入信


先日来、後期高齢会員について書いてきたが、これがまさに典型的な例である。登壇者は婦人部班長で、この人の父親が亡くなったわけである。なんと入信勤行の二時間半後に臨終を迎えたという。人の死を冒涜するつもりは毛頭ないけれども、顕正会の勢力としてはプラスマイナスゼロである。どうも最近は若い人に比して、高齢の入信者が多いように思う。これでは顕正会の未来は暗いものになるだろう。

広宣流布は歴史の必然

話は前後するが、会長講演では上掲の小見出しの後、次のように書いている。

 そして私は、このところ強く感じていることがある。それは――
 未活動の人たちがいま続々と目ざめて来ていること。
 また入信早々の人たちの成長がまことに早いこと。
 さらに学会から入会した人たちがアッというまに国立戒壇の御遺命にめざめ、敢然と折伏に立っていること。

(以下省略)

以前にも繰り返し書いてきたが、これはいわばムード作りだろう。必ずしもこれが顕正会の実情を正確に伝えているものとは言えまい。

 私は、先に顕正会で信心をしていた母の縁により、昭和六十三年に入信いたしました。

 その数年後、母が未活動となり・・・


これは京都会館での登壇であるが、発表者は女子部総班長である。当時、この母親がどれほど活動していたか定かではないが、単純に見ればプラスマイナスゼロである。

結局、浅井先生の言っていることが事実だとしても、それと同数の人たちが次々に退転してしまっているとしたら、プラマイゼロである。ある意味、現状維持ならばまだマシなのかもしれない。もしかしたら入信者よりも退転者のほうが多いかもしれないのだ。

いや、もちろん、実際はどうなのかはわたくしの与り知らぬところである。

私の元気な姿に驚き担当医も入信

これは驚きだ。医者がそんなことで入信するとは思えない。もしこれが本当ならば、この人を縁としてたくさんの人が入信してくるに違いない。

ところがである。

この人は昨年七月の入信であるにもかかわらず、未だに平会員のままなのだ。普通ならば組長ないし班長に抜擢されていてもおかしくないだろう。

この人の発表そのものをウソだとは言わないが、あるいはこうしたところが胡散臭いと思われてしまう原因なのかもしれない。

芙蓉茶寮特製「黒にんにくプリン」
 絶妙な大人のスイーツ


これは一度、食べてみたい。

2013/9/27

ギリギリの最終段階  
沖浦氏の疑問にお答えしよう。

 顕正会の方々の活動は存じません。
 私がこれだけネットで実名投稿しているのですから、顕正会の方々もご覧だと思えます。
 現在に至るまで、お一人の接触すらございません。


まず、一つには成果主義なるがゆえである。

沖浦氏ほどの難物もあるまい。ようはテゴワイのだ。すると、折伏してもムダだろう、沖浦氏を顕正会に引っ張ってくるのは不可能だ、時間のムダである、ならば相手にしないほうがいい、ということになる。

だらしがないようであるが、これが成果至上主義の顕正会における平均的な活動会員の思考だと思う。

もう一つの理由は、活動会員の絶対数が少ないゆえである。

最初の説明においても、もし活動会員の絶対数が多ければ、マレには物好き(?)な人もいるだろうから、あるいは沖浦氏にアプローチする人も出てくるかもしれない。しかし、絶対数が少ない。ゆえに、そういう人がいないのである。

そして前回も書いたように、今は訪問折伏が行なわれている。この場合、特に選り好みのようなことはしないはずで、もし白馬一帯を訪問折伏するとなれば、必然的に沖浦氏のところにも行くことになるだろう。しかし、いかんせん活動会員の絶対数が少ないので、今の段階では日本全国津々浦々というわけにはいかないのだ。

おおむね、こんなところだと思う。

二百万めざし いよいよ 大前進開始

さて、今日は遅ればせながら八月度総幹部会の話題を取り上げよう。上掲は顕正新聞第1286号の一面の大見出しである。

七月に百六十万を達成した。そこで次なる目標として掲げられたのが二百万であるが、わたくしはこれを何となく行き当たりばったりのように感じてならなかった。普通ならば百五十万達成時に掲げるべきだろう。まあ、しかし、これは前にも書いたのでこれくらいで終わりにしよう。

高濃度放射性汚染水の大量流出で危機的状況に陥っている「福島第1原発」

「キール海洋研究所」が公表した放射能汚染水の海洋拡散シミュレーション

二面から三面にかけて会長講演が載っているわけだが、そこに出ている福島原発の全景写真とキール研究所のシミュレーションがけっこう衝撃的である。

もし同じアングルから撮った事故前の写真があれば、その深刻さがわかることだろう。敷地内の山側にはタンクが無数に並んでいるのだ。たぶん事故前にはなかったはずで、事故後に汚染水を溜めるために急遽設置されたものである。いわゆる急ごしらえ・安普請ゆえであろうか、タンクから汚染水が漏れてしまったというのだ。

しかし、ここに錯覚がある。

ようは汚染水を海洋に漏らさないためにタンクを設けて貯留している。この努力は当然のことであるが、しかし、それとは別に汚染水は海に漏れ出しているのである。こんなことは誰が考えたってわかりそうなものだ。原子炉には穴が開いてしまって、核燃料が今どこにあるのかも定かではない。そこにひたすら水を掛けているのだ。いちおうは循環冷却という話になっているけれども、穴の開いた原子炉であるからして、完全無欠の循環が行なわれているわけではないのだ。そこで地下に溜まった汚染水を汲み出してタンクに貯留している。しかし、地下もまた完全無欠であるわけがない。何しろ地下水が流入してくるのである。ということは、それが今度は海に流出していると考えるが当然である。河川であれば、山から海に流れる。地下水も見えないだけであって、まったく同じ理屈なのだ。

いずれにしても、海洋流出を回避する目的でいちおうはタンクを設けている。地下から海洋に流出する分は見えないので、タンクを一生懸命こしらえることによって、何とか誤魔化してきた。しかし、そのタンクから漏洩してしまったならば、もはや話にならないだろう。

 これで福島の漁業は潰れますね。いや福島という小さな海域だけではない。太平洋が、世界の海が、汚染されていく。これが今回の重大さなのです。

会長講演である。この後、キール海洋研究所のシミュレーションについて言及しているが、掲載されている図画と併せて読むならば、深刻さがよくわかるところである。

だが、しかし、わたくしにはじゃっかんの疑問がある。

汚染の度合いは如何? ということである。

浅井先生の説明にしても、キール研究所の図画にしても、具体的な数字が示されていない。ようするに海洋に流出した放射性物質は合計三十兆ベクレルであると書かれているものの、それが太平洋ないし地球上のすべての海の、その海水量との比較において、どの程度の汚染度合いになるかが示されていないのだ。

あくまで当てずっぽうであるが、相当に希釈されてしまうのではないかと思う。ようは薄まってしまうということである。海はベラボウに広いのだ。

いや、もちろん、だから許されるとは思わない。また、海におけるホットスポットのような場所もあり得ることだし、魚種によっては放射能をたくさん吸収してしまうようなものも存在するかもしれない。延いてはそれが人間にも影響することになるのだ。

そんなわけで、オリンピックの招致は難しいと思われたが、結果は周知のごとくである。

ダラダラと書いてしまったが、会長講演に戻ろう。

放射能禍は現代の疫病

京都での講演に引き続き、三災七難における新解釈がここでも示された。これについては昨日の拙稿で書いたとおりであって、現時点ではまだそれほど深刻な健康被害が出ていないので、何とも言えないところだと思う。

悪性インフレは現代の穀貴

これはわりと批判が少ないと思う。法華講員でも創価学会員でも同様の解釈をするであろう。

だが、しかし、わたくしはこれこそ放射能問題とのカラミで、穀貴が事相となるかもしれないことを憂慮したいところである。先ほどの海洋汚染もしかり、あるいは地上に降り積もった放射性物質しかり、である。つまり、これらの汚染がもし深刻化すれば、自ずと安全な食料が手に入らなくなる。これこそ正真正銘の穀貴である。

 すでに大罰の時代に突入しており「国の壊れる音」が聞こえて来ますね。

わたくしはこれが気になった。こうしたフレーズは何か見本があるのだろうか?

え? 国の壊れる音が聞こえる? オマエは幻聴か?

こんなツッコミを入れたくなるところであるが、まあ、しかし、これはいわゆる文章表現であって、現実に浅井先生の耳に何かが鳴り響いているわけではないだろう。それにしてもスゴイ表現である。

ギリギリの最終段階

これも注目すべき表現である。今までも最終段階という表現は使っていた。しかし、ギリギリの最終段階は今回が初めてだろう。

そうすると、やはり先生の耳には国の壊れる音が轟音となって鳴り響いているのだろうか?

かく言うわたくしは鈍感なのか、そこまでの切迫感を持たない。いわゆる平和ボケなのだろうか?

2013/9/26

浅井流解釈の是非について  
今朝も沖浦氏から貴重なコメントを頂戴しているが、割愛させていただくことにする。

ユタ氏のコメントは法華講と顕正会の相違点を具体的に指摘するものであり、それなりに有意義だった。

・・・法華講という所は、概して信心に自主性を求める所でありまして、顕正会のように、幹部が下の者に電話をすることはあまりありません。
 いわゆる『寂しいお年寄り』というのは、そんな信心に自主性を求めて連絡してこない法華講よりも、頻繁に電話を掛けてくれる顕正会の方がありがたいのでしょう。


元々、顕正会の悪しき体質として、未活動者をオキザリにしてしまう傾向があった。ようは折伏の成果に追われて、後輩の面倒を見ている余裕がない、そんな活動会員がたくさんいたのだ。

してみると、最近の顕正会は体質改善が相当に進んでいることになりそうだ。もしこれが事実ならば、顕正会もまだ伸びる余地がある。逆に法華講は疲弊する一方なのかもしれない。

これはもちろん、ユタ氏の観察を全面的に信用しての話であるから、おそらくは他の法華講員からそれなりの反論があることだろう。

さて、法華講の内情についてはまったくの素人なのでこれ以上の言及を控えるが、顕正会についてはもう少し書いておこう。

・訪問折伏
・未活動者の掘り起こし
・折伏成果と共に結集成果にも力を入れている

上記は思いつくままに書いたので、まとまりが良くないけれども、おおむね今の顕正会の活動方針はこんな感じだと思う。

方針というよりも、必然的にそのようなスタイルにならざるを得なかったという意味もあるだろう。

熱心な活動会員は訪問折伏をしている。なぜならば学生時代の友人であるとか職場の人たちであるとか、ともかく片っ端から折伏し尽くしてしまって、いわゆる対象者がいないのだ。すると訪問折伏しかない。
また、いわゆる長一人の戦いに終始している人がいる。ようは後輩が育たないので、いつまで経っても自分ひとりで頑張るしかないのだ。けれども、こういう人はともかく過去にたくさんの折伏をしているので、いわゆる未活動者をたくさん抱えているわけだ。ゆえに、この掘り起しをして活動会員を増やす。ようは長一人の戦いからの脱却を図るのだ。
そして三番目の結集成果云々は、これこそ本部側の方針そのものである。未活動者の掘り起こしがどれだけ進んでいるか、その具体的な成果を示すものが各種集会における結集人数である。

結局、折伏成果も当てにならない。何しろ入信報告書の偽造が行なわれるくらいなのである。仮にそれがごく少数の特殊な例であったとしても、全体として名ばかりの入信者がたくさんいるのは事実なのだ。入信勤行後、即退転というパターンである。

すると、本部首脳としては折伏成果ではなく、結集成果を信用するしかない。

今の顕正会はいちおう上述のような方向性で進んでいて、そこそこ成果を上げているようである。体質改善も進んでいるように見える。

だが、しかし、新たな問題が生じてきた。

高齢会員の増加である。

顕正会も五十数年の歴史がある。すると、会員の高齢化も当然のことではある。しかし、それとは別の意味で高齢会員が増えているのだ。

つまり、高齢者が入信してくるケースが多いのである。

訪問折伏で入信する人はその大半が高齢者だと思われる。失礼ながらお年寄りはヒマである。そこに顕正会員が諫暁書だの顕正新聞だのを携えて訪れる。ヒマなお年寄りにとっては退屈しのぎになる。入信を勧められる。お金は掛からないという。ならば断わる理由はない。

いや、もちろん、ヒマを持て余している老人たち全員が入信するわけではないだろう。その確率は十人に一人かもしれないし、百人に一人かもしれない。いずれにしても訪問折伏によって入信する人は、圧倒的に高齢者だと思われるのだ。

名著『迷走する顕正会を斬る』には、五十代以上の世代の希薄な途方もなくイビツな組織、という記述がある。これはこれできわめて重要な指摘なのであるが、昨今は新たな事象として上述のようなことも出てきた。いわゆる後期高齢部員の増加である。

さて、これが顕正会の未来にどのような影響を与えるか、現時点では何とも言えないところであるが、ともかく今後も注目して行きたい点である。

2013/9/25 15:46
投稿者:んっ?
巌虎さん,こんにちは!

>また原発の放射能で広範囲かつ長期にわたり
>健康被害が起こるのは、三災のうちの「疫病」に当る。

前後の文章を読んでませんので,断言できませんが
此の文章は酷いですね?

御存知だとは思いますが「疫病」とは伝染病の事です。

避難している子供たちが,各地で「放射能がうつる」と
苛められていたニュースは御存知だと思いますが,
機関誌で書く事ではないと思います。


なるほど、一つの見識だとは思うが、わたくしは違う意見である。解釈は柔軟であっていいと思う。またイジメ云々はなかなか鋭いものの、杞憂というか、やや的を外しているような感じがしないでもないところだ。

わたくしは今回の浅井流解釈について、保留とした。その理由を説明しておこう。

死を招くの輩既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢へて一人も無し。

安国論の冒頭の一節である。また、文永十年の土木殿御返事には次のごとくある。

今年、日本国一同に飢渇の上、佐渡国には七月七日已下、天より忽ちに石灰虫と申す虫の雨下り一時に稲穀損失し了んぬ、其の上疫々処々に遍満す。方々死難脱れ難きか。

わたくしは大量死の有無が最大のポイントだと思う。

いわゆる穀貴・兵革・疫病のうち、確かに兵革は核兵器ないし化学兵器・生物兵器などによって、現代ほど大量死の危険性を孕んだ時代もあるまいと思う。では、穀貴と疫病はどうか、なのである。
今でも餓死者のことがニュースになることがある。しかし、大量の餓死者が出ることは考え難い。
疫病もしかりであって、医学の未発達な時代においては大量死がしばしば起こり得た。しかし、今はそんな極端なことは起こらないだろう。

わたくしは放射能による健康被害を否定するつもりはない。いや、むしろ、物凄く憂慮している。今、少しずつではあるが、甲状腺異常の子供が増え始めたごとくである。また、今はまだデータがないけれども、この先、癌や白血病の増加が心配である。

ただし、現時点ではまだ大量死は起きていない。これが浅井流解釈の是非を保留とした理由である。

もし今後、福島を中心として深刻なる健康被害が顕在化し始めたならば、わたくしは浅井流解釈も相当であろうと思う。

いずれにしても、これは痛し痒しの微妙な問題である。

2013/9/24

顕正新聞第1285号雑感  
沖浦氏とのび太氏からコメントを頂戴している。

沖浦氏のそれは近況報告のような感じのもので、まさにご自身の生き様を赤裸々に語っているところが素晴らしい。拙ブログとはまるで正反対だ。

のび太氏は威嚇のつもりなのか、法律論を振りかざしておられる。まあ、しかし、それはどうでもいいことだ。それよりも冒頭の文章が秀逸だった。

お彼岸が来ると、秋の気配がぐっと早まります。
庭の柿の葉に蓑虫がぶら下がっていました。
やがて訪れる冬に備えているのでしょう。
環境の変化にうまく対応できないと滅びてしまいます。
自然ばかりではなく人間の世界も同じだと思います。


変化に対応できないと滅びてしまう・・・

これはそのとおりなのだろうけれども、創価学会と顕正会の対立関係から想起し得ることは、前者は社会の変化に敏感に反応して教義解釈を変更してきた、ところが後者は鈍感でいつまで経っても解釈を変えない、ゆえに前者は発展したが後者はダメだった、ということである。

しかし、いかがなものかと思う。

わたくしはここに宗門との関係を加えるべきだと思う。ようするに二十数年前までならば、上述のことは相当であろうと思うのだが、現在においては必ずしもそうではない。もし創価学会が今もなお日蓮正宗の信徒団体であれば、顕正会一人に異流儀団体の烙印を捺せば済む話だった。ところが今は創価学会も異流儀なのである。

もっとも創価学会員に言わせれば、宗門と決別することも社会変化への対応であり、適切なる判断だったことになるのだろう。しかし、わたくしに言わせれば、これこそ御都合主義、ようは自分に都合のよい論理を振り回しているだけなのだ。

それはともかく、顕正会が思ったほど伸張しない理由はさまざま考えられるが、確かにのび太氏の指摘もそのとおりなのだろう。真摯に受け止めるべき点はあると思う。

さて、遅ればせながら顕正新聞第1285号を取り上げよう。

西日本広布の烽火「一万人近畿大会」
 仏法は一生成仏と国家安泰の秘法
 臨終の相に成仏・不成仏は顕われる


京都会館が完成し、八月十一日に御入仏式が行なわれた。上掲は会長講演の大見出しである。二行目三行目はいつもの講演と変わりがない。問題は最初の一行である。

 で、近畿とは地理的にどの範囲かというと、近畿の「畿」とは都ということ、昔から都に近い国々を近畿といったのです。

講演の本文である。そして見出しにあるごとく、一万人の近畿大会を行なうとのことだ。三年後だそうである。しかし、続きの文章を読むと疑問が湧いてくる。

 具体的にいえば、京都府・大阪府・滋賀県・兵庫県・奈良県・和歌山県・三重県の二府・五県。さらに私は、これに隣接して縁の深い北陸三県と岐阜と愛知を加えて、仏法上の近畿圏であると考えております。

九州でも三年後に一万人大会を行なうそうであるが、九州は問題ない。しかし、上掲はいかがなものかと思う。

仏法上の近畿圏?

なんだそりゃ?

これを単なる言い掛かりだと思ってはいけない。こんなテイタラクでは広宣流布はオボツカナイのだ。

どこかで地方大会をやると必ずツッコミが入る。口の悪い顕正会批判者たちは、そんなに集まるわけがない、他県からの応援動員がいるに違いない、と言うのである。
これを浅井先生は気にしたのだろうか、今回は先手を打って範囲を拡げてしまったのだ。ようするに、仮に二府・五県だけで大会を開くとすると、必ず応援動員が取り沙汰されることになる。近畿大会などと言っておきながら北陸・東海からもたくさん参加しているではないか、といった批判である。
ゆえに先生は先手を打って、仏法上の近畿圏なる新概念を作り上げた。これで批判をかわそうとのネライである。

部分的には問題ないというか、ある意味では真っ正直だと思う。なぜならば純粋なる近畿圏だけでは一万人集まらないと告白しているようなものだからである。

しかし、三年後でこれなのだ。こんな調子ではいつまで経っても広宣流布はムリだろう。

 地震が早いか、近畿大会が早いか、それはわからない。

さて、話を進めよう。たぶん、これが本講演における最大のポイントだろうと思う。わたくしはこれを読んで、不思議な感覚に襲われた。あれ? 前にも聞いたことがあるようなフレーズだぞ?

孫引きで恐縮だが、以下は『迷走する顕正会を斬る』からの引用である。

「もし日本の中心地が巨大地震に襲われたら、その惨禍は想像を絶しましょう。…大地震が早いのか、妙信講の五万達成が早いのか、凡夫にはわからぬ」(昭和五十一年八月)

「百万は、二〇〇三年の十一月までに、必ず成し遂げる。大地震が早いか、百万が早いか、それはわからない」(平成十四年一月)

ハタから見ると、会員を煽っていることが一目瞭然である。このフレーズを初めて聞いた会員は何とも思わないというか、逆に、だからこそ頑張らなければいけないと腹を括るのだろう。しかし、上掲のごとく、過去の発言を並べてしまうと興ざめする。浅井先生の手法が丸見えだからである。

 最近の列島各地を襲っている豪雨は、ことごとく観測史上最大ですね。

やや疑問である。観測史上最大かどうかについて疑問を呈する専門家もいる。だが、しかし、これについては不勉強のソシリを免れないのでしばらく保留として、もう一つの観点から疑問を投げ掛けておきたい。

今後、広宣流布までの気象変動は如何? ということである。

今の顕正会の主張からすると、広宣流布達成までは年々災難が大きくなっていくはずなのである。すると豪雨にしても、来年はさらに記録更新して、とんでもない豪雨に見舞われることになる。再来年も記録更新、次の年もまた次の年も、ということになるはずなのだ。はたして本当だろうか、というのがわたくしの素朴な疑問である。

 また原発の放射能で広範囲かつ長期にわたり健康被害が起こるのは、三災のうちの「疫病」に当る。

顕正会は原発問題に熱心であるが、いわゆる三災の内の一つである疫病について、上掲のごとくの見解を示したのは今回が初めてだろう。

この是非について、現時点でのわたくしの見解は保留としたい。最近、保留が多いのだが・・・

さて、会長講演はこれくらいにして、最後に体験発表を一つ紹介しておこう。第十四婦人部決起集会での登壇である。

隣席の顕正会員の話を聞き入信

97歳、成仏みつめ広布のお手伝いを


九十七歳の女性であるが、この人の入信の時の話が面白い。

 本年三月、私が一人で逗子のマクドナルドで大好物のアイスコーヒーを飲んでいると、隣の席から、「生命力と福運がついてくる」「成仏できる」との言葉が耳に入り、私は思わず聞き耳を立てて真剣に聞いておりました。

ようするに、顕正会員がマクドナルドで他の人を折伏していたわけだ。本人はたまたま隣席にいて、その話を聞いていた。どうやら折伏されていた人は帰ってしまったらしい。いわゆる逆縁だ。そこで彼女は「いまの話をぜひ私にも聞かせてほしい」と願い出た。これが入信に至るキッカケである。

何とも面白い話である。偏見を承知で書かせてもらえば、わたくしには九十七歳の女性が一人でマクドナルドにいる図がなかなか想像できない。何となく不似合いな感じがするし、また本人も自分が行くような場所ではない思って近づかないのではないか、という気がするのである。

しかし、これこそ偏見の最たるものだろう。超高齢化社会の現代においては、それが普通のことかもしれないのだ。

2013/9/18

久々の顕正会報道補遺  
先週の家宅捜索の話題はもうやめようかと思ったが、関連するコメントがいくつか寄せられているので、もう少し書くことにする。

瑠璃堂氏のブログを久しぶりに拝見した。相変わらずの健筆ぶりに安心した。今後も無理のない範囲で更新されることを期待したい。

御自身のためにも、説明責任はしっかり果たしてもらいたいですね。

桜月氏も指摘しているように、浅井先生は一昨年の十一月度総幹部会で、もし公安が調べに来たら自分が直接会って彼らに顕正会の正義を説明したい、という意味のことを言っていた。わたくしの思うに、記者会見をやるべきだろう。そうすれば全国民に向かって顕正会の正義を叫ぶことが出来るのだ。

いずれにしても今度の総幹部会で何か言うだろうから、まずはそれを注目したいところである。

さて、ここで訂正を申し上げたい。

東京会館だろうか、平日にもかかわらず大勢の会員が会館の中に入っていく様子が映し出されているのだ。

東京会館ではなく、どうやら千葉会館のようである。テレビでは東京近郊の顕正会施設と言っていたので、東京会館だと思い込んでしまったが、映像と顕正会ホームページの会館写真とを照合すれば、誰もが千葉会館だとわかるだろう。それにしても東京近郊とは妙な言い回しである。千葉市の顕正会施設と書けばよさそうなものなのだが・・・

もう一つ訂正がある。こちらが本命だ。

今回の場合は必ずしも警察側に悪意があって情報をリークしたという性質のものではなさそうである。

悪意があったかなかったかについては保留としたい。

考えてみれば、悪意丸出しであるはずがないのだ。そんなバレバレのことを公権力がするわけがない。つまり、悪意があったとしてもそれを巧みに隠し善意を装うのが彼らの常套手段なのだ。

いや、善意はやや不適切かもしれない。善意よりは正義のほうがいいかもしれない。

つまり、彼らはあくまで法令に則り、己の任務を遂行しているだけであって、そこに善悪だとか好悪のような感情は差し挟まない。ともかく淡々と仕事をこなしているだけなのだ。

表向きは、である。

では、本心はどうか?

ここがよくわからないところで、わたくしは公権力が一つの集合体として、いわば国家意志のような形で宗教弾圧を行なうことがあり得るのかどうか、もちろん現代社会においての話であるが、はたしてそんなことがあるのか、そこがよくわからないのである。

ただし、権力者側にいる人物が個人的に悪意を懐くことはあり得るし、その人物が職権乱用を行なうことは充分に考えられることである。もちろん、あからさまにではなく、オブラートに包んで、いわば巧妙に行なうのだ。

沖浦氏のコメントはきわめて常識的である。

ところがである。

のび太氏のコメントを読むと、やはりどこかしら顕正会に対して悪意というか、いや、悪意は言い過ぎにしても敵意のようなものが感じられなくもないのである。

以下はあくまで勝手な推測に過ぎないが、今回の家宅捜索には百人以上の捜査員が投入されたそうであるから、そこに創価学会員がいてもおかしくないだろう。テレビ局も同じであって、画面に映っている人は少数であっても、裏にはその何倍、あるいは何十倍ものスタッフがいるわけだ。そこに創価学会員がいてもおかしくない。

すると、公権力とテレビ局が裏で通じていてもおかしくないわけで、今回の事件は三月に起こったわけだから、この半年間に公権力側は内偵捜査を進めていた、それをテレビ局にひそかに伝えていた、という可能性もあり得るわけである。

いや、誤解のないように書き直すと、公権力とテレビ局が通じているのではなく、公権力側にいる創価学会員とテレビ局側にいる創価学会員が連絡を取り合っている、という可能性である。

オイ、近く顕正会にガサ入れを掛けるから、準備をして置け。

以上、あくまで推測なので、証拠を出せと言われても困るが、いかがだろう、充分にあり得る話だと思う。

さて、ここでリンクを紹介しておこう。

http://www.youtube.com/watch?v=JKinFXSfHz4&feature=youtu.be

公開日: 2013/09/14
http://www.videonews.com/
ニュース・コメンタリー (2013年09月14日)
遠隔操作ウィルス事件続報
問われるべきリーク報道の責任
 遠隔操作ウィルス事件で逮捕起訴され勾留中の片山祐輔氏の弁護団が9月9日記者会見し­、検察が開示した証拠から、片山氏の派遣先の同僚のPCからも「iesys.exe」­が見つかっていたことなどを明らかにした。しかし、この日、佐藤博史弁護士が最も声を­荒げて訴えたのは、マスコミのリークに対する責任のあり方だった。
 これまで複数の報道機関が、片山氏が使用していた携帯電話から、真犯人が送ってきた猫­の写真と同じ写真が復元されたと報道していた。それが片山氏が犯人であるとの強い印象­を与えていた。しかし、佐藤氏は検察から開示された証拠の中に、そのような写真がまっ­たく含まれていないことを指摘した上で、「ペンを持ってる皆さんが、検察の暴走を止め­るためにいるのか、それとも大本営発表みたいなことをずっと続けるのか。」と、一連の­報道を厳しく批判した。
 これまで多くの報道機関が、検察や警察しか知り得ない捜査情報をあたかも事実であるか­のように報じ、それがその後の取り調べや捜査のみならず、その後の裁判にも大きな影響­を与えてきた。しかし、報道された事実が、後の裁判で証拠として検察側から提出されな­いことも多い。
 郵便不正事件で無罪となった村木厚子さんは、国に対し損害賠償請求を行ったが、裁判所­はマスコミにリークをしたことの責任は認めなかった。その後、村木さんは国に対し、「­検察が報道機関に捜査情報をリーク(情報漏えい)したために社会的評価が低下した」と­して、330万円の損害賠償を求める裁判を新たに起こしたが、一審、二審では「大阪地­検の職員以外が情報提供した可能性を否定できない」として請求は退けられ、最高裁に上­告している。
 数々の事件で捜査情報がリークされていることは明らかだ。そもそも公務員である捜査官­が捜査情報を外部に漏らすことは違法行為のはずだ。また、リークがその後の捜査におい­て、明らかに被疑者や被告に不利に作用することも多い。にもかかわらず、なぜリークし­た側も、それを報じる側も責任を問われないのか。
 ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。


動画そのものは三十分ほどあるので、忙しい人にはやや長く感じられるかもしれないが、概要は上に掲げたとおりである。

ビデオニュース・ドットコムは有料サイトにもかかわらず、なぜか無料で視聴できる動画をたくさん放出している。わたくしはこの太っ腹な主宰者に大いに敬意を表するものであるが、それにもまして記事の内容がこの上なく素晴らしいのだ。他のニュースメディアが取り上げないようなレアな記事がたくさんあるし、その視点も斬新だ。公権力に諂わない、独自の見識を持っているところが素晴らしい。

いずれにしても上掲の記事はバーズ氏の主張に分があることを示しているように読めるはずだ。これでわたくしが悪意云々を保留としたことの意味がよくわかるだろう。

さて、いずれはビデオニュース・ドットコムでも顕正会問題が取り上げられることになるのだろうか?

その時、はたして神保氏と宮台氏はどのような論評をするだろうか?

2013/9/14

久々の顕正会報道の裏を探る  
先日、警視庁による顕正会への強制捜査が行なわれた。テレビ各局が報じたこともあって、その反響は大きかった。拙ブログもアクセス数が急増し、当日は普段の四倍くらいカウントされた。

今回の一件については、バーズ氏の着眼点が素晴らしかった。

警察が顕正会の施設に家宅捜索に来ることを、テレビ局は、どうやって知ったのでしょうか?
映像には、顕正会本部に向かって行進している警察官が写っているのです。
となると、テレビ局は、警察の家宅捜索を事前に知っていたと考えられます。要するに、テレビ局は、『警察が来る前に現場でスタンバっていた』、ということですね。


ようするに、警察は意図的に情報をリークした、ケシカランことだ、という意味が込められているのだろう。

これに対する反論と思しきものが、のび太氏のコメントにある。

警察の捜査方針は、ある程度警察付の番記者を通じて流れます。

顕正会員にしてみれば、強制捜査そのものが腹立たしいことであり、なおかつテレビで大々的に報道されれば、さらに憤りを増すことになる。ゆえに、何もかもが気に食わない、フザケンナこの野郎、というような気持ちなのだろう。

まあ、しかし、のび太氏の言っていることも相当である。

捜査には極秘に行なわれるものと、公開で行なわれるものがある。家宅捜索などは、いわば公開である。ゆえに、報道機関が現場に張り付いていても、咎められることはない。もちろん、邪魔にならない範囲で、である。

事前に情報が流れていたかどうか、これは微妙なところである。仮に流れていたとしても、公開なのだからさしたる問題はない。捜査員はかなりの人数である。たぶん捜査員たちは、事前に家宅捜索の日程を知らされていたはずだ。まさか当日の朝に、急に指令が出るとは思えない。すると、百人以上もいる捜査員の誰かが記者に情報を漏らしていたとしても不思議はないし、それが問題となることもないだろう。極秘捜査だったら大変なことだが・・・

あるいは番記者が張り付いていて、当日の朝の段階で知ったとしても間に合うかもしれない。まさか捜査員たちがサイレンを鳴らして現場に急行するとは考え難い。すると、大勢の捜査員たちよりも少数のテレビ局スタッフのほうが小回りが利くだろうから、先回りすることは可能だと思う。

また現実には、NHKとTBSは東京会館の映像しか流していないようなので、本部会館には行かなかったのだろう。間に合わなかったのかもしれない。もしそうならば、事前リークはなかったことになりそうだ。

テレビ局は資料の準備も早いなぁ(笑)

この着眼点も素晴らしい。

映像の中に顕正新聞が出てくる。しかもそれが二年前の新聞が複数なのだ。ようするに、このような資料がすぐに揃うわけがない、やはり事前に準備していたに違いない、ということなのだ。

もしかしたらバーズ氏はご覧になっていないのかもしれないが、どうやら次が答えのすべてのようである。

http://www.youtube.com/watch?v=U4DQ3XLEdfI

他のテレビ局はともかく、テレビ朝日は事前に準備していた。

しかし、これは今回の強制捜査に合わせてではなく、いずれかのタイミングで特集を組もうと準備していたもののごとくである。

なぜならば、映像の中には先月撮影されたものが出てくるのだ。東京会館だろうか、平日にもかかわらず大勢の会員が会館の中に入っていく様子が映し出されているのだ。さらに、内部の映像を紹介しているのである。

え? 内部の映像?

まさか彼らが潜入取材を行なったわけではあるまい。たぶん、それらの映像は顕正会が販売しているDVDだろう。

以上、バーズ氏の着眼点はいずれも素晴らしいが、さりとて今回の場合は必ずしも警察側に悪意があって情報をリークしたという性質のものではなさそうである。

たまたまテレ朝は準備していたものが役に立って、五分弱の特集記事にまとめることが出来た。しかし、他のテレビ局はいずれも一分前後の報道であり、続報でもない限りは一般人の記憶からどんどんと抜け落ちていくくらいの、いわば瑣末なニュースに過ぎないのだ。

さて、ここでわたくしの着眼点を示しておこう。

宗教法人「顕正会(けんしょうかい)」の信者の男2人が、20代の男性を無理やり入信させたとして、警視庁公安部は11日、顕正会本部などを家宅捜索した。
強要と暴力行為の疑いで家宅捜索を受けているのは、宗教法人「冨士大石寺顕正会(ふじたいせきじけんしょうかい)」のさいたま市の本部など。
捜査関係者によると、顕正会の信者の男2人は、2013年3月、東京・秋葉原で、20代の男性に、顕正会の信者であることを隠して近づき、後日、会った際に入信を勧め、断られると、「五体満足じゃいられなくなる」などと声を荒らげ、入信を強要した疑いが持たれている。
顕正会信者は「(勧誘の際、無理強いするようなことはあったか?)ないんじゃない?(そういった話を聞いたことはあるか?)ない」と話した。
警視庁には、2013年に入り、顕正会の強引な勧誘などで、およそ80件の相談が寄せられていて、公安部は信者の男2人から事情を聴いている。


http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00253625.html

数ある報道の中から、これを選んだのには理由がある。最後のくだりが今回の事件の特徴を如実にあらわしているのだ。再掲しよう。

公安部は信者の男2人から事情を聴いている。

バーズ氏も勘違いしていた。最初は逮捕事件だと思っていたのだ。ところがである。今回は逮捕事件ではないのだ。少なくとも今の段階では・・・

これは異例のことではないかと思う。顕正会関連の事件はこれまですべて逮捕事件だった。まず、活動会員の誰かが逮捕される。その逮捕に伴なって、会館・事務所等が家宅捜索を受けるハメになるのだ。これがいつものパターンである。

ところが今回は違うのだ。

強要と暴力行為の疑いで家宅捜索を受けているのは、宗教法人「冨士大石寺顕正会(ふじたいせきじけんしょうかい)」のさいたま市の本部など。

再びニュース記事からの引用であるが、強要と暴力行為の疑いならば、まずは加害者にアプローチするのが筋だろう。その上で教団の関与が疑われるのであれば、そこで家宅捜索が行なわれることになる。これが物の順序のはずだ。

しかし、今回はいきなり家宅捜索である。その結果として、いずれは加害者が逮捕されることになるのだろうか?

ここがわたくしにはわからない。

教団を家宅捜索したところで、加害者の犯行の実否は固まらない。ようは現場において、強要の事実があったかどうか、暴力行為があったかどうか、それが問われているのである。家宅捜索によって、何がわかると言うのだろうか?

以上がわたくしの着眼点である。

当局と番記者との関係がどれほどのものであるか、この点もひじょうに興味深いところではあるが、今回の場合はそれよりも何よりも犯人が逮捕されていないという状況が実に不可解であり、警視庁が何を考えているのかさっぱりわからない点が注目されるのだ。

まさか、いきなり会長逮捕とか、そんなことはあるまいと思うのだが・・・

2013/9/12

謗法容認路線がもたらした誤解釈  
何やら顕正会の施設に家宅捜索が入ったとかで、大騒ぎしているようだ。わたくしはユタ氏のコメントで知ったわけだが、のび太氏もめずらしくコメントを寄せている。この件に関してはバーズ氏のブログが単純明快でわかり易い。わたくしも書きたいことはあるが、その前にやるべきことがある。すなわち前田氏との議論である。また、そこに沖浦氏も参戦というか横槍というか、ゴチャゴチャと書いているので余計にややこしいことになっている。

神社参詣の是非について、日興上人と五老僧とでは見解が大きく分かれる。前田氏によれば、日興上人は一片に偏しているという。ようは五老僧のほうが大聖人の御意をバランスよく拝しており、日興上人は偏向が過ぎるのだそうである。

日向師は「守護の善神此国を去と申す事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨外典読に片方を読て至極を知らざる者にて候、

法華の持者参詣せば、諸神も彼社壇に来会すべく、尤も参詣すべしと」と答える。


しかし、これは明らかな間違いである。

まずは基本的なところから説明しよう。南部六郎入道は九年間、神社参詣を停止していたという。普通に考えれば、それは大聖人が禁止していたからに他ならない。つまり、この事実がある以上、五老僧は御書を誤読していることになるのだ。一見すると神社参詣を容認するような御書が存在したとしても、それは誤読以外の何物でもないのだ。何しろ神社参詣禁止という事実があるからだ。

ゆえに、ここを引っくり返さないと話は進まない。すなわち、富士一跡門徒存知事の記述は真っ赤なウソである、でっち上げである、と。

次に論理的な意味で間違いを説明しよう。

要するに日興師は捨国面を強調して擁護面を無視してしまいます。
日向師は捨国のことはもちろんであるが、擁護の面のあることも忘れてはならぬ、

とそれぞれ主張しているのではありませんか。


二面があるにもかかわらず、一面しか見ていない。

これは実にもっともらしい説明であるが、物事には両立できることと、できないことがある。その点を見落としているのではないかと思う。

檀那の社参物詣でを禁ずべし

この理由は何か?

すなわち、謗法を致せる悪鬼乱入の寺社、なるがゆえである。

ところが五老僧は次のごとく言っているらしい。

守護の善神此国を去と申す事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨外典読に片方を読て至極を知らざる者にて候、

外典読みとか、片方を読みて至極を知らざる者とか、ボロクソなことを言っている。そして次が重要である。

法華の持者参詣せば、諸神も彼社壇に来会すべく、尤も参詣すべし

おわかりだろうか、彼らの言い分こそ、実は偏向が過ぎるのである。

もし、この理屈が正しいのであれば、神社参詣禁止はあり得ないことになる。謗法を致せる悪鬼乱入の寺社など存在しないことになる。つまり、法華の持者が参詣すれば諸天善神が還帰するという理屈は、神社参詣禁止や悪鬼乱入云々を有名無実化することになるのである。

これでは論理破綻である。彼らは日興上人を偏頗であると断ずるが、しかし、自分たちのほうがはるかに偏頗なのである。

日興上人の御見解は、以前にも示した。再掲しよう。

但し本門流宣の代、垂迹還住の時は、尤も上下を撰んで鎮守を定むべし云云。

つまり、この一文がある以上、日興上人が一方に偏していることにはならないわけで、逆に五老僧たちは謗法容認路線とでも言うべきか、本門流宣以前の垂迹還住がなされていない段階で、悪鬼乱入の寺社に詣でようというのだから、とんでもない話である。すでにお気づきの人もいるかと思うが、法華経の行者のいるところには諸天善神が還って来るというのは、まさに謗法容認路線を正当化するための言い訳に過ぎないのだ。

更には『法門可被申様之事』(48歳)に、日本の諸神の中で八幡大菩薩をもってその代表とし、その八幡も件む処がないから天に昇ってしまったが、

正法の弘まるのを見れば、当然その弘通者のところへ還帰するという訳でしょう。(還帰する)


失礼ながら墓穴を掘ったも同然である。

 又日蓮房の申し候、仏菩薩並びに諸大善神をかへしまいらせん事は別の術なし、禅宗・念仏宗の寺々を一もなく失ひ、其の僧らをいましめ・・・

まさに立正安国論の主旨そのものである。あくまで謗法を責めなければいけないのだ。その謗法呵責の精神なくして、むやみやたらに神社参詣することの断じて不可なることを、日興上人は口を酸っぱくして仰せられるのだ。

檀那の社参物詣でを禁ずべし・・・返す返すも口惜しき次第なり、と。

ちなみに、この御遺誡の直前には次の一条がある。

謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀並びに外書歌道を好むべからざる事。

いかにも日興上人らしい厳格さであるが、それはともかく、これに対して逆ギレよろしく神社に行ってもいいんだなどと開き直るのは、実に恥ずべき振る舞いである。しかも御書を都合よく解釈して、そのようなことを言うのだから困ったものである。

ここで問いを発しておこう。

「宮には善神がいるのか、それとも、邪神がいるのか」と問われれば、天照神も八幡神も、今、神社に居ますよ」と御書にあるわけです。

わたくしにはこれがわからない。具体的にはどの御書を想定してるのだろうか?

新尼御前御返事の場合は、特に問題とはならないと思う。ようは大聖人の御認識というよりは、当時の一般的な認識を紹介しているのだと考えるのが、他の御書との整合性の上からは自然である。

若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給ふとも、法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給ふべし。

諫暁八幡抄の一節であるが、まず日興上人の御遺誡との関連で書いておこう。

何に況んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣づべけんや。

其の器にして・・・

このニュアンスが大事だと思う。与えて論ずるとして、諫暁八幡抄の御文が神社参詣を可とするものだとしよう。そこで日興上人は言うのだ。え? オマエが? そのウツワで大聖人のマネゴトをしようってことなのかい? ムリムリ、やめておきなさい。

謗法の恐ろしさがわかっていない連中が安易に御書を解釈するとロクなことにはならないのだ。

さて、今は与えて論じたわけであるが、奪って言えば五老僧は御書が読めていないのではないか、生意気を承知で言えば五老僧といえどもこのレベルなのかと、ガッカリする思いである。

法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給ふべし。

わたくしの拝する限り、この御文は神社に還帰するなどという意味ではない。其の所とはどこか? 文脈的な意味では日本国であるが、より正確に拝するならば大聖人のましますところである。

いかがだろうか?

不勉強のわたくしは他にどのような御文があるのか知らないが、少なくとも諫暁八幡抄の御指南は神社に神がいる、もしくは還って来る、という意味ではない。あくまで大聖人のましますところにやって来るのである。それを神社に還って来るかのごとく解釈するのは完全なる誤読である。

日興上人が明らかにしたごとく、いずれは広宣流布が実現し垂迹還住の時が来る。ゆえに、それまでは参詣禁止とすべきなのである。

2013/9/12

一挙掲載  
2013/9/9 16:31
投稿者:前田
巌虎さん、こんにちは、

でも、「論客」ではありませんよ。
どなたかと混同されている。

さて、1000字じゃ、3等分します。
まず、その1です。

仰るとおり、善神は天にのぼって国の守護を放棄するという、善神捨国思想をさして一般に神天上法門ですね。

 しかし巌虎さん、この法門は善神捨国の一面性のみではないでしょう。
これだけでは、諸天加護は期待できないのかなと。

そうではなく、それだけではなく、大聖人が『観心本尊抄』に示されたように、

末法という善神捨国の日本に地涌の菩薩(本化弘通者)が出現して、法華経の真髄たる五字の要法を弘めるから、
守護の善神は還り来たり、弘通者を守護するであろうとの確信をいだかれていますでしょ。(還り来たりです)

更には『法門可被申様之事』(48歳)に、日本の諸神の中で八幡大菩薩をもってその代表とし、その八幡も件む処がないから天に昇ってしまったが、

正法の弘まるのを見れば、当然その弘通者のところへ還帰するという訳でしょう。(還帰する)

そして聖人が文永八年(一二七一)九月一二日竜口ヘ赴く途中、
鶴岡八幡宮の前で「八幡大菩薩に最後に申すべき事あり、とて馬よりさしおりて高声に申すよう。

いかに八幡大菩薩はまことの神か」と叱咤したという、

いわゆる八幡社頭諫言であるが、これなども八幡の来下在社を確信していたゆえの発言であろうと思われます。

「悪鬼邪神」、相手では有り得ませんものね。

さらに、のちの弘安三年(一二八〇)一一月一四日社殿を焼いてしまった八幡ではあるが、

「此大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給ふとも、法華経の行者あるならば其所に栖み給ふべし」と述べ、

「擁護来下を強調」され、悪世末法の謗法充満の悪国には善神は捨国上天してしまうが、

この時に当って救世の大導師が出、法華の正法を弘めるならば、諸天善神も還帰擁護するとされている。

 ただ、この法門についての直弟たちの記述は少ないですよね。(つづく)

2013/9/9 16:35
投稿者:前田
その2です。

聖人滅後の白蓮日興の『原殿御返事』に、南部実長の三島神社参詣問題が記されているようですが、

即ち日興師は日頃から「此国に守護の善神無と云事」と指導していたのでしょうが、

実長が鎌倉在勤中諸弟子から聞いたところでは、「諸神此国を守り給ふ尤も参詣すべく候」と教えられていたので、

三島神社に参詣しても謗法罪にならぬであろうと考え、それを実行しようとしたのでしょ。(詳しくは無いのですが・・・)

日興師はこの実長の行為を聞いて、弟子の越後房を使いとして思い止めようとした。

そこで聖人滅後ではあるし、困り果てた実長は、その当否を民部日向師に聞く。

日向師は「守護の善神此国を去と申す事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨外典読に片方を読て至極を知らざる者にて候、

法華の持者参詣せば、諸神も彼社壇に来会すべく、尤も参詣すべしと」と答える。

おそらく先に述べた鶴岡八幡宮の炎上事件に関連して述作されたであろう『諫暁八幡抄』の旨をもって、実長の行為を認められたのかな。

要するに日興師は捨国面を強調して擁護面を無視してしまいます。
日向師は捨国のことはもちろんであるが、擁護の面のあることも忘れてはならぬ、

とそれぞれ主張しているのではありませんか。

「宮には善神がいるのか、それとも、邪神がいるのか」と問われれば、天照神も八幡神も、今、神社に居ますよ」と御書にあるわけです。

>「正法を行ずるものにしるしなし。還って大難に値ふべし。金光明経に云く「善業を修する者は日々に衰減す」等云云。

正法行者が守護されていない理由(わけ)をこのように説明するのですが、

しかし、これだけでは、正法行者への諸天の加護は期待できない事になってしまいませんでしょうか?

「法華経の行者あるならば其所に栖み給ふべし」でしょ。
法華の正法を弘めるならば、諸天善神も還帰擁護するとされている事が。

大事なのではありませんでしょうかね。(つづく)

2013/9/9 16:41
投稿者:前田
その3です。

>「聖人御在生九箇年の間停止せらるゝ神社参詣其の年に之を始む、二所三島に参詣を致せり

>この記述自体がウソであり、まったく信用できないものなのだろうか?

巌虎さん、そこまで言い切るほどの確証がありません。

さりとて、当時の御家人が果たして、貞永式目(御成敗式目)に違背する「九箇年の間停止」等が許されたのであろうかとも、考えています。

日蓮ご在世の頃の鎌倉の有力檀那方も、鎌倉幕府のシンボルとも言うべき鶴岡八幡宮への参詣は当然の義務として行っていましたでしょ。

将軍家や幕府の重要な儀式は鶴岡八幡宮で行われる習わしになっていたようですね。

もはや「信仰」 と言う次元での御話ではなく、言わば義務化した鎌倉御家人の慣習ですね。

御成敗式目の第一条が神社参拝(趣旨)、第二条が仏閣の参詣(趣旨)でしょ。

南部実長は甲斐源氏の諸流の名門の豪族ですよね。
二所の権現・三島明神は鎌倉幕府の創始者である源頼朝所縁(ゆかり)の神社であり、

南部氏が源氏であることを考えれば因縁浅からず。
加えて、南部氏が源氏諸流の地方豪族の御家人という立場を考えれば、

二所の権現・三島明神への参詣寄進は当時の武家社会の常識に照らせば当たり前の事だと言えますでしょ。

日蓮門下には鎌倉幕府に仕える有力御家人が数多くいましたが、

日蓮大聖人ご自身が彼らを「謗法」呼ばわりした事は一度も聞いた事がありませんでしょ。

それどころか、彼らの立場を思いやる言葉が遺文に多く見受けられますね。

むしろ「仏主神従」の基本さえ違えなければ『貞永式目』の法度を法義遵守と言うのが大聖人ではないでしょうか?

信徒一人一人の社会的立場を殊の他に尊重されていたとの認識であります。

相も変らぬ、拙文ですが、上った善神はいつ神社に帰り、巌虎さんや、「題目講」おぼしき、沖浦さんを守護するとお考えでしょうか。

「釈尊の弟子」と「釈迦仏の弟子」の違いを質問したいのだけれども、ま、そのうちにということで。

以上です、
ありがとうございました。

2013/9/9

前田氏再臨  
すっかり秋めいてきた今日この頃であるが、そこにめずらしい人が登場した。かれこれ四五年ぶりだろうか?

2013/9/8 15:47
投稿者:前田
秋ですね。突然、失礼致します。

時間の許す時で結構ですが、末法にのみ出現すると言うものすごい数の「じゆの菩薩」について、教えてください。

釈迦仏の一番弟子(本化菩薩)ですか?じゆの菩薩ですか?
沖浦氏、巌虎氏、池田氏、並びに浅井氏各位は。


それから、お釈迦様に「巌虎氏、沖浦氏を護ります」と誓った神々は、彼らがまだ、生きて布教しているのに、神社を捨てて、天に上ったのかなあ。

神社には神々がいなくなったのは何時の頃なのかなあ?
少なくとも、大聖人ご在世には、居ましたよね、善神。

「新尼御前御返事」54歳御作(学会版906頁)より

「・・・・さればこの太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房の国東条の郡にすませ給ふか。

例せば、八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中ごろは山城の国男山(おとこやま)に移り給ひ、

今は相州鎌倉鶴が岡に栖(す)み給ふ。これもかくのごとし。」・・・引用おわり、

大聖人滅後に「神社にゃ居ない」なんて困らす人が居ましたよね。

後世、この人が唯受一人ですって?

日蓮宗末席信徒の前田 拝


日蓮宗の代表的論客である前田氏と議論が出来るとは光栄であるが、前置きは抜きにして、さっそく本題に入ろう。

大きく分けて二つの問題提起をしておられるように思える。

釈迦仏の一番弟子(本化菩薩)ですか?じゆの菩薩ですか?
沖浦氏、巌虎氏、池田氏、並びに浅井氏各位は。


これが一つ目の問題提起である。やや意味不明のようにも感じられるところだが、たぶん婉曲な形での日蓮本仏論批判なのだろう。ようするに、創価学会でも顕正会でも地涌の菩薩のことをよく口にするわけで、我々は地涌の菩薩の一分である、というようなことが、それぞれの組織で言われているわけだ。ゆえに前田氏は問うわけである、だったらアンタたちは釈尊の弟子だよね?と。

顕正会員らしい回答(?)を示しておこう。まずは御書を引用する。

日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。

諸法実相抄である。ここでの釈尊とは本因妙の釈尊すなわち日蓮大聖人の御事とするのが顕正会の解釈である。つまり、我々は久遠元初以来、大聖人の弟子なのだ。

二つ目はいわゆる神天上法門に対する疑義である。なるほど、ここ一連の拙ブログを踏まえたタイムリーな問題提起だ。

大聖人滅後に「神社にゃ居ない」なんて困らす人が居ましたよね。

これはたぶん日興上人を揶揄するものなのだろう。しかし、前回前々回の拙稿を読めば、日興上人の御指南にも相応の根拠がある、すなわち己義ではないことがわかるはずであるが、この点はいかがだろうか?

神社には神々がいなくなったのは何時の頃なのかなあ?
少なくとも、大聖人ご在世には、居ましたよね、善神。


順番が前後してしまったが、前田氏はこの根拠として新尼御前御返事を引用している。その上で日興上人の言っていることは己義だと断じているわけだ。

では、前田氏は立正安国論の御指南をどのように拝するのだろうか?

又守護神此の国をすつるゆへに現罰なきか。謗法の世をば守護神すてゝ去り、諸天まぼるべからず。かるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし。還って大難に値ふべし。金光明経に云はく「善業を修する者は、日々に衰減す」等云云。悪国悪時これなり。具には、立正安国論にかんがへたるがごとし。

これは開目抄の一節であるが、御文に明らかなごとく、安国論と同意である。

つまり、大聖人がこのようにおっしゃっている以上、日興上人一人を悪者には出来ないのだ。さしあたって、新尼御前御返事と安国論との整合性をどのように取るか、ぜひとも前田氏の見解を披露願いたい。

せっかくなので、もう一つ質問を設けたい。

聖人御在生九箇年の間停止せらるゝ神社参詣其の年に之を始む、二所三島に参詣を致せり

前田氏の見解を伺いたい。もしこれが事実ならば、南部六郎入道はなぜに神社参詣を停止していたのか、である。

それとも、この記述自体がウソであり、まったく信用できないものなのだろうか?

2013/9/7

謗法行為のボーダーラインについての私見  
相変わらず話が噛み合っていない。閲覧者たちはあきれていることだろう。あるいはいつものことなので、気にも留めていないかもしれない。

しかし、事は重要である。

日興上人が己義にあらずと仰せられたことに対し、沖浦氏はまるで見当はずれのことを言っている。わたくしは己義ではないことを論証したつもりだった。しかし、沖浦氏はそれをまったく理解できていないようである。

わたくしは何も、唯授一人の日興上人が己義ではないとおっしゃっているのだから己義であるはずがない、などと強弁しているわけではない。上人の当該御指南と立正安国論の御指南が事実において一致・符合していることを示したのだ。前回のおさらいとして、二つの御指南を掲げておこう。

謗法を致せる悪鬼乱入の寺社

世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。

見事な一致・符合である。

せっかくなので、木画二像開眼の事からも引用しておこう。前回とは違う一節である。

今の木画二像を真言師を以て之を供養すれば、実仏に非ずして権仏なり。権仏にも非ず、形は仏に似れども意は本の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり。

ここにも悪鬼乱入の原理が明快に示されている。

さて、もはや決着はついたも同然であるが、ここで自分自身に宿題を課しておこう。都合の悪い御書があるのだ。

こくうざう菩薩にまいりて、つねによみ奉らせ給ふべし。

聖密房御書である。ちなみに清澄寺大衆中にも同趣旨の御文が存在する。

虚空蔵菩薩の御前にして大衆ごとによみきかせ給へ。

清澄寺は謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に当たらないのか?

もしご存知の人がいれば、ぜひともご教示願いたいと思うが、ともかく現時点におけるわたくしなりの考えを示しておこう。

意外というべきか、あるいは当然なのか、大聖人は諸仏・諸経を頭ごなしには否定していないのだ。そして前回も紹介したごとく、大聖人は神道を頭ごなしには否定しないのである。それぞれの具体的な事例を次に掲げておこう。

女人の御身としては南無妙法蓮華経と一日に六万十万千万等も唱へて、後に暇あらば時々は弥陀等の諸仏の名号をも口ずさみなるやうに申し給はんこそ、法華経を信ずる女人にてはあるべきに・・・

法華題目抄である。消極的ながらも諸仏を肯定していることは明らかだ。

予、事の由ををし計るに、華厳・観経・大日経等をよみ修行する人をば、その経々の仏・菩薩・天等守護し給ふらん。疑ひあるべからず。

開目抄の一節である。これも大意としては消極的なのだが、部分的にはかなり積極的とも拝せられるところである。何しろ、疑いあるべからず、だからだ。

かゝる不思議の徳まします経なれば此の経を持つ人をば、いかでか天照太神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩すてさせ給ふべきとたのもしき事なり。

上野殿母尼御前御返事であるが、これはもちろん議論百出というか、解釈の分かれるところだろう。公平に見るならば、確かに沖浦氏の主張する神社での読経・唱題を肯定するフシが窺える御文であり、決して簡単ではない。

以上の三文に拝するごとく、案外に大聖人は諸経・諸仏に寛容であり、神道に対してもあながち否定的ではないことがわかるのだ。

さて、どうしたものか・・・

この解決方法は次のキーワードに集約されるのだと思う。

謗法を致せる悪鬼乱入の寺社

前掲の開目抄に明らかなごとく、諸仏・諸菩薩にも力がある。霊験があると書いたほうがわかりやすいだろうか?

しかし、そこには条件があるのだ。

すなわち、謗法か否か、である。

ここで安国論の御指南を踏まえるならば、謗法とは正に背き悪に帰すことである。それによって聖人善神が去ってしまい、かわって悪鬼が乱入して来るのだ。

法華題目抄は消極的ながらも念仏肯定の意味が拝される。しかし、大聖人の御化導全体からすれば、異例中の異例である。なぜならば当時の念仏は謗法だからである。いわば法華経を全否定した上で念仏を立てた。これは明らかな謗法である。禅も真言も同様である。ひるがえって神道の場合は案外に謗法色が弱いようにも思える。念仏・真言・禅・律などに比べれば、はるかに謗法色が薄い。我々は仏教・非仏教という枠で捉えて、むしろ仏教各派にヨシミを感じて、逆に神道を敬遠するようなフシがなきにしもあらずであるが、しかし、もしかしたらこれは大きな勘違いかもしれないのだ。

いよいよ話がややこしくなってきたが、わたくしは十章抄の御指南を結論としたい。

 当世の念仏は法華経を失う念仏なり。設ひぜんたりとも、義分あたれりというとも、先づ名をいむべし。

これは当然ながら真言にも禅にも当てはまるし、神道にも応用してしかるべきである。もし大聖人の仏法を失うものであれば、それは忌むべきなのだ。

愚者は智者の念仏を申し給ふをみては念仏者とぞ見候らん。法華経の行者とはよも候はじ。

先の法華題目抄の御指南を異例中の異例と書いたのはこのためである。やはり、こちらが本筋だろう。そして、この応用が神道にも当てはまるのだ。仮に法華講員でも創価学会員でもいい。あるいは顕正会員でもいいだろう。なぜか足繁く神社の鳥居をくぐる姿が目撃されていたとする。これはもう大問題だ。もし仮にそこで読経・唱題をしていたとしても、問題であることには変わりない。鳥居をくぐっている。すなわち神社に参詣しているという姿が問題なのである。こうした誤解を与える行為そのものが問題なのである。

たとい善たりとも、義分当れりというとも、先ずはそうした行為を忌むべきなのだ。

以上、謗法を致せる悪鬼乱入の寺社をどのように規定するかを考えると、そのボーダーラインの引き方がひじょうに難しくなってなかなか結論が出せなくなるが、十章抄の御指南に従うならば、わざわざ誤解を招くような行為をすべきではないことは確かだろう。


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