2013/10/28

虚々実々の日々  
お二方よりコメントを頂戴しているが、今日は割愛させていただいて、さっそく本題に入ろう。

細胞が蘇生し腎臓病が驚異的回復
「仏法には本当に凄い力がある」と医師

顕正会員の功徳、医師間でも話題に


不当捜索特集号の八面の記事である。これは男子部の班長さんが発表しているわけだが、では、彼の驚異的回復を目の当たりにした医師が入信したのかと言えば、そうではないようである。立場上、入信できないと。

これはおかしいだろう。数号前の記事では医者が入信しているのだ。わたくしはその時、本当だろうかと疑ったわけだが、今度もまたイチャモンをつけたい。ようするに今は広宣流布の最終段階なのだろう。だったら立場上などという言い訳は通用しない。どのような立場の人もどんどん入信しなければおかしいのだ。

記事は冗談めかして面白おかしく書かれているが、もし医師間で話題になるほどのことであれば、冗談じゃ済まなくなるはずだ。それこそ科学的な解明が求められるところであり、その結果によっては爆発的に弘通が伸びることになるだろう。それこそ一気に広宣流布が達成されるかもしれない。

ポジティブ思考が病気を治す、という意味のことをよく耳にする。

信仰者が不治の病を克服したという話は、まさにこのポジティブ思考によるのだろう。すると顕正会員の場合もこのようなメカニズムによるものだと、おそらく医者たちであれば考えるはずである。今、もっとも元気(?)な教団であるところの顕正会は自ずと目立つ。たぶん、他の信仰をしている人と顕正会員とを客観的に比較したならば、病気の治り具合にそれほどの差異はないのではないかと思う。いや、わたくしがそう思うのではなく、医者たちがそう思うのだ。今は顕正会が盛んなので、ひじょうに目立つ。目立つ分、上掲の体験発表のようなケースに遭遇する機会が多い。おそらくはこれがカラクリだろう。

つまり、医者たちは顕正会員だけが突出して驚異的な回復を示しているとは思っておらず、どの信仰においても同様の効果があると考えている。だから入信するには至らないのだ。

「三大秘法抄は偽書」「身延は正しい」
  ここまで信心が崩れた正信会住職


男子部支隊副長の活動報告であるが、詳しい内容については立ち入らないことにする。

わたくしは真偽問題について偉そうなことを言える立場ではないが、上掲のような活動報告を目にするたびに思うことがある。どうせならば顕正会で三大秘法抄の真偽論に取り組んでみたらどうかと。ようするに、これまでのパターンはいつも同じであって、誰々が三大秘法抄を偽書だと言った、これはケシカラン、大悪言だ、と言っているに過ぎないのである。三大秘法抄の偽書説を道理をもって粉砕したという話は、今まで一度も聞いたことがないのだ。

もし顕正会が同御書の偽書説を学術的に批判し、かつまた学術的に真書たることを論証したならば、これはもう評価が大きく変わることだろう。少なくともカルト教団との汚名は返上することが出来るに違いない。

顕正新聞社別館 工事急ピッチ
地上10b、堂々の威容を現わす


掲載写真を見て、あれ? 足場がないぞ? と思った。たぶん無足場工法なのだろう。あるいはこれから足場を組むのかもしれない。

御書には、まず建物を建てる前に足場を組んで、建物が完成したら足場を撤去する、という意味が書かれている。その意味で掲載写真には違和感があるけれども、まあ、しかし、こんな角度から論ずる人はいないだろう。わたくしは変わり者なので、人とは違った角度から物事を見ることが出来るのだ。

最後に、当該号には女子部大会についての諸注意が書かれているけれども、これは婦人部大会の時とほぼ同じ内容なので、特に申し上げることはない。いよいよ大会が迫ってきた。一週間後が大会当日である。

2013/10/27

戦々恐々の日々  
のび太氏のコメントは、珠玉の短編とでも言うべきか、何とも味わい深い小品である。文は人なりである。まさに氏の人柄がよく出ている文章だと思う。

んっ?氏が沖浦氏に批判的であるのは今さら驚くに値しないが、しかし、今回のコメントは難し過ぎる。たぶん、これで充分通じるということなのだろう。想像するに、表面をどれほど取り繕うとも沖浦氏の本質は修羅界である、と言わんとしているのだと思う。

まあ、しかし、わたくしのつもりを言えば、前回の拙稿の主眼は別のところにあるのだ。ようは顕正会員の不甲斐なさを言わんがために、沖浦氏と法華講員との関係を引き合いに出したのである。

 私は素直に尊敬致します。

沖浦氏の言葉である。誰を尊敬するのかと言えば、沖浦邸に乗り込んでいった法華講員たちを尊敬すると言っているのだ。これは並の創価学会員には言えないセリフだろう。ゆえにわたくしは感銘を受けた。

しかし、これは話の前置きに過ぎないわけであって、法華講員はかくのごとし、しからば顕正会員は如何? という文脈なのである。

残念ながら、今のところ沖浦氏に挑む勇敢な顕正会員はいない。これでは広宣流布の最終段階などと言えた義理ではないだろう。

もっとも、以前どこかに書いたと思うが、ネット上の情報を頼りに沖浦氏にアプローチするような顕正会員はいないかもしれない。成果主義の顕正会においては、成果になりそうもない折伏はやらないのだ。沖浦氏のような難物(?)はハナッから相手にしないのが得策なのである。

ゆえに、あるとしたら婦人部や女子部の人が諫暁書や顕正新聞を携えて訪問してくることである。いや、もちろん、男子部もあり得るが、いわゆる訪問折伏に熱心なのは圧倒的に婦人部・女子部である。この場合、沖浦氏を有名人として認識せずに訪問することになるだろう。

それが現実となるのは、いつのことだろうか?

2013/10/27 2:51
投稿者:昔の名前
こんにちは

私に顕正会批判をしなければならないと言う義務はありません かなり突っ込んだ見解を期待したが肩透かしを食ったと言う感想を述べたに過ぎません
名前の呼び捨てなどは社会常識の範疇であり 顕正会の程度が知れると言うだけの事です
ケチを付けた だったらお前がやって見ろ に至っては空いた口が塞がりません
顕正会の折伏に問題があり それに対し創価学会が対策を立てたのなら それ自体は陰謀でもなんでもありません
創価学会の陰謀と言う根拠の無い仮説からの不当捜査
顕正会の折伏の問題点はしかし不当捜査に繋がるほどの事では無いと思わせる
上手い誘導なんでしょうか 私も書いてて面倒くさくなってきました


う〜ん、今回もいろいろ書きたいところだが、一つに絞ろうと思う。

上手い誘導・・・

この点を詳しく説明願いたいのだが、いかがだろうか?

またしても義務はないなどと、一蹴されそうだが・・・

さて、今日は顕正新聞第1289号の話題であるが、まずは見出しをいくつかピックアップしよう。

「顕正会は本物だ、先生は凄いお方だ」
 顕正新聞に感動し元学会員が入会

一市民を装い警察通報の学会員
「k対策」通りの謀略 この目で見た!

学会による洗脳 完全に解ける
「五体満足…」「押しかける」は学会の常套句

「立正安国」特集号に命震え入会
 先生お一人が御遺命を死守された!


さすが特集号だけのことはある。創価学会関連の記事がたくさんあるのだ。

三つ目の記事が目を惹いた。

創価学会からの入会者はそれこそたくさんいるが、どうも最近は高齢の創価学会員が入会してくるケースが目立つように思う。ところがくだんの記事は写真を見る限り三十前だろうか、あるいは二十代前半くらいにも見える若き青年が書いているのだ。男子部所属の平会員である。九月二十日に入会したそうなので、その意味では平会員でもおかしくないだろう。

それにしても、よくもまあ、うまいタイミングでこういう人が出てくるものである。細かい内容については省略するが、特集号に相応しい、ひじょうに効果的な記事だと思う。

 学会三世の家系に生まれ育った私にとって・・・

あえてツッコミを入れるとしたら、ここだろう。学会三世の家系って何だろう? ヘンな言い回しだ。たぶん、祖父母の代に創価学会に入って、自分は三代目に当たると言いたいのだろう。まあ、しかし、ある意味ではうまい要約なのかもしれない。わたくし自身、文章を書いていて表現に悩むことがしばしばある。ようは簡潔に書きたいのだが、説明が足りないと誤解を招くと思って、あれもこれもと書き加えてしまう。すると、結局はややこしい文章になってしまうのだ。実は毎回、この格闘を繰り返している、それが拙ブログの舞台裏である。

さて、話を戻そう。彼は選挙活動に疑問を持っていたものの、創価学会はやめなかった。その理由は次のごとくである。

 そのような中で、私が学会で信心を続けた理由は、家族・親戚・地域の人間関係というしがらみだけでした。

先日も書いたごとく、自らの意志で入信したわけではない人がかくも消極的であるのは理の当然であろう。

 しかしそのような私にも転機が訪れました。

ミカツ会員が何かのキッカケで熱心な活動会員になる。当然、創価学会の中でもそのようなケースはたくさんあることだろう。しかし、彼の転機は別の方向を示すものだった。

 それは本年八月、たまたま七月度総幹部会における浅井先生の御講演を拝聴したときのことです。

まさに特集号に打って付けの記事である。

創価学会員には腹の立つ記事であり、それを取り上げる拙ブログにも腹を立てているかもしれないが、そこはご容赦願いたい。

わたくしが注目したのは他でもない、いったい彼はどこで総幹部会の会長講演を視聴したのか、という点である。

従来は、顕正会員から折伏される、入会を拒む、せめてビデオ放映には出てみようと誘われる、それくらいならばと参加する、そこで正義にめざめる、というパターンが一般的だった。ところが当該記事を読む限り、顕正会員と接触する場面がどこにも書かれていない。これは不思議な話である。では、どうやって、会長講演を視聴したのだろうか?

わたくしの推測というか、おそらくは誰もが思うだろう、これはネット上の動画サイトを観たのだと。

そこで今日の結論である。

顕正会は公式ホームページを持っている。だったら、そこで動画を公開すればいいのだ。インターネットの影響はとてつもなくデカイはずである。ゆえに、先生の講演をもっと積極的に公開していけば、くだんの青年のように自ら入信ないし入会を申し出る人が次々にあらわれるに違いない。

謀略情報の渦巻くネットの中で、それらをかいくぐり、正しい情報にたどり着くことの難しさは、すでに多くの人が承知するところである。だからこそ自分の判断力を駆使して真実を見極めたいと、このように考える賢明な人たちも少なからずいるのだ。

しかるに顕正会の公式サイトは情報発信の意味で、ほとんど機能していない。

特集号の大量配布もけっこうだが、同時にネット上にPDF版の特集号を出すという手もあるだろう。動画もどんどん上げていく。その気になれば、いくらでも打つ手はあるのだ。

2013/10/25

暗中模索の日々  
各方面より種々のコメントを頂戴している。

 顕正会は脅威でもなんでもございません。

これは前回の拙稿とまるで噛み合っていない。沖浦氏にとって顕正会は脅威でも何でもない。これはまったくそのとおりである。ゆえにわたくしは、ギリギリの最終段階などと、あたかもゴールが目前のごとく言っている顕正会を批判したのである。沖浦氏が脅威に感じていない今の段階ではとてもゴール目前とは言えないだろう、氏が脅威に感じるようになるかならないか、それが一つの目安だと書いたのである。

以前、沖浦氏は法華講員と丁々発止の議論をしていた。それがいよいよ高じて、対面法論に至った。引き続き、質問会なるものが行なわれた。

その後、沖浦氏がどこかに書いていたものを読んで、わたくしは感銘を受けた。氏は敵であるはずの法華講員を称えていたのだった。ある意味、これは勝負の世界のマナーなのかもしれない。スポーツなどでは勝敗の決着後、お互いの健闘を称え合うような場面がよく見られる。勝って驕らず負けて腐らず。口で言うのは簡単だが、実際には複雑な心境だろう。そこを紳士的に振る舞うことが出来るのが一流のアスリートなのだ。対面法論の結果がどうだったかは何とも言えないところであるが、ともかく沖浦氏が相手を称えていたことはひじょうに好感の持てることだった。

その意味で、沖浦氏が顕正会を評価しないのは当然のことなのかもしれない。戦っていないからである。もし顕正会員の誰かが沖浦氏と直接戦うことになれば、おそらくは評価が変わるはずである。きっと沖浦氏ならば、勝敗にかかわらず相手を称えるに違いない。

いずれにせよ、公安も顕正会も、共にこのままでは終わらないような気がしますので、今後の展開を見守りたいと思います。

桜月氏のコメントから結論部分だけを引用させていただいた。

このままでは終わらない・・・

顕正会側としては公権力と真っ向勝負に出るような考えはないはずである。不当捜索特集号の大見出しに、警視庁の仏法弘通妨害は憲法違反、とあるのがその答えであって、ようは顕正会の折伏を邪魔しないでほしいと言いたいだけなのだ。実現するかしないかは別問題として、とにかく折伏弘通を伸ばしていって、当面は二百万、そしていずれは六千万を達成すること、それだけが目的なのである。邪魔をされたので抗議した。単純化すれば、ただそれだけの話なのだ。

一方の警察側はどうなのか、それはわからない。わたくしにはまるで想像がつかない。もし、このまま終わらないとしたら、次の一手は何か、それが気になるところである。

次の一手は会長逮捕?

結局、現場の顕正会員を逮捕したところで、どうにもならないだろう。顕正会が折伏をやめない限り、同じことが繰り返されるのだ。すると、行き着くところは会長逮捕しかない。

あるいはその前段階として、末端ではなく本部中枢の誰かが逮捕されるのかもしれない。

たとえば城衛が逮捕されるとしよう。そこで浅井先生も折れるのだ。折伏をやめてしまう。いや、さすがに急にやめるわけにはいかないが、いずれにしても折伏誓願を大幅に縮小することになる・・・

いやいや、そんなことはあるまい。武闘派の浅井先生がそんな簡単に折れるとは思えない。ますます逆上(?)して、大折伏をやるのではないかと思う。

警察側も打つ手がないというか、たぶん頭を悩ましているはずである。

ようは違法性があまり見出せないのだ。顕正会が何か社会的不正をやっていれば、そこを狙えばいい。しかし、基本的には折伏のトラブルしかなくて、折伏そのものは憲法に保障された純然たる宗教上の行為であると顕正会は主張しているので、迂闊には手を出せない。結局は個々のトラブルに対処するしかないのだ。

また、これは妙な話だが、顕正会が暴発することを期待している人がいるのかもしれない。暴発すれば、そこで終了である。ゆえに、そういう方向に追い込んでいくことを考えるのも一つの手ではあるが、しかし、もし警察側がそんなことを本気で考えているとしたら大問題だろう。それこそ本末転倒である。犯罪を未然に防ぐのも彼らの仕事のはずである。ゆえに暴発させてはいけないのだ。

以上、我ながら荒唐無稽な想像を書いてしまったものだが、いずれにしても警察側が何を狙っているか、わたくしにはまったくわからない。しょせんは個々の事案を一つひとつ処理していくだけのことであり、何か大それたことを狙っているとか、そういうサプライズはないような気がするのだが、いかがだろうか?

2013/10/24 1:07
投稿者:昔の名前
これが私の結論…ですか

ごめんなさい 全く顕正会批判になっていません
まず創価学会 次に顕正会 何故この順番だったのか
厳虎さんほどの方です 寄せられるコメントは計算通りだったのではないか
創価学会云々にかかわらず顕正会の折伏に問題があることは
今更結論づける程の事ではありません

予測はしていましたがこれが結論ではがっかりです

ちなみに 本末転倒と言ったのは厳虎さんの事では無く 顕正会の事です


拙ブログは各方面からさまざまのコメントが寄せられる。ゆえに失礼ながら投稿者の立場がどういうものか正確には把握していない場合が多い。上掲の人物についても今まではよく知らなかった。しかし、どうやら鮮明になりつつあるようだ。

全く顕正会批判になっていません

いろいろ申し上げたいことはあるが、話が面倒臭くなるので、一つだけにしておく。

そこまでおっしゃるのならば、ぜひともお手本を示していただきたい、ということだ。

ケチをつけるのは簡単だけど、いざ自分がやるとなるとけっこう大変・・・誰もが経験上よく知っていることだと思う。

「カードゲームをやろうとの口実で飲食店に呼び出した」
と報道していた部分は誰も否定していませんでしたよね!


これは知らなかった。カードゲーム云々の報道が事実ならば、なるほど、これは街頭折伏の疑いが濃厚である。ご承知のとおり、顕正会では街頭折伏を禁じている。ゆえに、それでトラブルになったのであれば自業自得である。もちろん、これと家宅捜索が不当か否かは分けて考えなければいけないが、しかし、いくら相手の不当を訴え、自らの正義を叫んだところで、この部分を覆い隠していては説得力に欠けるだろう。

2013/10/24 17:17
投稿者:伊吹山
検索エンジンで池田と書けば池田大作は上位にくるけど浅井と書いたらも浅井昭衛はどこにもない小物ですね。


思い出した。たぶん書いていないと思うが、あるいはすでに書いてしまったことかもしれない。

浅井先生は無二の師匠か?

ずいぶん前にこのタイトルで一文を書く構想があった。当時、浅井先生で検索すると、いろいろな浅井先生がヒットしたものだった。それはそうだ。世の中には浅井を名乗る人がたくさんいて、当然、その中には教師や医師もたくさんいる。ゆえに、必ずしも顕正会の浅井先生が検索上位でヒットするわけではなかった。

そこで当時の結論は、浅井先生は無二の師匠にあらず、というものだった。だって、浅井先生ってたくさんいるんだもの、だから無二じゃないよね、ということだったのだ。

ところがたった今、検索してみてビックリ仰天した。なんと、顕正会の浅井先生が検索上位をほぼ独占する状態なのである。

浅井先生も有名になったものである。

2013/10/23

顕正会側の問題点を衝く  
ドリン氏よりお励ましの言葉を頂戴したので、今日はそれを原動力に書きたいと思う。

なお、沖浦氏からのコメントには、もはや宗門は脅威でもなんでもない、いわんや顕正会をや、という意味のことが書かれているが、これは地域差が激しいのだと思われる。宗門はいざ知らず、顕正会の場合は地域によって盛んなところもあれば、その逆もある。たまたま沖浦氏の場合は顕正会員と接触する機会がなく、よって脅威に感じることもないのだろう。

ギリギリの最終段階・・・

これは最近使われ出した顕正会における流行り言葉であるが、しかし、沖浦氏のような人がいる限り、まだまだ最終段階には程遠いと言わざるを得ないだろう。沖浦氏が顕正会に脅威を感じるかどうか、さしあたってはこれが最終段階かどうかの目安になるかもしれない。

ということで、今日は顕正会批判を書く。

不当捜索と戦って――九月度総幹部会より

男子部第四十隊支隊副長 石原重臣


顕正新聞第1289号、いわゆる不当捜索特集号の五面に掲載されている記事である。今回、あえて個人名を記したが、これには意味がある。拙稿を読み進めていただければ、自ずと判明するだろう。

ニュースでは本部会館をはじめとして合計五ヶ所の顕正会施設に家宅捜索が入ったと報じていた。わたくしは映像を見て、本部会館と東京会館を確認した。それから千葉会館も確認したが、これは家宅捜索とは別の機会に、テレ朝が撮影したものだった。

本部会館・東京会館・神奈川会館・二名の顕正会員宅

どうやら五ヶ所は上掲のごとくである。会長講演に記述がある。

会館はまだしも個人宅に捜査の手が伸びるとは・・・

すでにご承知のごとく、二名のうちの一人がくだんの男子部支隊副長である。彼は事件の当事者であり、今回の一件を不当捜索であるとして、正々堂々と総幹部会の場で事件の顛末を報告している。この点、まことに立派である。

ここでは家宅捜索の様子を一部紹介しておこう。

 警察官らは私の部屋に入るや、顕正新聞や書籍類等の顕正会に関するものは勿論、何を思ったのか、母親や妹が使用している、私とは一切関係のないパソコンまで押収し、挙げ句、私は警察車両に乗せられて、神奈川の自宅から都内の警察署へ押送されたのでした。

母・妹のパソコンも押収・・・

これは堪らん話だ。顕正会の活動会員はある意味、覚悟が出来ている。過去にいくつもの逮捕事件を経験しているので、いつかは自分がそういう場面に遭遇するかもしれないことを、多少なりとも覚悟しているのだ。しかし、無関係の母や妹のパソコンまで押収されるとなると、堪ったものではないだろう。彼女たちが顕正会に入信していて、熱心な活動会員ならばまだしも、そうでなければ大顰蹙かつ大迷惑である。

ここは警察の横暴ぶりを如実に示すところだと思う。

それからもう一つ、警察とマスコミの問題点を浮き彫りにする、きわめてわかり易い事例が以下である。

 そして何とも許し難きは、全国で流されたニュース報道の内容でありました。
 私は強制捜査を受けた九月十一日は一日中、警察署内で取調べを受けていたので、ニュース報道の内容をあとで知ったのですが、私たちが
 「五体満足ではいられなくなる」とか「入信したことを家族に話したら、会員が大量に押しかける」
 といって入信を強要して脅したと報道されておりました。
 これは全くの事実無根・でっち上げであり、私たちはこのような言葉は一切、発言しておりません。
 実際、長時間にわたる取調べの最中、刑事から私に対して、一度たりとも
 「五体満足でいられなくなる」とか「入信したことを家族に話したら、会員が大量に押しかける」
 と言ったか否かを尋問されたことはなく、当然、調書にも同様の記録はされておりませんでした。


少々長いが、よくおわかりいただけることと思う。

もし警察の公式発表をそのまま報道したのであれば、このような齟齬が生じることはあり得ない。いったいマスコミはどこから情報を入手して報道したのか、この辺の事実関係がひじょうに興味深いところである。

さて、ここまでは顕正会側に立って書いてきたわけだが、ここからはいよいよ批判である。石原副長の記事は警察とマスコミの問題点を浮き彫りにする意味でよく書けている。それは事実であるが、同時に顕正会側の問題点もよく浮き彫りにしているのである。以下、本文からの引用である。

 事の発端は本年三月、渡部班長とともに行なった「小林」という男に対する折伏でありました。
 私たちは常盤台のファミリーレストランで小林に対し、御本尊様の有難さ・日蓮大聖人の尊さを諄々と話しました。
 小林は多少の誤解や偏見を懐いていたものの、最後には入信の意志を示したので、東京会館において入信勤行を行なったのでした。
 ところが、なんら事件性もないこの折伏が、半年も経った今ごろ、強要と暴力行為等処罰法違反事件にでっち上げられ、不当な強制捜査を受けたのでした。


またしても少々長いが、顕正会側の問題点を如実に示す段である。

「小林」という男・・・

なんだ、これは?

わたくしの思うに、ここは小林君とか小林さんと書くべきだろう。小林という男では、まるで犯罪者扱いだ。

気持ちはわからなくもない。ようはコイツのせいで家宅捜索を食らってしまったわけで、自分のみならず家族にも迷惑を掛け、さらには顕正会そのものに多大の迷惑を掛けてしまった。すべてはコイツが悪いのだと。

だが、結論はデタラメな折伏をやっているからに他ならないのだ。

少々回り道をしよう。同じ紙面に、「モンゴル集会を開催して」と題する、第三女子部長・モンゴル指導担当の記事が載っている。ここに興味深い記述がある。わかりにくいのを承知しつつも、煩瑣を避けて部分的に紹介させていただくことにする。

未活動のまま集会に参加した多くの人たち・・・

遠方から自発で未活動者を引っ張って参加を叶える人たち・・・


ダメだこりゃ、というのがわたくしの率直な感想である。上掲はモンゴルの話である。モンゴルにも未活動者がたくさんいるとしたら、もはやオシマイだろう。ようするに、顕正会の悪しき体質がモンゴルの地においても受け継がれてしまっているのだ。顕正会の折伏がいかにデタラメであるか、とにかく入信勤行さえ済ませれば一丁上がりなのである。

まあ、しかし、未活動者を信心にめざめさせるという意味において、くだんの記事はいちおう前向きな姿勢を示していると言えるだろう。

そこで話を戻そう。以下は再掲である。

 小林は多少の誤解や偏見を懐いていたものの、最後には入信の意志を示したので、東京会館において入信勤行を行なったのでした。

小林君ないし小林さんは正真正銘の顕正会員なのである。顕正会員であることは疑いのない事実なのだ。何しろ石原副長が上掲のごとく明言しているのだから、これは誰も否定できまい。

おそらくは未活動なのだろう。未活動はすなわち未来の活動家である。

ここに答えのすべてがあらわれている。

すでに述べたごとく、デタラメな折伏をやっているからいけないのだ。小林さんが入信したのは事実だろう。だが、しかし、本当の意味で自らの意志で入信したのかどうか、そこは甚だアヤシイと言わざるを得ないのだ。石原副長らがあまりに熱心なので、もっと言えば強引なので、しぶしぶ入信した。だから、それっきりであり、事実上の即日退転である。

もし入信以降、各種集会に参加し、日曜勤行にも欠かさず出ているのであれば、こんな事態はあり得なかった。

さて、先ほど事実上の即日退転と書いたが、浅井先生は先年、退転者という表現を好ましくないとして未活動と言い直すことを提案した。それ以降、顕正会では安易に退転者という言葉を使わなくなった。つまり、小林さんは未活動者なのであって、その責任はひとえに石原副長らにあるのだ。残念ながら、この点の反省がまったく見られないところが、いかにも顕正会の悪しき体質そのものをあらわしているように思えてならない。

結論はすでに述べたごとく、デタラメな折伏が招いた自業自得果である。

やや重複気味を承知でもう一つだけ書いておくと、デタラメな折伏については次のくだりからも窺えるところだ。再掲しよう。

渡部班長とともに行なった「小林」という男に対する折伏・・・

登場人物は三人である。この記事を書いている石原副長、それから渡部班長、そして小林さんである。

この三人の関係は如何? という点が問われるのだ。

普通に考えれば、小林さんは渡部班長の友人ないし知人のはずである。班長の折伏に副長が同席している。いわゆる応援に入っている図である。あるいは副長の折伏に班長が応援(?)に入る。マレにはそういうケースもあるかもしれない。いずれにしても、小林さんはどちらかの友人・知人のはずなのだ。

もしそうであれば、一定以上の信頼関係にあるはずで、余程のことがない限り、警察沙汰にするようなことはないだろう。

すると、ここで二通りの可能性が出てくる。

折伏の場で余程のことがあった、これが一つ。
そしてもう一つは、もともと信頼関係がなかった。
もちろん、その両方がミックスされたとも考えられる。

いずれにしても信頼関係が最大のポイントである。友人ないし知人であれば、わざわざ事を荒立てることはないだろう。その後のことを考えれば穏便に済ませるのが得策である。しかし、もし友人でもなければ知人でもないとしたらどうか、である。

シツコイようだが、何度でも掲げさせていただく。

「小林」という男・・・

この響きは明らかに、副長の友人・知人ではないことを物語っている。そしてもしかしたら班長の友人・知人でもないのかもしれない。

以前、ゲームセンターで見ず知らずの人を折伏して問題になったことがあった。今回の一件がそうだとは断定できないが、あるいはそれに類似するケースなのかもしれない。

創価学会の謀略かどうか、警察の家宅捜索が不当か否か、あるいはマスコミの報道に問題があるかないか、そんなことにはかかわらず、顕正会の折伏に問題があることは疑いようのない事実だろう。これがわたくしの結論である。

2013/10/22

ボヤキ節  
本稿はタイトルのごとく、単なるボヤキであるからして、多忙の人は読まないほうが賢明だろう。予定では顕正会批判を書くつもりだったが、今回もまた順延である。書く気になれないのだ。

ブログの更新が止まっていることを訝しく思われた人がどれほどいるだろうか?

しかし、以前も書いたが、一ヶ月くらいは大したことがない。それ以上になると、何か問題が発生したのだろうと思われても仕方がないけれども、今回はまだ十日余りだ。

しょせん個人のブログである。

病気・事故などで更新が出来なくなることもあれば、生活上のさまざまな変化によって、更新が難しくなることもある。あるいはもっと単純に、やる気が失せるというケースもあるだろう。
ゆえに拙ブログがいつナンドキ終わりを迎えたとしても不思議はないし、あるいは長期休養に入ったとしてもおかしくはないのだ。
よって今回の場合はまったく驚くに値しないところである。

ただ言えることは、拙ブログもなんだかんだ十年近くやっているので、そろそろオシマイにしてもいいかもしれない、ということは一つの有力な選択肢だ。

さて、話を進めよう。

わたくしの心境としては、出端を挫かれた、といった感じである。前回の文末において、次回は顕正会批判を書くつもり、と書いた。ところがである。コメント欄を読んで、やる気が失せた。

顕○会御ひいきの巌虎さん、事実に基づく賢明なコメンテーターの皆さま、こんばんはです。(笑)

つまり、のび太氏は顕正会対創価学会の構図の中で、あくまでわたくしを顕正会側にはめ込もうとしているのだ。いや、たぶん、氏にはそうした明確な意図があったわけではないのだろう。だが、しかし、わたくしとしては次回は顕正会批判を書くと宣言しているわけだから、そのタイミングで顕正会ゴヒイキなどと書かれたら堪らない。一気に執筆意欲が失せてしまった。

まあ、しかし、創価学会員もつらいものだと思った。ようするに、のび太氏は純粋な創価学会員なのだ。ゆえに、創価学会のことを悪し様に言われれば、黙っていられない。その必然的なものがコメントにあらわれているのだ。

ところが、一方のわたくしは純粋な顕正会員ではない。むしろ逆の人間なのだ。たまたま今回は顕正会側の言い分も相当だろうと思って、かなり擁護的な文章を書いている。それにのび太氏は反応したわけなのだろう。

であれば、提案したい。

のび太氏の活躍の舞台は拙ブログではなく、バーズ氏のブログなのではないかと思うのだ。そこでこそ創価学会対顕正会のガチンコ勝負が可能のはずである。

 創価学会は顕正会など歯牙にもかけていませんよ。

この手の意見はよく耳にするけれども、実際は違うわけだろう。何しろ過去には妙信講作戦があって、今はK対策である。しかもバーズ氏の直近のブログには顕正会ハンドブックのことが書かれている。これは傑作だ。

http://byrds-hakase.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-d7a1.html

当該のコメント欄も併せて読むといいだろう。

これらを踏まえると、やはりどうしても創価学会は顕正会との真っ向勝負を避けているとしか言い様がないわけなのだ。

一般的軽犯罪に対する検察の実務からすれば、微罪案件は逮捕報道による
社会的制裁を考慮して「起訴猶予」で済ませるのが実情でしょう。


ずいぶんテクニカルな議論であるが、わたくしはそこまで深く考える必要はないと思っている。微罪案件云々と。その微罪とやらで二十日も勾留されたら堪らんという話なのだ。今はすっかり失念してしまって詳しい内容を把握していないけれども、過去の逮捕事件ではたいていが勾留期限ギリギリ目一杯でようやく釈放されるのだ。いったい何をやって捕まったのか? 話を聞けばぜんぜん大した事件ではないのだ。それで二十日間もぶち込まれたら堪らんだろう。

ましてや今回の場合は事実無根のデッチ上げであるとのことだから、なるほど、逮捕できなかったのも当然だ。

顕正会側にも問題はある…ですか
何か本末転倒な感じが否めません それと開き直り 言ってることは立派でもやってることは稚拙ですね


これにもゲンナリした。更新意欲減退である。

顕正会側にも問題はある・・・

前回の拙稿であるが、これに対して本末転倒の感じが否めないとおっしゃる。これは鋭いツッコミとも言えるが、反面、言葉尻を捉えたアゲアシ取りのような一面もある。

2013/10/11 0:31
投稿者:昔の名前
こんばんは

不当捜索の話題が続いているようですが 何が不当なのかが
明確では無いような
違法で無ければ適法な捜索とも言えますが そもそもなぜ捜索されるに至ったのか そこを避けていてはいつまで経っても
イタチごっこでしょう

創価学会のせいにするのは顕正会の勝手ですし もしそうなら
と言うブログを書くのも 厳虎さんの勝手ですが 都合の悪い事を他にすり替えるのは 必ずぼろが出るものです


なるほど、これは前々回の拙稿に対するコメントであるが、すでにこの時点で相当に批判的であることがわかる。

これでわたくしの更新意欲減退の理由がよくおわかりいただけたのではないかと思う。繰り返しになるが、わたくしは満を持して(?)これからいよいよ顕正会批判を書くつもりでいたのである。しかるに書こうと思っている矢先にこれらのコメントが寄せられたわけである。あるいは微妙なアヤとでも言うべきなのか、理解の及ばない人もいるかもしれないが、たぶん、多くの人にご理解いただけることかと思う。

ぶっちゃけ言えば、ヘソを曲げちゃった、拗ねちゃった、我ながら子供じみていることはよく承知しているが、おおむねこんなところである。

さて、ボヤキついでに創価学会のことを書いておこう。

以前、顕正会の高齢化問題について書いたことがある。顕正新聞を読むと、どうも最近は高齢者の記事が多く感じられる。古くからの会員が高齢であるのは当然だが、新しく入信する人も高齢者が多いようなのだ。それに比して若い人が育っていない。

実は創価学会こそ、よりいっそう深刻な高齢化問題を抱えているのではないかと思うのだ。

かつての熱心な活動家たちは、すでに相当の年齢に達していることだろう。未来の活動家たる子供たちはどうかと見れば、おそらくは顕正会同様にあまり育っていない。ぜんぜんダメではないにしても、あまり芳しくないのではないかと思う。いわゆるミカツの子供たちがたくさん存在するのだ。親は熱心だったけど、その子供はあまり熱心ではない、さらに孫になるとぜんぜんダメ、というパターンが多いのではないかと思う。今は二世会員どころか三世四世が当たり前である。自らの意志で入信したわけではない人たちがミカツになるのはいわば必然であり、世代を経るごとに信心が薄くなっていくのも理の当然ではあるだろう。

創価学会の伸張を知るには選挙が一つのバロメータとなる。今も堅実な選挙をやってはいるが、委細に見れば得票減は否めない。おそらく創価学会首脳にはとてつもない危機感があることだろう。熱心な活動家たちは押し並べて高齢化している。一方、若者はそれほど育っていない。ゆえに客観的には凋落せざるを得ない状況にあるのだ。

どれほど高齢であっても投票に行けば同じく一票の価値がある。そして高齢会員の子供や孫がミカツであって、学会活動など死んでもやるかと意地を張っていたとしても、せめて選挙くらいは協力しておくれと言われて、協力する人もいることだろう。その一票も同じく価値がある。

しかし、不謹慎なことを言うようであるが、その高齢会員が亡くなってしまえば、本人の一票はもちろんのこと、同時に子供や孫の一票も失ってしまう可能性が大なのである。

こうした現象が創価学会全体で起こりつつあるとしたらどうなるか?

かなり深刻な問題であることは確かだろう。だからこそ創価学会としては顕正会に人材を横取りされたくないと思っているのかもしれないが、しかし、それは筋違いというか、もっと根本的なところから見直さないとどうにもならないはずである。結局、顕正会が存在しようがしまいが創価学会の抱えている問題そのものは変わりがないからである。

2013/10/11

前稿の反響を受けて  
前回の拙稿はいつもより反響が大きかったようである。それは顕正新聞の内容もさることながら、わたくしの姿勢に原因があったのだと思われる。ようするに前回は顕正会の批判を一つも書かなかったわけで、ややもすれば一方的に創価学会だけを悪者にしているようにも読めるのだ。おそらくはそこに創価学会員たちが反発を感じたのだろうと想像する。

そこで今日はいよいよ顕正会批判を書こうかと思っていたのだが、取りやめることにする。その前にもう少しだけ前回の続きというか、敷衍のようなものを書きたいと思う。

まず、読み間違えてもらっては困るのだが、わたくしは前回、いわゆる不当捜索については是とも非とも断定していないのだ。不当捜索そのものを云々しているのではなくて、不当捜索特集号を云々したのである。あの新聞を一般人が虚心坦懐になって読んだならばどのように感じるか、おそらくは顕正会に対する誤解が払拭されるというか、相当の程度において、報道のイメージとは違ったものが得られるに違いないのだ。一方、創価学会に対するイメージは悪くなるはずで、その意味で会長講演はそこそこ成功していると書いたのである。

その上、顕正会はこの新聞を大量配布するそうである。

ゆえに、くだんの家宅捜索とそれに伴う報道が創価学会の謀略に起因するものであるならば、謀略は失敗というか、謀略そのものは成功したと言えるのかもしれないが、そのシッペ返しがひじょうに厳しく、結果的には失敗に等しいことになると書いたのである。

妙信講作戦

K対策


先ほど、不当捜索の是非を云々していないと書いた。つまり、客観的には現時点で今回の一件が創価学会の謀略であるとするだけの証拠がないので、厳密には謀略であるかどうかも定かではないし、警察の動きもそれが正当であるか不当であるか、俄かには判断できないのだ。ゆえに、ただ単に特集号を読んでどのように感じるかという、その一点に絞って書いたわけだが、そこには創価学会の謀略体質が見事に活写されていて、こればかりは否定できない厳然たる事実なのではないかと思われるのだ。

特集号ではK対策のことが取り上げられているが、その淵源は妙信講作戦である。これは山崎正友氏などの著作を読めば、その存在を否定できる人はいないだろう。わたくしの思うに、当時の状況からして妙信講の動きに敏感にならざるを得なかったのは頷けるところである。だが、しかし、今の顕正会を相手にしても仕方がないのではないか、放って置くのが最善の策ではないかという気がするのだ。しかるに今はK対策なるものが存在するという。顕正新聞には証拠写真として当該文書が掲載されている。それには日付も明記されており、なんと驚くことにはごく最近のことなのである。

妙信講作戦はすでに終了して久しい。しかし、その延長線上にはK対策が存在する。

創価学会の内部事情にはまったく疎いのでわからないが、妙信講作戦以降も継続的もしくは断続的に作戦が続いていたのか、それとも三年前になって久々に復活したのか、うろ覚えであるが前に週刊誌か何かで顕正会対策の存在を云々する記事を読んだ記憶があるので、それを信用すれば今回のK対策以前にも何らかの対策が採られていたことになるだろう。

放って置くのが最善策と書いた。しかし、創価学会側としては困ることがあるのだろう。その理由は次の一文に明らかだ。

 この文書は、顕正会の折伏によって学会員が続々と御遺命の正義にめざめてしまうので、組織崩壊の危機を感じた学会本部が密かに作成した内部文書です。

放って置いたら大変なことになる。次から次へと正義にめざめてしまって、創価学会の人材をごっそりと持って行かれてしまう。となると、まさしく組織崩壊の危機である。

これは以前にも何度となく書いていることだが、創価学会から顕正会へ行く人はそれこそ無数にいるけれども顕正会から創価学会へ行く人は皆無に等しいという事情がある。このことは現役の創価学会員たちも認めていることであり、確か拙ブログのコメント欄にもその意味の記述がどこかに残っているはずである。これはまた、フェイクの存在そのものが、傍証の意味を持っているとも言えるだろう。

フェイクの記事を読めば、主には宗門に対する批判、そしてオマケ程度に顕正会の批判を書いている。申すまでもなく、彼らが恐れているのは創価学会員の大量脱会であり、その移籍先となるのが一つには宗門、そしてもう一つが顕正会なのだ。わたくしの知る限り、フェイクは正信会の批判を書かない。なぜならば脅威ではないからだ。すでに終わっている。よって恐れるに足らずということなのだろう。

話が前後するようだが、妙信講作戦をより正確に表現するならば、次のごとくなるだろう。

妙信講潰滅作戦

つまり、創価学会としては妙信講の潰滅を狙っていたのだ。ゆえに浅井先生は後に何度も繰り返し言っている。潰れて当たり前だったと。

ところが顕正会は潰れなかった。それどころか徐々に勢力を強め、未だに折伏弘通の手を緩めることなく前進している。勢力が増せば必然的に創価学会員に対するアプローチも多くなる。これは彼らにとって物凄く脅威のはずだ。

不当捜索と戦って

これは男子部第四十隊支隊副長の登壇記事のタイトルである。次回の拙稿ではこれを中心に顕正会批判を書くつもりだが、今日はやや擁護の立場から書いてみようと思う。

あれ? 不当捜索? なぜ不当逮捕ではないのか?

のび太氏がご苦労にも過去の顕正会関連の事件を網羅しているが、その大半は逮捕事件である。ところが今回はまだ逮捕されていないし、おそらくは今後も逮捕されないだろう。たぶん警察側もそれは百も承知というか、これ以上のゴリ押しは無理と考えているに違いない。

そこでせっかくなので、のび太氏に質問してみたい。

過去の事件の顛末は如何?

これをぜひ聞いてみたいと思う。

回答を待っていても仕方がないので話を進めてしまおう。たぶん、その大半は無罪放免である。そもそもが起訴されず、不起訴に終わっているはずである。ようは逮捕報道だけがクローズアップされているというか、いわばそれのみを列記して顕正会のイメージダウンを画策しているに過ぎないのだ。

ところで、ここ数年は逮捕報道がなかった。たぶん顕正会員の逮捕そのものが皆無に近い状況だったのだろう。

この理由を想像するに、わたくしはとっさに二つのことが思い浮かぶ。一つには顕正会員たちが用心堅固になったこと。そしてもう一つは弁護士の活躍である。

一つ目は特に説明するまでもないだろう。ある意味、活動会員たちが巧妙になったわけであり、悪く言えば法の網の目をうまく潜り抜ける術を覚えたことになるのだろう。まあ、しかし、それは言い過ぎであり、おそらくは少しばかり成果が落ちてもいいから節度ある折伏を心掛けようというのが顕正会全体の方針なのだと思われる。余談になるが、この意味では近年の弘通の伸びが鈍化していることは、それほど深刻な問題ではないのかもしれない。

二つ目の弁護士云々がやや面倒な話である。

先ほど、のび太氏の貼り付けた顕正会事件簿について、実はその大半が無罪放免なのだ、という意味を書いた。ここに重大な問題が存するのである。もし法律に照らして無罪が相当であるならば、警察のやっていることは明らかに不当である。度が過ぎているのだ。たぶん弁護士ならば過去のさまざまの事件との比較において、警察のやり口がいかに横暴であるかを訴えるに違いない。

ある日突然、顕正会の活動会員が逮捕され、そのまま勾留されてしまうのだ。しかも勾留期間がメチャクチャ長い。それに伴い顕正会本部や各地の会館に家宅捜索が入る。その物々しさは報道に見るごとくである。

さて、これが過去のさまざまの事件との比較において、はたして相当であるか不当であるか、これは司法関係者であれば容易に判断がつくことだろう。前例のないことはやらない。これが官僚たちの処世術である。警察官僚も同じだろう。ゆえに、弁護士から過去の事件との比較の上から、警察のやり口がいかにも度の過ぎたものであることを指摘されれば、彼らも正気に返らざるを得ないはずなのだ。

よって、今回はいきなりの逮捕勾留を見送り、とりあえずは任意の事情聴取を行ない、そこで自白を取ろうと狙った。しかし、熱心な活動会員が自白するはずもなく、おそらくはこのまま沙汰止みになることだろう。それが今回の一つの結論である。

以上、折伏関連のトラブルでいきなり逮捕というのはいかにも度の過ぎたことであり、警察も安易には逮捕に踏み切れない。これが物の道理であろうと思う。

だが、しかし、顕正会側にも問題はある。

すでに拙ブログでは何度も指摘していることだが、次回は重複を恐れずにそのことを書いてみたいと思う。

2013/10/8

「不当捜索」特集号を読んで  
沖浦氏からの近況報告は省略させていただくが、新しい人が来られたので全文紹介しておこう。

2013/10/7 23:10
投稿者:mr.x
たまたまインターネットで顕正会の不当逮捕事件を調べていてここを見つけました。 自分は現役の顕正会員で、16年の間、信心させて頂いているものです。 さて細かい話や難しい教学の話しはさて置き、やはり臨終の証拠というのは不思議です。 生きている間の事は色々な要素がありますし信心していなくとも、幸せな人は大勢います。しかし臨終の証拠。遺体にでる現象というものは否定のしようがありません。 自分は以前に同じ組織の方の父親の葬儀に特別に参列させていただいた事がありまして、成仏の相を見た事があり。正しくご金言の通りの相でありました。 と同時に臨終に失敗したことの話しも聞いた事があります。恐ろしいです。 つまり顕正会なれたとしても、おおせのとうりの信心でなくては駄目だということです


ほほう、奇特な方である。拙ブログに現役の顕正会員が来られることは滅多にない。たとえ閲覧していてもコメントを残すことはない。しかるに、この人は上掲のごとく懇切丁寧な書き込みをされている。立派なことだ。

そもそもが顕正会をキーワードに検索しても出てこないのが拙ブログである。よくたどり着いたものだと感心する。

臨終の証拠については特に議論をするつもりはないけれども、検証がひじょうに難しいことである。もし臨終に明々白々な差があれば、まずは医師たちが悉く入信することだろう。そして葬儀社の人たちも次々に入信するに違いない。

一般の人は遺体をまじまじと見る機会がない。ゆえに鑑識眼が養われていない。手っ取り早く言えば、見る目がないのだ。
片や医師は多くの臨終に立ち会っているし、葬儀社の人はそれこそ毎日のように遺体を目にしているのだ。
この意味で、医師や葬儀社の人たちが顕正会員の臨終を目の当たりにして、次々に入信するような事態になれば、臨終の証拠はまさに疑う余地のないものになるだろう。

残念ながら、今はその域に達していない。顕正会員たちがいくら声を大にして叫んだところで、あくまでそれは主観に過ぎないのだ。

さて、本題に入ろう。

警視庁の仏法弘通妨害は憲法違反

「強要・脅し」を捏ち上げ仰々しい捜索、報道
日蓮大聖人の御遺命堅持の故に魔障出来
 怨嫉者の黒い謀略やがて白日の下に


顕正新聞第1289号の一面大見出しだ。先月十一日に起きた顕正会施設への家宅捜索とその報道について、いずれ浅井先生の口から何らかの言及があるだろうと予想していたが、案の定、九月度総幹部会で大々的に取り上げられていた。より正確に言うと、予想以上だった。わたくしの想像ではさらりと触れる程度であって、ここまで積極的に反応するとは思わなかったのだ。

国立戒壇を堅持し二百万近きゆえに魔障
御本仏の師子王心拝し一筋の御奉公を
 顕正会は「正しいから強い」のだ!!


二面から四面まで三ページ立てで会長講演が載っている。上掲はその大見出しだ。

そうそう、その前に書いておくことがあった。

「不当捜索」特集号

当該号は一面の最上部に上掲のごとく謳ってある。これは大量配布を視野に入れてのことだろう。つまり、今回の不当捜索について、顕正会側にはまったくヤマシイところがなく、全面的に戦うことを宣言しているに等しいわけだ。

事実、会長講演では次のごとく言っている。

 今回の件に対し、顕正会は断固たる法的処置を取ります。

さすが武闘派(?)だけのことはある。

今回の会長講演ないし特集号について、わたくしの全般的な感想を書けば、そこそこ成功している、ということになるだろう。

当該講演の大半は創価学会批判に費やされている。思いっきり端折ってしまえば、今回の不当捜索は創価学会の謀略である、と言っているわけだ。当然、創価学会側にも反論というか、それなりの言い分があることだろう。しかし、まずは顕正新聞の当該号を虚心坦懐に読むべきである。

わたくしの思うに、当該講演は浅井先生のうまさがよく出ている、実に単純明快というか、平易であり、ようはわかり易いのだ。

つまり、一般人がこれを読めば、顕正会への誤解が解け、逆に創価学会への不信感が増大するという、そういう巧みな構成になっているのだ。何もわたくしは顕正会の肩を持っているわけではない。ともかく当該講演を虚心坦懐に読めば、誰もがそのように感じるはずだと思うのである。一般人のみならず、もしかしたら創価学会員が読んでも相当かもしれない。

集団替え玉投票事件

投票所襲撃事件


創価学会のツワモノたちならば、何を今さらと思うかもしれない。上掲はずいぶん昔のことであり、いずれも顕正会独自の情報ではなく、巷間に流布されている書籍に出ている話である。いわゆる創価学会ウォッチャーにとっては周知のことであり、どこにも目新しいところがない。今回の浅井先生の講演はいわばその大半が過去の焼き直しに過ぎないのだ。

しかし、すでに書いたように、浅井先生のうまさがよく出ている講演である。

ようは過去の創価学会関連の膨大な情報の中から、何をどのようにセレクトするかということがベラボウに難しいのである。ゆえにヘタな人が書けば、あれもこれもと欲張って、まとまりのない散漫な文章になってしまう。あるいはやたらと冗長で読むのが億劫になってしまう。たいていがそんなところである。

ところが浅井先生は新聞紙面三ページ分でうまくキッチリとまとめ上げている。これが先生のうまさなのである。

そこで、一般人が虚心坦懐に当該講演を読めばどのように感じるか、あるいは創価学会員といえどもこれを虚心坦懐に読めばどうか、ということを想像するに、浅井先生の文章力は相当のものと言わざるを得ないのだ。

「K対策」について

創価学会にはご覧のごとくの内部文書が存在するそうである。

 この文書は、顕正会の折伏によって学会員が続々と御遺命の正義にめざめてしまうので、組織崩壊の危機を感じた学会本部が密かに作成した内部文書です。作成年月は三年前の平成二二年一月二八日。学会の全国各地域の幹部にこれが通達されております。

これが事実とすれば、危機感は相当である。顕正会なんぞ相手にしていない、などとノタマウ人もいるけれども、それはヤセ我慢というか表面的なものなのだろう。あるいはその人が深刻な事態を知らないだけなのかもしれない。

会長講演ではかなり詳細に文書の内容を取り上げているが、わたくしがもっとも注目したのは次のくだりである。

 〔通報に関して〕原則は被害を受けた本人、もしくはその家族が通報する。通報する場合、通報者は教義上対立する立場からの通報∞感情的な通報≠ナはなく、あくまで一市民としての立場から、犯罪行為・迷惑行為に対する通報であることに留意する。

一市民としての立場から通報する・・・

浅井先生は、創価学会員の立場を隠して一市民の立場から通報するのは姑息だ、と言っているわけだが、わたくしは図らずもこの動かぬ証拠(?)を発見した。

それはフェイク第1413号である。煩瑣になるのでごく一部分だけ掲げるが、次の一節がまことに象徴的である。

狡猾な浅井は警察の背後に某宗教団体があるかのように事件の本質を誤魔化し、更なる勧誘を煽っていた。

フェイクが創価学会系の謀略情報紙であることは周知の事実である。ところがフェイクの執筆者は正々堂々と創価学会と書くべきところを、なぜか某宗教団体などと濁して書いているのだ。これはおかしいだろう。なぜに隠す必要があるだろうか?

さしずめフェイクの執筆者はK対策に従順のようである。

さて、「不当捜索」特集号について、ざっと見てきたわけだが、いずれにしても今秋は当該号の大量配布が行なわれることだろう。先般のテレビ報道は相当のインパクトがあった。だが、しかし、しょせんは一回きりである。続報でもない限りは一般人の記憶から薄れていくものと思う。一方、顕正会の活動会員たちの憤怒・憤激はそう簡単に治まるものではない。それが大量配布につながるわけだ。

以上のような理由で、もし今回の一件が創価学会の謀略に起因するものであるとすれば、結果的に彼らの謀略は失敗だったことになるだろう。

2013/10/6

十六ささげ  
各方面より多岐にわたるコメントを頂戴しているが、何と言っても顕正新聞最新号の話題が最重要であろう。しかしながら、その前に二号ほど溜まってしまっているので、今日はそちらを片付けてしまおうと思う。

八月一八日の日曜勤行の指導が顕正新聞第1287号の一面に載っている。わたくしは「十六ささげ」の話が物凄く興味深かった。

 きょうは御宝前に「十六ささげ」を供え奉りました。
 日寛上人はこの十六ささげをたいへん好まれたという。そこで今年は私の家の庭で丹精こめて栽培し、きょう始めて採ってお供え申し上げました。十六ささげは最近ではほとんど店頭にも置いてないそうですね。めずらしい食べ物です。

(以下省略)

この話は初耳である。日寛上人にまつわる話を浅井先生の口からたくさん聞いてきたが、この話は今まで聞いたことがなかった。そこで気なることは、浅井先生がこの話を知ったのはいつなのか、である。もしかしたら最近になって入手した情報なのではないかと思うのだ。

なぜかならば、上掲の文章からそうした雰囲気が伝わってくるからである。十六ささげを初めて栽培し初めて採取したと。しかも続きの文章には次のごとくあるのだ。

・・・煮ると美味しいとのことですが、私はまだ食べてない。

日寛上人のことを誰よりもよく知っているはずの浅井先生が、十六ささげのことを知らず最近になってどこからかその話を入手した。では、その情報源はどこだろうか?

しかし、これは勝手読みかもしれない。

もともと知っていた。十六ささげの話は知っていたけれども、わざわざ自分のところで栽培して食べてみようとは思わなかった。けれども心境の変化とでも言うべきだろうか、あるいはどこかでタネを入手する機会があって、それで栽培してみる気になったという、そんなところかもしれない。

さて、浅井先生の実際に食べての感想はどうだったのだろうか?

いずれは芙蓉農園で栽培し、芙蓉茶寮の食材としてデビューする日が来るかもしれない。

衝撃!「現代の疫病」たる放射能禍
 「人類史上初の困難な状況」に戦慄


第五女子部長の記事の見出しであるが、わたくしが注目したのは別の部分である。

 未活動者の人数の多さには驚愕いたしましたが・・・

女子部大会も近いことだし、未活動者の掘り起こし作業に余念がないのだろう。そこでリストのようなものを作成したのかもしれない。その場合、部長の立場としては各区の区長にリストを提出するように指示するのだと思われるが、そこで集まってきたリストを見て驚愕したわけだ。あれまあ? こんなにいるの? 

もう一つ、第五区の支区長補と総班長が多くの後輩が待つネパールへ、百セットのお数珠とお経本を入れたリュックを背負って向かったという話が注目されるところである。

結果、過去最高の一三八名の弘通が叶いました。

ちなみに記事は八月度班長会のもので、彼女たちがネパールへ渡ったのも同月のことである。ゆえに上掲の成果は次の折伏法戦に組み込まれるのだろう。すなわち、九・十・十一月法戦である。

以前にも書いたが、海外での成果は分離させるべきだと思う。そうしないと組織の空洞化を免れない。

岐阜に断じて広布の大潮流!
 「近畿圏」に入れて頂き熱鉄の闘志


女子部第百二十一区長の記事だが、わたくしは近畿圏云々に不満がある。彼女はそれで納得しているというか、ともかく前向きに頑張ろうとしているわけであって、それはそれで結構なことだと思う。だが、しかし、岐阜の顕正会員の中には、不満を懐いている人が必ずいるはずなのだ。これは説明するのが難しいので極端な例を示しておこう。

沖縄は中国の領土である。

沖縄の人がこれをどのように思うか、である。仮に中国のしかるべき人物が上述のような発言をしたとしよう。これを沖縄の人が「中国の領土に入れて頂きありがとうございます」などと言うだろうか?

琉球人としての矜持の上から言えば、沖縄は沖縄である、中国のものでも日本のものでもない、となると思う。

いや、誤解をしてもらっては困るのだが、わたくしは何も琉球独立を支持するとか、そんなことを言いたいわけではない。ようは岐阜は岐阜なのである。ゆえに近畿圏に入れて頂くなどという料簡が気に入らないのである。その説明のためにあえて沖縄を例に挙げただけであって、領土問題を云々しているわけではないのである。

さて、次は顕正新聞第1288号である。

暴力団と繋がり刺青する住職も
 入信の彫り師≠ェ職業坊主の実態を


女子部第五十八区班長の活動報告の見出しである。てっきり日蓮正宗の僧侶のことを批判しているのかと思って読んでいたが、どうも違うようである。他宗の僧侶が暴力団とどうであれ、さしたる問題ではないだろう。今さら何を言うかと思う。顕正会は日蓮正宗の僧侶を云々するべきなのだ。

それにしても悩ましい記事である。入信の彫り師であるが、この人は自分の体にも菩薩や梵語の刺青を入れているそうなのである。

 そこで謗法を強く諫め、その日の入信は断念・・・

 本人は物凄く残念がっていたという。ようは入信したくてたまらないらしいのだ。これはめずらしい。何しろ普通は本人が嫌がっているにもかかわらず無理に入信させてしまうパターンが多く、だからこそ先般も大々的に報道されたわけである。ゆえに今回のケースはめずらしい。

そこでくだんの班長は区長経由で女子部長から確認を得たという。

幸い刺青は見えないところであり、謗法の執着もないとのことで、入信勤行の運びとなりました。

悩ましい記事である。見えないところに彫られた刺青はよくて、見えるところの刺青はダメであると、これが現在の顕正会の公式見解のごとくである。

しかし、どうなんだろう。

わたくしの思うに、刺青の内容がどうであれ、見えるところに刺青があると、それだけで何らかの影響があるはずである。つまり、彫られているものが仏菩薩であろうとドラえもんであろうと、見えていれば問題で見えていなければ問題ではない、これが顕正会の本音なのではないかと思うのだ。ようするに謗法はダメで謗法でなければオッケーであるという判断基準ではなく、単に外見上のことを言っているようなフシがあるのだ。

微妙なところであるが、ここが何ともイヤらしいところである。

今はタトゥとか言って、若者たちがわざわざ見えるところに刺青を入れたりすることが少し流行っているようである。たぶん顕正会の首脳部としては男子部女子部がそんな人ばかりになってしまうと困るのだろう。だから、内容が謗法なのか否かではなく、見えるか否かを問題にしている、そんなところではないかと思う。

何が言いたいか、うまく伝えられなかったが、ようするに謗法の刺青であっても見えなければいいというのは、やや後退というか、謗法に対する厳格さに欠けるのではないかと思えるのだ。

元暴力団の夫が臨終に間に合い発心
 良き臨終の相に有難さで感泣


婦人部豊島支区班長の記事である。わたくしが注目したのは上掲の見出しとは別で、次のくだりである。

 夫は生一本で「広宣流布」「戦い」との言葉に奮い立ち、入信三年後には二百名折伏を決意し、亡くなるまでの五年間に二五〇名を超す入信を叶えました。

これは凄い数字である。

だが、しかし、ここに顕正会の体質というか、問題が如実にあらわれていると思う。

ようはイイカゲンな折伏がまかり通っている。だから名目だけの幽霊会員ばかりが増えるのだ。

今回は二号続けて駆け足で片付けてしまった。

2013/10/1

未活動は未来の活動家か?  
たくさんの興味深いコメントを頂戴した。まず、沖浦氏の今朝のコメントから片付けよう。

 今、学校教育の現場で体罰が問題となっています。
 私は反対の立場です。
 トレーニングジムを経営し、多くのアスリートを育てていますが、失敗を責めるなら、生徒は工夫をしなくなります。
 工夫は成功より失敗に終わる確率が多いからですね。

 失敗して責められるなら、最初から工夫をしないでおこう。

 人の心理です。
 所が、あらゆるスポーツの技術は、各人の工夫と失敗の上に積み重ねられて向上いたします。
 体罰はこの機会を奪ってしまうのです。


慧眼だと思う。だが、しかし、この続きがいただけない。

 同じく、罰論では人は育ちません。

これは短絡的だろう。ようするに体罰と罰論を同一視して、体罰では人が育たないのと同様に罰論では人は育たないと言っているわけだ。もしこれが事実だとすれば、おそらくは罰論の運用方法を間違えているのだろう。罰論が間違いなのではなく、罰論の使い方を間違えているのだ。

そもそも罰とは自業自得果の辺である。ゆえに体罰とはまったく異なるものなのだ。

いわゆる懲らしめのために仏が下すものを罰とする考え方がある。ゆえに短絡的には仏罰と体罰が相似をなしていると考える人がいるのだろうけれども、上述のごとく自業自得がその本質である。仮に仏罰が懲罰的な意味合いのものだとしても、いわゆる体罰とは決定的に異なる。

その理由は説明するまでもないことだが、体罰は教師が下すものである。その教師もしょせんは凡夫なのだ。ゆえに間違いを犯す。自分の個人的感情で怒りをぶちまけているような、そういう教師も少なくないわけで、仏の大慈悲の御心から下す罰とは天地雲泥の差があるのだ。

ゆえに罰論そのものには問題はない。もし問題があるとすれば、その運用方法に問題があるのだろう。この点は日蓮正宗も顕正会も気をつけねばならない。

 私は創価学会だけが生き残ったと思っています。
 顕正会、正信会、日蓮正宗は衰退すでしょう。
 何故ならば、拡大する時期を逸したからです。


沖浦氏の昨夕のコメントであるが、これは確かに冷静な分析だと思う。物事にはタイミングというものがある。どれほど頑張っても伸びない。それは拡大する時期を逸したからだ。確かにそれは言えることだ。

だが、しかし、この先もずっと同じだとは限らない。

いわゆる中興の祖という言葉がある。顕正会の場合、いわば浅井先生が教祖である。もっぱら先生がいなくなればオシマイだという見方が強いわけだが、もしかしたら数十年後ないし数百年後に中興の祖が出現して大発展するかもしれないのだ。こればかりはわからない。凡夫には未来のことはわからない。ゆえに沖浦氏の主張も相当であるが、それが必ずしも絶対的であるとは言えないのだ。

 折伏誓願だの、そんなの気にせずマイペースでやること。これが1番ですね。

今のユタ氏は肩の力が抜けていて、思っていることをそのままストレートに言えるらしい。羨ましい限りだ。

たぶん、顕正会の中で上掲のようなことを口にすれば、袋叩きに遭うだろう。もしかしたら法華講の中でも同様かもしれない。

 大丈夫。正しい信仰をしていれば、自ずと仏縁のある人が目の前に現れますよ。そういう人を救って行けばいいんです。

この部分は正論だろう。ノルマに追われてする折伏よりも遥かに価値が高いはずだ。もっとも仏縁のある人が現われなかったらどうするのか、それが問題であるが・・・

人類が滅亡する頃 科学は進歩していて他の星へ移動出来る・・・

深遠なテーマだ。

わたくしはこうしたテーマについてあまり考えたことがない。何となく現実離れしていて考える気になれないのだ。

だが、しかし、わりと身近な話題として環境問題があり、その関連から他の天体への移住を考えざるを得ないような場面もあり得るかもしれないとは思う。
たとえば今夏は猛暑だった。四国のどこぞで観測史上の最高気温が更新されたという。もしこのままどんどん暑くなっていったならば、もはや地球には住めなくなるのではないかと言われたりもする。いわゆる地球温暖化だ。
あるいは放射能で住めなくなる。現に福島の浜通りは相当の地域が居住不能となっているわけで、もし地球規模で深刻な放射能汚染が起これば大変なことになる。

そういう意味で、他の天体への移住を考えざるを得ない事態が起こり得ることは、否定できない。

しかし、さしあたって言えることは、現時点では移動手段がないこと、そしてもし仮に技術の進歩によって移動が可能になるとしても、逆にその頃には同じく環境を浄化する技術が格段に進歩しているだろうこと、であれば移住する必要がなくなることが考えられるのだ。

問題は地球が壊れる時である。

しょせん凡夫は自分を中心とした狭い範囲でしか物を考えない。いわゆる生老病死にしても、自分とその家族・友人などといった狭い範囲しか見ていないのだ。

そんなわけでニーズの問題からか、御書を拝していても地球が壊れる時にはどうしたらよいのか、それがどこにも説かれていないようなのだ。
いわゆる壊劫という言葉があって、御書の各所に出てくる。これは文字どおり、地球が壊れるようなニュアンスだと考えられるが、しかし、さらりと出てくるだけであって、あまり詳しくは説かれていないのだ。
やはりニーズの問題だろう。当時の人々にとっては目前の三災七難が重大問題なのであって、ずっと先の壊劫の時のことなど、心配する余裕すらなかったのだ。

しょせん現代人も同じであって、目前の経済苦や病苦、あるいは人間関係の悩みなど、こういうことのほうが重要なのである。

いや、もちろん、心に余裕がある人が思索を重ねることは大いに結構なことである。人間は考える生き物である。もし地球が壊れる時にも人類が存するとしたら、その瞬間、人々は何を思い何を考えるだろうか?

確かに興味深いテーマである。

 今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。

わたくしの教学上の関心から言えば、この御文が重要な意味を持ってくる。しかし、難し過ぎてさっぱりわからない。おそらくは死ぬまでわからないだろう。

2013/9/29 16:07
投稿者:諸般の事情通
未活動っておかしいね。非と未の違いわからないかな。昔は活動したけど今は未活動?


なるほど、これは鋭いツッコミだ。

未活動はもともと創価学会で使っている用語である。それを顕正会がパクッたわけであるが、考えてみればあまり適切ではないようである。浅井先生は退転者という表現を適切ではないとして未活動を採用した。しかし、上掲の指摘を受けてみると、俄かに失敗だったような気がするのも事実だ。

ただし、顕正会には百万人以上の未活動者がいるので、このまま使い続けてもさしたる不都合はなさそうである。

すなわち入信報告書を書いて、一回きり勤行をしただけの名ばかりの会員がたくさんいる。この人たちは一度たりも活動していないので、文字どおりの未活動である。そこで、かつて熱心に活動していたが今は活動していないという人は厳密に言えば違うのだろうけれども、何しろ百万人以上もの未活動が存在するのだから、それらをジッパヒトカラゲにして未活動と言ってしまってもそれほど困らないのではないかと思う。

ともかく公称数と実数の乖離が著しい組織である。そこで改めて整理すると、おおむね次のごとくなるのではないかと思う。

・現役活動会員
・元活動会員
・未活動会員

現役活動会員はおよそ数万人。五万前後だろうか? 十万足らずであることは間違いない。

未活動会員は百万人以上と書いた。

では、元活動会員は何人くらいだろうか?

二十万? 三十万? あるいは五十万?

わたくしはあくまで当てずっぽうを書いているに過ぎない。まったくデータがないのだ。ゆえに、元活動会員はせいぜい十万人だろう、と言う人もいるかもしれない。

しかし、それはあんまりだ。

ようするに現役が十万足らずで元が十万だとすると、残りの百四十万以上が未活動会員、より正確に言えば入信勤行を済ませただけの名ばかりの会員、いわゆる幽霊会員となるのだ。百六十万人中の百四十万人が幽霊会員の組織って、いったい何なんだ、ということになる。

それはあんまりだ。

そうは言っても、これがいちばん真相に近いのかもしれない。悲しい現実だが・・・

そして今日のタイトルのごとく、この人たちが一人残らず未来の活動家になることを期待して掘り起こし作業を行なっている、それが現役活動会員たちである。


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