2013/12/30

人本尊を忘失した人々  
前々回のコメント欄にビックニュースが飛び込んできた。もちろん顕正会の中での話だ。それにしても衝撃的だ。結婚云々もさることながら、その後の書きぶりが凄まじい。最後の一文だけ紹介しよう。

浅井一族も落ち目です。

何しろ現役女子部長が書いているのだから大事件である。いや、もちろん、本物かどうかはわからないのだが・・・

さて、本題である。

このように大聖人は南無妙法蓮華経こそ日蓮出世の本懐であり元々人々の胸中の肉団におはしますなりなのです。本尊は根本尊敬、本有尊形、本来尊重とあります。作られた本尊はあくまで礼拝用の本尊で、本尊その物でありません。僧や仏師や業者が作られる本尊が「本尊その物」でしょうか?また、大聖人は大黒さんや釈迦仏像の本尊を認められたのか?それはあくまで礼拝対象であって、本尊その物は元々人々の胸中の肉団におはしますなりだからではないでしょうか?

礼拝用の本尊とは、またしても新造語の出現である。これもまた、「礼拝本尊は本尊にあらず」の文証を求めたいところだ。

それにしても礼拝用の本尊という言い方はどうかと思うが、確かに大聖人のあらわされた大曼荼羅は礼拝用の本尊である。それは認めるとしよう。問題は大聖人がこれを本尊そのものではないと言っているかどうかである。わたくしは言っていないと思う。これこそ本尊そのものなのだ。

次に学会未活動者氏が引用している御書をどのように拝するかであるが、今朝になって沖浦氏からも御書を引いてのコメントが寄せられたので一緒に片付けてしまおう。すでに結論はタイトルに掲げたとおりである。

本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。

どうも雰囲気的には学会未活動者氏ご自身も法華経の行者の一人だとお考えのようであるが、当該御文は別して大聖人御一人を指し示すものである。いわゆる総じての意味において、おっしゃることもわからなくはないけれども、少なくともわたくし自身はまったく当てはまらない。大聖人と並んで法華経の行者を名乗ることなど絶対に出来ない。それほど偉くはないし、実際、法華経の行者らしいことは何一つやっていないのだから、僭称も甚だしいところだろう。

ただし、沖浦氏の引用している阿仏房御書などを含めて考慮すれば、大聖人が「阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房」とまで仰せられるわけだから、それを素直に信受するのが正しいあり方とも言えるかもしれない。

それを認めた上で、わたくしは言いたい。

あなたたちは三徳者なのですかと。

いわゆる主師親の三徳を御持ちなのは大聖人御一人であられる。これがすなわち人本尊ということなのだ。
われわれにもいちおう主師親の三徳がある。しかし、それはあくまで部分的・限定的であって、大聖人のごとく、すべてを具備しているわけではない。ようは仏様だけの御徳なのだ。しかも厳密には仏であっても阿弥陀や大日などは三徳を具備していないという。
かくも三徳具備は大変な御徳なのであるが、はたして沖浦氏たちは自分自身を三徳者だと思っているのだろうか?

今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも、南無計りにてやあらんずらん。ふびんふびん。

人本尊忘失者たちは大聖人に南無することの意味がわからないのだろう。これこそが人法体一なのだ。「本尊とは法華経の行者の一身の当体」もそうだし、「日蓮がたましひ」云々も、人法体一の意味に他ならない。われわれが魂を込めて書いたってダメなのだ。

此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。

大聖人の御表現を借りれば、人本尊忘失者たちはこの御文に迷惑しているごとくである。

すでに三徳者の説明は済ませた。ここに我等衆生云々とある。我等衆生が三徳者のわけがない。

そして先の御義口伝も阿仏房御書もこの日女御前御返事と共通項がある。いずれも本尊についての御説明なのだ。ならば本尊抄に帰ろうではないかと言いたい。本尊抄に答えがあるのだ。

然りと雖も我等が劣心に仏法界を具すること信を取り難き者なり。

これは問いの部分であるけれども、それがそのままで答えなのだ。前回、本尊抄は本尊論だと書いた。しかし、ご覧のごとく、ここは仏性論なのだ。我等の己心に仏界があることを懇切丁寧に論証していく。これが本尊抄の前半部分の主要なテーマとなっているのだ。

これでおわかりだろう。阿仏房御書と日女御前御返事はいずれも御本尊授与にちなんで本尊抄における当該御指南を平易に御説明下されたものである。ならば、まさか大聖人に「礼拝本尊は本尊にあらず」などという意図があるとは、誰も思わないだろう。

胸中の肉団・・・

だいたい説明はついたと思うが、ここで少し細部にこだわってみようと思う。わたくしは上掲の御表現に感ずるものがある。

父母所生の肉身

他の御書にこのような御表現がある。あるいは先の本尊抄に劣心とあるけれども、往いては劣身とも言い得るだろう。われわれは生身の人間なのである。仏の場合、生身は(しょうじん)であるが、凡夫の場合は(なまみ)なのである。ようするに胸中の肉団も同じことだ。

ゆえに過日、んっ?氏は次のごとく言ったのだ。

ましてや,自分自身でさえ「方便現涅槃」するのに
「御本尊様は物体だから」と信じようとしないなんて愚かですね?


これは教学力がなければ書けないし、教学力がなければ理解できない、ひじょうに高度な論述だと思う。

手っ取り早く言えば、自分だっていつかは死んじゃうクセに、物体本尊はいずれ朽ち果ててしまうから・・・などと言うのは愚かしいことだ、という意味だろう。このように書いてしまうとひじょうに軽くなってしまうが、言っていることはまさにこのとおりである。結局、胸中の肉団を云々かんぬんしたところで、物体本尊ないし礼拝本尊に代わる正真正銘の本尊とは何かが、まるで見えて来ないのだ。なぜ素直に大聖人のあらわされた大曼荼羅御本尊を正真正銘の御本尊と拝さないのかとわたくしは言いたい。

では、巌虎さんとしては、戒壇様含め礼拝本尊を全て失ったら仏法は終了でしょうか?

これはかなり難解なテーマである。

聖人・賢人・福人・智者をば火やくことなし。

されば大果報の人をば大火はやかざるなり。

今朝、たまたま王舎城事を拝読していて見つけた御文であるが、御文のごとくならば大聖人の御法魂が焼失することは考え難いことだ。そうは言っても現実には正宗寺院も火事に見舞われることがあるだろうし、大石寺も長い歴史の中で何度も火災に遭っているはずだ。また、身延では明治八年の大火で多くの御書が焼失したとのことだ。他山他門を含めれば、御書や御本尊の焼失はどれほどの数になるだろうか?

しかし、火災による焼失は今後、減少していくことだろう。その理由は近代に至って大聖人の御書・御本尊の文化的価値が広く認識されるようになって、信仰心のあまりない他門の寺院などでも大事に扱うようになったからだ。しかも建築物の防火ないし耐火性が格段によくなって、昔のような大火災が少なくなっているのだ。以上のような理由から、大聖人の御書・御本尊が今後、失われる可能性は限りなくゼロに近いと思う。

しかし、いずれは朽ち果てる・・・

すでに説明したように、自分だって死んじゃうし、たぶん御本尊が朽ち果てるよりも先に死ぬことだろう。だから余計な心配は無用である。

日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。

未来は未来永劫の意味かもしれないが、さしあたって一万年を目標として考えれば、御書・御本尊はギリギリそのくらいは保つのではないかと思う。ひるがえって人類の歴史はたかだか数千年である。すると数千年後には終わっているかもしれない。

若し此の国土を毀壊せば復仏法の破滅疑ひ無き者なり。

御勘由来の一節である。案外にこれが答えとしては相応しいのかもしれない。学会未活動者氏は御義口伝をもう一つ引かれているが、あの一段には法華文句の次の一節が出てくる。

・・・衆生に此の機有って仏を感ずる、故に名づけて因と為す。仏機を承けて而も応ず、故に名づけて縁と為す。是を出世の本意と為す。

大聖人が仰せられた国土の毀壊とは他国侵逼のことであるが、あるいはこの先もっと凄いことが起こるかもしれない。地球がぶっ壊れるような大惨事である。人類滅亡だ。その時は当然ながら大聖人の御書・御本尊もすべてオシマイである。案外にツジツマが合っているのではないかと思うが、いかがだろうか?

ふざけたことを書いているように思うかもしれないが、決してそうではない。せっかくなので、もう少し踏み込んでみよう。

戒壇様含め礼拝本尊を全て失ったら仏法は終了でしょうか?

再掲であるが、この底意にあるものは何だろうか?

だから物体本尊は本尊そのものではないのだ。物体本尊はいつか朽ち果てる。あるいは火災等によって焼失・滅失する。そんなものが本尊であるはずがないではないか!

このような主張なのだと思われる。

ならば、わたくしは言いたい。あなたの言う本尊は絶対に朽ち果てないのか、焼失・滅失しないのか、と。

物体本尊ないし礼拝本尊に対峙する正真正銘の本尊とは何かが明確でない以上、雲をつかむような議論になるけれども、あえて言うならば大聖人の御思想そのものとしておこう。そこでこの際だから言ってしまおう。大聖人の御思想は永遠なのか、朽ち果てたり焼失・滅失したりしないのか、と。

つまり、もしかしたら大聖人の仏法そのものがすでに朽ち果てているのかもしれない、現代には通用しないのかもしれない、という結論もあり得ることを知るべきなのだ。よしんば今はまだ通用したとしても、いずれは朽ち果てる時が来るのかもしれない、ということも考えなければいけないだろう。

なぜこのような大それたを書いたか?

物体本尊は本尊にあらずという考え方が現代ウケを狙っているように感じられたからである。そこでまずわたくしは人本尊忘失を突いた。それから御書の誤読というか、本尊抄との整合性がわかっていない点も指摘した。結局、自己流にアレンジしようと思っても、しょせんは凡夫の浅知恵であるからして、欠点だらけなのだ。

さて、その行き着くところはどこだろうか?

大聖人の仏法の完全否定である。それをわたくしは恐れているのだ。

2013/12/29

年末の法門談義  
沖浦氏よりコメントをたまわった。もう一人の当事者であるところの学会未活動者氏のコメントを待ってから書くべきが筋とは思うけれども、どんどん話を進めてしまおう。

「物体本尊は本尊そのものにあらず」の文証を提示されたい。

これが沖浦氏と学会未活動者に対するわたくしからの要求である。

 『仏像出現せしむべきか。』

 何度も何度も書いていますよ。

 仏像とは仏を像(かたどった)ものです。
 素直に認めましょうね。


そしてこれが沖浦氏の返答である。煩瑣になるので大幅に端折って引用した。

単純なことを言わせてもらうと、大聖人はどこにも「物体本尊は本尊にあらず」などとおっしゃっていないではないか、ようは沖浦氏が勝手に解釈しているだけではないか、ということになる。

仏像を字義的に説明すれば沖浦氏の書いているとおりになる。確かにそれはそうだろう。ただし、大聖人がそのような意味で書かれたのかどうかは別問題である。つまり、文証としては甚だ弱いのだ。そのものズバリ「物体本尊は本尊にあらず」という意味の御書を提示するか、もしくは大聖人の御考えを述べられた部分を引用して、それが「物体本尊は本尊にあらず」の意味に通ずるかどうかを論証しなければいけないのだ。

繰り返そう。字義的にはそのとおりだとしても、大聖人がそのような意味で御用いになったのかどうかは別問題である。ゆえに沖浦氏はそれを論証しなければいけない。

もちろん、わたくし側には反論の用意がある。待っていても仕方がないので、さっそく書いてしまおう。

あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。

本尊抄とほぼ同時期に認められた経王殿御返事である。此の御本尊とは何かであるが、同御書の最初のほうに「先日のまぼり暫時もはなさずたもち給へ」とある。いわゆる御守り御本尊だ。つまり、沖浦氏たちが言うところの物体本尊なのである。そして同御書の中ごろには次の有名な一文がある。

 日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ・・・

はたしてこの御指南から「物体本尊は本尊にあらず」などという意味が読み取れるだろうか?

しかし、本尊抄の問題は本尊抄をもって釈すべし、これが議論としては本筋であり王道であろう。ここではくだんの「仏像出現」よりも前に出てくる御文から二つ引用したい。

爾りと雖も木画の二像に於ては、外典内典共に之を許して本尊と為す、其の義に於ては天台一家より出でたれども、草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊と恃み奉ること無益なり。

然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ざれば、有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり。

沖浦氏は言う。仏像は仏そのものにあらずと。

しかし、上掲の二文を拝すれば、沖浦氏の主張は一気に崩壊する。大聖人の仰せはさらにそこから一歩踏み込んでいるのだ。仏像は仏そのものにあらずは現代感覚からしてもそうだが、鎌倉時代の人たちにとっても同じことなのだ。当たり前のことだ。生身の仏と木画の二像が天地雲泥であることなど、いつの時代の人が考えたって同じことだ。では、それらが本尊たり得るのはなぜなのか、ということが問題となる。まさしくその答えが上掲の二文なのである。

一念三千の仏種でなければ、木画二像は有名無実である。

これは大聖人の御指南をわたくしなりに抽出したものであるが、これをさらに逆の言い方で表現すれば次のようになる。

一念三千の仏種であれば、木画二像も有効である。

この辺は木絵二像開眼の事を併せて拝するならばよりいっそう明確になるだろう。各々が確認されたい。

いわゆる曼荼羅正意の意味では沖浦氏とわたくしに異論はない。すると、大聖人の御意は木画二像に主眼があるのではなく、あくまで大曼荼羅御本尊の有効性を論証するために木画を例に引かれたのだと、このように拝するのがごく自然な結論であろう。

本尊抄はその題名が示すとおり、まさしく本尊論そのものである。しかしながらこれまで拝してきた限り、沖浦氏たちが主張する「物体本尊は本尊にあらず」などという義はどこにも見出せない。たかだか「仏像」の単語一つをあげつらったところで、それはしょせん木を見て森を見ずである。本尊抄の全体の趣旨をよく理解しなければいけない。

さて、今度は本尊抄の後半部分を拝することにする。

・・・地涌千界、末法の始めに必ず出現すべし。

わたくしは先日、「仏像出現」についてあれこれ思索をめぐらせていると書いた。ともかく出現の意味は軽くない。なぜならば本尊抄においてはこのキーワードが頻出するのだ。とりわけ後半の重要な部分に頻出する。

此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。

煩瑣になるので省略するが、この前後において、これでもかこれでもかというくらい、出現という言葉が連発されるのだ。単に「出現」だけを拾ってはいけない。出現を意味する御表現がそこらじゅうに出てくるのだ。

いわゆる佐前佐後の違いについて、一般的にはどのような説明がなされているか知らないが、わたくしはこの地涌千界出現こそが佐前佐後の顕著な差異であろうと思う。佐前の御書にはまったくと言ってもいいくらい見られない。それが佐後に至って頻出するのだ。とりわけ本尊抄が凄い。衝撃的と言ってもいいだろう。

地涌千界が出現する。必ず出現する。

これは大変な御発言である。なぜならば本物が出ると言っているからである。繰り返そう。本物、である。

これで沖浦氏の所論がいかに陳腐なものであるかが見えてきたはずである。本尊抄の「仏像出現」のくだりを字義的に解釈して、仏像は仏そのものではない、物体本尊は本尊そのものではない、などと結論しているのだ。仏像の字義的解釈はそれで正しいとしてもである、では出現はどうなのかとわたくしは言いたい。本物の地涌千界が出現するという文脈からすれば、ひるがえって仏像出現がそんな陳腐な解釈でいいはずがないのだ。ごく単純な整合性の上から言えば、本物の仏像が出現するのだという意味になるはずである。延いてはそれが一閻浮提第一の本尊につながるのだ。

以上、観心本尊抄のどこをどのように拝しても、「物体本尊は本尊にあらず」などという義は存しない。これが結論である。

2013/12/27

顕正新聞第1294号雑感  
mr.x氏の登場で話がややこしくなったようだが、実際はそうでもない。先日来の議論を振り返れば、実はまったく進展していないことに気づく。ようはこちら側の文証提示の要求に先方はまったく応じていないのだ。議論はそこで停滞しているのだ。

「物体本尊は本尊そのものにあらず」の文証を提示されたい。

先方がこれに真正面から取り組まない限り、議論は進まない。

というわけで、今日は顕正新聞第1294号を取り上げたい。遅ればせながら十一月度総幹部会の話題である。

魔障乗り越え空前の大法弘通

九・十・十一月度弘通 二万二千二百名
「猪の金山を摺るがごとし」を実証


九月に不当捜索があってテレビで大々的に報道された。こうした逆境を跳ね除け、空前の成果を上げることが出来た。それを猪の金山の譬えを使って説明しているわけだ。

今法戦は二百万への初陣と言われていた。その成果が上掲のごとく、二並びの数字になっている。何となく不思議な符合であるが、これについて云々している記述は見当たらない。さすがにウソ臭く感じられるので、あえて言及しなかったのかもしれない。

さて、会長講演であるが、ここには毎年恒例になった会館建設のことが出てくる。

本年:熊本会館・京都会館・会津会館、顕正新聞社別館
明年:静岡会館・岡山会館・福岡会館


ここまでは既報のことで、拙ブログでもどこかに書いてあるはずだ。ところが近年は明後年のことまで発表されるようになった。

明後年:佐渡会館・兵庫会館・(未定)

未定の部分について会長講演から抜き出せば、次のごとく書かれている。

 そして三つ目の会館は、今いくつもの候補地が挙がっておりますが、検討中であります。結論が出次第、発表いたします。

率直な感想を言えば、無理をしているなあ、ということだ。

佐渡会館がこんなに早く実現するとは思わなかった。たぶん、これは地元の会員にしてもそのような感想を持つ人がいるだろうし、顕正会全体でもそのような意見が多いのではないかと想像する。もちろん、これはわたくしの勝手な想像に過ぎないわけだが・・・

兵庫会館などはまったくの想定外だった。その理由は同新聞の八面に十二月度総幹部会ビデオ放映会場一覧が掲載されているが、兵庫県はたったの二会場でしか行なわれないのだ。収容人数が定かではないものの、会議室とか視聴覚室と書かれているので、いわゆる大ホールではなさそうだ。しかもである。翌号には元旦勤行の会場が載っているけれども、兵庫県の記載がない。ゆえに彼らは大阪会館に行くのだろう。その大阪会館にしても三回しか行なわれない。その程度で間に合ってしまうのだとしたら、わざわざ兵庫県に会館を建てる必要もないことになりそうである。

そして三つ目が問題である。

現在は検討中とのことだが、なぜにそこまでして三つ目を建てる必要があろうか、ということなのだ。二つでやめておけばいい。その二つにしても、上述のごとくであるからして、やや無理気味のようにも思えるのだ。

余計なことを書けば、会館建設が利権化しつつあるのではないか、いわゆるハコモノ行政なのではないか、という危惧もなきにしもあらずであろう。

現在の顕正会は爆発的な伸びこそないものの、ある意味では安定していると言えるだろう。毎年の広布御供養も安定している。ようは安定的な収入があるわけだ。ゆえに会館建設も安定的に行なうことが出来る。今の実力からすると、コンスタントに三会館ずつ建てて行けるわけなのだろう。ここでの実力はもちろん財源のことだ。カネはある。そのカネの使い道をどうするか、当然、浅井先生はムダ遣いをしないことを公言しているので、財テクみたいなことはやらないだろう、すると会館建設を続けるくらいしか他に道はないのだ。結局、これが定常化すると、何となく惰性的にでも建設が続けられることになる。本当に必要かどうかの判断もせず、ダラダラと続けるのだ。

利権化と書いたのは、顕正会がコンスタントに建設を続ければ、それを当てにする業者が出てくる。また、顕正会側も業者のことを慮って仕事を与えないといけないような気分になってくる。何しろカネはあるのだ。

ハコモノ批判は言わずもながであろう。結局、国家財政にしても地方自治体のそれにしても、ムダな公共投資を繰り返した結果が、今日の危機を招いているわけだ。顕正会も同じ轍を踏むことにならなければいいのだが、今回の発表を聞いて少し心配になってきた。広宣流布の大義名分があるとは言え、また、潤沢な資金があるとは言え、さほど会員がいない地域に会館を建てるのはどうかと思う。

いや、もちろん、わたくしは内部事情を知らないわけだから、ハタからは大して会員がいないように見えても、実はたくさんいる地域もあるのかもしれない。つまり、余計なお世話ということだろう。

 公明党は何を狙っているのかは知らぬが、日本が独裁国家・警察国家にも陥る可能性がある大悪法「特定秘密保護法案」の成立に、自民党より熱心に見える。「安倍政権のブレーキ役になる」などと言っていたのは国民を欺くポーズ、実態は補完勢力いや推進勢力であった。

これは公明党を支援する創価学会員が常に背負わなければいけない問題である。自民党と組んでいる以上、今後もいろいろな事案で問われることだろう。それにしても大悪法とは物凄い表現である。

しかしどうにもあれ、私は驚かない。これはまだ小事です。

では、何が大事かと言えば、公明党が政権与党であることそれ自体が日本国の凶事であると、こう言っているわけである。

まあ、しかし、ややアゲアシ取りを自覚しながらも言わせてもらえば、上掲は文脈的にどうかと思う。

大悪法

これは御書に出てくる言葉なのだ。主には真言宗を指して言うわけであるが、ともかく文字どおり国を滅ぼす最大の悪法という意味に他ならない。なんと浅井先生はこれを小事だと言ってしまっているのだ。これはおかしいだろう。ゆえに文脈的整合性を考えるならば、大悪法とはせずに単に悪法とするか何も冠せずに書くかという、それなりの工夫が必要だったろう。

防空識別圏

これは新聞・テレビなどでもけっこう取り上げられているので、多くの人が知るところだろう。今や中国問題は多くの日本人の関心事となった。

得意の、前々から言っておりましたが、ではないけれども、確かに浅井先生は前々から中国問題に熱心で、さまざまな言及をしてきた。この意味では先見の明があったと言えるだろう。

2013/12/26

年の瀬雑感  
沖浦氏より、ない物ねだりをしてはダメだ、というコメントを頂戴したが、これは公理だの定理だのを持ち出してきたほうの責任である。結局、最後は功徳論・現証論でお茶を濁している。ならば最初から公理だの定理だのを持ち出さないほうがよかろうという話なのだ。

次は、んっ?氏のコメントであるが、かなり難解である。

「九識」=「全宇宙の集合無意識」=「仏界」を,
大聖人様は「南無妙法蓮華経」と名付けられ,
御本尊様を認められた。


わたくしは九識についてまったくの無知なので、上掲の説明をまるで理解できない。ゆえに、これが正しいのか間違っているのか、それすら判断できないのだ。

当然、九識は御書に出てくる言葉だ。けれども九識についての詳しい説明はどこにも存しない。その理由はなぜだろうか?

二つの可能性を考えた。

一つは仏教における基本中の基本であるからして、説明するまでもないことだった。そしてもう一つは、ひじょうに難解な概念なので、説明を省略した。

たぶん後者なのだろう。

「八識」が個人の宿命だけではなく「眷属」という形で
集合無意識の領域に含まれている事が解るのに,
こと,「九識」に関しては「己心」と
「宇宙(一切の非情・有情)」を分けて考えている。


これもさっぱりわからない。

わたくしがこれまで御書を拝してきた限りでは、上掲のような御指南はどこにも存しない。もしかしたらどこかにあるのかもしれないが、そっくりそのままの形では存しないだろう。つまり、これは現代教養を駆使して、大聖人の仏法を咀嚼した形で書いているのだ。

咀嚼するというのは、噛み砕くという意味である。しかし、わたくしの知的レベルからすれば、これは御書を噛み砕いて平易に述べているのではなく、逆に難解さを増しているだけのような気がしてならない。

ましてや,自分自身でさえ「方便現涅槃」するのに
「御本尊様は物体だから」と信じようとしないなんて愚かですね?


しかしながら、この部分はひじょうに感銘を受けた。なるほど、そういうことだったのか、と。

生意気を言うようであるが、わたくしも同じようなことを考えていた。考えてはいたものの、なかなかうまくまとまらない。たぶん同じことを書くにしても十倍も二十倍も紙数を費やすことになっただろう。要領を得ないのだ。ゆえに、こうした簡潔な文章を目にすると、ひじょうに感銘を受けるのだ。

物体本尊は本尊そのものではないとの主張は、偶像崇拝を忌避する人たちにも受けがよさそうだし、何かと都合がよさそうである。
しかし、はたして大聖人がそれを言っておるのかどうかが最初の関門だと思う。ようするに大聖人が言ってもいないことをわれわれが言ったところで、それは己義でしかないのだ。
あるいは「智者に我が義やぶられずば用いじ」の意味からすると、物体本尊は本尊そのものにあらずとの主張こそ、大聖人の義を破る新義、大聖人の仏法を超越する現代人にもっとも適した義ということなのかもしれない。

ならば、その人は教祖となるべき人である。

しかし、わたくしは思う。物体本尊に対峙するものは何かをである。物体本尊は本尊そのものではないとしたら、本尊とは何かが問題となるのだ。はたして新教祖にそれを提示することが出来るだろうか?

仮に新教祖が曼荼羅を書いたとしよう。その時点でアウトである。なんだ、大聖人と同じことをやっているだけじゃないか、と。

結局、大聖人の義を破ることは出来ないのだ。

ああ、イヤになってきた。文章が冗長すぎる。まだ、この二倍三倍は書かないと意を尽くしたことにはならない。んっ?氏がたった数行で書いてしまったことを、わたくしは何十行何百行費やしても書き切れない。頭が悪すぎるのだ。

さて、キリがないのでこの件は保留として、ユタ氏のコメントに移りたい。

 内容の重い書き込みが続いていたので、少し空気の入れ替えをしてみました。余計な行為でしたら、申し訳ありません。

いえいえ、とんでもございません。

 兎にも角にも、今年もクリスマスは単独行動でしたね。
 ここ最近は私だけではなく、その他大勢の人達が似たような過ごし方をしているようなので、もう珍しいことではないのでしょうね。


上掲はユタ氏のブログをご存知ない人には少し見え難い話だと思う。そこで氏のブログから一つ引用しておく。

20代から30代前半の男女で、彼氏・彼女無しが7割を占めている・・・

これについてはさまざまな角度からの考察がなされているが、ひじょうに難しい問題である。さしあたっては経済的な問題が大きいのだと思う。いわゆる少子化にしても同じことで、子供を生み育てるのにはベラボウな労力が必要だ。単に労力だけならば、苦労を厭わないで頑張る人もいることだろう。しかし、早い話が金が掛かるのだ。ひるがえって彼氏・彼女の問題もまったく同じ理屈である。

アベノミクスで経済の好転が言われているけれども、実際はどうなのだろうか?

わたくしは来春の消費増税に反対である。もう決まっちゃったからどうにもならないのかもしれないが、よくも増税するものだと思う。モノワカリのよい人たちがいて、財政再建のためだとか何だとか言って、その必要性を説く人がいるけれども、わたくしは思うのだ、オマエは裕福だから少しくらいの増税はヘッチャラなのだろう、しかし、わたくしのような貧乏人はどうなるのだ、ふざけるんじゃない、と。

非正規雇用の問題がある。ブラック企業が取り沙汰されるようになったのも今年のことだ。この被害者の多くは若者なのだ。

低賃金その他もろもろの悪条件のまま働かされて、しかもいつまで経っても給料が上がらない。それでいて税金は上がるのだ。つまりは収入減である。実際の手取り額は下がるのだ。こんなテイタラクでは日本もオシマイである。

アベノミクスは単なるお題目であって、景気の好転が本当かどうか、ひじょうにアヤシイところだと思う。まさか大本営発表だとは思いたくないが、庶民の経済実感としては上述のごとくである。

ユタ氏のコメントから大幅に脱線してしまったが、閲覧者諸氏の経済実感はいかがなものだろうか?

2013/12/25

本尊論の一局面  
成田氏より、正宗仏壇とその他の仏壇の違いについて、情報をいただいた。その違いは厨子の有無であると。仏壇店の人が言っていたそうなので、それは確かにその通りなのだろう。けれども、わたくしの視点はそうした仏壇の構造上の違いではなく、そのものズバリ本尊に対する認識の違いについてである。正宗系は本尊を大事にする。その他の宗派は本尊の価値・重要性がわかっていないものだから、大事にしない。簡単に分類してしまえば、こういうことになると思う。もっとも厨子の有無そのものが本尊を大事にしているか否かの証左とも言えるわけで、その意味では成田氏のご指摘も相当であろうと思う。

動画の紹介をたまわった。

ライフスペースの高橋代表の定説云々は、わたくしも鮮烈に記憶している。当時はそれが流行り言葉のようにもなって、ちょっとした会話の時に「定説です」などと冗談めかして言う人も少なからずいたと思う。

しかし、次のくだりは今回の動画を通して初めて知った。

記者:定説主義者になられたのはいつですか?

高橋:サイババに出会ってすぐです。

記者:というのはどれくらい前ですか?

高橋:六千年です。

記者:サイババさんとお会いになっていたんですか?

高橋:もちろん会うというより直弟子ですから。


わたくしはこれを聞いて三大秘法抄の次の一節を想起した。

此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。

おいおい、オマエ、大聖人と高橋某を一緒にするとはケシカランではないか!

当然、このような批判もあろうかと思う。しかし、生意気を言うようであるが、より本質的な議論をしようと思えば、こういう問題提起も必要だろう。ようするに公平な第三者から見れば、どっちもどっちかもしれないのだ。

逆に言うと、大聖人と高橋某の違いをどのように説明するか、どっちもどっちと言っている人に対してどうやって違いを説明するか、それが問われているのだと思う。

ひじょうに難しいことだ。

ゆえにわたくしは今、直接的な答えは持ち合わせていないけれども、概略的・概括的というか、それよりももっと外枠的な意味で次のように申し上げたいと思う。

上掲の一文のみで判断してはいけない。大聖人の御書全編を通じて拝し、その全体の文脈の上から判断すべきであると。

御書のすべてを読み切れば、誰もが大聖人の思想性の高さに気づくだろう。その文脈の上から先の御文について思いを馳せるべきなのだ。そこでどのような答えが出るかは人それぞれなのかもしれないが、少なくとも一定以上の評価が得られるだろうと思う。

実は同様の意味で、ライフスペース代表の発言にしても、あの短い動画だけで判断してしまうのは可哀想な面がある。やはり彼の全著作を読んだ上で判断するべきなのだ。

六千年前? 何それ? ヘンなの?

確かにこれで終わっている話なのかもしれないが、もしかしたら彼の著作にその六千年の根拠が説かれている可能性だってあるのだ。短い記者会見の場では説明し切れないだけであって、ちゃんとした根拠があるかもしれないのだ。

以上、信仰上の確信のみで語るならば、大聖人と高橋某が同じわけがない、違うに決まっているじゃないか、ということで話が済むけれども、ちゃんとした説明をするためには両者の主張を公平な尺度から比較検討しなければいけない。わたくしの場合は、そんなこと面倒臭くてやってらんないよ、というのがいつもながらのパターンである。

さて、次は蝸牛氏についてである。

わたくしの第一印象は、この人はデキる、相当の使い手だ、ということである。同時に、大聖人の呼称を単に日蓮と書いているので、いったいどういう立場なのだろうか、という謎も残っている。

いずれにしても学会未活動者氏に対する反論は、わたくしの代弁をして下さっているようなところもあって、ひじょうにありがたいものだった。ここにはあえて掲げないけれども、前回のコメント欄はその他の投稿者の記事も含めてひじょうに充実したものだったと記憶に留めて置きたいと思う。

巌虎さんは失礼ですが、物体本尊と「本尊そのもの」の違いを知って欲しいと思います。

そこで重複を恐れず、わたくしなりの学会未活動者氏への反論を書くことにする。まず、上掲については文証を求めたい。大聖人の御書からもっとも適切かつ簡明な御文を提示願いたい。それが出来なければ話が先に進まないのだ。

沖浦氏は公理だの定理だの法則だのという言葉を書き並べている。これらにはよく個人名が付されているけれども、その個人名そのものはどうでもいいものである。新発見の星には発見者の名前が付されるそうだが、その星は発見されようがされまいがもともと厳然と存在するものである。つまり、名前はどうでもいいものなのだ。われわれ人類が勝手に名前をつけているだけであって、その星にとってはまったくの無関係のことだと言ってもいいだろう。公理だの定理だのも同じであって、誰かが発見しようがしまいがもともと厳然と存在するものなのだ。それに名称を付するのは、いわば便宜的な意味に他ならない。

便宜的な意味・・・

つまり、場合によっては名称の変更もあり得る。あたかも日蓮正宗が国立戒壇の名称を使用しないと決定したことと同じようにである。

ここまで書けばわかるだろう。

南無妙法蓮華経がくだんの公理だの定理だのと同様のものだとして、南無妙法蓮華経が南無妙法蓮華経でなければならない絶対的な理由は何か、という問いに沖浦氏と学会未活動者氏は答えなければいけないのだ。

物体本尊と本尊そのものは違う。

未活動者氏の主張である。ならば次にわたくしの主張を書こう。いや、厳密にはわたくしの主張ではなく、こういう主張も成り立つのではないかという、問題提起の意味である。

名称本尊と本尊そのものは違う。

はたして未活動者氏はこれにどのように答えるつもりだろうか?

さて、最後はオマケ(?)である。

このブログの面白さは、意表を突くコメントと主宰のバカバカしいほどの真剣さなのかなぁ〜? (笑)

う〜ん、そうですか、バカバカしいほどの真剣さですか・・・

K彼女にフラれて、またフリーに逆戻り。

確かにこういうコメントは意表を突く好例かもしれない。何でまた拙ブログに書くかなあ、と思うところだが、いずれにしても面白いと言って下さる人がいることはありがたいことであり、ひじょうに励みになることだ。

2013/12/22

曼荼羅道具論の総括と教子氏の話題  
各方面より興味深いコメントがたくさん寄せられている。その多くは沖浦氏に関連する内容である。氏の人気の高さを示すものであろう。

沖浦氏の思想は真言宗に近いと書いた。すると元クリスチャンという説も出てきた。もはや話がややこしくなる一方である。

そこでわたくしなりの総括をしたい。

まさか沖浦氏が御本尊を踏みつけたり引きちぎったりという、そんな乱暴なことをするとは思わない。ともかく道具という表現が問題なのだ。

仏壇仏具。

これは世間一般に使われている言葉であるが、仏壇は説明するまでもなかろう。仏像を安置するところである。ここでの仏像は絵像もあれば木像もある。そして曼荼羅本尊もある。あるいは本尊ではなく位牌を中心に据えているような場合もある。いずれにしても仏壇はかくのごとしである。
では仏具はというと、いわば仏壇の付属品に相当するものである。花立だとか香炉だとか灯明、あるいは鈴や経机などがそれであろう。
もはや話は見えたはずである。本尊を道具と言ってしまうと、仏具と混同してしまうのだ。まさか沖浦氏は本尊を仏具の一つだと思っているわけではあるまい。もし思っているのだとしたら、これは完全なる本末転倒である。

仏壇は本尊を安置するための施設である。ここでは本尊が主であり仏壇が従となる。仏壇仏具の場合、仏壇の付属品に相当するのが仏具であるからして、仏壇が主で仏具が従となる。もし本尊が仏具の一つだとしたら、ここで矛盾が生じることになる。

正宗仏壇と八宗仏壇。

こういう分類があるらしい。正宗仏壇は申すまでもなく日蓮正宗系の用いる仏壇である。八宗仏壇は他の一般仏教が用いている仏壇である。

両方の仏壇店を見学すると、重要なことに気がつく。正宗仏壇の店は仏壇を展示しているけれども、その仏壇にはただの一つも本尊が安置されていないのだ。一方の八宗仏壇の店は展示品の仏壇の中に本尊が入っている場合がある。全部がそうではないけれども、本尊がセットになって売られているような仏壇もあるのだ。

これでよくわかるだろう。この事実はいわゆる既成仏教の形骸化を如実に物語るもので、本尊の価値・重要性がまったくわからなくなってしまって、あたかも仏壇の付属品すなわち仏具の一つになってしまった姿そのものなのである。沖浦氏にそのつもりはさらさらないにしても、曼荼羅道具論を主張することはこれらとの混同を来たす意味で問題である。全面的に撤回すべきとまでは言わないが、表現に工夫を凝らすべきだろう。

さて、次は前回のコメントの中で唯一異彩を放つ、教子氏のものである。

 久しぶりに、愚痴ブログを見たが

>『教育委員会は閑職』

↑『巌虎も、遂に狂ったか?教育委員会に対するヤッカミ・嫉妬か?黒子のバスケに恨みを抱いた⇒バカと同じか』

 自分は どうなんだい?閑職と言うより無職では!

 どこの組織・会社にも本部・本社は有る。本部たる教育委員会が無かったらどうなる?
⇒教育現場が荒廃してしまう。

 顕正にも本部が有るだろ。

『教育委員会は閑職』との暴言を撤回し、謝罪を求める。
 これは私【教育委員会】にではなく、自治体たる教育委員会に対してだ。


前後に女子部大会のことと先方のブログの宣伝のようなことが書かれているが、それは省略させていただいた。

結論を書くと、わたくしの質問を無視して逆ギレしているだけ、というのが事実だと思う。別の言い方をすれば、わたくしの質問に答えるのがイヤなので、話の矛先を変えるために怒ったふりをしている、ということかもしれない。

教育委員会は閑職・・・

拙ブログの中にこのような表現があるのは事実だが、わたくしの意図するところは全体の文脈をつかんでもらえればわかるはずだ。ところが教子氏はそれを知ってか知らずか、結論として次のように書いている。再掲しよう。

『教育委員会は閑職』との暴言を撤回し、謝罪を求める。
 これは私【教育委員会】にではなく、自治体たる教育委員会に対してだ。


アゲアシ取りを承知で書けば、自治体たる教育委員会? なんじゃそりゃ? という感じである。それほど目くじら立てるべき表現ではないけれども、ヘンな感じは否めないだろう。ここでダメ押しがてら修正案を示しておく。

 これは私【教育委員会】にではなく、本物の教育委員会に対してだ。

このほうが明解だ。もっとも、ホンモノの教育委員会と書いてしまうと、もう一つのほうがニセモノの教育委員会に思えてしまうので、この表現は使いたくても使えなかったのかもしれない。

いずれにしても謝罪撤回については保留としたい。なぜならば今の段階ではわたくしに非はないと考えるからである。前後の文脈を踏まえて読んでもらえればどこにも問題は存しない。教子氏が一方的にイチャモンをつけているだけというのが大方の見方だと思う。

 自分は どうなんだい?閑職と言うより無職では!

別に痛痒を感じるものではないが、場合によってはこれを逆手に取って逆襲することも可能だ。ようは無職か無職でないか、これはその気になれば簡単に証明できる。教子氏と対面すれば、そこで一気にケリがつくことだろう。どちらが謝罪することになるのか、他の読者も興味津々のはずだ。

自分で言うのもなんであるが、少なくともネット上のわたくしは冷静沈着である。百戦錬磨はウヌボレが過ぎるにしても、拙ブログはこれまで各方面から多種多様のコメントを頂戴してきたので、今はそれなりに度胸が据わっているのだ。ゆえに、少々のことでは驚かないし、頭に血が上るようなこともない。よって、教子氏ごときと言ったら失礼であるが、挑発されようが謝罪撤回を迫られようが、それほど動揺もしなければ、キレることもない。

しかもである。わたくしは自分に非がある時は素直に謝ることが出来るタイプである。ヘンに自分を正当化しない。むしろ早く謝ってしまったほうが傷が少なくて済む。実際、拙ブログではそれを実行してきた。ゆえに潰されることもなくここまで来れたのだろう。

ということで、さしあたっての問題は本物の教育委員会からクレームが来るかどうかであろう。そこでわたくしがどのような対応を取るかが注目されるわけだ。

まあ、しかし、教育委員会が拙ブログを潰さんとしてアクションを起こすとは思えないのであるが、いかがだろうか?

いずれにしても教子氏はわたくしの質問に答えるべきである。まさか忘れたわけではあるまい。

2013/12/19

女子部大会特集号を読んで  
今日はいよいよ女子部大会の話題を取り上げるが、その前に沖浦氏にお返事申し上げておこう。

 一切の真言師は潅頂と申して釈迦仏等を八葉の蓮華にかきて此を足にふみて秘事とするなり。

真言宗にはいわゆる敷曼荼羅と呼ばれるものがあって、それを儀式の時に用いるのだそうである。その曼荼羅には釈迦をはじめとして、さまざまの仏菩薩が画かれている。真言師たちはその上で儀式を行なうという。大聖人はこれを痛烈に批判している。釈迦仏等を踏みつけるとはけしからんことだと。

おわかりいただけるだろうか?

真言宗における敷曼荼羅はいわば道具なのだ。潅頂を行なう際に用いる道具の一つなのである。これで沖浦氏の曼荼羅道具論の位置付けがハッキリしてきた。どうやら氏の所論は真言宗に近いということになりそうである。

「女子部大会」特集号

さて、本題である。顕正新聞第1293号は女子部大会特集号であるが、ちゃんと新聞にも上掲のごとく謳ってある。最近はこのパターンが定着しつつある。

今ぞ御仏意による順縁広布の時

三万五千の女子部大会 熱烈開催
 紅涙のなか広布最終段階へ出陣


一面の見出しである。ここからわかることは三万五千人が集ったことだ。当初、三万人の大会を謳っていたので、目標を大幅に上回る大結集が叶ったわけだ。

フェイクなど、ネット上の情報ではずいぶん評判が悪かったけれども、顕正新聞を見る限りでは大成功だったように思う。いや、もちろん、顕正新聞が失敗を報ずるわけがないし、逆にフェイクが成功を報ずることもないのは当然なのだが、少なくとも大結集は事実であろう。

当該号にはたくさんの写真が掲載されているが、どの角度から見ても満席である。昨年の婦人部大会は上階のほうに空席があった。しかし、今回の大会は満席である。

舞台裏の席まで埋め尽くされた場内で・・・

これは六面左下の写真に付された文言である。確かに舞台裏のデッドスペースのような席にも人が座っている様子がわかる写真である。また、浅井先生は十一月度総幹部会で、日本一の大会場が場内はもとよりロビーまで溢れた・・・と語っている。海外十ヶ国からの参加もあった。

フェイクは男性会員の姿が目立ったという意味のことを書いていた。確か二割くらいは男性だったと。それから、とてもじゃないが女子部とは言い難い、後期高齢者の姿も目に付いた、と。

しかし、顕正新聞を見る限り、それは誇張が過ぎるようである。

十数枚ある掲載写真のいずれを見ても、男性の姿はほとんど確認できない。もちろん太鼓を叩いている、いわゆる雷門会の人たちは別である。冨士軍楽隊も別だ。すると男性の姿はほとんど見られないと言ってもいいだろう。

いや、厳密にはいないわけではなく、会場を広く捉えた全体写真を詳しく見ていけばそれ相応の人数を確認することが出来るだろう。しかし、わりとアップで撮られた写真には男性の姿が見えないのだ。女性たちもわりと若い。後期高齢の人は見当たらない。

まあ、当然のことながら、編集部のほうで写真を選んでいるのだろう。アップの写真に男性が写っていればボツである。うるさい連中がすぐにツッコミを入れるからである。

ゆえに男性女子部員ないし後期高齢部員がまったくいなかったとは、さすがのわたくしも言わないが、しかし、それが問題視されるほどの大人数だったとはとうてい思えない。もともと女子部は強い組織なので、結果論ながらも三万五千人は妥当であり、結集の意味では大成功だったと、いちおうは言えるのではないかと思う。

さて、会長講演についてだが、わたくしは三項目ほど気になる点があった。

いよいよ近き広宣流布のその日まで、女子部こそ顕正会の先陣を切ってほしい。

引用文は太字にする、これが拙ブログの表記上のルールであるが、これは原文も太字になっている。次も同様である。

御遺命成就のその日まで、共に戦えること、私は何よりも嬉しく思っております。

いよいよ近き広宣流布のその日まで・・・

御遺命成就のその日まで・・・

実はもう一つあるのだ。これまた太字である。

近き広宣流布のその日まで、私と共に駈けぬいてほしい。

のび太氏の言葉を思い出した。詐術のプロ・・・というヤツである。

悩ましいところだ。客観的にはできっこない。誰もがそう思っている。ゆえにその尺度で言えば詐術以外の何物でもないのだ。しかし、もし広宣流布は絶対であるとの確信から述べているとしたら、ようするに本人が本気でそう思っているとしたら、それは詐術ではないことになる。こればかりは他人の心の内の問題なので、何とも断定し難いのだ。

さて、二点目である。

 今御身は女人なり、ごんじち(権実)は知りがたし。いかなる宿善にてやをはすらん。

浅井先生は乙御前母御書の当該御文について、次のごとく解説している。

 いま日妙殿は女性である。仏法を本格的に学んだことはないであろう、ゆえに「ごんじちは知りがたし」権実の立て分けもまだ知らないであろう。しかるにこの不惜身命の信心はいかなる宿善なのであろうか――

これは誤読だろう。ここでの「ごんじち」はいわゆる権実相対の意味ではない。文脈上、権実相対のわけがないのだ。

大聖人はこの直前に伝教大師などの例を引き、次のごとく仰せられている。

かれは皆男子なり、権化の人のしわざなり。

権化の人という表現に注目すれば自ずと正解がわかるはずだ。仏法上の偉人には過去世の因縁がある。目連は過去世において千里も離れたところを通って仏法を聴聞したという。それが現世における神通第一という結果を招いたわけだ。天台伝教は法華経に精通していた。それは他の追随を許さないほどだった。なぜならば天台伝教は法華経の会座にいて、釈尊の説法を直接聞いていたからである。いわゆる霊山の聴衆というヤツだ。

このような人たちを権化の人と呼ぶ。

つまり、ここでの「ごんじちは知りがたし」は、日妙聖人が権化の人かどうかはわからない、という意味なのだ。

ゆえに「いかなる宿善にてやをはすらん」を含めて意訳するならば、「あなたは女人でありながらも伝教などの男子に劣らないほどの偉大な方である。今わたくしには俄かには判断できないが定めて過去世の宿善によるものに違いない」ということになる。

三点目は憲法問題だ。

 この憲法は、日米戦争の勝者であるアメリカが占領政策の一環として、日本を弱体化するために定めた基本法です。具体的にいえば、日本が再びアメリカの脅威とならぬよう、アメリカに依存しなければ存立できないように作られている。だからさまざまな欠点はある。

世間一般の識者が言っていることとさほど変わらないだろう。続きが問題である。

 ただし仏法の眼でこれを見る、広宣流布という観点からこれを見れば、まさしく順縁広布をもたらす大事が、自ずとここに含まれているのです。これが御仏意なんですね。大聖人様の御意によって、自然とこのような憲法が出てきたのであります。

なんか都合のいいことを言っているなあ、というのがわたくしの第一印象である。具体的には続きをご覧いただきたい。

 その大事は二つある。
 一つは第二〇条の「信教の自由」。もう一つは第九条の「戦争放棄、戦力放棄」であります。


信教の自由については、先般の不当捜索の時にも力説していたし、それ以前から言っていたと思う。

しかし、九条のほうはどうだろう?

しかも、話が見えない。

戦争放棄ないし戦力放棄がどのように広宣流布に結び付くのか、それが今までの話では見えてこないのだ。もちろん、さらに続きを読めばわかる、わかるのだが・・・しかし、いかがなものかと言わざるを得ない。

煩瑣を避けて、一節だけ紹介しよう。次がわかり易いと思う。

 いいですか。この日本国憲法のもたらしたものは何かといえば――
 「信教の自由」によって広宣流布はしんしんと進む。だがその一方、もしアメリカの保護を失えば、日本は世界でいちばん侵略されやすい国になる、ということです。


これは前代未聞の憲法解釈だ。

憲法解釈はやや不適切だかもしれない。代替として憲法に対する評価とでも言うべきだろうか、それがいかにも風変わりというか、突飛というか、ともかく前代未聞である。浅井先生の独自性、オリジナリティと表現すれば聞こえはいいものの、どうかと言わざるを得ないところである。

簡単に整理すれば、二十条は肯定、しかし九条は???ということになる。ようするに曲線的な評価であって、単純に肯定とも否定とも言えないところが煩わしいのだ。

これを世の護憲論者や改憲論者がどのように読むか、感想を聞いてみたいものである。

以上、今日は女子部大会の会長講演を中心に書いた。

2013/12/18

曼荼羅道具論者との対話  
アドバイスを頂戴した。

法華経の白文と読み下し文を掲載しているサイトから、テキストデータでログを保管し、引用する時は、手持ちの法華経開結本と誤字脱字や新旧字体の照合をしながらやるのが、賢い手法だと思います。

面倒臭いと言ったら叱られるかもしれないが、これがわたくしの本音である。たぶん、おっしゃる方法がいちばん賢明なのだろう。仕事の出来る人はこういうテクニックというか工夫を、日常的に当たり前のように行なっているのだと思う。ゆえに本当ならばそれを見習うべきなのだが、怠け者のわたくしはそれをやらない。やらないでグダグダ言っているだけなのだ。アドバイスを下さった方はさぞガッカリしていることだろうが、これがわたくしのありのままの姿なのである。

それはさておき、沖浦氏より懇切なるコメントを頂戴したので、次に全文を掲げたい。

2013/12/16 16:23
投稿者:沖浦克治
 巌虎さん今晩は

 少し長くなりますがご疑問にお答え致します。

 『其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏多宝仏釈尊の脇士上行等の四菩薩文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり、是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。』
 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

 正法像法には、大聖人ご図顕のご本尊は誰も図顕しなかった。

 『此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず』

 ここで注目すべきは、

 『造り画けども』

 との言葉です。
 当然造って画く人がいるわけです。
 ですので、全ての仏像は当然誰かに造り画かれる存在です。

 仏像出現の後には、

 『せしむ可きか』

 とありますでしょう。
 当然出現せさしめる人がいるわけです。
 仏像自体は、誰かに出現させらると言う意味です。

 ですので、西郷さんの銅像を造った人と、ご本尊を図顕された大聖人の行為は、造り出すと言う部分は差別がございません。


わたくしの感想を書くと、氏の所論は常識的な思考に裏打ちされてはいるものの、結論部分においては摧尊入卑の気味が感じられなくもない、ということになる。

西郷さんの銅像を作った人と大聖人が同じわけがない。当然、かの銅像と大聖人の御本尊とが、同じであるわけがない。この意味で沖浦氏の言っていることは摧尊入卑そのものである。

いや、もちろん、氏はそのようなつもりで書いたわけではないのだろう。それはわたくしも承知しているつもりであるが、しかし、上掲はそのような誤解を与えかねない意味で、あまりよろしくないと思う。
一般人の感覚では大聖人の御真筆であろうが、しょせんは数多ある文化財の一つに過ぎないわけで、その意味では西郷さんの銅像も大聖人の御本尊も変わりがないことになる。
しかし、信仰者にとってはまったく別物であって、一緒にされてたまるか、ということになるのだ。

曼荼羅道具論者の沖浦氏には、この辺の違いがわからないらしい。

そうそう、その前に書いておくことがあった。

仏像出現

わたくしはこのキーワードにこだわって、あれこれと考えをめぐらせているわけだが、そもそも仏像とは何かという問題がある。曼荼羅正意論者はこれを曼荼羅御本尊であると主張する。けれども仏像と書いてあるんだから、これはあくまで仏像だろうと、このように主張する人も少なくないのだ。

この点においては沖浦氏とわたくしに齟齬はない。ゆえにこのまま話を進めてもいいのだが、少しだけ触れておこう。

最近の若い人は絵文字を多用する。そのバリエーションの豊富さには驚くばかりだが、そもそも文字の起源を遡ると、それは紛れもなく絵を簡略化・記号化したものであることがわかる。いわゆる象形文字がそれである。ならば絵像と文字曼荼羅は一見すると別物のようでいて、実は同じであることになる。より正確には絵像の派生が文字曼荼羅である。さらには派生を発展と言い換えてもいいだろう。けだし、大聖人の文字曼荼羅は素朴な絵像・木像の域を脱して、高度に発展した形の仏像であると言えるだろう。

さて、ここで沖浦氏との議論に戻るが、氏は前々回のコメント欄において次のごとく言っている。

・・・本尊は仏を象ったもので、仏そのものではございません。

 自らの漫荼羅本尊を、仏像とお呼びです。
 像とはかたどったものの意で、例えは西郷隆盛の銅像は有名ですが、隆盛自身ではございませんし、それは疑う術すらない社会の常識です。


これは木絵二像開眼の事を踏まえて書いているのだと思われる。

生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり。

木画の二像は生身の仏にはをとれりととけり。


ちなみに大聖人はこの後、木絵二像といえども開眼すれば生身の仏と異ならない、という意味をおっしゃっているわけだが、それはこの際、度外視することにしよう。沖浦氏の主張するように、仏像はどこまで行っても仏像なのだ。これが現代感覚としては正しいわけであり、まさしく一般常識そのものである。

では、沖浦氏は次の御文をどのように拝するのだろうか?

 日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。

御本尊=大聖人? そんなバカなことがあるか、しょせんは紙に書いた文字じゃないか、それがイコール大聖人のわけがあるもんか!

西郷隆盛の銅像は西郷隆盛自身ではない、それが社会常識だ。

沖浦氏の言葉である。ならば文字曼荼羅も同じことなのだろう。

信仰者失格・・・これで話を終わらせてもいいのだが、せっかくだからもう少し続けよう。

されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御坐し候へ。

諸法実相抄である。

この御文を拝すると文字曼荼羅の相貌が彷彿としてくる。細かい相貌はわからないけれども、最上段の仏菩薩くらいはわたくしにもわかる。

ここで現代感覚の上から論じてみよう。文字で釈迦・多宝と認められているが、これはしょせん文字に過ぎない。つまり、絵像・木像と同様であって、釈迦・多宝は釈迦・多宝そのものではない。

では、妙法蓮華経はどうだろうか?

妙法蓮華経は妙法蓮華経そのものではない?

ん? なんだ、そりゃ?

ここでわたくしの文章を再掲しよう。

大聖人の文字曼荼羅は素朴な絵像・木像の域を脱して、高度に発展した形の仏像である

南無妙法蓮華経はいわゆる法である。釈迦・多宝はいわゆる仏である。仏は絵像・木像として表現できるが法は難しい。法を具現化するにはどうしたらよいのか、これはもう文字曼荼羅しか他に方法がないのではないかと思うのだ。

南無妙法蓮華経は南無妙法蓮華経そのものではない。南無妙法蓮華経という法は厳然と存在するが、文字にあらわされた南無妙法蓮華経は法そのものではない。もしそうだとしたら、誰も知ることができない。

至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。

当体義抄の有名な御文だ。また、初期の蓮盛抄には次の御文がある。

仏は文字に依って衆生を度し給ふなり。

そして本尊抄の最後には、

 一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裏み裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ。

とある。

以上、仏・菩薩を絵像・木像にあらわしても、それは仏・菩薩そのものではないというのはその通りかもしれないが、大聖人の文字曼荼羅はそのような次元のものではないことを知るべきである。本来、無味・無臭、無形であるところの、凡夫にはとうてい触れることの出来ないものに対して、色を付け味を付け香りを付けて、末代幼稚の我らにも知らしめて下さった、それが大聖人の曼荼羅御本尊なのだ。


同日追記:裏みは裹みの間違い。わたくしも目が悪くなったものだ。

2013/12/16

顕正新聞第1292号を駆け足で  
のび太氏がどこかの掲示板の情報を貼り付けてきた。わたくしがどのような反応を示すか、試しているのだろう。しかし、そうは問屋が卸さない。真偽に関することは取り扱わない、それが拙ブログの原則である。

一方、沖浦氏のコメントは真偽を云々するのではなく、考え方を問うもののようである。

本尊は仏を象ったもので、仏そのものではない。

仏像は仏を象ったものであり、仏そのものではない、曼荼羅も同じであると、これが沖浦氏の見解らしい。

なんだか前にも似たような議論をしたことがあるが、同じことを繰り返しても仕方がないので、今日は一つだけ新しいことを書いておこう。いや、実際には新しくもなんともないのかもしれない。既述の事柄かもしれない。しかし、拙ブログは膨大をきわめるので、何をどこに書いたか忘れてしまっている場合が少なくないのだ。

仏像出現

これがわたくしの着眼点である。仏像が沖浦氏の主張する意味だとして、それに続く出現がどのような意味になるのか、それが問題である。何かお考えがあれば、ぜひとも聞いてみたいものである。わたくしの考えはいずれ機会を改めて書こうかと思う。

文底下種の寿量品の大事 心腑に染めよ
久遠元初以来の御化導を説き顕わされる
「日蓮大聖人の弟子として生き 死んでいこう」


顕正新聞第1292号の話題を取り上げよう。当該号のメイン記事は御大会式の浅井先生講演である。

今回の講演は寿量品の良医治子の譬えを中心に組み立てられている。そして、ここがまさに浅井先生の面目躍如というべきところで、上掲の大見出しに明らかなごとく、単に寿量品の内容を解説するのではなく、文底下種の立場から読むとどうなるかを、日寛上人の御指南を踏まえつつ解説しているのだ。さすがは文底読みの名手だ。

細かい内容については省略させていただき、大雑把な感想を書いておこう。

たぶん初心者には相当に難解な講演だったと思う。というのは、わたくし自身がそのように感じたからだ。何しろ顕正会員は勤行を欠かさず実践しているものの、訓読をすることはないので、経文の意味内容をほとんど理解していないのだ。ゆえに当該講演でいきなり経文を羅列されても、多くの人が抵抗を感じるはずなのだ。たとえ丁寧な読み下しが付されていたとしても、人によってはハナッから拒絶反応のような状態に陥ってしまい、深く理解するに至らないのではないかと思われるのだ。

いわんや一般人をやである。

一般人はさておき、日蓮系の各派がどのように評価するか、それも気になるところである。文底読みそのものを認めない人たちもいる。ましてや沖浦氏ではないが日寛上人の御指南を多用しているとなると、もはやまったく他門には通用しない可能性もある。すると、しょせんは日蓮正宗系の一分派の教祖(?)が信者向けに説法しているだけであって、世間的にはまったく顧みられないということなのかもしれない。

他門はともかく、正宗でどのように評価されるか、そこがまた気になるところである。

これも悲しいかな、諸般の事情からして正当な評価を得られる状況ではない。正宗の僧侶たちにしてみれば、たとえ内心ではそれなりの評価を与えていたとしても、口に出して言うことはない。創価学会や正信会も同様だろう。結局は誰からも評価されないのが現実なのだ。

さて、そこで一つだけ具体的に取り上げておこう。

其父聞子、悉已得差、尋便来帰、咸使見之

余計なことを書いておくと、これを入力するのにずいぶん苦労した。何かいい方法があるのだろうか?

それはさておき、本題である。浅井先生は上掲の経文を掲げた上で、次のごとく発言している。

 日本国の一切衆生ことごとく恋慕渇仰するを見て、このとき、日蓮大聖人の御魂たる本門戒壇の大御本尊は、いよいよ国立戒壇にお出ましになり、日本国の一切衆生にその御姿を見せて下さる――ということであります。

わたくしの素朴な疑問というか、ひじょうに気になるところは、この浅井説の根拠は何か、ということである。

直訳でないのは明らかだし、意訳というのも違うだろう。この経文からいったいどうやったらこのような結論が出てくるのか、普通の人にはまったく理解できないはずである。あるいは正宗系の人にしても、わからないかもしれない。もちろん、国立戒壇という呼称が問題なのではない。仮にそれを本門戒壇と言い換えたとしても、はたしてこの主張が成り立つのかどうか、そこが問題なのである。

もし日寛上人やその他の上人の御指南に浅井説を裏付けるに足るものがあれば、いちおう問題は解決すると言えるだろう。御法主上人の御指南を信受するのが信徒のあるべき姿だからである。しかし、浅井先生以外に誰も言っている人がいないとすると、大変なことになる。

熱心な活動会員たちが言うように、やはり浅井先生は仏法上の特別な存在なのだろう。

さて、すでに大見出しに明らかであるが、同じ文章を本文中から抜き出してみよう。

 顕正会員は日蓮大聖人の弟子として生き、大聖人の弟子として死んでいけばいいのである。

これは名セリフだ。実にカッコイイ。

しかし、穿った見方をすれば、先生も歳であるからして、いよいよ死期を悟ったのかとも思える。何か病気を抱えていて、医者から引導を渡されたのかもしれない。それはさすがに穿ち過ぎにしても、年齢的な限界は誰にも例外がなく、やがては経験することである。

同新聞には六面に第八女子部長の次の記述がある。

 第八女子部におきましても、六一七名の同志が「これが最後かもしれない」との切なる・・・

これはいわゆる切り文の典型かもしれないが、まあ、それを承知で引用した。文脈としては女子部大会に沖縄諸島から六百十七名の女子部員が参加したことを言っているわけだが、それにしても「これが最後かもしれない」というのはイミシンである。先の御大会式講演を踏まえて読めば、思い半ばに過ぎるものがあるはずだ。

さて、今さらながら十月度班長会の記事を取り上げておこう。

眼前に迫る天生原までの御供に思いを馳せれば・・・

総合婦人部長の発言である。彼女の目には国立戒壇建立が眼前に迫っていると映るらしい。幻視でなければいいのだが・・・

次の副総合婦人部長の発言も凄まじい。

 第六天にしてみれば、先生のご講演が広く世に知れ渡れば、学会崩壊は間違いなく加速すると察知したからこそ、巨大台風となって総幹部会を直撃し阻止しようとしたのだと思えてならず・・・

顕正会は諸天の働きを重視する。これは昔からそうなので今さら驚くに値しないけれども、しかし、いかがなものかと思う。魔障の嵐・・・みたいな表現を、おそらくは創価学会でも宗門でも使うと思うが、上掲の場合は譬喩だとか文章表現だとかではなく、正真正銘の嵐なのだから恐れ入る。自然災害を仏法に結び付けることは大聖人があそばしていることなので頭ごなしに否定することは出来ないが、しかし、我々凡夫がそれをやると失敗する場合が少なくないと思う。ようはハタから見て、自分たちに都合のいいように解釈しているだけ・・・と映ってしまうのだ。いや、もちろん、それもまた凡夫の浅はかな印象に過ぎないのだが、そうだとしても失敗に変わりはない。相手にウサン臭いと思われてしまっては弘通も伸びないだろう。

大悪人池田こそ生きているうちに、大聖人様の御裁断を現身に受け、学会崩壊の音を聞くべきと強く思った・・・

同じく副総合婦人部長であるが、これがまた凄まじい。何と言うべきか、私憤をそのまま書いちゃっているような、そういう印象を拭えない。

もう一つ紹介して終わろう。

娘の折伏に逆上し30年も反発

これは三十年越しの折伏で入信したという体験発表だ。登壇者は九月に入信したばかりなので平会員である。そして三十年のキャリアを持つ娘さんはなんと組長なのである。ここが凄いところだ。

顕正会は定着率が悪いことで有名だが、こうした無名の組長が長年にわたり地道に活動している事実も見過せないところである。しかも三十年越しの折伏で母親を入信に導いたとの報告は、親の大反対の中で活動している他の会員たちにとって物凄く励みになることだろう。

2013/12/13

詐術のプロ  
沖浦氏とユタ氏から十大ニュースの発表があった。前者はいつもながらのポジティブ、後者はネガティブ、大雑把にはこのように評することが出来るだろう。だが、ネガティブなユタ氏にも、どうやら明るい兆しが見え始めたごとくである。

それはさておき、重要なコメントが寄せられているので、それを取り上げてみたい。

2013/12/7 18:51
投稿者:んっ?
>千仏授手

命終した人の書き込みでしょうか?(笑)
巌虎様ともあろう御方が其れを称えるとは意外です。

>国教

これまた意外です。
祭政一致の時代なら成り立つ話でしょうが,
民主主義の現代においては如何でしょうか?

日本国憲法第二十条  
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、
又は政治上の権力を行使してはならない。
2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に
参加することを強制されない。
3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる
宗教的活動もしてはならない。

まさか,此の条文も「改悪」すればよいと御考えでしょうか?
自民党以上の「極右」ですね?
財政上の問題として記したわけではありません。

>いずれにしても、今の段階ではあまり意味のある議論とは言えない

其の通りです。
しかし,其れに拘って,学会を攻撃してきたのは顕正会ではありませんか?

「広宣流布」と「戒壇建立」はセットでしょう?
であるから,日達上人は

「正本堂は一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む
 現時における事の戒壇である。即ち正本堂は広宣流布の暁に
 本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」

と,訓諭されたのです。


なかなか鋭い反撃だ。

まず、簡単なところから片付けてしまうと、千仏授手については創価学会らしい柔軟な解釈ということでよろしいかと思う。実際、沖浦氏によれば、池田氏の講義にその旨の発言があるらしい。

そして日達上人の訓諭云々に関しては、まさにあの当時においてはそれが喫緊の課題だったわけであり、浅井先生としては正本堂の意義付けに異議を唱えざるを得なかったという事情がある。何しろ宗内では正本堂の完成=広宣流布の達成のようなことが言われていたからだ。その意味で日達上人の訓諭はいわば修正案だったのだ。しかし、浅井先生はさらに修正を求めた。その再修正の訓諭は結局公表されなかったわけだが、案文は今も浅井先生の手元にあるという。

以上、喫緊の課題と将来の課題という意味では、まさに正本堂問題は当時の喫緊の課題だったわけであり、妙信講の行動を単なるイチャモンのごとくに捉えるのは間違いと言えるだろう。

さて、そこで残るのは憲法二十条の問題だ。

実は意外や意外、浅井先生は護憲派(?)なのだ。いや、厳密には違うのだろうけれども、憲法二十条については肯定意見なのである。

警視庁の仏法弘通妨害は憲法違反

これは顕正新聞のいわゆる不当捜索特集号の大見出しである。まさか・・・自分たちの弘通を妨害するのはケシカランことだが、他の教団は邪教だからどんどん妨害すべきである・・・みたいな、そんな御都合主義的な主張ではあるまい。浅井先生は先般の女子部大会でも二十条については肯定的な意見を述べている。

であるならば、顕正会は強権的にではなく、あくまで民主的な手法で広宣流布を推し進めていくつもりなのだろう。

すると憲法改正の考えは捨てたのだろうか?

たぶん、それは違うだろう。

民主的に広宣流布を推進していくということは、現憲法を遵守した上で広宣流布を目指すわけだが、将来的には改憲を視野に入れているのだと思う。ようするに改憲も民主的な手続きを経て行なえばいいのであって、その上で国立戒壇が建つのであれば法律上は何の問題も存しないことになる。今直ちに国教を云々すれば、それは確かに憲法に抵触する。けれども将来、国民の大多数がそれを是とするならば、民主的かつ正当な手続きを踏んだ上で国教が成立することになる。理論上はそういうことだろう。

では、少数意見をどうするか、である。

近年、顕正会では六千万の弘通を大目標として掲げている。まさに国民の過半数の意見を集約できれば戒壇建立が可能になるとの考えなのだろう。ここで問題になるのは、少数の反対者をどうするのか、である。数の力で圧殺するのでは今の自公政権と変わりがないことになる。すると、他にどういう方法があるのか、それが問題だ。

そこで改めて憲法二十条を読むと、まず信教の自由が謳われている。そしてもう一つ重要な点は強制されないということだ。

これはきわめて優れた考え方であって、おそらくは歴史的に不可逆性のものだろうと思う。

はたして将来、顕正会が六千万を達成するかどうか、現実的にはかなり無理だと思われるが、ともかく仮定の話を続けよう。顕正会が六千万を達成すれば数の力で国立戒壇が建つ。顕正会は民主的な方法でこれを実現しようとしている。すると理論上は何の問題もなく合法的に戒壇が建つのだ。

そこで唯一のジレンマとも言うべきことが、現憲法に謳われるところの信教の自由であり、強制されないということなのだ。

なぜならば、たとえ合法的に戒壇が建ったとしても、それに異を唱える人が、唱え続ける人が、存在するというネジレ現象が起こり得るからである。

さて、顕正会はこの問題をどのように解決するのだろうか?

なお、わたくし個人の意見を簡略に書いておくと、本門戒壇は天皇一人の力で建立が可能である。広宣流布の考え方についても天皇の帰依がもっとも重要な意味を持つ。たぶん創価学会員には驚天動地の意見に思えることだろうが、少なくとも日本という国は歴史的文化的に天皇の存在なくしては語れないわけであって、広宣流布ないし本門戒壇建立も天皇に依存せずしては成立し得ないのだ。

この意味ではわたくしこそが極右であって、むしろ今の顕正会はきわめて民主的であり、常識的ということになるだろう。

2013/12/8 22:12
投稿者:のび太

こんばんは、

>まあ、しかし、顕正会ではあたかも広宣流布のゴールが目前のごとく言ってしまっているので、時期尚早ということはない。すべてにおいて具体的な議論が必要である。

こりゃあ、大変なこった。
<引用終了>

浅井先生が一番の詐術のプロですね! (笑)

2013年も残り一ヶ月を切りました。
御本仏に立てた誓願は守れるのでしょうか?


詐術のプロは物凄い表現であるが、確かに言われても仕方がない面がある。もし一千万の誓いはどうなったのかと質問されたら、いったいどうするつもりなのだろうか? こうした無責任な大言壮語に躍らされて、活動会員たちは見境なく折伏に励むのである。その結果が社会との軋轢となって、さまざまの事件を生んでいる。先般の報道にしても創価学会のせいばかりにはしていられない。浅井先生の無責任発言が事実である以上、まずはこの反省を述べるべきなのだ。


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