2014/2/28

不倫と風俗  
不倫は、夫ないし妻がいるにもかからず、それ以外の人物と性的関係を結ぶこと、たぶんこれが一般的な解釈だろう。しかし、本来的な意味はもっと広いはずで、ようは倫理に悖る行為を言うのだ。

風俗もまた同様に本来的にはひじょうに広い意味があるけれども、たぶんここでは性風俗の意味で使っているのだろう。具体的には風俗産業であり、ぶっちゃけ言えば売春ないし買春のことだ。これは金銭の授受によって性的関係を結ぶことを意味する。

わたくしの思うに、不倫と風俗を一緒くたにして論ずるのは話がややこしくなるだけであり、支離滅裂な議論になりかねない意味がある。問題はこれを論じている人がそれをわかってやっているのか、それともわからずにやっているのか、である。言葉の定義をアイマイにしたまま議論することの無意味さを知るべきだろう。

やや古風な表現と承知しつつも、わたくしは不倫ではなく不義密通のほうがわかり易いと思う。しかし、そうは言っても言葉は生き物だから、どんどんと変化して行く。今では不倫がもっとも一般的であり、ここに誤解が生ずる余地はほとんどないわけで、わたくしがいくら不義密通と表現すべきだなどと叫んだところでどうにもなるものではない。

風俗もしかりだ。

というのは以前、台湾での講演だったろうか、浅井先生が風俗という言葉を使ったことがある。しかし、先生の言う風俗はいわゆる広義の意味であって、風習だとか習俗みたいなニュアンスだったろう。
わたくし的にはそれで納得というか、きわめて適切な表現だったとは思うのだが、しかし、現代人の一般的な感覚としてはどうだろうかという疑問があって、当時の拙文でその意味のことを書いたことがある。
つまり、本来的には何ら問題のない言葉であっても、時代によって意味内容が変遷していき、今では使いづらい表現になってしまっている。その一例が風俗なのだろう。

公序良俗

よく耳にする言葉だと思うが、いかがだろうか?

これは「公共の秩序」と「善良の風俗」を短縮した言葉なのだという。公共の秩序はともかくとして、善良の風俗とは何だろうか?

まさか合法的な風俗産業を意味するわけではあるまい。

現代人は風俗を性風俗のことだと思っている。ここに大きな誤解が潜んでいるわけで、風俗とは人間の営み全般を指し示す言葉なのだ。ゆえに性風俗もその中に含まれるわけだが、現代ではそればかりがクローズアップされてしまって、結果として広義における風俗は死語化してしまったわけである。

公序良俗は法律用語としてよく使われていると思われるが、ここから本来的な意味の風俗を考えてみよう。

世の中は法律で規定されている。しかし、すべてが規定されているわけではない。人間の営みの一挙手一投足まで規定されているわけではないのだ。
では何か問題が生じた時に、法律でどのように裁くか、それが一つの大きなテーマとなる。何しろ法律で規定されていないのだから、その意味では裁きようがないのだ。
そこに公序良俗という概念が用いられるわけだ。
公序のほうはいわば準法律みたいなもので、いわゆる不文律だとか暗黙のルールがそれに当たるのだろう。つまり、法律では決まっていないけれども、それが世の中の常識だろう、こんなのは当たり前のルールだ、というような考え方である。
良俗のほうはそれよりも下位概念というか、たぶん公共性を問うことすら出来ない瑣末な問題、いや、このように書くと大したことのない問題のように思われるがそうではなく、人間の営みすべてを包含する意味では重要な問題なのだけれども、ただし、先ほどから書いているように法律で縛られることのない個人の一挙手一投足についてどのように考えるかという問題なのだ。

男女間のことは他人の与り知らぬ世界である。その行為を一から十まで法律で規定するわけには行かない。不倫であろうと性風俗であろうと、それが見えないアンダーグラウンドの世界であって、もし何の問題も生じないのであればそのまま放置するのが筋である。
しかし、トラブルが生じた時にはどうするのか、法律の規定がない以上、解決することが困難になる。そこで持ち出されるのが先ほどから繰り返し書いているところの、公共の秩序・善良の風俗という概念である。
また、本来ならば法律で縛るようなことではなくても、もしトラブルが多発するようであれば、そこでようやく立法が行なわれる。

卑近な例では、飲酒運転の禁止がある。

日本は飲酒が認められている。もちろん未成年者はダメであるが、成人はいくら飲んでもいいのである。何リットル以上は禁止であるとか、そのような規定はない。その人の勝手なのである。ようはこれが風俗である。何リットル以上はダメだという法律的規定はないけれども、さすがに大酒飲んで大暴れしただとかいう話になれば、これは文字どおり善良の風俗に反するわけだ。
しかし、大酒飲んで暴れるくらいの話はまだ可愛いわけで、これが飲酒運転ともなれば車が凶器に変わる。実際、飲酒運転による悲惨な交通事故がたくさん起きている。そこで飲酒運転の禁止という法律が必要とされ、さらには年々罰則が強化されてきたわけである。

ずいぶん脱線してしまったようだ。

いちばん最初の話に戻ると、不倫と風俗を並べて論ずるのは支離滅裂な議論に陥りやすい。しかも上述のごとく、一つの言葉にもさまざまな背景がある。ゆえにそれを知らずにあれこれ言っても仕方がない。しょせんは浅薄な議論に終始するだけである。

ちなみに御書には次のような表記を拝することが出来る。

とわり

遊女


本文に「とわり」とあって、ルビが「遊女」となっている場合が多い。たぶん、これは売春婦の意味なのだろう。わたくしの拝する限り、御書ではこれを忌むべき存在としているごとくである。

あるいは戒法門には次のごとくある。

他人の妻を犯さゞる戒を不邪淫戒と名づく。

さしずめ前掲は性風俗についての御指南で、これは不倫のことだろうか?

顕謗法抄にはさらに厳しい御指南が存する。

・・・邪淫とて他人のつまを犯す者此の地獄の中に堕つべし。而るに当世の僧尼士女、多分は此の罪を犯す。殊に僧にこの罪多し。・・・当世のほかたうとげなる僧の中に、ことに此の罪又多かるらんとおぼゆ。・・・

ことに尊げなる僧の中に、この罪を犯す人がたくさんいるのだそうである。

現代において、法律上はどうなのか、あるいは社会通念上はどうか、ほぼイコールで公序良俗の観点からどうか、さまざまの意見があることだろうが、大聖人の御指南はまさにかくのごとしである。

2014/2/25

顕正新聞第1299号雑感  
謎のコメントが寄せられた。自分に甘いと糖尿病になるというのは一種の譬喩としてわかるが、その後のコメントが不可解である。親父から云々と。ここでの親父とは誰なのか、さっぱりわからん話だ。

んっ?氏のコメントはわたくしを弁護する意味なのだろう。ありがたいことだ。

また、一つ前のコメント欄に学会未活動者氏から投稿があった。退転は表現としてよくないとのことだ。

顕正会は数年前から人材の掘り起こしに力を入れている。その時に浅井先生が言ったのだ。退転者という言い方はよくないと。ようするに、顕正会は一昨年の婦人部大会に始まって昨年の女子部大会、そして本年の男子部大会と大イベントが控えていて、そのために多くの人材を糾合していく必要があった。ゆえに、安易に退転者の烙印を押してはならない、粘り強く指導して育てて行きなさい、という意味から退転者という表現をやめたのである。

ただし、誰だったかが途中でこれに異議を唱えた。未活動はおかしいと。

すなわち、未活動は未だ活動せずの意味であるから、かつて活動していた人は当てはまらない、とのことだ。

なかなか難しいものである。

さて、話を変えよう。顕正新聞第1299号だ。これは一月度総幹部会の特集号である。まずは人事について書きたい。

女子部新区長(二十五人)
第四区長〜第百七十六区長


他に新理事が任命されたり、男子部や婦人部でも多くの人事が行なわれているが、やはり注目は女子部だろう。

個人的には第十九女子部長の交代が気になる。前任者はどうしたのか、けっこう活躍していたような印象があるので、その後の消息を知りたいものである。

それはともかく新区長の人事が圧巻である。一挙に二十五人の新区長が誕生した。

既設区 十四箇区
新設区 十一箇区


以前にも同じ視点で書いたことがある。

第四区から第百四十四区までは既設の組織であるからして、ようは区長の交代が行なわれたのだ。今回の新設区は百六十六区から百七十六区の十一箇区で、これが正真正銘の増加分である。二十五人の新区長だけを見れば、組織の大躍進を感じさせることが出来るが、真水分はその半分以下であるのが実態である。十一人の新区長はそれでよいが、十四人の新区長の陰には同じ数の降格ないし退転者が隠れているのだ。

女子部大会が終わったばかりだというのに、いったいどうしたことかと思う。

さて、次はいよいよ会長講演だ。

今回は書くことがたくさんあるので、今日のところはラインアップのみで終わりにしよう。大きく分けると二つだ。男子部大会の日時と会場が発表されたこと、これが一つ目である。そして安倍政権の終わりの始まりについて、これもけっこう重要な発言だ。

前者はすでにバーズ氏とセロリ氏との間で論争があって、一つの結論が出た模様である。

後者についてはどうだろう、ネット上で誰か論じている人がいるのだろうか?

次回はこの二つについて書くつもりだが、今日は会長講演の最後の段に注目して終わりたいと思う。まずは五年前の男子部大会での発言を振り返る部分から紹介しよう。

 私は五年前の平成二一年、三万男子部大会においてこう言った。
 「二〇二一年までに、中国の空母機動部隊が、いよいよ西太平洋に実戦配備されるであろう」と。
 これは当時、欧米メディアが流していた情報に基づいて言ったのです。


 これは好感の持てる書き方だ。わたくしはこれまで、浅井先生の予言癖について、繰り返し指摘してきた。ようは出典などをアイマイにしたままで、将来の見通しについて断定的な言い方をする。これがいかにも予言っぽくて、実際、それがために批判勢力から突っ込まれることがよくあったのだ。しかし、上掲であればそれほど問題はないはずで、ようは予言ではなく予測のようなニュアンスになると思う。予言と予測ではエライ違いなのだ。

しかし、続きを読むと、徐々に好感が薄れていく。中国の国産空母は六年後に完成するらしく、それを今回初めて中国の公官が発表したのだそうである。

 この発表の中に「六年後に完成」とあるが、六年後といえば、まさしく二〇二〇年に当る。

浅井流のレトリックと言ったら叱られるだろうか?

二千二十年にそれほどの意味があるわけではない。誰もが数字上の区切りとして記憶しやすいので、それを目標に事を進めるのはごく普通のことだ。これは個人も組織も同じであろう。顕正会においても二千二十年代を広宣流布の決戦場としている。これらは別に不思議な符合でも何でもないのだが、何となく先生の言い回しだとこれが時の不思議なのだと聞こえてしまう。そういう巧妙さが感じられるところである。

 もしこの空母が完成し、その数年後に空母機動部隊が西太平洋に実戦配備されたら、日本は風前の灯火となる。

言いたいことはわかる。しかし、わたくしの感覚では、空母がナンボノモンヤ、と言いたいところだ。

 その時までには尖閣は奪取されていよう。沖縄も危うくなっている。そして制海権を奪われシーレーンを封鎖されたら、石油も食料も入ってこない。日本は存立できなくなる。そのうえで、東京を始め大都市がミサイル攻撃で潰滅したらどうなるか。

やはり予言癖が出た。物凄い大予言である。

空母をナンボノモンと書いたのは、まさにミサイル攻撃云々に係っているわけで、わたくしはもちろん軍事的にはまったくのシロウトだけれども、現代はミサイル攻撃で事が決してしまうわけだから、その意味では空母の重要性が相当に薄れているのだ。ゆえに浅井先生が空母のことを云々するのが何となく時代遅れのような気がして、まさか先の大戦の意識が残っているわけではないだろうけれども、それにしても先生の言っていることはどうも前時代的な印象が拭えないのである。

今回はこんなところで終わりにしたい。

2014/2/24

安全地帯で毒を吐くブログ  
相変わらず不具合が続いているようだが、コメントそのものはちゃんと掲載されているようなので、投稿者はご安心されたい。

未明の旦氏のコメントを拝見すると、あたかも顕正会に復帰したかのごとく思える。氏は確か法華講員だったはずなのだが・・・

のび太氏からは軽妙なコメント、都区盟氏からは辛辣なコメントが寄せられた。

特に反論するほどのこともなかろうかと思うが、一つ言えることはこうしてブログを続けているからこそ、いろいろと批判が寄せられるのだ。より正確に言えば、コメントを受け付けているからこそ、自分にとって耳の痛い話も入ってくるわけである。ゆえにコメント欄を閉じてしまえば批判は寄せられない。さらにブログそのものをやめてしまえば、なおのことである。

トラちゃんは、いつもこうやって安全地帯を作る。

トラのクセにずいぶんと臆病ではないか・・・という意味も込められているのだろう。

しかし、人間とは不思議なものだ。

先ほどの繰り返しになるが、コメントを受け付けなければいいのだし、ブログそのものをやめてしまえばいいのだ。そうすれば何の憂いもないわけで、平穏な日々を送ることが出来る。
ところがである。それでは生きていて満足できない。ある種の緊張感がないと生きている甲斐がない。それが人間なのである。もちろん人それぞれであって、緊張感の種類だとか度合いが人によって異なるのだろう。
わたくしは高飛び込みだとかバンジージャンプみたいなものをやりたいとは思わないが、人によってはそういうのが物凄く好きな場合もある。
また、わたくしは匿名掲示板への書き込みをまったくしないのだが、その手の掲示板を好む人もいる。やや失礼かもしれないが、おそらくは緊張感の度合いにおいて、少し軽度のレベルにいるのだろう。いわゆるコテハンでは荷が重いが、ステハンならば気軽に書ける。

先日も書いたが、わたくしは匿名のコメントを受け付けない。少なくとも同じ土俵に上がって貰わないことには話にならないわけで、先日は例外的に匿名者との対話を行なったけれども、まさにそれは例外中の例外であって、やはり今後もその手の投稿は慎んでいただきたいと思う。

自然淘汰という言葉がある。

ネット上で生き残れるかどうかは、ほぼ自然淘汰によるものと考えていいだろう。マレには名誉棄損だの何だのと脅されて、自主的にサイトを閉じてしまう人もいるけれども、それ以外のケースを考えると自然淘汰が一般的だと思う。

巌虎独白はプロフィールを公開していない。年齢だの性別だの、あるいは居住地域だの、実際には震災の時に自分の住んでいる場所について書いてしまっているわけだが、まあ、それ以外はほとんどナゾのままである。
しかし、これは今の日本国内の個人ブログにおける、ごく平均的なあり方であって、それほど特異なものではないと思われる。有名人は別にして一般人のブログであればさほど違わないだろう。
もしもである。今後、実名のブロガーが急増して、わたくしのような虚名のブロガーが少数派になるようなことがあれば、そこがまさに大きな曲がり角になることだろう。さらに言えば、顕正会員だとか創価学会員だとか、あるいは法華講員だとかが、皆が皆、実名でネット活動をするようになったならば、これはもう大きな決断が迫られることになるだろう。

つまり、現時点では虚名でブログを行なうことが共通のコンセンサスになっているわけで、わたくしだけが安全地帯にいて好き勝手なことを書き殴っているというわけではないのだ。

もっとも、こういうことを書くと、またしても巧妙なスリカエなどと指摘されそうで怖いのだが、少なくともインターネット環境における言論の意味では、それほど間違っているとは思えないのだ。

この問題はキリがないので、これくらいで終わりにしておこう。いずれにしても、どなたであってもコメントは自由である。

凛々しく清々しい成人式

顕正新聞第1298号のメイン記事はこれであろう。本年は全国から約七百名の新成人が集まったという。

ところがである。

 本年からは、浅井城衛理事長が先生に替わって執行することになり、昨年の成人式における浅井先生の講演がビデオで放映された。

わたくしの得意技である時間差攻撃が始まった。もちろん得意技というのはウソで、ようするに取り上げるのが遅すぎるだけのことである。この話題はすでにご存知の人も多いことだろう。浅井先生は成人式に姿を見せなかった。

わたくしは当初、先生も年齢が年齢だから体調が思わしくなくて欠席したのだろう、などと想像していた。けれども新聞の報道を読むと、どうやら今後は城衛が執り行なうらしく、もはや浅井先生は成人式には出ないようなのだ。

ひじょうに悩ましい。

何が悩ましいのかであるが、ようするに新成人にとってはガッカリなのではないかということと、先生もいよいよ後継者に道を譲る準備を始めたのだろう、それはそれでいいことだ、という二つの面が複雑に絡み合っているから悩ましいのである。

いつも言っているように、広宣流布のゴールは近いのだろう、だったら最後の最後まで先生が指揮を執るべきが筋で、その意味で言えば成人式も最後まで出続けるべきだと思う。
しかし、現実路線として考えた場合、広宣流布はまだ先の話である。ならば組織的には後継者をしっかりと決めておく必要があるわけで、その一つの布石が今回の成人式だったと考えられるわけだ。
ところがこれにも異論があって、ぶっちゃけ城衛ではダメだという意見もあるらしく、先般もそのような意味のコメントが寄せられたくらいである。

そういった意味で、ひじょうに悩ましいのだ。

ガッカリの意味をもう少し書いておくと、北海道とか沖縄とかの遠隔地からの参加であれば、浅井先生を直に拝見したいという希望を懐いて遥々やってきた新成人も少なくなかったはずである。ようするに彼らは普段、ビデオを通して先生の指導を拝聴しているのだ。それがわざわざ本部(青年会館)まで来て、そこでまたしてもビデオを見せられたのでは堪ったものではないだろう。

来年が問題である。まさか今年と同様ではあるまい。もし同じだったら、それこそガッカリだ。新成人のみならず全顕正会員がガッカリすることになるだろう。

2014/2/21

顕正新聞第1297号雑感  
久々に正統派顕正会員たちの書き込みを拝見して清々しい気分を味わった。また、ユタ氏がそれを穏やかにまとめて下さった。それが昨日までの流れだった。ところが今朝になって暗雲が立ち込めてきた。

しかしながら今日は予定通り顕正新聞を取り上げよう。

第1297号の一面には、元旦勤行 浅井先生御挨拶が載っている。いわゆる国難元年の初出がこれであるが、本文中におかしな表記があったので、以下に掲げよう。

 まさに「十字御書」の
 「今日本国の、法華経をかたきとして、わざわいを千里の外よりまねき出だせり」
 の仰せのまま。磁石が鉄を吸うように、国難を千里の外から招くのであります。


・・・の仰せのまま。磁石が鉄を吸うように、

これはおかしいだろう。句読点が不適切だと思う。「仰せのまま」の後には、マルではなく点を打つべきだ。

さて、当該号は一ヶ月前のものなので、すっかり内容を忘れてしまった。そうした中で強いて挙げるならば、男子部第七十一隊長の記事だろうか?

 私自身、今までは日本国憲法を「亡国の憲法」、さらには、池田大作と阿部日顕がこの憲法を金科玉条のごとく崇め、国立戒壇の御遺命を破壊したので、日本国憲法を憎らしく思っておりましたが・・・

この人は入信がけっこう古いので、そこらの新参者とは着眼点が違う。なかなか鋭い。

詳しく書くと大変なので省略するが、浅井先生は昨年の女子部大会で日本国憲法について言及した。わたくしはこれにツッコミを入れた。詳しくは昨年の一二月十九日付の拙稿をご覧になられたい。ともかく先生の当該講演は、今までとは異なる、いわば新見解だったわけだ。そこで改めて上掲を読めば、誰もが気がつくだろう。七十一隊長氏は先生の講演が今までとは違っていることを暗に証明してくれているのだ。

もちろん、彼の場合は先生を批判する意味ではなく、全面肯定の意味で述べている。ゆえに続きの文章の中には次のようなセリフがあるくらいだ。

「日本国憲法は、素晴らしい」

今まで憲法を憎らしく思っていた人が、先生の一回の講演で百八十度の大変化を起こすのだから、恐れ入ったものである。このように書くと、物凄くイヤミに感じるかもしれないが、ともかく興味深い出来事として記憶に留めておきたいところだ。

さて、三面の右下には女子部班長の記事がある。班長などはざらにいるので別に特筆すべきこともないのだが、この人はちょっと違う。芙蓉コーラスの講師なのだ。

 しかし大会前日、突然の高熱におそわれ、検査の結果、腎盂炎と診断され、身体の痛みと吐き気で起き上がるのも困難な状態となってしまいました。

本人は這ってでも行くつもりだっだが、浅井理事長より無理をせずに休むように言われたそうである。結果として彼女は大会に参加しなかった。

詰まらん憶測を書けば、批判勢力が女子部大会のビデオを観て、あれ、いないぞ、看板スターが、などとネット上で騒ぐことを予想して、あえてこの記事を載せたのかもしれない。実際、顕正会では退転者が後を絶たないので、内部においても疑心暗鬼になっている面が否めない。あの人はどうしたのだろう、ぜんぜん姿を見なくなったけど、まさか退転したのではないだろうか・・・といった感じである。ともかく彼女は大きな集会においては欠かせない看板的な存在なので、もし退転したならばけっこうな大事件である。その意味からして当該記事は必要不可欠だったのかもしれない。

四面から五面にかけては教学試験特集である。五級の問題と正解、四級の問題と正解、これで全紙面が埋められている。近年では異例のことではないかと思う。あるいは顕正新聞始まって以来のことかもしれない。

これについては一月度総幹部会で浅井先生が理由を述べているけれども、イジワルな見方をすれば他に掲載すべき適当な記事がなかったので埋め合わせの意味で紙面を大きく使ったのではないかと思われる。

それはさておき、わたくし的には次の記述に注目すべきだと思った。

 (「正解」は下段に掲載。採点においては「同義語」も配慮される)

具体的には問五の次のくだりが好例だろう。

 名もなき農民の集団が、大聖人の(16)心に同心し奉ったこの異体同心こそ、未来(17)流布の瑞相、(18)建立の先(19)である。

順番に、師子王・広宣・国立戒壇・序というのが顕正新聞における正解である。

さて、そこで同義語云々であるが、まさに(18)の答えこそが重要である。ヘソマガリのわたくしは本門戒壇と書くことだろう。実は大昔、実際に教学試験において同様の問題が出た時に、わたくしは本門戒壇と書いたことがあるのだ。ようするに昔からヘソマガリだったのだ。

わたくしのことはさておき話を戻そう。

もしここで本門戒壇と答えて不正解だったとしたら大事件である。もはや顕正会は国立戒壇宗と改名したほうがいいだろう。

けれども同義語も配慮されると断わってあるごとく、当然ながら本門戒壇も正解である。いや、むしろ本門戒壇が正解であって、国立戒壇を同義語だとするのが本当だとは思うのだが、まあ、それはよしとしよう。

ともかく、ここはきわめて重要なところで、たまさか頂戴した匿名氏のコメントにもこれに関連する記述があるので、以下に紹介しておく。

また正本堂問題が起きなければ、国立戒壇の名称そのものにこだわる必要はなかったですが、今の宗内外での曖昧な戒壇論を吹き払う為にも、一言で本門戒壇の意義が集約された国立戒壇の四文字を主張するのは当然の成り行きかと思います。

わたくし自身は、もはや国立戒壇の名称に固執すべきではないとは思うものの、上掲もまた相当の説得力を有するものである。

2014/2/20

ブログ異変  
本日のタイトルであるが、このところのコメント投稿者の顔触れを見ると、拙ブログもやや異変が起きているかのごとく思える。それはともかく、実はもう一つあるのだ。

パソコンで閲覧していれば、拙ブログには左側にカレンダーだとか最近のコメントだとか過去ログなどが表示されているはずである。その「最近のコメント」が不具合を生じているらしく、せっかくコメントをいただいても、そこには反映されないのだ。沖浦氏の二重投稿やその前のコメント欄におけるテストは、たぶんこの異変の影響なのだろう。わたくしは機械オンチなので、どうしたらよいのかまったく見当がつかない。ゆえに、当面はこの状態が続くと思われるので、閲覧者諸氏においてはよろしく斟酌願いたい。

近頃、顕正新聞の話題を取り上げていない。それは余裕がないからだ。あちこちからコメントが来るので、その対応だけで手一杯である。しかもである。全員のコメントに対応できていればまだしも、それすら満足ではないのだから、ひじょうに申し訳ない限りだ。この点もぜひとも斟酌願いたい。

2014/2/19 19:13
投稿者:匿名
巌虎さん、お返事ありがとうございます。
巌虎さんの考え方として理解はしました。

広宣流布が目的であるなら現実を考えて、未だ懺悔はしてないが妥協すべき所は妥協してこちらから宗門に歩み寄るべき。

御遺命を破壊して未だ懺悔なき宗門に妥協して歩み寄るのはいかなる理由であれ大聖人様に申し訳ない。むしろお叱りを受ける。顕正会はただ馬鹿正直に忠誠の前進を貫く中に、仏力で広布の時までに宗門の側から懺悔の気運が起こる事を信じる。

この違いでしょうね。


優先順位としてはこれから行くべきだろう。おっしゃることはいちおう筋が通っていると思う。ただ、やはり現実的には無理なのではないか、確かにギリギリの最終局面で宗門との関係回復が実現すればこれほど劇的なこともあるまいとは思う。しかし、どうだろう。しょせんは夢物語に終わるのではないかと言わざるを得ないのだ。

もっともこう書けば、それは凡夫の思慮である、しょせんは巌虎の浅知恵に過ぎない、という反論がありそうである。

まさにそうなのだ。ハタから見て、わたくしがいまだに顕正会に未練一杯と映るのは、こうした純粋さに打たれるからである。こういう人たちが悪い人たちのはずがないのだ。

いや、もちろん、ここで冷静な人ならば言うだろう、末端の純粋無垢な会員たちが悪いのではない、悪いのはトップである、と。具体的には浅井先生であるが、しかし、会員たちは先生を絶対と仰ぐのである。

だから話がややこしいのだ。

そういうわけで、この話題はキリがない。ある意味、時間が解決してくれる問題なのだろう。今すぐに結論を出すのは無理というか、双方が納得するようなうまい結論はないのだと思う。ゆえに待つしかないのだ。

何しろ今は広宣流布の最終段階である。ギリギリの最終段階とも言われているくらいなのだ。であれば、あと何年後かには結論が出る。余裕を見て十年、もっと甘くして二十年でもいいだろう。この時、どうなっているかだ。

凡夫の思慮だと言われるのを承知で書いておくと、さすがに今のテイタラクではダメだろう、というのがわたくしの結論である。

2014/2/19 19:25
投稿者:特命奇謀
ようやく更新ですね。
あの程度が理解できないから愚痴ブログなんですね。

>たぶん、わたくしをヘソマガリだと言っているのだろう。大正解だ。

こういう風に相手を見てかわす逃げ方が狡猾ですな、相当の年配者と見ました。
文章にも年齢って出てくるんですな。


取り上げるべき優先順位はともかく、わたくしの個人的な選択としてはこれが面白かった。

相当の年配者とは具体的に何歳くらいを言うのだろうか?

一ケタまで当てるのは無理にしても、年代を言い当てられれば大したものである。それにしても逃げ方が狡猾とは、なかなかの洞察力だ。しかし、これはまあ、年齢とは無関係かもしれないと思う。わたくしの目から見て、若くても狡猾な人はいるし、逆に相当の年配者にもかかわらず愚鈍というか馬鹿正直というか、そういう不器用な人もいる。同じ意味で文章に年齢が出るかどうかも微妙なところだ。文章はウソをつく。これも事実である。

しかし、こんなことを書いているから時間が足りなくなる。よし、次回はどんなことがあっても顕正新聞の話題を書こう。

・・・これも狡猾な逃げ方かな?

暴利云々に絡めて顕正新聞の多重購読のことを書いているのが、傍観者v氏と学会未活動者氏とユタ氏である。戒壇論は傍観者v氏に始まって学会未活動者氏と沖浦氏、そして直近ではセロリ氏が書いている。

これはまた面倒臭い。

ということで、最後のセロリ氏のコメントに集約して、わたくしの所感を書きたいと思う。

あまり挙げ足とりみたいなことはしたくないのですが、巌虎さんは顕正会の戒壇論の、「時期」「手続き」「場所」の全てが正しいとお考えなのでしょうか?

これはまた面倒だ。

時期はいわゆる広宣流布の暁とされているが、では、広宣流布とはどのような状態を指すのか、ここで議論が分かれる。手続きは勅宣御教書の問題だろう。この要不要が議論の中心となるのだと思う。そして場所であるが、これはいわゆる天生原戒壇説の是非が問われる。

そこでわたくしの得意(?)とする狡猾な逃げを打つわけだが、これらの個別の問題は保留である。というのは、これらに関するわたくしの見解は、必ずしも顕正会と一致していないからだ。

面倒臭いけど書こう。

たとえば戒壇建立は広宣流布の定義にかかわらず、いつでも可能だと思う。ようするに勅宣御教書が申し下されればそれでよいのである。問題は天生原であるが、これは正直なところわからない。わたくしの勝手な考えではどこでもよい。いや、もちろん、勝地であれば、である。

上述について、さらに詳述するとなると、別に機会を設けて書く必要があるが、それも面倒臭いのでやりたくない。ともかく、これでわたくしの考えていることが、顕正会の公式見解とは相当に異なるだろうことがわかったと思う。

では、なぜに顕正会の戒壇論を支持し、宗門のそれをデタラメとまで書いたか?

話は簡単なのだ。

もともと正本堂問題が起こる以前は顕正会の戒壇論など存在しなかった。実は顕正会の戒壇論とは宗門の戒壇論であり創価学会のそれなのだ。ようするに三者が三者とも同じことを主張していたのである。それが正本堂を機に変質してしまった。

おかしいじゃないか、ということなのだ。

国立戒壇がわかり易い。宗門も言っていた。創価学会も言っていた。妙信講も言っていた。それがある事情があって言わなくなった。これまた、おかしいじゃないか、ということなのだ。

いわば妙信講はハシゴを外されたわけである。

たぶん、この経緯を知れば、誰もが妙信講に同情するだろう。妙信講のほうが筋が通っているからである。

以上、わたくしの言う顕正会の正義は、こうした大枠を捉えてのものである。ゆえに個別の問題は度外視してのことである。強いて挙げれば、もはや国立戒壇の名称には固執しない・固執すべきでない、というのが一例だったわけである。

2014/2/19

匿名者との対話  
二週連続の大雪で首都圏は大混乱に陥った。浅井先生の言う国難元年とはこうした自然現象も含むのだろうか?

それはともかく、相変わらずコメント欄が賑わっている。

傍観者v氏はめずらしく長居を決め込んでいる。というのは、氏は過去にも何度かお見えになっているが、その時はわりと淡白な感じだった。それが今回の場合、かなり粘着質である。もし今のペースで投稿が続けば、まさしく拙ブログの常連さんの一人ということになりそうである。

不要、必要でいえば、顕正会の存在自体が不必要(笑)

なかなか辛辣だ。

個人的には、管理人殿の顕正会に未練一杯の話を聞いていて面白いとも思わない。
いい加減、肚を決めて身の振り方を考えるべきではないかと思うよ。


未練一杯・・・

鋭い指摘だかもしれない。身の振り方を考えるべき云々は上から目線の物言いであるが、しかし、言っていることは確かにそのとおりだろう。ダラダラと独白を続けていても仕方がないとは思う。ただし、以前に比べると更新頻度が下がってきているのがわかるはずだ。つまり、わたくし自身はわりと自然体であり、無理のない範囲でブログを続けているつもりである。ゆえに、このままダラダラと続けていっても生活に支障が出ることもないし、誰に迷惑を掛けるわけでもないので、これはこれでいいのではないかと思う。

さて、次は桜月氏のコメントだ。

う〜ん、それから言おうかどうかまよったんですけど、出来上がりの料理の写真で、美味しそうに完成度を表現するために、料理の隣にお箸を添えて写真を撮っているところは良いと思うんですが、ちょっと言いにくいんですけど、スパゲッティにお箸はおかしいですよ。

なるほど、なるほど、これは確かにおかしい。

ところでセロリ氏は拙稿の「善意からの苦言」に注目して下さった。これは我ながら気取った表現だったと思うが、まさに桜月氏のコメントこそが善意のかたまりみたいなもので、上掲などはまさにそれである。これは何だろうか、たとえば同じことをわたくしが書けば、もっとトゲのあるイヤミな文章になりそうである。しかし、桜月氏にはそれがまったく感じられない。不思議なものだ。

文体の違いかもしれない。

さて、前回の拙稿に対しては匿名の人からもコメントを頂戴しているが、この人の文章もわりと好感度が高い。わたくしは基本的に匿名だとか通りすがりのコメントを認めない。削除はしないが無視する。しかし、今回の場合はけっこう真面目な質問のように思えるので、お答えすることにしよう。

特命奇謀・・・

その前にこちらのほうから取り上げると、これはなんだろうか、よくわからないのだが、たぶん、わたくしをヘソマガリだと言っているのだろう。大正解だ。

さて、話を戻そう。匿名氏は顕正会側の人物なのだと思われる。

ことに御遺命についての巌虎さん個人の主張が見えてきません。大石寺の66代・67代を尊重されてるように見受けられますが、それはどのような考えからなのでしょうか。

ようするに、二者択一であれば、顕正会が正しく宗門は間違っている、もしくはその逆という二つの選択肢しかない。現今の顕正会員の思考はまさにこれであって、当然ながら顕正会が正しく宗門は間違っているということになる。すると、わたくしのように日達上人・日顕上人を尊重することが不可解きわまりないものであって、人によっては「だったらさっさと宗門へ行けよ」と言いたくもなるのだろう。実際、過去にはそのようなコメントもあった。

しかし、一見不可解のようではあるが、整理すれば実に単純明快である。

戒壇論は顕正会のそれが正しい。宗門のそれはデタラメきわまる。これが結論だ。

こういうことを書くと、法華講員が噛み付いてくる。しかし、このことは今までたくさん書いてきたし、彼らもわたくしの教学力(?)を恐れてか、あまり正面から反論してくることはなかった。あるいはわたくしが猊下への敬意を失わずにいることから、大目に見てくれているのかもしれないが、いずれにしても言いたいこと書きたいことを遠慮せずに発表してきたのが拙ブログである。

顕正会の戒壇論を正しいと書いた。

だが、しかし、必ずしも全面支持ではない。国立戒壇の名称には拘泥しない。これがわたくしの立場である。

話が飛んで恐縮であるが、顕正会が金儲け主義かどうかで傍観者v氏と少々やりあった。
たとえば会社を経営しているだとか商売をやっているだとか、これを金儲け主義と呼ぶのかどうか、である。あるいは勤め人はどうか、である。
つまり、我々は完全自給自足でもない限り、必ずどこかから収入を得て生活している。わたくし自身もそうだ。しかし、これを金儲け主義とは呼ばないだろう。
ひるがえって顕正会のことを考えると、金儲けそのものが主目的と化しているかどうか、暴利を貪っているかどうか、たぶん、こうしたところが問題となるのだと思う。

まず、後者については具体的な数字を検証しないことには話が進まない。わたくしにはその材料がないのでこれ以上の追求は不可能である。

問題は前者である。

顕正会の主目的は広宣流布・国立戒壇建立である。まさにこの大義名分があってこそ、広布御供養だとか顕正新聞の購読推進が可能なのである。もし大義名分がウソであればすべてが瓦解する。

わたくしが顕正会を金儲け主義にあらずと断じたのは、まさにこの大義名分があるからなのだ。

さて、これがウソかマコトかであるが、ここにわたくしの一貫した主張がある。あえて太字で書こう。

宗門との関係回復なくして、広宣流布も戒壇建立もあり得る道理がない。

顕正新聞の最新号(第1300号)の一面には次のような見出しが躍っている。

「冨士大石寺」を冠し戦えるは顕正会のみ

わたくしは言いたい。おいおい、カンジンカナメの宗門を無視して、何を言っておるものか、と。

これでほぼ結論は出たと思う。

顕正会の戒壇論は正しい。宗門のそれは間違っている。では、宗門を見捨てて、顕正会単独で広宣流布をするつもりなのか、はたしてそんなことが可能なのか、ということなのだ。

当然、ここには御遺命守護完結の欺瞞も加わってくるわけだが、話がややこしくなるので省略しよう。

わたくしの結論はただ一つ、宗門との関係回復が実現しない限り、いくら広宣流布を叫ぼうが前には進めない、ようはウソだということなのだ。

浅井先生の言っていることは正しい。けれどもウソを言っている。正しいけれどもウソ? 何それ? と思うかもしれないが、それがいわゆる欺瞞というヤツである。

ここまで読んで、あるいはツッコミを入れたくなった人がいるかもしれない。

ああ、やっぱり金儲け主義じゃんか、と。

たぶん浅井先生としては、それを言われることが甚だ不本意なのだと思う。先生はけっこう本気で広宣流布を考えていた。当然、宗門との関係回復だって必要不可欠だと思っていたはずだ。未確認情報であるが、かつては宗門復帰のための秘密交渉のようなこともあったらしい。しかし、不首尾に終わった。

もはや打つ手を失ってしまった。ゆえに今は迷走状態なのだ。

話がやや迂遠になってしまったようだが、もはや顕正会が正しく宗門は間違っているという、この一点張りだけではどうにもこうにも打開できない状態に陥っていることに気がつかないといけないのだ。もし拙ブログに存在意義というものがあるのならば、まさにここだろうと思う。宗門側がどのように考えているか知らないが、顕正会側としてはこうした現実的な思考が必要である。

もうおわかりだろう。細井日達だとか阿部日顕などと呼び捨てにしているうちは、ぜんぜんダメだということだ。

2014/2/14

各方面からのコメントを拝して  
傍観者v氏の指摘はいかがなものかと思う。

DVDプレーヤー(\8,500+送料\500)

量販店で購入した方が安い罠w


これをもって金儲け主義と断ずるのは早計だろう。まず、顕正会で売っているDVDプレーヤーのメーカーと機種名を知る必要がある。その上で、同一機種が量販店ではいくらで売られているのかを提示すれば、なるほど顕正会のそれはベラボウに高いではないか、これはケシカランことだ、という結論を導くことが出来るだろう。

さらに言えば、いわゆる顕正新聞の多重購読問題との比較が必要である。ようするに新聞購読推進がノルマ化して活動会員たちが苦しんでいるという実態がある。これと同じことが、DVDプレーヤーにおいても言えるのかどうかである。

顕正会では会員に対し不必要な物品を売りつけるようなことはしない。DVDは自宅で会長講演を拝聴するために必要なものである。さりとて会員に購入義務はない。もともとDVDを持っている人は買う必要がないからだ。

芙蓉茶寮オンラインショップ

食品販売に熱心ですよ。


これもまったく同じ理屈である。

芙蓉茶寮の簡単レシピ

http://kensho.main.jp/blog/


それにしても、このリンクには驚いた。

傍観者v氏がこれを知っていることにも驚きだが、それは別にしても、顕正会でこんなブログをやっていたとは今までまったく知らなかったものだから、余計に驚いた。

ちなみに、少し気になったことがあるので調べてみた。顕正会の公式ホームページとこれらの関係性である。いわゆるウェブサイトはリンクでつながっている。拙ブログの場合は独白を看板に掲げている手前もあって、リンクを貼っていない。しかし、普通の人は何らかのリンクを貼るものである。では、顕正会の場合はどうかであるが、まるで拙ブログみたいにどこにもリンクが存在しないのである。

もし顕正会が金儲けを目論むのであれば、積極的にリンクを貼るだろう。まず、公式ホームページからくだんのレシピのサイトに飛べるようにしておく。そこからオンラインショップに誘導するのである。

芙蓉茶寮の簡単レシピは、けっこう好感度の高いブログだと思う。ああ、美味しそうだな、自分も作ってみようかな、でも面倒臭い。そこでオンラインショップへの道が開かれていれば、試しに買ってみるかという人も出てくることだろう。ネットは全世界に通じているのだから、これが大当たりする可能性だってある。ごく少数(?)の熱心な活動会員だけをターゲットにしても高が知れているけれども、ネットを利用して広く宣伝すれば大儲けが可能かもしれないのだ。

そこで最後の問いは、なぜリンクを貼らないのか、ということになる。わたくしはこれを、金儲け主義ではないから、と結論したいと思う。

さて、セロリ氏のコメントであるが、わたくしの性格を見抜いてのことだろう、瑣末な点をあげつらうのではなく、本質的なことを書いておられる。

しかし今回の記事を読ませて頂いて思ったのですが、時事ネタや宗門・学会の話が中心の総幹部会の講演は、まさにこれから日蓮大聖人の仏法を知っていこうとしている新入信者の求める内容ではないと思います。

この後、御書講義もしなくなり日曜勤行にも出なくなった云々と書かれている。

ここはひじょうに難しいところだ。

単に歳を取ったことが理由なのかもしれないが、ともかく登場頻度が少なくなってきた。しかし、これはこれで一つの効果をもたらすことではあるのだと思う。つまり、浅井先生の講演は貴重であるのだ。現状では月一回の総幹部会だけであり、それ以外はいわゆる大会だとか地方会館での講演が不定期に行なわれる。誰もが音楽を聴いていて経験があるだろうけれども、どれほどの名曲でも連続で何回も聴いているとウンザリしてくることがある。浅井先生の講演も同様であって、どれほどの名講演であろうと度々になればウンザリすることもあるだろう。これはある意味、大幹部ほど実感するところかもしれない。

以上のような理由から、浅井先生の講演の頻度が少なくなることは、それなりの効果をもたらすことになると思う。もちろん、講演の内容が悪ければダメなのだが、常にクオリティの高い講演を続けていれば、その数が少なくなればなるほど貴重ということになるのだ。

さて、頻度の問題はおおむね了解が得られることだろうけれども、セロリ氏の指摘は講演の内容に問題があるとしているわけである。

ここは議論の分かれるところで、わたくしはセロリ氏の言っていることも相当だろうとは思うものの、さりとて、今さらどうにもならないというのが現実ではないかと思う。つまり、宗門や創価学会のことをあげつらうのが、いわば浅井節であって、浅井先生の名講演たるゆえんでもあるのだ。ようは長年培ってきた芸風を今さら変えるのは困難だということである。

もっとも、このように書くと、それではもはや浅井教である、こんなものは大聖人の仏法とは別のものと言わざるを得ない、ということになるのかもしれない。だが、しかし、今のところはまだ冨士大石寺信仰の範疇を逸脱していない、なぜならば戒壇の大御本尊への恋慕渇仰を謳っているからだ、というのがわたくしの意見である。

おそらくセロリ氏も同様のはずで、ようは顕正会に対して善意の気持ちから意見を述べているのだろう。戒壇の大御本尊への恋慕渇仰を謳っている、だったらこうあるべきだ、こうでなければいけない、という善意からの苦言なのだ。

2014/2/13 13:10
投稿者:トチロ〜
当時は経机だけでなく、仏壇の販売もしましたよね。

ビジネスというよりも、むしろその後の顕正会版本尊大量配布をにらんだものではないでしょうか?


さすがに鋭い。

わたくしは前回、今は経机を推進していないはずだと書いた。その理由は上掲のコメントを読めばおおむね了解されるところだと思う。

経机、仏壇と始まって丁度「赤沢朝陽」のような感じの
仏具屋も考えていたかもですね。
学会系や正宗系の仏具屋に儲けさせる事無い、顕正会で
事前の仏具屋作ろうとの考えは考えすぎですか?


学会未活動者氏の推測はあながち間違っていないと思う。少なくとも「学会系や正宗系の仏具屋に儲けさせる事無い」というのはごく自然な感情であり、実際、幹部たちがそのような意味のことを言っていたことがあるのだ。

確かにビジネスの側面から経机等を見ても面白いですよね。

まあ、しかし、トチロ〜氏のこの記述はいかがなものかと思う。これは顕正会を買いかぶり過ぎている。残念ながら顕正会にそこまでの実力はない。現状ではそれほど率のいい商売とはならないだろう。

最後はのび太氏だ。

でもね…チョイスされるのがここかいな? (笑)

どちらをお望みで?

2014/2/12

学会未活動者氏へのお返事を中心に  
バーズ氏との議論はアッケない幕切れとなった。結論はわたくしの回答不能(?)だそうである。

当然ながら反論の用意がある。しかし、相手が終了を宣言しているので、次の機会に譲りたい。すなわち来るべき第二ラウンドに備えて、力を残しておくという意味だ。

この件で、のび太氏が感想を述べておられる。

それによると、わたくしが先輩でバーズ氏が後輩のごとくであるが、たぶん逆だろう。顕正会歴は先方のほうが長いはずである。まあ、しかし、議論に先輩も後輩もない。いつも書いているように、言っていることが正しいか間違っているか、ただそれだけなのだ。

顕正会の宗教法人化になる遥か以前に「宗教法人顕正寺」を「日蓮正宗顕正会」はお持ちになっていました。
それで「宗教法人顕正寺」を解散?儀典院?に改正するころに「宗教法人顕正会」に変更されたのでしたっけ?
(間違ったらすいません)


前々回のコメント欄には学会未活動者氏による顕正会関連の記述がある。まずは上掲がそれだ。

おおむね正しいと思う。儀典院は典礼院。ようは顕正寺が建っていた場所に今現在は典礼院が建っている。おっしゃるように、この頃に宗教法人顕正寺から宗教法人顕正会に変わったわけだ。
わたくし自身、今は記憶のままに書いているので、正確な時系列はわからないが、日蓮正宗顕正会から冨士大石寺顕正会に変わったのも同時期のことである。
そして顕著となった表現が、会館建設における「会館建立」との表現である。

まさに分派独立路線のあらわれであろう。

つまり、かつては顕正寺だけが寺院であって、その他の会館は寺院とは別のカテゴリーだった。それが宗教法人顕正会以降は同じカテゴリーになってしまったわけだ。すなわち顕正会の会館は現代における寺院であると。

会長と法人代表を分けるのでしたら、東本願寺の大谷家門主(象徴)と宗務総長(執行部)を事例にお分けなったらどうでしょう?

これはよく存じ上げないので何とも申し上げられないが、おそらくはさまざまな紆余曲折を経てそのような形になったのだろう。顕正会もこの先ずっと続くのであれば、もしかしたら遠い将来、今からは想像もつかないような姿に変わっているかもしれない。

宗教法人のメリットは税金以外の面でのメリットも大きいのでは?

メリット・デメリットの有無は当然あるわけだが、顕正会の場合は必ずしもそうした有利・不利を前提に法人取得を目指したわけではないと思う。ようするに社会的存在としての位置づけが必要となったのだ。

たとえば植木職人がいる。植木でなくてもいいのだが、あくまで一例である。一人で細々と仕事をしている。実際、大した儲けがあるわけではない。ゆえに税金の申告もしない。

さて、この人はどのような処罰を受けるだろうか?

わたくしには法律的にどうこう言うだけの知識がないけれども、経験則から言って何のお咎めも受けないだろう。税務署員が調べに来ることもない。なぜならば無駄だからである。

一人で細々とやっているとか、ごく少人数の会社であれば、よほどアコギなことをやらない限り、ボロ儲けにはならない。ようは高が知れているのだ。
ところが巨大企業になれば、税金の額にしてもベラボウな数字になる。企業側にしてみれば税金を払いたくないので、さまざまなテクニックを使っていわゆる節税をするわけだ。
節税と脱税は紙一重である。まさに税務署員の仕事はここに重点が置かれる。しばしばニュースで、どこぞの企業が修正申告で何億円払ったなどと報じられるが、その裏では企業と税務署との間で、熾烈な攻防が繰り広げられているのだ。

今や顕正会も大企業顔負けの実力を有するようになった。先年、料調の査察が入った。当然である。会員百六十万人を有するのだ。顕正会は金をタンマリ溜め込んでいるに違いない。こう思われても仕方がないところだ。

この時、社会的な位置づけが必要になる。

もしもである。顕正会が宗教法人でもなく、株式会社でもなく、あるいは何だろう、その他もろもろの社会的な位置づけがまったくなくて、ただの集まりだったとしたら、これはこれでひじょうに面倒臭いことである。ただ単に人々が集まっているだけならばいい。別に大した問題はない。しかし、お金を集めているのだ。相当な額を、である。

行政側としても困るのだ。これをどのように扱うべきかが難しい。法治国家である以上、法律的に扱うべきである。すると行政側としても、顕正会に宗教法人でいてもらったほうが具合がいいことになる。ようは宗教法人という枠にはめ込んで、そのルールに則って扱えば簡単なのである。

顕正会側もある時期にそれを考えた。

最初の本部会館は浅井先生の私費で建てられたという。この時はまだ法人化を考えていなかっただろう。しかし、地方会館をたくさん建てるようになって、必然的にその必要性が生じてきたのだ。

繰り返しになるが、もし顕正会が単なる人の集まりであって、お金をまったく必要としないのであれば、法人化の必要もなかっただろう。しかし、現実にはそういうわけには行かない。

以上、法人化の第一義的な理由は有利・不利ではなく、団体の規模が大きくなるにつれ、社会的な位置づけが必要となってくるという意味に他ならないのだ。

宗教法人は「宗教」の面と「経営」の面があります。顕正会では機関紙を一人で何部も取ってる方いませんか?
ご供養の上限があるのはなるほどと思いますが、寺社の賽銭箱のほうが幾らからでも出来て良心的と思いませんか?
あと機関紙に載ってた「経机推進?記事」は何か煽り?みたいで頂けない、やっぱりあれはビジネスの面だなと思います。


経机推進・・・

ずいぶん古い話題を持ってきたものだ。これはいつ頃の話だろうか、たぶん十五年以上前のことだと思う。

結論を言えば、ビジネス云々は誤解である。

おそらく今現在、経机推進は行われていないと思う。わたくしの想像するに、その理由はただ一つ、あれは試行錯誤の産物だったということである。

ここでわたくしに対する誤解も解いておきたいが、先日来の拙稿を読むと、あたかも顕正会が金儲け主義に堕してしまったかのごとく言っているように聞こえるかもしれない。しかし、それは大いなる誤解である。

顕正会は金儲け主義ではない。

これは間違いない。少なくとも浅井先生は物品を売って儲けようなどという、チンケな発想はしない人なのだ。ともかく人数を増やしたい。人数が増えれば入ってくるお金も増える。実に単純な道理である。だが、しかし、浅井先生は会員に対して物品を売りつけて一儲けしようなどという、そんなツマラナイ発想をする人ではない。

試行錯誤云々と書いた。

ようするに顕正会はかなり以前から定着率の悪さに悩んでいて、これをどのように解消するかを考え続けているのだ。その試行錯誤の過程に生まれたのが経机推進だった。

遥拝勤行は難行である。何もないところで勤行するのだから、初心者にとってはベラボウに難しい修行である。だから定着しない。そこで考えたのが経机推進である。経机があれば勤行がしやすくなる。すなわち定着率が上がると。単純な発想ではあるが、けっこう真実味のある話だと思う。

しかし、今は推進していないだろうと思う。その理由については、また別の機会に書きたい。

あと、学会に対する「池田先生が特定団体組織」と云々の新聞。数十年前に裁判も終わり当事者もお亡くなりになった事例ばかりです。学会員も知ってる事例が多く
目新しい事例はありません。顕正会はK対策云々が学会の謀略とか機関紙にあったと思いますが、「池田先生が特定団体組織」のと機関紙は謀略ではないのですか?


謀略かどうか、言葉の意味からすれば、違うだろう。陰でコソコソやるのが謀略だ。その意味では顕正会のやっていることは謀略ではない。

いつも言っていることだが、困った時の創価学会頼み、これが正解だと思う。

浅井先生は時事ネタを扱うのがベラボウにうまい。総幹部会の講演ではそれが遺憾なく発揮されており、毎回、読み応えのある名講演となっている。しかし、世の中が平穏でネタがないと困るのだ。そういう時には宗門や創価学会のことをあげつらう。これが浅井先生の常套手段なのだ。

2014/2/9

バーズ氏への回答を中心に  
このところ真冬のナンタラカンタラとか厳冬期の云々かんぬんとか書いていたら、皮肉にも近年まれに見る記録的な大雪に見舞われてしまった。救急車のサイレンがひっきりなしに鳴っている。車のスリップ事故だとか、あるいは歩行者の転倒事故が、そこらじゅうで起こっているのだろう。都知事選挙のことも気になる。この雪が投票率にどのように影響するか、その結果として誰が当選するか、ひじょうに興味深いところである。

さて、ずいぶん古い拙稿にコメントがついた。

http://white.ap.teacup.com/ganko/507.html#comment30089

恐縮であるが、わたくしは法華経についての知識がほとんどゼロに近いので、何とも申し上げられないところである。おそらく大聖人の御法門は、法華経がベースになっていることは当然であるものの、かなり意訳的というか独特のものがあるのだと思う。たとえば余経も法華経も詮無しであるとの御指南がそれであろう。ゆえに、わたくしは御書は少し知っているけれども、法華経のほうはからっきしダメなのだ。そういうわけで、ご期待に応えられず申し訳ない。

2014/2/6 15:34
投稿者:正月太郎
大坊棟札本尊の鑑定など誰もしていません。日達上人も表は御本尊なので論じませんと仰せられています。まだ分かりませんか。


この件に関しては学会未活動者氏に罪を擦り付けて置こう。正月太郎氏は何となく怖い存在だ。

さて、いよいよ本日のメインイベントである。

2014/2/6 13:41
投稿者:ノラリ
バーズさん顕正脳炸裂です。
顕正会は、いわゆる宗教家が飯を食う為の団体でないなら、いつも罵りの先の宗門・学会を引き合いにだしてはダメですよ。世界唯一の正しい宗教を自称するなら、既存の全邪宗と同等ではいけない. 不信の第三者が見ても納得出来る透明性を担保しなきゃロクセンマンは出来ないでしょ、


顕正脳炸裂はずいぶん過激というか挑発的な表現であるが、言っていることはまさにそのとおりだろう。

わりと穏やかな言い方としては、次の学会未活動者のコメントが見本となりそうだ。

バーズさんが宗教法人化について代弁援護していますが
それは「顕正会は正しい」が前提にあるからでしょう。


二人のコメントを踏まえて、わたくしなりに言わせてもらえば、ようはバーズ氏の主張と拙稿とを公平な第三者が読み比べてどのように判断するかである。

ノラリ氏と学会未活動者氏が公平な第三者かどうか、まずはそれが問われるところだが、いちおうこれをクリアしたことにして話を進めてしまおう。そうすると、やはりバーズ氏の主張は顕正会が正しいとの前提の上に成り立っていると、誰もが感ずるに違いない。では逆にわたくしはどうかであるが、オマエは顕正会が間違っているとの前提で論じてしまっているからダメだ、ようはどっちもどっちだ、というのが公平な第三者の意見だかもしれない。

もしそうであれば、立場の違いであり、いわゆる見解の相違ということになる。これがいちおうは一つの結論である。ひじょうに無難な結論だ。

しかし、前回も書いたように、言いたいことは山ほどあるのだ。せっかくなので書いてしまおう。

では、よその宗教では、全ての情報を会員や信者に公表しているのでしょうか?日蓮正宗はどうでしょうか?創価学会はどうでしょうか?
もし公表していなかったら、やはり隠していることになるのですか?
この件について、巌虎さんの見解を伺いたいと思います。


これはよろしくないだろう。バーズ氏らしくないと思う。

顕正会では腐敗堕落の宗門だとか邪教化した創価学会だとか言っているわけだ。それらと一緒でいいはずがない。つまり、上掲の言い方だと、よその宗教も隠し事をしているのだから顕正会もいいのだと言っているように聞こえてしまうわけで、これではまるで弁護になっていないのだ。

ところで、それぞれのお住まいの地域には、町内会だとか自治会というものが存在すると思う。地域住民はその自覚にかかわらず、町内会員であり自治会員なのだ。
あるいは集合住宅にお住まいであれば、そこには管理組合がある。毎月、管理費を払っているはずだ。仮に百世帯あって一万円の管理費であれば月に百万円だ。
町内会の活動であるとか自治会のそれであるとか、あるいは管理組合のそれであるとか、たいていは活動に消極的な住民が多い。かく言うわたくしもその一人で、会費ないし管理費は払っているけど、活動には参加しないし、ややもすれば今現在の役員が誰であるかも把握していないくらいだ。
しかし、律儀にも報告書が送られてくる。年一回の会計報告にしても、はっきり言って面倒臭いので一々読みもしないけれども、それにもかかわらず必ず送られてくるのだ。

役員には報告義務がある。法律上どうなっているか知らないが、これが世間の常識なのだ。

ようは金銭的なトラブルを避けるためである。ぶっちゃけ言えば、役員たちがネコババしないようにである。先ほど百世帯で百万円と書いた。これは単純計算の一例を示しただけであり、現実には金額はさまざまだろう。もっと高額の場合もあるだろうし、逆に小規模の場合もある。いずれにしても町内会長が私的に流用して、具体的には株で一儲けしようとかして、結果的にはたいていが失敗しておかしなことになってしまうのがオチなのであるが、このようなトラブルが全国津々浦々で起きている。やや大袈裟に書いたけれども、そういうトラブルを避けるためにも報告義務があるのだ。

さて、顕正会はどうだろうか?

今や顕正会は町内会のレベルでは済まない。百六十万の大集団を標榜しているわけだから、実際の活動会員がそれよりも遥かに少ないとは言うものの、集金額は相当の高額となるはずだ。

バーズ氏がこれを知らなくてもいいと言うのは個人の勝手である。しかし、世間の常識として考えた場合、いかがなものかと言わざるを得ないのだ。

さて、ここで話を振り出しに戻すが、最初の話は宗門や創価学会では一切の隠し事をせずに信徒にすべてのことを公表しているのかどうかというバーズ氏の問いに対して、腐敗堕落の宗門や邪教化の創価学会と一緒でいいと言わんとしているのだろうか、もしそうだとするとそれはおかしい、という話だった。
そして次に世間の事例として町内会などの話を書いた。本当はここで相手の言い分を確認してから話を進めるべきなのだが、勝手に話を進めてしまおう。わたくしの思うに、世間の事例と崇高なる顕正会を一緒にするのはケシカラン、という反論が考えられる。浅井先生が活動会員から集めたお金を私的に流用するなんてことはあり得ない。そこらの町内会長と一緒にされて堪るか、顕正会の会長はそんじょそこらの人間とはわけが違うのだ。
さて、すでにお気づきの人も多いかと思うが、この論理的不整合が問題なのだ。ようは宗門や創価学会も情報秘匿をやっているのだから顕正会も許されるという主張と、町内会の会長と顕正会の会長はわけが違う、町内会長は悪さをするが浅井先生は絶対にしない、という主張はまるで整合しない。いわゆるご都合主義だ。

行列のできるラーメン屋さんがある。いや、ラーメンじゃなくてもいいのだが、ともかく大繁盛の店がある。さぞ儲かっていることだろう。売り上げはどのくらいだろうか、利益はどうか、働いている人たちはいくら貰っているのだろうか・・・などと、誰もが想像したりもする。

しかし、普通の人はそんなことを四六時中、想像しているわけではない。そこのラーメンがうまいから繁盛するのだ。お客たちはうまいからこそ食べに行くのだ。いくら儲かっているかはあくまで余談に過ぎない。客にとっては、である。

譬へば貧窮の人、日夜に隣の財を計へたれども、半銭の得分もなきが如し。

顕正会の活動会員たちは宗教法人顕正会の財産にまったく興味がない。もしそれが事実ならばラーメン屋の客と同じなのかもしれない。折伏も指導も、あるいは教学試験も、そして広布御供養も、すべては信心の一環であり、それによって功徳が得られる。ラーメン屋がどれほど儲かっているかは関係ない、うまいラーメンを食べることが我々の目的(幸福)なのだ。

ここでのわたくしの結論を書こう。顕正会の活動会員たちは、会員という名のお客さんなのかもしれない、ということだ。

さらに話を続けよう。

情報秘匿問題はおおむね上述のごとくであるが、より本質的な部分に触れてみたいと思う。以下はバーズ氏のコメントの再掲である。

結局、宗教法人の代表者とは法律上の立場ですから、組織を統率する人でなくても構わないと私は思います。

実はこの部分、突っ込みどころ満載である。だが、アゲアシ取りのようなことを書いてもどうかと思うので、本質的な部分に絞って書く。

上掲のバーズ氏の主張は無意味の言説である。話は簡単だ。今までは一緒だった。冨士大石寺顕正会会長と宗教法人顕正会代表役員は同一人物だった。ところが数年前に代表役員の交代が行なわれ、今は別々の人物が担っている。バーズ氏はそれを構わないと言っているわけだ。ようするに一緒でもいいが一緒でなくても構わないと。

何それ? と言いたいところだ。

先に結論を書いてしまうと、ここは場当たり的に顕正会の弁護をしているだけであって、何ら統一性のない主張となってしまっていることに気がつくべきところである。

会長と代表役員が一緒でもよければ一緒でなくてもよい。どっちでもいい。そんなバカな話はない。一緒であるべきだ、いや、一緒でないほうが望ましい、というのが議論の一つのあり方である。もちろん、どっちでもいいという選択肢もないわけではないが、ようは代表役員の問題が発覚してしまい、その弁護を余儀なくされたという経緯があるので、仕方なくそのように言っているだけに見えてしまうのだ。

ここでは煩瑣になるので掲げないが、バーズ氏の以前のコメントには、浅井先生と同じオーラないし貫禄を総男子部長から感じる、とある。ようは次期会長に相応しいと言っているわけだ。

あらら、という感じである。

場当たり的の意味が見えてきたはずだ。ようするに、バーズ氏はいずれ再び顕正会会長=代表役員となる日が来ることを承知しているわけである。そうすると、一緒でも一緒でなくてもどっちでもいい、というのは、まさしく無意味の発言である。

むしろ男子部長氏が言っていた行成会長だとか大久保会長のほうが、バーズ氏の主張と整合性が高いことに気がつくべきだろう。皮肉のようだが、それが事実である。

いや、失礼。大変に失礼した。

今まで書いてきたことは実はアゲアシ取りのようなことだった。実はもっと本質的なことがあるのだ。

彼の経々はいまだ心あさくして法華経に及ばざれば、世間の法を仏法に依せてしらせて候。法華経はしからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。

正直なところ、難しくてよくわからない御指南である。

智者とは世間の法より外に仏法を行はず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり。

仏法即世間法と簡単に言ってしまってよいのかどうか難しいところだが、いちおうこれでわたくしの意図が読み取れたことと思う。

もう一つ材料を揃えておこう。

一月度総幹部会では大量の人事が発表された。理事も一人増えて、理事室は浅井城衛理事長のもと計十名の陣容となったそうである。

わたくしは思う、冨士大石寺顕正会の理事とは何ぞや、と。冨士大石寺顕正会の理事は宗教法人顕正会の何なのかと。理事だの総務だの、あとは何だろうか、ともかく顕正会にはさまざまのポストがある。三者においては総男子部長・総合女子部長・総合婦人部長がそれぞれのトップである。彼らは宗教法人顕正会においてはどのような役についているのだろうか? 城衛は代表役員だそうだが、それ以外の人たちはどうなのか?

まさか、タダの人、ということはあるまい。

仏法ゴッコ

わたくしはこういう侮蔑的というか、頭ごなしの決め付けはしたくないので、今までこうした表現はほとんど使ったことがないけれども、もし冨士大石寺顕正会の理事たちが宗教法人顕正会においてタダの人だったとしたら、まさにこれは仏法ゴッコ以外のナニモノでもないだろう。

つまり、本当ならば冨士大石寺顕正会と宗教法人顕正会は一体不二でなければいけないのだ。

国立戒壇を目指している。国家的な戒壇建立を目指している。これを本気で実現しようと考えている人たちが、なぜに冨士大石寺顕正会と宗教法人顕正会を分けて考えるだろうか、ということなのだ。

国家との係わりを否定する宗教も存在する。あるいは人との交わりを絶ってしまう宗教もある。もし顕正会がこれらであれば話はわかる。しかし、そうではあるまい。ならば冨士大石寺顕正会と宗教法人顕正会が別々である理由はない。

今一度、言っておこう。

もし顕正会員が、会員という名のお客さんであったならば、これほど悲しいこともあるまい。

なお、学会未活動者氏からは他にもいくつか顕正会関連のコメントをいただいているが、今日のところはこれで終わりにしたいと思う。


二月十二日追記:脱字があったので修正した。

2014/2/6

厳冬期の過ごし方  
昨日から今日未明にかけて、二名よりコメントをたまわった。

ではバーズの見解です。


>なぜに代表役員の交代が行なわれたのか、そして、なぜにそれを総幹部会で公表しなかったのか、この点が問題なのである。
情報公開の時代において、なぜに情報を秘匿するのか、この点についてバーズ氏の見解を伺いたいと思う。

――顕正会を批判する人の悪い癖は、『公開しない=隠している』と短絡的に判断することです。
巌虎さんほどの頭脳があればわかると思うのでが・・・わかっているけど意地悪で言ってるのですか?

顕正会の「会員」にとって大事なのは組織のリーダーである会長であって、宗教法人の代表者ではないと思います。法人の代表が交代したからといって、それをわざわざ総幹部会で発表しても「はい、了解しました」というぐらいの反応で終わりでしょう。
もし法人の代表者が広宣流布推進に直結する大事な役割を担っているなら絶対に発表するべきですが、そうではないでしょう。ですから発表は不要、時間の無駄というものです。
つまり公表するかしないかは、「会員」にとって必要な情報かどうかで決まるのだと思います。
法人の代表交代や交代の理由を総幹部会で発表しないことがそんなに問題ですか・・・私はそれを知らなくても活動に何ら影響はありません。会長が交代してそれを知らなかったら大問題ですが。


>なぜ、会員に顕正会規則を隠さなければならないのか。それは、顕正会の「役員と財産」に関する規定ばかりだからである。

――もう説明は要らないですね。“顕正会の「役員と財産」”をいちいち会員に知らせる意味って何?逆に教えてほしいです。会員に知らせるとどうなるのですか?知らせると入信者が増えますか?正しい情報を公表しても「その情報は本当に正しいのか?」と、疑う人はどっちに転んでも疑いますよ。
どうしても知りたいという好奇心旺盛な人は法務局へ行って数百円払って見せてもらえばいいのです。


>顕正会の実態は浅井ファミリーがメシを食うための団体と化している・・・

――それなら浅井先生は、宗教法人の課税には反対しておいたほうが良さそうですよね。
広布御供養は上限を廃止したほうが良さそうですよね。
常盤台の旧本部会館は、寄付ではなく個人の財産で建てたと聞いていますが、メシを食うためなら自分の財産なんか使わないほうが良かったですよね。


巌虎さんもご存じのように、顕正会は最初から宗教法人だったわけではありません。「一国広布のためには顕正会の立場を明確にする必要がある」と浅井先生が御判断されて顕正会は宗教法人になったのです。
もし隠し事をしたいとか、金儲けをしたいとか、そういうヨコシマな考えで顕正会を運営するなら、わざわざ法律に縛られる『宗教法人』になる必要はなかったでしょう。法人になってしまうと、代表者が誰で、どこに住んでいて、また組織にどれぐらいの財産があるのかが世間に知られるのです。組織の透明性が高くなるのです。ズルいことをしたいなら法人にならないほうが税金以外の面ではメリットは大きいですよ。


では、よその宗教では、全ての情報を会員や信者に公表しているのでしょうか?日蓮正宗はどうでしょうか?創価学会はどうでしょうか?
もし公表していなかったら、やはり隠していることになるのですか?
この件について、巌虎さんの見解を伺いたいと思います。


言いたいことは山ほどあるが、他の人たちの意見も聞いてみたいところなので、保留としたい。

さて、以下のコメントは学会未活動者氏のものである。

私と同じような本尊論主張しているサイトを見つけましたのでご紹介します。

http://blogs.yahoo.co.jp/shounanboy01/29808459.html
http://blogs.yahoo.co.jp/shounanboy01/29818603.html

戒壇様は、下文の「本門戒壇之願主弥四郎国重」の文が
大聖人の御真筆でなければ「本門戒壇大本尊」の意義がなくなります。伝「大聖人作」の寅さんで有名な映画のお寺の本尊と同じになります。
日目譲り状は明らかに改竄されています。内容も間違い、年号も無し、そんな文献のどこが公的に通用する
譲り状か?役所に出しても却下されるでしょう。
「弘安2年の大御本尊日目○○○○授与す」とありますが、あの欠文は「上野老僧日目、日仙、日善が重宝を守護すべき」との古文があり日仙、日善が入っていたのかも?

あと、「戒壇様を鑑定など恐れ多い、する必要が無い、何故鑑定するのか」とか主張する方がいますが、では何故「大坊棟札本尊」は鑑定し、堀師曰く「徳川時代の物」と言われたのか?「日興師作」の本尊を鑑定なぞ
堀師は「恐れ多く」なかったのか?
まさに正宗はご都合主義ですね。


失礼ながら、あまり進歩が見られないようだ。

リンク先の湘南坊遺氏が何を言おうと、わたくしの知ったことではない。前にも要求したはずだが、学会未活動者氏は大聖人の御書ないし大聖人に近接する時代の文献を用いて自説を補強する必要がある。現代人であるはずの湘南坊遺氏が何を言おうと、文証たり得ない。この道理を弁えるべきである。

なお、大坊棟札本尊云々はまさにおっしゃるとおりであり、ご都合主義と言われても仕方がない面がある。

というのは、当該棟札の偽作説が広く宣伝されるようになったのは正本堂問題以降のことであり、ようは妙信講が天生原戒壇説を持ち出してきたので、いわばそれに対抗する意味で俄かに持ち上がった案件なのだ。日亨上人がこれをいつ鑑定したのか定かではないが、少なくとも昭和四十五年まではその事実をほとんどの人が知らなかったはずである。

話は前後するが、日仙・日善の古文云々は、「日興上人御遺跡の事」と題する置文のことだろう。富要八・一八に掲載されているごとくである。

わたくしは富士宗学要集を持っていない。ゆえに上述のことはあくまで孫引きである。たまたま浅井先生の著作の中に当該文献が出てくるのだ。
これまでにも繰り返し書いてきたことだが、わたくしの手元には史料と呼べるようなものがほとんどない。仏教書もない。あるのは顕正会の書物だけである。しかもぜんぶが揃っているわけではない。
御書は全集と平成新編を所持しており、今はもっぱら後者を用いている。拝読していて表記に疑問を感じた時に、全集やネット上の御書などを、対校の意味で用いることがある。

そんなわけで学会未活動者氏のコメントは、わたくしの守備範囲から外れる部分が少なくない。ゆえに、もしそういう議論をお望みならば、どこか他のサイトを訪ねるとよいだろう。


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