2014/3/31

桜日和  
昨日と打って変わって、今日は好天である。近所の公園の桜も、ほぼ満開に近いところまで来ている。

科学と宗教の根底を同一視するから無理がある。

難解なテーマに突入してしまったものだが、さて、今日は何をどのように書いたらいいのだろうか?

科学的根拠とは、科学万能主義に囚われた産業革命以降の思想である。そもそも鎌倉時代に「科学的」という発想自体存在しない。

科学的根拠を振り翳せば、単なるご都合主義である


どのような立場で言っているのか俄かには判断できないが、科学的根拠を道理という言葉に変換したらどうだろうか?

仏法は道理であるという。科学もまた道理のはずである。

いわゆるエセ科学とは何か、それは道理に立脚しないものを言うのだろう。一見すると、もっともらしい理論を唱えている。だが、しかし、精査してみると欠陥だらけであり、論理が破綻している。コンピュータの世界でも何か一つバグがあるだけで、機能不全になるようなケースもある。科学的理論も同様で、全体的にはよく出来ているとしても、たった一つの欠陥だけですべてが台無しなることもあるのだ。

さて、仏法の場合はどうだろうか?

今日的に見れば間違っているとしか思えないような事例がいくつもある。たとえば次の御書などが好例だろう。

明日寅卯辰の刻にしやうじがはの水とりよせさせ給ひ候て、このきやうもんをはいにやきて、水一合に入れまいらせ候てまいらせさせ給ふべく候。

明日寅卯辰の刻に精進河の水を取り寄せ、この経文を焼いて灰にして、水一合に混ぜて服用させなさい。

これをどう見るかである。

昨日紹介した辞書の説明からすれば、まさに迷信そのものと言わざるを得ないのではないか?

それとも何か科学的に薬効のようなものがあるのだろうか?

寅卯辰の刻というのは早朝を意味するのだろう。これは水のいちばん澄んでいる時に汲んで来なさいという意味だと思われるので、いちおう現代的にも道理に適っていると言えるだろう。

では、経文を灰にして水に混ぜるとどうなるのか、である。

ここでの経文は法華経の薬王品の二十八文字とのことだが、具体的にはわからない。おそらくは病即消滅不老不死の辺りだろうと思われるが、ともかくそれを焼くとどのような薬効が生じるのだろうか、それが問題である。

科学的に・・・ここでは化学的と書くべきだろうか、はたして焼くことによってどのような化学反応が生じて、それがどのような薬効につながるのだろうか?

わたくしの思うに、紙とインクが同じであれば、そこに何が書かれていても同じ結果になる。叱られるのを承知で書けば、念仏だろうが真言だろうが同じ結果になるはずなのだ。

以上、この件についてのわたくしの結論は、まさしく迷信である、ということになる。

ただし、上述のことは大聖人の仏法の全体から見れば、ほんの一部分に過ぎない。はたしてこのバグが仏法全体にどれくらい影響するか、わたくしには俄かには判断できないが、人によってはコンピュータのバグ同様に、もうこれだけでアウトだと言う人もいるかもしれない。あるいは大聖人の仏法の本質とは無関係であり、こんなことで仏法の根幹が揺るぐことはあり得ないという人もいるかもしれない。後者であってほしいとは思うものの、わたくしには断言するだけの確信はない。

2014/3/30 14:13
投稿者:のび太

教義の弱点か最大の武器か?

身延が日向師の七百遠忌報恩事業として、日向師が書写した三大秘法禀承事(秘蔵)を昨年9月に展示した。
現在一般公開されているかは不明だが、身延の宝物館に存在しているようだ。

http://r500m.com/spot/130880110602122310022/web-update/13312226


これは興味深い記事だ。リンク先を見ると、(伝)身延山第二祖 佐渡阿闍梨日向上人筆 三大秘法稟承事(三大秘法抄)とある。おそらく(伝)がなければ凄いことになるのだろう。三大秘法抄の真偽問題は一気に解決と言ってもいいくらいだ。

僕は『活動家』とはほど遠いから(笑)、熱烈な活動ができてる事に羨ましかったりと言うのは正直あったけどf^^;

顕正会の活動家の熱心さは尋常ではない。ネット上では教学的に未熟であることをあげつらう人が少なくないが、現場における創価学会員や法華講員にしてみれば、けっこう驚異であり、脅威なのだろう。太ちゃん氏の羨ましいという感想は、ミカツ(?)ならではのものかもしれない。

 寛師がもし生きておられて、私と法論したら、1分で粉微塵になります。

俗に言う、瞬殺とか秒殺というヤツだろう。相変わらずの自信家である。もっとも実現しない相手との勝敗を云々したところで、無意味であるが・・・

2014/3/30

花冷えの一日  
太ちゃん氏は顕正会員から数回にわたって折伏されたことがあるそうだ。その経験談を書いておられるわけだが、どうやら入信はしなかったごとくである。

氏は好奇心旺盛なのだろう。それと顕正会の活発な地域にお住まいなのかもしれない。

今の時代、世間ではさまざまの勧誘活動が行なわれているし、それに伴なうトラブルも少なくない。ゆえに、見ず知らずの人からの勧誘には一切応じないという人もいるし、たとえ友人知人であっても目的を明示しない誘いには乗らないという用心深い人もいる。とりわけ顕正会員は事前に仏法の話であることを言わずに呼び出す場合が多いので、用心堅固の人は誘いに乗らない。ましてや友人間で折伏をすれば、そのウワサはあっと言う間に広がってしまう。

ゆえに太ちゃん氏は好奇心旺盛なのだろう。でなければ顕正会員の折伏を複数回も受けることはないはずである。普通は一度でコリゴリのはずなのだ。

2014/3/28 6:30
投稿者:沖浦克治
巌虎さん、おはようございます。

 顕正会の教義上の弱点ですが、

 戒壇本尊本懐論を採用している所でしょう。

 御書には全くありませんし、大聖人にはそう言う思想はございません。

 御本仏と定めるお方の説かない事を信じている。

 これは自己矛盾の典型です。


さて、今度は沖浦氏であるが、相変わらずである。わたくしの答えはただ一つ、もし仮に顕正会が独立教団路線を目指しているのならば、まさにそこが顕正会の弱点ということだ。これ以外の選択肢はあり得ない。

冨士大石寺顕正会を名乗る以上、いずれは日蓮正宗に復帰するつもりのはずである。ならば戒壇本尊本懐を主張するのは理の当然であって、むしろそこから逸脱してしまったならば、もはや邪教でしかないことになる。

つまり、独立教団路線はあり得ないことであり、戒壇本尊本懐から外れることもあり得ない、これが顕正会の一貫不変の大精神なのである。

よって、この件に関しては、どこにも矛盾はないし、弱点も存在しない。

まあ、しかし、沖浦氏にはなかなか理解できないだろうから、もう少しだけ説明しておくと、ようするに御書を引用するに当たって都合の悪い部分を覆い隠して都合のいい部分だけを使うという、こうした浅井先生のやり方が問題なのである。先生としては初心者の便宜として、そのような手法を用いているのだろうけれども、結局は一事が万事であり、もはや都合の悪いことはぜんぶ覆い隠してしまえ言わんばかりに、あらゆる場面でその手法が用いられているものだから、わたくしはあえて指摘しているわけである。浅井先生は文底読みの名手であり種脱相対の名人である。ゆえに本気を出せば他門の習い損ないの人たちなどは木っ端微塵に粉砕できてしまうはずなのであるが、残念ながら今回の講演はかなり粗雑だった。

よって前回の、

もし仏法史観を日本国における一大潮流にしようと思っているのならば、まずはこうした教義上の弱点を克服する必要があるはずだ。

との結論は、いわば浅井先生へのエールのつもりで書いたのである。

いや、もちろん、日蓮正宗の教義は完全無欠であって、弱点などは微塵もない、とはさすがに言い切れないが、しかし、沖浦氏が思っているほどヤワではないだろう。

2014/3/28 10:49
投稿者:元会員、無所属
「文底読みの名手」
と言うより、希望的観測の戸田城聖を継ぐ昭和に生きる昭衛さん、の発想を出てイナイ。
生骨問題も、今も生きてると、大真面目に考えているようだし!


これは厄介なコメントだ。

どのような立場で言っているのかが問題だと思う。戸田城聖云々からすると創価学会の立場でもなさそうだし、生骨問題云々からすると宗門の立場でもなさそうだ。無所属と書いておられるので、文字どおり組織にはついていないのだろうけれども、そうだとしても大聖人を信仰する立場なのか、あるいはすでに信仰を捨て去ってしまったのか、その辺が明確でないと対応が難しい。

今わたくしの頭の中に渦巻いている言葉を紹介しておこう。

迷信・・・

今まで何となく使っていて正確な意味を調べたことがなかったが、手元の辞書によれば次のごとくである。

科学的根拠がなく、社会生活に実害を及ぼすことが多いとされる信仰。

大聖人の仏法そのものを迷信であると言う人もいることだろう。これがわたくしたちにとって最大の強敵である。わたくし自身は、大聖人の仏法は迷信ではない、迷信ではないが部分的には迷信が含まれている、というのがギリギリ精一杯の主張である。

弘安元年の弥源太入道殿御消息には道隆の死去のことが書かれている。

道隆の死して身の舎利となる由の事、(中略)但し道隆が事は見ぬ事にて候へば如何様に候やらん。

わたくしには舎利の意味というか価値がよくわからないのでピンと来ないのであるが、当時、何やら道隆の遺骨について尊い意味のことが語られていたらしい。いわば大聖人はこれにイチャモンをつけているわけである。

又一は用ひずとも人の骨の舎利と成る事は易く知れ候事にて候。仏の舎利は火にやけず、水にぬれず、金剛のかなづちにてうてども摧けず。一くだきして見よかし。あらやすし、あらやすし。

意味がよくわからない部分もあるが、話は簡単だ。まず前掲にあるごとく、大聖人は道隆の件について自ら確認したわけではないのでわからないと断わりを入れているわけだ。その上で、人の骨が舎利になったかどうかは簡単に確認できる、仏の舎利は金剛のカナヅチで打っても砕けない、だから道隆のそれも砕いてみればすぐにわかる、と仰せられているのだ。

ひじょうに考えさせられる話である。

なぜならば御生骨についても同様の指摘が可能だからである。まさか道隆のそれについては許されるが、御生骨は断じて許されないなどという、手前味噌の論理が通用するわけがない。いや、もちろん、御生骨をカナヅチで打つようなことは恐れ多くてできっこないことだが、しかし、現物を損なわない範囲での科学的な検証は充分に可能だろう。

さて、その結果はいかに。

そうそう、話がやや錯綜というか、誤解を生じかねないので断りを入れておくと、御生骨とはいわゆる御肉牙のことで、ようは歯である。ゆえに御遺骨とは別の扱いであるが、ともかく科学的な検証によって何か新しい事実が判明することは確実だろう。大聖人の御考えに倣うならば、ぜひともやる必要があるはずだ。

その結果、迷信だったという結論になるかもしれない。その予防線の意味ではないけれども、わたくしは先に書いておいたことがある。再掲しよう。

大聖人の仏法は迷信ではない、迷信ではないが部分的には迷信が含まれている

しかし、これで万事一件落着というわけではない。ことはもっと深刻だ。

仏の舎利は火にやけず、水にぬれず、金剛のかなづちにてうてども摧けず。

これも検証可能である。しかもである。我々にはその結論がわかっている。仏の舎利は火に焼けるし水に濡れるしカナヅチで砕けるのだ。これが現代人の感覚のはずである。

いや、もちろん、試したわけではないのだが、たぶん誰もが同じ結論だろう。

すると、どうなるのだろう。大聖人の御認識は間違いということなのか、文字どおりの誤認識ということになるのか、もしそうだとするとかなりのダメージである。

以上、迷信をキーワードにあれこれ考えをめぐらせてきたわけだが、最悪の場合、仏法そのものが迷信だという結論になりそうである。もしそうだとすれば、もはや戒壇本尊本懐論だとか日蓮本仏論を議論すること自体が、ムダな行為ともなりかねない。これは困ったことである。

2014/3/27

浅井流仏法史観の問題点  
前回の続きである。三月も終わりに近いというのに、今ごろ二月度総幹部会の話題をやっているようではダメであるが、まあ、そこはお許しいただく以外にない。

浅井先生は平成十八年の男子部臨時幹部会で、

 「歴史の見方には自虐史観や皇国史観等があるが、自虐史観もダメ、皇国史観もダメ、仏法史観に立て」

と述べた。

今回の会長講演はこの延長線上に位置するもので、ようは「確固たる仏法史観に立て」と言っているわけである。

その最重要のくだりを以下に紹介しておこう。

 仏法史観の骨髄・肝心

この小見出しに続いて、先生は次のごとく述べている。

 だから、この御本仏を信ずれば人も国も栄える。背けば人も国も亡びる。このことを大聖人様は開目抄の御意として
 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
 と仰せられた。この重大の仰せこそ、まさに仏法史観の骨髄・肝心であります。


まさに浅井先生の年来の主張であるが、それにしても仏法史観の骨髄・肝心とは凄まじい表現である。この表現そのものは今回が初出であろう。

わたくしは思う。この二十一世紀に日蓮大聖人の重き御存在をかくも高らかに謳い上げる人物が他にいようかと。いや、もちろん、他にもたくさんいるのだろうけれども、一定以上の組織力を持って叫び続けているのは、浅井先生以外に見当たらないのではないかと思う。

しかし、問題がないわけではない。以下、具体的に述べてみよう。

まず、現実問題としては、一定以上の組織力を持って叫び続けているとは書いたものの、その実力がどれほどのものかが問題である。社会にどれほどの影響力を与えているかを考えるに、現段階では微々たるものとしか言い様がないだろう。自虐史観と皇国史観を現代日本における二大潮流だとすれば、はたしてそこに第三の潮流としてどこまで浸透できるかが問われているのだ。

あと六年弱で広宣流布などは夢のまた夢であり、現実的に考えるならば、この期間にどれだけの潮流を起こせるかということだろう。

客観的にはかなり難しいことだ。

わたくしはそれ以前に、浅井先生の主張する仏法史観がどれほどの説得力を有するかという点に、疑問符を打っておきたいと思う。

たとえば以前、三大秘法抄の真偽について顕正会で独自に真書たることの論証を行なったらよろしい、それが学術的に相当のものであれば顕正会に対するイメージも変わることだろう、という意味のことを書いたことがある。同様の意味で今回の仏法史観の論述にはかなりアヤシイところがある。ようは世間に通用しない、浅井先生のヒトリヨガリの主張になっているフシがなきにしもあらず、という側面があるのだ。

 日本は久遠元初の自受用身・日蓮大聖人が御出現あそばす国である。ならば、この御本仏を守護し奉る善神が、前もってこの国に出現しないことはない。

これは先生の年来の主張である。問題は次のくだりだ。

 大聖人様は日眼女抄に
 「天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり」と仰せられている。
 まさしく久遠元初の自受用身ご出現の国に、前もって釈迦仏が守護のために垂迹したのです。


これはかなり粗雑であり、論証としては端折り過ぎのソシリを免れないところである。

日眼女抄であるが、平成新編では日眼女釈迦仏供養事と題されている。すなわち日眼女という人が一体三寸の釈尊像を造立したことにちなんでの御書なのだ。ゆえに、当該御書自体が曼荼羅正意論の立場から考えて、ぶっちゃけ都合の悪い内容であり、さらに問題なのは浅井先生の説明するようなことはどこにも記されていないのである。

久遠元初の自受用身が出現する国に、前もって釈迦仏が守護のために垂迹した・・・などという意味の御指南は、当該御書のどこにも見当たらない。基本的に顕正会員は御書を持っていないので、いちいち原文を確認しないだろうけれども、だから許されるというものではないだろう。今や浅井先生の発言は国家権力(?)も注視しているのだから、もっと精密な論証が求められるところである。

同様の意味で、次も問題である。

 いいですか。下種の御本仏の御威徳とはどのようなものか。諸天善神のすべてが、ひれ伏し侍っているのです。

これも先生の年来の主張であるが、問題は以下である。

 その姿を下種本仏成道御書には
 「天照太神・正八幡宮も、頭をかたぶけ手を合わせて地に伏し給うべき事なり」
 さらに
 「梵釈左右に侍り、日月前後を照らし給う」
 と仰せられている。これが御本仏の御威徳ですよ。


これは切り文の典型であろう。

下種本仏成道御書とはいわゆる種々御振舞御書のことであるが、当該部分を平成新編の表記に従って書けば次のごとくなる。

教主釈尊の御使ひなれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ、手を合はせて地に伏し給ふべき事なり。法華経の行者をば梵釈左右に侍り日月前後を照らし給ふ。

ご覧のごとく、教主釈尊の使い・法華経の行者という部分を隠して引用していることがわかるわけで、これでは論証として失格だろう。

以上、今回の会長講演はかなり乱暴というか、精密さを欠くものである。

文底読みの名手

これは浅井先生に対するわたくしの評価である。先生の論述を読んでいると、常々、感ずるのがこれであって、さすが文底読みの名手だと思わせる場面が、これまでたくさんあった。しかし、今回の講演を読むと、その評価を変えざるを得なくなる。もし仏法史観を日本国における一大潮流にしようと思っているのならば、まずはこうした教義上の弱点を克服する必要があるはずだ。

2014/3/23

二月度総幹部会会長講演を中心に  
何はともあれ、つぼみ氏のコメントだ。

2014/3/19 22:29
投稿者:つぼみ
初めまして。
元顕正会員です。

先日、顕正会の総班長よりメールが来ました。

内容は、成人式のビデオ放映の日程です。

そして「広宣流布まで あと5年と10ヶ月なので ぜひ積める功徳を積みましょう」とありました。

頭を傾げるばかりです。


今日の未明にも、幽霊会員から同様のコメントが寄せられた。

2014/3/23 3:24
投稿者:幽霊顕正会員です。
私のところにも後6年で公選流布ってメール回ってきてるんですけど、これって???
後6年って誰が決めたのでしょう?
なんのことなのか???????
指導が変わったんでしょうか?


公選流布は広宣流布の間違いであるが、ともかく六年とは驚きである。より正確には五年十ヶ月ということらしい。すでにセロリ氏が指摘しているごとく、これは二千二十年初頭を意味するわけだ。

結論を言えば、浅井先生の発言がブレまくっているから、顕正会の内部でも認識に温度差が生じている、ということだと思われる。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1726.html

リンク先は一昨年の拙稿である。浅井先生は当時、次のごとく発言している。

 二〇二〇年代こそ、まさに広宣流布の決戦場であります。この決戦場を見つめて一筋に猛進し、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。

わたくしはこれを下方修正だと断じた。なぜなら当時、広宣流布は直線コースに入った、ゴールは近い、という意味の発言を繰り返していたからである。ゆえに決戦場云々は一歩後退の表現と言わざるを得ないのだ。

では、最近の発言はどうかであるが、ここでは顕正新聞第1302号すなわち二月度総幹部会の会長講演をご覧に入れよう。

 もう広宣流布は近い。すでにギリギリの広布最終段階に突入している。

これでブレまくっているの意味がおわかりいただけるだろうと思う。

もし二千二十年代が決戦場なのであれば、今はその一つ前の段階に位置するわけである。すなわち最終段階の一歩手前である。しかし、今が最終段階なのであれば、今がまさしく決戦場ということになる。おいおい、どっちなんだよ、と言いたいところだ。

客観的には二千二十年初頭に広宣流布を達成するのは無理である。ゆえに決戦場のほうが現実的ではあるのだが、しかし、それとて相当に困難である。つまり、顕正会がそのヒノキ舞台に立てるのかどうかであるが、たぶん今と大同小異であり、一進一退を繰り返しているのではないかと思われる。それにもかかわらず、熱心な活動会員たちはあたかもゴールを迎えることが出来るかのように思い込み、未活動者に対してその意味のメールを送っているわけだ。

いずれにしても五年十ヵ月後に一つの結論が出る。その時まで拙ブログが続いていれば、ぜひ取り上げてみたいものだと思う。

さて、今日は二月度総幹部会の会長講演を取り上げよう。

「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
 この仰せこそ仏法史観の骨髄・肝心
 自虐史観も皇国史観も国を亡ぼす


いつものごとく、今回の会長講演も読み応えバツグンである。熱心な活動会員たちが熱心に活動するのも頷けるところで、むしろわたくしのように冷めた目で見ているほうがどうかしているのだろうと我ながら思うところだ。

それはともかく話を進めよう。まず、地方会館建設についての発表があった。

尾道会館

すでに佐渡会館と兵庫会館の建設が発表されていたけれども、もう一つが未定だった。これが上掲のごとく決まったわけだ。それから次が注目である。

 そして明後年の三会館については本年一一月に発表予定ですが、そのうちの一つはすでに決定しておりますので、本日、発表いたします。

これは異例の発表だ。具体的には次のごとくである。

 岐阜県に建てます。
 叶うことなら、垂井のそばに建てたいと思っております。


よくわからないが、急いでいることだけは確かだろう。

記録的豪雪は
  国難元年の象徴


なるほど、これはそれ相応の説得力を感じさせる話だと思った。

「国難元年」まず日米両国に深い亀裂

「今こそ確固たる仏法史観に立て」
 自虐史観の反動として皇国史観台頭


先には会長講演の大見出しを掲げたが、ここに掲げたのは顕正新聞一面の大見出しである。これらを読めば今回の会長講演の大きな流れがわかるだろう。会館建設の話題から大雪の話題に続いて、いよいよ本題である。

安倍首相の靖国参拝を端緒として、いよいよ日米関係に溝が生じ始めた。その事例として、首相の取り巻き連中の不用意な発言を紹介している。なるほど、相手の神経を逆撫でするような、刺激的な発言がいくつもある。ここでは百田尚樹氏の発言を紹介しておこう。

 「極東軍事裁判は、アメリカの東京大空襲と原爆投下という大虐殺をごまかすための裁判だった」

浅井先生の立ち位置が微妙だと思った。なぜなら浅井先生ならばこの手の発言に拍手喝采を贈りそうなものだからである。ただし、おそらく眼目はそこではなく、日米関係の亀裂にあるのだろう。先生の歴史認識がどうであれ、ここでは別の議論ということなのだと思われる。

わたくし個人の意見としては、百田氏に肩入れするつもりはさらさらないのだけれども、歴史認識の問題で日本はやられっ放しのような印象が拭えないので、反発したくなるのが人情だろうとは思う。これはまさに浅井先生も当該講演で的確に指摘するところである。

反動として
 ナショナリズム台頭


この見出しがわかり易いだろう。前掲の皇国史観台頭も同じ意味である。

 こんどの都知事選で、ウルトラ右翼といわれる元航空幕僚長の田母神候補が六一万票も取ったが、これこそ都知事選で注目すべきことだった。まさしく保守的な気運が日本に起きてきたのであります。

ちなみに先ほどの百田発言は、この時の応援演説なのだそうである。

それにしても先生の次の発言が面白い。いや、面白いというか、先生も時代をよく見つめていることがわかる点で、興味深い。

 彼の支持者は「ネット右翼」(ネトウヨ)といわれる若者たちが、主体と言われている。

もちろん自虐史観も盛んであり、皇国史観といい勝負というか、両者は拮抗しているのだろうと思われる。これについての先生の結論は次のごとくだ。

 いま日本国内で、右と左、保守と革新、皇国史観と自虐史観がぶつかり合っているのも、まさしく広布前夜の自界叛逆のハシリであると私は思っております。

なるほど、うまい結論だ。

ちなみに、どうでもいいことを書くと、先生は「ハシリ」という表記を昔から好んで使っている。漢字で書けば、「走り」なのだろうけれども、先生としてはシックリしないのだろう。そう、わたくしも先生のマネをしているわけではないのだが、けっこうカタカナ表記を多用するほうである。ようは外来語ではなく、純粋な日本語であっても、シックリしない場合だとか、あるいはあえてインパクトを持たせるためだとか、そういうような効果を狙ってカタカナで書くのだ。

さて、いよいよ仏法史観であるが、これは次回に譲りたい。

それはともかく、やはり今回の講演で問題なのは、先の都知事選について田母神氏関連で取り上げてはいるものの、細川小泉連合の敗北についてはまったく触れていない点が問題だろうと思う。浅井先生は都合の悪い部分を切り取ってしまうクセがある。これはひじょうに悪いクセだ。

これは次回の伏線の意味も兼ねているので、ぜひ記憶しておいていただきたいと思う。

2014/3/18

桜はまだか?  
顕正会は舎衛の三億を否定している。なぜ三分の一で広宣流布なのか、そんなことは御書に説かれていない、全員が入信した時が広宣流布である。大雑把に言えば、これが顕正会の広宣流布観である。

しかし、今はじゃっかん変わってきている。たぶん、これは変節したというよりは、いちおう現実路線ということなのだろう。いわゆる六千万がそれである。国民の過半数を意味するのだと思う。

また、当面の目標としては二百万を掲げている。

今現在が百六十数万人なので、二百万はそれほど難しくはないだろう。時間の問題だ。しかし、六千万は相当に難しい。誰が考えたって同じ結論のはずだ。

つまり、いくら浅井先生が「広宣流布は近い、遠い先ではない」と言っても、誰も信用しないわけである。いや、もちろん、熱心な活動会員たちは信じているわけなのだが、しかし、拙ブログにも時たま現役会員から疑心暗鬼のコメントが寄せられる。ようは頑張って活動してる人たちの中からも疑問が生じつつあるのが現実なのだ。いわんや外側の人間から見れば、ぜんぜんダメじゃん、というふうに映って当然なのである。

先生の代で全て決するなら良いですけど。

このコメントを下さった二郎氏は顕正会員なのだろうけれども、やはり広宣流布はまだ先のことと考えているわけで、先生の代ですべてが決するとは思っていないことを、いわば表明しているわけである。

ひるがえって舎衛の三億を考えるに、これは意外にも相当にハードルの高い目標であることがわかるはずである。ゆえに広宣流布の一つの目安として、これを掲げることはそれほど間違ってはいないだろう。これについては以前にも何度か書いているので、興味のある人は検索窓を利用して確認されたい。

 題目広布は創価学会の役目

創価学会の大躍進によって題目を唱える人が相対的に増えただろうことは否定できないが、しかし、いかがなものかと思う。なぜならば、題目に比して念仏が減ったのかと言えば、それほどでもないのが現実だ。大聖人は念仏を一凶と断じた。であれば、題目流布と同時に念仏撲滅を実践しなければいけない。しかるに大聖人御出現以来七百有余年の歳月が流れたにもかかわらず、念仏宗は今もそれなりの勢力を有しているのだ。残念ながら今の創価学会は破折の精神を失っているように見える。これではダメだろう。

 冥益は、自らの命の中の寒苦鳥との戦いなんです。

やや難解な文章であるが、いわゆる己心の魔とほぼ同義なのだろう。沖浦氏が常に前向きで、具体的には世界記録に挑戦し続けているその姿は、まさに己心の魔に打ち勝っている姿そのものなのだろう。ナマケモノのわたくしから見れば、実に偉大である。こういう人からコメントがいただけること自体、ありがたいことだと思う。

さて、バーズ氏からのコメントであるが、これには少々驚いた。

顕正会の教学試験は合格率が低い。わたくしはその理由について、後期高齢会員の増加が原因だろうと睨んだ。ところがバーズ氏は、まったく別の理由を提示してきたのだ。

――私は別な考え方です。
いわゆる、「ゆとり世代」と呼ばれる人が大勢入信してきているのではないでしょうか。
円周率を「3.14」ではなく「3」と教わってきたような若い世代にとって、顕正会の試験は難しいでしょう。だからといって試験のハードルは下げられない。
結局、合格率が低くなる。これが私の考えです。


なるほど、これはまったく気がつかなかった。

わたくしは今も後期高齢会員増加説を捨て切れないでいるのだが、その理由は前にも述べたとおり、近年の顕正新聞の一大傾向として後期高齢会員の登場頻度がベラボウに高いことである。ちゃんと数えたわけではないけれども、顕正新聞を購読している人ならば、誰もが感ずるはずである。高齢者が多いなあと。

まあ、しかし、わたくしはかれこれ十年近くも組織から離れているので、もしかしたら間違っているかもしれない。

ようするに後期高齢者は老い先が短い。甚だ失礼なようだがこれが事実である。よって優先的に記事にしているのかもしれない。一方、若者はこれからいくらでも載るチャンスがある。何しろ成人式には七百人からの結集があったわけで、仮に十五歳から二十五歳までの会員分布を均等だと見なせば、七千人もの若者がいるのだ。さらに三十五歳までとすれば一万四千人だ。これだけいれば記事に困らないはずだ。

つまり、会館に行けば若者で溢れかえっている。わたくしはそれを知らないものだから、顕正新聞の記事だけで判断する。そこがバーズ氏との見解の相違点かもしれないのだ。

最後に脱線するが、ゆとり世代について巷間あれこれ言われていることは、どれほど事実を正確に反映しているものなのだろうか?

わたくしの観察が正しければ、いつの時代もそれほど変わらないと思うのだ。ゆとり世代の人であっても、物凄くストイックな人もいるし、その逆のノホホンとした人もいる。別の世代の人たちを観察しても同様であって、人間にはいろいろなタイプがいるのだ。ゆえにそんなに違わないのではないかと思うのだが、それとも何か顕著な差があるのだろうか?

2014/3/17

自分を棚に上げて  
顕正新聞第1301号から話題を拾おう。第一面は日曜勤行の指導だ。

雪山の寒苦鳥になってはいけない
 一生虚しく過ごせば死後必ず後悔
 仰せのままの信心に立ち一生成仏を


見出しだけで充分だろう。新池御書の一節が浮かんでくるはずだ。

この御指南は世間一般の人にも大いに感ずるものがあるはずで、それで入信しようとは思わないにしても、人生の教訓として深く心に残るのではないかと思う。

わたくし自身、仏道修行の意味で考えれば、まさに寒苦鳥そのものであって、このままじゃいけないとは思いながらも、実際はダラダラと時間を浪費しているだけなのだ。あるいは生活全般に置き換えても同様で、やろうやろうと思って何日も、あるいは何週間も、そのまま放置している事案がたくさんある。具体的には片付け物だ。部屋の隅にダンボールがあって、そこには無雑作にいろいろなものが入っている。これを整理しようと思って、とりあえず邪魔にならないので、気が向いた時にでもやろうと思っていた。思っていたけど、結局は今もそのままなのである。気がつけば数ヶ月、いや、すでに一年以上が経過しているかもしれない。しかし、たぶんこれはまだマシなほうというか、実はもっと重大な事案がたくさんあるのだと思う。本来ならば、それらを一つひとつ確実にクリアしていくべきなのだろうけれども、ほとんど何もしていない。ただ生きているだけみたいなもので、結局のところ、切羽詰らないと本腰を入れようとしないのがナマケモノの性なのだ。困ったものである。

 ああ、過ぎにし方の程なきを以て知んぬ、我等が命、今幾程もなき事を

「ああ」の部分は漢字なのだが、変換できないようだ。それはともかく当該御文の浅井訳を示そう。

 過ぎ去った年月がアッというまであったことを以て、残りの人生も決して長くないことを知るべきである

新池御書は名文である。わたくしごときが大聖人の御書に対して名文などと評することはまったくケシカランことであるが、まあ、しかし、たぶんこれが世間一般の客観的評価に近いはずである。そして浅井先生の訳もなかなかのものだ。

それはともかく次が問題だ。

 もう広宣流布は近い、決して遠い先ではないですよ。

いつものセリフではあるけれども、雪山の寒苦鳥の話と併せて読むならば、思い半ばに過ぎるものがあるはずだ。

ああ、そうか、もう広宣流布は近いのか、だったら今やらないとダメだな、広宣流布しちゃったら折伏できなくなっちゃうもんな、だったら今しかない、と。

浅井先生は会員にやる気を出させるのがうまいということだ。

しかし、広宣流布が近いかどうかは疑問である。

ちなみに、この日曜勤行は平成二十五年五月五日に行なわれたものである。かれこれ一年近くも前のことだ。何をやっておるものかと思う。

さて、二面から三面にかけては各地の集会における代表決意が掲載されている。いわゆる部長クラスが八人、主には浅井先生の指導をおさらいしているわけだが、わたくしは大いに問題を感じた。

 一月度総幹部会において浅井先生は・・・

全員の記事に同様のフレーズがある。これ自体はいつものことなので問題ないが、その内容が問題なのだ。すなわち東京都知事選のことである。浅井先生は細川小泉連合が勝つだろうことを匂わせる講演をした。それなりの紙数を使ってである。それにもかかわらず、くだんの八人はこれにまったく言及していないのだ。

この理由は何だろうか?

たぶん、誰もが容易に想像するだろう。細川小泉連合が負けてしまったことをである。負けちゃったので都合が悪い。だから黙っているのだ。

もし他に理由があるのならば教えてほしいものだ。

やはり都合が悪いから黙っているのだろう。そうとしか考えられない。わたくしはこれが顕正会のいちばんダメなところだと思う。正直に言えばいいのだ。

成人式ビデオ放映

これも悩ましいところだ。

三月の本部行事の一つとして、この成人式のビデオ放映が組まれている。ご存知のごとく、浅井先生は本年の成人式に出ていない。そこで流されたのは昨年の成人式のビデオである。ということは、今回のビデオ放映はビデオのビデオを視聴するわけである。

何をやっておるものかと思う。

2014/3/16

春はまだか?  
多数のコメントが寄せられており、しかも内容が多岐に渡るため、対応が困難になっている。そこでいつもの得意技を使うことになる。

まずは顕正新聞第1300号の話題だ。

弘通の法師に於ては下輩たりと雖も、老僧の思いを為すべき事

第一面には二月七日の会長講演が載っている。上掲はそこで引用された遺誡置文の一条であるが、これについての説明がひじょうに問題である。

 けなげに折伏弘通する人を見たら、たとえその人がずーっと後輩であっても、先輩のような思いに立つべきである――と。

独立教団路線まっしぐらを思わせる発言である。

弘通の法師とは出家を意味するのであって、ここに在家は含まれない。当然、こんなことは百も承知であろうはずの浅井先生がなぜにこんなふうに言うのかを想像するに、 これはもはや宗門を無視して自分たちだけで広宣流布をやろうとの意志のあらわれなのだと思われる。しかし、自分たちだけで広宣流布をやると言えば聞こえはいいものの、実際にはできっこない。すると、その意味するところは独立教団路線であり、そこから行き着く先は活動会員一人ひとりが弘通の法師に相当するとの解釈である。

しかし、これはちょっとでも教学をかじったことのある人ならば、簡単に破折できてしまう。

檀那の社参物詣でを禁ずべし・・・

同じく遺誡置文の一条だ。

ここに檀那とある。これがいわゆる在家のことで、日興上人の御遺誡は主には出家に対する条目で構成されているわけだが、このように在家に係わる条目もいくつか存在する。

若輩たりと雖も高位の檀那より末座に居くべからざる事。

これが明快だろう。ここでの若輩は出家のことである。高位の檀那とは、さしずめ往年の池田大作氏が当てはまりそうだ。池田氏がどれほどの大檀那であろうとも、この条目に逆らうことは出来ない。浅井先生も同様だ。

以上、日興遺誡置文ではこのように出家・在家を明確に区別しているわけだから、出家を意味する文言を何の断わりもなしに在家に当てはめてはいけない。いや、もちろん、まったくダメだとは言わないが、今の顕正会の場合は宗門復帰を断念して、独立教団路線を突き進まんとしているふうに見えるので、ダメなのである。

さて、教学試験について書いておこう。

受験者総数 30377人

そして次が試験ごとの受験者数と合格者数だ。

四級 10133人 2210人
五級  5210人 1146人
登用 15034人 2331人


教学試験については毎年のように書いているので、それほど書くこともないのだが、重複を恐れず思いつくままに書いてみよう。

教学試験制度そのものが行き詰まりを見せているのではないか?

四級合格者の次に進むべきステップが存在しない。すなわち三級試験が行なわれないこと。さらには二級であり、一級である。誰だって思うだろう、四級の次は? と。上級試験は隔年だとか三年に一度だとか、そのようなスパンで行なわれていればまだしもである。ここ十年、いや二十年になるだろうか、まったく行なわれていないのだから、今の幹部会員たちも未経験なのである。本部首脳がこのおかしさに気づいていないとすれば重症である。

受験者数に比して合格者数が少ない。

これは毎年のように言っていることだが、いわゆる義理受験、いや、これはわかりにくいかもしれないので言い換えると、ようはここにも成果主義の弊害が出ているのだろう。受験者数にもノルマみたいなものがあって、本人が受けたくなくても受けさせられる。当然、そういう人は熱心に勉強しないから合格しない。まさに合格率が低い理由はこれである。

それから今回、初めて指摘することになると思うが、合格率の低い理由は、もう一つあるかもしれない。

特にこれは登用試験に言えることだが、おそらくは後期高齢会員の増加が一つの原因なのだろうと思われる。最近の顕正新聞の一大傾向として言えることは、婦人部ないし女子部の紹介で入信する後期高齢男性が多数存在することである。たぶん諫暁書や特集号を携えて、いわゆる訪問折伏が行なわれているのだろう。それによって入信する高齢者が多いのだ。

これで答えは見えただろう。

失礼ながら高齢者は物覚えが悪い。とりわけ新しい分野のことを覚えるのが不得手である。こうした高齢の受験者は仮に真面目に勉強しても合格が覚束ないということもあるだろう。お義理受験よりは遥かにマシであるが、しかし、これは教学試験の問題というよりも顕正会の構成人員の問題として深刻である。

最後に、お義理受験に引っ掛けて、男子部大会のことを書いておこう。

男子部諸君は五万人の大結集を目指して頑張っている。しかし、数にこだわってはいけない。数に執着して、お義理参加者ばかりを増やしたら、大変なことになる。仮に五万人が集まったとしても、もしそれが烏合の衆であったならば大失敗である。

2014/3/14

本尊の授与ないし下付について  
沖浦氏は他人の話をよく聞かずに自分の言いたいことだけを捲くし立てるタイプ・・・と思われがちだが、実際にはそうではなく、少なくとも拙ブログについてはよく読んで下さっているようである。ありがたいことだ。

もちろん、それは沖浦氏だけでなく、他の人たちも同様である。拙ブログの内容をよく読んだ上でコメントを寄せて下さっている。ありがたいことだ。

授与に関するツッコミはそれなりに有意義だった。

わたくしは婦人部 部長が授与と書いたのでそれに従ったわけだが、厳密には授与ではないのだろう。それは顕正会の教科書であるところの、通称・折伏理論書を読んでもわかることだ。

 冨士大石寺門流においては、入信者の信行が進んで不退の金剛信が確認された時、日興上人以来嫡々付法の大石寺歴代上人が、この戒壇の大御本尊を書写して授与して下さる。

これはいわゆる常住御本尊のことだ。

では、不退の金剛信が確認される以前においてはどうするのかであるが、顕正会では遥拝勤行の実践を勧めている。

 ただし、本宗における御本尊の授与は極めて厳格で、入信早々に授与されるということは絶対になく、身命も惜しまぬ信心が確立してのち、始めて授与されるのである。したがって、御本尊を頂戴するまでは、すべての人が、我が家より遠く戒壇の大御本尊を遥拝し奉って勤行申し上げる、いわゆる「遥拝勤行」がまず信心の出発となる。

現宗門がこれを是とするか非とするかわからないが、わたくしはいちおう筋が通っていると思う。

ところがである。次が問題なのだ。

 近年本宗において、信徒の増加にともなって、止むなく信心決定までの暫定の仮本尊として、形木御本尊(印刷された御本尊)が下附されるようになった。

冒頭に、厳密には授与ではないのだろうと書いたのは、まさにこれがためである。ご覧のごとく、当該書籍の執筆者である浅井先生もしっかりと使い分けをしている。すなわち常住御本尊は授与であり、御形木御本尊は下付ということなのだ。

もっとも、これにどれほどの相違があるかと言えば、実質的にはさほど変わらないだろう。いわばアゲアシ取りの範疇かと思うのだが、しかし、顕正会問題を考える上ではきわめて重要である。

わたくしはこれまでに何度も繰り返し言ってきた。

浅井先生は遥拝勤行の創始者である。いや、創始者は違うかもしれないが、少なくとも近年の宗門では御形木御本尊の下付が入信後の比較的早い段階で行なわれている実情がある以上、遥拝勤行を提唱することは御本尊の授与ないし下付について一石を投じていることになるはずである。

ところが先般、部長クラスに対し、御本尊の授与ないし下付が行なわれたというのだ。これほどの自家撞着もあるまい。

破門された段階で、もっとも根本の御本尊の問題をどうするかは、考えておかねばならなかったのではないか?

これは至極もっともな話ではあるのだが、創価学会と顕正会ではかなり事情が異なるのだ。

顕正会では解散処分後、いわゆる御遺命守護完結を当面の目標として掲げていた。つまりは宗門復帰を目指していたわけで、この点は今の創価学会とは大きく異なるはずである。ゆえに、顕正会で独自に御本尊を授与ないし下付するような考えは、もともと持っていなかった。

昭和四十八年に最初の本部会館が建った。この時、妙縁寺重宝との脇書きが付された日開上人の御本尊が本部会館に安置されたわけで、これは当時の妙縁寺住職の判断でなされたことなので何らの問題もなかった。
翌年、ご存知のごとく、解散処分が下された。この後、いわゆる法廷闘争があって、本部会館の御本尊を返還すべきか否かが争われた。
それからもう一つ、解散処分の前後において、浅井先生は妙縁寺所蔵の常住御本尊を七幅と御形木御本尊を多数(正確な数字は不明)、御住職より託されたという。

いずれは御遺命守護が完結し、宗門へ復帰する時が来る。当初はそのように考えていたので、御本尊が不足するような事態は想定し得なかった。当時であれば、いわゆる正義にめざめて創価学会から、あるいは宗門から、次々に顕正会に馳せ参じてくる。彼らはみな御本尊を携えてやってくるのだ。ゆえに御本尊の心配はなかった。

ところが今は事情が違うのである。

いわゆる学会版の本尊は用いない。顕正会的には当然であろう。しかし、何たることか、今は日達上人・日顕上人の御本尊も用いないというのだ。

では、いったい何を用いているのか?

基本的には遥拝勤行である。これは当然のことであり、いちおう問題はない。

では、会館用の御本尊は?

日布上人の大幅御形木御本尊である。

では先般、部長クラスに授与ないし下付された御本尊は?

昭和三十年代に宗門で下付していた日寛上人の御形木御本尊なのだそうである。

いずれも問題視されて久しい。

結局、このことも繰り返し言ってきたことだが、顕正会は宗門復帰する以外にないのだ。独立教団路線そのものが、あらゆる意味で矛盾を生じさせているのだ。これがわたくしの一貫した主張である。

以上、授与についてのツッコミは、いわば言葉尻を捉えたアゲアシ取りに過ぎないのだけれども、よくよく考えれば意外にもけっこう核心に迫るツッコミなのだと思う。

2014/3/13

昨秋の家宅捜索のその後について  
昨年九月十一日の家宅捜索から、かなりの時間が経過した。その後、一向に続報がないので、いつものパターンだなと勝手に思っていたのだが、今回はめずらしく続報が流れた。二月二十六日の夕方のことだ。

しかし、わたくしはまったく気がつかなかった。なぜならば拙ブログのアクセス数にそれほどの変化がなかったからだ。

瑠璃堂氏の二月二十七日付のブログ、あるいはバーズ氏の三月一日付のブログ、それからフェイクの記事、これらを見て知ったわけである。

年度末ゆえか、柄にもなく多忙を極めていて、今ごろになってしまったが、今日はこの一件について書いてみたいと思う。

大山鳴動してネズミ一匹

バーズ氏と瑠璃堂氏では、立場も異なれば主張も異なる。しかし、今回の一件について共通しているのは、上掲のような意味を述べている点であろう。わたくしも同感だ。

ようするに昨年九月十一日に顕正会関連施設に家宅捜索が入った。いわゆる折伏にともなくトラブルについて、教団の関与が疑われたのだろう。そして今回、活動会員二名が書類送検された。ただそれだけの話である。

昨秋のあの物々しい家宅捜索の映像を見れば、誰もが顕正会とは何ぞやと思ってネット検索を行なうことだろう。しかし、顕正会の組織そのものは何のお咎めを受けることもなく、容疑者二名にしてもついに逮捕されることはなかった。そう、逮捕には至っていないのである。ゆえに二名が書類送検されたという報道そのものも、そんなこと報道してどうするのという感じが否めないし、おそらくはこれで終わりなのだろう。これ以上の進展は見込めない。つまりは書類送検でお茶を濁した格好だ。

本日現在、ニュース検索をすると、あら不思議、顕正会関連の記事が思ったほど出てこない。すでに丸二週間が経過しているので、上書きされてしまったのかもしれないが、あるいは顕正会側からクレームがついて記事を削除した可能性も考えられる。

具体的にはNHKの記事だ。

顕正会会員ら 入会強要容疑で書類送検
2014-03-01 20:04:37
テーマ:ブログ
さいたま市に本部がある宗教法人「顕正会」の会員ら2人が東京の23歳の男性を脅して無理やり入会させたとして強要などの疑いで書類送検されました。

書類送検されたのは宗教法人、「顕正会」の会員で横浜市の24歳の元会社員と元会員で、川崎市の25歳の会社員の2人です。
警視庁によりますと、2人は去年3月、都内の23歳の男性に対し「入信しなければバチがあたる。五体満足ではいられないこともあるかもしれない」などと言って板橋区にある施設に連れて行き無理やり入会させたうえ、「このことを話すと、顕正会の関係者が自宅に押しかけるぞ」と脅したとして強要などの疑いが持たれています。
調べに対し、2人のうち1人は、「強要はしていない」と容疑を否認し、もう1人は容疑を認めすでに脱会したということです。
さいたま市に本部がある顕正会は昭和32年に発足し、会員はおよそ162万人に上るということですが、警視庁によりますと、社会不安をあおって入会を勧誘しているということで入会や脱会を巡るトラブルの相談が警視庁にだけでも去年、160件以上寄せられているということです。
書類送検について顕正会は、「不当な捜査だ」としています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140226/k10015556091000.html
-2月26日 18時40分 NHKニュースより


上掲のリンクはすでに切れている。わたくしも三月の初旬に、NHKのサイトで映像を視聴しているのだが、今はいくら検索しても出てこないのだ。それでたまたま見つけたのが法華講員のブログである。

http://ameblo.jp/hand914/entry-11784918744.html

わたくしの見た範囲では、今回の報道の中ではこのNHKの記事がいちばん詳しく書かれている。しかもである。やや悪意の感じられるものだった。再掲しよう。

書類送検されたのは宗教法人、「顕正会」の会員で横浜市の24歳の元会社員と元会員で、川崎市の25歳の会社員の2人です。

ややこしい文章だが、整理すると次のようになる。

顕正会員=元会社員
元顕正会員=会社員


現役会員が元会社員で元会員が会社員というのは、もちろん事実を報道しているのだろうけれども、何となく悪意の印象操作のようなものを感じさせるものがある。

調べに対し、2人のうち1人は、「強要はしていない」と容疑を否認し、もう1人は容疑を認めすでに脱会したということです。

ぶっちゃけ言えば、脱会したほうがマトモであり、もう一人のほうはマトモじゃない、ようは狂っている、狂信者だ。わたくしのヒガメかもしれないが、NHKはそのような意図で報道しているようにも思えるのだ。

顕正会には弁護士がいる。ゆえに上述のことを法律的なテクニックを駆使して主張すれば、それなりの効果が期待できるのではないかと思われる。当該記事が削除された理由はそんなところかもしれない。

話がややこしくなるのを承知で書くと、この話には伏線があるのだ。

都知事選 NHKが脱原発に∴ウ力!
 「選挙期間中は原発問題はやめて」


顕正新聞の二月五日号の記事である。これはひじょうによく書けていると思うが、ここでは詳細を省こう。ともかくNHKにとっては痛いところを突かれたわけであって、もしかしたら報復的な意味から前掲の悪意の報道がなされた可能性も考えられるのだ。いや、もちろん、これは考え過ぎかもしれないが、いずれにしても他の報道と比較すれば、NHKのそれはやや執拗というか悪意の感じられるものであることは間違いないだろう。

さて、次は瑠璃堂氏も引用している時事ドットコムの記事である。

公安部は教団のノルマがあり、2人が強引な勧誘をしたとみている。

教団にはノルマがある?

いわゆる折伏誓願のことだ。活動会員にしてみれば、ノルマという表現は甚だ心外であろうけれども、世間一般の認識としてはこれが普通の表現なのだろう。

わたくしはこのくだりを読んで、二通りの可能性を考えた。

一つは悪意の報道である。もう一つは、彼らもようやく顕正会問題の核心部分に到達したようだ、ということである。

悪意はごく単純な話である。ノルマという表現に対する世間一般のイメージがどういうものか、これが定かでない以上は何とも言えないところであるが、わたくしの勝手なイメージを言うならば、これはネズミ講的な響きを感ずる言葉なのである。つまり、金銭がらみの嫌らしさ・ダーティーさを感じさせるわけである。

もし彼らがこれを意図してノルマという言葉を使ったのならば、まさしく悪意そのものである。

けれどもご存知のごとく、顕正会はそういう金銭的なノルマから折伏誓願を立てているわけではないわけで、いや、もちろん、異論があることは承知しているけれども、少なくとも一回の法戦で二万人の誓願を立てたとすれば、そこからのアガリは事実上ゼロ円であって、まるで金儲けとは無縁のところで折伏法戦が展開されているわけなのだ。

まさに、これこそが顕正会問題の核心部分である。

公安にしても、マスコミにしても、このような白蓮華のごとき団体を他に知らないものだから、いったい何をどのようにしたら問題が解決するのかわからない。わからないけれども、問題の核心がどこに存するかは、今ようやくわかってきた。おそらくはそんなところだと思う。

今回の報道は二月二十六日に行なわれた。わたくしの確認した範囲ではTBSの十六時二分がいちばん早いようである。二十六日付で書類送検が行なわれたのだから、その日の夕方に最新ニュースとして流されるのは、当然である。

しかし、なぜに二十六日なのか、わたくしはここに疑問を持った。

ようするに、この日は二月度総幹部会の開催日なのである。

これまた考え過ぎかもしれないが、わたくしは警察サイドの配慮というか、深謀遠慮というか、そういった計算めいたものを想像した。つまり、顕正会側のリアクションを恐れたのだ。この手の報道を受けて顕正会がどのようなリアクションを起こすか、定めて過剰な反応を示すだろうことがわかっているので、それを厄介なことだと思ったのだろう。ゆえに書類送検の日を総幹部会の当日にぶつけてきた。報道が流れるのは夕方である。さすがの浅井先生も準備する時間的余裕がないので、講演に織り込むことは出来ない。すると三月の総幹部会まで丸々一ヶ月の時間があるので、これが冷却期間となって過剰な反応にはならないのではないか、というのが警察側の読みである。

顕正会は強い。

浅井先生がよく口にする言葉である。武闘派昭衛はどこまで行っても強気なのだ。ゆえに警察の傍若無人に屈することなく、どこまでも戦うつもりでいるのだろう。

逆に警察側は弱気というか、少なくとも今回の一件では勝算がないと見たのだろう、ここら辺りで矛を収めることにしたのだと思われる。

 公安部は昨年9月、さいたま市の教団本部や2人が所属する神奈川会館など全国7カ所を同容疑で捜索していた。元会員の男は捜索後脱会した。

再び時事ドットコムからの引用であるが、七ヶ所というのがわからなかった。昨秋の報道では五ヶ所だったと思うが、どこか追加で行なわれたのだろうか?

最後に一言。

元会員の男は捜索後脱会した。

NHKの報道にも出てくるし、あるいは他の記事にも「元会員」との表記がある以上、脱会したのだろうことがそれとわかるようになっている。

ある意味、今回の報道における目玉はこの部分なのかもしれないと思った。

もしこれを公権力とマスコミが一体となって顕正会からの脱会を助長させる動きを示したと見るならば、これは物凄く重大なことである。

2014/3/5

複雑な心境  
なんだかんだと話題が多くて、大変だ。先日は本部職員から、そして今度は婦人部 部長からコメントが舞い込んだ。

2014/3/4 23:18
投稿者:婦人部 部長
3者の部長幹部全員に浅井先生からご本尊を授与されました。
複雑です。


この短い文章の中に、まさに万感が込められている・・・といった感じである。わたくしも複雑な心境だ。

第一男子部〜第二十一男子部
第一女子部〜第二十九女子部
第一婦人部〜第十八婦人部


現在、顕正会の組織は上掲のごとくで、たぶん兼任がいくつかあるので正確にはわからないが、単純計算すれば部長クラスの幹部はぜんぶで六十八人となる。う〜ん、これは意外や意外、そんなにいるとは思わなかった。

問題はこのことが顕正新聞で報道されるのかどうかだと思う。

ご存知のごとく、顕正会にはニセ本尊疑惑があって、その真偽について内外から注目されている。主には顕正会から宗門へと移籍した人たちが鋭い眼差しを向けており、すでにニセ本尊であると断言して憚らない人もいるくらいである。そして今回情報を下さった婦人部 部長にしても、この問題を相当に気にしているわけなのだろう。それが複雑云々の意味だと思われる。まさに内外から注視されている問題なのだ。

ゆえに、隠密裏に本尊の授与が行なわれ、まったく顕正新聞などで報道されないとすると、ますます怪しまれることになるだろう。いや、もちろん、報道すればしたでツッコミが入るのは目に見えていることなのだが、こうして内部の人間から情報が漏洩してしまうわけだから、結局は同じことなのだ。

アイマイな記憶で恐縮であるが、実は以前にも本尊授与が行なわれたことがある。平成十年前後だったろうか?

当時は隊長・区長の全員に本尊が授与された。

婦人部とそれから当時はまだ存在した壮年部はどうだったか、わたくしの記憶の中ではまったく不明であるが、あるいは同様に本尊授与があったのかもしれない。当時は確か男子部・女子部でそれぞれ二十数隊・二十数区だったはずで、壮年・婦人も同数だったと思う。仮に二十五だとすると、ぜんぶで百となる。

今回は六十八だから、きわめて大雑把に言えば、わりと近い数字である。当時はもちろん男子部は一組織であり、その下に二十有余の隊長がいた。女子部の場合、あるいはすでに三組織くらいになっていたかもしれないが、ともかく当時と今では組織の規模が違うわけだ。これも大雑把に言えば、一回り大きくなった。一ケタ増えたと言ってもいいかもしれない。まあ、しかし、現実にはそこまでの増加はない。せいぜいが微増である。

う〜ん、説明がヘタだ。

数字に強い人ならば、もっと明快な説明が可能だろう。わたくしはご覧のごとくの不要領であるが、まあ、それでも言いたいことはわかるはずだ。

ようはポストが増えて組織が大きくなったように感じるけれども、実際はそれほどでもない。先日の本部職員の言っていたこともこれと同じことだ。

失礼ながら今の隊長・区長は昔の隊長・区長に及ばない。結局は現在の部長クラスが当時の隊長・区長クラスと同等なのだろう。これは本尊授与の基準から考えても相当である。

さて、上述のことは脱線気味の話題と言ってもいいだろう。ようは組織の実態がどうこうではなく、本尊授与そのものが問題の焦点なのである。

日蓮正宗信徒の立場から考えるならば、このことは裏でこっそりと魔の巣窟の偽本尊を幹部にバラまく、とても恐ろしい行為であります。

セロリ氏のコメントを引用したわけだが、これはまさに日蓮正宗信徒の立場からの正当な主張である。創価学会員には異論があるだろうけれども、それはまた別の議論なので、ここでは論じない。

それこそ「国難元年」と後から言われるような災害すら起きてしまうのではと心配です。

う〜ん、これはイヤミというか皮肉というか、たぶん真面目な気持ちで書いているのだろうけれども、実に見事な返し技である。国難元年は浅井先生が言っていることだ。それを逆手に取って、ニセ本尊の害毒でとんでもない災難が起こるのではないか、という意味のことを言外に言っているわけだ。

いわゆる依正不二の原理からして、それが世の中に何かしらの影響を及ぼすだろうことは、いちおう理屈としてわかっている。だが、しかし、本当のところはよくわからない。これがわたくしの正直な意見である。

いずれにしても顕正会の本尊授与は大問題である。何しろ顕正会においては数に限りがあるので、このまま授与を続けていけばいつかは品切れになる。それ以降は入荷の見込みもないのだから、店じまいをするしかない。文字どおりのオシマイである。

先月、経机の話題が出た。

わたくしは経机の推進はもうやっていないはずだと書いたわけだが、その理由は今日の話でおおむね了解が得られるはずである。

それから一月度総幹部会の体験発表でも、これに関連する内容のことが述べられている。顕正新聞第1299号の六面下段の記事だ。

 その後、浅井先生のご配慮により、勿体なくも中国の義兄宅を自宅拠点にさせて頂き・・・

男子部第七十一隊の支隊副長は、平成五年に自衛隊の先輩から折伏されて入信した。そして平成十二年に中国人女性と結婚したそうである。

顕正会では今や全国津々浦々に無数の自宅拠点があると考えられる。もちろん、我々にはその詳細はまったくわからないけれども、上掲の記事を読めば思い半ばに過ぎるものがあるだろう。あの中国においてすら自宅拠点が設けられるのである。いわんや日本においてをやである。


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