2014/5/30

顕正新聞第1309号  
信濃毎日新聞に沖浦氏のことが取り上げられた。これは素晴らしいことである。ユタ氏も触れているように、はたしてそれが創価学会の功徳なのかどうかは議論の余地があるけれども、しかし、水を差すようなことは書くまい。むしろ、よりいっそうの活躍を期待したい。前にも書いたが、新聞だけでなくテレビでも取り上げられるようになれば大したものだろう。

さて、次はんっ?氏からの質問である。

新聞の話は十年間で六千二百部という事ですか?

でしたら、多い日でも二部しか配ってないと
解釈して宜しいのでしょうか?

正直、元新聞少年としては何が素晴らしいのか
全く理解できないんですが?


なるほど、単純計算すれば一日あたり二部弱に過ぎない、ゆえに、大したことないではないか、ということだ。

これはまったく気がつかなかったが、しかし、わたくし自身の論旨にはいささかの不都合もない。登壇者は最近になって活動に復帰した。ということは復帰前から新聞を配っていたことになる。ならば復帰しているのと変わりがないことになる。ヘタをすれば、というよりも実際問題として、化石信心と呼ばれるような活動に極めて消極的な会員よりも遥かに活動的である。ゆえに今回、満を持して復帰宣言を行なったということは、いよいよ本格的に活動を再開するわけなのだろう。ならば、一日あたり二部弱に過ぎなかった配布活動も、これ以降は加速度的に部数が増加していくと予想されるのだ。そしてこれを逆に言えば、化石信心の人たちに対し、己の不甲斐なさを知らしめる意味があるわけで、そこで奮起して、せめて配布活動だけでも頑張ろうと思う人も出てくるかもしれないのだ。そもそも集会での登壇の目的は、他の会員に奮起を促すことであり、総じて言えば組織全体の士気を高めることに他ならない。

また、そもそもの話をすれば、これは平成元年に一地方で起こった騒動に端を発することであり、ぶっちゃけ言えば当人は反顕正会の側についたわけなのだろう。その人が顕正新聞を配るということは、いわば利敵行為になるわけだ。つまり、平成十七年ごろにはすでに相当程度、改心していたわけであり、本格的復帰はまだそれから十年近くを要するものの、すでにこの時点で新聞の配布を始めていること自体が改心の証拠と言えるわけである。

そして繰り返しになるけれども、今の顕正会には活動に消極的な会員が無数にいて、それが毎月の激しい折伏法戦の波に乗れずに取り残されていくという現実がある。これをどうするかが本部首脳の悩みのタネであって、その一つの答えが今回の登壇にあらわれているのだと思う。

折伏ができない人はせめて新聞を配れと。

以上、前回の拙稿と重複するのを承知しつつも、改めて書かせていただいた次第である。

さて、今日は顕正新聞第1309号を取り上げよう。当該号は五月十五日号であり、最近のパターンからすると、ネタに困って登壇記事ばかりを載せる手抜きの号がいわゆる十五日号である。実際、当該号はその傾向が否めなかった。

まず、一面から二面の四分の一くらいの紙面を使って、四月二十八日の講演が掲載されている。これは前々号の予告どおりであるが、それにしても微妙なところだ。結局、他にネタがないから一つの記事を使い回しているようにしか見えないのだ。

清澄山の頂より太平洋を望む(撮影・顕正新聞社写真部)

強いて挙げれば、この写真が素晴らしかった。写真部に有能な人材が入ったのだろうか?

しかし、イヤミを書けば、以前はカッコのところに個人名が書かれていた。今はご覧の通りである。

同じ水でも沸騰すれば機関車を動かす

これは二面の記事の見出しから拾ったものだが、浅井先生が幹部面接の折に発した言葉だそうである。言っていることは実に単純明快であり、頑張ろうと決意している人に対して、よりいっそうの奮起を促す意味において、適切な指導だと思う。冷めた人からすれば、だから何なの? という感じにはなるだろうが、この辺は感覚の問題なので議論をしても仕方がないだろう。

さて、次はアゲアシ取りを承知で書く。

 「昨日、これと同じ新聞を親しい国会議員から見せられた。中国のミサイル攻撃とプルトニウム四四トンのことを国民に告げ知らしめるべきか。国会で議論になっているそうだ」

副総合婦人部長の記事である。中途半端な引用で恐縮であるが、カギカッコは市会議員の発言である。ようするに三万通送付したという顕正新聞が国会内でも話題になっていることを言っているわけだ。しかし、やや腑に落ちない。なぜならば、くだんの市会議員の元には顕正新聞が届かなかったことになるからである。

もう一つ、国会で議論になっている・・・というのもおかしい。

だったら議事録に載っているのかよ、と言いたいところである。いや、もちろん、これはアゲアシ取りであって、たぶん国会で議論になっているというのは、国会議員の間で話題になっているという意味であって、まさか議題だとか議案に上程されているわけではないだろう。

もし本当に国会の論戦の中で取り上げられているのであれば、これはまさに広宣流布前夜とも言い得ることかもしれない。

国会議員の強い衝撃を物語る・・・

副総合はずいぶんと大袈裟なことを言っているが、残念ながら現実は違うようである。むしろ、もし顕正会のことが国会内で取り沙汰されるとしたら、それは強引な折伏によるトラブルが頻発している意味においてだろう。いや、もちろん、相手にされないよりは遥かにマシなのであるが・・・

さて、次は第二女子部長の記事である。

一二月には上海で五一名の入信が叶いました。

前にも何度か書いているが、国外の折伏成果を分離させないといけない。

次は女子部第百二十六区長の記事である。

アメリカでも地涌の流類続々と
 世界の人々が御本尊を待っている


こちらは以前取り上げた、三沢基地の米軍男性と結婚した女子部員が後に夫の転勤に伴ってアメリカ本土に渡ったという話の、いわば続きである。これも前掲同様に国内と国外の成果を分離させる必要があろう。少なくとも国籍別にする必要がある。つまり、アメリカ在住でも中国在住でも、日本国籍の人は国内の成果に含めてもよいが外国籍の人はダメ、とするべきなのだ。逆に日本在住の外国人の場合は成果に含めてもよいだろう。

いずれにしても前掲の上海云々の記事に比べると、アメリカ広布はまだまだ始まったばかりだ。

ところで婦人部鷹巣支区総班長の記事には、中国人によるストライキのことが書かれている。わたくしはこの記事にやや偏向を感じた。日本でもかつてはストライキがよく行なわれていた。しかし、近年はそれが見られなくなった。国民の民度の問題。国民の成熟・未成熟の問題。このような比較から論ずることも可能かもしれないが、わたくしは少し異なる視点を持っている。ご存知のごとく、ブラック企業だとか非正規雇用の問題は、現代日本における一つの重要な論点となっている。もっと不平不満をぶつけてもいいはずなのに、そうしたアクションを起こさない。ゆえに労働条件は一向に改善されず、それにもかかわらず消費税が上がったり、その他の料金も値上がりの傾向にあるので、ギリギリの生活を余儀なくされている人が少なくないのだ。やせ我慢にも程がある。つまり、この意味においては中国人のほうが遥かに正直であり、日本人は不正直なのだ。これが日本人の美徳なのだろうか?

難しい問題ではあるが、上述のことを踏まえればストライキを起こす中国人ばかりを悪く言うのは疑問であろう。この意味でくだんの記事はやや偏向的である。

最後に女子部第八十三区長の記事について、この人は幸せだなあと思った。孝行娘と孝行息子に恵まれて、文句のつけどころがない。もっとも息子のほうは不安定な職業ゆえに将来の保障はどこにもないので、この点は微妙なところである。おそらくはこの先もさまざまの艱難辛苦が待ち受けていることだろう。

もっともそれが人生なのであるが・・・

2014/5/25

低迷の日々  
ユタ氏よりコメントを頂戴した。

誤字脱字の件はお互いに気をつけたいところで、あるいは文章表現そのものにおいても、何か不審な点があれば、お互いに指摘し合うのが理想だと思う。意味の通じない文章を書いても仕方がないし、自分の意見が誤解されて伝わるのも困ることなので、その意味からしても文章には細心の注意を払うべきなのだ。ましてや拙ブログの場合は他者を批判することが多いので、それでいて誤字脱字のオンパレードだったり意味不明の文章だったりするのは、恥ずかしいことだ。ユタ氏には今後ともご指導ご鞭撻をお願いする次第である。

 あと私は、カジノ解禁には条件付きで賛成です。
 その条件と言うのは、代わりにパチンコを禁止するこ
とです。


これは難しいところだ。

パチンコの利点は日本全国津々浦々に存在することである。ようはインフラが整っている。一方、仮にカジノが解禁になったとしても、そのインフラ整備には時間が掛かる。しかもカジノはパチンコ店のように全国津々浦々にできることはないだろうから、パチンコユーザーがそのままカジノに移行することにはならないだろう。今まで散歩がてらパチンコを打ちに行っていた老人が、まさか電車をいくつも乗り継いでカジノに出掛けるとはとうてい思えない。つまり、パチンコ禁止はその老人の楽しみを奪うことになるのだ。

もう一つ、収益の問題についてはユタ氏のご指摘の通りなのだろうけれども、たとえ外資系の企業であっても日本で営業すれば相応の税金を収めなければいけないわけで、まあ、たぶん、ユタ氏はあえて伏せているのだろうけれども、パチンコ業界は朝鮮系が多いと言われているのでそちらにお金が流れていくのを心配しているだろうけれども、すでに述べたごとく税金をちゃんと徴収すればそれでいいのである。

ともかく既得権益ではないが、よほどの理由がない限り、パチンコにしてもその他のものにしても、排除することは難しいだろう。

さて、今日は顕正新聞第1308号の続きである。

本門戒壇の事と理も知らぬ末寺住職
「勉強してくるから許してくれ」と逃げる


これは北陸・石川で戦う男子部第四十六隊幹事の活動報告の見出しである。

ヤレヤレ、だ。

細かい点は省略するが、すでにこの記事についてはセロリ氏が取り上げていて、宗門側の言い分を書いている。それによれば、顕正会側は自分たちに都合のよい部分ばかりを面白おかしく発表していて、必ずしも事実を正確には伝えていないとのことである。

わたくしなりの評価を書いておくと、顕正会側が自分たちに都合のよいように発表するのは当然であって、この手の話は今までにもたくさんあるので、驚くに値しない。そこで思うのは、相変わらず宗門僧侶は不勉強だなあ、ということだ。たぶん、このように書くと、顕正会側に肩入れしているように感じる人がいるかと思うが、必ずしもそうではない。話は逆なのだ。

ようするに宗門から見れば未だに顕正会は脅威ではないということなのだ。

いわゆる在家でも樋田氏であるとか妙観講系の人たちはけっこう勉強していて、顕正会では彼らとの接触を回避する傾向にある。もしかしたら内部で密かにそのような指示が出ているのかもしれない。しかし、宗門で顕正会に対して熱心にアプローチしているのは、全体としては少数なのだろう。多くは対創価学会の意識が強くて、実際、そちらの方面の勉強には熱心なのだと考えられる。

つまり、宗門側で対顕正会に熱心なのはごく一部の人間だけであり、多くの人は熱心ではない。ぶっちゃけ言えば、顕正会など眼中にないのだ。

たぶん御僧侶であってもそういう人が多いのだろう。ゆえに、ごくマレに顕正会員と接触することがあっても、準備ができていないのでトンチンカンなことを言ってしまう、というのが今回の記事の真相なのだと思う。

いずれにしても戒壇論に関しては宗門側にも瑕疵が少なくないので、そこを何とかしないことにはいつまで経っても同じことの繰り返しという面は否めないだろう。

未活動から復帰して

かつて四国で造反劇が起こった。当時、そのイザコザに巻き込まれて信心を見失ってしまった人がたくさんいたらしく、今回の登壇者もその時にいわゆる未活動になってしまったそうである。そして本年に入って活動に復帰した。

この話は少し前にも取り上げたわけだが、今回の記事で注目したのは次のくだりである。

平成一六年の諫暁書と顕正新聞の配布を決意し、今日まで陰ながら、諫暁書約四千三百冊、顕正新聞約六千二百部を配布し続けてまいりました。

陰ながら・・・と書いてあるように、これは復帰前の話なのである。つまり、今回電撃的に復帰したのではなく、平成十七年ごろより地道に配布活動をしていて、今回はいわば満を持して復帰宣言をしたわけである。

なんだこりゃ、というのが正直な感想である。

おそらく今の顕正会には、未活動にはカテゴライズされないけれども活動に思いっきり消極的という会員が相当数いるのだと思う。いちおう顕正新聞は取っている。集会にも行く。けれども折伏はやらない。あるいは折伏をやっているようなそぶりは見せるが、もう何年にもわたって成果を出したことがない。

こういう人から見れば、上掲の登壇者はすでに立派な活動家である。実にマレなケースではあるけれども、立派な活動会員だと思う。ようするに、なんだこりゃというのはこんな人が本当にいるものなのだろうかという素直な疑問であり、かつまた、この記事のネライは何だろうかという穿った疑問を言いたかったわけである。

まさに穿った見方をすれば、折伏で結果を出せない人はせめて新聞の大量配布で償うべきだ、と言っているように思えるわけで、これが本部首脳の本音でもあり熱心な活動会員の代弁でもあるのだろう、というのがわたくしの見方だ。

さて、次は中国出身の婦人部班長の記事で、メインは郷里の上海に住む母の臨終について述べたものであるが、わたくしが注目したのはそれとは別の部分である。

「中国は黙ってないぞ!そんなに中国と戦争をしたいのならいつでも受けて立つ!安倍首相の角を平らに磨いてやる!」

登壇者は中国のテレビや新聞が言っていることを紹介しているわけだが、実に過激である。

それにしても、角を平らに磨く、がわからなかった。中国にはそんな慣用句があるのだろうか? そもそも人間に角はないし、仮にあったとしても角は磨くのではなく折るものだろう、と思うのだが・・・

八幡宮神社の家に嫁ぎ行き詰まる
「家内安全」の札を売るも家庭は地獄

入信して大功徳、ついに神社撤去も叶う


女子部の班長であるが、娘さんの折伏で入信したとあるので、それ相応の年配者である。それはさておき、上掲の見出しだけでおおよその話はわかるはずだ。いわゆる謗法物の処分について、結論としては神社そのものを撤去したということである。たぶん小さな社なのだろう。小さな祠と表現してもいいかもしれない。ゆえに大した問題ではない。

しかし、これがもし有名な神社だったらどうか、である。まさか個人の判断で撤去はできないだろう。そんなことをしたら大問題になる。

そもそもである。

わたくしには神社撤去の是非がわからない。大聖人の御法門の上から、それを正当化することができるのかどうか、わたくしにはわからないのだ。この点、ご存知の人がいれば、ぜひともご教示願いたいと思う。

義母の葬儀を義弟(喪主)が身延寺院に依頼
「顕正会はうるさいから」と住職が拒絶

邪宗も恐れる顕正会の存在に感激


男子部班長の登壇である。昭和六十三年入信で蕎麦屋を長年経営しているというので、班長は相当だかもしれない。

それはともかく上掲である。

わたくしにはわからなかった。葬儀を依頼されて、それを先方が断わってきたという。寺院にとっては死活問題である。ゆえに葬儀を断わるとは思えないのだ。

すると当該寺院の住職は、何か顕正会にまつわることでトラウマになるような出来事でもあったのだろうか?

よほどのことがない限り、喪主の親族に顕正会員がいるからといって、それだけで葬儀の依頼を断わるとは思えない。ゆえに何かあったのだろう、それは何だろうかと、余計な詮索をしたくなる記事だった。

2014/5/23

混迷の日々  
前回の拙稿ではとんでもない間違いを仕出かしてしまった。単なる誤字と言えばそれまでだが、のび太氏に指摘されるまでまったく気がつかなかったのだから、どうしようもない。いずれにしても間違いを指摘してくれる人がいるのはありがたいことであり、それがわたくしにとっての唯一の救いである。こうして何年にもわたって駄文を綴り続けていて、それがもはや文字通りの駄文であって誰からも相手にされないような状況になれば、それが悪循環となってますます誤字脱字のオンパレードになることだろう。そこまで行けばもはや救いようがない。そうならないためにも、気を引き締めて更新してまいりたい。

顕正新聞を
 三万通送付


二月からの三ヶ月法戦で二万三千有余の入信者を数えたことは前回の拙稿で述べた。これに関していつも指摘があるのは、浅井先生は何名やったの? ということだ。ようするに、先生は会員にハッパを掛けるだけで、あとは何もしないじゃないか、という批判である。

まさかそれを気にしてのことではないだろうが、今法戦の最中、先生は顕正新聞を約三万通送付したという。送付先は国会議員・地方議員・地方自治体首長・言論機関ということだ。全国隈なく送ればおよそ三万通になるらしい。

送った新聞は、三月五日号・三月二十五日号・四月五日号だそうである。

わたくしの疑問は、なぜ三月十五日号を抜いたのか? である。おそらくはツマラナイからだろう。そう、ツマラナイのだ。

つい先日も指摘したが、今や顕正新聞は月三回の発行が苦しい状況になっている。行事が少ないので記事が書けない。ゆえにネタがない時は各地の集会での登壇を記事にしている。これは手抜きもいいところである。何しろ発表者の原稿をそのまま掲載しているだけなのだ。これならわたくしにもできる。

三月十五日号がまさにそれなのだ。ゆえに送らなかった。これは間接的ながらも浅井先生自らが顕正新聞のツマラナサを証明しているようなものである。

ようは波があって、今は五日号が圧倒的に面白い。総幹部会の模様が報道される号だからである。そして十五日号が詰まらない。班長会や地方集会の記事をかき集めただけの、いわばヤッツケ仕事のような号だからである。

そういうわけで、今回話題にしている四月度総幹部会特集号は面白い。

「凍土遮水壁」に懸念の声相次ぐ
 汚染水対策 いよいよ八方塞がり


カジノ解禁は犯罪激増につながる
 すでに日本はギャンブル依存症大国


単なる登壇記事だけでなく、こうした時事問題が取り上げられていれば、なおさらだ。

まず、上段の記事だが、これは本当に深刻である。水は高いところから低いところへ流れて行く。川もそうだが地下水も同じ理屈だ。当然、福島第一原発の敷地内にも地下水が流れていて、山側から海へと流れて行く。途中にメルトダウンした核燃料があって、それに接触する。ようはそれが汚染水だ。今はこれをタンクに貯蔵しているわけだが、自ずと限界がある。増設につぐ増設で、気がつけば原発の敷地内にはタンクが所狭しと林立している。こんなことを何十年も続けるわけには行かない。そこで考えられたのが凍土壁である。

大袈裟に言えば、原発内の地下水をぜんぶ凍結させてしまえばいいのだ。そうすれば汚染水は発生しない。

これはもちろん極端な説明だ。実際の計画では原子炉建屋の周囲を凍結させて氷の壁をこさえるのだ。これで地下水の流入を防ぐ。逆に言えば汚染水の流出を防ぐわけである。

しかし、このアイデアそのものに各方面から懸念の声が上がっているわけで、それが今回の記事の眼目である。

難しい説明は省いて、簡単なところだけ述べよう。凍結を維持するためにはベラボウな電気が必要である。各家庭でも夏場に冷房を使えば相当の電気代が掛かる。冷房温度はせいぜい二十数度である。しかし、凍結は零度以下を持続しなければいけないのだ。もはやこれだけの説明でも、いったいどれだけの電気代が掛かるのかという心配が起きるはずだ。しかも万一にも停電事故が発生すれば一巻の終わりである。せっかくの努力が水の泡となる。そこで一気に汚染水の流出が始まり、停電が回復するまでの間、海に汚染水をジャージャーと垂れ流すことになるのだ。

いや、もちろん、その時にはポンプで汲み上げて今と同じようにタンクに溜め込む措置が取られるのだろうけれども、そのポンプも通常は電気で動くものである。また、異常発生を知らせるのも電気的なシステムによるのが普通なので、はたして停電事故の時に機能するかどうかもアヤシイのだ。

実に面倒臭い話である。だから原発はやらないほうがいいのだ。

さて、もう一つの話題であるが、これは四月度総幹部会の会長講演と連動するものである。今国会ではカジノ法案が審議されていて、どうやら法案が可決成立するのは確実とのことである。不勉強のわたくしは知らなかった。

 カジノというのは賭博場でしょ。国家公認の巨大な博打場を、日本の各地に作ろうとしているのです。
(中略)
 もしこんなものができたら、それでなくともギャンブル依存症が多い日本は、いよいよ世界一の依存症大国になり、犯罪・破産・病気・自殺が激増する。
(中略)
・・・経済成長のためなら、国民からカネを巻き上げ、人心を狂わし、家庭を壊わす賭博場まで作るとは、頭が狂っているとしか言いようがない。

この会長講演を受けて、当該コラムではギャンブル依存症のデータを示している。厚生労働省の調べでは、日本人男性の9.6パーセント、同女性の1.6パーセントが依存症だという。諸外国の場合は男女別のデータが示されていないが、オーストラリアが2.1で、スペインが1.7、フィンランドが1.5、これらがワースト3である。逆に、ノルウェーが0.3、スイス・イギリスが0.8で、依存症の少ないほうのベスト3である。

このデータが正しいとすると、日本はダントツの依存症大国である。なるほど浅井先生の言うように、カジノが解禁になれば、いよいよ日本は世界一の依存症大国になって、ますます破滅の道に向かうことになるだろう。

ただし、わたくしにはよくわからない点がある。

 賭博は刑法第一八五条・第一八六条で固く禁じられている行為なのだ。

コラムの本文中にあるわけだが、では、現時点で競輪競馬のようなものはどうして認められているのだろうか?

また、同コラムにはパチンコ店内の写真が載せてあって、次のような説明が付されている。

ギャンブル依存症は女性にも蔓延している

実際、そこには六人ほどが並んでパチンコを打っている様子が映し出されているが、たまたまなのか、あるいは女性専用のコーナーなのか、後姿を見る限りでは全員が女性である。

さて、わたくしの疑問であるが、日本では賭博が禁止されている。しかし、なぜか厚生労働省の調査ではギャンブル依存症の人間がたくさん存在することになっている。法律の建前上はそんな人間はほとんど存在しないはずなのである。パチンコにしても本来は遊技場であって賭博場ではない。だとすれば、くだんの女性たちはギャンブル依存症ではなく、単に遊びを楽しんでいるだけのはずなのだ。

ひじょうに面倒臭い議論である。

浅井先生の見解ないし顕正新聞の論調は、カジノ法案反対ということだろう。わたくしもそれにヤブサカではない。では、現在すでに存在してしまっている、競輪競馬・パチンコなどはどうするのか、である。これについての顕正会の見解はどうなのだろうか? そこがぜひとも知りたいところである。

わたくし自身はそれらがなくても困らない。なぜならば、今はまったく無関係の世界だからである。若い頃に付き合いの意味で少しかじった程度であって、一度たりとも深みにはまったことはない。だから無くなっても何の支障もない。

しかし、そうした既存のものを廃絶するのはけっこう難しいことだ。自然に消滅していくのならばまだしも、意識的に消滅させるとなると、けっこう難しい。極論すれば核廃絶と同じであり、はたまた謗法を退治することにも通ずるだろう。

念仏を禁止したところで、やりたい人はやるのだ。仮に処罰の対象となってもやるだろうし、罰せられるのはイヤだという人は隠れてやるだろう。ギャンブルも同じことだ。

そもそもギャンブルが根本的に悪なのかどうかも難しいわけで、その議論をすればなおさら話が面倒になる。

甚だ中途半端であるが、この件はこんなところで終わりにしたい。

2014/5/19

良識の人々  
前回分のコメントはいずれも好感の持てるものだった。

私は常に「我以外皆我師」との思いで接している・・・

御書に近似の言葉を求めるならば、当如敬仏が相当するだろうか? 雪山童子の故事もわりと近いかもしれない。あるいはもっと適切な御文があるかもしれないが、不勉強のわたくしには俄かには思い浮かばない。

 支部拠点で仏壇の前に、日顕宗撲滅と書いたものがありました。
 それで支部長に進言致しました。

 支部長、これもう止めませんか?


直言できるところが素晴らしい。世間では思っていても言わない、あるいは言いたくても言えない、というケースが少なくないからだ。

公明党には、連立を解消してでも後世の人々から公明党の決断は正しかったと言わせる舵取りを期待する。

これは直言ではないのだろうけれども、たとえネットを介してであろうと自分の意見をはっきりと述べることは大事である。

ちなみに、わたくしは集団的自衛権について、特に意見を持っているわけではない。賛成でも反対でもない。ズルイようだが、それが本当である。わたくしの最大の興味は公明党がどのような振る舞いをするか、なのである。義を見てせざるは勇なきなり、という言葉があるが、まずは何が大義かが問われるのだけれども、わたくしはそうした議論を抜きにして、直感的に感じ取るべき事柄が存在すると思うのだ。平たく言えば、ああ、この人は自己保身に走っているな、理屈ではもっともらしいことを言っているけれども、その本質は自己保身そのものだ、ということである。ゆえに、集団的自衛権に賛成すべきなのか反対すべきなのか、本当の正解がどちらであるかはわからないのだけれども、結局はそこでどのように振る舞ったか、正解はわからないけれども振る舞いそのものは誰もが目撃することが可能であって、そこに美しさだとか潔さだとか、そうしたものが感じられるか否かに注目しているわけである。偉そうなことを言うようだが、これは一人ひとりの生き様にも通ずることだろう。

さて、今日は顕正新聞第1308号から話題を拾おう。四月度総幹部会特集号である。

国難元年の初陣 空前の大法弘通

二・三・四月度の折伏成果は過去最高を記録したそうである。二万三千百七十四名とのことだ。確かに凄い数字である。

しかし、人事を見ると穏やかではない。

女子部 10人の区長抜擢さる

いつも言っているが、顕正会は人事異動が激しい。たぶん上掲の十区中九区は既設の組織であるからして、前任者が退転ないし降格となったのだと考えられる。今回、新設の区は一つだけなのだ。

それから男子部の人事も注目である。今度の人事では一人で第十三部長と第十七部長と第三十五隊長を兼任するというツワモノがあらわれた。この人の職業は何だろうか? わたくしだったら、とてもじゃないが無理だ。仕事と顕正会との両立は不可能である。もはや顕正会専業で行くしかないだろう。

本部職員は会館の管理・運営が主な職務である。女子部の区長クラスには地方会館の管理・運営を担っている人がたくさんいる。では、現時点で組織の牽引を専門とする本部職員が何人いるのだろうか?

わたくしの思うに、もはや上述の男子部幹部などは顕正会から給料をもらってもいいのではないか、実力が買われていくつもの組織を兼任しているわけなのだろう、だったら顕正会専業となって組織をどんどん伸ばしていくことができれば誰も文句は言うまい。

しかし、公平性を考えれば、部長クラスをすべて本部職員にしないといけないことになる。たぶん無理なのだろう。ゆえに顕正会の活動は基本的にボランティアなのだ。会館の管理・運営をする人だとか、顕正新聞の編集に携わる人だとか、あるいは儀礼室だとか、おそらく給料をもらっているのはそういう人たちだけなのだと思う。

それはそうだとしても、くだんの男子部幹部はベラボウに負担が大きく、普通の感覚ならば、やってらんねえよ、ということになるだろう。

ちなみに、元女子部幹部の証言によれば、全国を飛び回っている大幹部には交通費が支給されるごとくである。それにしても割に合わないだろう。

さて、会長講演であるが、当然ながら先の日米首脳会談について言及している。いわく、オバマの発言はリップサービスである、と。これはなるほどそのとおりだろう。オバマ大統領は日本の次に韓国を訪れているが、今度はそこで韓国向けのリップサービスが行なわれたごとくである。ようは行く先々で相手の喜びそうなことを言っているのだ。

だが、しかし、「日本の施政下にある領土は、尖閣諸島も含めて日米安保条約第五条の適用対象になる」とのオバマ発言は、たとえリップサービスであっても重要な意味を持つ。

それはともかく、わたくしはTTP問題における浅井先生の発言に注目した。先生は遺伝子組み換え食品の危険性について言及し、TTPが実現すると遺伝子組み換えの表示義務がなくなるとして、次のごとく言っている。

 かくて日本人は知らないうちに、遺伝子組み換え食品をどんどん食べてしまうということになる。これを私はいちばん恐れている。だからTTPは大反対なんです。

顕正新聞では食べ物のコラムを設けて、長年にわたって食と健康について書いてきた。また芙蓉茶寮にも力を入れてきた。その意味で上掲の会長発言はひじょうに整合性が高いと言えるだろう。

年金資金を
 株式市場へ

「カジノ法案」成立へ


この辺は専門的にはかなり難解な議論にならざるを得ないところだが、たぶん顕正会員だけでなく一般の読者にとっても興味・関心をそそる事案だと思う。先生の説明は相当に説得力がある。

宮古島が危ない

しかし、これがわからない。

浅井先生は北村淳氏の主張を受け売りして上掲のごとく言うわけだが、いったいどれだけの蓋然性があるのか俄かには判断できない。

そして注目すべきは次の浅井発言である。当該講演のクライマックスだ。

 だが、日本がアメリカの救援を頼みとして、なお空元気の強気で対応するならば、そのとき、ミサイルの一斉攻撃が始まる。五四基の原発はもとより、火力発電所、変電所、石油天然ガス貯蔵施設、空港、港湾、首相官邸などが一時に破壊されよう。
 これがどれほどの悲惨をもたらすか。このとき全日本人はいかに怯え、震えあがるか。
 そうなってからでは、もう遅い――。


わたくしには荒唐無稽に思えてならない。


五月二十三日追記:本文中にTTPとあるのはTPPが正解である。実にくだらないミスをしたものだ。

2014/5/17

厄介な人々  
表題は読んで字のごとくである。ここにユタ氏と沖浦氏は含まれない。両者はわりと付き合いが長いためか、何となく気心が知れている。ゆえにそれ以外の人々を指して厄介と書いたわけである。

2014/5/16 19:59
投稿者:尋ね人

櫻川氏の除名の理由は、顕正会側の主張は上掲のごとくであるが、櫻川氏本人は違うことを言っている。つまり、除名に関してはすでに本人の弁明があるのだ。
この点を度外視して頭ごなしに上掲のごとく言うのはどうかと思う。
そして次の「日蓮本仏論否定論者」「非信仰者」については、何を根拠にそのように言うのかが問題である。



ならば、このブログの運営者は、櫻川氏の言っていることや弁明を聞いている事実を認めたわけだ。

であれば、櫻川氏が二冊の著書の内容に反して、「日蓮本仏論否定論者」「非信仰者」の主張をするようになった現状(調べはついている)も、ブログの運営者は把握しているはずだ。


わたくしは氏の著作を二冊読んでいるが、その限りにおいては否定論ないし非信仰は読み取れない。
氏は著述家である。ゆえに、もし上掲のようなことどもをおっしゃりたいのであれば、氏の著述からその具体的な文言を引用すべきである。いわゆる文証の提示である。



櫻川氏の著書の文言(日蓮本仏論肯定論者・信仰者)と、櫻川氏の日ごろの行い(日蓮本仏論否定論者・非信仰者)が、「現行不一致」になったことが最大の問題だ。

櫻川氏本人に聞いてみたら、よくわかるぞ。
それが「証明」だ。


これが今回最大の厄介ごとである。

上掲はひじょうに小気味のよい文章であり、わたくし的には好感の持てるものだ。しかし、内容的にはひじょうに厳しい。

たぶん第三者が読めばずいぶん強引な文章に思えるはずで、何一つ証拠を提示していないわりには断定口調なので、そこが悪印象を与えるのではないかと考えられるが、途中に(調べはついている)と書かれている点がうまい。ようするに切り札を残してあるのだろう。はたして本当に切り札があるのかどうかはわからないが、ともかく相手を牽制する意味ではお見事と言う以外にない。こちらとしてもウカツなことは書けないのだ。

いずれにしても本人の弁明が待たれるところであり、逆に言うと本人が沈黙を続けていること自体が何かを物語っているとも受け取れるわけである。

しかもである。

たまたまの偶然なのか、あるいは何かしら関係があるのか、学会未活動者氏も沈黙してしまっている。何しろ氏はわりと頻繁にコメントを寄せていたのだから、ここで急に沈黙されるとわたくしとしてもひじょうに不安になるのだ。
櫻川氏の場合は半年ないし一年くらいだろうか、ようするに拙ブログにコメントを書くのはひじょうに低頻度なので、あるいは閲覧の頻度も低いものと考えれば、たまたま今回の動きをまだ承知していないだけの可能性もある。ならば沈黙しているわけではなく、単に知らないからレスポンスの仕様がないということになるだろう。
ひるがえって学会未活動者氏の場合はどうなのだろうか、たまたま急に多忙になって拙ブログを閲覧する余裕すらないということなのだろうか、それとも他にのっぴきならない事情が出来したのだろうか?

そういうわけで、この件は保留としたい。繰り返しになるが、わたくしが何を言っても始まらない、当然ながらキーマンは本人たちである。

さて、戒壇論関係の話題も厄介だ。

もっとも田中智学を引き合いに出すのはどうかと思うところで、これからの宗門は今の時代に即したもっと斬新な顕正会破折を考えなければいけないだろう。

これはわたくしの発言であるが、これに対して、んっ?氏より質問が発せられた。

此れは如何いう意味でしょうか?
それよりも其のやり取りの続きを知りたいのですが・・・。

「国立戒壇」この言葉が最初に使われたのは、明治三十五年
国粋主義者・田中智学が著わした「本化妙宗式目」においてです。
宗門で「国立戒壇」という言葉を用いたのは,
大正元年十月に信徒の荒木清勇氏が最初とのことです。


まず、やり取りの続きについてはそれほど面白くないので省略させていただくが、明治三十五年ないし大正元年ということについて申し上げれば、その調査が正しいのであればそれはそのとおりなのだろう。特に反論はない。しかし、今回の件に限って言えば、中学生の息子の発言は大いに問題である。再掲しよう。

国立戒壇を言い始めたのは田中智学だ。それを真似して顕正会も言い出したんだ。

これは明らかに間違っている。田中智学の真似をして言い出したのは、むしろ宗門ないし創価学会である。前掲の荒木清勇氏というのは日蓮正宗の信徒なのだろう。ならば彼が最初に真似を始めたことになる。そして後の妙信講が国立戒壇を言ったのも、そうした先輩たちに倣ってのことである。ゆえに正確を期すれば、顕正会は田中の真似をしたのではなく、先輩たちの真似をしたことになるのだ。

中学生のブンザイなどと書くと失礼かも知れないが、結局は大人の法華講員たちの入れ知恵でそのように言ったのだろう。ようは何もわかっていないのだ。

さて、次へ行こう。

今度は高速太郎氏であるが、こちらは煩瑣になるので引用を控えよう。いきなり結論を書くと、説得力ゼロ、である。

紫宸殿の御本尊と王仏冥合は無関係と書いた。さすがに言い過ぎかと思って、まったくの無関係とは言わないが直接的には関係がない、と書いた。すると氏は、わたくしの発言や沖浦氏の発言を書き並べて、大いに関係があるとの結論を導き出した。しかし、説得力はない。

紫宸殿の御本尊についての言い伝えはわたくしも先刻承知であって、それを浅井昭衛著から引用した。もしこれを前提に考えれば、まさに王仏冥合との関係はひじょうに濃厚と言えるだろう。ところが近年、日顕上人がこの御本尊の意義について新見解を発表した。紫宸殿は師資伝授の転訛であると、たぶんそのような意味の御指南だと思われる。穿った見方をすれば、これは顕正会対策というか、早い話が顕正会の主張を弱体化させる巧妙な手段だったとも思えるところだが、事実は違うのだろう。答えは簡単である。

三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり。

戒壇の大御本尊は一閻浮提総与の御本尊とも呼ばれている。天皇は一閻浮提の人か否か、普通の人ではないにしても、そこに含まれると考えるのが自然だろう。あるいは天界の一分と考えるにしても、梵天帝釈等も来下して踏み給う戒壇なのだから、天皇もまた例外ではないだろう。つまり、三大秘法抄を拝する限りにおいては、別して天皇授与の御本尊が必要であるとは考えられないのだ。天皇も我々と同じく戒壇の大御本尊を拝するのである。

日顕上人がどのような意図から紫宸殿を師資伝授とされたかについて、わたくしはその詳細をまったく存じ上げないが、おそらくは上述のようなことも考慮されたのだろうと思う。

よって、紫宸殿の御本尊についての伝承は、王仏冥合の一つの傍証として有力ではあるものの、三大秘法抄を拝する限りにおいてはその必要性を見出せないというのがわたしの結論である。

2014/5/15

ありがたい人々  
ユタ氏にしても、沖浦氏にしても、わたくしにとってはありがたい人々である。拙ブログは上から目線で綴られている。コメント投稿者に対しても、相当に上から目線である。それにもかかわらずコメントを下さるのだから、これほどありがたいこともない。

別に法華講関係者を喜ばせる為に入信したわけではありませんので、そんなの知るかって感じ・・・

そこまで堂々と言い切れるところが凄い。

一方の沖浦氏もまた凄いことを言っている。

顕正会、日蓮正宗、正信会で私と法論して勝てる人はいません・・・

しかし、これは逆のことも言えるだろう。沖浦氏と法論して勝てる人はいないが、負ける人もいない。

スポーツの世界であれば、必ず勝敗がある。たとえば陸上競技であれば、数字によって決着がつく。どちらが速く走れるか、あるいは高く跳べるか、遠くへ跳べるか、これらはすべて数字によって白黒がはっきりするのだ。アイマイなところはない。沖浦氏のやっている重量物を持ち上げるような競技もまったく同じであって、単純明快である。
もっともフィギアスケートなどはいわゆる芸術点が加味されるので必ずしも簡単ではないし、格闘技なども判定勝ち・判定負けのような場合は釈然としないことも少なくない。
そしてこれが文化・芸術といった分野になると、なおさらのことなのだ。音楽的にはどうかと思うような曲であっても、人気アイドルが歌えば大ヒットする。文学賞などは選考委員の好みで決まってしまうわけで、客観的な尺度はほとんど存在しない。

では宗教はどうかと言えば、上述の例題の中ではわりと後半のほうに属するのではないかと思われる。少なくとも現今の一般的な認識では、宗教に正邪だとか勝劣があるとは考えられていないので、とりわけ興味関心のない人々にとっては沖浦氏が誰と法論しようがしまいがどうでもいいことであり、もはやそうなると勝ったも負けたもないに等しいだろう。

わたくし自身、末端の信者同士の法論にはさして興味がない。もし大将戦が実現するのであれば、これは大いに注目したいところだが、実現性はきわめて低い。残念ながらそれが現実である。

さて、今日は顕正新聞第1307号から話題を拾いたい。

今まで躊躇していた教え子への折伏の肚を決め・・・

婦人部池袋支区班長の活動報告の一節であるが、具体的な内容がわからない。この人が何なのか、学校の先生なのか、稽古事の師範なのか、そういうことがまったく書かれていないのだ。仮に先生の場合、教え子とは現役の学生なのか、あるいは卒業生なのか、まったくわからない。以前にも書いたが、高校の教師が生徒を折伏するのはよろしくない、少なくとも卒業を待つべき、というのがわたくしの考えである。

次は婦人部大曲支区総班長の記事からである。

甲府に同志を頂きたい、浅井先生にお応えさせて頂きたい

お応えさせて頂きたい・・・

この言い回しが気になった。文法的にどうかはわからないが、わたくしの言語感覚からするとどうかと思うのだ。

次は婦人部青森支区の総班長である。

八四歳 七四歳 九二歳 八九歳 八三歳 九二歳 八六歳 

記事の最初のほうに、当該総班はほとんどが六〇代以上だと書かれているので、記事中から具体的に拾ってみた。すると、ご覧のような結果となった。う〜ん、凄まじい高齢者群である。

そして次の言葉がグッと来る。

 できることならば、広宣流布の暁には、ここに戦う全員で手を携えて、天生原までの四キロの道のりを、浅井先生の御供させて頂きたいと願うばかりであります。

当該の総班長は顔写真を見る限り六十代と思われる。そして総班員たちは七十四歳から九十二歳という高齢者ばかりである。不謹慎ながら彼女たちは広宣流布を待つことなく先立つ運命にある。そして総班長は一人ひとり見送らなければいけないのだ。

婦人部多摩支区組長の記事で注目したのは次のくだりである。

 このたび先生は、三月二五日号の顕正新聞を沖縄にだけ特集号として下さいました・・・

この意味するところは、沖縄だけ特別料金で頒布するということだろう。ややケチ臭い話である。いや、もしかしたら無料なのかもしれない。だとすれば前言は撤回である。なかなかの太っ腹だ。

さて、次の婦人部福島支区班長の記事も注目だ。

先生が死守された御遺命の重さ
 無道心の法華講員を折伏し実感


ご覧の見出しのごとく、法華講員を折伏した時のことが詳細に書かれた記事であるが、次の辺りが面白い。

 そこには知り合った女性と中学生の息子、女性の母親が待ち構えておりました。ところが中学生の息子を座らせ「あんたで十分。話聞いてやって、後で来るから」と女性は席を外してしまったのです。

ナメられたものである。

 何とも軽んじる態度に憤りが込み上げましたが、息子に国立戒壇について話すと、息子は「国立戒壇を言い始めたのは田中智学だ。それを真似して顕正会も言い出したんだ。血脈がある法主に物言うな」と言ってきました。

わたくしは思った。中学生の息子もなかなかやるじゃないかと。こういう未来の法華講員が全国にたくさんいるのならば、日蓮正宗も安泰である。

もっとも田中智学を引き合いに出すのはどうかと思うところで、これからの宗門は今の時代に即したもっと斬新な顕正会破折を考えなければいけないだろう。

今日のところはこれくらいで終わりにしたい。

2014/5/12

面倒臭い人々  
次から次へと面倒臭いコメントが寄せられるものだ。逆に、こう言っては失礼だが、ユタ氏のコメントは安心感がある。これは日常の人間関係にも通ずることかもしれない。○○はすぐにキレるから気をつけないといけない。その点、△△は温厚な性格でキレることはないから安心だ。

この際だから不躾な質問をしてみよう。

ユタ氏は上記を読んでどのように感じるのだろうか? 不快に思うのか、それとも逆か、あるいは別の感想があるのか、である。

というのは、わたくしの知人でまったく怒らない人がいる。怒らないのはけっこうであるが、何事もケースバイケースであるからして、いくらなんでもここでは怒るだろうという場面がある。しかし、怒らないのである。その結果、周囲はますます助長して、ナメた態度を取るようになる。人間とは浅ましいもので、相手を見て態度を変えるものなのだ。ここでの態度は言動を含めての意味である。ようは相手が反発しないことがわかっているので、安心して言いたいことが言える。無礼なことが言えてしまうのだ。

不躾な質問ではあるが、ようするに温厚な人は本心から腹を立てないのか、それとも内心ではハラワタが煮えくり返っているのだがそれを表面に出さないだけなのか、である。

すぐキレる人に対し、そのことを指摘すると、キレる。これはたぶんそのとおりだろう。

では、温厚な人に対し、温厚であることを指摘すると、どうだろうか?

もしもである。その人が内心ではハラワタが煮えくり返っている状態だとすれば、そのタイミングで温厚と言われるのは甚だ心外だろうと思うのだ。

ユタ氏に質問を投げ掛けたつもりだったが、いつの間にか自問自答のようになってしまった。もっとも、これが独白ブログのゆえんでもあるのだが・・・

さて、話を変えよう。

2014/5/12 1:19
投稿者:尋ね人
>
ようは学会未活動者氏=櫻川氏であると、このように疑っているわけだ。
しかし、これはまさに気のせいであって、両者はまったくの別人格である。


当事者が否定するならまだわかるが、本人と無関係のはずのブログの運営者が推測憶測で「別人格」と弁明するのは、おかしな話だよな。


>
その意味で学会未活動者氏たちの言っていることは、宗教それ自体の全否定につながるものなのだ。


「本門戒壇大御本尊否定論者」である犀角独歩氏に与同した件で顕正会を除名になった櫻川氏が、今では、「日蓮本仏論否定論者」「非信仰者」に堕している。

その主張を、学会未活動者氏と「そっくり」と表現したのだ。


実に面倒臭い。

まず、当事者が何も語らないうちにわたくしが勝手なことを述べるのはおかしな話という点について、弁明しておこう。確かにおっしゃるとおり、両者共に拙ブログへコメントをする機会が与えられているので、最終的には彼らが別人であることを表明すればそれで済む話である。ただし、第三者のわたくしが彼らに先んじてそれを云々することが、それほどおかしいことだろうか?
文は人なり、である。学会未活動者氏はわりと頻繁にコメントを寄せられる。櫻川氏は滅多に登場しないが、わたくしは氏の著作を繰り返し読んでいる。ゆえに両者が別人であることは、その文章の違いが雄弁に物語っていると判断したのだ。
よって、その一例を示し、この件はこれくらいで充分だろう、と締め括ったわけである。ゆえに、もしそれが一例どころか二例三例と挙げて、執拗に両者の違いをあげつらうようであれば、なぜそこまで躍起になるのか、不自然ではないか、と思われても仕方がないかもしれない。しかし、前々回の拙稿を読めば、そうではないことがわかるだろう。

「本門戒壇大御本尊否定論者」である犀角独歩氏に与同した件で顕正会を除名になった櫻川氏が、今では、「日蓮本仏論否定論者」「非信仰者」に堕している。

再掲であるが、なるほど、同一人物かどうかではなく、主張がそっくりだと言いたかったわけだ。

これもまた本人が弁明すれば済むことなので、わたくしがとやかく言う筋合いではないのかもしれないが、きわめて重要な問題を孕んでいるので書いておきたい。

櫻川氏の除名の理由は、顕正会側の主張は上掲のごとくであるが、櫻川氏本人は違うことを言っている。つまり、除名に関してはすでに本人の弁明があるのだ。この点を度外視して頭ごなしに上掲のごとく言うのはどうかと思う。
そして次の「日蓮本仏論否定論者」「非信仰者」については、何を根拠にそのように言うのかが問題である。わたくしは氏の著作を二冊読んでいるが、その限りにおいては否定論ないし非信仰は読み取れない。
氏は著述家である。ゆえに、もし上掲のようなことどもをおっしゃりたいのであれば、氏の著述からその具体的な文言を引用すべきである。いわゆる文証の提示である。

以上、戒壇本尊否定・日蓮本仏否定などが事実であれば、まさに櫻川氏と学会未活動者氏は「そっくり」ということになるが、まずはその前提を証明しなければいけない。

2014/5/11 16:46
投稿者:高速太郎
巖虎さん、こんにちは。

>しかし、日本には天皇がいらっしゃる。天皇はすなわち国王である。
>これをどうするかである。

 私にとっては、日蓮正宗は他家ですが、巖虎さんにとっては、本家のようなので、お聞きしたいの
ですが、「紫宸殿御本尊様」は、今は無いのですよ。
 物理的に無くなったと云うことではなく、「師資相承之御本尊様」または「師資伝授之御本尊様」
が正しいと云うことのようです。

 さて、巖虎さんは、名称が変わっただけととらえますか?


これまた面倒臭い。

拙ブログはかれこれ十年近く続いているが、たぶん上掲の御本尊のことには触れたことがないと思う。浅井昭衛著の南無日蓮大聖人には、紫宸殿の御本尊についての記述がある。短いので全文引用しよう。

 「戒壇の大御本尊」御建立の五ヵ月後、弘安三年三月、大聖人は「紫宸殿の御本尊」を書顕された。この御本尊は、広宣流布の時天皇が受持されるべき御本尊として御用意されたもので、現在冨士大石寺に秘蔵されている。
 この「紫宸殿の御本尊」について総本山第四十八世・日量上人は
 「広布の時至り、鎮護国家の為に禁裏(宮中)の叡覧に入れ奉るべき本尊なり」(大石寺明細誌)と指南されている。


これが近年、師資相承ないし師資伝授の本尊と呼ばれるようになったとのことだが、恥ずかしながら、わたくしはこの間の事情にまったく疎いので何とも言いようがないところである。

ただし、これと王仏冥合とは無関係・・・と言ったらさすがに言い過ぎかもしれないが、直接的には関係がない。

 王仏冥合の王法とは、国王の施す法令や政治を意味しますが、主権在民の現在では、民衆による政治・経済・教育・文化等を含む一切の社会の原理や活動をいい、仏法とは、大聖人の文底下種仏法の教え・精神をいいます。

http://homepage3.nifty.com/y-maki/yougo/6/671a.html

ありゃりゃ、である。

平成十七年の大白法というから、なるほど、当時は顕正会が激烈な宗門批判を展開していた時なので、執筆者も対顕正会の意識が強かったのだろう。それにしても宗門がこんなことを言っているようではダメである。

今日のところは端折ってしまおう。

王法とは、主権在民の現在では、民衆による政治・経済・教育・文化等を含む一切の社会の原理や活動をいう。

なんでそうなるの?

王法とは、国王の施す法令や政治を意味する。

もともとは国王の施す法令や政治を意味したわけなのだろう。それが今日においては法令や政治にとどまらず、一切の社会の原理や活動に拡大解釈されてしまっている。

その理由が不明なのだ。

普通に考えれば、それは王法ではなく、世法という言葉で括られるべきものだろう。世間の法という言葉もある。よって、ここで宗門側に課せられる宿題は、なぜに王法の語に一切の社会の原理や活動が含まれるのか、ということである。

2014/5/11

自分を偉く見せたい人々  
ユタ氏のおっしゃることはごもっともであるが、しかし、法華講の関係者が読んだらガッカリするのではないかと思う。自分の人生であるからして、自分の判断で自由自在に生きていけばいい。それはそうだとしても、こと宗教に限っては少し事情が異なる。とりわけ日蓮正宗の場合は大いに異なるだろう。すなわち自分の好みで念仏がいいとか禅がいいとか、そういう取捨選択を許さないのが大聖人の仏法だからである。

沖浦氏の王仏冥合論はたぶん創価学会員の平均的な意見なのだろう。わたくしの思うに、これはこれで相当に有力である。しかし、日本には天皇がいらっしゃる。天皇はすなわち国王である。これをどうするかである。

 国民の価値観の中心に大聖人仏法が据えられる社会を、王仏冥合の社会と言います。

この直前に主権在民のことが書かれている。わたくしは憲法学に通じているわけではないが、主権の存する国民の中心的価値が天皇なのである。もし国民が天皇を拒否すれば、天皇の存在は否定される。しかし、現実には今も天皇は存在する。つまりは国民の中心的価値が天皇なのである。

ゆえに、沖浦氏の言うように国民の価値観の中心に大聖人の仏法が据えられる時代が到来したとしても、そこで天皇の存在が否定されるということにはならない。他の国では王朝が滅ぶと別の新たな王朝が樹立される。これを繰り返してきたわけだ。しかし、日本は違う。ずっと天皇が君臨してきたのだ。ゆえに、これがなぜに否定されることがあろうか、ということなのだ。

であれば、広宣流布の暁には王法と仏法とが絶妙の関係性を保って並立することになるはずで、これがすなわち王仏冥合なのである。

うまく説明できていないが、まあ、こんなところだろう。

平成元年に高知県で起きた大魔障

さて、顕正新聞第1307号の記事を拾ってみよう。上掲は男子部七十一隊長の記事であるが、ひじょうに興味深い。

 当時、顕正会は二十万、正本堂の誑惑完結たる「本門寺改称」陰謀粉砕の戦いの直中に、四国の大幹部が謀略に躍らされ、「旗揚げ」と称して、あろうことか密かに顕正会を分断ししようと謀り、多くの同志を引き連れて誑かしたという、曽てない魔障が起こりました。

いわゆる寺田事件と呼ばれるものである。今はインターネットで自由に意見を言える時代であるからして、当事者たちの証言が待たれるところである。寺田氏本人は年齢的にすでに鬼籍に入っているかもしれないが、他の関係者からの証言を期待したい。ようするに顕正会側の言い分ではなく、自分たちの言い分があるはずなのだ。

さて、次は第二十一女子部長である。

先生のご発言に呼応するごとき諸天の働きに驚く・・・

もう何回くらい取り上げただろう。同じことを言わせるものではない。

御書を拝すると大聖人が諸天善神に向かって説法する場面が出てくる。種々御振舞御書が有名だが、撰時抄の次の一節も注目である。

日月天に処し給ひながら、日蓮が大難にあうを今度かわらせ給はずば・・・と声をあげて申せしかば、忽ちに出来せる自界反逆難なり。

大幅に中略を入れたが他意はない。ともかく顕正会の幹部たちが言っていることは、ややもすれば浅井先生を御本仏に祀り上げるような意味にも取られかねないのだ。さらに言えば、上掲の御文は浅井先生が何かの折に引用しているので、顕正会員はこれを知っている。すると、「自分は大聖人と同一境界なのだ」ということを会員たちに思い込ませようと、浅井先生自らが画策していることにもなりかねないのだ。

顕正会側の論客ならば、ここで反論があるかもしれない。しかし、諸天に呼応するということは、一般人にとっては相当に特殊な概念であることを知るべきである。大聖人に諸天が呼応するのはまだしも、浅井先生に諸天が呼応してしまうとなると、もはや一般人には理解不能である。浅井先生って、いったい何者なの? ということなのだ。

ネット上で教祖などと揶揄されるのも、なるほど納得である。

2014/5/10

信仰者と非信仰者のせめぎ合い  
沖浦氏は聖教新聞と顕正新聞の比較の上から創価学会と顕正会の勝劣を判じておられる。確かに毎日発行しているのは凄いことだ。発行部数の上でも大差がついている。

まあ、しかし、この点は今に始まったことではないので、この一事をもって勝劣を云々するのはどうかと思う。

それはともかく、次のくだりは初耳である。

 昭和50年代に開始された、渓流から大河の時代と言うキャッチフレーズを先頭に、社会との融合を図りました。

ほほう、そんなキャッチフレーズがあったのか・・・

社会との融合が悩ましい。融合ではなく妥協とも言えるからだ。あるいは迎合とも言い得るわけで、ここはひじょうに難しいところだと思う。

王仏冥合をどのように具体化するか、創価学会だって真面目に考えたはずである。それが王仏冥合ではなく王仏迎合であったならば本末転倒だろう。この点はおそらく公明党と自民党の関係性の中で、具体的事案がたくさん挙げられるのだと思う。たとえば集団的自衛権の問題がわかりやすいかもしれない。もし公明党が体を張ってこれを阻止すれば大したものであるが、唯々諾々と呑んでしまえば評価はガタ落ちである。

この件はこれくらいにして、話題を変えることにする。

顕正会を除名になった櫻川氏の主張とそっくりなのは、気のせい?

ようは学会未活動者氏=櫻川氏であると、このように疑っているわけだ。

しかし、これはまさに気のせいであって、両者はまったくの別人格である。その理由はわりと簡単で、両者の主張には決定的な違いが存するのである。まずは前回の拙稿をご覧いただこう。

終末論という表現は不適切とする意見もあるわけだが、まあ、大雑把に捉えれば終末論的であることは事実だろう。

わたくしがこのように書いた理由は『迷走する顕正会を斬る』の記述を念頭に入れてのことである。櫻川氏は顕正会の主張を終末思想にあらずと断った上で、次のごとく言っている。

 ただし、浅井会長は三災七難を強調するあまり「核戦争で人類が絶滅する」などと飛躍した発言をするので、終末思想と混同されてしかたない面もある。

このような文章を書く人がどうして次のようなコメントをするだろうか?

国難元年とか浅井氏の思想は何か悪くなって欲しい、人々が幸福になっては困る?のまるで「日刊ゲンダイ」?の見出し?のような選民?終末論ですね。

このように学会未活動者氏は顕正会の主張を終末論だと言っている。しかし、櫻川氏は混同されても仕方がないとは断りつつも終末思想とは異なると言っているわけだ。具体的には傾国思想ないし憂国思想と書いている。はたしてこれが同一人物の主張だろうか、ということなのだ。

委細にみれば他にも挙げられると思うが、この件はこれくらいで充分だろう。

大聖人の仏法は厳然と生きているのは信仰の世界であって・・・

これが最も重要な事案である。

信仰の世界が悩ましい。この対義語が何であるかが問題である。たとえば信仰の世界に対して現実の世界があるとすれば、もはやこれは断じて肯んずることのできない話である。

これはわたくしがではなく、おそらくは日蓮正宗系の人たち全般が肯定するあたわずの話だと思う。いわゆる仏法は生活法である。これは顕正会でも言っているが、おそらくは創価学会でも言うし、宗門でも言っているはずである。つまり、信仰の世界と現実の世界を一致していると見るのが正宗系全般の考え方であり、たぶん、他の宗教であっても熱心な人たちは同じような考え方をするのだと思う。

その意味で学会未活動者氏たちの言っていることは、宗教それ自体の全否定につながるものなのだ。

このように書けば、あるいは反論があるかもしれない。否定はしない、あくまで信仰は個人の自由であるから、他人に迷惑を掛けない限りは自由にやればよいと、こう言うのかもしれない。もちろん、布教の自由もあって、おそらくは節度を守った上での布教であればそれも否定はしないのだろう。

しかし、これで納得できる道理がない。

いちばんわかりやすいのが顕正会だ。何しろ国立戒壇を主張しているのである。これは個人の自由だとか布教の自由だとか、そんなナマヤサシイ次元の話ではない。最終的には国家的に戒壇を建立するのだから、丸く収まる話ではないのだ。

もっとも、これはさすがに極端であるから、もう少し話を巻き戻して創価学会や宗門の立場から論じてみよう。

学会未活動者氏は言う、大聖人の仏法が生きているのは信仰の世界である、と。つまりは、信仰の世界では生きているが現実の世界ではすでに死んでいる、ということだ。科学的に見れば間違いだらけであると。

はたして創価学会員や法華講員がこれを認めるだろうか?

つまり、現代には通用しないことを承知した上で、それを踏まえつつも信仰を続けるという、そんな選択肢があり得るだろうか、ということなのだ。

いわゆる墓檀家は別である。職業僧侶というか家業がたまたま寺院だったという人も別である。同様の意味で学会二世と呼ばれる人たちも除外しないといけないだろう。
それ以外の人たちは自分の意志で信仰を貫いている。とりわけ日蓮正宗系は大聖人を御本仏として仰ぐのだから、他の宗教とは一線を画する意味がある。世界最高の宗教をやっているんだという自負を持っているのだ。
それがである。世界最高もヘッタクレもない、間違いだらけであり現代にはまったく通用しない、ということになれば、それではたして信仰を貫けるだろうか、ということなのだ。

わたくしは無理だと思う。

もしここで学会未活動者氏がである。信仰は個人の自由だから、そのまま続ければいいんじゃない? などと言おうものならば、これは思いっきり馬鹿にしているように聞こえてしまうのだ。顕正会員はもちろんのこと、創価学会員も法華講員も同様のはずである。

だからなのだろうか、通りすがりだとか匿名だとか、この手のコメントをする人たちは相手の過剰な反応を恐れてか、己の立場をアイマイにしたままの場合が多い。

極論すれば、ここは食うか食われるかの瀬戸際なのかもしれない。

信仰者には迷いがある。迷いのない人がいたら大したものであるが、たいていは迷いの渦中にある。だからこそ、その迷いを助長させる情報に対して過剰に反応するのだ。

非信仰者にしたって、必ずしも己の人生に確信を持って生きているわけではない。正宗系に対して一矢報いたいという願望はあるものの、そうしたところで自分の人生が変わるわけではない。現実には面倒臭いことに巻き込まれるだけであって、何のメリットもないのだ。

おそらくはそんなところだろう。

2014/5/7

極限状態からの脱却は可能か?  
種々のコメントを頂戴しているが、さしあたってお返事申し上げなければいけない事案は、学会未活動者氏のものであろうか?

まず、ダンボールに詰められた三億円の話は、裏付けがあるとかないとかではなく、顕正新聞に掲載されているという事実を示したまでのことである。もちろん、顕正会にウソがあるかどうかも別の話だ。顕正会にはウソがない。もしこれが事実ならば、くだんの話も本当のことなのだろう。ただそれだけのことだ。

ゆえに学会未活動者氏の指摘するごとく、顕正会にはウソがある、その一例が下山正行著「富士大石寺顕正会」である、という話が事実であれば、なるほど、顕正会の言っていることは信用ならない、今度の話もアヤシイものだ、ということになるだろう。

おそらくは百も承知のことだろうが、まさかわたくしが顕正会にはウソがないと本気で言っているとは誰も思うまい。

実は大聖人の思想も撰時抄など終末論的思想があります。勿論、当時の天変異変、疫病、蒙古来襲などの世相を憂い、当時の最新学問仏教に答えを求めての事・・・

終末論という表現は不適切とする意見もあるわけだが、まあ、大雑把に捉えれば終末論的であることは事実だろう。ゆえに、顕正会の主張は浅井先生独自のものではなく、あくまで大聖人の御主張に基づくものなのだ。しかし、学会未活動者氏のいわく、それは当時の最先端の学問だった仏教に答えを求めてのことであって現代には通用しない、と。

ここがわたくしにとっては未解決の部分であって、当然ながら、そっくりそのまま当てはまるものではないだろう、しかし、原理は同一のはずである、ならば大聖人の御主張が通用しないはずがない、具体的な形はわからないが、どのような形であれ現代においても大聖人の仏法は厳然と生きている、というのがわたくしのいちおうの結論である。

あと、他にもいろいろ書かれているが、古参会員の消息については、それこそ櫻川氏にでもお聞きになったほうがよろしいだろう。

さて、そこで今日は顕正新聞第1307号である。

当該号の全体的な感想を書くと、どうも最近の顕正会は自転車操業の傾向を強めており、それが顕正新聞の発行そのものにまで影響を及ぼしている、と思える。

第一面は立宗御報恩勤行会である。

たぶん、これだけでは何もわからないだろう。しかし、当該号の発日を知れば驚くはずだ。すなわち四月二十五日号なのである。ご存知のごとく、立宗は四月二十八日だ。おかしいだろう。順番が逆である。

当然のことながら、日付は二十五日になっていても実際に出来したのは、それ以降である。二十八日以降であることはもちろんだ。

ゆえに現実的にはツジツマが合っている。

しかし、それはそうだとしても、誰もが思うだろう。二十五日発行の新聞に二十八日の記事が載ることの不自然さをである。結局、行事が少ないので記事が書けない。だから期日どおり発行できないのだ。

第一面の本文中には次のようなくだりがある。

四月度総幹部会において感動的な体験発表をした・・・

これも不自然である。ようするに四月度総幹部会の報道はまだなのだ。たぶん次の号に載るのだろうけれども、やはり順番が逆である。

しかもである。

(先生の講演は五月十五日号に掲載)

つまり、今号はダイジェスト版であり、翌々号において再び立宗御報恩勤行会の折の会長講演が取り上げられるわけである。上掲はその予告なのだ。

これも行事が少ないからなのだろう。ゆえに同じネタを使い回さなければ新聞が成り立たないのだ。

二十五本

そしてこの数字の意味であるが、当該号は二面以降すべてが登壇記事であり、その数が実に二十五本なのである。

これは深刻である。

この際、提案しておこう。いっそのこと月三回の発行をやめて、不定期発行にしたらどうかと。いきなり不定期もひどいので、まずは月二回とするべきかもしれないが、いずれにしても現実的にはもう月三回は無理である。かつては総幹部会と御書講義が月例の二大行事だった。それに班長会だとか、その他の行事を加えれば、まあ、三回も相当だった。しかし、今は御書講義が完全消滅してしまい、その埋め合わせとなるべき行事が存在しないので、完全に穴が開いた状態なのだ。それにもかかわらず三回の発行を強いられているのだから、編集部の人たちにとっては実に気の毒な話である。

登壇記事がダメだとは言わない。それオンリーがダメなのだ。

ゆえに可能ならば、教学特集だとか、食べ物のコラムだとか、あるいは時事問題についてだとか、さらには四コマ漫画を復活させてもいいだろう、そういう紙面作りを目指すべきである。

たぶん、そんなことは言われなくてもわかっているはずなのだが、しかし、現実はご覧のテイタラクである。いよいよ終わりが近づいてきたのだろうか?

 日本と世界の現状を見るに、「もうギリギリの広布最終段階に突入しているのだ」と、私はいま全身で感じております。

うっかり書き忘れたが、これが三月度総幹部会における会長講演のクライマックスである。イヤミを書くようだが、もはやギリギリなのは浅井先生自身であり、かつまた顕正会なのではあるまいか?

組織の実情は俄かにはわからない。しかし、顕正新聞のテイタラクを見れば、もはや顕正会がギリギリの極限状態に近づきつつあることは疑いようのない事実であろう。


同日追記:誤字を訂正した。


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