2014/6/30

二千回記念ブログ  
気がつけば二千回である。最初の三年間は毎日更新していたものの、それ以降は不定期更新ということで、気ままにやらせていただいていた。ゆえに二千回を迎えても、さしたる感慨はない。おそらく今後もダラダラと続けていけば、やがては三千回を達成することにもなるだろうし、あるいは五千回・一万回ということにもなるかもしれない。そこまで行けば大したものであるが、当然、先のことはわからない。

 貴方方が中興の師と仰ぐ有師は化義抄で、

 勉強のために他宗の寺に逗留する場合、その宗派の本尊にその宗派のお経を唱えてもかまわない。

 こう言う意味のことを書き残しています。
 どうも、富士門流の方々は、それぞれが言う事が異なりますね。


あなた方も同じじゃないですか、と言いたいところだ。

歴代上人もそれぞれの時代によって言っていることが違う。これは確かに事実のようである。こうした事案について、どのように整理するかはひじょうに難しいところで、わたくしのような浅学が何を言っても始まらない。よって、この件は教学の大家にお任せしたいと思う。

しかし、これは創価学会にも当てはまる話で、歴代会長の発言を調べればさまざまの矛盾が見出されるはずである。ましてや今現在、コメント蘭において創価学会員同士が言い争っているという現証を見れば、おいおい、他人のことをあげつらっている場合かよ、ということになるだろう。

「阿含経」に高速太郎さんの説明された部分がありますが,
其れを現代の世界観に当てはめても,意味のない事だと思います。


これは確かにそのとおりなのであるが、ある意味では高速太郎氏が一人で勝手に脱線して、あらぬ方向へ向かってしまっているような感じがしないでもないところである。シツコイながらも再掲させていただく。

・・・一閻浮提は、正に四州を言っており、決して人間が住んでいないことでは、ありません。

人間が住んでいる・いないは置くとして、一閻浮提が四州とはどういうことか、これがわたくしの問いだった。

これに対し、高速太郎氏は懇切丁寧に紙数を使って説明下さったわけだが、どうも要領を得ない。ゆえに先ほど脱線と書かせていただいたわけである。

実は撰時抄を詳しく拝すると、一閻浮提=四州と思える御指南が存在するのだ。

前代未聞の大闘諍一閻浮提に起こるべし。其の時日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ、或は身ををしむゆへに・・・

文脈上、一閻浮提と四天下が対応していることは誰の目にも明らかだろう。この二つの語彙は等値である・・・こんな言い方は誰もしないかもしれないが、言わんとしていることはご理解いただけるだろう。一閻浮提=四天下ということだ。そして四天下は四州とほぼ同義である。ならば一閻浮提=四州である。

さて、このことから、いったい何が導き出せるだろうか?

現代人の教養というか知識レベルからすれば、仏典に説かれる世界観は荒唐無稽に思える。これはほぼ間違いないことだろう。
わたくしの思うに、大聖人の時代においてもすでにそのような意識が芽生え始めていたのではないか、何しろ釈尊滅後二千年の歳月が経過しているのだ、その間に人類がまったく進歩しなかったはずがない、つまりは大聖人の時代においても経典に説かれていることに疑問を懐いて不思議はないのだ。あれ? これは現実の世界には当てはまらないぞ? というような感じである。
これを具体的に論証するのはかなり難しいが、ともかく経典に説かれる世界と現実の世界の齟齬というものを、大聖人御自身も御感じになっていらした可能性は充分に考えられると思う。

以上のことからすると、撰時抄における一閻浮提と四州の関係性はさして重要ではないことになるだろう。経典の世界観に忠実に従ったのではなく、いわばアバウトな感じで御書きになられた。その上であえて取り上げるならば、日月所照が重要である。これは間違いなく今日的には地球を意味するものだからである。

いずれにしても御義口伝の東西北の三方を嫌うことの意味は未だに不明であり、まさに未解決問題そのものである。引き続き諸賢のコメントを期待したい。

さて、せっかくなので御書の話題を続けよう。

 凡そ行智の所行は、法華三昧の供僧・和泉房蓮海を以て、法華経を渋紙に作り紺形を彫るは重科の上謗法なり。

滝泉寺申状にご覧の一節がある。わたくしは、渋紙に作り紺形を彫る、の意味がわからなかったので、いつも利用している御書講義のブログを開いた。次がそこに掲示されている現代語訳である。

 だいたい、行智の行いというものは、法華三昧堂で給仕する僧の和泉房蓮海に命じて、法華経をほぐして渋紙とし、それを切り取り、型紙として建物の修理に使っている。

これがまったくわからなかった。そこで講義の部分も確認した。

 ここで挙げられている行智の一つ一つのいくつかをかいつまんで述べると、先に「法華経の読誦を停止し」とあったのと併せて、「法華経を柿紙に作り紺形を彫り堂舎の修治」に使ったというのであるから、行智の法華経嫌いは徹底しており、天台寺院の院主代としては不適格であることが明らかである。

わからない。なぜに堂舎の修治が出てくるのか、それがわからない。

 凡そ行智の所行は法華三昧の供僧・和泉房蓮海を以て法華経を柿紙に作り紺形を彫り堂舎の修治を為す、

あれれ? なんだこりゃ?

創価学会員ならば何の不審もないかもしれない。実は前掲が平成新編であり、こちらは御書全集である。わたくしは平成新編を使っているので、全集との表記の違いに気がつかなかったのだ。

法華経をほぐして渋紙とし、それを切り取り、型紙として建物の修理に使っている。

再掲であるが、これはもちろん全集の現代語訳である。平成新編では建物の修理云々の前に六行ほどが加筆されていて、いわば建物の修理云々は切り離されているのだ。当然、全集よりも後から編纂された御書であるから、これが正しいのだろう。

つまり、全集の表記によれば、確かに法華経を渋紙にしてそれを型紙として建物の修理に使ったと読めなくもない。しかし、建物の修理が別の話題だとすると、まったく読めなくなってしまうのである。はたして渋紙だとか紺形が建物の修理と関係があるのか、わたくしの調べた範囲では関係を見出せなかった。

さて、そうすると現宗門では、これをどのように解釈しているのだろうか? あるいは創価学会員でも研究熱心な人は、講義録とは違った見解を持つかもしれない。この点、諸賢のコメントを期待したい。

是くの如き重戒なれども、法華経の敵に成れば此を害するは第一の功徳と説き給ふなり、況んや供養を展ぶべきをや。

秋元御書の一節であるが、これはずいぶん前に検討した事案である。わたくし的には解決したつもりだったが、当時はウカツにも対校をしなかった。

是くの如き重戒なれども法華経の敵に成れば此れを害するは第一の功徳と説き給うなり、況や供養を展ぶ可けんや、

あらまあ、である。

供養を展ぶべきをや・・・

供養を展ぶ可けんや・・・


わたくしは文法に疎いのでよくわからないのだが、ともかく両者はずいぶんとニュアンスが違うように感じられる。

ちなみに現代宗教研究所では次のごとく表記している。

如是重戒なれども法華経の敵に成れば、此を害するは第一の功徳と説給也。況や供養を可展哉。

余計にわからなくなった。

この件に関しては宗門に言いたい。何をどのように考えて、この表記にしたのか、である。それから現代語訳を付けるとしたら、ここはどのように訳されるのか、である。

2014/6/28

未解決問題の一例として  
今日は前回の続きであるが、その前に沖浦氏にお返事申し上げる。

 延暦寺は大聖人も学ばれた寺です。

 見学する価値がございます。


三大秘法抄をご存じないのだろうか?

此の戒法立ちて後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に・・・

当然、氏のことだから、参拝ではなく見学だからいいのだ、などと言いそうである。だったら叡山だけでなく、他の寺院にも行ってくればいいのだ。大聖人が踏破されたであろう寺々はそれこそたくさんある。京都・奈良方面はもちろんのこと、その途中の東海道に点在する寺院にも立ち寄られたであろうし、あるいは故郷の清澄寺やその周辺など、それこそ数え切れない。本当かどうか知らないが、大聖人ゆかりの地を看板にしているような寺院も、御流罪の地である伊豆や佐渡など、それこそ無数にあるのだ。ぜひ見学に行かれて、その土産話を聞かせてほしいものである。

さて、本題である。

一閻浮提について、あれこれ考えているわけだが、引き続き高速太郎氏よりコメントが寄せられたのと同時に、なんとトチロ〜氏からも貴重な情報が寄せられた。

創価学会第三十七回総会 日達上人お言葉

なるほど、これは貴重な御指南だ。

しかし、わたくしが言うのも甚だ失礼な話であるが、この御指南はいわば試論のようなものであって、必ずしも決定版ではないと思う。なぜならば、次のくだりがやや不正確だからである。

 では、日本一国の広宣流布はいつか、と申しますれば、これは重大問題で種々の見解の相違はありましょうが、私の考えを申しますれば、大聖人は天台大師が南三北七の法敵を破折したときに、中国一国の法華経は広宣流布したと申され、また伝教大師が南都六宗を論破したとき、日本国津々浦々に法華経の広宣流布はしたと申されております。

日達上人が何を根拠にこのように仰せられたか俄かにはわからないが、大聖人は逆のことを仰せられているのだ。具体的には次に引く撰時抄の御指南がそれである。

・・・天台大師の御時は大集経の読誦多聞堅固の時にあひあたて、いまだ広宣流布の時にあらず。

伝教大師の時も同じ結論であるが、やや御文が入り組んでいるので引用を控えよう。

いずれにしても、天台・伝教の時は広宣流布の時ではない、末法の始めの五百年こそが広宣流布の時である、というのがまさしく撰時抄の大意である。ゆえに日達上人の仰せられていることは、おそらく次元が異なるのだろう。国主帰依の意味において・・・ということなのだと思われる。

ここで脱線を承知で書くならば、まさに撰時抄はその構成からして種脱相対を意味するものなのだろう。何しろ天台・伝教は時の国主を帰依せしめるほどの大功績を遂げているのだ。それにもかかわらず広宣流布の時にあらずと仰せられるのだから、端的に言えば法体が異なるということなのだろう。

 この四洲を現在の世界にあてはめてみるとき、北欝単越とはシベリアを含むソ連のことと考えられるのであります。

話を戻そう。日達上人の仰せは試論だと書いた。その理由は前述のごとくであるが、上掲などを拝しても、やはり試論なのだと思わざるを得ないところである。

四州ないし四洲を今の世界に当てはめること自体に無理がある。なぜならば今まで繰り返し書いてきたように、一閻浮提=地球とするのがいちばん妥当な解釈に思えるからだ。前回書いたように一閻浮提は四州の一つ、別名・瞻部州のことだから、もし上人の御指南に整合性を求めるならば一閻浮提の解釈を変えないといけないことになる。

ところがその辺の整理がまだ出来ていない。これが現実である。

 まず「御義口伝に云はく、此の内の字は東西北の三方を嫌へる文なり。」の御文を、学会では、三方を嫌うとは、人が住んでいないと云うことではなく、そこの衆生と縁が薄いのであって、南閻浮提とは、全世界であると説明しています。
 このことは、撰時抄の「第五の五百歳当世なる事は疑ひなし、但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の 一閻浮提の内・八万の国あり其の国国に八万の王あり王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり。」の一閻浮提や、三大秘法抄の「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してフミ給うべき戒壇なり」の三国並びに一閻浮提は、正に四州を言っており、決して人間が住んでいないことでは、ありません。


人間が住んでいるか否かについては、高速太郎氏のコメントをそのまま鵜呑みにして書いてしまった、わたくしのミスである。それはともかく、上掲の最大の不審点は四州云々だ。

上掲は撰時抄と三大秘法抄を引いているわけだが、当該御文のどこに四州とあるのか、それが不明である。一閻浮提は四州のうちの一州という認識ではなかったのか? それがいつどこで変わったのか? この点がまったく説明できていないと思うのだが、いかがだろうか?

以下は創価学会の講義録である。

 「東西北の三方を嫌う」とは、そこへは流布しないということではなく、縁が薄いとの意である。南閻浮提とは、総じては全世界である。三大秘法抄の「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず」(1022−17)との御文も、明らかに全世界と拝すべきであり、なによりも、今日、欧米にも、アフリカにも、続々と妙法の流布している現実が証明している。

http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1427471.html#more

高速太郎氏はこれを参考にしたのかもしれないが、残念ながらわたくしの疑問は晴れない。

南閻浮提とは、総じては全世界である。

え? なんだって?

まったく理解不能である。たとえば大阪府と大阪市がわかりやすいだろう。これはいわゆる総別の二義が援用できる。ようはどちらも大阪なのだ。しかし、南閻浮提は違うだろう。南閻浮提は東西北を除くからこそ南閻浮提なのだ。それがどうしたら全世界になるのかがまったく理解不能である。

誤解のないように書いておこう。

わたくしは大聖人の御書を拝していて一閻浮提を地球だと思った。現代国語としては全世界も可だろう。
そこに新たな情報がもたらされた。いわゆる須弥山を中心とした世界観である。そこでは一閻浮提は南方の一州なのである。
もしこれを採用するならば、一閻浮提=全世界は間違いとなる。ところが創価学会ではその辺の解釈を誤魔化して、総じては全世界である、などと言っているわけだ。

以上、恐れながら日達上人の御指南も完璧ではないし、いわんや創価学会の講義録などは欠陥だらけであるし、いかにいわんや高速太郎氏をや、である。いや、もちろん、かく言うわたくしがいちばんわかっていないのだが、そのわたくしの目から見てずいぶんズサンな解釈だなあというのが正直な感想なのだ。

 ズサンな私が云うのもなんですが、巌虎さんは、仏教に不審をお持ちなのでしょうか?
 仏教を科学で証明することは、不可能だと思いますよ。


わたくしが追求しているのは合理的思考である。

仏法の宇宙観ないし世界観は現代科学によって知り得た宇宙観ないし世界観とは異なる。それは別に構わないのである。望遠鏡のない時代に宇宙のことを正確に把握するのは無理というものだ。しかし、合理的思考はいつの時代も可能のはずである。ゆえに、東西北の三方を嫌うというのであれば、そこには何かしらの理由があってしかるべきである。わたくしが求めているのは、ただそれだけのことなのだ。

2014/6/26

口は災いの元  
次から次へと話題が尽きないようだ。

セクハラ野次の件は言っちゃったほうも驚愕していることだろう。まさかこんな大騒動になるとは思いもしなかったはずだ。人間は確信犯的に行動することもあるが、ごく普通の人は結果を想定して、自分に不利になるようなことは言わないし、やらないものである。

この件に前後して、環境大臣の失言があった。わたくしはむしろこちらのほうに注目していたというか、場合によっては辞任に追い込まれるのではないかと想像していたのだが、何となくウヤムヤになってしまったような感じがする。

いずれにしても難しい問題だ。言っていいことと悪いこと、正しいことと間違っていること、これらは必ずしも整合しない。ゆえに、本音はこれこれこうなんだが口にしたら大変なことになるので言えない、自分としてはこれが正しいと思っているのだが今の状況では言えない、言ったら自分の立場が危うくなるので言いたくても言えない、というようなことがあると思う。

また、こうした失言においても、運の善し悪しみたいなものがあって、うまく切り抜けられる人もいれば、そうでない人もいる。裁判で言えば、同じくらいの量刑にもかかわらず、一方は有罪、一方は無罪、極端な例かもしれないが、そんなこともあり得ると思う。

晃氏の立場はおおよそ理解した。

そう簡単に破門になるとは思えないが、まあ、上述のようなことも勘案して、発言には注意されたほうがいいだろう。

沖浦氏は延暦寺を見学してきたそうである。

これについては言いたいことが山ほどあるけれども、おそらく氏にとっては想定内のことだろうから、やめておこう。ともかく、こうやって大っぴらに公表してしまっているくらいだから、氏にはヤマシイ気持ちがないのだろう。それにしても延暦寺と大石寺を比較してどうするのかと思う。創価学会員にあるまじき行為だ。

2014/6/23 13:46
投稿者:高速太郎
巌虎さん、こんにちは。

 以前、巌虎さんが一閻浮提は日本と応えておられたと思うのですが・・・!

 晃さんの御義口伝の箇所は、普賢菩薩の請願の「閻浮提の内に広く流布せしめて」の「内」について口
伝している御文だとおもうのですが、この御文も研鑽して日本と応えられたのでは、なかったのですか!


さて、今日のメインイベントである。高速太郎氏は上掲に引き続き、次のようなコメントを入れている。

2014/6/23 14:09
投稿者:高速太郎
もしかすると・・・須弥山の世界観だと気が付かないかもしれないので・・!

 図が分かりやすいと思い、ネットで検索したらたくさんありました。
 http://takusen2.seesaa.net/article/37543407.html

 南=閻浮提=人間界(人間が住んでいる世界)


ようするに、わたくしの不勉強をなじっているわけだ。

しかし、相変わらずズサンなものだ。わたくしの不勉強は事実であるが、高速太郎氏はそれよりもヒドイ。何しろ相手の主張をちゃんと把握していないからだ。

一閻浮提=日本?

わたくしがいつどこでこんなことを言ったのか、具体的な文言を提示すべきである。高速太郎氏は、わたくしが言ってもいないことをあげつらって、上掲のようなコメントを書いているわけである。まったく言語道断の所業だ。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1754.html

高速太郎氏が拙ブログを訪れるようになったのは二年ほど前のことである。リンク先は当時の拙稿である。ここに明瞭だろう。

つまり、氏はここで一閻浮提について質問しているわけで、一閻浮提は全世界もしくは宇宙全体のことかと聞いているのだ。そこでわたくしは次のように答えたのだった。

わたくしのイメージでは地球がそれに相当すると思う。ゆえに宇宙全体は違うのではないか、全世界のほうが近いのではないか、という気がする。


ただし、世界という言葉は娑婆世界だとか三千大千世界と被るので、その意味では地球のほうがより適切だろうという意味も書いた。その上で御書を引用し、一閻浮提は地球規模に相当すると結論したわけである。

以上、スタート地点がこれなのだから、わたくしが一閻浮提を日本であるなどと主張することはひじょうに考え難いことである。この点、高速太郎氏は己の間違いを素直に認めるべきだろう。

さて、それはそれとして、わたくしの不勉強もまた厳然たる事実である。

四州

これは御書に出てくる言葉であるが、わたくしはこれまで正確な意味を知らなかった。どうやらこれは須弥山を中心として、東西南北の四方に一つずつ島が浮かんでいる、これを四州と呼ぶらしいのである。そしてこのうちの一州が一閻浮提であり、単に閻浮提と書く場合もあれば、南閻浮提と書く場合もある。さらに瞻部州とも呼ぶのだそうである。この瞻部州は、なんと一箇所ではあるが、御書に出てくるのだ。

「汝等悲泣すること莫れ。遂に瞻部州に到って衆生を度せんが為の故に大明神と示現せん」文。

わたくしはこの文を、おそらくは十回近く拝読してきたが、これが一閻浮提の意味であるとはまったく思わなかった。解説書の類を読まないものだから、いつまで経ってもわからないのだ。しかし、こうしてひょんなことから知るに至ったのだから、不思議なものである。この点、高速太郎氏には感謝申し上げたい。

また、わたくしは漠然と、須弥山=ヒマラヤと思っていたが、高速太郎氏の紹介下さったリンク先を読むと、違うようである。いわゆる雪山がヒマラヤなのだそうである。ともかく今の地球ないし宇宙の概念と仏教で説くところの世界観は必ずしも一致しない。これがリンク先の言わんとしていることのようである。

御義口伝に云はく、此の内の字は東西北の三方を嫌へる文なり。

こうして見ると、当該御文はごく当たり前のことを言っていることになるわけだが、そもそもがこの必然性を考えなければいけないと思う。なぜに東西北の三方に人間が住んでおらないのかである。この合理的な答えがなければ、しょせん仏教は歪んだ教えということになるだろう。俗に八方めでたしという言葉があるが、三方(この場合は六方か?)を嫌っている以上は、まったくめでたくないことになる。この点、何かご存知の人がいれば、ぜひともご教示願いたいと思う。

2014/6/23

本格的議論に突入か?  
沖浦氏から岡本太郎の著書をご紹介いただいた。

 挑戦した上での不成功者と、挑戦を避けたままの不成功者には、まったく天地のへだたりたりがある。
 挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、挑戦を避けてしまってオリてしまったやつには、新しい人生などはない。ただただ成り行きにまかせてむなしい生涯を送るにちがいいないだろう。


まさに至言である。

何はともあれ、失敗を恐れずに挑戦すべし、ということだろう。たとえ失敗に終わったとしても、失敗を恐れて最初から何もしない人とは、天地の隔たりがある。なるほど、それはそうだろう。だが、しかし、人生には取り返しのつかない失敗もある。ならば隠忍自重も一つの選択肢だろう。岡本太郎は成功者であるから、上掲のようなことが言えるわけであって、やはりごく普通の人生を歩んでいる人にとっては、話はわかるがそれを自分の人生で体現することはムリだ、ということになると思う。

ただし、そこまで大きく考えずに、日々の生活の中での小さな挑戦という意味で、上掲は有用だろう。

さて、次は晃氏だ。

御書には閻浮提のみに法華経が流布して
他の三つの区画は嫌われてると書いていて
そこで大雑把に地球儀を四等分してみると
E60°〜E150° イランとアフガニスタンの間から
日本列島まで…がその閻浮提に当たるのでは?
と考えています


一部修正した上で引用したわけだが、これには続きがある。

ようはヨーロッパが西方浄土として
中世はひどく憧れの対象となっていて
生まれ変わりを願う日本人が沢山いた
と考えています


まず、気になったのが、氏の立場である。所属はどこか、もしくはかつて所属していたところはどこか、今はどのような立場なのか、信仰者なのか否か、といった事どもである。

御書には閻浮提のみに法華経が流布して・・・

これはたぶん御義口伝の一節を言っているのだろう。閻浮提内 広令流布の事と題される一段だ。

 御義口伝に云はく、此の内の字は東西北の三方を嫌へる文なり。広令流布とは法華経は南閻浮提計りに流布すべしと云ふ経文なり。此の内の字之を案ずべし。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は深く之を思ふべきなり云云。

正直なところ、わたくしにはわからない。大聖人が深く之を思うべきと仰せられるのだから、これには深い意味があるのだろう。しかし、わたくしにはまったくわからない。

そもそも晃氏の地球儀四等分が理解不能である。

大聖人が経文の意を東西北を嫌って南閻浮提ばかりに流布すべしと解説あそばしているのは事実である。しかし、東西北がどこを意味するのかは不明であって、当該御文だけでは判断不能だと思う。ゆえに他の御書などを参考にして判断するよりないが、わたくしの拝する限りでは東西北がどこなのかまったくわからない。

ゆえに晃氏の書いていることも一つの仮説なのだろうとは思うが、その蓋然性がまったく理解できないのだ。あたかもスイカを四等分に切るみたいな、そんな分割の仕方でいいのだろうか?

日本は南閻浮提の内にある。これはいいだろう。問題は東西北である。

晃氏はヨーロッパを西だと言っているわけだが、東と北はどうなるのだろうか?

地球を上から四等分にすると、東西南北が並列的に並ぶことになる。これは一般的な東西南北の概念とは異なる。普通は北極と南極を軸に、横に二つ割りにして北半球と南半球とする。すると日本は北半球に属するので、南閻浮提の意味がわからなくなる。東西は相対的なものであって、自分のいるところを中心に、東と西が決まるわけである。ゆえにヨーロッパが西であるのはそのとおりだが、しかし、当てはまるのはただそれだけである。

以上、晃氏の言っていることは単なる思いつきなのか、あるいはそうではなくてもっと精密な思考に基づくものなのか、現時点では不明であるが、もし後者であるならば、ぜひとも続きをお聞かせ願いたいと思う次第である。

ヨーロッパは憧れの対象・・・

これまた思いつきなのか、精密な思考によるのか、気になるところである。

わたくしの認識では、鎌倉時代はヨーロッパのことを認識しておらず、よって憧れを懐くこともなかった、ということになる。これは何か特別な資料によって書いているのではなくて、いわば一般教養に基づくものである。西洋の文物が日本に入ってきたのは鉄砲伝来以降であろう。それ以前が皆無だったかどうかは知らないが、西洋の文物が大量に入り出したのは鉄砲伝来以降である。ゆえに、それ以前における阿弥陀信仰がヨーロッパに対する憧れに関係しているとは到底思えないのであるが、いかがだろうか?

さて、次は別の話題である。

本迹は二つの比較相対の時に使う用語で
釈尊と日蓮大聖人なら巌虎さんの通りですが
日蓮大聖人と妙法蓮華経は本仏は先の投稿のように考えています


上掲はやや説明不足のように思うが、たぶん図式化すれば次のごとくなるだろう。

釈尊<大聖人<妙法蓮華経

いわゆる不等号である。つまり、釈尊よりも大聖人、大聖人よりも妙法蓮華経、ゆえに妙法蓮華経を本仏とすれば大聖人すらも迹仏になると、晃氏は言いたいのだと思う。

これは難解な議論だ。

そこで今回は晃氏に質問をして終わりにしたいと思う。まず、上述のとおりでよいのかどうか、上掲はわたくしが勝手に晃氏の考えを図式化したものであって、まずはそれが合っているのかどうかを確認しないことには話が進まないのだ。そして仮にこれでいいのだとしよう。その上で質問したい。

いわゆる人法一箇ないし人法体一をどのように考えるかである。

ある意味、これを是とするか否とするかで、晃氏の立場も見えてくることだろう。当然、日蓮正宗では人法一箇を主張するわけだが、はたして晃氏の見解はいかがだろうか?

2014/6/22

衰えは隠せない  
沖浦氏は世界チャンピオンであるから胸を張って当然である。しかし、そこにはじゃっかんの驕りのようなものが感じられなくもない。その意味で、八風抄の御指南はタイムリーである。わたくしも謹んで引用させていただこう。

 賢人は八風と申して八つのかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり。をゝ心は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。

俗な言葉に変換するならば、勝って驕らず負けて腐らず、みたいな感じだろうか?

今はいいのだ。しかし、いつかは敗れる時が来る。それが勝負の世界だ。まさにその時、上掲の御指南が身に沁みることだろう。

衰えるに嘆かず・・・

もちろん沖浦氏だって、こんなことは百も承知だろうけれども、勝負の世界だけの話ではなく、すべての人に当てはまる意味でひじょうにありがたい御指南である。

2014/6/19 18:18
投稿者:晃
イスラム ユダヤ キリスト
彼らが崇めてるのが阿弥陀如来でしょうね


ところで、この人はいったい何を言いたいのだろうか?

以前、タコというキリスト教系の人がお出でになって、仏教はキリスト教のパクリである、阿弥陀仏はキリスト教の神を模倣したものである、などと言っていた。晃氏はこの逆を言っているごとくであるが、いずれにしてもその根拠が問題である。何を根拠に言っているのだろうか?

ちなみに、次のコメントはいちおう理解できる。

2014/6/18 12:25
投稿者:晃
本来なら妙法蓮華経が本仏
ですよね?


これは諸法実相抄を根拠に言っているのだろう。

されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御坐し候へ。

つまり、このコメントは御書に根拠を求めることができるのだ。ところが前掲の、時間的には後から書き込まれたものは、何が根拠なのかさっぱりわからないのだ。

こういう意味不明のコメントにはストレスを感じるものだ。書いている本人はストレスを感じないのだろうか?

自分の言いたいことが伝わらないのは、けっこうなストレスだと思うのだが・・・

わたくしも衰えたものだ。

というのは、ここで筆が止まって数十分が経過している。この後、何をどのように書こうかと考えて、なかなか考えがまとまらずにいるのである。このテイタラクを嘆かずにいられようか、さりとて嘆いてばかりいては賢人の名折れとなる。いや、いや、もともと賢人ではないのだから、致し方のないところではあるのだが・・・

いちおう舌足らずを承知の上で、諫暁八幡抄の御指南を紹介して終わりたい。

 諸の権化の人々の本地は法華経の一実相なれども、垂迹の門は無量なり。

キリスト教の神と阿弥陀との関係性がほのかに見えてくるかもしれない。

また、当該御書にはまことに有名な末文がある。ここでは引用を省くが、前掲の諸法実相抄と併せて拝するならば、釈尊すらが迹仏であるという、日蓮本仏論の骨格が見えてくるのではないかと思う。

2014/6/19

毎日がぶっつけ本番  
沖浦氏はけっこう自分勝手な性格である。これについては高速太郎氏が説明しているので省略しよう。沖浦氏がいくら自己弁護をしようとも、高速太郎氏がわたくしの肩を持つことは考え難いことなので、氏のコメントはそれなりに正鵠を射るものなのだと思う。

他者と沖浦さんに軋轢が生まれる原因の一つ・・・

ただし、わたくしと沖浦氏の関係性はきわめて良好であって、少なくともわたくし自身は軋轢が生じているようには思わない。

よくわからないが、掲示板によっては沖浦氏の出入りを禁じているようなところもある。もちろん、理由があってのことだろうが、それにしても出入り禁止というのは議論の放棄に他ならない。ぶっちゃけ言えば、氏は面倒臭い人物である。厄介な存在なのだ。たぶん、議論をしてもキリがない、一向に埒が明かない。よって、シャットアウトにするのだろう。

ところが、わたくしはそれをしないのだ。門戸開放である。

これについて他の人たちがどのように思っているか知らないが、少なくともわたくしはネットの中だけではあるものの、世界チャンピオンと交流を持てることを嬉しく思っているのだ。

さて、本題である。

2014/6/19 7:56
投稿者:沖浦克治
 巌虎さん

>イスラム教徒が兄弟であるなどという、そんな教えがどこに存在するのか、あるなら出してみよ、ということなのである。

 『其の上仏教已前は漢土の道士月支の外道儒教四韋陀等を以て縁と為して正見に入る者之れ有り』
 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

 大聖人当時、イスラム教は日本で存在を知られていません。
 ですが、外道と言う言葉は、内道である仏法以外のすべてを示します。
 このご文はイスラムにも、キリスト教へも当てはまります。

 仏法を知らない時でも、外道で正見(正しい悟り)を得た人々が存在している。

 こう言う事です。
 ですのでイスラムも、私どもの兄弟としてどういう問題もございません。

 少し視野を広げるべきですね。


さすがは世界チャンピオンである。いや、失礼。これは関係なかった。

実は、上掲のコメントは想定内である。

より正確に言うと、本尊抄の御文は想定していなかった。さすがは沖浦氏、御書をよく知っていると感心した。しかし、わたくしは当該御書こそ思い浮かばなかったものの、その他のいくつかの御書を思い浮かべて、きっと沖浦氏ならば何らかの反論をしてくるに違いないと思っていた。

はたして、そのとおりだった。

http://white.ap.teacup.com/ganko/1413.html

時間に余裕のある人は、ぜひともリンク先をご覧になられたい。今回の話題と大いに関連があるのだ。

キリスト教やイスラム教は仏法の初門である。

この発言者は、わたくし自身なのである。

つまり、引用御書こそ異なるものの、わたくしと沖浦氏はほとんど同じことを言っているわけである。

さて、そうすると、今回のわたくしは沖浦氏に質問を投げ掛けておきながら、自分で自分の首を絞める結果となってしまったことになりそうである。

しかし、それはまったくの誤解である。

其中衆生悉是吾子

教学に堪能な人は説明するまでもないだろう。法華経の有名な偈文である。平たく言えば、全人類は一人残らず仏子である、ということだ。ならば、現時点でイスラム教を信じていようがキリスト教を信じていようが、本来は仏の子なのである。よって全人類皆兄弟なのである。

こんなことは当たり前のことである。

しかし、御法門はもっと精密に拝する必要がある。

まずは先週寄せられた沖浦氏のコメントを再掲しよう。

 イスラムは兄弟です。
 それでどう言う問題もございません。
 謗法は教えではなく、それを持つ人の行為にあります。
 いくらご本尊に唱題しても、怨嫉謗法があるなら謗法の人、念仏でも回教でも、同苦の祈りがあるなら謗法ではありません。


念仏でも回教でも・・・

ここに馬脚があらわれている。今朝のコメントでは本尊抄を引用しているわけだが、実は引用部分の少し後ろに次の一節があるのだ。

過去の下種結縁無き者の権小に執着する者は、設ひ法華経に値ひ奉れども小権の見を出でず。自見を以て正義と為るが故に、還って法華経を以て或は小乗経に同じ、或は華厳・大日経等に同じ、或は之を下す。此等の諸師は儒家・外道の賢聖より劣れる者なり。

開目抄では邪智謗法と無智悪人とを峻別して、折伏と摂受を使い分けるべきことを御指南されている。大聖人にイチャモンをつけるようだが、そもそも謗法と悪人との違いがやや不明瞭と思わざるを得ないが、邪智と無智は実に明快である。そこで本尊抄の上掲御文を拝すると、一つの結論が見えてくる。爾前権教の諸師は邪智である、よって儒家外道にすら劣るということなのだ。儒家外道は仏法に対しては無智である。無智だからこそ逆に罪が軽いということなのだろう。

こうして見ると、いちおうはイスラム教を肯定的に捉えることが可能となる。

ところがである。沖浦氏はとんでもない失敗をしでかしているのだ。再掲しよう。

念仏でも回教でも・・・

沖浦氏の間違いは念仏と回教を一緒くたにしてしまっている点である。

さらに続けよう。

そもそもである。本尊抄の大前提とも言うべき、如来滅後五五百歳を忘失している点も気になるところだ。

わたくしはすぐ上で、いちおうはイスラム教も肯定できる、と書いた。しかし、仏法で説くところの時の概念をもってすれば、肯定は難しくなる。

其の上仏教已前は・・・

正像末の三時で言えば、今は末法である。末法は三大秘法広宣流布の時である。逆に言うと、三大秘法出現以前においては、その時と機において爾前権教にも利益があった。また、仏教そのものが弘まる以前においては、儒家外道もそれなりに有効だったのだ。本尊抄はいわばこうした大前提の上で認められているのだ。この意味からすると、沖浦氏の引証は不可となる。

最後に兄弟をキーワードに考えてみよう。

 大聖人当時、イスラム教は日本で存在を知られていません。
 ですが、外道と言う言葉は、内道である仏法以外のすべてを示します。
 このご文はイスラムにも、キリスト教へも当てはまります。


再掲であるが、わたくしの言いたいことがわかるだろうか?

ようするに、御書にはイスラム教という言葉は出てこない、よって、その意味に通ずる御文を当てはめて考えるべき、というのが沖浦氏の言わんとしていることだ。

では、兄弟はどうか、である。

ご存知のごとく、御書には「兄弟」がたくさん出てくる。ならば、それらの中にイスラム教を示唆する御文があるかどうかを調べればいいではないか、ということになるだろう。

わたくしの拝する限り、そのような御文は存在しないのだ。

以上、仏教徒とイスラム教徒が兄弟であるというのは、一つの解釈として成り立つことは事実であるが、大聖人の御指南としてそのようなものが存在するかといえば、それはないだろう。

2014/6/18

毎日が行き当たりばったり  
まずは晃氏のコメントから参りたい。

立正安国論の通りなら
靖国参拝はいけませんよねぇ…


おっしゃるとおりである。

そして沖浦氏から大量のコメントが寄せられたが、もっとも重要な部分は次のくだりだろう。

 他宗の内部規定に干渉する必要など全くありません。
 何故こう言う事を書くかと言うと、先日巌虎さんが私がイスラムの方に、私どもとイスラムは兄弟だと書いた時、

 創価学会は法謗容認で邪教ではないか。

 と書かれ、愚か者が浮かれて騒いだことがありました。
 巌虎さんは顕彰会の人。
 私がイスラムを兄弟と思おうが、創価学会が他宗を認めようが関係ないお立場です。

 それが、そこへ踏み込んで来られる。
 良くありませんよ。


ずいぶん勝手なことを言っているものである。氏は直前のコメントで次のように書いているのだ。

 これらの邪義の、全ての元凶が戒壇本尊ですね

ここでの戒壇本尊とは大石寺にまします本門戒壇の大御本尊のことであろう。

 そう言う特別な本尊はありません。
 大聖人のご本尊は全て同じで、全てが一閻浮提総与です。
 実はこの言葉すら御書にはありません。
 戒壇本尊特別主義者たちが、勝手にこしらえたものです。
 一切衆生へ与えられたものを、本来一閻浮提総与と言うべきです。


戒壇本尊特別主義者などという造語を用いているが、日蓮正宗ではそれが普通なのである。しかし、沖浦氏に言わせれば、しょせんは日蓮正宗の内部規定に過ぎない、ということなのだろう。だったら、なぜに口を挟むのか、である。沖浦氏とは無関係のはずなのだ。

つまり、ここでの争点は日蓮大聖人の仏法を正しく信仰しているのは何処であるか、ということであって、それゆえに沖浦氏は戒壇本尊本懐論は間違っていると主張しているのだろう。わたくしの問題提起もまったく同じことなのだ。イスラム教徒が兄弟であるなどという、そんな教えがどこに存在するのか、あるなら出してみよ、ということなのである。もしそれが創価学会の内部規定であって、その根拠が御書のどこにも存在しないとすれば、まさに創価学会は大聖人の仏法とは別の、いわば創価学会教ということになるのだ。

そういうわけで、沖浦氏が創価学会教を認めるのであれば、わたくしは金輪際、氏がイスラム教徒と兄弟であると言おうが言うまいが、もはや口を挟まない。どうぞご勝手に、ということである。

さて、今日も顕正新聞第1311号から話題を拾うわけだが、せっかくなので上述のことと関連する記事から紹介しよう。

安国論を誹謗し謗法与同を自慢
 学会の腐敗堕落の実態 この目で!


男子部第二十八隊支隊副長の活動報告である。もはや、この見出しだけで充分だろう。ようするに顕正会は日蓮大聖人の仏法を正しく信仰している唯一の団体であると、このような確信から創価学会に対し、あるいは宗門に対し、はたまた身延などに対し、折伏をするわけである。まさに、これこそが大聖人の仏法の特質であるからして、今後も双方の確執は続くことだろう。ある意味、我々は兄弟であり、兄弟喧嘩を演じているとも言えるのだ。

これこそ求めていた本物の団体だ!
 諫暁書で入会、先生の指導に大感動

元公明党顧問弁護士の夫もついに入会


このような記事もあれば、次のような記事もある。

先生の講演に大衝撃、学会とは天地の差
 入会五日で帯状疱疹完治、心法も一変

戦死した二人の兄に回向できる有難さ


いずれも正義にめざめてと題する登壇である。創価学会が顕正会を憎たらしいと思うのは、創価学会から顕正会へ行く人は多いが、顕正会から創価学会へ行く人は少ない、という現実があるからだ。ちなみに宗門と顕正会の関係では宗門のほうが分があるらしく、ここ十年くらいは相当の人数が顕正会から宗門へ移籍しているのではないかと思われる。もちろん、わたくしにはその詳細はわからないのだが・・・

さて、ここまでは顕正会対創価学会の関係において、顕正会の肩を持つような書き方をしてきたわけだが、それはあくまで行き掛かり上のことである。ご存知のごとく、わたくしは顕正会に対してひじょうに厳しいのだ。

 初めて拝見した、浅井先生の高貴で威徳あるお姿に接し・・・

これは上掲の二つの正義にめざめてのうち、後者の記事に出てくる文章である。はっきり言って異常だと思う。この人が異常なのではなく、浅井先生ないし本部首脳が異常なのだ。

総幹部会は本部行事である。ゆえに、こうした登壇も事前に原稿チェックが行なわれているはずで、まさか浅井先生がぜんぶをチェックしているとは思えないけれども、おそらくは本部首脳の誰かがチェックしているはずである。わたくしだったらこんな表現は使わせない。もし仮に何かの手違いでこのまま発表がなされたとしても、新聞掲載の段階で修正するだろう。なぜそれをしないのかと思う。浅井先生には羞恥心がないのだろうか?

そうそう、思い出した。

 また諸天に申し付けるという絶大権威は、末法下種の御本仏でなければあり得ない。

再び会長講演であるが、この絶大権威が目を惹いた。かつては絶大威力を多用し、近年は絶大威徳を多用する傾向にあった。しかし、この絶大権威はめずらしい。もしかしたらこれが初出かもしれない。

大聖人を御本仏と仰ぐ以上、こうした表現はあって然るべきである。

しかし、どうだろう。浅井先生に対し高貴だの威徳だのと表現するのは、やり過ぎのような気がしてならないのだ。しかも、それを先生自身が受け容れてしまっているということの心象構造が、わたくしには理解不能なのである。

2014/6/17

毎日が俄仕込み  
晃氏のコメントはやや舌足らずのようである。相手に何かを伝えたいのであれば、面倒でももう少し詳しく書く必要があるだろう。

諸般の事情通氏はのび太氏を批判しているのではなく、婉曲ながらも浅井先生を批判しているのだと思われる。浅井先生はその時々に世間で話題になっていることを取り上げ、各方面の識者の意見を参考にしつつ自説を展開することを得意としている。これを会員たちは、先生のご見識、などと持ち上げる。しかし、先生と言えども、あらゆる分野に精通しているわけではない。ゆえに、しょせんは他人の意見の受け売りの場合が少なくないのだ。ところがネタ元を知らない会員たちは、そこに気がつかない。たぶん諸般の事情通氏の言わんとしていることは、この点なのだろうと思う。

しかし、たとえ俄仕込みであったとしても、自分なりの見解を示すことは必ずしも悪いことではない。浅井先生も出典を明示した上で自分の意見を述べる場合がほとんどであるから、これも一つの見識と言えるだろう。

最終的には誰かの受け売りだろうとなかろうと、言っていることが正しいかどうか、ただそれだけのことだと思う。

いや、もちろん、他人の受け売りを得々と語る人物は、いかにも浅ましい。それはそのとおりなのだが・・・

 顕正会では、昔、年次総会を開いておりましたが、いまの月々の総幹部会は、この総会以上の内容です。それだけ顕正会のテンポが早くなってきたのです。

さて、会長講演の続きであるが、ここは一つの突っ込みどころだろう。年次総会とは、いつの話をしているのか?

たぶん妙信講時代の、それも初期の話のはずである。

ご存知のごとく、妙信講は解散処分の時で一万二千だった。そして今は百六十万を謳っているのである。まるでケタが違う。

つまり、そんな大昔の時代と今を比べても意味がないのだ。

わたくしの思うに、同じ総幹部会で比較しなければいけない。すなわち板橋文化会館で行なわれていた時代と、大宮ソニックシティ大ホールで行なわれている今とを比較しないといけないのだ。すると、驚くなかれ、である。大宮で総幹部会が行なわれるようになって、すでに二十年以上経つのである。これは今、記憶だけで書いているので正確ではないが、たぶん間違っていないだろう。

すると、顕正会のテンポが早くなってきたというのは大昔と比較してのことであって、それは必ずしも適切な比較方法ではないことになるだろう。逆に、顕正会はここ二十年、足踏み状態とも言えるわけである。

年次総会が行なわれなくなった理由は不明だが、その後、不定期的に大総会が行なわれていた。しかし、その大総会も今はまったく行なわれなくなった。

これらを勘案すれば、今回の講演で昔の年次総会を持ち出してきて今の総幹部会と比較することのマヤカシが、よくわかるのではないかと思う。

まあ、しかし、内部の人間は少し違う感想を持つことだろう。とりわけ活動会員で毎月の総幹部会に参加しているような人ならば、大いに反論があるに違いない。それはよくわかる。毎月、大宮ソニックを借り切って、あれだけ盛大な集会を開催できるというのは、確かに凄いことである。それはよくわかるのだが、しかし、昔の年次総会と比べてどうするのか、そんなの意味がないだろうというのも事実である。

さて、話を進めよう。安倍首相は著書の中で次のように述べているそうだ。

日本の自衛隊はアメリカが攻撃されたときに血を流すことはない・・・

わたくしはそれを読んだわけではないが、全体的な流れから判断して、集団的自衛権の必要性を訴えているのだろう。

これについて浅井先生は次のごとく噛み付いている。

血を流すのは安倍首相ではなく、自衛隊員ですよ。その自衛隊員には親もいる。妻もいる。子供もいるのです。安全な立場にある者が、「血を流す、流す」などと軽く言ってはいけない。

まったくだ。

浅井先生にはこのような視点がある。もしこれが本当であれば、顕正会員に対しても同様の視点を持ち得るはずである。つまり、会員に対し無理なノルマを課すようなことはしないはずである。

当該講演の続きには、次のようなくだりもある。

 すでに石破幹事長が言っている。「自衛隊はどこまで行くか、地域的な限定はしてない、地球の裏側まで行くことになるでしょう」と。
 また云う「逃げたら死刑だ」と。
 「簡単に言うな」と云いたい。


これも前掲と同様に興味深い。

浅井先生の感覚はけっこうマトモだと思う。さらに言えば、ややイヤミに聞こえるかもしれないが、顕正会の定着率が悪いのは逃げて(退転して)も死刑にならないからなのだろう。もっとも死刑(私刑?)など、できっこないのだが・・・

画期的な福井判決

最後に取り上げるのは、大飯原発の運転差止め命令についてである。先般、画期的な判決が下りた。大飯原発再稼動差止め訴訟で原告側が勝利したのだ。これは原発訴訟の中では異例中の異例であり、画期的な判決であると、浅井先生も講演の中で大絶賛しているわけだが、先生はこれを広宣流布の原理に当てはめている。

 いいですか。たとえ今は反発している人も、諸天の働きによって日本の亡国が身に迫るという大現証を眼前にすれば、みな御本尊様を求めてくる。日蓮大聖人の重き重き御存在にめざめてくる。一気に国中の認識が変わってくるのです。

この後、くだんの裁判の結果について縷々説明し、次のようにまとめている。

 これも、福島事故のあの悲惨な現証をまのあたりにして、国民の意識が変わり、裁判官の認識が変わったことによる。

そして結論は次である。

 広宣流布も、客観情勢が変われば、みなの認識は一時に変わる。「顕正会の言うとおりになってきた」「日蓮大聖人を信じてお題目を唱えなければダメなのだ」ということになるのであります。

うまく話をまとめているが、はたしてこれをどこまで信用してよいものか、わたくしにはわからない。熱心な活動会員たちはこれを信じて疑わないのだろう。そしてこのとおりになれば、彼らは報われるのだ。しかし、ならない可能性もある。むしろ、そちらの可能性のほうが大きいだろう。

人生は一種の賭けである。それはそうなのだが、しかし、この賭けはリスクが大き過ぎる。それでも活動会員たちは最後まで賭け切るつもりなのだろうか?

2014/6/15

「集団的自衛権」特集号を読んで  
今日は予定どおり顕正新聞第1311号を取り上げるが、その前に一つだけご挨拶申し上げておこう。

2014/6/12 20:28
投稿者:ドリン
お久しぶりです。
私には難しいことはわかりませんが、人の不幸を見て自分が愉悦に浸るのは、人としてどうなんですかね?


これはけっこう難しい問題である。なぜならば、いわゆる罰論の問題だからである。

もちろん、罰論がイコールで人の不幸を見て愉悦に浸るというわけではないが、正しい信心をすれば幸せになる、しなければ不幸になる、という二者択一の論理を内包していることは事実であって、いわゆる折伏とはそれをはっきりと言い切ることなのである。ゆえに、言い切ったことがそのまま現実化すれば、それがすなわち現証ということで、顕正会員の心理としては信心によりいっそうの確信を持つ結果となる。つまり、本来的には相手の不幸を喜ぶのではなく、大聖人の仏法が正しいという確信を得られたことに対する歓喜を意味するのである。

とは言え、この違いはまさに紙一重であって、場合によってはイコールということもあり得ることである。この意味で罰論の用い方は慎重でなければならないだろう。

聞けば創価学会ではかつて罰論を盛んに用いていたが今は使わないそうである。この点は折伏を仏法対話と言い換えたり、謗法容認路線とも思えるような方向性を示していることとも、あるいは軌を一にすることなのかもしれない。わたくし自身はこれに賛同するものではないが、さりとて頭ごなしに否定するのも考えものだと思う。少なくとも一定の見識を示しているとは言えるだろう。

さて、本題だ。

日蓮大聖人の仏法立てねば全ては虚し
 集団的自衛権行使もかえって裏目に
 アメリカの戦争の下請け・傭兵となる


五月度総幹部会の会長講演に付された大見出しである。当該号は「集団的自衛権」特集号と高らかに謳っているわけだが、まさに今回の会長講演はこれを中心に書かれている。そして結論は上掲に明らかだ。

全体的な感想を言えば、当該講演はひじょうに面白かった。具体的に言えば、ベトナム戦争について書かれたあたりは自分にとって新知見がたくさんあって、しかも相当に衝撃的な内容なので惹き込まれるようにして読んだものだった。たぶん一般の読者であっても同様だろう。よほどの勉強家でもない限り、こうした現代史については断片的にしか知らないものである。

結合双生児や無脳症児の写真はセンセーショナル過ぎる。顕正会では目が釘付けになるという表現を多用するが、これなどはまさにそれだろう。あるいは逆に目を覆いたくなる人もいるかもしれない。

さて、この新聞が大量配布されるとなると、いったいどのような作用が生ずるだろうか?

わたくしの印象では、顕正会は反体制派のきわめて過激な集団、ということになる。浅井先生が中国を悪く言うのは昔からである。ロシアに対しても同様である。ところが今回の講演では、アメリカすらも敵に回すようなことを書いてしまっているのだ。ある意味、怖いもの知らずということなのだろう。何しろ当該新聞を大量配布するつもりでいるのだ。当然、国会議員などにも送り付けるつもりなのだろう。

いわゆる右派だとか左派だとか、アメリカ寄りだとか中国寄りだとか、一般的にはそのような分類があるわけだが、顕正会はそのどこにも属さない。いわば孤高の存在である。浅井先生らしいと言えば確かにそのとおりだが、しかし、これがどこまで大衆受けするかは疑問である。

面白かったと書いた。

当該講演を一話完結と見るならば、百点満点をあげてもいいと思う。いや、実はすでにセロリ氏が問題点を指摘しているのだが、この点は後述するとして、いちおう一話完結ならば面白い読み物としてわたくしはほぼ百点満点だと思う。ただし、連載ものだとすると、疑問が生じてくるのだ。

浅井先生は安倍政権が集団的自衛権の行使容認を急いでいることの真意を次のように見ている。

その真意はどこにあるかと言うと、「何としてもアメリカに守ってもらいたい」ということなのです。

そして大見出しに明らかなごとく、これがかえって裏目に出て、アメリカの戦争の下請け・傭兵になってしまうというわけだ。

しかし、わたくしはこれを読んでいて、数ヶ月前の講演との矛盾に気づいた。

「国難元年」まず日米両国に深い亀裂

二月度総幹部会だ。

そして三月度総幹部会では次のように言っている。

 もう一つ、日本が追い込まれる重大なことが、いま起きつつある。
 それは、中国とアメリカが「日本は核武装するのではないか」との疑念を懐き、警戒し始めたということであります。


あるいは次のようなくだりもある。

 そして今、戦前回帰をめざす安倍政権が登場したというわけです。安倍首相は口を開けば「日本を取り戻す」と言い、「戦後レジームからの脱却」を叫び、「自主防衛」を強調している。自主防衛というのは、詰まるところは核武装に行き着くのであります。

いかがだろうか、この頃に言っていたことは、今と明らかに違う。

ようするに浅井先生の当初のシナリオでは、昨年末の靖国参拝以降アメリカとの関係が悪化して、もとより関係の思わしくない近隣諸国ともますます険悪となり、世界の中で日本が孤立すると考えていたのだ。しかし、現実はそうならなかった。先生は四月度総幹部会で日米首脳会談にケチをつけたものの、しょせんは一つの解釈に過ぎないわけで、日米関係が思ったほどには悪くなっていないという事実は覆せなかった。ゆえに今回の講演では従来の主張を大幅に軌道修正せざるを得なかったのだ。

いや、違うかもしれない。そこまで考えていない可能性もある。ようするに行き当たりばったりで、その時に問題になっていることを取り上げているだけなのかもしれない。世間の論調を参考にしつつ自説を展開するので、実は世間の論調に引きずられて自説が変遷していることに気がつかないということも、あり得るかもしれない。

まあ、しかし、今回の講演には次のような一節があることを、いちおう紹介しておかねばならないだろう。

オバマは内心では、超国家主義的な安倍政権を信用していない。むしろ危険視している。

この一文があるので、行き当たりばったりではないのかもしれない。とすれば、過去の講演を踏まえて、自説に一貫性を持たせる努力はしていることになりそうだ。

であるならば、もう少し説明が必要だろう。安倍政権の目論見は集団的自衛権を足掛かりとして、最終的には自主防衛を目指すものだと。ここまで書けば百点満点だった。

さて、ここからはセロリ氏の後追いである。

http://blogs.yahoo.co.jp/no_sleep502goal/12533774.html

ひじょうに的確な批判だと思う。

ようするに、今回の会長講演は集団的自衛権に反対であると言っているわけだが、では、その対案は何か、ということが示されていないのである。

 私は憲法第九条だけを守っていれば平和、という考えには与しない。これは空虚な観念論です。
 だが、安倍首相の進めている集団的自衛権行使はさらに危ない。


では、どうするのか?

 日蓮大聖人の仏法を立てなければ、すべてが裏目に出るのです。かえってアメリカの戦争の下請け、アメリカの傭兵となる恐れがある。所詮、「立正安国」以外にはないのであります。

はたして、これが対案なのだろうか?

原発問題ではかなり具体的なことを論じていた。すなわち当面はガス発電、将来的には自然エネルギーにシフトすべきであると。ならば同様に集団的自衛権の問題においても具体的な対案を示すべきだろう。それとも国立戒壇が建立されれば諸天善神が守護してくれるから武力は要らないとでも言いたいのだろうか?

まさに、ここが当該講演の最大の問題点である。

浅井先生は安倍政権の発足以降、やることなすことにイチャモンをつけてきたけれども、もし政策に口を出すのであれば対案を示さなければいけないだろう。欠点だけをあげつらって、対案を示さない。それでいて結論はいつも同じである。国立戒壇を建立しなければ云々と。原発問題では対案を示していたのだから、その他の問題も同様にすべきだろう。けれども、現実はそんな簡単なものではない。必ずしも正解があるとは限らない。それが世の中である。ゆえに対案を出せないのは当然と言えば当然のことなのだが、そこで戒壇建立を持ち出すのはどうかと思う。それは一種の短絡思考である。

以上、今回の講演に限らず、自分の知らない情報がふんだんに盛り込まれている意味で、浅井先生の講演は有意義である。たぶん一般人の感想も同様だろう。しかし、ただそれだけの話である。つまり、先生の講演を読んで積極的に信心を起こす人は、残念ながらそれほど多くはないということである。

2014/6/12

梅雨空の鬱屈とした日々  
一週間ぶりの更新であるが、この間に種々のコメントが寄せられた。

沖浦氏の金メダル獲得は素晴らしいことだ。氏は有言実行の人で、しかも言ったとおりの結果を出している。これはなかなか簡単なことではない。ある意味では外に向かって決意表明することで、モチベーションを高めているのだろう。たぶん普通の人であれば、沖浦氏のマネをしても失敗するだろう。プレッシャーに押し潰されてしまうのだ。しかし、沖浦氏は違う。ようは並みの胆力の持ち主ではないということだ。

その後、土産話を二つほど書いておられるが、一つ目はなかなか素晴らしい話だったけれども、二つ目はいかがなものかと思う。

 貴方方はイスラムで、私はブッティストです。
 イスラムとブッディストは兄弟です。


イスラム教徒と仏教徒は兄弟?

何を根拠に言っているのかが問題だ。単なるお追従、いわゆる謗法容認路線であるとしたら、大問題だろう。創価学会の邪教化を示すものだ。

 結構、顕正会員の体験発表って、
「私に怨嫉した者は不幸になりました」
 みたいな感じの内容が多いでしょう?


一方の顕正会は謗法に敏感である。言い方を変えれば、敵味方をはっきりと区別するわけで、さらに言えば、白黒をはっきりさせるわけである。その結果が上掲なのだろう。

正しい信心をすれば必ず幸せになる。顕正会は正しい。だから自分は必ず幸せになれる。逆に顕正会を怨嫉する人は不幸になる。よって顕正会員であるところの自分を怨嫉する人は不幸になると。

しかし、現実は必ずしも明快ではない。

もし顕正会員の言っているとおりならば、次から次に入信するだろうし、そう簡単には退転しないだろう。いわゆる現証論である。誰がどのように見ても、これは幸福だ、あるいは不幸だという、そうした明快な現証があれば、入信するはずである。最初のうちは顕正会の組織も小さかったので、それが広く認識されることはなかった。しかし、今は相当の大組織である。ならば、いずれは雪崩現象が起きるだろう。もう、その時は近いはずだ。

しかし、繰り返しになるが、現実はそれほど明快ではない。ゆえに現状では誰も気がつかない。顕正会の内部にいるとそんな気になるだけであって、外部の人はまったく気がつかないのだ。よって雪崩現象は起きない。

関東を中心に降る雨は、土砂崩れ河川の氾濫などを引き起こしています。カラ梅雨も困るし降りすぎても困る。
世の中というものは、思うようにいかないことが多いのでしょうか。


抒情たっぷりの詩的な文章であるが、この後が本題である。いわゆる集団的自衛権の問題だ。

「集団的自衛権」特集号 第1311号

タイムリーというべきか、直近の顕正新聞のテーマがまさにこれである。五月度総幹部会の会長講演が掲載されている当該号には、わざわざ欄外に上掲のごとく記してある。

大量配布を目論んでいるのだろう。内容的にも充実していて、なかなかセンセーショナルである。一般人が読んでも面白いというか、かなり得るものがあるに違いない。たぶん浅井先生にしても自信作と思っているはずだし、本部首脳にしてもこれはイケると思っているはずだ。

これについては次回に譲りたい。

そこでもう一つ、少し前の拙稿にコメントが寄せられたので、紹介したい。

2014/6/12 3:34
投稿者:mr.x
依法不依人という大事を忘れて数集めに奔走する輩はダメですね。お仕えしているお方が仏様なんだという事を忘れてしまっているのではないでしょうか。内部の様々な問題がいつまでも隠蔽され解決をみないのであれば広宣流布を口にする資格もないでしょうね。組織にとっていちばんの問題は外側の圧力などではなく内側での腐敗である事はいうまでもないですが。。


これはネパール人への折伏禁止令に関連して寄せられたコメントである。

ちなみに、この時の拙稿には次のごとく書いてある。

この手の話はすべて口頭で伝えられるだけであって、おそらく顕正新聞に書かれることはないので、ことの真相は闇の中である。

当然ながら最新の顕正新聞にも禁止令のことは書かれていない。それどころか、わたくしには腑に落ちない記事が出ているのだ。この点は瑠璃堂氏にもご確認いただきたいと思う。

ネパールにも信心口唱の潮流!
 校長・教師等が求めるように続々入信


男子部第八十六隊長の活動報告である。この記事には登壇者の顔写真とは別に、現地の写真も併せて載せられている。以下はそのキャプションである。

仏法の話に聞き入るネパール人の教師や生徒達

普通に考えれば禁止令はあり得ないと思う。

もちろん、当該記事は五月二十三日の総幹部会での登壇であるから、その後に何か問題が発覚して、そこで禁止令が発令されたという時系列はいちおう成り立つことだ。しかし、これまでの顕正会のあり方からすると、もし禁止令が事実であれば記事の掲載を取りやめるのではないかと思う。すなわち隠蔽工作である。ゆえに、こうして堂々と記事を掲載していることからすれば、禁止令そのものが間違った情報なのではないか、いわゆるガセネタだったのではないか、と思わざるを得ないのである。

さて、閲覧者諸氏はこの点をどのように考えるだろうか?


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