2014/10/21

長期休暇の前に  
ゆえあって、今月はこれが最後になるだろう。来月早々に再開するつもりだが、あるいは少し遅れるかもしれない。

さて、そこで今日の話題であるが、やはりどうしても先日来の流れを無視するわけにはいかないだろう。

現役会員でなくとも、心は浅井会長に共鳴ないし、尊敬・敬服する所があれば立派な顕正会員ですよ。

なるほど、これは一つの有力な見方である。上掲をわたくしなりに変換すれば、オマエは現役顕正会員ではないと言い張っているが、言ってることは現役顕正会員と異ならないじゃないか、という感じだろう。確かに否めない面があるのは事実だ。前回、ユタ氏と権兵衛氏を切り離して書くことにしたのは、まさにこのためである。

まあ、しかし、わたくしが浅井先生を先生・先生と書いたところで、大したことはないだろう。

こうした自らの言動に無自覚であれば、相当重症である。

無自覚ならば重症とのことだが、その意味では軽症だと思う。つまり、自覚があるのだ。

現在の顕正会では、日顕上人を阿部日顕と呼び捨てにしている。ところがわたくしは終始一貫、日顕上人である。膨大なる過去の拙稿を隈なく調べてみるがいい。一方、浅井先生については、浅井ないし浅井昭衛と呼び捨てにしている箇所がある。全体の比率としては少ないが、あることはあるのだ。

もうこれだけで現役顕正会員と一線を画することは明白だろう。

池田大作先生への手紙

創価学会系の古い人間ならばすぐに察しがつくだろう。これは創価学会の大幹部だった人が、創価学会を離れた後に書いた本である。つまり、現役創価学会員ではない人の著作である。しかるに池田大作先生云々と。

こうした先例がある以上、単に呼称が浅井先生だからと言って、それで現役顕正会員と決め付けるのはどうかと思う。

ここでご紹介したい人物がいる。

すかいみかん@顕正会

わたくしはツイッターをやらないので直接的な交流はないのだが、この人は拙ブログをご覧になっているらしく、たまに拙稿が話題に上ることがある。結論的には情報収集の一環なのだろう、巌虎独白そのものを肯定も否定もしていないようだ。

それはともかくである。わたくしは氏のツイッターを眺めていていつも感心する。彼こそが現役顕正会員による顕正会批判の第一人者だろう。

顕正新聞9/15号。前回も指摘したが相変わらず総合女子部長の登壇はトチ狂っていた。「先生のご指導に直ちに感応する諸天の働きと思えば、(以下略)」おいおい、先生はいつから仏様になったのか。

これは九月二十日付のツイートである。やられた。先を越された。

すかいみかん氏はわたくしと似ているというか、内容的に被っている部分が少なくない。上掲などがその典型で、これはわたくしがずっと追求し続けている問題であり、当然、この記事も取り上げる予定だった。ところが諸事情により拙ブログの更新が滞ってしまって、これまで書かずじまいだったわけである。

それはさておき、すかいみかん氏とわたくしには、決定的な違いがある。そう、先ほども書いたように、彼は正真正銘の現役顕正会員なのである。わたくしは違う。

より具体的に彼我の差を示せば、彼はビデオ放映等の各種集会に参加しているが、わたくしは全面的に不参加である、ということになる。

在籍顕正会員

ヤレヤレ、である。

いわば新造語なのだろう。現役顕正会員と呼ばれるのがお嫌なら、こちらは如何ですか、みたいな感じであろうか?

正直、これもイヤだ。

強いて修正案を出すならば、残籍顕正会員、だろう。

ちなみに、わたくしは元顕正会員と呼ばれるのにも抵抗があって、たぶんそれは他の組織に移籍していないからなのだろう。たとえば宗門に帰伏して法華講員にでもなれば、これは誰が考えたって元顕正会員ということになるはずである。

そこで現在のわたくしの立場であるが、あえて名乗るとすれば、日蓮正宗系無所属、ということになる。まあ、まだ異論ないし不満はあるだろうが、この件はこれくらいで終わりにしたいと思う。

空海が業病で石室で亡くなった話

関の山氏のコメントでわからなかったのは、上掲の話である。善導和尚の話は知っているし、かつて別の人から同様のコメントを頂戴したことがある。しかし、上掲は初耳である。そこで具体的には御書のどこに出てくるのか、ご教示いただきたいと思う。

近代仏教学

これは関の山氏のコメントに頻出する言葉である。それを受けてだろうか、権兵衛氏も使っている。両者はもともと交流があるのか、それともたまたま拙ブログのコメント欄で行き会ったのか、それはわからないが、しかし、きわめて特徴的である。何が特徴的なのかは、言わずもがなのことだ。

つまり、拙ブログのコメント投稿者で近代仏教学を云々するような人は、これまで皆無だったのだ。

わたくしの素朴な疑問は、なぜに現代仏教学ではないのか、ということである。

前近代的という言葉がある。ようは一昔前の、古臭いものであって使い物にならない、時代遅れのもの、というイメージがあるのだ。ゆえに近代仏教学は現代に通用しない古臭い学問ということになるだろう。そこで頭の回転の速い人はさらにこの先の展開を想像することになる。

結論を急げば、日蓮正宗の教義はすでに百年前に打ち破られている、ということなのだろう。

百年前というのはあくまでアバウトな数字に過ぎないが、おそらくは明治以降に流入した西洋文化が仏教学そのものにも革命的な影響を与えたのだろう。すでにその時点で古い仏教はことごとく打ち破られている。日蓮正宗も例外ではない。

以上はわたくしの勝手な想像に過ぎないが、なぜ現代仏教学ではなく近代仏教学なのか、もし近代に固執する意味があるのだとしたら、おそらくは上述のようなことなのだろう。

当然ながら、これについてはわたくの立場としても反論を述べなければいけないが、正直なところ、ひじょうに荷の重い話である。

2014/10/17

大会委員長・講評  
秋の大運動会は参加人数こそ少ないものの、白熱した戦いが繰り広げられ、観客を大いに沸かせた。なぜか春の大運動会のほうにエントリーしてしまった人がいたけれども、そこはご愛嬌ということにしておこう。

それにしても面白いものである。本人が現役顕正会員ではないと言っているのに、それを覆そうと躍起になっている人たちがいるのだ。不思議な現象だ。

オマエがやったんだろ? 正直に答えろ!

いいえ、やってません。

ウソをつけ、オマエがやったんだ!

いいえ、違います。

いつまでシラを切るつもりなんだ?

いいえ、事実を述べているだけです。

こ、この野郎、警察をなめんなよ!


小説のネタになりそうな話であるが、前置きはこのくらいにして、話を進めよう。ユタ氏と権兵衛氏ではその主張に違いがあるので別々に取り上げることにする。

ユタ氏のそれは現役顕正会員の定義を恣意的に作って、わたくしを強引に当てはめようとしている。結論部分を紹介しよう。

 顕正会側からも、宗門側からも、
「10年間、化石化しているだけの現役顕正会員」
 と、あなたは定義付けられるはずです。


反論は浅井先生に述べてもらうことにする。顕正新聞第1322号掲載の九月度総幹部会会長講演である。

 夫婦の離婚よりずっと簡単でしょ(大笑)。離婚はそう簡単にできない(笑)。一方が「いやになった」と言ったって、相手が同意しなければ成立しない。どうしても離婚したければ、裁判ということになる。

これは男子部大会のおさらいの話であるが、ようは日米安保の解消もあり得るということを、夫婦の離婚を引き合いに出して説明しているくだりである。

これが現役顕正会員か否かの話とどのように結びつくかと言えば、顕正会への加入・脱退は個人の自由意志が最大限尊重され、そこに法的拘束力は存在しないということである。夫婦の離婚は面倒臭い。それは法的な手続きが必要だからだ。では、恋人の場合はどうか? もし十年間、まったく交流がなければ、二人の関係は終わっていることになるだろう。もちろん、ここには時効などの法的概念が適用されないので、今は十年と書いたがあるいは一年かもしれないし一ヶ月かもしれない、あるいは十日かもしれないし一週間かもしれない、ようするに個々人の主観によって時間に長短があるわけだ。

顕正会の実態はご存知のごとく定着率がひじょうに悪い。今現在の公称会員数は百六十数万を謳っているわけだが、先般の男子部大会は五万人の結集である。その五万人すらもアヤシイと言われているわけだ。

これらを勘案すれば、夫婦の離婚より簡単とされる安保解消よりも、さらに簡単なのが顕正会への加入・脱退だろう。

以上、わたくし自身は脱退届けを出していない、それは事実であるが、さりとてそれが現役顕正会員だとの証明にはならないことは、上述のことで充分に理解が得られるのではないかと思う。

10年間、化石化しているだけの現役顕正会員・・・

再掲である。一般論としてはどうだろう、たとえばスポーツ選手である。十年間、競技から遠ざかっていれば、これはもう事実上の引退だろう。しかし、小説家などであれば違うかもしれない。十年かけて大作を書くとか、十年の充電期間を経て執筆再開だとか、いかにもありそうだ。

顕正会の場合、数年前まで化石ないし化石化という表現が多用されていた。しかし、最近は鳴りを潜めていて、今はもっぱら未活動が使われている。いずれにしても化石化の現役顕正会員だとか未活動の現役顕正会員とは言わない。やはり一般的な意味も含めて、現役というのは活動会員を指すものなのである。

ただし、化石信心という表現があって、この場合、大きくは二つの意味があった。一つには今の未活動と同義で、ようするに組織から完全に離れてしまっているケースである。そしてもう一つの意味は、組織には辛うじて付いているがきわめて消極的で折伏などの御奉公はしない、という感じである。つまり、集会への参加を呼びかければ重い腰を上げて参加するわけで、過日の五万人の中には相当数、そのような人が含まれていたと考えられる。もちろん、そこにわたくしは含まれない。強いて言えば前者に含まれるわけだ。

以上の理由から、わたくしを現役顕正会員と定義するのは間違いである。

さて、ここまではユタ氏の主張を全否定するかのような書き方だったが、最後に氏の主張を汲み取るべく書いておかねばならないことがある。

私は昭和○○年に創価学会に入信しました。十年ほど熱心に活動しましたが、徐々に熱が冷めて行き、やがて組織から離れました。しかし、御遺命に背いた組織に籍を置いていて身の保つはずもなく、次々と不幸が起きてまいりました。

これはわたくしが今、当てずっぽうに書いたものであるが、顕正会に詳しい人ならばすぐに察しがつくだろう。いわゆる正義にめざめてをモチーフにしたものである。
顕正会の活動会員が創価学会員を折伏する場合、当然ながら相手のリアクションによって進行方向が変わってくる。もし相手が教義に詳しい人ならばガチの法論となる。しかし、そうじゃない場合も少なくない。極端な話、顕正会で言う化石会員ないし未活会員のような創価学会員に当たる場合もある。そこで上掲の例題が活きてくるのだ。
彼らは顕正会の折伏を面倒に思っている。創価学会で懲りているので顕正会に入ろうという気が起きない。そこで顕正会側の人間が決まって言うセリフがある。

創価学会にいると不幸になりますよ。アナタはすでに組織を離れていると言うが、籍を置いているだけでも罪障を積むことになるんです。一刻も早く顕正会に入って罪障消滅の信心をしましょう。

これも当てずっぽうに書いたものだが、現場ではおおむねこんなことが言われているわけである。

ひるがえってユタ氏の発言を読み解くならば、なるほど彼は元顕正会員・現法華講員の立場として、わたくしを折伏してくれているのだろう。そしてわたくしを現役顕正会員の枠にはめ込むのは、まさしく罪障を積む意味においては現役顕正会員と異ならないからなのだろう。

これは顕正会の論理を逆手に取ればまさにそのとおりであって、宗門を正義・顕正会を邪義と規定すればまったく反論の余地のないところである。宗門シンパのわたくしにとっては、ひじょうに苦しいところだ。

次に権兵衛氏、それから関の山氏のコメントについても書くつもりだったが、疲れたので割愛したい。

2014/10/12

秋の大運動会  
前回の続きを書く予定だったが、そうも行かないようである。その前に、種々の誤解を払拭しておかねばなるまい。

顕正会の主義主張が云々ありましたが、だからと言って人としてそんな冒涜論理を述べてよいわけではない、単なる言い訳です。

これに連動して、権兵衛氏やのび太氏ないしユタ氏が息巻いているようだが、誤解も甚だしい。

某ブロガーが自然現象をカルト的に説明するのもどうかと思いますが、それを思想信条だと擁護する管理人さんもおかしいですよね。

中立を装い顕○会擁護の論評をする・・・

 だからどうしても顕正会擁護に回るのは、致し方無い
ことだと思います。


擁護?

何を言っておるものかと思う。まるで物の道理が見えていない。

わたくしは前々回、一見すると顕正会擁護のように映るかもしれないがそうではない、という意味を書いた。まずはこれを見落としてもらっては困る。そして何よりも全体の文脈を理解すべきである。

さて、それはそれとして、関の山氏のコメントが不可解である。少し長くなるが、全文引用したい。

全文を引用したわりには、さして批判を書いていない。具体的には最後のワンセンテンスをあげつらっただけなのだ。

つまり、謝罪撤回を求めるのならば先方のブログに書き込むのが筋だろう、拙ブログのコメント欄に書き込んでどうするつもりなのか、という趣旨である。これのいったいどこが擁護なのだろうか?

そして次が大事なところである。わたくしは、バーズ氏らは謝罪も撤回もしないだろう、なぜならそれが顕正会の主義主張だからである、と書いた。これのいったいどこが擁護なのかと言いたい。事実をありのままに書いただけである。

賢明な読者ならば充分理解が可能と思うが、わたくしは関の山氏のコメントを全文引用したものの、実質的にはほとんど批判を加えていないのだ。唯一、最後のワンセンテンスを取り上げ、不可解であると書いただけである。これを逆に言うと、関の山氏の主張をかなりの部分、認めていることにもなるわけである。そして、それだけ立派な主義主張を持っているのならば、先方のブログに書き込めばいいではないか、なぜにそうしないのか、ということなのである。しかし、繰り返し言うようだが、たとえ先方のブログに書き込んだところで相手は謝罪も撤回もしない、それが彼らの主義主張だからである。

こんなのは擁護でもなんでもない、事実を書いただけの話だ。

まあ、しかし、これでは収まらないだろう。

では、巌虎は顕正会の主義主張に賛成なのか反対なのか、逃げずに答えよ、という質問があって当然である。

これは難問であってわたくしとしてもひじょうに困るわけだが、すでに答えの片鱗は前々回の拙稿にあらわれていることである。

ちなみに、顕正新聞第1320号の六面に載る婦人部広島支区部長の記事には、次のごとく書かれている。

これは広島豪雨の話で、ようは顕正会に敵対する住民や謗法の神社仏閣が多く存在する地域が被害に見舞われたと言っているわけである。関の山氏が問題視したのは御嶽山噴火の折のバーズ氏らの言動であるが、構造的にはまったく同じである。

現時点では御嶽山関連の記事報道はない。もちろん顕正新聞においてである。ゆえにわたくしは近似の事例として広島豪雨の記事を紹介した。

この意味をお考えいただきたいものだ。

いかにヒマ人であっても、膨大な記事の中から適切な事例を抜き出すことは、簡単ではない。では、なぜにわたくしにはそれが可能だったのかと言えば、問題意識を持っていたからだ。つまり、ブログのネタとして書く用意があったのだ。

前回は国難元年について批判した。今年は確かに自然災害が多いようにも感じられるが、それはあくまで漠然とした印象に過ぎない。客観的なデータが求められるところである。

これ以降の記述も答えの片鱗である。

顕正会で言うところの罰の現証だとか謗法の害毒は、大聖人の御指南に基づくものではあるが、その運用方法がきわめて恣意的になっている面が否めない。ようは自分たちに都合よく解釈してしまっているということだ。そして大聖人の時代は統計学などなかったので致し方のない面があるけれども、今はそうした学問が発達しているのだから恣意的な解釈ではなく客観的な尺度でもって、たとえば顕正会員とそれ以外の人たちの健康度調査を比較したらどうなるかなど、いくらでも方法はあるはずなのだ。

結論として、顕正会の現証論はその大半が短絡的ないし恣意的であり、きわめて客観性に乏しい、と言わざるを得ないだろう。

さて、もう一仕事である。

こうやって同じ会に属しているのに、私は現役顕正会員だが、顕正会の運動とは是々非々、とやらは、まるで「クレタ人のパラドックス」のようです。

クレタ人のパラドックス?

不勉強のわたくしには何が何やらさっぱりわからず、大急ぎで調べてみたがそれでもよくわからなかった。哲学だか論理学だかの、小難しい話のようであるが、たぶん「わけがわからん」というのが一つの結論であって、巌虎はわけのわからんヤツだ、という意味を言いたいがために引き合いに出したのではないかと思われる。

だとすれば、それは大正解であるが、しかし、基本的な部分に誤解がある。

わたくしは現役顕正会員ではない。ゆえに同じ会に属しているとは言えない。

よって、この基本情報をインプットし直してから、再度、人物鑑定(?)をされるといいだろう。もっとも、それでもわけのわからんヤツであることには変わりがないと思うが・・・

 いくら中立を装うとも、厳虎さんは明確に脱会の意思を示したわけではないので、やはり現役の顕正会員なんですよ。

何を言っておるものかと思う。九月十七日の拙稿をお忘れだろうか?

ご存じない人のために書いておくが、わたくしは平成十六年の秋に顕正会を離脱して以来、一度も顕正会の催しには参加していない。もちろん、会館等にも近づいたことがない。

つまり、丸十年である。この十年間、集会等にはまったく参加せず、会館・事務所等にも足を踏み入れたことがないのである。これを現役の顕正会員と呼ぶのはさすがに無理があるだろう。

この意味では悪質コメンテーターを自認(?)する、のび太氏のほうが的確だかもしれない。

中立を装いながら、実は顕○会親派!

もっとも、わたくし自身は顕正会シンパのつもりはなく、実は宗門シンパのつもりなのである。

2014/10/9

五万人結集の欺瞞について  
昨夜の、のび太氏のコメントは、かなり悪質である。出典不明の文章を貼り付けているわけだが、これはもう悪意丸出しの文章と言わざるを得ないだろう。とりわけ最後の部分が問題だ。

最近の公的(幹部会や、顕正新聞には載らない)な場ではない所での浅井の指導の中には、会員を多く拡大するには多少の犯罪行為は気にするな、拡大せよとの指導もあったと聞きます。

まず、どうでもいいことから書くと、ここはアホ丸出しの文章である。ようするにカッコ書きの位置が不適切なのだ。

最近の公的(幹部会や、顕正新聞には載らない)な場ではない所での・・・

最近の公的な場ではない(幹部会や、顕正新聞には載らない)所での・・・


上段が原文、下段がわたくし流の修正案だ。わたくし流とは書いたものの、おそらく一般の教育水準に達している人ならば、誰だって同じように書くだろう。

それはともかくとして、問題は続きの部分にある。再掲しよう。

会員を多く拡大するには多少の犯罪行為は気にするな、拡大せよ・・・

これも余計なこと書いておくと、多く拡大するはヘンだろう。こういうのを重複表現という。

それはともかく、この筆者は挙証責任を果たせるのだろうか?

彼は浅井先生が上掲のような発言をしたと言っているわけだが、それをいったいどうやって証明するのだろうか?

誰かから聞いたのだそうである。いったい、いつ、どこで、どのようにして、聞いたのだろうか?

幹部会や顕正新聞には載らないということは、きわめて上層部のごく少数の大幹部を対象にしての発言と考えられる。おいおい、本当かよ、と言いたいところだ。もし彼の言っていることが本当ならば、大幹部の中にスパイがいることになる。これは凄いことだ。

ここまで書けば充分だろう。

たぶん顕正会本部としては一々相手にしていたらキリがないので放置するだろうが、もし法的に訴えられたら大変なことになるだろう。その覚悟があって書いているのかどうか、何も考えずに書いているのならば、即刻撤収されたほうがよろしかろうと思う。

このように、わたくしが強気でいられるのは、実に簡単な話である。本当のことしか書かないからだ。

かつて顕正会の中にいて経験したこと、そして今は顕正新聞の中から、問題点を抽出して批判を書いているわけである。だから逆に、ガセネタだとか不確かな伝聞だけでいい加減なことを書いているのを見ると、オマエ何やってんの? と言いたくなるのだ。

さて、そこで今日の話題であるが、せっかくなので男子部大会のことを書こう。最初にわたくしの結論を書いてしまうが、あえて太字で書く。

壮大なる詐欺

顕正新聞第1321号は「男子部大会」特集号と銘打たれている。なかなか充実した紙面であり、読み応えバツグンであるが、しかし、褒めてばかりはいられない。結論は上掲のごとくである。

まず、すでに周知のごとく、五万結集はウソである。当該会場にはそこまでのキャパシティはない。では、具体的には何人集まったのかであるが、それはわたくしの知ったことではない。わたくしの知り得ることは顕正新聞の記述からである。

立正安国の熱情たぎる五万男子部大会

この日、会長・浅井先生のもとに馳せ参じた男子精鋭は実に五万人。

満場の五万男子も心は一つ、

日本はもとより海外十四ヶ国からも馳せ参じた五万男子の

五万男子は命の底から同心し、

先生の烈々の気魄は五万男子の魂をゆさぶった。

五万男子が総起立。


第一面から、五万をキーワードに拾い集めたものである。ぜんぶのページから集めようと思ったが、断念した。もうこれだけで充分だろう。

一つだけ五万人となっているが、あとはことごとく五万である。これはやはり多少は後ろめたい気持ちがあるのかもしれない。五万人と言ってしまうと、五万キッカリを意味するような印象が強い。一方、五万男子の表現はややアバウトさがあって、切り捨て・切り上げが許されるような印象がある。

いや、もちろん、そんなのはオマエの勝手な印象に過ぎない、と言われればそれはそのとおりだろう。

では、聞きたい。五万、五万と言うが、では本当に五万キッカリだったのかと。

そんなことはあるまい。たぶん、切り上げの数字である。切り捨てであることは考えられない。なぜなら、その場合は五万突破だとか五万有余などと書くはずだからである。

また、もし仮に五万キッカリだったとしたら、その不思議を強調するに違いない。わたくしならば、大人数ゆえに誤差はあるかもしれないが集計の結果が五万丁度だったことは不思議の一語に尽きる、みたいなことを書くだろう。

以上、実際の結集が三万人だったのか四万人だったのか、わたくしにはまったくわからないが、五万人に達していないことは確実だろう。これが壮大なる詐欺の一局面である。

そして、壮大なる詐欺にはもう一つ、重要な局面がある。それがどこにあらわれているかと言えば、それはまさに会長講演である。

詳細は次回に譲りたい。

2014/10/8

極限状態の最中に  
沖浦氏とユタ氏には、心から感謝申し上げたい。

さて、それはそれとして、関の山氏のコメントが不可解である。少し長くなるが、全文引用したい。

2014/10/3 16:53
投稿者:関の山
御嶽山被災者の方に心よりお見舞い申し上げます。

宗派関係なく、この様な自然災害被害を宗教教義で論じるのは、鎌倉時代ならともかく、現在は非科学的、非常識論議で、被災者に苦痛を与える不謹慎な発言になりますので控えるべきと思います。


まだ、この時点においてはさほど問題を感じない。この後、沖浦氏が賛同のコメントを寄せているが、わたくし的には異論があるものの、さして咎めるほどのものではない。いつもの沖浦節の範疇だろう。問題は次だ。

2014/10/7 15:10
投稿者:関の山
そう思っていましたら、バーズ氏ブログに軍楽なる者の心無い投稿がされていました。

>今回の御嶽山の噴火による犠牲者、謗法の罰でしょうかね。ほとんどの遺体が、神社近くで見つかったということですから。こんな書き方したら、犠牲者のご家族の方たちに、非難されそうですけどね。お気の毒としか言いようがない。


犠牲者の方々は神社に駆け込み必死に助かろうとしたと思いますよ。それを「謗法の罰」とは!何んて冷たい!思いやりのない身勝手な考えでしょうか!

大体犠牲者の方々は神社信仰の方なのか?それを証明できるのか?
火山噴火でシェルターとして必死に神社に逃れて助かろうとしたのが何故に「謗法の罰」になるのだ?
 
「神社の近く」? ならば顕正会員が災害に合い、たまたま寺社や教会の近くであったら「謗法の罰」になるのか? 

今回の件は被災者、遺族の神経を逆撫でする大変不謹慎な事であると思います。軍楽某氏とバーズ氏には撤回と謝罪を求めたいと思います。


何が不可解かと言えば、それはまさに最後の一文である。

軍楽某氏とバーズ氏に撤回と謝罪を求めるのであれば、その旨を先方のブログに書き込むべきだろう。拙ブログに書き込んでも、彼らが読むとは限らない。彼らが読まない限り、関の山氏の声は届かない。となれば、謝罪も撤回もあり得ない。

いや、もちろん、たとえ関の山氏の声が彼らに届いたとしても、彼らは謝罪も撤回もしないだろう。その理由は簡単だ。

日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ

日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ


これが顕正会の主義主張だからである。

当然、これには反論があるわけで、まさに関の山氏の最初のコメントがそれである。再掲しよう。

この様な自然災害被害を宗教教義で論じるのは、鎌倉時代ならともかく、現在は非科学的、非常識論議・・・

おっしゃるとおりなのかもしれないが、それが顕正会の主義主張なのだから仕方がない。熱心な活動会員たちがその主義主張に沿った言動を行なうのは至極当然のことなのである。

ちなみに、顕正新聞第1320号の六面に載る婦人部広島支区部長の記事には、次のごとく書かれている。

 災害を受けた地域は、一年前に「立正安国論」特集号を配布した所であり、「広島は災害が少ないから大丈夫」と笑い、また怒って拒否する人も多く、学会の拠点や「顕正会員お断り」の張り紙がある家、山頂には水の神が祀られた謗法の神社や日蓮宗の寺もあり、「大聖人様にいつまで背き続けるのか」と、諸天が諫める厳然たる賞罰に身震いしました。

以上、ネット上で謝罪撤回を求めることが無意味だとは言わないが、どうせならば直接、顕正会本部か顕正新聞社に抗議したほうがいいだろう。

さて、一見すると、ここまでは顕正会擁護のように読めるかもしれないが、しかし、拙ブログの愛読者ならば、わたくしがそんな人間ではないことは百も承知のはずである。

臨終の体験談

難病克服の体験談

前回は国難元年について批判した。今年は確かに自然災害が多いようにも感じられるが、それはあくまで漠然とした印象に過ぎない。客観的なデータが求められるところである。

同様の意味で体験発表などにおいても客観性が求められる。そこで提案である。

此の疫病は念仏者・真言師・禅宗・律僧等よりも、日蓮が方にこそ多くやみ死ぬべきにて候か。いかにとして候やらむ、彼等よりもすくなくやみ、すくなく死に候は不思議にをぼへ候。人のすくなき故か。又御信心の強盛なるか。

当時は今日のような統計手法が確立していなかったので、大聖人の仰せも控えめだ。わりと公平性の保たれた御表現ではないかと思う。ところが今日の体験発表はその大半が主観のオンパレードであり、きわめて客観性に乏しいと言わざるを得ないのだ。

そこで提案の中身であるが、厚生労働省が出しているさまざまな統計データを参考にして、顕正会でも同様のデータを取ってみればいいのだ。たとえば癌死の割合だとか、あるいは難病の罹患率だとか克服率だとか、これらが厚労省のデータよりも好ましい結果ならば、顕正会には功徳(利益)があることになるだろう。

もっとも自分たちだけでそれをやると誰も信用しないだろうから、最終的には第三者機関にでも調べてもらわないといけなくなりそうである。

はたしてどんな結果が出るか、興味深いところだ。

2014/10/1

極限状態を迎えて  
先月は四回しか投稿しなかった。拙ブログ始まって以来の低頻度更新だった。

それにもかかわらず、わりとアクセス数は安定しているようだし、コメント投稿もある。これではわたくしも、なかなかフェードアウトできそうにない。

新幹線は素晴らしい。このシンカンセンという語感は決してナウくないし、斬新さもない。しかし、夢の超特急であり、子供たちの憧れだった。はたして今の子供たちにとってはどうなのか知らないが、少なくともわたくしたちの世代にとってはカッコイイ乗り物の一つだった。

その新幹線も開業当初に比べると最高速度が格段に上がったそうである。しかし、もう充分すぎるだろう。

ところが今度はリニア新幹線なるものをやろうとしている。わたくし個人はこれに反対である。そんなに急いでどうするのかと思う。

 「原発は機械です。
 機械は必ず故障します。
 操作するのは人間です。
 人間は必ずミスを犯します。
 ですので全ての原発は、何時か必ず重大事故を起こします。」


これはすべてに当てはまることで、卑近な例では自動車がわかりやすい。車の性能だって格段の進歩を遂げていて、時速三百キロを超える車もざらにある。日本のメーカーだって、その気になればいくらでも作れるはずだ。しかし、実用性がない。日本には法定速度があって、そんなベラボウなスピードを出してはいけないのだ。

日本全国至るところで速度違反の取り締まりが行なわれているが、もしこれが行なわれなかったら、さらには法定速度が全面的に撤廃されたら、つまり、自己責任でいくらでもスピードを出していいことになったら、おそらくは事故が激増することだろう。

では、法定速度さえ守っていれば事故が起きないのかと問えば、それは違うだろう。なぜなら人間は必ずミスをするからだ。

原発も同じである。

何も事故を起こしたくて起こすわけではない。むしろ原発の場合、反対論者が多い分、よりいっそうの安全対策が求められるわけで、推進側としてもそのことに腐心してきたはずなのである。平たく言えば、敵からのツッコミを想定して細心の注意を払ってきたわけだ。

たぶんこの意味で、事故の頻度はきわめて低いのだと思う。しかし、ゼロではない。しかも一度事故が起こればその被害は甚大である。

原発の再稼動の是非はこの点を踏まえて論ずるべきだろう。

こちらの管理者さんは、敵を作らない主義ですので、バーズさんのことも本音は聞けないと思いますよ。

じゃっかんの補足をしておけば、わたくし自身もけっこう老獪なところがあって、読者を翻弄しているような意味もあるのだ。また、敵を作らないのではなく、都合の悪そうなコメントには触れずにやり過ごすのが、わたくしの常套手段なのだ。

さて、つい先日、御嶽山が噴火した。

この山はなぜか人気があって、秋の行楽シーズンということもあるのだろう、噴火の日には大勢の登山客がいて、被害に遭った。本日現在も捜索が続けられていて、被害の全貌は未だ不明であるが、この手の事故としては最大規模かもしれない。

これも浅井先生の言う国難元年を象徴する出来事となるのだろうか?

今さらながら八月度総幹部会の会長講演を取り上げよう。顕正新聞第1319号の二面から三面にかけて講演が載っているわけだが、三面の下段には読売新聞社提供の凄まじい写真が掲載されている。あの広島豪雨の写真だ。

当然、このことは講演の中でも取り上げられているわけだが、わたくしにはじゃっかんの異論がある。まずは大見出しの一つをご覧いただこう。

国土の災害・人心の荒廃いよいよ激し

国土の災害は後回しにして、先に人心の荒廃云々について取り上げよう。

高一女子生徒が
  首を切り落とす


講演の本文は省略するが、おそらくはこの小見出しだけで充分だろう。

結論を言えば、こうした猟奇的な殺人事件は今に始まったことではなく、昔からあったのだ。だが、しかし、若い活動会員たちは知らない。ゆえに浅井先生の言うことを鵜呑みにしてしまう。

数ある猟奇的事件の中でも、おそらく人々の記憶に鮮烈に残っているのは、神戸連続児童殺傷事件であろう。何を隠そう、このことは浅井先生自らが平成九年の諫暁書に記すところである。

また最近神戸市で起きた、いとけなき小学六年生の生首事件のごときは、その残忍卑劣において史上例を見ない。

人心の荒廃は今に始まったことではない。よって、くだんの高一女子生徒の事件が国難元年の客観的な証明とはならない。

では、国土の災害についてはどうか、広島豪雨がその証明となるのだろうか?

わたくしは否だと思う。

昨年の伊豆大島豪雨、あるいは一昨年の紀伊半島豪雨、これらを検索されたい。さらには室戸台風、伊勢湾台風なども調べるといいだろう。

誤解のないように書き添えておくが、わたくしは広島豪雨を大したことがないと言っているのではない。これはもうベラボウな大災害である。けれどもこれだけが突出しているわけではなく、委細に調べれば同じような災害がたくさん起こっているのである。ゆえに現証論として、本年が国難元年と言い得るかどうかは甚だ疑問である、ということなのだ。

大災害の最中
  ゴルフに興ずる


安倍首相の行動である。わたくしの見るところ、なぜかこのことは新聞・テレビではあまり取り上げられなかったように思う。彼らは報道マンとしての魂を売ってしまったのだろうか?

顕正会の安倍批判はやや過剰のようにも感じられるが、大マスコミのだらしなさを思えば、それなりに有意義なことなのかもしれない。


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