2014/11/14

三氏への返信  
さっそく各方面から有意義なコメントを頂戴しているので取り上げたいと思う。溜まりに溜まった顕正新聞を片付ける仕事(?)もあるのだが、それは後回しというか、場合によっては省略してしまってもいいだろう。顕正会の本質的な問題はすでに明らかであって、必ずしも毎号チェックしなければいけないことでもないからだ。

紹介したように取り巻く環境は変化の連続です。

どうも年内の解散総選挙が現実味を帯びてきました。

私は、選挙の結果次第で政局は流動化すると見ています。


のび太氏のコメントの一部である。氏は変化に敏感だ。最初の行は、今回の創価学会における本尊についての新見解を意味するのだろうが、それに続いて年内の解散総選挙のことを書いておられる。仏法・世法の両面にわたって激動の変化を示しているわけだ。選挙の結果次第で政局が流動化するというのは、もちろんそのとおりだろう。この辺が難しいところで、与党が負けた場合どうなるか、より具体的にはその負け幅がどのくらいかによっても状況が変わってくるだろうから、現時点でこれを正確に読み取ることは誰にもできない。いずれにしても庶民にとっては景気の問題、そして消費増税の問題、ここらが切実な問題であって、誰が政権を取っても構わないのでともかく景気をよくしてほしい、可能ならば増税をやめてもらいたい、というのが一般的な意見ではないかと思う。

そもそも今なぜ解散総選挙なのか、その積極的な理由がわからない。その唐突さがわからない。たまたま聴いていたラジオでも、大義名分がはっきりしないというような意味をコメンテーターが言っていた。

こういうことを書くと問題かもしれないが、わたくしの思うに、安倍首相は自分から辞めるわけにはいかない、またかよ、同じことの繰り返しじゃないか、ということでいわば汚名を残すことになるので辞められない、だから一つの幕引きの方法として解散総選挙を考えたのではないかと。
ようするにアベノミクスは失敗だったわけで、株価がどうのこうの言っても庶民の生活には関係ない、庶民の生活実感が改善されない限りは失敗なのである。どうやらその結論が見えてきて、もはやどうにもならない泥沼にハマってしまっていることに気がついたのではないか、というのがわたくしの見方である。
ゆえに総選挙をやって自民党が議席を減らすだろうことは誰もが予想するところではあるが、それでもギリギリで勝ったとすると実は困るのだ。ようするに逃げ出すことができない。いつまでも泥沼の中でもがき続けなければいけなくなる。

ひじょうに酷な見方ではあるが、けっこう核心を突いているのではないかと思う。実は同様の意味で、もし仮に野党が勝利しても彼らは苦しむことになる。いわば日本そのものが助かる見込みのない重症患者みたいなものだからである。

この件はひとまず、これくらいにしておこう。

一昨日の沖浦氏のコメントはわりと秀逸だと思った。御書の引用もなかなかのもので、やや難解ながらもわたくしなりに理解させていただいた。

 人間革命出来ない方々が、他宗を責めてもダメですね。

最後の一行だけ紹介させていただくが、ここはひじょうに難しいところで、では人格者にならないと折伏できないのか、ということにもなりかねない。折伏そのものが一つの仏道修行であって、それによって人格が磨かれていくという側面もあるからだ。

おそらくここは成果主義の弊害という視点から読み解くべきなのだろう。

今現在の顕正会、あるいはかつての創価学会、これらは世間から物凄く嫌われているし、嫌われていた。なぜならば相手を救いたいという慈悲の精神ではなく、目先の成果に追われて折伏するからである。その上、折伏とは破折屈伏の意味であるから言い切らないといけない、最後はしっかりと罰を言い切りなさい、と来るわけである。これでは反感を買うのも当然である。この辺は微妙なところであって簡単には分別できないが、成果に追われての折伏と慈悲に基づく折伏では話している内容が同じでも相手に伝わるものが違うということなのだろう。全体として沖浦氏のコメントはこのような意味なのだと理解した。

そして今朝のコメントであるが、これについてはしばらく沈黙したいと思う。

たぶん宗門のほうでも何らかの反応を示すだろうし、顕正会でも浅井先生が何かしら言うに違いない。ネット上ではすでに法華講の諸氏がいろいろ言っているし、当の創価学会員の間でもさまざまのことが言われている。この意味で今回の創価学会の新見解は歴史的な大事件とも言えるわけだが、しかし、しょせんは第一歩に過ぎないのだと思う。おそらく本部首脳は内外の反応を窺いながら、次の一手を模索しているはずである。そんなわけで、あわてる必要もあるまい。わたくしなりにゆっくり考えて、いずれ書こうかと思う。

関の山氏から懇切丁寧な返信をたまわった。

ブーメランについてはそのとおりかと思う。むしろ、わたくしはそれを恐れて口をつぐむのではなく、ブーメランが戻ってくるのを喜んで受け留めたい。取り損ねて痛い思いをするのも一興だ。

そしてご紹介のリンクと次のキーワードがありがたかった。

空海のハンセン氏病説は「性霊集補闕抄」

わたくしの結論は、どうやら御書にはそのような記述はないらしい、ということである。

御書の一文一句を知悉しているわけではないが、少なくとも平成新編所収の御書にはそうした記述は見当たらないと思われる。もちろん、これから調べ直したいとは思うものの、すぐには無理だ。全編を通読するのに一年くらいは掛かる。ゆえに現時点では上述のように、・・・らしい、という結論に止めたわけだが、傍証的には次の樋田発言が有効だろう。

https://www.youtube.com/watch?v=YGQ8e65THIQ

樋田氏はこの最後のほうで、俗説かもしれない云々、と言っている。つまり、御書にはないと考えられるのだ。

すると関の山氏ご紹介のリンク先の記述は何なのだろうか?

 日蓮大聖人様は、様々な証拠をあげて「空海は癩病(らいびょう)で死んだ」と言われています。癩病(らいびょう)になって顔が溶けているので、顔が人に見せられないのです。「空海は業病を発して死んだ」と言われています。

二つ目のリンク先では、カッコ書きで(諸説はあるが)と断っているのでまだしも、上掲は大問題である。

それから未確認ながら、

顕正会の富士に真言宗批判として載っていた記事・・・

これも事実ならば問題だろう。ある意味、顕正会らしからぬ、ことである。

ともかく、御書にあるかないか、これが大前提になるのだと思う。少なくとも大聖人は空海よりも後の御出現であられるわけだから、その説が正しいのであれば当然採用されたであろう。しかるに御書にはそうした記述がないらしいのである。ならば不採用ということだ。それを後世の我々が真言宗破折に好都合だからといって使うのはいかがなものかと言わざるを得ない。わたくしに言わせれば、不見識のきわみである。


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