2015/1/5

本年最初の関門  
セロリ氏に申し上げておくと、もちろん今のスタンスで結構だと思う。顕正会破折において、ひじょうに力を発揮しておられる。同じことを宗門に向けて行なえば、これまた、ひじょうに鋭い破折になるに違いない。しかし、普通はそういうことをしない。当たり前のことである。

むしろ法華講員ではなく、僧侶たちこそが積極的に自己批判を行なうべきなのだが、なかなか実現しない。彼らもウカツなことをするとクビになってしまうので、思っていても言えないのだろう。これは致し方がないところだろう。

早朝の沖浦氏のコメントは不謹慎ながら苦笑を禁じ得なかった。顕正会員顔負けの浅薄なる功徳論だ。

ある時、薬品会社に行く機会があって、そこの工場を見学していて驚いたことがある。そこの従業員は全員がメガネを掛けていたのである。最初は眼の悪い人が多いのかと思っていたが、そうではなかった。ようはそこの規則で勤務中はメガネ着用が義務付けられていたのだった。薬品会社に限らず、化学工場全般がそういうものらしく、常時着用が義務の場合もあれば必要に応じてというケースもあるのだと思う。

おそらくこれは国が定めている労働規則のいずれかに当てはまるのだろう。労働者の安全を守るためにさまざまの法律ないし規則があって、多くは会社側が責任を持って安全の措置を講ずることになっているわけだ。

たぶん沖浦氏は個人事業主みたいな立場であり、自分で作業をする範囲においては、そういう細かい規則に囚われる必要性がないのだろう。もし従業員がいらっしゃるのであれば、作業中はメガネを掛けさせるなどの周知徹底を行ない、安全には細心の注意を払ったほうがよろしかろうと思う。余計なお世話のようだが、大事なところなので一言述べさせていただいた次第である。

 御馬前と言う言葉は、戸田先生の青年訓の影響でしょうね。

なるほど、浅井先生が戸田氏の影響を受けているだろうことは、多くの人が指摘するところなので、あるいはこれもそうなのかもしれない。

いずれにしても古い言葉である。現代と戸田氏の時代は近接しているとは言え、およそ半世紀のズレがある。ゆえに当時の表現としては相当だったとしても、現代においてはどうかという問題がある。この辺が今後の顕正会の課題なのかもしれない。

自己防衛だけに終始していますね。

これは大石寺系のDNAです。


元法華講氏の、これはさすがに言い過ぎだろう。人間誰しも自己防衛本能を持っている。ゆえに大石寺系だけをあげつらうのは間違いだと思う。氏が拙ブログに登場してから一ヶ月有余が経つが、これまでの書き込みで氏の性向がわかってきた。

正宗系のように活動的教団は良くも悪くも社会に影響を及ぼします。それなので何時までも正宗系、大石寺教学を指針に正か間違いか検証しても意味がないのではしょうか? 京都などの観光地化した古刹寺院、墓檀家しかいない寺院ならともかく、自らの宗教以外は邪と信ずる教団です。なので、歴代の法主が云々は自らの宗教が正しいと確信の上の思想です。
もし検証されるのならば、国立戒壇でも本門戒壇でも本門寺でもその思想のバックボーンは正しいか?歴史文献はどうなのか?偽文献ではないのか?時代錯誤ではないか?などの検証すべきで、歴代の法主がこう言ったなどは内輪だけの問題でしょう。


同様の意味で、関の山氏がどのような人であるかもわかってきた。氏は去年の夏頃からコメントを寄せるようになったのだと思う。文章にはその人の本質があらわれると言われたりもするが、もちろんそれを読み取る側の力量もあるわけだが、この数ヶ月で大体わかってきた。

そこで上掲について思うところを書いておこう。

沖浦氏がかつて盛んに言っていたことで、内部規定ということがある。法華講員が日寛上人の御指南を引用したりすると、そんなものは日蓮正宗の内部規定だから関係ないみたいなことを言うのだ。上掲の内輪だけの問題云々がまさにそれであって、確かにそれを言われるとこちらも返す言葉がないというのが本当のところである。

わたくしはこれまで、御書の真偽については深入りしないという立場を貫いてきた。これについても正直に白状してしまえば、自分にとって都合が悪いからという理由もあったわけである。ようは都合の悪いことから逃げてきた。そういう場面に遭遇しないように注意を払って生きてきた。まさしく自己防衛本能である。

角度を変えれば、安逸を貪ってきた。困難な道を回避して、楽な道ばかりを選んで歩んできた。これは怠惰以外の何ものでもないわけで、本来の大聖人の御精神とも反するものである。

しかし、これも一つの生き方であって、ダメだと言われればそれまでだが、けれどもこうした生き方しか出来ないことも事実である。先ほど、日蓮正宗の僧侶こそ自己批判を行なうべきだが現実的には難しい、これは致し方がないことだ、という意味を書いたけれども、同様である。また、わたくしは浅井先生に対する批判を書いてはいるものの、どこか生ぬるいところがあるとの自覚がある。これも同様である。

つまり、わたくしは無所属を気取っているけれども、精神的には日蓮正宗ないし顕正会に依存していて、そのシガラミから逃れることが出来ないでいるのだ。

その思想のバックボーンは正しいのか?

時代錯誤ではないのか?


わたくしなりに整理させていただくと、上掲が一括りであり、以下がもう一つの括りである。

歴史文献はどうなのか?

偽文献ではないのか?


もちろんバックボーンを探るためには史資料を渉猟しないといけないし、その史資料が偽文献であったらいけないのでその検討が必要になる。さらにその上で、はたして現代に通用する思想なのかどうかを考えるという順番なのだろうけれども、わたくしはそこまで緻密ではない。いや、そもそもが緻密以前の問題として、能力自体がないのだが・・・

そこで言えることは、わたくしにとっては日蓮大聖人こそが御本仏である。これが大前提なのだ。ゆえにバックボーンは御書である。極論すれば法華経すらも詮無しである。

すると歴史文献も御書オンリーとなる。問題は偽文献、この場合は御書の真偽についてだが、これもさして考えがあるわけではない。大石寺で発行している御書をそのまま使っている。

ここまで読んで、これじゃあ、まったく話にならん、とお思いの人もいることだろう。

それならそれで結構であるが、しかしながら、こんなテイタラクではあるけれども、いちおうは時代錯誤かどうかという問題については考えているつもりである。

わたくしだって現代人である。ゆえに現代感覚を身に備えている。御書の真偽などの本来ならば検討しなければいけないことを怠ってはいるものの、それでも現代人として現代感覚で御書を捉えた時にどうしても拭い難い乖離のようなものを感じることがあるのは事実である。

本門戒壇についても同様だ。

顕正会では本門戒壇が建立されることによって仏国が実現すると教えている。しかし、そのメカニズムを本当に理解しているかと問われれば、否である。つまり、この意味では現代感覚との齟齬ないし乖離という以前の問題として、大聖人が御遺命された本門戒壇の本当の意味がわかっていないということになる。これがわたくしの現時における到達点なのである。

繰り返しになるが、こんなテイタラクでは真偽を云々するどころの話ではないだろう。

現代人だから現代感覚で考えてしまうという側面はどうしてもある。この点は避け難いところであるけれども、さしあたってはその上で大聖人の御真意を探っていくという段階に今はいるのだと思っている。

もっとも、そういう覚悟があるのならばなおさら歴代上人がどうのこうのは関係ないではないかということにもなるわけだが、それはそれ、これはこれ、である。何しろ彼らは自分たちが構築してきた教義そのものをひっくり返してしまうようなことを言っているのだから、看過するわけにはいかないのだ。

いずれにしても、わたくしは偉そうなことを書いている割には何もわかっていない、というのが結論である。


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