2015/1/7

本年最初の激突  
前回の拙稿に対しては三人からコメントが寄せられた。まさに三者三様であり、温度差が激しい。権兵衛氏は大聖人の仏法そのものを否定する立場のごとくである。元法華講氏はそこまで過激ではなく、どうやら日興門流を否定する立場のごとくである。沖浦氏は周知のごとく、創価学会員の立場から論じている。

大聖人の仏法を否定する場合、それに取って代わる何かが用意されているのか、それとも何もないのか、そこが問題である。もし何もないとすると、そこで終わりである。
なぜかならば、沖浦氏の立場が明快である。氏は日蓮正宗を否定し、創価学会を宣揚する。つまり、受け皿を用意しているのだ。
元法華講氏も所属が明確ではないものの、他門のどこかに属しているのだろう。いちおうはそれが受け皿である。

文句ばっかり言っている人が嫌われるのは、世間全般における通例であろう。その意味で、否定するだけで何の代替案も示せない人は、嫌われるだけの存在である。自虐的ながら、わたくしも似ているところがあって、拙ブログは多くの顕正会員から嫌われる存在である。

ただし、おそらくは程よい刺激剤にはなっていると思う。

それはさておき、質問らしきものが寄せられているので、それにお答えしなければいけないだろう。はっきり言って愚問であるが、都合が悪くて答えないと思われるのもイヤなので、お答えしたい。

素朴な疑問ですが、大聖人様が「生前」全く名前も知らない「存在すらしていない「大石寺」」に本尊を安置して、それを絶対だと拝め!と言ったとお考えですか?

繰り返し言おう、これは愚問である。なぜならば、あらかじめ質問者が答えを用意してしまっているからである。次がそれだ。

はっきり言って「馬鹿げてます」

だったら質問しなきゃいいのに・・・

それはそれとして、思うところを述べておこう。おっしゃるとおり、大聖人は大石寺を知らない。当たり前のことだ。ゆえに、大聖人がそのようなことを言ったか言わないかと問われれば、大石寺云々とはおっしゃらないだろう、それは当たり前のことである。事実、御書には大石寺がどうのこうのという話は出てこない。そこで問題になるのは二箇相承だろう。ようは日興上人への付嘱が証明付けられるかどうかである。しかし、話がここに至ると沖浦氏がシャシャリ出てくるので、このくらいでやめておきたい。

法華経を広め法華経に帰依する人を増やす事。以上。

ここがポイントである。元法華講氏は大聖人の御真意をこうだと断言している。しかし、いかがなものかと思う。なぜならば、その答えは前回の拙稿にある。

極論すれば法華経すらも詮無しである。

わたくしの文章であるが、これはわたくしの勝手な考えではない。大聖人の仰せに基づいて書いているのだ。つまり、元法華講氏の言っているようなことは百も承知のことであって、今さら驚くに値しないことである。驚天動地・惑意驚心こそが大聖人の仏法の真骨頂とするならば、単に法華経を弘めるというようなレベルの話ではないはずなのだ。

つまり、ここに御法門に対する理解度の問題が存するわけで、日興上人のみがそれを正しく拝していた、他の五老僧たちはわからなかった、というのが日蓮正宗の主張なのである。

ちなみに、大聖人様は「涅槃経」の方も、散々引用されてます。(笑)まぁ、ご都合主義ということですね。

失礼ながら、元法華講氏の理解度が如実にあらわれていると思う。これを御都合主義などと言うから、権兵衛氏が全否定の意味を言ってくるわけである。それに対して元法華講氏は次のように返答している。

更に書くならば、現在の「大石寺」が不要であると言っているのであって日蓮大聖人を否定しているのではありません。

まったく支離滅裂である。前掲では大聖人が涅槃経を引用していることをもって御都合主義と言い、今度は大聖人を否定しているのではないと言う。御都合主義が直ちに否定とイコールで結ばれるわけではないにしても、相当に否定的であるのは否めない。

以上、思うところを述べさせていただいたわけだが、またしても前回の拙稿をご覧いただこう。

いずれにしても、わたくしは偉そうなことを書いている割には何もわかっていない、というのが結論である。

独白とは言え、それなりに推敲して発表している。独りよがりに陥らないために、客観的な視点で読み直したりもする。そこで見えてくるのが、オマエ、ずいぶんエラそうじゃないか、ということである。その反省の意味も込めて、上掲のような一文を残したりもするわけである。

実際、何もわかっていない。しかし、もっとわかっていない人もいる。失礼ながら元法華講氏がそれである。

そこで日興上人への付嘱に話を戻すと、たいていが二箇相承の真偽問題で紛糾することになる。あるいは御相伝書の真偽問題もしかりである。そして正直なところを言えば、こちらが相当に不利であるのも事実だろう。おそらく逆に相手側は相当に有利を自覚しているに違いない。この辺が何ともイヤラシイところだ。

何がイヤラシイのか?

それが今日の話の中身である。ようするに、二箇相承の真偽がどうのこうのと言っている人がである、あるいは御相伝書の真偽がどうのこうと言っている人がである、これが意外や意外、大聖人の仏法がぜんぜんわかっていなかったりするのだ。そんな程度の人が偉そうなことを言うなよ、という話なのである。

生意気を言うようであるが、わたくしはそれなりに勉強をしているつもりである。すでに組織から離脱して十年の歳月が経過するけれども、この間の勉強は完全な自習であり独学である。組織にいれば、そこで学習会のようなことが行なわれたり、教学試験が行なわれたりもする。つまり、本人にそれほどの向学心がなくても、学習の機会が設けられているので、そこそこの知識は身につくことになる。しかし、わたくしは違う。やる気をなくせば、そこで終わりである。

ところで、インターネットは便利である。しかし、これがまたクセモノなのだ。

つまり、思考のプロセスを大幅に省略して、早くに結論に達してしまうことが、逆にデメリットでもあるのだ。

大聖人の仏法を論ずるにおいても同様で、さまざまのサイトを閲覧して必要な情報だけをツマミ食いする。これが先ほどの話につながるわけである。二箇相承がどうのこうと言っている人が、大聖人の仏法の基本的なことをまるでわかっていないという不思議な現象が起こるのも、インターネットの一つの弊害だろうと思う。

以前、キリスト教系の人物が来て、しばらく議論を戦わせたことがあった。この人も途中で何やら専門的なことをあげつらってきたので、ずいぶんと驚いたものだった。つまり、普通ならばキリスト教の立場から仏教を批判するはずなのであるが、なぜか途中から日蓮宗の学者が言っているようなことを書き始めたのだった。まさか、そんな専門的なことを知っているわけがない。おそらくはわたくしを懲らしめるために、大急ぎでネット上の情報をかき集めてきたのだろう。それが真相だと思う。

この時の自慢話をさせてもらうと、わたくしはそういうことをまったくしなかった。ようするにキリスト教批判のサイトを参考にするようなことは一度もしなかった。ぜんぶ御書を用いて論戦した。勝敗はともかくとして、この姿勢においてわたくしは相手に一歩も引けを取らなかったと思っている。

この意味で評価に値する人物は沖浦氏だろう。

御書の引用頻度がベラボウに高い。氏は御書を引用した上で自分の意見を言う。これは大聖人の仏法を信仰しているという意味においては当然のことであるが、現実には出来ていない人のほうが圧倒的に多い。創価学会員であれば池田氏の指導を、顕正会員であれば浅井先生の指導を、法華講員であれば御法主上人の御指南をという具合に、それらを通して大聖人の仏法に触れるわけである。すると、その指導者によって違いが出てくる。その意味では沖浦氏も例外ではなく、いわゆる創価学会色に染められているのは事実であろう。しかし、わたくしの見る範囲では、そうじゃない部分も相当にあるのだ。おそらくは自ら積極的に御書に触れているのだろう。この点は大いに好感が持てる。

それはそうなのだが・・・

 眼鏡が吹っ飛んだだけで宿業が消えた。
 功徳だと感謝できないなら、次の変毒為薬はありません。


これはそれほど大袈裟な話ではないだろう。前回も説明したごとく、そういう危険を伴なう作業の時は、事前に対策を講じることが基本中の基本なのである。つまり、この場合は常にメガネを着用して作業すればいいだけの話である。

 一切衆生が対象だと書いてあるでしょう。
 何故素直に読めませんかね?

 たった一人に法を伝えてなんとしますか。


御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える意味においては一切衆生が対象である。しかし、法門の伝授においては話が違ってくる。それを混同するのはいかがなものかと思う。沖浦氏ならばわかりそうなものだが・・・


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