2015/1/27

本年最初のサイテー  
ユタ氏の読み筋どおりに更新するのがシャクではあるものの、そろそろ話をまとめないといけないだろう。前回の特別企画は、全体の反応はそれほどでもなかったが、ごく少数の人たちの間で大いに盛り上がった模様である。わたくしとしては満足できる結果を得られたと思っている。

結論を言おう。沖浦氏の敗北である。

このロジックは実に単純明快であり、おそらくは誰も反論できないと思う。以下、そのことを説明しよう。

神社参詣の是非ということで、わたくしは過去の創価学会の見解を折伏教典から引き出してきた。沖浦氏はこれに対して、昔のラブレター理論で対抗しようとした。また、んっ?氏とのやりとりの中では、御書を長々と引用して自説を正当化しようとした。

まず、御書の引用自体がナンセンスである。あえて語弊を承知で言えば、この際、大聖人は関係ないのだ。大聖人が何をおっしゃろうが関係ない。なぜならば今は創価学会の見解を問うているからである。

ところが沖浦氏はそれに何も答えられなかった。

・・・会則の教義条項にいう「御本尊」とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。

現物を確認していないけれども、これが十一月八日付の聖教新聞に掲載された原田会長の発言だそうである。創価学会は戒壇の大御本尊に対する態度・姿勢を変更した。つまり、折伏教典などに見られる過去の見解とは異なるわけである。

ここで沖浦氏の常套手段がいわゆる過去のラブレター理論なのである。

いちおう、この理論を正当なものと認めよう。そう、認めるのである。

では、神社参詣の是非はどうなのか、である。問題はくだんの理論を神社参詣の是非に援用できるかどうかなのだ。

ここで気がつかなければいけない。

わたくしは過去の創価学会の見解を出した。その上で現今の創価学会の見解を問い質した。神社参詣の問題についてである。ところが沖浦氏はこれにまったく答えていないのである。

過去のラブレター理論は、過去と現在との相違を前提に成り立っている。ようするに現在を正当化するために、過去は関係ない、過去のラブレターを持ち出して別れた相手のことをとやかく言うのはみっともない、などと言い放つわけなのだ。

戒壇の大御本尊に対する態度・姿勢においては、まさにそのとおりかもしれない。しかし、神社参詣の問題は話が別である。ゆえに、まずは現今の創価学会が神社参詣を是としていることの文証を示さなければいけない。ところが沖浦氏はその作業すらしていない。これでは話にならないだろう。

しかもである。再掲しよう。

大謗法の地にある・・・

この表現は実に重い。創価学会は今も謗法厳禁の精神を堅持している。たぶんタテマエではあるのだろうけれども、公式に言っているわけだからきわめて重要な発言である。これは日興上人の身延離山の精神にも通じるところかもしれない。

だとすれば、沖浦氏の日興上人批判は完全なる逸脱となるだろう。

そもそもが、謗法厳禁と神社参詣禁止はその精神において通底する。ゆえに過去の創価学会は神札を焼いたり、その他、種々の謗法払いを行なってきたのである。たぶん今はそれも相当に緩くなっているのだろうけれども、上掲のごとく、大石寺を大謗法の地と言い放つくらいなのだから、謗法には厳格なのである。たとえそれがタテマエであっても、公式見解であることに変わりはない。

よって、現今の創価学会が神社参詣を是とする何か決定的な文証が示されない限り、沖浦氏の敗北は確定である。繰り返し言うが、この場合、御書は関係ない。あくまで創価学会の見解を聞いているのである。

それはさておき、んっ?氏にもクギを刺しておかなければいけない。

これは本人も重々承知していることであり、わたくしのような外部の人間からは言われたくないだろうけれども、しかし、言っておかなければならない。ようするに創価学会が相当に変質してきたことは動かざる事実なのである。先ほど、タテマエという言葉を使ったのも、その伏線の意味を込めてだった。

実際、正信掲示板では次のような発言が見られる。

[13639] RE:神への信仰 Name:よしりん 2015/01/10(土) 07:41

広宣流布大聖堂に行った折りに
せっかくの東京なんだから
明治神宮にも参拝してきた。

大阪のような「いやらしさ」のないところが、
東京のいいところ。
大阪より、日本的?なところは、魅力的である。

[13640] おまけ Name:よしりん 2015/01/10(土) 07:52

無論、靖国神社にも参拝。

先人の尊い犠牲のもとでの今日の繁栄
報恩感謝するのは

当然の話である。


よしりん氏ですら、このテイタラクである。いわんや、それ以下においてをや、であろう。

わたくしの見るところ、よしりん氏は過去の創価学会に対する憧憬のようなものを持ち続けていて、他の創価学会員とは一線を画する孤高の存在のようなところがある。実際、ネット上では他の会員たちとあまり交流していない。正信会系の掲示板をホームグランドにしていること自体が、それを証明しているようなものである。いずれにしても古きよき時代の創価学会に憧憬を懐く点で、悪く言えば過去に縛られていることにもなるが、良く言えば一貫性がある、筋が通っている、筋金入りの信心、というようなことになる。

そのよしりん氏ですら神社参拝を肯定している。もはやこうなると大多数の創価学会員が同様なのだろう。これが現在の創価学会の実態なのだろうと想像されるわけだ。

話をまとめよう。

創価学会は謗法厳禁の精神から神札を焼きその他の謗法払いを行なってきた。いちおう今もその精神を堅持しているようには見えるが、それはあくまでタテマエであって、現実には相当に軟化している。おそらく現時点では態度保留ということなのだろう。さすがに謗法解禁みたいなことを公式に宣言するわけには行かないだろうから、このままアイマイにしたままで過ごすのかもしれない。


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