2015/1/31

今月最後の独白  
沖浦氏による聖教新聞の引用には不正確なところがあった。んっ?氏の指摘を受け、後に沖浦氏自らが訂正のコメントを入れた。

 この中で、本門の本尊とは大聖人御図顕の全ての本尊と(十界曼荼羅と言う表現です)、それを書写した本尊で、戒壇本尊もそれに含まれるが、戒壇本尊のみが本門の本尊ではない。

これが訂正後の文章であるが、それにしてもどうかと思う。ようは引用ではなく意訳なのだ。しかも意訳というのは訳者の主観が存分に含まれている場合が少なくない。事実、上掲がそうだと思う。

聖教新聞掲載の原文を確認していないけれども、上掲の文章は明らかにおかしい。その理由を図式化すれば次のごとくなるだろう。

本門の本尊=大聖人御図顕の全ての本尊≧それを書写した本尊≧戒壇本尊

オイオイ、順番がデタラメ過ぎるだろうが、と言いたい。

たぶん日蓮正宗の認識はこの正反対なのだろう。それはもちろん議論の分かれるところであるが、少なくとも二番目と三番目がアベコベであることは確実である。ようするに、御真筆御本尊すべてが本門の本尊であって、当然ながら戒壇本尊もそこに含まれるわけで、順番としてはその後に書写本尊が来なければいけないのだ。

つまり、前掲の文章には、意識的なのか無意識的なのか、そこまでは断定できないけれども、戒壇本尊を貶めようとの意図があらわれてしまっているわけなのだ。

もっとも前回も指摘したように、創価学会は日寛上人の書写本尊を用いており、上人は戒壇本尊本懐論者であるからして、その書写本尊を用いている時点でチグハグ感は拭えない。ゆえに沖浦氏一人が責められるべきことでもないのだろう。やはり創価学会に問題が存することは否定できないと思う。彼らの言う書写本尊は、現状では大石寺歴代上人によるものなので、それが将来的に身延や池上の住職が書写した本尊でもよいとされれば話は別であるが、たぶんそれはないだろうから、しょせんは現状を肯定するための論理、すなわち自己正当化の論理を言っているだけなのだ。

以上、訂正後の文章を踏まえて、改めて書かせていただいた。

ところで、前回は更新中に関の山氏からコメントが寄せられ、行き違いになってしまっていた。都合の悪いコメントでもあるし、そのまま知らん振りをするのも一つの手ではあるが、それでは進歩がないので少し考えを述べてみようと思う。

いつものごとく、よくわからない。それが結論だ。

いつぞや大黒を供養して候ひし・・・

真間釈迦仏御供養逐状の一節である。当該御書は冒頭に富木殿が釈迦仏を造立した旨が記されており、これが曼荼羅正意論者にとって都合の悪い御書であることは明らかだ。しかも上掲のような一節まで含まれているのだから、ひじょうに悩ましい限りである。

平成新編御書では、昭和四十一年発行の昭和新定御書収録分のうち、三十二書を偽書と判定して収録しなかった。そのうちのいくつかを挙げれば次のごとくである。

大黒天神相伝肝文、大黒送状、大黒天神供養相承事、大黒天神御書

先入観による偏見からなのか、いかにも偽書臭いものばかりである。しかし、いつも言っているごとく、わたくしには判断する能力がないし、そうした材料も持ち合わせていない。まあ、思いつくまま書くならば、まずは当該御書を読んで法門上の問題点を探ることだろう。それと同時に、鎌倉時代における大黒信仰の実態などを調べる必要がある。今のわれわれの感覚だと釈迦像すらも謗法なのだから大黒などは論外となるわけだが、それはあくまで現代感覚に過ぎない。それもいわゆる日興門流に属する人たちが培ってきた感覚であって万人共通の感覚ではないのだから、これを基準に考えるわけにはいかない。ようはバイアスの掛かった頭で考えても意味がないということだ。

それはさておき、今月はなぜか顕正会の話題をあまり書かなかった。そこで今さらながら顕正新聞新春号からいくつか話題を拾っておこう。

準特集号

ケッタイな言い方である。誰が言い出したものか知らないが、十一月度総幹部会の会長講演が載っている号をこのように言うらしい。

第十五女子部長によれば、

政治家はもとより全日本人が顕正会の勢いには度肝を抜かれ・・・

とのことだ。また、次のようにも言っている。

 そこに経済学者をしのぐ卓抜なるご見識で・・・

浅井先生のことを言っているわけだ。つまり、くだんの会長講演は経済事案について詳しく論じており、それが経済学者をしのぐ内容だと言いたいわけなのだろう。いつものパターンである。

それはともかく準特集号はいかがなものかと思う。特集号でいいはずだ。これでは松竹梅だとか大中小だとか上中下のごとく、ランク付けを意味しているみたいでよろしくない。特集号は面白い、準特集号はそこそこ面白い、あとはツマンナイ、と言っているみたいなものである。実際、つまらないのだが・・・

「同志の臨終を守って」

内容は省略するが、これはいい記事だと思う。わたくしは文句ばっかり言っているわけではないのだ。

しかし、創価学会から入会した人の記事で、疑問に思うものがあった。はたして次の一節は本当だろうか?

先輩から供養金を月に七〇万円集めてくるように言われ・・・

次の一節も疑問だ。

病院で検査を受けると、悪性の胃癌で「余命三年」と宣告されたのです。

余命三年が理解できない。わたくしはシロウトではあるものの、これには経験的に疑問を拭えなかった。余命宣告としては三ヶ月だとか半年くらいが妥当なところで、おそらくは一年保たないというのが一般的な最長リミットだと思う。寿命など、いくら医師であってもわからない。ただ経験的に、病状が悪化すれば、この病気はこれくらいという目安があるだけなのだろう。それが一年以上になると、いつと断定するのはひじょうに難しいことで、いったい何を根拠に三年と宣告したのか、それがまったくわからないのだ。ゆえに創価学会から顕正会に移って、その功徳で胃癌が消滅したかのごとく言っているけれども、必ずしもそれが理由ではないと思う。

細井日達書写の御本尊を本部会館に返納いたしました。

先日のスクープ情報を思うと、ひじょうに悩ましい限りである。

最後に、第五婦人部幹事・下北支区部長の記事から、二つほど紹介して終わりたい。

毎年の暮れに奉安殿前の石畳に座する先生のお姿を偲びまいらせては涙が止まらず・・・

誰だかの目撃情報によれば、今は別の場所で行なっているそうである。確かに浅井先生が大石寺の境内に足を踏み入れれば、法華講の猛者たちが黙ってはいないだろう。

先生の諫暁に即刻、呼応する諸天の働き・・・

相変わらずだ。


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