2015/2/27

今月のサイテー  
一週間ぶりの更新である。わたくしは前回、沖浦氏に対して言い逃れのできないであろう問いを発し、相手の反応を窺った。その沖浦氏であるが、今朝もコメントを寄せている。いつもどおりのコメントだ。何事もなかったかのように・・・

大したタマである。

2015/2/25 11:42
投稿者:んっ?
巌虎さん,結論が出ましたね?

(以下省略)

確かに結論は出た。

実際にはとっくの昔に結論が出ているわけだが、しかし、本人がそうは思っていない様子なので、そこが困り者なのである。たぶん、他のブログや掲示板などでは、この時点で出入り禁止にしてしまうのだろう。これ以上の議論は時間のムダだからである。ところが拙ブログには出入り禁止のルールがない。来る者は拒まず去る者は追わずなのだ。よって沖浦氏本人が投稿の意思を持ち続ける限りは、それを止める術がない。あくまで言論で戦う以外に道はないのだ。

そういうわけで、わたくし的には反論の用意があるのだけれども、おそらく閲覧の人たちも飽き飽きしているだろうから、この件は少し冷却期間を置こうかと思う。休戦ということだ。

しかし、このまま休戦に入るのも癪なので、少し挑発的なことを書いておこう。

【答弁能力5】安倍首相は国会答弁で、相手の質問にまともに答えていない。それは、詭弁能力の高さなのか、相手の論理を理解する能力が低いのか、あるいは批判されるのを極度に嫌うボンボン的独裁から来ているのか、分からない。民主主義が身についていないことは確かだ。この国は運転手が一番怖い。

https://twitter.com/masaru_kaneko/status/568950557584392192

奇しくも前回の拙稿と同じ日に、わりと著名な学者が発した言葉である。ボンボン的独裁云々は当てはまらないものの、それ以前の文章は見事に当てはまる。

ちなみに今回のタイトルの意味は、いわゆる裁定と若者言葉のサイテー(最低?)を掛け合わせたものである。いったい何が最低なのかは、各自の想像にお任せする。裁定のほうは休戦ということである。とは言うものの、これは沖浦氏の発言を制限するものではないので、氏が戦う気満々であればそれまでである。

さて、どうなることやら・・・

2015/2/20

沖浦流法門の終焉は近い  
コメント投稿者の多士済々ぶりには驚く。しかし、立場の異なる人がさまざまの角度から論じているので、収拾がつかない。

仏教学会では、釈迦(ゴータマブッタ)は、仏像なぞ縁がなく、本尊たるものを拝めなぞ言っていないのが史実のようですね。

これなど典型的である。

今は、というか、拙ブログでは大聖人の仏法を基準にして議論をしているわけだから、ヤブカラボウに上掲のようなことを言われても困るのである。このようなコメントを読むと、妙な話、対立しているはずの沖浦氏とわたくしとがひじょうに近いところにいるように思えてくる。事実、そうなのだろう。親近感があるのは事実だ。

さて、そこで本題である。以下は前回の拙稿である。

沖浦氏の曼荼羅道具論は易信易解の爾前権教にカテゴライズされる・・・

そして易信易解・難信難解をキーワードに回答しなければいけない旨、クギを刺しておいた。

対する沖浦氏の反論が次である。

 巌虎さん、

 難信難解とはね、

 この欠点だらけで悩み多き自分自身が、久遠の南無妙法蓮華経如来の当体だ。

 信じることが困難で、理解することも困難です。

 一切衆生が本来久遠の南無妙法蓮華経なんだ。

 難信難解なんですよ。


もう一つコメントが残されているけれども、直接的な回答はこれだけである。つまり、易信易解ないし難信難解をキーワードに据えての回答はこれだけということだ。

上掲に対してどのように応じるのが適切なのか、しばらく悩んだ末に一つの名案が浮かんだ。おそらくは、沖浦氏が単なるヘソマガリなのか、それとも真面目な気持ちで自説の正当性を主張しているのかが、もうじき判明することになるだろう。仏教学会を云々するような人たちからすればチャンチャラおかしな議論かもしれないが、わたくし的にはけっこう真剣である。

曼荼羅道具論からは離れよう。上掲の難信難解に対する沖浦氏の認識が正しいかどうかを論じたい。

結論は正しい。

沖浦氏の言うところの難信難解は、いわゆる教門の難信難解にカテゴライズされる、ということになるはずだ。

其の教門の難信難解とは、一仏の所説に於て爾前の諸経には、二乗・闡提は未来に永く成仏せず、教主釈尊は始めて正覚を成ず、法華経迹本二門に来至して彼の二説を壊る・・・

本尊抄である。類文は繁多と思うが、さしあたって思い浮かぶのは船守弥三郎殿許御書だ。

過去五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり。

いったいどこが類文なんだとの反論があるかもしれないが、沖浦氏は反論しないだろう。何しろ沖浦氏自身がこの御書をよく引用しているからである。

寿量品に我は過去五百塵点劫のそのかみの仏なりと説き給ふ。・・・(以下省略)

法蓮抄の一節、長くなるといけないので大幅に省略してしまったが、これは完全なる類文と言えるだろう。

これで話は終わったも同然だ。以下は実に単純明快な論理である。沖浦氏に問いたい。

貴辺はなぜに教門の難信難解だけを肯定し、観門の難信難解を否定するのか、である。大聖人御自らが難信難解には二つあると仰せられているにもかかわらず、なぜにその片方しか用いないのか、である。

これはもう、どこにも逃れられない、まさしく逃げ道が塞がった状態である。

さて、どのような回答があるか、読者諸氏にもご注目願いたいと思う。

2015/2/18

曼荼羅道具論の終焉  
前回のコメント欄では白熱した議論が展開された。参加者こそ少ないものの内容的にはけっこう充実した議論だった。

その結果をズバリ言おう。沖浦氏の負けである。

んっ?氏の最初の一撃で勝負がついた。そこで沖浦氏はノックアウトされた格好である。

実は一年ほど前にも似たような議論があって、わたくしもあれこれと書いた。興味のある人は一昨年の暮れに遡って拙稿をご覧になられるとよいだろう。当時は学会未活動者という名乗りの人物が盛んに投稿していたが、ある日突然のごとく、消えてしまった。

物体本尊は本尊にあらず・・・

彼はこんなようなことを主張し続けていたわけだが、おそらくは己の間違いに気がついたのだろう。そこで消えた。

ところがその片棒(?)を担いでいた沖浦氏は、相も変わらず自説に固執し続けている。彼の曼荼羅道具論は事実上の破綻を来たしているにもかかわらず、ここに来て、再び持ち出してきた。

 曼荼羅は出世の本懐でも、三大秘法でもありません。
 私共が信心をするための道具です。


これに対する、んっ?氏の反論が秀逸だった。

2015/2/16 10:21
投稿者:んっ?
「百界千如は有情界に限り一念三千は情非情に亘る,
 不審して云く非情に十如是亘るならば草木に心有つて
 有情の如く成仏を為す可きや如何,
 答えて曰く此の事難信難解なり天台の難信難解に二有り
 一には教門の難信難解二には観門の難信難解なり,
 其の教門の難信難解とは一仏の所説に於て
 爾前の諸経には二乗闡提未来に永く成仏せず
 教主釈尊は始めて正覚を成ず法華経迹本二門に来至し給い彼の二説を壊る
 一仏二言水火なり誰人か之を信ぜん此れは教門の難信難解なり,
 観門の難信難解は百界千如一念三千非情の上の色心の二法十如是是なり,
 爾りと雖も木画の二像に於ては外典内典共に之を許して本尊と為す
 其の義に於ては天台一家より出でたり,
 草木の上に色心の因果を置かずんば
 木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり」(観心本尊抄)

「道具」などではない! 「非情」といえども「仏」!
誰かさんは,「道具」に帰命するのか?


結論を言えば、沖浦氏の曼荼羅道具論は易信易解の爾前権教にカテゴライズされる、ということだ。

別の言い方をすれば、沖浦氏には曼荼羅御本尊が仏様の当体であることがわからない、紙や板に認められた御文字が仏様の当体であることがわからない、とてもじゃないが信じられない、文字通りの難信難解ということなのだ。

それから蝸牛氏が常に念頭の置いているであろう、次の御書も重要である。

一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり。

これも観門の難信難解を仰せられたもので、まさに絶妙の御表現であられる。

沖浦氏にとっては、御本尊を道具としたほうが信じ易く解し易いのだろうけれども、それでは易信易解の爾前権教と見なされても文句は言えまい。習い損ないと揶揄されるのもムベナルカナだ。

以上、今回のポイントは易信易解・難信難解である。このキーワードを避けて百万言を費やしたところで、無意味である。もし自分は負けていないと思うのならば、これに正面から取り組むべきだろう。

今日はこれで終わりにしよう。実は体と用の関係について考えていたのだが、頭が悪いものだから考えがまとまらなかった。

2015/2/15

顕正新聞第1331号精読  
不勉強のわたくしが言うのもナンであるが、蝸牛氏の反論は的確のようである。沖浦氏を見事に一刀両断している。

そもそも沖浦氏が拙ブログのコメント欄で日寛上人を批判するのは、ややオカドチガイのようなところがある。なぜならば、わたくしは御書こそ引用するものの、歴代上人の御指南は滅多に引用しない。もちろん日寛上人も例外ではない。理由は冒頭に述べたごとく、不勉強だからである。知ったかぶりをしても仕方がない。正直に知らないことは知らないと言ったほうがいい。ゆえに歴代上人の御指南はほとんど引用しない。その意味で沖浦氏のコメントはオカドチガイも甚だしい。わたくしが日寛上人の御指南を連発して、それで沖浦氏をねじ伏せようとしているのならば、話はわかる。しかし、事実はまったく違うのだ。

もっとも、沖浦氏も沖浦氏だが、わたくしもわたくしである。ご存知の人も多いかと思うが、顕正会では日寛上人を物凄く尊んでいる。御書の発刊は実現していないけれども、なぜか六巻抄はある。そう、顕正会版の六巻抄が存在するのだ。しかし、わたくしはそれを持っていない。また、ネット上にも六巻抄はあるわけだが、それすら読んでいない。

そんなテイタラクなものだから、沖浦氏に日寛上人のことをあれこれ言われても、何も言い返せない。そこに蝸牛氏からの切れ味鋭いコメントが寄せられたわけである。素晴らしいの一語だ。

さて、今日は顕正新聞第1331号を拾い読みしてみよう。

当該号は元旦勤行を報ずる以外、登壇記事ばかりで詰まらないと以前に書いた。しかし、それは編集部の手抜きを批判する意味であって、記事そのものに罪はない。つまり、一つひとつの記事にはそれぞれのドラマが詰まっていて、そのまま読み捨てるにはモッタイナイような記事も少なくないのだ。

まずは総合婦人部長の記事から紹介しよう。

 「御遺命を堅持あそばす貫首上人が出現されれば、忽ちに血脈は蘇る。下種仏法の血脈は金剛不壊である」
 と裂帛のご気魄で叫ばれ
 「この深義は、池田大作一党などには分かるはずもない」
 と一刀両断され、先生がここで言葉を止められました・・・


これは創価学会の原田会長が述べた「永遠の法主不在・血脈の断絶」に対する反論のくだりであるが、ひじょうに悩ましい。

どうでもいいことから書くと、裂帛はほぼ顕正会用語と言っても差し支えないだろう。わたくしの知る限りでは、一般的にはほとんど使われない表現である。それがなぜか顕正会の中では多用される言葉なのだ。とりわけ浅井先生の発言に対して、この裂帛が高頻度で使われている。

さて、何が悩ましいかであるが、ようするに上掲の発言は現宗門とも相容れないものであって、いわば顕正会独自の見解であることだ。後半のカギカッコだけを見れば、思いっきり宗門寄りの発言のように見える。しかし、前半に蘇る云々とある以上、今は断絶している状態なのだと言っているわけなのだろう。これを現宗門が認めるわけがない。

何とかならないものだろうか?

次に副総合婦人部長の記事を見てみよう。

・・・「広宣流布いよいよ近し」の大確信で国難二年を猛進し、「あと五年」の正念場を一点に見つめられる浅井先生に、・・・

出た、あと五年だ。

本人がそのつもりで書いたとは思えないけれども、うっかりすると広宣流布まであと五年であるかのように読めてしまう。

時の然らしめる凄さ

歓喜炸裂


あとは言葉を拾ってみたわけだが、なかなか凄い表現力である。

 由比ヶ浜さんは名前にコンプレックスがあったそうですが、「大聖人様が御成道を遂げられた凄い所です」と言うと・・・

これは婦人部早稲田支区班長の記事から拾った。竜の口と由比ヶ浜は別の場所ではなかったか?

三人の発達障害の子供たちを抱えながらも・・・

四人の自閉症の息子がいます。


前者は女子部第一区総班長の記事の中で紹介されている話で、後者は婦人部神奈川支区組長本人の話である。ウカツなことは言えないが、こういう人たちを救済するのが宗教の役目でもあるだろうから、顕正会は立派にその役目を果たしていると言えるかもしれない。

群馬の「自民教」とも言うべき体質は大へん根深い・・・

第十六婦人部長の記事から拾った。前掲の話と関連付けて書くならば、宗教と政治の共通点は弱者救済ということになるだろうか? 延いてはそれが王仏冥合の議論に結びつくのだと思うが、わたくしには荷が重い。かつての公明党は福祉の党をウリにしているようなところがあったけれども、はたして今の自公政権が弱者に優しい政治を目指しているかと言えば、どうも違うような気がする。その辺を現役の創価学会員がどのように感じているのか、気になるところではある。ともかく群馬は自民王国であり、登壇者の実感するところでは自民教なのだそうである。

それにしても次のくだりはひじょうに考えさせられる。

「安倍はもうだめだ、どこに投票すればいいのか教えてほしい、顕正会は初めて聞いた、どういう団体なんですか」

この若者の発言は重要である。どこに投票すればいいのか教えてほしいと。残念ながら顕正会はその答えを用意できない。たぶん五年後も同じだろう。

つまり、浅井先生は政治的発言を繰り返すけれども、今の制度の中で何をどのようにするのが最善であるかを提示できないでいるのだ。戒壇建立は宗教的発言である。それはそれでよいとしても、政治的発言の場合はそこに具体性が求められるのだ。くだんの若者はどの政党に投票すればいいのかを聞いている。しかし、顕正会にその答えはない。

次は男子部第十二隊長の活動報告である。

そして近き国家破産を思い、「今しかできない財のご奉公を」と、例年以上の思い込めて推進しております・・・

セロリ氏によれば、浅井先生は十一月度総幹部会になると決まって経済問題を話題にするという。国家破産だとかハイパーインフレだとか、そんなことを縷々述べるのである。これは翌十二月の広布御供養を前にしての巧妙なる作戦なのではないかとセロリ氏は睨んでいる。
ここにはもう一つの背景があって、もしかしたら宗門も創価学会も似たり寄ったりのことを言っているのかもしれないが、御供養はムダにはならない、真心の御供養は功徳となって必ず自分に返ってくる、という意味のことがクチコミで広く伝えられているのである。これは顕正会経験者ならば誰もが知っていることである。
つまり、浅井先生の経済事案への言及とクチコミ指導とを勘案するならば、セロリ氏の指摘もあながち荒唐無稽ではないことになりそうである。ましてや上掲の記事を読めば、なおさらその思いを強くするものである。

ただし、いちおう言っておかなければいけないだろう。浅井先生が国家破産のことを論ずるのは十一月に限ったことではない。調べたわけではないが、けっこうアトランダムに発言しているはずで、たぶん、年がら年中言っている、ノベツマクナシ言っている、というのが真相に近いだろう。

いずれにしても広布御供養をすれば経済的な御守護をいただけるという意味のことが言われているのは事実であり、そこに国家破産の話が出てくれば一種の投資みたいな感覚で今のうちにたくさん御供養しておこうという心理が働くのは理の当然であろう。

それはさておき、次のくだりが悩ましい。

・・・障害になる直属の上司は、他の営業所に明日から異動させる

登壇者は今の職場にいたら思う存分に顕正会の活動が出来ないことを悩みに思っており、社長に会社を辞める旨を伝えることにしたという。そして実際に面談したところ、なんと社長のほうからさまざまの好条件を提示してきたのだそうだ。その一つが上掲である。

しかし、これはいかがなものかと思う。職種にもよるだろうが、仕事における悩みの半分は人間関係である。半分と書いたが、もしかしたら大半かもしれない。それがこんな形でいとも簡単に解決されるはずがないし、そもそもこんなことが許されていいわけがない。世の中にはイヤな上司の下でひたすら耐えながら働いている人が無数にいるのだ。それがあたかも顕正会で信心すれば解決するかのような錯覚をおぼえさせる意味で、上掲はひじょうに問題だと思う。

女子部第147区長の記事も悩ましい。

信心の肚を決め薬を中止、鬱完治!
「冨士軍楽隊」講師の大任 果させて頂く

病院では解決しなかった疼痛も完治


この人は今の顕正会ではけっこう目立つ存在のはずである。しかも会社を経営する父や現職市議会議員の母を云々する記述を読めば、いいところのお嬢さんというイメージが強まる。それが鬱病に苦しんでいたとは意外であるが、問題は次のくだりである。

 その中、浅井理事長より、向精神薬の副作用について教えて頂く機会がありました。

これを機に薬をやめたという。結果的には鬱病が完治したのだから文句は言えないのかもしれないが、しかし、問題だろう。ようするに、城衛よ、オマエは医者か、ということだ。医者でもない人間が投薬について意見を言うのは問題である。もしそれで症状が悪化したらどうするのかである。そこを考えないといけないだろう。

卒業した中学校五十年分と高校二十年分の同窓会名簿を入手でき、片っ端から連絡を入れ折伏していくと・・・

このくだりは並の創価学会員が読めば驚くだろう。しかし、顕正会の活動会員にとってはわりと普通のことなのだ。

十一月には十日間の日程でネパールでの御奉公も叶い、現地で計百十七名の入信勤行の唱導を勤めさせて頂いた・・・

ともかく最近は海外折伏が流行っている。これは今後も注目していきたい。

池田大作専用の
  金張り浴槽!


最後に女子部第123区総班副長の体験発表から疑問に思ったところを紹介したい。上掲のようなアヤシゲな小見出しに続いて、次のような文章が綴られている。

 入信した折、学会の会館内を案内されましたが、ある部屋には大理石のタイルに金張りの浴槽があり、池田大作のためだけに作られたものと説明を受けました。

創価学会に入信した時のエピソードを語っているわけだが、はたして本当だろうかと疑問に思う。わたくしの感覚では、こういう場所は一般会員には見せないものである。ゆえに、いつだったか週刊誌にすっぱ抜かれる形で、この手の話題が出てきたのだと記憶している。まさか、そういうネタを拾ってきて登壇原稿を作っているとか?

さすがの顕正会もそんなバカなことはやらないと信じたいが・・・

2015/2/13

「学会員を救う特集号」の感想  
沖浦氏は意気軒昂である。年齢的にはそろそろ衰えてもよさそうなものだが、どこまで行っても意気軒昂である。この客観的事実はいかんともし難い。

ようやくにして「学会員を救う特集号」が出来した。

ほぼ同時期、白馬に顕正会員が出没している旨の情報がもたらされた。しかし、沖浦宅を訪れる顕正会員は皆無だという。

この理由はさまざま考えられるが、すでにコメントにあるごとく、「要らない」というのがもっとも有力な意見かもしれない。こんなヤツは要らない、使い物にならない、組織が乱れるだけだ。
まあ、しかし、それ以前の問題として、沖浦氏が入会するとはとうてい思えない。つまり、行くだけムダであると。こんなふうに思っている人も少なくないだろう。顕正会は成果主義なので、どう見ても入信・入会しそうにない人は、ハナッから相手にしないのだ。いや、もちろん、そういう人ばかりではないのだが、全体的な傾向としてはそんな感じだと思う。
それからもう一つ、まったく別の理由としては、やはり沖浦氏には勝てそうにないと思っているのかもしれない。今の顕正会の平均的な教学力ではかなり手強い相手であり、入会させられるかどうかという問題以前に、相手を破折し切れるかどうかというところで、つまづいている可能性もあるだろう。

ただし、もしかしたら顕正会員が訪れるかもしれない。婦人部ないし女子部系統の人が「学会員を救う特集号」を携えて、沖浦宅を訪れるかもしれない。そのための特集号だからだ。

さて、その特集号であるが、わたくしの知る限りではずいぶんと評判が悪い。

2015/2/9 19:45
投稿者:ユタ
 こんばんは。

 顕正新聞1月25日号は自宅に届きました。
 『学会員を救う特集号』と銘打ったものですが、正直
言って内容を見るに、そもそも読む気の起こらないもの
です。
 仮に読んだところで、んっ?さんや沖浦さんが改心さ
れるとは到底思えません。
 どの辺が?……全部です!
 結局、浅井会長を賛美しているだけで、これでは他の
号と変わらない。
 最終的には、「唯一正しい顕正会に入会せよ」とのこ
とでしょうが、顕正会だって肝心の大御本尊様に内拝で
きないのですから、言ってることが違うだけで、やって
ることは同じなんですよ。
 それだけです。


ユタ氏にしてはめずらしく、ずいぶんと突っ込んだ書き方をしていると思う。ようは辛辣ということだ。

また、セロリ氏の評価もベラボウに厳しい。

http://blogs.yahoo.co.jp/no_sleep502goal/13309058.html

ちなみに、この直前の投稿も秀逸なので、興味のある人は参考にされるとよいだろう。

さて、そこでわたくしの見解であるが、すでにユタ氏やセロリ氏の投稿に尽きているので、もはや何も書くことがない、というのが結論である。つまり、彼らとほぼ同意見ということだ。そんなわけで、さすがのわたくしも顕正会側に立って弁護する自信がない。残念ながら、それがわりと客観的な評価なのではないかと思う。

以下、重複を覚悟でわたくしなりの説明を試みることにする。

創価学会ついに「戒壇の大御本尊」を否定
 これぞ極限の大謗法、無間地獄の業因
 早く悪師を捨て、成仏を願う大道念に立て


特集号のベースは十二月度総幹部会の会長講演であるが、大幅な加筆がなされている。なんと第一面から始まって五面の最後までを会長講演が占めているのだ。ようはベラボウに長い文章である。

その大見出しが上掲である。いかがだろう、この見出しだけを読めば宗門と共闘できると誰もが思うのではないか? しかし、そうは問屋が卸さないのだ。

宗門も同罪

これでオシマイである。宗門との共闘はあり得ない。誰が読んだってわかるはずだ。

しかもである。このことを説明するために、いったいどれだけの紙数を使っているかが問題なのだ。五ページ中、二ページをいわゆる御遺命守護の歴史に費やしている。俗に浅井武勇伝と呼ばれるヤツである。

わたくしはこれが最大の失敗だと思う。

簡単に言うと、欲張り過ぎである。今回に限っては顕正会の存在を消してもよかった。それが本物の信心だと思う。ようするに戒壇の大御本尊だけを純粋にお守り申し上げる。この一点勝負をするべきだった。

しかし、それでは意味がないというか、顕正会としては不満だったのだろう。自分たちの立場を宣揚したいという、自己顕示欲に駆られてしまったのだ。
もっとも、それは今に始まったことではなく、以前からそうだったのだ。すでに独立教団路線を歩み出して久しいわけで、今さら自分たちの存在を消すことなど、少しも考えなかったのかもしれない。
むしろ創価学会と同時に宗門を否定することで、消去法的に残るは顕正会だけであると言いたいわけなのだ。

ということで、宗門との差別化を図るために御遺命守護の歴史を加筆した。それがなんと、全体の半分近くを占めることになった。ために話が複雑になり過ぎて、わけがわからなくなってしまった。

以上が失敗のゆえんである。欲張り過ぎにも程がある。

もう少し書こう。

はたして創価学会員がどこまで理解できるのかが疑問である。読む気がしないという意見もあるくらいだ。仮に一字一句逃さずに読んだとしても、はたして理解ができるかどうか、そこがひじょうに悩ましいところである。
「なぜ学会員は功徳を失ったか」という本がある。この翌年だかにも本が出ていて、そちらのほうも相当のボリュームだった。あるいは冨士の「御遺命守護の戦い」特集号。最近では折伏理論書改訂版。わたくしはこれらを読んで御遺命守護の歴史を学んできた。
それに引き比べると、今回の特集号は相当に圧縮していて、いわば動画の早送りを見ているような印象を拭えない。もちろん浅井先生ないし顕正会首脳部は熟慮の上で要約を試みたのであろうが、それが成功しているかどうかは微妙なところだと思う。

つまり、事情をまったく知らない創価学会員がこれを読めば、頭が混乱して余計にわけがわからなくなる可能性があるのだ。もしそうだとすれば失敗である。

細井日達管長、細井日達貫首、細井管長、細井日達

さらにどうでもいいことを書くと、わたくしはこの表記の乱れが気になった。たぶん、それぞれに意味があってそのように表記しているのだろうけれども、そんなことは関係ない。細井日達管長と細井管長はよいとしても、あとの二つはヘンである。つまり、普通の読者ならば、そこに込められた意味がどうであれ、単なる誤植だと思う可能性があるのだ。たくさんの人に読ませるつもりの特集号としてはどうかと思う。

阿部日顕、阿部

日顕上人については完全に呼び捨てである。これでは宗門との共闘など絶対にあり得ない。それはともかく、わたくしが気になったのは別の意味においてである。

創価学会も日顕上人を悪し様に言っている。この点では顕正会と創価学会は兄弟分である。では、どちらが兄貴かであるが、当然ながら創価学会が兄貴である。顕正会はデキの悪い弟だ。
わたくしの知る限り、創価学会では日顕と呼び捨てにしている。彼らは阿部とは言わない。もちろん、いずれも賛成はしないが、大局的な意味では前者が正解である。後者はダメである。
創価学会には会員がたくさんいる。阿部姓の人も無数にいるだろう。つまり、日顕上人憎しのあまり呼び捨てにするにしても、阿部姓の人たちを慮れば阿部とは呼び難い。これが常識というものだ。
浅井先生はこの点の配慮に欠けている。デキの悪いゆえんである。

もう一つ、瑣末なことを書いておこう。

 学会も「もう逃げられない」と観念したのであろう、秋谷栄之助副会長、原島崇教学部長、山崎正友弁護士の三人が代表として論判に応じた。場所は東京向島の常泉寺。両者とも背水の陣であった。

浅井武勇伝と揶揄されるのは、いつまでも過去の話を引きずっているからである。確かに上掲は御遺命守護の名場面であり、映画にでもすれば見応えのあるシーンとなるだろう。ところがである。秋谷栄之助副会長は後に会長となり、長くその座に留まっていたが、残りの二人は後に反逆者の烙印を押されている。それもずいぶん昔の話なのだ。
つまり、当時の創価学会員であれば上掲の事実に驚くだろうし衝撃を受けるかもしれないが、今の会員たちにとってはピンと来ない話なのである。あたかも今の若い顕正会員が克衛の存在を知らないのと同じことなのだ。
ゆえに無理を承知で言えば、城衛あたりが新武勇伝を拵えて、それを大いに宣伝すれば効果絶大であろう。創価学会の現役大幹部の誰々と法論して論破しただとか、宗門の誰々だとか法華講の誰々だとか、そういう人たちをやっつけないことには話にならないのだ。

創価学会の組織構成を詳しく知らないが、おそらくは青年部長だとか男子部長と呼ばれる人がいることだろう。創価学会は層が厚いので、その立場にたどり着くまでには、さまざまの艱難辛苦を味わっているはずである。つまりは鍛えられている。そして彼らは若き会員たちの憧れの存在でもあるのだろう。その青年部長だとか男子部長を木っ端微塵に粉砕することが出来れば、また、それが動画などで公開されれば、一気に潮目が変わることだろう。

わたくしは浅井先生の御遺命守護を否定するつもりはない。ただし、もう古いのだ。いつまでも過去の勝利(?)に酔い痴れていても仕方がない。新しい戦いを起こして新しい勝利を獲得しなければいけない。もちろん先生がやる必要はない。城衛がやればいい。いや、城衛でなくてもいいのだ。他に有能な幹部がいるのならば、それをどんどん前面に出していけばいい。

ところが顕正会はいつまで経っても過去から脱却できないでいる。結局は誰かが言っていた老害ということなのだろうか?

2015/2/8

顕正新聞第1331号を中心に  
このところの拙稿は創価学会批判に終始しているような感じだった。ゆえに、本来ならば創価学会員が力を合わせて拙ブログを潰しに掛かるべきところなのだが、現実は違うようである。何しろ創価学会員同士で言い争ってしまっているのだから、話にならない。いわゆる内紛、仏法用語では自界叛逆とでも言うべきところだろう。ことに昨年の十一月八日以降、ネット上ではそれが顕著になったようである。もともと沖浦氏は異端児みたいな存在なので今さら驚きもしない。しかし、そうではない人たちも、ああだこうだと言い争っているのだ。はたして創価学会首脳はこの事態をどのように見ているのだろうか?

ところで顕正会の話題であるが、なぜか顕正新聞が届かないので、わたくしとしては書くことがあまりない。たまたま遅れているだけなのか、それともすでに出来しているのだがたまたま拙宅だけに届いていないということなのか、それすらもわからない。困ったものである。

そうは言ってもストックがある。顕正新聞第1331号だ。一月十五日号のことだが、これが手元にある最新の顕正新聞である。

当該号は第一面で元旦勤行のことを報ずる以外、いつものごとく各種の集会における登壇記事の羅列である。実につまらない。五面の左下に「食は薬なり」のコラムがあって、緑茶の効用のことが書かれている。これが唯一の救いだろうか?

極悪の大謗法おこる、広宣流布は近い

一面に戻って、これが元旦勤行における浅井先生御挨拶の見出しである。講演とは書かず御挨拶としたのは、新聞の表記に従っただけのことである。どうでもいいことだが、講演の時は講演で挨拶の時は御挨拶と表記されているのが少し気になる。

それはともかく、上掲の意味はもうおわかりのことだろう、例の話題である。

 創価学会は昨年一一月七日、あろうことか「本門戒壇の大御本尊を信仰の対象にはしない」と、ついに公式に言い切った。

これが浅井先生御挨拶の中身である。新春号掲載の年頭の辞では、これをキッカケにますます天変地夭が盛んになる旨を述べていた。そして今回は見出しにあるように、広宣流布は近いという。大悪は大善の瑞相であると。

しかし、そこには以前のような具体性は見られない。いわゆる、あと○○年というヤツである。

まあ、二百万が一つの具体的目標ではあるわけだが、しかし、その数字にどれほどの価値があるのかがひじょうに疑問である。二百万を達成したところで、だから何なの、それがどうしたの、と言われればオシマイである。活動会員が二百万人もいれば驚くが、実際はまったく違うのだから話にならない。ただし、もし仮に一割が活動会員だとすれば、二百万の時には二十万人が動くことになる。確かにこれはこれで有力な存在なのかもしれない。

つまり、累計の数字ではなく、現実に結集可能な数字こそが眼目であって、おそらくは本部首脳もそこに焦点を当てているに違いないのだ。

男子五万、女子三万、婦人二万。

これがいちおう現時点での結集力と考えられる。すでに十万人の結集力があるということだ。これを五年間で倍増できるかどうか、そこが問われているのである。

最初から水を差すようなことを言うけれども、倍増は難しそうである。せいぜいが微増だろう。それが妥当な見方だと思う。

理由は簡単である。

まず前提として現時点の結集力を十万人とした。すでにしてこれがアヤシイのだ。この数字がどこまで真実であるかが問題で、多くの人が指摘するごとく相当の水増しが行なわれていると考えられる。すると、当てずっぽうではあるが、十万ではなく七万人くらいが真実かもしれない。もし七万が本当ならば、倍増ではなく三倍増でなければ、二十万に達しない。これはキツイだろう。

そして、せいぜいが微増と書いた。

これはデータが物語ることであって、五万人の男子部大会の前には三万人の男子部大会があった。長野のエムウェーブで行なわれたものである。これが五年ほど前の話なのだ。つまり、長野で三万を集めたのであれば、埼玉で六万を集めないと倍増にはならない。現実は五万だった。その五万も粉飾が疑われているわけだが、いずれにしても倍増は実現していない。つまり、この実績を当てはめれば、五年後も同じことが予想されるのだ。

熱心な活動会員たちは希望的観測から、顕正会の戦いは広宣流布に向かってどんどん加速度をつけて行く、などと思っているわけだが、客観的にはひじょうに難しい。おそらくはすでに気がついている会員たちも少なからず存在するだろう。

長々と書いたが、ほとんど無意味な文章である。

活動会員倍増計画は実現困難であるというのが第一点で、もし仮に二十万の活動会員を確保できたとしても、それがどれほどの影響力を発揮するかは未知数であるというのが二点目、つまりは二重の意味で否定的にならざるを得ないということで、こんなことをわざわざ長々と書く必要もなかったというのが結論なのである。

いつも言っているように、広宣流布が近いのであれば、まずは宗門との関係を修復しなければいけないだろう。今のままでは広宣流布のゴールが来る道理がないのだ。

http://blogs.yahoo.co.jp/no_sleep502goal/archive/2015/02/03

これはセロリ氏のわりと最近の投稿であるが、大発見と言ってもいいくらいのものである。実際にはひじょうにわかり難い。事情を知らない人が読めばチンプンカンプンのはずである。しかし、きわめて重要な指摘である。

わたくしの思うに、当時の浅井先生はまだ宗門に期待していた、近い将来、顕正会が認められる日が来ることを信じていた、ところが平成十年以降、事情が変わってしまった、そして先生はある時点で宗門復帰の目がなくなったことを悟った、それから激烈なる宗門批判を展開するようになった・・・

セロリ氏が調べてくれた浅井発言の数々を、当時の背景などを踏まえて静かに観察するならば、上述のようなことが見えてくるのではないかと思う。

よい意味と悪い意味を込めて結論を言えば、浅井先生も人間なのである。

2015/2/2

中心概念と包摂概念  
沖浦氏の情熱には頭が下がる。よくも飽きずに投稿を続けるものと感心する。

 私は何十年もそう言って来ましたよ。

 これも何十年も言って来ました。

 少々臆病に見えます。


細かい内容は省略させていただいたが、ようするに沖浦氏は創価学会よりも先行しているわけだ。創価学会は沖浦氏が何十年も前から言い続けてきたことを、今頃になってようやく言い始めた。しかし、まだオッカナビックリで、遠慮がちに言っているだけである。これが沖浦氏の見方のようだ。

遠慮がちなのは確かにそのとおりだろう。けれども実際は違うのではないかと思う。

なぜならば、彼らは日寛上人の御指南を、あるところは用いてあるところは用いないといった、イイトコ取りを企てているようなのだが、わたくしに言わせれば実質的な全否定に近い。考えても見よ。上人は戒壇本尊本懐論者であり、それがすべてと言ってもいいのだ。ゆえに、それを抜きにしてしまったら文字通りの骨抜きであり、何も残らない。都合のいい部分だけを抽出しようなどと考えるのがそもそもの大間違いなのだ。

また、忠言は耳に逆らうではないけれども、感情論としてもどうかと思うところがある。

仮に五分五分だとしよう。日寛上人の御指南の半分は用いるが半分は用いない。現実的には無理な話だが仮にそのようにしたとする。わたくしの感覚からすれば、半分否定された時点で終わりである。つまり、半分否定されただけでも、感覚的には全否定されたに等しいくらいの衝撃を受けるものなのだ。

わたくしもここでは言いたい放題であり、宗門批判のようなことも書いてきた。おそれながら猊下に対しても批判めいたことを書いたことがある。けれども、たぶん比率としては十のうち一くらい、いや、もっと小さい値だろう。その程度の批判である。これなら批判されるほうも聞く耳を持つかもしれない。

この辺は感覚的なものなので必ずしも正確ではないけれども、おおむねこんな感じであろうかと思う。

すると、残念ながらと言うべきか、もはや創価学会は引き返せないところに足を踏み入れてしまったと考えられるのだ。つまり、今はまだ遠慮がちのように見えるかもしれないが、この先どんどんエスカレートしていく。すでに日寛上人全否定へ向けての第一歩を踏み出してしまった。これはもう、そう簡単には止められないだろう。

ところで沖浦氏は、日寛上人のあの有名な御指南、戒壇の大御本尊を究竟中の究竟・本懐中の本懐と謳われる一段に対して、次のごとく言っている。

 これは大聖人の仏法から逸脱した邪義です。

相変わらず口の減らない御仁であるが、それはさておき、問題は創価学会の見解である。現時点の見解はどうなのだろうか、当該御指南を用いるのか用いないのか、それがひじょうに気になるところである。

ともかくこれでわかっただろう。沖浦氏から見ればまだまだ腰が引けている創価学会ではあるが、日寛上人の御指南をつぶさに拝すれば拝するほど、これは使えない、ということにならざるを得ないのだ。あれも使えない、これも使えない、ぜんぶ使えない。ただ現状では、いわゆる創価学会版の本尊が足枷となっているので、全否定するわけにはいかないのだろう。矛盾が生じないように気をつけながら教義を改変していく。ご苦労なことである。

さて、今日はあまり書く気がしないので、あとは簡単に終わらせよう。

法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。

ここに含むというキーワードが出てくる。あるいは当該御文を持ち出してきて反論を構える人がいるかとも想像したが、さすがにそこまで頭の悪い人はいなかったようである。

弘安二年の御本尊も含まれる・・・

昨日、わたくしはこれに噛み付いた。なんだこの言い方は、ケシカランではないか、ということだ。

これに対して前掲の三大秘法抄の一節を持ち出してくる人がいても不思議はないと思った。ようするに大聖人が同じような用法を使用しているのだからいいではないかというわけである。

面倒臭い議論だ。

たぶん簡単に説明するならば、構造上の違いに気づけ、ということになるだろう。法華経と三大秘法の関係は、蔵と宝物になぞらえるとわかりやすい。蔵の中に宝物がある。当たり前の話だ。
ところが創価学会の言っていることは違うのだ。出世の本懐の本義ないし意義ということだろう。つまり、蔵の話をしているわけではなく、いきなり宝物の話をしているのだ。
ゆえに、もし宝物の中の宝物とでも表現すれば大したもので、これは本懐の中の本懐と同じ意味になる。ところが彼らの言っていることは宝物の中の一つに過ぎないというニュアンスなのである。これはケシカランだろう。

一大秘法、三大秘法、六大秘法、八万法蔵

この関係を等号で結ぶか不等号で結ぶか、考えるとけっこう悩ましい。たぶん、さまざまの解釈が可能なのだろう。

たとえば包摂という概念がある。専門的には違っているのかもしれないが、わたくしは次の法華題目抄の御指南などがそれに相当するのではと思う。

此の経の一字の中に十方法界の一切経を納めたり。譬へば如意宝珠の一切の財を納め、虚空の万象を含めるが如し。

ここでは御本尊と書いておこう。御本尊の中に八万法蔵のすべてが含まれている。

これとは別に中心概念とでも言うべきものがある。先の三大秘法抄の御指南などがそれに相当するだろう。法華経の中に三大秘法がある。あるいは開目抄のいわゆる文底秘沈の御指南もそうだ。直前の説明と合わせる意味で、ここでは法華経の中に御本尊があると書いておこう。この場合、御本尊は法華経の一部分に過ぎないということではなく、ようは心臓部、すなわち中心を意味するのだ。

同じ含むという表現を使うにしても、使い方次第で意味が違ってきてしまうことが、これでよくわかったのではないかと思う。

以上、おそらく創価学会としてはいろいろ苦心した結果、あのような説明文になったのだろうけれども、わたくしに言わせればケシカランの一語に尽きる、というのが今日の結論である。

2015/2/1

今月最初の独白  
蝸牛という変わった名乗りの人物からコメントが寄せられている。どうやら過去にも登場したことがあるらしく、実際に調べてみたところ一年ほど前に来られていた。当時のやりとりを読むと、多少の出入りはあるものの、基本的には同じメンバーで議論が展開されている。主には沖浦氏である。結局はいつまで経っても堂々巡りの議論を繰り返しているわけだ。進歩がない。もちろん、わたくしを含めてである。

そうした中で創価学会は少しずつ変化を見せている。とりわけ昨年の十一月八日に発表された見解は大きな変化であり、自ずと反響も大きかった。そしてつい先日、教義改正についての解説が発表された。

んっ?氏が抜粋してご紹介下さっているので、感想を述べたい。

「日寛上人の教学には,日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と,
 要法寺の法主が続き,疲弊した宗派を護るという要請に応えて,唯一正当性を強調する
 時代的制約のある部分があるので,今後は此の両者を立て分けていく必要がある。
 其の意味で,日寛教学の一大秘法,六大秘法という用語は,今後用いない」


これは一言、自分たちに都合が悪いから用いないと言っているようにしか見えない。それだけの話だ。

「「出世の本懐」の本義は,大聖人の御生涯において,末法万年の一切衆生の救済のために
 三大秘法を確立されたこと,それとともに,立宗以来27年目に,熱原の法難において
 農民信徒たちが大難に負けない不惜身命の信仰を示したことによって証明された
 民衆仏法の確立である。
 大聖人が「弘安2年の御本尊」を御図顕されたことも,此の三大秘法の確立と
 民衆仏法の確立という意義の中に含まれるものと考える」


問題はこちらのほうだ。

んっ?氏はこれをもって、戒壇様を否定していないとおっしゃるわけだが、しかし、いかがなものだろうかと思う。確かに否定はしていない。さりとて積極的に肯定しているようには見えない。つまり、従来の見解からすれば大幅な後退と言わざるを得ないのだ。

三大秘法の確立
民衆仏法の確立

この二項目が出世の本懐の意義だそうである。そして弘安二年の御本尊もこの意義の中に含まれるという。

含まれる・・・

これが気になる表現である。

含まれるというのは全体の一部を意味するわけだろう。含まれないよりは遥かにマシではあるが、しかし、従来は弘安二年の大御本尊がそのままイコールで出世の本懐に位置付けられていたわけだから、明らかなる後退である。より具体的に言えば、一閻浮提総与の破棄である。

三大秘法の確立とは何かが不明である。これを戒壇の大御本尊のことだとすれば、具体性において不満はない。また、将来において本門戒壇を建立するという具体的目標があれば、これも不満はない。しかし、今の創価学会にそうした考えはなさそうである。すると、結局のところ彼らは三大秘法の確立などと言っているけれども、弘安二年のあの時点において、いったい何が確立したのか、まるで説明できていないことになるのだ。

民衆仏法の確立は、まさに農民信徒たちの不惜身命こそがそれに当たるのだろう。彼らは全民衆を代表して不惜身命の振る舞いを示したわけで、これが一閻浮提総与と密接にリンクしていることは自明の理である。

つまり、創価学会側の論理を当てはめるならば、本来、民衆仏法の確立と弘安二年の大御本尊は等値の関係にあるとしなければならないはずである。なぜならば一閻浮提総与だからである。全民衆の帰依と一閻浮提総与とが同等の意義を持つ、これこそが出世の本懐の本義だろう。

此の五字は日蓮出世の本懐なり、之を名づけて事と為す。

御義口伝であるが、この続きが重要なのだ。

日本国の一切衆生の中に日蓮が弟子檀那と成る人は「衆生有此機感仏、故名為因」の人なり。夫が為に法華経の極理を弘めたるは「仏承機而応、故名為縁」に非ずや。

これが熱原の人たちと戒壇の大御本尊との、延いては全民衆と大御本尊との関係であると、こう読むのが従来の創価学会教学だったはずである。それを今回大幅に変更した。民衆仏法の確立のほうは、表現はともかくそれでいいだろう。しかし、三大秘法の確立とは何事か、アイマイにも程があるというものだ。

含むという表現に噛み付いたのは、他にも理由がある。

 一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし・・・

本尊抄だ。

そして聖人御難事には次の一節がある。

 彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをとす事なかれ。

一念三千を識らざる者と愚癡の者どもが相似の関係にあることは誰も疑わないだろう。つまり、前者は全民衆、後者は熱原の人たちを意味するのだ。そしてこれが総別の二義に相当することも、これまた自明の理である。

ならば答えは明快だ。

大聖人のあらわされた曼荼羅御本尊はいずれも出世の本懐に相当するが、別して言えば、戒壇の大御本尊こそが本懐中の本懐である。

 大聖人が「弘安2年の御本尊」を御図顕されたことも,此の三大秘法の確立と
 民衆仏法の確立という意義の中に含まれるものと考える


再掲であるが、この文章がマズイゆえんは改行後の字並びにある。

民衆仏法の確立という意義の中に含まれる・・・

何だかオマケみたいな話ではないか。大聖人のあらわされた御本尊がオマケのわけがない。本尊抄では仏大慈悲を起こしと仰せなのだ。民衆は大慈悲に包まれる側であろう。いや、もちろん、御法門の上では逆の捌き方もあるわけだが、ここでそれを持ち出す人はおるまい。

先ほど御義口伝を引用したが、たぶん創価学会の考え方であれば最低でも等値の関係となるはずである。それをオマケみたいに扱ってどうするのかと思う。

竜門御書に引用されている法華経の一句もきわめて示唆的である。

願はくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん

おそれながら、「普く一切に及ぼし」は一閻浮提総与を示唆し、「我等と衆生と皆共に」は等値の関係を示唆すると、いちおうは解釈しておこう。

最後に重ねて申し上げる。

今回の創価学会の見解は弘安二年の大御本尊を完全否定するものではないと読める。しかしながら従来の見解に比べれば大幅な後退としか言い様がない。どうやら正宗教学を適度に否定し適度に換骨奪胎するという、早い話がイイトコ取りをして教学体系の再構築を考えているような感じがする。しかし、そんな面倒臭いことをやってどうするのかと思う。今までどおりでいいじゃないか、ということだ。


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