2015/3/31

顕正新聞第1337号拾い読み  
種々のコメントが寄せられているけれども、今日はさっそく顕正新聞の話題に入りたい。第1337号だ。

死線に突入する御奉公

第一面には三月八日の日曜勤行指導が掲載されている。全体の内容はともかくとして、部分的に気になったところを書いておく。まずは上掲だ。

シャレた表現とでも言うべきだろうか?

 現世に仏様が宿って下さるのが内証成仏で、これを即身成仏という。「死すれば光を放つ」とは、臨終に成仏の相を現ずるということ、これが外用の成仏であります。

さらっと説明しているけれども、けっこう重要な意味を孕んでいると思う。大聖人は外用の成仏の説明として、死すれば光を放つと仰せあそばしている。これを浅井先生は成仏の相を現ずると書いている。本当に光を放つのか否か、たぶん先生は光を放たないと判断したのだろう。それで成仏の相と言い換えたのだ。教条主義との批判を受ける顕正会だが、この辺は解釈に柔軟性を持たせていることが窺えて興味深い。

 そして、誰が、誰が、戒壇の大御本尊様の御威光を傷つけんとするとも、顕正会ある限り、そんなことは絶対にさせない。

頼もしいではないか。わたくしが宗門復帰論を唱える意味もこれで明瞭となったはずだ。戒壇の大御本尊を誹謗する人たちがうごめく中で、かくも純粋な姿勢を貫き続けていることは、まさに称賛に値することである。これでもしも内心では独立教団路線を志向しているとしたら、とんでもないタヌキジジイということになる。そんなわけがあるまいと思うのだが・・・

さて、別の記事を見ていこう。

大魔

総合女子部長の記事に出てくる単語だが、この表現はめずらしいと思う。それにしても、その大魔が今回の特集号で一瞬にして打ち砕かれた、という意味のことが書かれていて、驚いた。そうなの? そんなに威力があるの? ちょっと誇張が過ぎるんじゃないの?

世界中の騒がしさも、一瞬で立正安国論の決意に昇華される有難さ

総合婦人部長もまた優れた表現力の持ち主で、上掲などはよくわからないけれどもシャレた文章だと思う。昇華は知っていても、なかなかうまく使えない単語である。

副総合婦人部長は二人いるので、古いほうの人と書いておこう。凄いことを言っている。

 先般の総幹部会における浅井先生の重大指導をお聞きして、「最終段階の最後の時がついに到来した」との震える感動がいま幾重にも込み上げてまいります。

最終段階の最後の時・・・

前回、残り五年という記事を紹介したが、まさにそういうことなのだろう。もしこれで、五年後に期限延長にでもなったら、もうオシマイだ。今までだって何度も期限延長が行なわれているのである。そんなことがいつまでも許されるはずがない。

 また先生は、学会の
 「弘安二年の御本尊を否定しているのではない、受持しないだけ」
 との苦し紛れのごまかしを、たった一言で木っ端微塵に打ち砕かれましたが、あたかも塚原問答を眼前にするごとくで、胸のすく感動を覚えました。


塚原問答は申すまでもなく大聖人の御事蹟である。すると彼女は大聖人と先生を重ね合わせて見ていることになる。会長本仏論の危険性を感じさせる記事だ。

かと思えば、次のような記事もある。婦人部池袋支区総班副長の活動報告だ。

入信以来何度も何度も、海のように深く広い大聖人様の仏法をわかりやすく指導下さった先生のお姿と重なり・・・

原文はやや煩瑣なので前半部分を省略させていただいたわけだが、浅井先生といったい誰とが重なって見えるのか、その答えはなんと日興上人である。

最近は言わなくなったものの、ひと頃は日目上人と浅井先生が重なって見えるとよく言っていた。いわゆる目師再誕論だ。そして会長本仏論があり、日興上人再誕論がある。もはや、何が何だかよくわからないが、ともかく偉い人だと言いたいわけなのだろう。

しかし、偉いのは第一線で地道に活動している人たちである。もちろん、浅井先生もそれはわかっているだろうが・・・

 そこにこのたび、二名の総班員が臨終を迎え、御本尊様絶対の確信を深めさせて頂きました。

一人は八十三歳の、おそらくは女性だろう。もう一人は六十三歳の壮年である。登壇者は女子部第三十三区支区長補だが、上掲に総班員とあることからもわかるように総班長でもあるのだろう。男子部ならば支隊長に相当する役職だ。

今や女子部もさまざまで、還暦過ぎの女子部幹部もいる。しかし、彼女は写真を見る限り、そんなに高齢には見えない。三十代だろうか?

わたくしの思うに、亡くなった八十三歳の女性と六十三歳の男性は、本来ならば婦人部と壮年部が面倒を見るべきである。もっとも壮年部はすでに廃部となっているので、男子部が担当することになるわけだが、ともかく三十代の女子部員がやるべき任務ではないはずだ。世間一般の常識からしても、こんな若い女性が身内でもない人の死に関わることなど、普通はあり得ないだろう。偉いの一言だ。

しかし、いわゆる儀礼室での葬儀を行なったか否かについては、その記述が見当たらないのでわからない。もしそこまで面倒を見たとしたら、本当に偉いことだ。

今月は当初の予定通り、顕正会の問題を中心に書いた。予定通りに事が運ぶのは、めずらしいことだ。閲覧諸氏のご協力に感謝したい。

2015/3/29

顕正新聞第1336号の記事から  
大沢氏の迅速なレスポンスには驚いた。しかも内容が的確である。わたくしが更新して三十分足らずの短い時間に、これだけの芸当が可能なのは、日頃の準備に怠りがないからなのだろう。

さて、写真の件で少し揉めているようだが、これは水掛け論になりかねないので、ほどほどにしたほうがいいだろう。いわゆる雑乱勧請の問題を考えるならば、仏壇の中には余計なものをなるべく入れないほうがいいに決まっている。ただし、わたくしの見聞の範囲では、中央の最上段に位牌を据えて下段の然るべき位置に故人の写真を置くのが世間一般の通例のように思えるので、その辺の順列さえ間違えなければそれほど問題ではないような気がするのだ。よって正宗系の場合は、中央最上段に曼荼羅御本尊を安置してあれば、下段のほうに物故者の写真を置いてもいいのではないかと思った次第である。しかし、大沢氏によればそれすらもダメらしい。

もっとも池田大作氏は故人ではないので、その写真を仏壇に飾るのはヘンな気がしないでもない。あるいは生き仏のような意味があるのかもしれないが、しかし、んっ?氏によれば、せいぜい経机の上に写真を置くのがギリギリの線のようである。つまり、仏壇の中には飾らない、いわんや御厨子の中をや、ということらしい。

いずれにしも、沖浦氏が言っているように、創価学会員はひじょうに人数が多いのでマレにはおかしな人がいても不思議はない。そこを針小棒大にあげつらっているような面が我々にはあるのかもしれないと、いちおうは反省しておきたいと思う。

学会副本部長として活動、男子部大会で覚醒
  「学会員を救う特集号」に大衝撃と熱涙
学会幹部の臨終はすべて悪相だった!


さて、わたくしはわりと冷静というか、客観的にものを見ているつもりなのだが、顕正会は丸っきりダメである。その見本が顕正新聞第1336号に出ているので紹介しよう。

「学会より正義にめざめて」

このタイトルは今回が初めてだろう。特集号と連動していることは一目瞭然だ。その登壇の一つが前掲である。副本部長がどれほどの地位なのか知らないが、内容的にはちょっと腑に落ちないところがある。

学会幹部の臨終
  すべて真っ黒


この小見出しのついた一節が問題である。

 私は学会を正しいと信じ、五十五年間の人生を学会に捧げてきました。
 そして学会時代、幹部から「これが成仏の相です」と言われて見てきた、たくさんの学会幹部の臨終の相はすべて真っ黒であり、「黒くなるのが成仏した証拠」と思い続けてきました・・・


五十五年もの間、いったい何をやっていたのかと思う。御書を読んだことがないのだろうか? そんなバカなことはあるまい。

つまり、いかにもウソっぽいのだ。

創価学会員の臨終が悪相かどうかは主観的な部分が少なくないので何とも言えないところである。しかし、彼らも御書を読むわけで、御書には臨終の相についての御指南もある。ゆえに五十五年もやっていれば、しかも副本部長を仰せつかるほどの人物であれば、それを知らないはずはあるまい。ゆえに腑に落ちないと書いたのだ。

もう一人の登壇者についても少し触れておこう。

・・・学会幹部に相談すると、「愚痴と文句は功徳を消す」と言われ、納得がいかなかった私が意見を言うと、「反発する者は第六天の魔王の使い」「組織を乱す者は師子身中の虫」と罵られ・・・

 私も亡き父の遺産を全額供養しましたが・・・

この人は昭和三十五年に入信したという。それで創価学会時代の思い出を語っているわけだが、途中からなのでわかり難い点はご容赦願いたい。ようは顕正会だって似たり寄ったりだろうということなのだ。上段の愚痴と文句は功徳を消すなど、おそらく顕正会経験者ならば、先輩に言われたことがあるし、自分自身も後輩に対して言ったことがある、という人がザラにいるはずだ。下段のほうは正本堂の御供養についてであるが、顕正会も御供養に参加しているので一方的には批判できないはずである。

そして次が問題である。

 学会の早口で長い勤行・・・

あれれ? という感じだ。かつての創価学会は五座三座の勤行をやっていた。その時であれば早口で長い勤行は当てはまる。しかし、近年の創価学会は違うだろう。早口かどうかは知らないが、少なくとも勤行の長さは相当に短くなったはずである。

こんなテイタラクである。

さて、その他の記事も見ていこう。第二十四女子部長のお出ましである。

・・・極限の大謗法を犯した学会を責めんと、先生が新たな戦いを開始された意義の重大さであります。

イジワルな見方かもしれないが、顕正会員は折伏三昧の日々に疲れている。そこで目先を変えて気分転換を図る意味も兼ねて、今回の創価学会破折キャンペーンを開始したのだろう。

いよいよ最後、最重要段階に突入したことを肌身に感ずるものであります。

最終段階という表現はもう使い古された感がある。そこで新登場したのが上掲なのだろう。たぶん初出のはずである。

第十九男子部幹事・第五十八隊長の記事にも類似の表現がある。

いよいよ迎えた広布史上最後の戦いに、悔いなき戦いを決意するばかりであります。

さて、今度は婦人部片瀬支区部長の登壇であるが、ここには久々に会長本仏論を思わせる記述が出てくる。原文はやや煩瑣なので、少し加工した上で紹介させていただくことにする。

大聖人様の「必ず身命を喪わんか」との御覚悟で国主諫暁に望まれた御心と、身を捨てて御遺命守護の戦いに敢然と立たれた先生のお姿とが重なり、ひれ伏す思いになりました。

大聖人と浅井先生とを重ね合わせてはいけない。

「試練と忍従の時代」以来、先生が待ち望まれてきた、顕正会が二百万の仏弟子の大集団になって国を揺り動かす日を・・・

これはじゃっかんアゲアシ取りの気味がなくもないけれども、いつも言っているようにそんな何十年も前から二百万を目指していたなどという話は信用ならないところである。事実、そのような文証は存在しないはずである。

男子部第108隊支隊長は元ヤクザを売り文句にたびたび登場しているが、今回の記事ではヤクザ云々の記述がまったく見当たらない。それはともかく、わたくしはこの記事にいろいろとイチャモンをつけたいと思っている。失礼ながらチグハグ感が拭えないのだ。前の職場にいたら思う存分に顕正会の活動が出来ないので転職したわけなのだろう。けれども結局はまた元の職場に戻ったわけである。まあ、しかし、ここには文章ではあらわせない、さまざまの葛藤もあるだろうから、あまり深く突っ込むべきではないのかもしれない。

有難くも前法戦では支隊結成初の誓願達成も叶えさせて頂きました。

この人がいつ支隊長になったのか確認していないのであまり大きな声では言えないが、しかし、意外な感じがした。ようするに連戦連勝のイメージがあったからである。

残り五年、浅井先生から頂いた支隊長としての使命をよりいっそう強く果したい・・・

なるほど、前述の大幹部たちが「最後、最重要段階」だとか「広布史上最後の戦い」などと言っているのは、残り五年のことだったのだ。しかし、あと五年で終わるわけではあるまい。彼らはそれをわかっているのだろうか?

大音響の「防犯ブザー」

これは販促と呼ばれる記事の一種だと思われるが、なぜか前号にもまったく同じ記事が掲載されている。編集部がうっかりしたのか、あるいはこれを強力に売り込みたい理由があるのか、その辺はわたくしの知るところではない。

最後に創価学会ネタに戻って、婦人部栃木支区部長が興味深いことを言っている。

 四年前、配布先で、「神社の供養を一切やらない、熱心な学会員がいる」と聞いたのがきっかけで、学会の一婦人と出会いました。

四年前はつい最近の部類に入るだろう。創価学会は今も謗法厳禁の精神を堅持していることの証拠と言えるかもしれない。

2015/3/28

二月度総幹部会の会長講演を中心に  
植木職人の件はそんなにイジワルな見方をする必要もあるまいと思う。何となく、顕正会員には貧乏人ばかりのイメージがあるけれども、マレにはお金持ちもいるのだ。同様の意味で、まさか大沢氏がウソの話をでっち上げているとは思えないので、マレにはそういう創価学会員がいるのかもしれない。

閻浮大闘諍、他国来難、日本広布は同時
御遺命を守護し奉った顕正会いま日本を独走
  大御本尊誹謗の久遠院日騰の大罰をみよ


さて、今日は顕正新聞第1336号に載る二月度総幹部会の会長講演を見ていこう。上掲は講演の大見出しである。

まず一段目の一閻浮提大闘諍と他国侵逼と日本の広宣流布は同時との見解は、御書に基づいて論じているので安易に否定はできないところだが、それにしても現状では広宣流布まで相当の時間を要するように思えてならない。そう思うのは凡夫の浅き思慮ということなのだろうか?

ちなみに講演前半の世界情勢を論ずるくだりには、次のような言葉が出てくる。

現在、国際間には、利害はあっても善悪はない。それは、未だ世界を律する法がなく、正しい統治権力がないからです。

浅井流の国立戒壇論の片鱗を垣間見るような文章である。しかし、この件に関して、いまだかつて浅井先生は詳述したことがないのではないかと思う。ごく単純に三大秘法抄を引用して戒壇建立の必要性を云々するだけであって、それが必ずしも政治学などを志す人たちの納得を得るだけの理論には至っていないのではないかと思うのだ。ならば、広宣流布はまだまだ遠いと言わざるを得ないだろう。

次に顕正会が日本国を独走している件については、興味深い事実が紹介されている。

 「日本国を独走」と言うと大仰に聞こえるかも知れないが、そうではない。

なぜだろう。

 世間でも、もう顕正会の力に気づき始めている。

ほほう、それはどういうことだろうか?

 小学館で発行している「SAPIO]という月刊誌がある。政治・経済を中心に据えた総合誌ですが、その一月号で「総選挙と巨大教団」という特集を組んだ。その中で「日本の10大新宗教団体」を挙げているが、一位は幸福の科学、二位は創価学会、三位は立正佼成会、そして第四位に、なんと顕正会が入っていた(大笑)。

現物を確認していないので何とも言えないところだが、確かに四位は凄いことだ。顕正会もメジャーになったものである。続きをご覧に入れよう。

 しかし、幸福の科学、立正佼成会は邪教である。また創価学会はすでに極限の大謗法に堕してしまった。そのうえこれら三団体は、すでに停滞し、活動力を失っている。

邪教だの大謗法だのと言うのは顕正会の宗教的信念だからさておくとして、停滞だの活動力を失っただのと言うのは、はたしてどこまで正鵠を射ているのだろうか?

わたくしの勝手なイメージだけで言わせてもらえば、確かに立正佼成会はそんな感じがしないでもない。けれども幸福の科学は三団体の中では比較的に新しく、近年は政界進出の意欲を前面に押し出しているくらいだから、それなりの活動力を保持しているわけなのだろう。創価学会は言わずもがなである。

つまり、浅井先生としては、現状は四位であるものの、上位三団体がダメなので、顕正会こそが事実上の一位なのだと言いたいわけなのだ。これが日本国独走の意味である。

ところで、例の「学会員を救う特集号」は、二月二十四日の段階で発行部数百三十万部を達成したとのことである。すると今頃は二百万部を超えているかもしれない。

それはともかく会長講演はこれ以降、創価学会のことをあれこれと論じている。

 蛙を茹でるとき、いきなり熱湯の中に入れると蛙は驚いて飛び出してしまう。しかし水の中に入れて徐々に水温を上げていくと、静かに茹で上がるという。

生々しい譬えである。

 曽て学会では、第二代・戸田会長はもちろん戒壇の大御本尊を讃嘆していた。また学会員もみな深く戒壇の大御本尊を信じていた。そのような中で、もし池田大作が大御本尊を否定すれば、重大な騒ぎが出来する。

前掲の譬えと連動していることは一目瞭然であろう。

 そこで大作は、徐々に大御本尊を忘れさせていった。そして「戒壇の大御本尊」の御名も知らぬ学会二世・三世や新入信者の割合が増えてきた今日、ついに戒壇の大御本尊否定という、極限の大謗法に踏み切ったのです。これこそ第六天の魔王の巧妙な手口であります。

池田氏を擁護するつもりはないけれども、これはさすがに考え過ぎだろう。むしろ、いつも言っているように凡夫には未来はわからないのであって、そんな何十年も前から用意周到に事を進めることなど、できっこないことなのだ。今日のような事態に至ったのは結果論であって、どこでどのような展開が待ち受けているかなど、凡夫には絶対にわからないことなのだ。

ただし、宗門と袂を分かった平成以降の二十年ほどのスパンにおいては、浅井先生の言っていることも相当であろう。

江戸大地震で横死

最後は久遠院日騰の大罰についてだが、久遠院日騰上人と書くべきなのか久遠院日騰師と書くべきなのか、ちょっとわからない。御書全集の冒頭では日亨上人が前者の表記を用いている。また、おそらく現宗門の平均的な表記としては後者が使われているのではないかと思う。顕正会の場合は彼を謗法者と見なして呼び捨てにしているのかもしれない。

ともかくも彼は震災で亡くなっているわけだが、このことに関して日霑上人ないし日柱上人が筆記を残されている。

 ここに日霑上人は、御自身の所懐を一紙に記された。これを第五八世日柱上人が所持され、その写しを私は保存しております。

御筆記の内容は省略しよう。実はこの話、わたくしはずいぶん前に耳にしている。たぶん昔の冨士ないし顕正新聞を調べれば出てくるだろう。それを確認していないので甚だ恐縮なのだが、当時はあたかも原本を所持しているような表現をしていたのである。ところが今回は写しであると言っている。写しならば、さもありなん、である。しかし、原本だとすれば、なぜに浅井先生がそれを所持しているのだろうかと不思議に思うし、先生は凄い人なのだと錯覚してしまう。いずれにしても、これはアイマイな記憶を頼りに書いていることなので、その点はくれぐれもご注意願いたい。

2015/3/27

顕正新聞第1335号精読  
沖浦氏いわく、顕正会に未来はない、と。これは一連の怨嫉謗法云々の延長線上に位置する話なのだろうが、それよりも先日の後継者がいない云々の話のほうが深刻だろうと思う。顕正会は浅井先生に代わる人物がいない。一から十まで浅井先生にオンブダッコなのである。ゆえに先生がいなくなったらオシマイなのだ。

顕正新聞の特集号も基本的にはオンブダッコである。すなわち浅井先生の講演をベースに構成されるのが特集号だからである。

近年、顕正会の折伏の形態も変わってきている。いわゆる特集号を武器に折伏するのだ。

若い世代の顕正会員は学生時代の名簿を頼りに折伏をする。現役の学生はもちろんのこと、三十代くらいまではそれが可能だろうか? しかし、それがいつまでも通用するわけがない。何しろ片っ端から折伏していくので、いずれは対象者が尽きてしまうのだ。
また、近年は後期高齢の入信者も目立つ。この人たちの名簿は手つかずでキレイではあるが、しかし、もう何十年も前の名簿が有効かどうかは疑問である。連絡の取れない人のほうが多いかもしれない。
そこで登場するのが訪問折伏である。一軒一軒、いわゆる戸別訪問をするのだ。友人だの知人だのは関係ない。知らない家を片っ端から訪問していくのである。その時の武器が特集号なのである。

そりゃそうだ。見ず知らずのお宅を訪問して、いきなり折伏したところで、わかりました、入信します、とはならないだろう。そこで特集号が大いに活躍するわけである。つまり、訪問折伏においては特集号が頼みの綱なのである。

ようは特集号の出来・不出来によって、結果が変わってくるということだ。

つまりは、浅井先生の講演のクオリティにすべてが懸かっているわけであり、また、それがために顕正新聞の発行が遅れがちでもあるわけだ。読者にツマラナイと思われたら、そこで終わりだからである。

そして今回の特集号は創価学会員をターゲットにしたものであり、ある意味では浅井先生にとって得意中の得意の分野なので、相当の力作となっている。これを今、顕正会の活動会員たちが精力的に配布しているわけである。

そんなわけで、何重もの意味でオンブダッコの状態になっている。とりわけ今回の場合は、御遺命守護の歴史として浅井武勇伝が語られている。記事のベースとなっているのは昨年末の総幹部会講演であり、言うまでもなく講演者は浅井先生である。そして今述べたごとく、過去の経緯として己の武勇伝が語られるのだ。文字通り、浅井先生に始まって浅井先生に終わるといったテイタラクである。

ゆえに、顕正会は浅井先生がいなくなったらオシマイ・・・というのは、それほど誇張された話ではなく、かなりの蓋然性で言えることなのだと思う。

さて、昨日は見出しばかりを列挙して、中身にはほとんど触れなかったので、今日は本文中から注目すべき文言を拾い出してみようかと思う。

正本堂が崩壊したように、いよいよ池田創価学会が消滅する時が来たこと、命の底から大確信したものであります。

第二十四女子部長の登壇である。凄いことを言うものだが、はたしてどこまで本気なのか、そこが疑問である。現実問題として、大聖人がいわゆる四箇の格言をもって破折した念仏等の諸宗は、今も存在している。この意味からすると、かなり難しそうに思えるのだが、いかがなものだろうか?

次は男子部第二十九隊総支隊長補の記事である。

 そこに今、この年を前もって「国難元年」と銘打たれた浅井先生の深きご見識と洞察力に、畏敬の念が込み上げるものであります。

昨年十一月に創価学会が教義改変を行ない、あろうことか戒壇の大御本尊を否定するに至った。彼が言っているのはこのことである。十一月に起こるであろうことを年初に予言していた。いや、そうは言っていないのだけれども、何となくそんなニュアンスの感じられる文章である。

一方、男子部第四十八隊支隊長は、創価学会婦人部の発言を次のようにあげつらっている。

学会婦人部の者は、・・・池田大作が書いたとされる大量の本の写真を見せながら
 「これだけの本の数は、ゲーテより凄いんだよ。あの仏に近いゲーテだよ」と誇らしげに話す始末で、このような姿に哀れさを感じました。


浅井先生と池田氏とで著作の数を競わせたら大差である。まったく話にならない。しかし、上掲のような意味不明のセリフを紹介することで、創価学会のイメージダウンを図っているのだろう。

あの仏に近いゲーテだよ・・・

確かに意味不明である。閲覧者諸氏の中で、この意味を説明できる人がおられれば、ぜひともお願いしたい。

さて、今度は婦人部片瀬支区総班長の記事であるが、彼女の目撃談には驚いた。創価学会員宅の仏壇の中の様子を次のように説明している。

なんと御本尊の両脇に、池田大作とドレス姿の香峯子夫人の写真が飾ってある・・・

これはどうなんだろうか、創価学会員の釈明を聞きたいところだが、わたくしの思うに御厨子の内側か外側かがポイントとなるだろう。内側なら大問題だが、外側ならそれほどでもないと思う。

それからどうでもいいことを書いておくと、

我が家に出入りしていた植木職人・・・

ほう、この婦人部総班長はけっこうなお金持ちらしい。わたくしも植木職人を頼むような身分になってみたいものである。

次に紹介する男子部第三十一隊支隊副長は、わたくしの記憶が正しければ顕正新聞論説委員のはずである。

昨年八月二日、大聖人様より国家存亡の危機を見せて頂いた以上・・・

たぶん多くの読者が意味不明に思うだろう。これは当時の新聞が中国の核戦力について報じたことを言っているわけだが、わたくしには一つだけ拭えない疑問がある。当時、これを報道したのは二紙だったと思う。つまり、全紙が一斉に報道したわけではないのだ。それでいてご覧のごとく大仰な言い方をするのはどうかと思うのだが、いかがだろうか?

婦人部銀座支区組長は見るからに高齢であるが、このたび折伏理論書を学んで次のように語っている。

 先生は、細井管長が態度を二転三転する中、猊下の立場を守られつつ、池田大作の御遺命破壊を大聖人様の御金言を以て破折し続けられましたが・・・

猊下の立場を守られつつ云々と、ああ、なるほど、ちゃんと読めているようだ。だったら、ずっと猊下の立場を守り続ければよかったのにね、と思う。

婦人部浜松支区 ○○ ○○○

最後に、上掲は「成人式に参列して」と題する登壇である。オイオイ、なんで婦人部なんだよ。

2015/3/26

顕正新聞第1335号拾い読み  
トチロ〜氏と言い、沖浦氏と言い、立場は丸っきり異なるものの、ほぼ同様の見解のようである。

ただ、「学会問題」=「宗門問題」というように同じ出来事でも立ち位置によって呼び名は変わるもので、今回の「本尊模刻の正信会問題」との呼び方は法華講員はしませんからね…。

実に明快だ。決定的な証拠があるわけではないにしても、書けば書くほどボロが出ることは間違いない。彼らがそれを承知で今後も書き続けるかどうか、注目したいところである。

 富士ボー閉鎖と、ここでの怨嫉謗法書き込み増加の関連は、貴方がご指摘の通りだと思えます。

これも決定的な証拠があるわけではないけれども、あそこには高頻度で投稿を続けていた人がたくさんいたので、その彼らが掲示板がなくなったからと言って静かにしているとは思えない。ましてやマグマグ氏へ呼び掛けるような意味のコメントまで残されているのだから、これも傍証の一つと言えるかもしれない。

なお、管理が大変かどうかについては、そうでもないと答えておきたい。憂鬱な日々と題して書いたので、心の優しい人たちは心配しておられるのかもしれないが、十年もやっていればいろいろなことがあって当然である。もはや少々のことでは動じない。わたくしとしてはそのような境地(?)に達しているつもりなのだ。

そしてもう一つ書いておこう。

沖浦氏もトチロ〜氏もわたくしの論敵である。謀略者たちには思いも及ばないかもしれないが、両者とはかなり激しい議論をしてきたつもりであるし、また今後もそういう機会があるに違いない。ただし、二人はオトナなのである。オトナの対応が出来るのだ。つまり、ここ一連の不穏な空気に関しては、黙視するわけにはいかないと考えられたのだろう。俗に言えば義侠心みたいな感じだろうか?

この件は以上である。

さて、今日は顕正新聞第1335号から話題を拾うことにしよう。第一面は広布御供養奉告勤行会の浅井先生講演である。十二月二十八日に行なわれたものだ。講演の内容については特に書くことはない。問題は二月二十五日号に年末の記事が掲載されることである。この時間差は何なのだろうかと思う。

そして二面以降、登壇記事がぜんぶで二十一本あって、そのうち創価学会関連を窺わせる見出しのついた記事が十三本ある。今回も列記してみよう。

先生は学会員の成仏をも願われる
 特集号に込められたご慈愛に熱涙

特集号に込められた先生のご慈愛
 毒気深入の学会員も救われるを確信

学会員を騙す池田大作一党に憤り
 入会した自分こそ学会員を救わん

「聖教新聞に内心ヒヤッとした」
 極限の大謗法に学会員が動執生疑

学会元副本部長が絶句し動揺
 何も知らず功徳失う学会員が不憫

「ついに行くところまで行ったか」
 学会の大謗法に入会の学会員も衝撃

「余は二十七年なり」まで歪曲した学会
 先生のもと如説修行が叶う有難さ

衝撃だった学会の「極限の大謗法」
 「八百万学会員を救いたい」に熱涙

学会で全盲になった婦人が入会
 御遺命の正義を知り大歓喜

80歳の学会員が求めるように入会
 逆縁だった学会員は湯船で変死

成仏の大事を教えて頂ける有難さ
 学会では成仏のことを全く聞かず

功徳なき学会で心身ともに疲れ切る
 顕正会に入会し「有難い」の毎日に
「折伏理論書」を拝読、涙あふれる

先生はただお一人で御遺命を死守
 誰人も真似できぬ激闘を知り涙
特集号を手に岡山学会員を救わん

 
ヤレヤレ、である。しかも見出しだけではわからないものの、これら以外にも創価学会ネタの記事が何本かあるのだ。特集号の出来以降、まさにオンパレードである。

広布史上歴史的な特集号

なるほど、これは第七婦人部長の言葉であるが、この調子で行くと当分は続きそうである。具体的にいつまでかはわからないが、少なくとも次の特集号が出来するまでは続くだろう。

「日本国債はリスクになり得る」
 黒田総裁発言(経済財政諮問会議)議事録から削除

東電 汚染水海洋流出を一年も隠蔽
 これでも「コントロール」か‼


このところの顕正新聞は登壇記事ばかりで手抜き編集の印象を拭えないが、今回はご覧のような時事ネタが掲載されている。いずれも良質な記事であり、大手メディアがあまり熱心に取り上げない事案なので、その意味においても貴重な情報だと思う。今後も編集部の健闘を期待したい。

2015/3/25

憂鬱な日々  
このところトチロ〜氏がたびたび来られている。当初はわたくしの無条件降伏論があまりにも極論すぎるので、思わず反応してしまったのだろうと考えられたが、しかし、直近のコメントを拝見すると、別の意図があるようだ。おそらくは拙ブログの異変に気づいて、その推移に注目しているのだろう。異変とはコメント投稿者たちの顔ぶれの変化である。早い話がウサン臭い連中が跋扈している状況のことだ。

軍楽しょう氏はナリスマシということで、ほぼ確定のようである。あれ以来、まったく音沙汰がない。もはや釈明の仕様がないほど、バレバレということだ。

他にもウサン臭い連中が何人か居座っているが、その代表格はやはり次のコメントを書いた人物だろう。

折角の連休なのに、『顕正新聞』に向かって、「一人ツッコミ・一人ボケ」をするしか、他にやることのない淋しい御仁は可哀想だと思いますが。(大笑)

これはわたくしに対するイヤミ以外の何物でもない。どうやら挑発的なことを書いて反応を窺っているようだ。

腹立ち半分だが、せっかくなので正直な感想を書いておこう。

なかなかうまいと思った。一人ツッコミ・一人ボケは言い得て妙である。何しろ独白ブログなのだから、まさにご指摘のとおりである。自虐的ながらもこれには同意せざるを得ないところだ。

しかし、ありがたいことに拙ブログには多くのコメントが寄せられる。沖浦氏がその最大の功労者だが、その他にもそれこそ宗派の垣根(?)を越えて、多方面からコメントが寄せられる。もし十年間、一つのコメントも寄せられなかったら、それこそ正真正銘の独白であり、ご指摘のとおり寂しい限りだったろう。もっとも、そうした状況下で十年間にわたって独白を続けられたら、それはそれで一種の偉業だろうとは思うが・・・

そこで貴辺に提案しておきたい。ご自分でブログをやってみたらどうかと。己の主義主張を思う存分に書くことが出来るのだ。悪い話ではないだろう。

ちなみに、わたくしはずいぶん前に、他の人に対して同様の提案をしたことがあった。その人はその後、しばらくしてから自分のブログを立ち上げた。瑠璃堂氏である。結果は大成功で、氏のブログは多くの人から注目を集め、メールで脱会相談などを行なったり、最近はツイッターのほうにも力を入れているようで、いわば八面六臂の大活躍といった感じである。

ゆえに貴辺にも提案したいと思う。

ただし、実際にブログを立ち上げて、どういう結果になるかはわたくしの知ったことではない。幸いにも拙ブログはそれなりに注目され、自分でもそれなりの手応えを感じることが出来たわけだが、誰もが同じ結果を得られるわけではない。店を出せば誰もが繁盛し儲かるわけではない。閑古鳥が鳴く結果に終わることだってザラにあるのだ。それと同じ理屈である。

さて、ここまで読んで、どう感じただろうか?

いちおう、わたくしなりの反論のつもりである。他人のやることなすことにイチャモンをつけるのは簡単だ。拙ブログにおける顕正新聞批判も同様であって、単なるイチャモンに過ぎないと言われればそうかもしれないと思う。しかし、そのブログにイチャモンをつけている人はいったい何なのだろうかという指摘もあり得るだろう。駕籠に乗る人担ぐ人そのまた草鞋を作る人、である。

だったら自分でブログをやってみたらいいのだ。あえて挑発的に言えば、たぶん無理だろう、貴辺には無理だ、できっこない、ということになる。

ちなみに、今日の話のヒントは次のくだりにある。

大沢某・沖浦某の低レベルな投稿に、厳虎さんが御丁寧に答えている事によって、この掲示板の水準が更に下がっている様子を例えると・・・

貴辺は拙ブログのコメント欄を掲示板と勘違いした。掲示板を悪く言うつもりはないが、ブログ等の個人サイトを持たず、掲示板のみに書き込んでいる人は、自分に自信がないのかもしれない。あるいは自分で自分に責任を持てない人なのかもしれないと思う。ハンドルネームと言えば聞こえはいいけれども、匿名と言えばガラリと印象が変わる。いわば匿名で言いたい放題をしているだけの無責任な人なのだ。貴辺はそういう人種なのかもしれない。

三月十六日に富士宮ボーイ掲示板が終焉を遂げた。かの掲示板は創価学会系の老舗掲示板で多くの人が出入りしていた。面倒なので細かいところまでは読まなかったが、いちおう定期的に開いていたので、おおよそのことは承知しているつもりである。昨秋の創価学会の教義改変あたりから自界叛逆の様相を見せ始め、一向に収まる気配がなかった。そこで管理人が店じまいを決断したのだった。

これに前後して、拙ブログの異変が始まった。このように感じるのは、わたくしだけであろうか?

2015/3/22

顕正新聞第1334号精読  
同じ文章を繰り返し貼り付けている御仁がいる。例の長ったらしいハンドルネームの人だ。

もっといろいろ工夫して書けばいいのに、そうすればわたくしも興味を持って取り上げるかもしれないし、他の読者のためにも有益だろう。

なぜ、そうしないのか?

わたくしは二つの可能性を考えている。一つには底の浅さがバレてしまうからであり、もう一つには己の正体がバレてしまうからである。

同じ文章を繰り返し貼り付けている段階で、すでに己の底の浅さを露呈しているようなものであるが、いろいろなことを書けば書くほど、それがバレてしまう。そこが文章の恐ろしさである。
かく言うわたくしも同じことであって、もう十年も書き続けているので、眼光鋭い読者にとっては巌虎の人物像が手に取るようにわかるであろう。
ひるがえって、くだんの人物も多くの読者たちの目に晒されていることを自覚すべきである。コピペに終始しているようではいけない。もっといろいろと書くべきである。

御遺命守護の時代はいわば伝説化されており、浅井武勇伝にしてもそうだが男子精鋭二千も再検討する必要があると思う。ようは大袈裟すぎるのだ。

その関連において、近年の顕正会員のレベル低下に比べれば当時の妙信講員はベラボウにレベルが高かったという見方があるけれども、わたくしはそれに対してじゃっかんの異議を差し挟みたい。ようするに全員がそうだったわけではないのだ。当然ながら、デキの悪い人もいたのである。ましてや、あれから何十年も経過しているわけで、その間にサボっていれば結果は知れたものである。ただでさえデキの悪い人が、長年サボっていれば、頭の中はカラッポになってしまうだろう。誰のことを言っているかはご想像にお任せする。

そしてもう一つの可能性、すなわち己の正体がバレてしまうから・・・というのは、ようするにくだんの人物は妙信講の古参を騙っているけれども、実はまったくの門外漢なのではないかとわたくしは睨んでいるのである。

これは今までの文章だけでも相当の部分、その片鱗を窺わせるところなのだが、さすがに材料が足りな過ぎる。ゆえに、もっと書けと言っているのだ。書けば書くほど、その人物像が明確化される。文は人なりである。ましてや書けば書くほどボロが出てくる。あれ? こんなこと妙信講員が書くかな? というような場面がたくさん生じてくる。わたくしはそんなに古い時代を知っているわけではないけれども、拙ブログの読者の中にはそういう人もいるだろうから、おかしなことを書けばその人が指摘してくれるだろう。

さて、どうするか、大いに注目である。

では本題に入ろう。昨日に引き続き顕正新聞の話題である。

・・・ご雄姿はあまりに眩しく、そしていよいよこれからが先生の最後の戦いなのだと、伏して思うものであります。

総合女子部長の登壇であるが、わたくしは先生の最後の戦いというフレーズに哀惜を感じる。不謹慎ながら、さすがに先生も高齢であるからいつ逝ってもおかしくない。彼女もそれをわかっているのだろう。

 いま、いかなる宿縁か、自分ごとき者が国立戒壇の御遺命が実現する前夜に・・・

男子部第五十五隊班長の登壇である。この人は一昨年の八月に創価学会から入会してきたという。前夜はもちろん譬喩であって、まさか明日の朝には国立戒壇が実現するみたいな、一夜城のような話をしているわけではないのだろうけれども、彼らは広宣流布甚だ近しという意識を持っていて、熱心に活動しているわけである。はたしてこれがいつまで持続するかである。ご存知のごとく顕正会は定着率が悪い、熱心な活動会員であってもいつ退転するかわからない、という問題を抱えている。やがてはこの人も顕正会の実態に失望し、去って行くことになるかもしれない。

さて、次は婦人部片瀬支区部長の記事である。

 一昨日、「正邪を決したい」と申し出てきた学会幹部に対し、一組長とともに真心で折伏に当ることができ、感激でいっぱいであります。

・・・ワクワクして待っていると、四〇代だという二人の学会幹部がやってきました。

 彼らはびっしり書き込んだ御書を大事そうに持っていましたが、こんなに熱心な青年たちも、学会員であるゆえに正しい教学を学べないのだと・・・

わたくしの着眼点を書いておこう。

四十代の創価学会幹部=熱心な青年?

失礼ながら彼女はそれ相応の年齢らしい。四十代は青年ではなく壮年だろう。それが一般的な認識のはずだ。しかし、彼女から見れば若く見えるのかもしれない。また、高齢化の進んだ現代においては、四十代も青年にカテゴライズされつつあるのかもしれない。

それはさておき、彼女は二人の青年に対し、次のような印象を述べている。

こちらの話は一切聞かない謀略部隊とは違う真摯さを感じました。

なるほどね、ネット上も似たり寄ったりである。

今度は婦人部越谷支区部長である。

 この人は、池田大作を「学会第二代・戸田会長より偉いんだ」とよく言っていたので・・・

こういうのがよくわからない。大聖人より日興上人のほうが偉いんだ、日興上人より日目上人のほうが偉いんだ、みたいな話だろうか?

女子部第百二十一区総班長の記事も創価学会ネタであるが、わたくしはそれとは別の部分に注目した。登用試験の参加率である。

昨年比三百%の九名の参加が叶いました。

近年、成果をパーセンテージで表現する記事が目立つ。これが何となくイヤらしい。わたくしは数字オンチなのでよくわからないのだ。ようするに上掲の場合は前年比三倍の伸びという意味だろう。三人から九人に増えたわけだ。

しかし、これが十人単位・百人単位になると大変である。十人から三十人へ、百人から三百人へ、同じ三倍であっても中身は異なる。大変さが異なるのだ。

浅井先生はこの点を見落としているのかもしれない。悪く言えば、自分が現場に出て苦労していないから、わからないのだ。

「末期肺癌」の宣告に頭が真っ白!
 「成仏できれば本望」と肚を決め切る
 「癌が消えている」医師の言葉に感泣


婦人部仙台支区班長の体験発表にイチャモンをつけておこう。この人は糖尿病を患っていて定期的に通院しているようである。ある時、胸のレントゲンを撮り、医者から次のごとく言われたそうである。

落ち着いて聞いて下さい。写真に影が見られます。もしかしたら、末期の肺癌かもしれないです

医者のほうこそ、もっと落ち着かないといけない。いきなり末期の肺癌かもしれないなどという医者がいるとは思えないが、これが事実ならば落ち着くのは患者ではなく医者のほうだろう。普通は、腫瘍のようなものが見えます、悪性だといけないので詳しい検査を受けてみましょう、といった説明をするのではないかと思う。顔馴染みの関係であれば、癌かもしれないと言うかもしれないが、それにしてもいきなり末期癌かもしれないとは言わないだろう。

国内最大の学会で研究発表が叶う
 大手企業から共同研究の申し出も
広布を見つめ「妙法の医学」実現を


最後に女子部90区長の体験発表を紹介しよう。わかりきったことだが、上掲の学会は創価学会のことではない。当該号は見出しに学会の文字がたくさん躍っているので、ちょっと紛らわしい意味がある。これを踏まえて拙ブログではなるべく学会ではなく創価学会と書くように心掛けている。面倒臭いようだが、そのほうが紛れがない。

体験発表の中身は素晴らしい。しかし、わたくしが注目したのは別の部分である。

「あと十有余年しかない広宣流布の戦いに、自分も社会人となり、経済的にも自立し、もっと御奉公させて頂きたい。力をつけて、先生のお役に立たせて頂きたい」

彼女は大学生の時に大学院に進むかどうか悩んでいた。その結論が上掲である。すなわち大学院への進学を断念し、就職したのだった。そして次の一段が注目である。

 いま社会人となって一〇年・・・

ようするに、あと十有余年を云々していた時から、すでに十年の歳月が流れているのである。すると、あと有余年、ということか? 普通は有余年とは言わないだろう。つまりは、あと数年、である。

けだし、先生の最後の戦い、と言い、広宣流布の前夜、と言うも、あと数年のことなのだと。

さすがに穿ち過ぎだろうか?

2015/3/21

顕正新聞第1334号を中心に  
いよいよ馬脚をあらわし始めたようである。次のコメントがまさにそれである。

大沢某・沖浦某の低レベルな投稿に、厳虎さんが御丁寧に答えている事によって、この掲示板の水準が更に下がっている様子を例えると、「住民が野良犬にエサを与えて、狂犬化させてしまった」ようなものだ。(爆笑)

大爆笑だ。

掲示板の水準? 何を寝ぼけたことを言っておるのかと思う。ここは掲示板ではない。個人のブログである。そのブログのコメント欄に各方面からさまざまの声が寄せられているのだ。貴辺もその一人であるが、何の制限もなく投稿できることを深く考えるべきだろう。

しかもである。再掲しよう。

大沢某・沖浦某の低レベルな投稿に、厳虎さんが御丁寧に答えている事によって・・・

何を寝ぼけたことを言っておるのか、貴辺も耄碌したものである、ここ最近において、わたくしがいつ彼らに御丁寧に答えたと言うのだろうか、そんな事実はどこにもない。

ご存じないようなので書いておくが、大沢氏はかつて頻繁にコメントを寄せていた。しかし、ここ数年はまったくのご無沙汰だった。その理由はいわばケンカ別れのようなものである。わたくしの口舌の徒ぶりに業を煮やして去って行った、それが大沢氏である。先月あたりから再び頻繁に投稿するようになったけれども、わたくしは必ずしも氏の投稿に対して丁寧に返答しているわけではない。

また、沖浦氏は拙ブログが独白を看板に掲げていることをよく承知していて、こちらが何も反応を示さなくても苦情めいたことはまったく言わない。実際問題として、今月は顕正会の話題ばかりを取り上げているので、沖浦氏に対しては挨拶程度の応対しかしていない。これが事実である。

以上、貴辺は一個人のブログに過ぎない巌虎独白を掲示板と勘違いし、しかも独白ブログであることを弁えずに返答がないことに不満を漏らし、かつまた大沢・沖浦への対応との差を詰るがごとくの言動をしている。これらは単なるイチャモンに過ぎないことを自覚すべきだろう。こんな御仁が妙信講の大先輩だとしたら恥ずかしい限りだ。

さて、今日は顕正新聞第1334号である。

 日興上人はつねづね「上野殿御返事」の
 「今末法に入りぬれば、余経も法華経も詮なし、但南無妙法蓮華経なるべし」
 との御文を、噛んで含めるように、繰り返しお説法されたという。


二月七日の会長講演であるが、この部分がわからなかった。日興上人が具体的にどのような御指導をあそばしていたかについて、浅井先生は上掲のごとく言っているわけだが、この根拠はどこにあるのだろうか?

ご存知の人がいれば、ぜひともご教示願いたいと思う。

二面以降は各種の登壇記事がぜんぶで二十本掲載されている。先日の軍楽しょう氏ではないが、これらを隈なく読んでいる会員は少ない。ヘタすると、顕正新聞の編集部だって読んでいないかもしれない。テキストデータを機械的に入力するだけであれば、読んで内容を理解する必要もないからである。

まあ、しかし、今回の記事群にはそれなりの特色があって、たぶん斜め読みしているような人たちも、一つの傾向に気がついたはずである。

「学会員を救う特集号」こそ決定的な楔
 学会員の道念に訴え全員救わん

「道念ある学会員なら必ずめざめる」
 特集号で広宣流布は加速を大確信

先生は学会員の臨終をも憂えられる
 「道念とは臨終を憂えること」に感涙

「池田大作は戒壇の大御本尊の敵」
 「学会員を救う特集号」で戦わん!

今こそ背正帰悪の真只中
 「特集号」片手に全学会員を救わん

大聖人の絶大威徳を拝せる有難さ
 学会では「人間革命」を「現代の御書」と

原田稔の欺瞞と謀りを一刀両断
 学会員は必ずめざめるを大確信

「何としても八百万学会員を救いたい」
 先生のお心を思い胸が熱くなる

学会員を救わんとのご慈愛に熱涙
 学会崩壊と広宣流布近しを確信

「学会員を憎いと思ったことはない」
 先生のお心を知り学会幹部が驚く

「学会もとうとうここまで来たか」
 学会歴50年の幹部が動執生疑!

学会員を堕獄へ導く魔の本性 露わ
 「池田大作こそ天魔でなくて何か」

極限の大謗法に学会員が動揺!
 池田大作に騙された学会員を救わん

「学会員を救う特集号」の威力!
  多くの学会員に動執生疑が

「お題目は日蓮大聖人の御名」に大感動
 学会では「南無池田大聖人」と唱える
「折伏理論書」拝読、悪師に付く恐ろしさ実感


一つの傾向とかの問題ではないかもしれない。ともかく特集号の話題で持ち切りなのだ。創価学会員はこれをニガニガしく思うかもしれないが、わたくしを恨んではいけない。文句があるならば顕正会本部に言うべきだろう。

個々の記事についてはいろいろ興味深いところであるが、やはり最後の記事がひじょうにセンセーショナルだ。まさか本当だろうか、さすがにそれはないだろう、と思うのだが・・・

学会の先輩より「池田先生は大聖人様だから、南無池田大聖人様と唱えなさい」と言われていたことから、必死に勤行で「南無池田大聖人」と唱えておりました。

先ほども少し触れたように、今回に限らず拙ブログの存在そのものをニガニガしく思っている創価学会員もいると思う。何しろわたくしは宗門シンパを標榜しているくらいであるから、創価学会系の人物から睨まれても仕方がない面があるのは否めない。しかし、上掲の記事を紹介する目的はむしろ正反対の意味があるのだ。

ようするに、こんなことは常識的に考えられない、南無池田大聖人だなんて、誰が考えたってあり得ないだろう、むしろこんな記事を載せる顕正新聞こそウサン臭い、ということなのだ。

わたくしは顕正会に辛いのだ。顕正会のダメさ加減にスポットを当てるのが拙ブログの目的と言ってもいいくらいなのである。

一方、宗門には甘い。これは誰かに言われるまでもなく、自覚していることなのだが・・・

2015/3/20

うごめく謀略者たちを尻目に  
いつものことながら、各方面から種々雑多のコメントが寄せられて、とてもじゃないが対応し切れない状態だ。そういうわけで、不満もあろうかと思うが、いつものごとく必要最小限の対応で済ませたい。

2015/3/20 7:48
投稿者:ミズスマシ
厳虎さんへ、
2015/3/18 9:47の投稿者:軍楽しょう氏はなりすましだそうです。

とバーズ氏のブログに書いてありました。


ナリスマシかどうかはその気になれば調べることが出来る。バーズ氏と連絡を取って、IT情報を交換すればいいのだ。ただし、現時点ではそこまでやるつもりはない。

2015/3/18 9:47
投稿者:軍楽  しょう
巌虎さん、初めまして。

5級試験での合格者数が、113箇隊中18箇隊でゼロ0とは気付かなかったです。そんなに新聞を読んでないので。幹部が新聞代を払ってくれてますので。

女子部や婦人部はどうですか?調べて後日お載せ下さい。

こんな低たらくなら、登用試験はモット悲惨でしょうね。

さて、バーズさんは雲隠れしてますね。山門さんにコテンパにやられ、敗走してしまったのか?意外にバーズさんは弱いのですね。口だけの人?

ひょっとして死んでるのでしょうか?病気で苦しんでいるのか?心配です。

いずれにせよ、私もこのまま顕正会にいて良いのか、解らなくなりました。
組織に何ら、歓喜はありません。全然まとまりがありません。


私の紹介者も、退転しました。ヒトに勧めておいて、無責任ですよね。


ナリスマシだとは思わなかったが、不自然であることは確かだ。

なぜならば彼は一時期、バーズ氏のブログによくコメントを書いていて、わたくしもそれを目撃していた。男子部大会の前後においては、軍楽隊の一員として妙法の音楽を奏でられることの感激を語っていた。バーズ氏も音楽には造詣が深いので、話が合ったのだろう、その話題で盛り上がっていた。ゆえに上掲の文章は、それとは明らかに落差がある。

人の心は移ろいやすいということなのだろうか?

いずれにしても本人からの釈明を待つことにしよう。今の段階でああだこうだと断定するのは早計であるし、失礼でもある。

さて、それはそれとして、書くべきことがある。わたくしは今朝のナリスマシ情報がもたらされるまで、上掲の文章をベースに書こうと思っていたことがあるのだ。しかもそれは現時点でも有効である。

まずはセロリ氏のブログを紹介しておこう。

顕正新聞平成27年2月25日号の登用試験の合格発表を見ましたが、

なんと男子部の第18男子部は合格者が一人もいませんでした!

1月度総幹部会で部長が交代しておりますから、間違いなく存在する部のはずです。


http://blogs.yahoo.co.jp/no_sleep502goal/13408713.html

これは組織の空洞化が始まっている証拠として掲げられたものであるが、わたくしはこのところボケッとしていて、これにはうっかり気がつかなかった。

合格者が一人もいない。これは悲惨である。他のところを見ると、平均で二十人前後の合格者がいる。そうした中でゼロは組織崩壊の姿そのものである。また、平均二十人と書いたが、第十九婦人部は合格者が一人である。これも凄いことだ。ゼロよりはマシであるものの、いわゆる部の単位としては恥ずかしい限りである。

さて、ここで反論(?)の可能性を書いておこう。たぶん部外者にはわからないだろうけれども、顕正会の内部にいる人ならば反論があるに違いない。ことに本部首脳は思っているだろう、巌虎よ、事実誤認もほどほどにせよ、と。

反論に(?)をつけたのには意味がある。反論は反論でも自爆的反論だからである。

わたくしは気になって、登用試験の結果だけでなく、五級と三級を確認して見た。すると、第十八男子部はいずれも合格者ゼロなのである。

オイオイ、いったいどうなっているんだよ。

そこで昨年の十一月度総幹部会の記事を再確認してみたところ、驚くことが判明した。なんと、折伏成果がゼロなのである。もちろん第十八男子部のことだ。

さらに遡って七月度総幹部会を確認してみた。

第十八男子部 一八八名

ご存じない人のために説明しておくと、顕正会の折伏法戦は二月から四月、六月と七月、そして九月から十一月の三回に分かれている。

つまり、ご覧のように六・七月の成果が記されていて、九・十・十一月の成果が記されていないということは・・・先ほどはゼロと書いたがゼロというよりは第十八男子部そのものの存在が記されていないわけなのだが、それはたぶんこの間に深刻なゴタゴタが起こって組織が崩壊してしまったということなのだろう。

ちなみに百八十八名というのは、第一男子部が六百名で最高、第八男子部が百十七名で最低ということなので、少ないほうではあるがカラッキシというわけでもない。女子部では三十八名、婦人部では七十三名というのがあるので、少なくとも七月末の時点では第十八男子部がそんなに見劣りすることはなかった。ゆえにこれ以降、十一月までの間にいったい何が起こったのか、それは関係者しか知らないことであるが、ともかく崩壊してしまったことは動かぬ事実であろう。

以上、セロリ氏にはよく調べずに書いてしまったという失点があるものの、誰も気づかずに素通りしてしまったであろう問題にメスを入れることが出来たという意味において、大きな功績がある。

わたくしは総幹部会のたびに人事が行なわれることに違和感があって、おそらくは退転者が後を絶たないのでその補填の意味で人事を行なわざるを得ないのだろうと推測していたわけだが、今回の一件はその真相にかなり肉迫するものだと思う。唐突ながら、これで無条件降伏の意味も見えてきたはずである。いくら強がっても事実は覆せない。もう組織はボロボロである。このまま進んでいって何の得があるのだろうか? 引き返す勇気も必要である。

なお、軍楽しょう氏が顕正会に留まるも留まらざるも、わたくしの関与せぬところである。こう書くと冷たいようだが、しょせんは自分で決めるべきことである。自分の人生なのだから・・・

2015/3/16

春の憂鬱  
各方面から熱烈なる投稿が続いている。それにしても宗門復帰という至極まともな正論に抵抗する人が、これほど多いとは驚きである。それはたぶん自己正当化の論理に基づいているのだろう。

偉そうなことを言っている人というのは、よく観察してみると、自分の都合に合わせて言っているだけの場合が多い。

自分にとっては甚だ不都合であっても、正論は正論であると、このように言える人は少ない。やはり自分が可愛いものだから、自分に不都合なことを肯定するのは難しいのだ。ゆえに自分の都合に合わせて論を組み立てる。それがバレバレだと格好悪いので、頭のいい人はそれを巧妙に行なうのだ。

そうした中で久々の投稿である高速太郎氏のそれは、わりとストレートなものであって、好感が持てるものだった。以下はじゃっかん文言を修正させていただいたものである。

宗門に復帰することですべての整合性が取れるのか?

少なくとも顕正会の場合は取れる。その理由は実に簡単である。もう今から十五年も前に御遺命守護の完結を宣言したが、この宣言には欺瞞がある。ようするに当初の青写真では、顕正会はこのタイミングで宗門に復帰していなければいけないのだ。結局はそれが実現しなかった。これがすべてと言ってもいい。

 もはや、宗門の教学では限界がある証拠では、ないでしょうか。

これはけっこう難しい問題で、確かにそういう部分もなくはないだろうと思う。しかし、物事には背景があって、それを踏まえて考えないといけない場合もある。

これも簡単な話で、ようするに破門されちゃった、破門されちゃったので仕方なく代替案を考えた、という背景があるのだ。ゆえに破門前と破門後で言っていることが違ってしまっている。これを佐前佐後になぞらえて破前破後などと言って正当化する向きもあるけれども、わたくしは甚だ疑問である。

ただし、けっこう難しい問題だと書いたのは、そうした背景、すなわち経緯ということだが、そういうもの一切抜きにして虚心坦懐に御書を拝した時にどうかという問題が常にあって、ある意味では沖浦氏がそこに果敢にアプローチしているとも言えるわけで、これはこれで真摯に取り組まなければいけないことである。法主本仏論ではないだろうけれども、宗門が権威ばかりを振りかざして頭ごなしに押さつけようとすれば、それは反発があって当然である。ゆえに、この点は高速太郎氏のおっしゃるように、宗門教学の限界というか、宗門僧侶の怠慢なのだろう。バージョンアップが必要ということだ。

そうは言っても背景ないし経緯というものがある以上、それを完全に無視することは出来ない。経巻相承ではないが、まったく日蓮正宗とは無縁の人が御書根本を唱えて宗派を立てるのならばまだしも、創価学会は過去の経緯からして正宗と無縁とは言えない。これは永遠に消えない事実なのである。

ゆえに、元の鞘に納まるのがベストであって、これこそがもっとも矛盾の少ない選択なのだ。

今日はもう書くのをやめようと思うが、たぶん、わたくしの対応に不満を懐く人もいるだろうから、間接的に応じておこうかと思う。次は大沢氏のコメントである。

浅井先生としては
「今までの顕正会の赤誠が猊下に認められて晴れて…」
と発表したいところでしょうが、そうはいかないでしょう。


わたくしの個人的願望としては浅井先生の名誉回復を期待したいところではあるのだが、おっしゃるとおり、そうは問屋が卸さないだろう。現実的にはほぼ絶望である。何しろ御相承の断絶まで言ってしまったくらいであり、今も盛んに宗門を批判してやまないのだから、ここから事態が急転換することはひじょうに考え難いことである。

そこで思うのは、この際、無条件降伏でもいい、ということである。極端なようだが、仕方がない。

わたくしを「日顕の『戒壇論』に与同・転向したヘタレ」と呼ぶ御仁もいるが、別にそんなのは構わない。さしたる痛痒を感じない。わたくしは常々、顕正会の主張する戒壇論を支持し、宗門の戒壇論のデタラメぶりを指摘してきたつもりである。今もそれに変わりはない。しかし、甚だ矛盾するようであるが、その顕正会が宗門に無条件降伏することをここに提案しておきたいと思う。


三月二十日追記:文言を修正した。


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