2015/3/15

有徳王と不徳王  
昨夕は沖浦氏から、そして今朝は長ったらしい名前の人からコメントを頂戴した。前者に対しては、ここ最近は顕正会の話題を中心に書いているので、そちらの話題は別の機会に取り上げさせていただきたいと申し上げておこう。後者には特に申し上げることはない。

顕正新聞第1333号の記事で注目したのは、第二十四女子部長の「教学を学んで」と題する登壇である。彼女は解任されていなければ顕正新聞の編集次長のはずである。それが今回、三級試験を受けた。今や顕正会の大幹部であられる彼女が、三級試験とは驚きである。

しかし、どうだろう。

古参の一・二級合格者であっても長年サボっていれば、今の現役バリバリの幹部に劣るのではないか、仮に三級を受けたとしても落ちる可能性だってあるのではないか、という気がしないでもない。

極論すれば浅井先生だって同じことなのだ。先生以下、本部首脳こそが真面目に教学に取り組まなければいけないと思う。

さて、記事に戻ろう。

ギリギリの広布最終段階の今、他国侵逼は必ず起き、そのとき国立戒壇は建立され・・・

よくわからないのは、いったい何がギリギリなのか、である。結局、顕正会でそう言っているだけの話であって、客観的にはギリギリでも何でもないのだと思う。また、他国侵逼の具体的なシナリオが不明瞭である。例えば尖閣奪取を意味するのか、あるいは沖縄上陸なのか、それとも本土なのか、である。しかし、この時点で急いで国立戒壇を建てようとしても間に合わない。それで以前は、事実上の国立戒壇などという、わけのわからない概念を持ち出してきたこともあった。しかし、しょせんは凡夫であるから、未来のことはわからないのだ。

顕正会の折伏には締め切りがある。おそらくはこの発想が広宣流布にも援用されていると見るのが一般であろう。しかし、これまた現実には締め切りを何度も破っているのであるから、まるでお話にならない。しょせん、ギリギリの最終段階というのは一種のスローガンに過ぎないのだろう。

・・・先生のご雄姿は、まさに有徳王の姿を彷彿といたします。

凄いことを言うものだ。そして続きの文章が、これまた気になるところである。

 そこに今、学会も宗門も師敵対に陥った姿に、富士大石寺の清浄な流れから「師子身中の虫」を追い出された先生こそ、大聖人様の真のお弟子であられること・・・

何を言っておるものかと思う。だからいつも言っているのだ、宗門復帰しなければいけない、と。

池田大作氏を師子身中の虫だと言いたいのだろう。事実、彼は宗門から追い出されてしまった。けれども、自分だって同じではないか、自分だって追い出された側ではないか、というツッコミにはどう応じるつもりなのだろうか?

もし顕正会が宗門復帰を遂げれば、上掲の文章も有効だろう。多少の文言を修正すれば、使えるはずである。しかし、今は違うだろう。何を寝ぼけたことを言っておるのかと、叱りつけたいところだ。

・・・先生の偉大なお立場に、ただただひれ伏したものであります。

そりゃあ、有徳王ですからね、偉大でしょうよ。

しかし、クドイようだが言わなければいけない。有徳王が破門されてどうするのかと。かつて浅井先生は、池田氏を有徳王ではなく不徳王だなどと揶揄していたが、自分だって五十歩百歩のところを歩いていることを自覚しなければいけない。ともかく宗内に戻って、そこから池田氏を痛烈に批判するならば、それこそ有徳王の振る舞いに準ずるものと言えるだろう。

2015/3/14

近未来の大理想を語る  
一週間あまりサボっていたら、コメント欄が大変なことになってしまった。ご苦労なことである。

わたくしが、ではない。皆さんが、ご苦労なのだ。

考えるまでもないと思うが、わたくしはこの一週間、まったく投稿していない。コメント欄には書き込まないので、本欄が更新されないということは、まったくの無投稿なのだ。どこか別のサイトに行って、別名で投稿しているわけでもない。ところがである。この間に、熱心な人は複数回にわたってコメントを書いている。数えていないが二ケタ以上、投稿した人もいるだろう。わたくしはゼロである。

いや、もちろん、個人の自由であるからして、それはそれでいいのだ。ただし、もっとやるべきことがあるのではないか、他にもっと有意義な時間の使い方があるのではないか、ということは申し上げておきたいと思う。

2015/3/7 1:10
投稿者:へな
> 本当ならばもっと合格してもよさそうなものである。

全くその通りだと思います。
「やる気あるのか?」とさえ思ってしまいます。

さすがに9割以上の正解で合格だったらちょっとハードル高いとは思いますが、8割ぐらいの正解は普通に読み合わせとかで達成できそうに思います。

「難しい事は分からなくても信心があれば良い」という事を都合よく解釈してるように思います。


拙稿に直接的に関係するコメントはこれくらいだろうか?

八割くらいは合格してもいいのではないかとのご意見であるが、まあ、とりあえずは五割ということでよろしいかと思う。へな氏のような問題意識の高い人にとっては簡単に思えても、実際はそうでもないのだ。顕正会の教学試験はけっこう難しい。仮に日蓮宗の僧侶が受験したとする。そんなの教科書読まなくても受かる・・・などとナメている人は落ちるだろう。日蓮正宗の僧侶だってそうかもしれない。また、顕正会の内部に目を向ければ、現在は後期高齢の会員が目立つ。失礼ながら、こういう人たちは新しいことを覚えるのが苦手なのだ。

やる気あるのか?

確かにこれは鋭いところを突いていると思う。わたくし自身は八割は厳し過ぎる、せいぜい五割の合格が妥当とは思うものの、実際の合格率は二割程度なのだから、この点はおっしゃるとおりだと思う。さらに言えば、やる気の問題と同時に、組織の実態をあらわしている意味もあるだろう。いわゆる二極化である。

僕は、まだ顕正会に残っていますが、「伏せ拝」をさせてる浅井のことはペテン師だと思ってます。「浅井先生にチン伏随従」なんて、絶対に勘弁です。

ホリ氏のコメントはけっこう衝撃的で、組織の二極化ないし多極化、もっと言えば分裂状態を意味しているのだろうと思う。

単純に言えば、熱心な活動会員とそうではない人との格差、これが二極化の意味である。さらに詳しく見れば、会員個々の温度差が激しいわけで、これが多極化の意味である。これを悪く言えば、表面的には一致結束しているようでいて、心の中ではバラバラの状態だということを、図らずもホリ氏が教えてくれているわけである。

シツコイようだが、もう少し書いておこう。

温度差が激しいと書いた。

これはまず成果主義の弊害として、自覚のない顕正会員をたくさん作っていることが挙げられる。つまり、自分が入信したことすら自覚していない人もいるし、いちおう入信したことは自覚しているという人もいる。しかし、入信したものの大聖人の仏法の何たるかを知らずに去っていく人も少なくないわけで、これらは名目上の顕正会員であって実質を伴なわない。
次に、いちおう大聖人の仏法の何たるかがわかってきて、真面目に勤行を実践し折伏もするようになる。しかし、ここでも大きな試練が待ち受けていて、これまた成果主義の弊害と言わざるを得ないだろう、成果に苦しむあまり退転してしまう人も少なくないのだ。また、退転しないまでも活動に消極的になり、いわゆる化石化していく人たちも少なくない。
そんなわけで、活動会員として第一線で活躍し続けられる人は、全体の割合としてはごく少数である。しかもである。ホリ氏のような人もいるのだ。また、拙ブログには現役の隊長を名乗るような人が組織の不満を漏らしに来ることもある。

これが温度差の意味である。

さて、話は変わる。

何やら長ったらしいハンドルネームの人から、わたくしに対する批判というか、批判ではないのだろうが、疑問を呈するようなコメントが寄せられた。ようするに顕正会の宗門復帰についてである。

厳虎さんは、「顕正会の宗門復帰」を提唱しているようだが、それには、まず、阿部信雄教学部長(当時)が著した稀代の悪書『戒壇論』や、日達・日顕コンビの『正本堂の邪義』に対する自己批判・総括が必須ではないか。

宗門側の自己批判・総括が必須かどうかと問われるのはひじょうにツライところで、日顕上人が反省の意味を吐露されたことがあるのは事実だが、それではまだ足りないと言われれば確かにそうかもしれないとは思う。ただし、ここはオトナの対応が必要だろう。向こうが謝って来なければ仲直りしないというのはコドモの喧嘩である。ゆえに、ここは細かいことには目をつぶって、とりあえず前進すべきだと思う。何もすべて水に流せと言っているわけではない。細かい議論は後回しでいいのだ。

『本尊模刻事件』『題目登録商標事件』『宗旨建立二回説』『法主本仏論』等々、日達・日顕・日如時代の宗門が『本尊・戒壇・題目の三大秘法』の本義に違背して、対応を誤り、多くの僧俗を迷わせたことへの検証が必須ではないか。

まさにこれが細かい議論ということなのだ。こんなことを言っていたらいつまでも解決しないだろう。それではダメだというのがわたくしの意見である。

ちなみに、顕正会の宗門復帰について、わたくしに具体的なプランがあるわけではない。あるいは宗門復帰によってわたくしに何か大きな利得が生じるとか、そういう魂胆があって復帰を唱えているわけでもない。また、わたくしが交渉役になるとか、それを踏み台にして表舞台に躍り出ようとか、そんな野心があるわけでもない。

ただ単に、正論を述べているだけのことである。

いわゆる妙信講問題の後、正信会問題が起こった。正信会が何を言っていたか、細かいことを抜いてしまえば執行部批判ということである。日蓮正宗を否定するのが目的ではなかった。日蓮正宗がダメなのではなく、執行部がダメなのだと言っていたはずである。

創価学会も同様である。

彼らは日顕宗という言い方をする。ようするに当初は日蓮正宗を否定するのが目的ではなかった。日顕が悪い、日顕を除歴せよ、と言っていたのだ。ゆえに昨年の教義改変は大矛盾そのものなのであるが、ともかく最初の頃は日顕上人を排斥して自分たちに都合のよい猊下を擁立しようと考えていたのである。

いずれは我々(創価学会)をご理解下さる英邁なる猊下がお出ましになるに違いない。

ネット上に記録が残っているかどうか知らないが、このようなことを言っていた古参の創価学会員もいたのである。しかし、昨年の教義改変でそれも潰えた。

ここまで書けばご理解いただけるだろう。顕正会もしかり、なのである。

創価学会のマネをして独立教団路線を目指すのであれば、わたくしは徹底的に批判する。いかに戒壇の大御本尊への熱烈なる信仰を表明しようとも、矛盾は解消できない。逆にである。どのような裏取り引きがあっても構わないので、宗門に復帰すべきである。そして宗門への復帰が実現すれば、大いに称賛したいと思う。

繰り返しになるが、わたくしにメリットがあるとかないとか、そんな次元の話ではない。正論を述べているだけのことなのだ。


同日追記:へな氏の言う八割九割は合格率のことではなく正解率のことだった。うっかり読み間違えてトンチンカンなことを書いてしまったことをお詫びしたい。

2015/3/5

組織の空洞化を示す具体例  
前回のコメント欄では、何やらアヤシゲな議論に発展しているようであるが、とりあえず静観することにしよう。創価学会員と法華講員が議論をすれば、こうなるものなのかもしれない。

さて、そこで本題である。

前回、いちばん最後に組織の空洞化が著しい旨を書いた。今回はその傍証となるべきデータをお示ししたいと思う。それは教学試験の結果である。

三級試験 11,277 2,243
五級試験  4,810  8,05
登用試験 14,913 1,438


合格率の低さが目立つ。これは毎年のことで、他の批判サイトなどでも取り上げられていることである。

前回も指摘したように、わたくしが注目したのは過去最高の受験者数を云々しているのはけっこうであるが、ではなぜに四級試験を実施しなかったのかという問題である。これは五級試験の受験者数を見れば想像がつくことで、仮に実施したとしても受験者が極端に少ないのだろうと思われる。

逆に三級のほうが多いという不可思議な現象が起こっているのも注目すべきところで、顕正新聞を眺めていると驚く事実があちこちに書かれている。なんと、地方女子部長クラスでも今回の三級試験を受験しているのである。区長ともなれば、ザラにいる。これは婦人部や男子部も同じである。

これはどういうことだろうか?

単純に言えば、いわゆる一念信解路線以降の迷走のあらわれであろう。長らく上級試験をやってこなかったので、相当の幹部であっても四級止まりのままなのである。毎年コンスタントに試験をやっていれば、幹部になるくらいの人は熱心であり、負けず嫌いの人が多いだろうから、どんどん昇級していくはずなのである。しかし、試験が行なわれないのだからどうしようもない。

それで三級試験の受験資格者がダブついてきたというのが本年だったわけである。

それに引き換え、四級は試験が実施できないくらいに受験者数が見込まれず、五級も他に比して極端に少ない。これは組織の空洞化そのものだろう。

毎年のように書いていることだが、登用試験は受験者がたくさんいて当然である。何しろ新しく入信してくる人がたくさんいるのだから、それでいて受験者が極端に少ないとなると入信そのものがウソになる。つまり、入信偽装ないし水増し報告だらけという実態を意味することになるのだ。ゆえに登用試験の受験者数は、何が何でも例年の水準を確保しないといけない。すると、本人はあまり受けたくないのだけれども、熱心に勧められるので仕方なく受験するという人も出てくる。これが合格率の低さに直結するわけだ。

逆に、五級は受験者数こそ少ないものの、合格率は比較的に高い。この意味では、五級の数字こそがもっとも健全な状態をあらわしているのではないかと思われる。

まず、五級は登用試験合格者に受験資格が与えられる。ようは、少なくとも一年以上のキャリアがある。彼らの多くは自らの意思で受験している。必然的に合格率も高くなる。つまり、五級受験者たちは、そこそこ信仰心に裏打ちされている人たちなのだろう。

それにしても、である。

本当ならばもっと合格してもよさそうなものである。五千人中、千人。上掲の数字を大雑把に書き直せばこうなるわけだが、これが妥当な数字かと聞かれれば誰もそうだとは言い切れないだろう。もうちょっと合格してもよさそうなものである。

ここで愕然とするデータを紹介しよう。

データなどと書いているが、そんな大層なものではない。顕正新聞第1333号に載る五級試験合格者一覧を見て、あれ? 何これ? とわたくしが一瞬にして感じ取ったことを数字で示すと次のごとくなるのだ。

男子部百十三箇隊中、十八箇隊

女子部・婦人部は確認していないので、男子部についてである。合格者は隊ごとに記されている。すると、たった一名しか合格していない隊がたくさんあるのだ。まず、なんだこりゃ、と思った。さらに、もしかしたら一名も合格していない隊が存在するかもしれないと思った。それが上掲の数字である。

ようするに、試験当時の男子部は隊が百十三あった。しかし、合格者一覧には九十五の隊しか出ていない。つまり、残りの十八は合格者ゼロだったということになる。

これは悲惨な状況である。組織の空洞化も甚だしい。人材が育っていないことを如実に示している。

具体的には、一隊から十隊まで眺めると、三隊が見当たらないし、五隊も見つからない。わたくしが顕正会に入った頃は、三隊や五隊と言えば男子部のトップ争いを演じるような輝かしい組織だった。それがこのテイタラクである。この事実には愕然とせざるを得ないところである。

三隊や五隊をあげつらうのが目的ではない。ようするに、これが今の顕正会の全体的傾向をあらわしているわけであり、その一例ということである。

つまりは組織ごとに多少の差はあるにせよ、顕正会全体において人材の枯渇が進みつつあるのではないかと考えられるのだ。

そこでいちばんの問題は、本部首脳がこの事実に目を覆って、粉飾よろしくポストを連発して、あたかも組織が発展拡大しているかのような演出ばかりに腐心していることである。このツケは必ず廻ってくる。いったいどんな形でそれが訪れるのか、わたくしは予言者ではないのでそこまでは言えないけれども、たぶん拙ブログが存続していればいずれは書くことになるだろう。予言ではないけれども、まあ、わたくしの見通しが正しかったという結論になるに違いない。

2015/3/2

顕正新聞第1333号を中心に  
昨日分のコメント欄においても、沖浦氏がアヤシゲな本尊論を展開している。御本尊は方便なんだそうである。これについてはいずれ徹底的に破折するつもりだ。

本日は顕正新聞第1333号、一月度総幹部会の特集号から話題を拾いたいと思う。

国難二年、二悪鼻を並べて亡国へ
 早く二百万を成し遂げ日本を救わん
 池田大作すでに「戒壇の大御本尊の敵」


これが会長講演の見出しである。国難二年の意味は、顕正会では昨年を国難元年と定めたので、その二年目に突入したということである。二悪は、安倍政権を一悪・創価学会を一悪とし、都合二悪という意味である。池田大作云々はいわずと知れた会則変更のことである。

本文中で注目したのは二箇所ほどである。まず、いきなり終わりの一段から紹介しよう。

 さあ国難二年の初陣二月、内には学会員を救い、外には三毒の大衆を救い、いよいよ大地ゆるがす広宣流布の大行進をしたい。

先ほどの池田大作を敵とする見出しからも窺えることだが、浅井先生の意識は昭和四十年代のところで固定されてしまって、まるで時代の変化を感じ取っていないように思えるのだ。たぶん、内には学会員を救いなどと言われても、沖浦氏はもちろんのこと、その他の創価学会員たちも何を言っておるものかと思うに違いない。ようするに内と外の使い方が不適切なのである。

昭和四十年代ならばまだしも、である。

あの時代はまだ宗門と創価学会が一枚岩であり、正信会問題も起こっていなかったし、いわば妙信講だけが逆賊の嘲りを受けていたという状況だった。その妙信講も解散処分は昭和四十九年である。つまり、それまでは浅井先生も内側の人間だった。

これならば、話はわかる。まさに、内には創価学会員を救い、外には一般の大衆を救うという、この内外の使い方に問題はない。しかし、今は違うだろう。

もう一つ、池田大作云々も似たような意味がある。

ご存知のごとく、彼はすでに表舞台から降りてしまった人なのである。今の健康状態がどうであるか知らないが、もう何年も前から表舞台には立っていない。もちろん今も創価学会の中心的存在であり、永遠の師匠ということなのだろうけれども、実質的には世代交代が進みつつあるのも事実だろう。ゆえに、もしかしたら今回の会則変更にはまったくのノータッチである可能性だって考えられるのだ。ならば、いつまでも池田大作氏ばかりを云々していても仕方がないだろう。

そして話を戻すが、もっと重要なことがある。

内には学会員を救い・・・

これについて翌号にうまい解釈が書かれていたので紹介しよう。婦人部新横浜支区部長の記事だ。

・・・「内には学会員を救い」と、学会員を「内には」と仰せられ、すでに学会員を共に戦う同志として見ておられる先生の深きご慈愛を強く感じ・・・

うまいと思った。しかし、そこで改めて思うのだ。宗門をどうするのか、である。法華講員たちをどうするのか、である。

「学会員を救う特集号」では宗門も同罪だと言い、いわば差別化を図っている。これは創価学会員が宗門に行ってしまっては困るという意味だろう。宗門ではなく顕正会へいらっしゃいと、そう言っているようなものである。しかし、ややこしい。浅井先生は戒壇の大御本尊への信仰を高らかに謳っているにもかかわらず、創価学会員が宗門へ行くことを阻んでいるのだ。何とも複雑な話である。

いつも言っているごとく、宗門との関係を修復できずにどうして広宣流布が出来ようか、ということなのだ。

 きょうの総幹部会でも、未だ曽てない大人事ですね。隊長・区長・支区部長以上の登用だけで七七人ですよ。

時事問題としてはイスラム国の話題だとか、他にもいろいろあるわけだが、わたくしが今回の会長講演で注目したのは、二つである。一つ目はすでに述べた。そして二つ目は人事である。

毎月、たくさんの幹部が抜擢される。それだけを見ていると組織がどんどん拡大しているように思える。しかし、裏では退転していく人たちも少なからずいる。頻繁に人事が行なわれるのは、その補充の意味もあるのだろう。今回は男子部を例に取るとわかりやすい。

既設の隊 六箇隊
新設の隊 七箇隊


新設はまさしく組織の拡大を意味する。既設は申すまでもなく隊長の交代を意味するわけで、もちろん前任者の全員が退転したわけではないのだろうけれども、何人かは退転したのかもしれない。あるいは男子部幹事だとか地方男子部長に昇格したという可能性もあるが、この辺は単にポストを増やしただけにも見えるし、実際には兼任のケースも少なくないので、これでは組織が拡大しているとは言えないだろう。いずれにしても詳しい内容はわからないので、上述のことはすべて推測の域を出ないことをお断りしておきたい。ことに男子部は何年か前に壮年部が吸収合併されて、わけがわからなくなってしまった。

ちなみに地方男子部長の呼称は初出だろう。総男子部長はいわずと知れた城衛一人。地方男子部長はたくさんいる。二十四ポストだ。

ともかく組織の空洞化が著しい。

わたくしはこのように見ているわけだが、次回はその傍証となるだろうデータを示したいと思う。

2015/3/1

「学会員を救う特集号」補遺  
沖浦氏からの活発な投稿が続いているけれども、今日は少し話題を変えたいと思う。「学会員を救う特集号」で気になったところをいくつか取り上げたい。

 もし、この侵略に対抗して戦えば、圧倒的な核戦力によって日本全土は忽ちに廃墟と化す。

ようは中国が攻めてくるというのだ。これは浅井先生の年来の主張であり、今さら驚くに値しないところではある。ただし、これを創価学会員が読んでどう感じるか、そこが興味深いと思う。何しろ彼らは中国とわりと友好的だからだ。

それにしても、日本全土が廃墟と化すとは聞き捨てならないことであり、もし本当ならば大変なことである。続きの文章もセンセーショナルだ。

 もし屈服すれば、日本はウィグル、チベットのようになる。忽ちに中国人が一億人も移住して来て、日本は漢民族の国になってしまう。そして中国共産党の支配下に置かれ、中国に奉仕する国になってしまう。これが「亡国」であります。

今までうっかりしていたことがある。

これまでの会長講演にもあったはずだし、各種の登壇記事にも出ていたと思うが、近年、中国人が日本各地で積極的に土地を購入しているという話がある。また、わたくしの周囲には中国人がけっこういるし、日中関係が険悪にもかかわらず、中国人旅行者を多く見るし、留学生と思しき若者たちも少なくない。これらは上掲を裏付けることかもしれない。

だが、しかし、大いなる矛盾を感じなくもない。

上掲ではなく前掲を確認されたい。そこには核攻撃によって日本全土が廃墟と化す旨が書かれているのだ。これはおかしいだろう。もしこれが事実ならば土地購入はあり得ない。わざわざ紙屑になることがわかっている株券を買う人はいない。普通は値上がりすることを期待して購入するものである。土地もまったく同じ理屈だろう。核攻撃で廃墟になってしまったら土地の価格は暴落する。つまり、大損をするのだ。

こうして見ると、浅井先生の言っていることは甚だ荒唐無稽のように感じられる。しかも常識的に考えれば国際世論が許さない。ようするに中国と言えども大義がなければ動けない。いくら何でも傍若無人は出来ないのだ。

確かに軍事力だとか経済力を背景にして、さまざまのプレッシャーを掛けてくるのは事実だろう。しかし、浅井先生の言うような極端な事態に至ることはなかなか考え難いというのが、まあ、もっとも常識的な思考だろうと思う。

御本尊の活眼

たぶん開眼と近似の言葉なのだと思う。しかし、悩ましいところだ。創価学会破折のためとは言っても、同じ刀で自分も斬られることになりかねないからである。

邪悪の底意

どうでもいいことだが、底意の「底」のところに「てい」とルビが振ってある。しかし、どうやら辞書的には「そこい」が正解のようである。なぜにわざわざルビを振ったものか、そこが疑問ということだ。

会長講演については以上である。次は成人式だ。

この指導こそ、成人式の永遠の指針である。

あらまあ、と思った。一昨年の成人式での会長講演が、成人式の永遠の指針なのだそうである。昨年の成人式でもこのビデオが流され、本年もまたこのビデオが流された。もう浅井先生は永遠に成人式には出ないらしい。しかも全会員参加の二月度のビデオ放映がこれなのである。オイオイ、これを毎年続けるつもりなのかよ、と言いたいところだ。

来年、成人式を迎える人もこのビデオ放映に参加するのだ。そして来年も同じビデオを見ることになる。成人式で見て二月度のビデオ放映でも見て、はたしてウンザリしないものだろうかと心配になるところである。

さて、成人代表の登壇を見てみよう。

 また、私がお預かりする総支隊員の大半は私より年上・・・

例年の相場では支隊長くらいが普通なので、この人はスピード出世である。しかし、彼がなぜに総支隊長になれたのかが、よくわからない。自分の折伏によって組織を拡大してきたのであれば、普通は同年輩の人が多いはずである。ところが上掲のごとく、年上が大半だと言うのである。

 私は、曾祖母の代より顕正会で御奉公する家庭に生まれました。

う〜ん、親の七光りということなのだろうか?

 いま広布最終段階を迎え、大聖人様が浅井先生をして立たしめ戦わしめておられること、誰の眼にも明らかであり・・・

誰の眼にもというのはどうかと思うが、なるほど大確信を持って活動しているわけだ。であれば年上だろうが何だろうが関係ないとは言えるかもしれない。

母は女手ひとつで五人の子供を・・・
 成人式を迎え母の慈愛に涙あふれる


女子部総班副長の記事の見出しである。本文中の次のセリフが感動的だった。登壇者の兄の述懐だ。

「お母さんは、子供が小さくて御奉公が思うようにいかなかったとき、先輩より『今は子供たちを育てることが御奉公です。きっとこの子供たちが大きくなったら、お母さんの分まで頑張ってくれる』と励まされたんだ」

全員がこういう姿勢であれば言うことないのだが、子供は邪魔という名の魔である、などと言い放った幹部もいるらしいので、そこは成果主義の弊害だろう。ともかく顕正新聞に載るのはイイ話ばかりであって、悪い話は載らない。当たり前の話だ。

 顕正会伝統の教学試験が一月十一日と十八日の両日、全国二三九会場で実施された。本年の試験は三級・五級・登用の三種目。受験者総数は過去最高の三万一千名に達した。

相変わらず過去最高が好きというか、こだわっているようであるが、しかし、どうかと思う。これを創価学会員に大量配布して突っ込まれないものかと心配になる。

四級はどうしたの?

つまり、四級がないことが不自然なのである。しかも、それでいて過去最高を謳っているのだ。ならば、もし四級を実施していたらどうなっていただろうか? 空前の参加者数になっていたはずである。では、なぜに四級をやらなかったのか?

この辺に欺瞞がある。いわば数字のマジックで過去最高を記録しているだけであって、実態としてはかなりアップアップの状態が窺われるわけである。

さらに突っ込むならば、一級・二級はどうしたの? ということなる。

これは本当にどうするつもりなんだろうね。もう永遠に実施できないのかもしれないなあ・・・


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