2015/3/14

近未来の大理想を語る  
一週間あまりサボっていたら、コメント欄が大変なことになってしまった。ご苦労なことである。

わたくしが、ではない。皆さんが、ご苦労なのだ。

考えるまでもないと思うが、わたくしはこの一週間、まったく投稿していない。コメント欄には書き込まないので、本欄が更新されないということは、まったくの無投稿なのだ。どこか別のサイトに行って、別名で投稿しているわけでもない。ところがである。この間に、熱心な人は複数回にわたってコメントを書いている。数えていないが二ケタ以上、投稿した人もいるだろう。わたくしはゼロである。

いや、もちろん、個人の自由であるからして、それはそれでいいのだ。ただし、もっとやるべきことがあるのではないか、他にもっと有意義な時間の使い方があるのではないか、ということは申し上げておきたいと思う。

2015/3/7 1:10
投稿者:へな
> 本当ならばもっと合格してもよさそうなものである。

全くその通りだと思います。
「やる気あるのか?」とさえ思ってしまいます。

さすがに9割以上の正解で合格だったらちょっとハードル高いとは思いますが、8割ぐらいの正解は普通に読み合わせとかで達成できそうに思います。

「難しい事は分からなくても信心があれば良い」という事を都合よく解釈してるように思います。


拙稿に直接的に関係するコメントはこれくらいだろうか?

八割くらいは合格してもいいのではないかとのご意見であるが、まあ、とりあえずは五割ということでよろしいかと思う。へな氏のような問題意識の高い人にとっては簡単に思えても、実際はそうでもないのだ。顕正会の教学試験はけっこう難しい。仮に日蓮宗の僧侶が受験したとする。そんなの教科書読まなくても受かる・・・などとナメている人は落ちるだろう。日蓮正宗の僧侶だってそうかもしれない。また、顕正会の内部に目を向ければ、現在は後期高齢の会員が目立つ。失礼ながら、こういう人たちは新しいことを覚えるのが苦手なのだ。

やる気あるのか?

確かにこれは鋭いところを突いていると思う。わたくし自身は八割は厳し過ぎる、せいぜい五割の合格が妥当とは思うものの、実際の合格率は二割程度なのだから、この点はおっしゃるとおりだと思う。さらに言えば、やる気の問題と同時に、組織の実態をあらわしている意味もあるだろう。いわゆる二極化である。

僕は、まだ顕正会に残っていますが、「伏せ拝」をさせてる浅井のことはペテン師だと思ってます。「浅井先生にチン伏随従」なんて、絶対に勘弁です。

ホリ氏のコメントはけっこう衝撃的で、組織の二極化ないし多極化、もっと言えば分裂状態を意味しているのだろうと思う。

単純に言えば、熱心な活動会員とそうではない人との格差、これが二極化の意味である。さらに詳しく見れば、会員個々の温度差が激しいわけで、これが多極化の意味である。これを悪く言えば、表面的には一致結束しているようでいて、心の中ではバラバラの状態だということを、図らずもホリ氏が教えてくれているわけである。

シツコイようだが、もう少し書いておこう。

温度差が激しいと書いた。

これはまず成果主義の弊害として、自覚のない顕正会員をたくさん作っていることが挙げられる。つまり、自分が入信したことすら自覚していない人もいるし、いちおう入信したことは自覚しているという人もいる。しかし、入信したものの大聖人の仏法の何たるかを知らずに去っていく人も少なくないわけで、これらは名目上の顕正会員であって実質を伴なわない。
次に、いちおう大聖人の仏法の何たるかがわかってきて、真面目に勤行を実践し折伏もするようになる。しかし、ここでも大きな試練が待ち受けていて、これまた成果主義の弊害と言わざるを得ないだろう、成果に苦しむあまり退転してしまう人も少なくないのだ。また、退転しないまでも活動に消極的になり、いわゆる化石化していく人たちも少なくない。
そんなわけで、活動会員として第一線で活躍し続けられる人は、全体の割合としてはごく少数である。しかもである。ホリ氏のような人もいるのだ。また、拙ブログには現役の隊長を名乗るような人が組織の不満を漏らしに来ることもある。

これが温度差の意味である。

さて、話は変わる。

何やら長ったらしいハンドルネームの人から、わたくしに対する批判というか、批判ではないのだろうが、疑問を呈するようなコメントが寄せられた。ようするに顕正会の宗門復帰についてである。

厳虎さんは、「顕正会の宗門復帰」を提唱しているようだが、それには、まず、阿部信雄教学部長(当時)が著した稀代の悪書『戒壇論』や、日達・日顕コンビの『正本堂の邪義』に対する自己批判・総括が必須ではないか。

宗門側の自己批判・総括が必須かどうかと問われるのはひじょうにツライところで、日顕上人が反省の意味を吐露されたことがあるのは事実だが、それではまだ足りないと言われれば確かにそうかもしれないとは思う。ただし、ここはオトナの対応が必要だろう。向こうが謝って来なければ仲直りしないというのはコドモの喧嘩である。ゆえに、ここは細かいことには目をつぶって、とりあえず前進すべきだと思う。何もすべて水に流せと言っているわけではない。細かい議論は後回しでいいのだ。

『本尊模刻事件』『題目登録商標事件』『宗旨建立二回説』『法主本仏論』等々、日達・日顕・日如時代の宗門が『本尊・戒壇・題目の三大秘法』の本義に違背して、対応を誤り、多くの僧俗を迷わせたことへの検証が必須ではないか。

まさにこれが細かい議論ということなのだ。こんなことを言っていたらいつまでも解決しないだろう。それではダメだというのがわたくしの意見である。

ちなみに、顕正会の宗門復帰について、わたくしに具体的なプランがあるわけではない。あるいは宗門復帰によってわたくしに何か大きな利得が生じるとか、そういう魂胆があって復帰を唱えているわけでもない。また、わたくしが交渉役になるとか、それを踏み台にして表舞台に躍り出ようとか、そんな野心があるわけでもない。

ただ単に、正論を述べているだけのことである。

いわゆる妙信講問題の後、正信会問題が起こった。正信会が何を言っていたか、細かいことを抜いてしまえば執行部批判ということである。日蓮正宗を否定するのが目的ではなかった。日蓮正宗がダメなのではなく、執行部がダメなのだと言っていたはずである。

創価学会も同様である。

彼らは日顕宗という言い方をする。ようするに当初は日蓮正宗を否定するのが目的ではなかった。日顕が悪い、日顕を除歴せよ、と言っていたのだ。ゆえに昨年の教義改変は大矛盾そのものなのであるが、ともかく最初の頃は日顕上人を排斥して自分たちに都合のよい猊下を擁立しようと考えていたのである。

いずれは我々(創価学会)をご理解下さる英邁なる猊下がお出ましになるに違いない。

ネット上に記録が残っているかどうか知らないが、このようなことを言っていた古参の創価学会員もいたのである。しかし、昨年の教義改変でそれも潰えた。

ここまで書けばご理解いただけるだろう。顕正会もしかり、なのである。

創価学会のマネをして独立教団路線を目指すのであれば、わたくしは徹底的に批判する。いかに戒壇の大御本尊への熱烈なる信仰を表明しようとも、矛盾は解消できない。逆にである。どのような裏取り引きがあっても構わないので、宗門に復帰すべきである。そして宗門への復帰が実現すれば、大いに称賛したいと思う。

繰り返しになるが、わたくしにメリットがあるとかないとか、そんな次元の話ではない。正論を述べているだけのことなのだ。


同日追記:へな氏の言う八割九割は合格率のことではなく正解率のことだった。うっかり読み間違えてトンチンカンなことを書いてしまったことをお詫びしたい。


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