2015/4/30

読ませたくないブログ?  
早いもので本年も三分の一が終わろうとしている。さりとて拙ブログは淡々と更新を繰り返すのみで、特に何をどうしようと考えているわけではない。

読ませない作戦?

http://blogs.yahoo.co.jp/no_sleep502goal/archive/2015/04/30

これが面白かった。さらにネタ元があるわけだが、それはリンクをたどっていただければと思う。

思えば浅井先生もまた、読ませない作戦の実行者である。一頃、拙ブログで繰り返し書いたことだが、あの『迷走する顕正会を斬る』が好例である。あれは顕正会批判の決定版とも言える名著であり、たぶん顕正会員が読めば大変なことになるだろう。浅井先生はそれを恐れて、会員に対してこの本の存在を一言も伝えていないのだ。

正義に目覚める、というフレーズがある。これはご存知のごとく、創価学会員や法華講員が顕正会の主義主張を知って、目覚めることを意味するのだ。もちろん顕正会側の論理である。その論理に基づいて今は「学会員を救う特集号」の大量配布を行なっている。創価学会員をターゲットに彼らを正義に目覚めさせる運動を展開しているわけだ。当然、無料で配っているわけだろう。

ところがである。顕正会の会館に見知らぬ人物が訪れ、顕正新聞の購入を求めたところ、会館の職員がそれを拒否したというのだ。ようはリンク先での話題がこれなのである。おかしいじゃないかと。確かにそうだ。お金を出して買うと言っているのに売ってくれない。その一方で熱心な活動会員たちが無料で大量配布を行なっているのだ。チグハグな対応と言わざるを得ないだろう。

ややダジャレを込めて書くならば、正義に目覚めるのではなく、正気に目覚めるということなのかもしれないと思う。

顕正会的論理に基づく正義はいちおう一貫性がある。日蓮大聖人の仏法を広宣流布し、国立戒壇を建立する、これが終始一貫した目標だからである。ゆえに国立戒壇を捨てた創価学会は邪義であり、そこから創価学会員を救い出すことが一つの行動目標となっている。換言すれば、彼らを正義に目覚めさせるということだ。

ところがである。

顕正会の正義は狂気なのだ。ようするに正気ではない。おそらく一般人のもっとも平均的な感覚からすれば、とてもじゃないが正気の沙汰とは思えない、これが顕正会の論理なのだと思う。

実は本部職員たちも、薄々はそれを感じている。ようは世間一般の常識と顕正会の常識との乖離ということを、実は本部職員たちが感じているのだ。もしかしたら誰よりも強く感じているのかもしれない。

ということは、創価学会や法華講などではなく、一般人からの批判こそが実はもっとも恐るべきものなのかもしれない。

奇しくも直近のコメントでは、コップの中の争い、狭い世界でのカルトサーフィン、という意味のことが書かれているわけだが、なるほど、それはそのとおりなのだろうと思う。

先生の新しい戦いの開始・・・

顕正新聞第1339号に載る女子部第二百区長の記事から引用した。まず、二百区長というのが驚きである。いつの間にか女子部の区も二百の大台に載ったわけだ。こんなにもたくさん区が存在するとは、さすがは大女子部である。しかし、いつも言っているように、これは組織の拡大を意味すると同時に、実はポストを乱発することによって組織が発展拡大しているように粉飾している意味もあって、ひじょうに悩ましいところなのである。つまり、我々のような外部の人間にはそこを正確には把握できないので、本当のところはよくわからない。組織が発展しているのか、それとも疲弊しているのか、そこがよくわからないのである。

それはともかく、上掲の意味は拙ブログを定常的に読まれている人ならば察しがつくことだろう。例の「学会員を救う特集号」の配布を主体とした活動のことである。

しかし、ご記憶の人はいらっしゃるだろうか、ユタ氏はこの特集号を酷評していたし、わたくしも後追いで同様のことを書いたのだった。ようするに内容がややこしくて、おそらくは多くの創価学会員が理解不能であると、大幅に端折ってしまえばそんな意味のことを書いたつもりである。

ここでわたくしは新しいことを言いたい。創価学会員が読んでもわけがわからない、いわんや一般人をや、ということだ。

つまり、先生の新しい戦いとやらは、もはや一般人には顕正会の狂気の論理がまったく通用しなくなってしまったので、身内(?)であるところの創価学会員をターゲットにして組織の拡大を図ろうとしている、ということなのかもしれないのだ。

確かに言えることは、例の特集号以降の浅井先生の言動はかなり専門的というか、とてもじゃないが一般人には理解の及ばない分野に突入しているという事実である。

本門戒壇也? 本門戒壇之?

関の山氏の問題提起なども世間一般の平均的な人間にとっては無縁の話であって、仮にこの議論を深めたところで一般人への啓蒙にはまるでつながらないだろう。

こうして見ると、今の顕正新聞の役割ないし機能は、活動会員の引き留めがその第一義的なものなのかもしれない。これまた直近のコメントで自慰的云々との記述を見るが、確かに特集号を出したところでそれが直ちに大量入信には結びつかないわけで、そうすると特集号の目的は他者への配布そのものよりも配布者本人の満足にこそ主眼があるとも考えられるのだ。平たく言えば、まず活動会員たちが特集号を読んで感激する、その感激を原動力に配布活動をする、その結果として入信ないし入会が実現するかしないかはあくまで副次的なものであると、こんな感じなのかもしれない。

当然、反論があるはずだ。おそらくは一般人でも思うだろう。

すなわち、いくらそんなことを言ったところで、配布しても配布しても効果がないとすれば、さすがの活動会員たちもモチベーションが下がるだろう、との反論だ。

しかし、それは顕正会をご存じない一般人だからこその反論であって、顕正会をよく知る人ならばわかるだろう、成果主義の恐怖をである。つまり、顕正会の折伏にはノルマがあって、それを達成しなければいけないのだ。ところが長年にわたって折伏をし続けている人は、いわば飽和状態に達していて成果が出せなくなるのだ。かつての顕正会は冷酷で、こういう人たちを使い捨てにしてきた。しかし、そんなことをしていたら人材が枯渇してしまって組織そのものがダメになってしまう。さすがの本部首脳たちもようやくそれに気がついて、今は人材を大切にするようになった。その具体的方法論こそが、まさに顕正新聞特集号なのである。ようは誰もが容易に実践できる行動目標を設定することが会員を引き留める有効な手段となるわけで、なかなか折伏の成果を出せない人であっても特集号の配布という活動の場を与えられることで己の存在意義を見出すことが出来るのだ。

ここで浅井先生に課せられているのは、面白い特集号を出し続けることである。最低限、顕正会員には面白いと思わせる必要がある。それはそうだ。顕正会員が面白くないと感じるようなものであれば、一般人はなおさら面白くないだろう。いくら浅井先生絶対の会員であっても、そんなものを配布する気にはならないはずだ。かえって先生の評価を下げることにもなりかねないし、延いてはそれが自分自身の評価にも影響することだからである。

途中で、顕正会の狂気の論理などと過激なことを書いたのも、これでおおむね了解できたのではないかと思う。しょせんはどこまで行っても冷静さを失わない、顕正会の中であっても一定数はこういう人たちが存在するのだ。よって脱会者も常に一定数は存在するわけで、たとえ大幹部であっても例外ではないのだ。

どの道、組織を維持していくことは、大変なこっちゃ、ということである。

2015/4/25

不遇者の論理  
沖浦氏のコメントを拝見するに、これまた開き直りの論理であることに驚く。

 浅井さん、貴方が今そういう事で会員に発破かけられるの、創価学会の路線変更のおかげです。

まあ、しかし、創価学会員が浅井先生に対して反発心を懐くのは自然のことである。何しろ今、多くの創価学会員が「学会員を救う特集号」を読み、正義に目覚めつつあるからだ。

問題はそれがどの程度の規模であるかだ。

顕正会は誇大宣伝がうまい。何事も大袈裟に言うものだから、実際のところがよくわからないのだ。現状、創価学会員の何パーセントが特集号を読み、また、そのうちの何パーセントが顕正会に移籍したのか、まるで見当がつかない。浅井先生はしばしば「八百万学会員」という表現を使うが、もしこの一パーセントが移籍したとすればそれだけで八万人にもなるのだ。こう考えると、現実には微々たる成果なのだろうと思われる。

さらに言えば、顕正新聞の記事を読む限り、創価学会からの入会者の多くは年配者である。青年層の入会者はほとんど見当たらない。

これは際立った特徴であり、これが何を意味するのか、ひじょうに興味深い。

いろいろな理由が考えられるけれども、煩瑣になるのでやめておこう。ともかく以前に比べると、創価学会からの入会者が増えたであろうことは間違いない。しかし、その大半が年配者である。もしこれが若年層に広がれば事件であろう。あの大創価学会であるから、常に一定の脱会者が出ることは織り込み済みのことであろうけれども、やはり若い人が抜けていくのは問題のはずである。もちろん、わたくしにはまるで見当がつかないことだが、おそらく現時点ではそこまでの深刻さはないと見るのが妥当なところかと思う。

さて、顕正新聞第1339号を見ていこう。

 阿部日顕が池田大作と心を合わせて為した、自己申告による登座劇についての段では・・・

婦人部鷹巣支区班長がケシカランことを言っているが、ともかく続きをご覧に入れよう。

・・・登座劇についての段では、かつて池田大作が第三代会長になるとき、当時の学会幹部の「なぜ池田大作なのか?」などの会話を耳にしたことと思い合わせ、池田がかなり強引に会長の座に就いたことを記憶しております。

この人の発言をどこまで信用してよいかは、わたくしの知ったことではない。ようするに、この人はそういう古い時代を知っているわけだから、当然、年齢は推して知るべしということだ。

また、この隣に掲載されている記事の人も創価学会歴五十年で、現在は婦人部横浜支区班長とのことだ。

 その当時は、学会も縁をたどっての折伏でしたが、あるときから「横線」と称して地域単位の折伏となり・・・

ネット上でも創価学会関連の記事で、縦線だの横線だのと言っているものを散見するが、確かに選挙戦の便宜を考えたら横線のほうが有利だろう。創価学会が選挙に力を入れるようになって横線に方向転換したという話は、なるほどツジツマのよく合う話である。それにしても続きの文章が不可解だ。

・・・地域単位の折伏となり、そのときも「折伏は立正、選挙は安国」との言葉を信じて、折伏の手を緩めることはありませんでした。

折伏は立正、選挙は安国?

なんだそりゃ、というのが正直な感想である。そんなことが本当に言われていたとしたら、アホだなあと言う以外にないところである。

ちなみに平成二十四年入会の平会員の男性は、創価学会員だった時に次のように言われたそうである。

「公明党が政権を握れば人材が集い日本が安泰になる。これこそ立正安国」

前掲の「折伏は立正、選挙は安国」よりも、むしろこちらのほうが整合性が高いような気がする。もちろん、大聖人の仏法とは無関係であるが、いわゆる創価学会的理念としては筋が通っている。前者のほうは、折伏と選挙を両立させたくてそのように言ったのかもしれないが、いかにも強欲が過ぎる。その意味では後者のほうがスッキリしているのだ。

「誰でも宿命はある。それを乗り越えて各々輝いて行こう。最悪こそ最善だ」

同記事にはご覧のような言葉も紹介されている。池田大作氏の発言だそうである。

最悪こそ最善・・・

けっこう名言だと思う。顕正会側の意図としては名言ならぬ迷言のつもりで引用したのだろうけれども、わたくしは悪くないと思う。あるいはこういう発言にこそ、池田大作氏の魅力があらわれているのかもしれない。

ちなみに、登壇者は昭和五十七年に創価学会に入ったというから、ざっと三十年ほどのキャリアがあることになる。

また文証の「一期弘法付嘱書」「三大秘法抄」も初めて知りました。

なるほど、やっぱり教えていないらしい。もちろん顕正会も同じことであって、自分で勉強する気がなければ教団の恣意的なセレクトによってしか御書を学べないというのが実情である。これは宗門も例外ではないだろう。

さて、もう一人の入会者は本年一月に創価学会・法華講を経て移籍してきた男性である。昭和三十一年に十六歳で創価学会に入ったというから、現在は相当の年齢である。そして法華講へ移籍したのは意外や意外、一昨年だそうである。とは言え、それまで創価学会で熱心に活動していたわけではなく、かなり早い時期に脱会して二十年あまり悶々としていたそうだ。ともかく法華講に入って、そしてわずかの期間に八名の入信を叶えたというから大したものである。

しかし、わたくしは残念に思う。以下は顕正会へ入会した直後の記述である。

この日から自宅で遥拝勤行を実践・・・

なんだこりゃ、と思う。

昭和三十一年の入信であれば、御寺で御授戒を受けたであろうし、その時に御本尊を下付されたと考えられる。顕正会はその御本尊を否定するのだろうか?

あるいは一昨年に法華講へ移籍した旨の記述があるので、その時に日如上人書写の御本尊を頂戴しているのかもしれない。顕正会はその御本尊を否定するのだろうか?

 後日、御本尊を返納するため、群馬県伊勢崎市の宗門末寺・常行寺へ赴きました。

推測の域を出ないものの、諸般の事情を勘案すれば、どうやら日如上人書写の御本尊なのだろう。すでに顕正会では細井日達・阿部日顕の御本尊を用いないことを表明している。すると、いよいよ早瀬日如の御本尊を用いないということの表明であろうか?

わたくしに言わせれば、これこそが顕正会における開き直りの論理である。御高徳の三上人の御本尊を用いないとは言語道断の悪行である。道念あるならば後生を恐れよと言いたい。

頭に血が上ってきたので、今日はこんなところでやめておこう。

2015/4/23

開き直りの論理  
今朝も沖浦氏よりお声掛けを頂戴しているが、氏との対話はいわば長期戦なので折に触れて取り上げていこうかと思う。ようするに常連の人は後回しにして、久しぶりに登場した人を優先するということだ。

ブログ読んでいると、浅井先生を仏様として仰いでいる様な等という記述が散見されるのですが自分は微塵もそんな思いを持った事はないですね。

mr.x氏のコメントである。ここはひじょうに難しいところで、わたくしがまだネットとは無縁で右も左もわからなかった頃、たぶん妙観講の新聞だったのだろうと思うが、次のような大見出しが躍っていたそうである。

浅井昭衛よ、一閻浮提の座主気取りはやめよ!

これは記憶だけで書いているので、正確ではないことをお断りしておくが、ともかくその記事によれば顕正会では浅井先生を日目上人の再誕だと思わせようとしているとのことだった。わたくしはそれを読んだわけではない。ではなぜに知っているかと言うと、総幹部会で浅井先生自らが紹介していたからである。

つまり、そもそも会長本仏論だとか日目上人再誕論みたいなものは、謀略者たちの印象操作に端を発するものだと考えられるのだ。ゆえに、わたくし自身はその片棒を担ぐつもりはなく、むしろ逆の立場である。オイオイ、アホなことを言うなと。

ところがである。

顕正新聞をじっくりと読んでいくと、会長本仏論を思わせるような記述がたくさん出てくる。これはイカン、これが原因なのだ。ようは相手に批判の糸口を与えてしまっている。そこが問題なのだ。そう思って拙ブログでは指摘を続けているのである。

以上、謀略者たちにアホなことを言うなと言う前に、顕正会に対して同じことを言わなければいけない状況だということを、ぜひともご理解いただきたいと思う。

さて、顕正新聞第1339号に入ろう。三月度総幹部会特集号である。

正系門家の命は戒壇大御本尊、血脈、御遺命
「冨士大石寺」を冠して戦えるのは顕正会のみ
  五つの国難いま刻々と日本に迫る


会長講演の大見出しである。ひじょうに面白い内容で、点数配分を均等にすると、九十点をあげてもいいくらいの名講演だと思う。しかし、最後の最後で落胆した。ようはそこがマイナス十点なのだ。しかし、わたくし流の点数配分で行くと、そこでマイナス九十点となるので、トータルでゼロ点である。それほどにガッカリした。

日本に迫りつつある五つの国難

学会員を救う戦い いよいよ大規模に


当該講演は前半が社会情勢についてであり、後半が例の学会員を救う特集号に端を発する一連の動きについてである。いずれもひじょうに面白かったが、後半の最後の最後で宗門にもケチをつけている点が不満である。まあ、顕正会の存在意義を示すためには仕方がないとは思うものの、さりとて納得できるものではない。

国家破産、原発災害、米軍との一体戦争、巨大地震、他国侵逼

まず前半の五つの国難はご覧のとおりである。いずれも深刻な問題であり、社会問題に関心のある人ならば誰もがクギ付けになる内容だと思う。特に個人的には預金封鎖が注目されると思った。

 そのうえ政府は国家破産の尻ぬぐいを国民にやらせる。どうするかというと、貯金封鎖をして強制的に資産課税をするのです。・・・イザとなったら政府はこれをやります。

個人的に云々と書いた。すると、オヌシはずいぶん貯金しているのだな、などと勘繰る人がいるかもしれないが、そうではない。むしろ逆で、わずかな貯金しかない。だからこそ、それを持って行かれるのがイヤなのだ。金持ちも貧乏人もその気持ちは同じだろう。誰だってイヤのはずだ。

顕正会は何度も特集号を安倍首相に送っておりますが・・・

ああ、なるほど、世の中には宗教団体がたくさんあるから政権中枢が顕正会をどこまで意識しているかは定かではないが、しかし、まるで眼中にないわけではなさそうだ。

というのは今朝のニュースで、日中首脳会談が行なわれたと報じられていた。顕正会の批判をかわすという意識があるかないか知らないが、とりあえず中国と仲良くしておけば他国侵逼は回避できるかもしれないし、少なくとも政治的に努力をしているというポーズにはなるわけだ。アンタたちにボロクソに言われる筋合いはないと。

第三次安倍政権は
  大惨事安倍政権


しかし、ボロクソである。ダジャレの部類ではあるものの、凄まじい表現だ。

 さて、学会員を救う戦いも、いよいよ大規模になって来ましたね。

ということで、後半に入ろう。顕正会では例の特集号を大量配布している。それを読めば必ず正義にめざめる。顕正会員はそう確信しているから、創価学会員目当てに大量配布をする。一方の創価学会では会員に読まれると困る。ゆえに彼らは組織防衛のために、さまざまの対応をしているそうである。

「読ませない」作戦、「だまし」作戦、開き直り

最初が読ませない作戦、水際作戦とも書かれている。面白いことを言うものだ。

しかし、どうなんだろう。読むなと言われれば読んでみたくなるのが心理であろう。現実に、創価学会のほうでどのように説明しているのか、興味深いところではある。

第二の作戦はだまし作戦だそうである。

弘安二年の御本尊は受持の対象にはしないと原田会長が言った。これを顕正会では大謗法だと言っているわけだが、それに対しては次のように反論しているらしい。

「受持の対象にしない」ということは、弘安二年の御本尊を否定しているのではない。受持しないだけだ。

まあ、一見すると筋が通っているようにも思える。しかし、顕正会では日寛上人の御指南を基づき、これすらも大謗法だと断じている。

そこで第三の対応である。

開き直って戒壇の大御本尊を否定

これ以降の浅井先生の破折は圧巻である。一部分を抜き出しても意味がないので、ぜひとも全文を入手してご覧になられたい。とは言え、肝要の部分は示しておこう。

 いま身延の真似をして「文証がない」などと嘯く池田大作一党よ――。
 出世本懐成就御書の聖文と、弘安二年の大御本尊の「本門戒壇也」の金文こそ、まさに紛うかたなき重大なる文証ではないか。
 これが信じられないのは、師敵対の逆徒・第六天の眷属という以外にはない。


素晴らしい。大石寺信仰の面目躍如である。さらに冨士大石寺の正しき所以として三つを示している。

 本門戒壇の大御本尊と、血脈と、国立戒壇建立の御遺命であります。
 この三つは「一期弘法付嘱書」に赫々明々です。この三つこそ、富士大石寺の命であります。


これも素晴らしい。いや、もちろん、国立か否かについては議論の分かれるところであるが、この際それは言わないほうがいいだろう。今は宗門と一致結束して邪義を粉砕すべき時である。

ところがどっこい、そうは行かないのだ。以下、マイナス九十点のくだりを紹介しておこう。

 いま学会は、この三つを共に抛ってしまった。

ここはまだ問題ない。次が大問題だ。

 一方、宗門は学会にへつらって国立戒壇の御遺命を捨て、その罰によって御相承が「授・受」不能となり血脈は一時的に異常事態に陥っている。

なんでこういうことを言うのかなあ、と思う。これでもうマイナス九十点、いやマイナス百点だかもしれない。

そのうえ恐れげもなく、広宣流布の暁まで秘蔵し奉るべき戒壇の大御本尊を営利の具としている。まさに宗門もまた、富士大石寺の命たる三つを、ことごとく冒涜し奉っている。

営利の具云々は解散処分以降、一貫して言い続けていることではあるが、さりとて論理的にどうかと思う。

 ここにいま顕正会だけが、この大事の三つを、命かけて守り奉っているのであります。

悩ましい限りだ。ちなみに、すかいみかん氏も咀嚼できない旨、ツイッターで述べていた。

ようするに、創価学会の言動を開き直りと言うならば、顕正会のそれも開き直りの論理なのではないか、ということなのである。現に戒壇の大御本尊は大石寺にましますのであって、直接的に御守護申し上げているのは大石寺の御僧侶たちであり、法華講の篤信者たちなのだ。顕正会は外側でわめいているだけに過ぎない。そのわめいていることをもっともらしく聞こえるように、御遺命がどうのこうの御相承がどうのこうのと言っているだけに過ぎないのだ。

ということで、今回の会長講演は点数配分によって、九十点にもなればゼロ点にもなるという、不思議なものだった。

2015/4/20

やっさもっさのブログ  
今朝の沖浦氏のコメントはきわめて偏向的である。物事の一面しか見ていない。

創価学会が大折伏をやったのは事実である。しかし、戸田城聖氏に始まる折伏大行進は戒壇本尊本懐論を前面ないし全面に押し出して行なわれたものであって、その結果として今日の創価学会が存在するのである。沖浦氏はそこを見ずして都合のいいことばかりを書き並べている。

もっとも、ではなぜに現今の法華講ないし顕正会が創価学会ほどの目覚ましい成果を挙げられないのかについてはうまく説明できないのも事実であって、この点では沖浦氏の主張も相当であろうと思う。

それはさておき、アキラ氏からは久々の投稿をたまわった。

先生は純粋に信心してた人をたくさん処分したけど、その罪が分からないんですかね。分からないならそこまでの人か。1000万も、300万も期限までに達成できなかった理由はそこにあるのに。国教化を主張するだけでは、正しいとはいえない。

具体例が示されていないけれども、いわゆる粛清のようなことが現実に行なわれているのだとしたら、確かにダメである。こんな組織が伸びる道理はないし、また伸びてもらっては困るだろう。

結果、組織は感激を失いつつある。日曜勤行にトロトロ遅れてくる幹部連中、なんじゃありゃ。みんな生命では感じている。おかしいと。

難しいところだ。顕正新聞を読めば感激のオンパレードである。しかし、現実は違うという。どちらが本当か? おそらくはどちらも本当なのだろうけれども、ようはその度合いが問題なのだろう。アキラ氏はネガティブのほうが強まっていると見ているわけだ。

学会ネタなど、一般人は何の関心もない!一国大衆に向って主張する力はもうないのか?

今朝の沖浦氏のコメントはこれを受けてのものだった。

 貴方の御主張の通り、宗門も顕正会も、創価学会員だけを布教対象にしているように見えます。

そんなことはないのだけれども、現実問題としては創価学会員ばかりをターゲットにしたほうが効率がいいわけで、結果として狙い撃ちにしているような印象が拭えないのだと思う。ただし、今回の一連の動きの中で言わせてもらえば、創価学会側がわざわざ的を背負って敵の前に躍り出てきたような意味もあるので、自業自得とも言えるだろう。
法華講はいざ知らず、少なくとも以前の顕正会はかなり広範囲にわたって折伏を展開してきたわけで、何も創価学会員だけを狙っていたわけではない。
それがここ最近は「学会員を救う特集号」を引っ提げて折伏を展開しているのも事実である。はたして、これがいつまで続くかはわからない。ほぼ恒常的に続くかもしれないし、しばらくしたら少し目色を変えるかもしれない。この辺は浅井先生ないし本部首脳の考え次第なので、わたくしには何とも言えないところである。

イスラム国の虐殺、凄まじいですね。しかし、純粋に信心する人間を、まっとうな組織批判をしたからといって、その人の信心を殺す罪は如何。言い過ぎですかね。

イスラム国を例に出しての説明はわかりやすい。しかし、いかんせん具体例に乏しいので、何とも言えない。組織内でどれほどの粛清が行なわれてきたのか、その具体例が求められるところだ。もっとも、それを書くのは勇気の要ることである。さまざまの波紋を呼ぶだろうから、投稿する人も怖いし、わたくしとしても怖いところだ。

ということで、今日は顕正新聞第1338号の中から、オマケを二つほど紹介して終わることにしたい。

 その中、先生ただお一人が、お命かけて御遺命を守り奉られ、解散処分や卑劣な弾圧を撥ね除け、大聖人仰せのままに戦う唯一の団体・顕正会を、日本国を独走する二百万の仏弟子の大集団になさしめられたこと・・・

あれ? 二百万?

現状は百七十万ほどのはずである。五年後だかに二百万を達成するという話だったと思うが、女子部総務である彼女の脳内ではすでに二百万を達成したかのように錯覚しているのかもしれない。

ところがである。同じ記事のいちばん最後には次のように書かれているのだ。

「九州先陣」の心意気で二百万へ大猛進し・・・

支離滅裂のようにも思うが、また同時に、こういうのを取り上げること自体がアゲアシ取りようにも思えるので、一時は見送るつもりだった。しかし、オマケということで了解願いたい。

やっさもっさしているこの日々も・・・

婦人部朝霞支区部長の記事からの引用である。これなどは完全なるオマケであって、何の意味もない。日本語って凄いなあと思ったまでの話だ。わたくしはこの言葉を知らなかった。愚鈍のわたくしも顕正新聞のお陰で少しは利口になっているのかもしれない。

2015/4/18

顕正新聞をダシに存続を図るブログ  
沖浦氏より質問が寄せられた。以下が全文である。

2015/4/18 5:17
投稿者:沖浦克治
巌虎さん、おはようございます。

 私との論議は終わりになさるとこのとですが、一つだけ質問を致します。

 貴方は龍の口での発迹顕本を認める発言をされていますが、私には明確な文証がないからダメだと言われた。
 では、貴方は御書のどの御文を持って、龍の口の発迹顕本を認めておられますか?

 お聞かせくださいませ。

 若し私が提示した御文が、発迹顕本の衣文とならないなら、そういう文証がほかにあるはずです。


これについての回答はしばらく保留としたい。

沖浦氏には拙ブログの一ページ目から順番に読むことをお勧めしたい。すでに二千以上の投稿数なので、おそらくは数ヶ月ないし数年は掛かるだろう。というよりは、途中で挫折するのがオチだと思う。それ以前に、拙ブログを最初からぜんぶ読もうなどとは誰も思わないはずで、沖浦氏も読もうとはしないに違いない。

つまり、理解する気がないのだ。

もともと理解力がないのか、それとも理解する努力をしないだけなのか、そこはわからないけれども、ともかく拙ブログをよく読みもしないで質問をぶつけられても、こちらとしては答える気がしないのである。そこのところをよろしく斟酌願いたいと思う。

さて、顕正新聞第1338号である。

・・・これこそ国家の変毒為薬、亡国日本がそのまま仏国となり御生骨が光を放つのだと、

第二十四女子部長の記事である。切り文で恐縮だが、御生骨が光を放つというくだりが気になったので取り上げさせていただいた。先日、外用の成仏の話題を取り上げた。死すれば光を放つ云々の話である。どうやら浅井先生はこれを譬喩と考えているらしく、本当に光を放つとは思っていない様子だった。ならば御生骨も同じ理屈だろうと思うが、いかがだろうか?

この点、現役顕正会員のコメントが求められるところだ。

ただ大聖人様、戒壇の大御本尊様の御威徳、浅井先生の重大なお立場にひれ伏し・・・

これまた切り文で恐縮であるが、ひじょうに悩ましい。第十七婦人部長の発言である。

そして婦人部岡山支区組長の活動報告には、次のようなくだりがある。

佐渡雪中で開目抄をお認めになられた大聖人様の御姿と、先生のお姿が重なり・・・

前回のコメント欄では大聖人の神格化を問題視するような発言が見られた。しかし、日蓮本仏論を採用する立場としてはむしろ当たり前の話であって、それのいったい何が問題なのかと言いたいところである。その上で上掲のような記述を読むと、さすがにこれはマズイだろう、これでは日蓮本仏論を通り越して会長本仏論になりかねない、という危惧を感じざるを得ないところなのだ。ある意味、会長を尊敬するのは当然のことかもしれない。しかし、それがエスカレートし過ぎてはいけない。その辺のサジ加減をどうするか、よく考えるべきだろう。

ところで当該記事の見出しには、次のごとく書かれている。

戒壇の大御本尊に直結するお題目を
 宗門で60年、93歳の老人がついに入会


まいったな〜、というのが正直な感想だ。

顕正会から宗門へ行く人が後を絶たない。同時に、宗門から顕正会へ移籍する人もいるわけで、上掲の話がまさにそれである。人材の引き抜き合戦みたいな意味もあるので、この件はお互いさまということにしておこう。それにしても何たる言い草かと思う。

え? 何だって? 大御本尊に直結するお題目?

ようするに宗門の題目は大御本尊に直結しないと言いたいわけなのだ。

先月あたりにも繰り返し書いたように、わたくしは宗門復帰論者である。顕正会は宗門へ復帰すべきである。宗門へ復帰してこそ、いよいよ本格的な御遺命成就の戦いに入れるわけである。

樋田昌志氏が連日のように動画をアップして、近年は特に顕正会の話題にも言及することが多くなって、聞いているとけっこうボロクソなことを言っているわけだが、それも仕方がない面がある。何しろ顕正会のほうがこのテイタラクなのである。宗門の題目は御本尊に直結しない、早い話が功徳にならない、かえって罰を蒙るのだと、こんなような言い草なのであるから、樋田氏も黙っているわけがない。けれども、もし顕正会が宗門に復帰すれば、この問題は一瞬にして解決するのである。これほど理想的な解決策もあるまいと思う。

これに少し関連して、婦人部早稲田支区総班長の記事には、次のようなくだりがある。

広宣流布は眼前、学会の崩壊、宗門が御在世に戻るのも、顕正会の二百万にかかっている・・・

これによれば、とりあえず二百万がターニングポイントなのだろう。少なくとも彼女はそう思っているわけだ。二百万の暁には創価学会が崩壊する。また、宗門が御在世に戻る。この御在世に戻るということの具体的な青写真が不明であるものの、おそらくはわたくしの主張する宗門復帰と近似の意味が込められているのだろうと想像する。

ところで彼女は創価学会の信心のなさには驚くばかりだとして、次のような話を紹介している。

・・・観念文を変えただけでなく勤行は自我偈だけになり、最近では「ながら題目」といって、「勤行をやらないよりは、何かしながらでもお題目を唱えればいい」と指導されているとのことで・・・

よくわからんが、ともかく先ほどの宗門法華講の老人の話は例外中の例外であって、このところの顕正新聞はその大半が創価学会ネタで占められているというのが現状である。男子部第二十隊総支隊長の記事には創価学会員の発言がたくさん出てくるが、ここでは二つほど紹介しておこう。

 「御書のどこにも弘安二年の御本尊が絶対であるとは書いていない」

 「ぶっちゃけ、弘安二年の御本尊が壊れようが、どうなろうが関係ない」


第六十三隊長の記事からも紹介しておこう。

「御本尊はただ書いたものだ。南無妙法蓮華経は心の中にある。御本尊は何でもいいんだ、何もあんなものを拝さなくてもいいんだ」

といったテイタラクである。

ある意味、創価学会は顕正会を勢いづかせてしまった。今の顕正会は見えないゴールに向かって突き進むだけで、その先に待っているのは迷宮でしかなかった。ゆえに、その絶望的な未来に気づいて組織を離れて行く人が後を絶たず、ややもすれば組織が崩壊する危険性すらも内包している状況だったのである。もちろん今もそれは続いているわけであるが、創価学会がヤラかしてくれたお陰でそれが一時的に緩和された格好になっているのだ。ゆえに当面は大丈夫というか、しばらくは創価学会ネタを引っ張ることで組織の結束を図ることが出来る。そういう幸運に恵まれたというわけである。

2015/4/16

他人をダシに書くブログ  
沖浦氏との議論は終わりにして、顕正新聞の話題に移ろうかと思う。

第1338号のトップ記事は昨年の十二月七日に行なわれた福岡会館での会長講演であるが、残りの紙面はいつものごとく各地の集会での登壇記事である。ぜんぶで二十五本もあるのでウンザリだ。

九州はいつの間にか七県中六県に会館が建っている。残りは佐賀県だけだそうだ。まあ、時間の問題ではあるのだろう。そりゃ、いつかは建つだろうし、顕正会の財力からすれば、今すぐにでも建つ。しかし、そこに人材が集っていなければ意味がない。そんなものは文字通りのハコモノ行政であり、ムダの象徴である。

さて、会長講演の中身を見ていこう。

小松原の剣難で大聖人は頭に四寸の傷を負われた。犯人は東条景信である。今ならば殺人未遂であり傷害罪に相当するだろうか? また、銃刀法違反でもある。しかし、時代が時代である。たぶん、そうした理不尽な乱暴狼藉がたくさん起こっていたのだろう。けれども記録されることもなく、歴史の中に埋もれて行ってしまうのだ。それが大聖人の場合は御書という形で残っているので、我々は知ることが出来るわけである。

しかし、話には尾ひれが付きものである。

東条景信はその直後、狂乱して悶死をしている。

これがわからないのだ。いったい何を根拠に言っているのか、ご存知の人がいれば、よろしくご教示願いたいと思う。

ところで、今回の講演では蒙古襲来について、いつもより詳しく語っている。福岡会館だからだろう。

 いま「蒙古の侵略」について、歴史家のさまざまな研究書が多く出ておりますが、一人としてこの原因を知る者はいない。

浅井流仏法史観を言いたいわけなのだろう。それはさておき、続きが興味深い。

 ただし、私が一つ感心しているのは、最近の学者が、史料として大聖人の御書を多く引用していることです。大聖人の御書が蒙古襲来を知る上で、一級資料だということを認識して来たのであります。

ほほう、これは興味深い。しかし、なぜか学者の名前だとか本の名前が書かれていない。一般の書籍ではなく、研究論文みたいなものなのだろうか?

 その中には、文永五年正月に蒙古の国書が到来したとき、その日のうちに大聖人様がこれを把握しておられたとの記述がある。

なんだこりゃ?

その学者の論文を読まないことには何とも言えないが、わたくしには違和感の拭えないところである。それは学者の言っていることにではなく、浅井先生の手法に対してである。

先の東条景信の悶死もそうだ。わたくしの知る限り、御書にそうした記述はない。すると浅井先生は、これまで刊行された種々の日蓮伝などを参考にして、そのように発言しているわけなのだろう。しかし、その信憑性はいかばかりであろうか? そこがひじょうに問題だと思う。

同様の意味で、蒙古襲来を研究している学者が書いていることに、どれほどの信憑性があるのかが問題である。そもそもが大聖人の御書を一級資料として用いているわけなのだろう。では、大聖人がその日のうちに国書到来を把握しておられたというのは、いったい何の資料によると言っているのだろうか?

しかも浅井先生の最終結論は学者と異なるのだ。つまり、世間の学者は誰一人として蒙古襲来の根本原因を知らない、その原因は仏法より事が起きているのだと言いたいわけなのである。

なるほど、これでは学者の名前を出せないだろう。というか、出さないほうが賢明である。もし学者が顕正新聞の当該記事を読めば、ダシに使われている、と感じるに違いないからだ。

もっとも、かく言うわたくしも浅井先生をダシに拙ブログを書いているようなものなのだが・・・

小日本は亡ぶとも大日本国は亡びず

この一段も興味深いわけだが、具体的には省略しよう。

 この順縁広布の時も、巨大地震・火山噴火等の天変地夭が相次ぎ・・・

地震のことは以前から言い続けているわけだが、火山噴火のほうはあまり言っていないように思う。ここに来て強調する意味は、一つには阿蘇山の伏線だろう。当該講演ではこのもう少し後ろのほうで阿蘇山が不気味な噴煙を上げ始めた旨を言っている。また、昨年の御嶽山噴火が記憶に新しい。

以前、大震災の時、わたくしは御書に津波の記述があるかどうか調べてみたいと、どこかに書き残したことがあった。今度は火山噴火のことが気になってきた。はたして御書には噴火の記述があるのだろうか? もしご存知の人がいれば、よろしくご教示願いたい。

 今こそ、その前夜である。だから私は「ギリギリの広布最終段階」と言っているのです。

広宣流布前夜という表現はそれこそ二三十年前から言われていることであって、ずいぶん長い夜だなあとは思うものの、まあ、これは文章表現だから仕方がないところではあるだろう。まさか明日の朝に広宣流布が達成されるとか、そんなふうに勘違いする人はいないはずだ。しかし、ギリギリはどうだろうか? ギリギリを言い始めてから何年経つのか知らないが、まさかこのフレーズを二十年も三十年も使い続けるわけには行かないだろう。そんなのはインチキである。

2015/4/15

春の陽気  
沖浦氏のスキー姿はけっこうカッコイイと思う。専門的にはどうか知らないが、わたくしのような素人目にはそう映る。あの急斜面を滑降すること自体、相当のレベルに達していなければ無理であろうし、それを七十歳にしてやり遂げられるのだから、まあ、自慢してもおかしくはないだろう。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=574987475976088&set=a.266449960163176.1073741827.100003945214954&type=1&theater

興味のある人はリンク先をご覧になられるとよい。

 忙しいことは良い事です。

 70歳になるが、忙しい。
 世間でニーズがある。

 創価の冥益です。


創価学会の冥益には異論があるものの、おっしゃることはごもっともである。七十歳にして忙しい。世間から必要とされている。素晴らしいことだ。

やや話が脱線するが、世間ではブラック企業のことが問題になっている。あるいはさらに大局的に見れば、非正規雇用の増加が問題視されている。ごく最近のニュースでは、年収一千万以上の人を残業代ゼロにするという法案を出すとか出さないとか、そんなようなことが話題になっていた。

これらはすべて同じ方向性を示しているように思える。すなわち労働者搾取である。

企業は金儲けを目的としているわけで、労働者はそのための道具に過ぎない。あるいはコストと言い換えてもいいだろう。リストラ対象年齢が低下しているとも言われるのは、まさにコスト削減の一環であろう。かつての終身雇用の考え方で行けば、一度入社した人はよほどのヘマをしない限り、定年まで居られる。しかし、企業の本音は逆である。ダメな人間は追い出したい。ダメな社員に給料を払うのが、いちばんのムダなのだ。そんなところにコストを掛けるわけには行かない。その結果がリストラの断行である。

ようするに文句を言わずに低賃金で働く人、それが企業のニーズなのである。ごく一部の能力のある人を除いては、国民の大半がそういう方向性に進まざるを得ない、そんな国になりつつあるのだと思う。

よしんば定年まで無事に勤め上げたとしてもである。逆にそれはそれで次なる試練が待っているのだと思う。今は平均寿命が長い。ようは定年後の人生がけっこう長いのだ。会社でそれなりに活躍していた人も、会社を辞めてしまえば、タダの人である。そこから残りの人生をどうやってまっとうするかが難しい。

こうして見ると、沖浦氏の人生はけっこう理想的なのかもしれないと思う。

まあ、しかし、それはそれ、これはこれ、である。

 基本的に日蓮正宗系の教学の方々は、顕正会や正信会、法華講員さん方に見られるように、御書に暗いですね。

日蓮正宗系の人は御書に暗いとのことだが、これはお互いさまだろう。創価学会系の人も五十歩百歩だと思う。ともかく御書を独習する人はそんなに多くない。正宗では極理の師伝を強調している。これは御書を勝手に読んでもわからないと言っているみたいなものだろう。顕正会の場合はそもそも御書を持たないので勉強の仕様がない。正信会の場合はどうだか知らないが、創価学会は人数が多いのでマレには独習している人もいることだろう。ただし、比較的に多いというだけであって、絶対数はそれほどでもないはずだ。結局のところ、組織の中で学習の機会を得て学んでいる人が大半であって、そういう人は御書に明るいとは言えないと思う。なぜならば、その組織の都合で御書がセレクトされるわけであって、広く満遍なく学べるわけではないからである。

アンケートが取れれば面白いと思うことがある。御書の所持率と通読率である。顕正会員の御書所持率は低い。これはわかり切ったことだ。しかし、もしかしたら通読率は高いかもしれない。創価学会の場合は逆だろう。これは人数の多寡が影響するわけで、創価学会は人数がベラボウに多いし、自分のところで御書を発刊しているので、自ずと御書の所持率は高いはずである。しかし、それが災いして、通読率は低くなる。顕正会は自前の御書がないので、もし御書を持っている人がいるとすれば、その人はかなり積極的と言えるだろうから、御書全編を読破している可能性も高くなる。

しかし、今のは比率の話である。これで顕正会のほうが勝れていることにはならない。やはり絶対数が物を言う。これはネット上に出現する顕正会員が圧倒的に少ないことからも言えるだろう。

 御本尊が仏そのものではないことも、御書に基づいて明白です。

 仏像との呼称。 
 摺形木との表現。

 この二つの文証は絶対の説得力を持っています。
 靴がしたいなら、

 我が図顕の曼荼羅こそ仏の本体なり。

 と言うレベルの明確な文証を提示せねばなりません。


さて、今日はこれをやっつけて終わろう。直前に、戒壇本尊本懐の明確な文証がない、などというアホなことが書かれているけれども、それはナイモノネダリだと言っておこう。問題は上掲である。

観門の難信難解がわかっていない。はい、オシマイ。これでいいのだが、それではあまりにも不親切なので、もう少し工夫してみようと思う。

仏像は沖浦氏の勝手な解釈である。摺形木も勝手な解釈と言ってしまえばそれまでだが、中には沖浦氏の説明に説得力を感じている人もいるかもしれないので、ここでハッキリと書いておかなければならないだろう。

・・・是全く日蓮が自作にあらず、多宝塔中の大牟尼世尊・分身の諸仏のすりかたぎたる本尊なり。

そもそも沖浦氏は己の発言が大聖人を貶めることに気がつかないのだろうか? ここに日蓮が自作にあらずとある。つまり、沖浦流の考え方だと、大聖人は他作をコピーしたという話にもなりかねないのだ。盗作であると。

言葉は時代によって変遷する。意味・内容が変化するのだ。ゆえに摺形木を今日のコピーの意味で解釈したら大間違いである。摺形木=本物と解釈すべきが至当である。これはもう時代が異なるので現代感覚で推し量っても仕方がない。そこをよく考えるべきだろう。強いて言うならば戸籍謄本が近いかもしれない。謄本というのは写しの意味である。しかし、これをコピーと言う人はいないだろう。コピーはいかにも軽々しい。謄本は現代においても相当に重く感じられる表現のはずである。

さて、ここからが重要だ。

 日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。・・・日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。

沖浦氏は、我が図顕の曼荼羅こそ仏の本体なり、という明確な文証を示せと言っているが、これほど明確な文証もあるまい。これを素直に拝せないとなると、もはや沖浦氏の信心を疑わざるを得ないところである。もっとも氏はすでに日蓮本仏論を否定する方向に走りつつあるわけだし、曼荼羅正意論も否定する立場のようなので、すると上掲の日蓮がたましひは曼荼羅ではなく題目なのだと言いたいのかもしれない。もしそうならば、ヘソマガリだなあ、と言う以外にないだろう。当該御文は御守り御本尊を前提に論じられているのだから、題目だけが独立しているわけではないのは自明のはずである。そこを忘れてもらっては困るのだ。

白米一俵御書は傍証として重要である。

白米は白米にはあらず。すなはち命なり。

沖浦流で行けば、白米はあくまで白米だろう、命のわけがない、ということになりそうである。つくづく信心のない人だ。

命は法華経にたてまつる。名をば後代に留むべし。

この開目抄の御文が前掲と函蓋相応していることに気がつかなければいけない。まさに大聖人は竜の口において成道を遂げられた。その後、御本尊をあらわし始めるのだ。

名をば後代に留む・・・

一般人が読めば大聖人の名前が歴史に刻まれたことを想起するかもしれない。しかし、それはあくまで表面的な読み方だ。まさに、あの大曼荼羅御本尊に認められた日蓮在御判こそが、名をば後代に留むの本当の意味であると、このように拝するのが正宗教学の真髄だろう。これを大聖人のたましひと言わずして何をたましひと言うのだろうか?

白米は白米、命のわけがない。曼荼羅は曼荼羅、仏のわけがない。こんなことをいつまでも言い続けてはいけない。

2015/4/9

春の決着  
どうやら決着がついたようである。沖浦氏本人も日蓮正宗を破折し尽くしたつもりになっているので、あとは読者各自の判断に任せるべきところだが、わたくしとしては言い足りないところがあるので、もう少しだけ書きたいと思う。

沖浦氏は本尊抄に仏像という語があるのを捕らえて、仏像は仏を象ったもので仏そのものではない、などと散々言ってきた。これは開眼だとか観門の難信難解がわかっていない証拠である。しかし、いくら言ってもわからないので、少し角度を変えて論じてみたのが昨日の拙稿である。今一度、復習のつもりで書いてみよう。

仏像は仏を象ったもので仏そのものではない。

だったら以下も同じ理屈だろう。

南無妙法蓮華経は法を表現したものであって法そのものではない。

ところが沖浦氏の答えは違っていた。

 法そのものです。

こういうのを支離滅裂というのだ。

説明しよう。本尊抄に、仏像は仏そのものではない、などという御指南は存在しない。沖浦氏が勝手に解釈しているだけである。だったら南無妙法蓮華経と法の関係も同じだろう、というのがわたくしの反論だった。ところが沖浦氏は肯んぜず、法そのものだと言い張っているのである。しょせんは自分の都合に合わせて好き勝手に解釈しているだけであり、それがために統一性に欠けるのだ。すなわち支離滅裂ということである。

 一切衆生が久遠の自受用報身にょらいである。

次に発迹顕本について書くわけだが、その前に上掲をやっつけておこう。氏は拙稿をまるで読んでいないようだ。自受用報身如来という語は希少であって、御書中にはほとんど見られない。ゆえにこの語を用いるのであれば、まずはその文証を提示しなければいけないのだ。

そこで今日のメインイベントである。

 発迹顕本とは、迹を発って本を顕すとの意味で、火としての仮の姿から、久遠の南無妙法蓮華経であることを悟ることを言います。

火としては人としての間違いだろう。上掲の文章はそこを除けば明快である。しかし、明快イコール正解ではない。単に文章がわかりやすいので明快と書いただけのことで、内容的にはデタラメきわまるものである。どうやら沖浦氏は発迹顕本の意味がわかっていないらしい。その決定的証拠が次である。

 釈迦は菩提樹の下で、伝教は比叡山散策中に、大聖人は竜の口で、戸田先生は獄中の悟達でそれぞれ発迹顕本をなさいました。

戸田城聖氏のことは詳しく存じ上げないので、ノーコメントとしよう。また、伝教のことも不勉強のわたくしにはよくわからないことだ。

大聖人は竜の口で・・・

もちろん正解であるが、沖浦氏の場合は発迹顕本の直接の文証を示す必要がある。それが出来なければ失格である。シツコイようだが言っておく。氏の引用する御文には発迹顕本とは書かれていない。つまり、直接的な文証を提示できない限り、正宗教学のパクリだと言われても文句は言えないのだ。

そして最大の失敗は釈尊についてである。

釈迦は菩提樹の下で・・・

これは大間違いだろう。素直に認めなければいけない。

生意気を言うようであるが、わたくしは解説書を読まない。ゆえに発迹顕本の正確な意味を知らない。しかし、御書を拝することによって、おおよそのことはわかる。また逆に、御書を基準に考えているので、世間一般の認識ではなく大聖人の御認識に基づく言葉の意味を知ることが出来るのだ。実は開目抄に発迹顕本の語がある。

迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。

これで沖浦氏の間違いは明白だろう。しかし、読者の中には教学に疎い人もいるだろうから、もう少し説明を加えたい。上掲の御文の直前には次のような一文がある。

二には「始成を言ふが故に曾て未だ迹を発せず」と、本門の久遠をかくせり。

始成正覚と久遠実成という言葉がある。前者は釈尊が三十歳の時に成道を遂げたことを意味する。そして後者は法華経の本門寿量品に至って、我は久遠の昔に成道を遂げていたと明かすのだ。つまり、これが発迹顕本である。

ゆえに沖浦氏の菩提樹下云々は、三十成道のいわゆる始成正覚を意味するのであって、発迹顕本ではない。とんだ勘違いである。

ここで余談を差し挟むと、顕正会では大聖人が立宗宣言をあそばす三十二歳の時をもって成道したという雰囲気のことを言っている。あくまで雰囲気であって、明確には言わないのだけれども、ともかくそのようなニュアンスのことを言っているのだ。御存知のごとく、御化導の上で佐前佐後ということがある。ゆえに、竜の口以前は釈尊における爾前経の位置づけに相当すると大聖人御自らが仰せられているわけであり、この意味からしても釈尊の三十成道と大聖人の御年三十二歳における立宗宣言が相当の関係にあると考えられるのだ。以下は浅井昭衛著南無日蓮大聖人の一節である。

 清澄寺の前庭の左の谷間には、明星ヶ池と呼ばれる池がある。末法の一切衆生のための本尊を祈請し給うていた蓮長法師は、四月二十八日の未明、この池の辺に立たれた。そして、池の水面に映る影を見給うに、「不思議なり、日蓮が影今の大曼荼羅なり」(御本尊七箇之相承)と。池に映ったその影は、そのまま「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」の御本尊の御形であった。

まさに雰囲気濃厚であろう。わたくしは拙ブログを通して浅井先生を徹底的に批判してきたわけであるが、あくまで是々非々である。良いところは評価しなければいけない。ゆえに過去にも書いたごとく、文底読みの名手・種脱相対の名人、というのがわたくしの浅井先生に対する評価である。ちなみに、その浅井先生が絶対的に信頼しているのが日寛上人なのだ。正宗教学をナメてはいけない。

http://taniken3.blog114.fc2.com/blog-entry-201.html

とは言え、沖浦氏にとっては他宗の内部規定に過ぎないということになりそうなので、ここでリンクを紹介しておこう。これは昨日、発迹顕本をキーワードに検索を掛けていて発見したブログであるが、どうやら七十九歳の創価学会員が書いているらしい。

 釈迦仏法では、法華経如来寿量品第十六で、釈尊は十九歳で出家し、三十歳で成道したというのは、衆生を教化するために迹を垂れたものであり(始成正覚)、その本地は五百塵点劫以来、三世常住の仏(久遠実成)であると明かしたことをいう。

昨日も書いたように、検索を掛けるとなぜか創価学会系のサイトばかりが出てきて、当然ながらそこに書かれているのは大聖人の発迹顕本のことばかりなのだ。しかし、本来の意味はまさに上掲のごとく、釈尊の久遠実成を指し示すわけである。これで沖浦氏の間違いは確定だ。

しかも当該リンクの続きの文章を読んでいくと、凄いことが書かれている。

 日寛上人は次のように仰せです。
 「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(『日寛上人文段集』)
 「人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖大聖人と顕るるなり」(同)
 「法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」(同) 
 ありがたい仏法だ。超越的な別な理想人格がゴールだったら、私たち今世で幸福になることはありえなくなる。


どうやらこれは池田名誉会長の発言らしい。斉藤という人物との対談形式になっていて、御書の世界という書籍にまとめられているらしいのだ。

あらまあ、どうするんだろうね。教義の改変なんか、やらなきゃいいのに。自語相違の連発で、もはや収拾がつかない。困ったもんだ。

今回の法門談義はこれにて一件落着としたい。

2015/4/8

春の冷雨  
沖浦氏から中二日の間に大量のコメントをたまわった。わたくしの愚問に懇切丁寧に答えて下さったのだろうけれども、必ずしも要領を得るものとは言えないようだ。たぶん第三者が読めば、話がややこしくてわけがわからないに違いない。

しかし、実はけっこうシンプルなのである。まずは発迹顕本から入ろう。

 久遠元初の三身が無始無終であることに反対したことは一度もありません。

 但し、それが久遠の自受用報身如来であって、その如来が大聖人お一人。

 これは間違いです。


凄いことを言うものである。なぜならば創価学会の公式サイトには次のように書かれているからだ。

この法難は、大聖人御自身にとって極めて重要な意義をもつ出来事でした。すなわち、大聖人は竜の口の法難を勝ち越えた時に、凡夫という迹(仮の姿)を開いて、久遠元初自受用報身如来という本地(本来の境地)を顕されたのです。これを「発迹顕本」(迹を発いて本を顕す)といいます。

つまり、創価学会では大聖人を久遠元初自受用報身如来だと言っているのにもかかわらず、沖浦氏はそれを間違いだと断言しているのである。

しかし、これには反論があるかもしれないので、もう少し説明しておこう。

沖浦氏は、大聖人だけが久遠の自受用報身如来なのではない、一切衆生がそうなのだ、と言っているのかもしれない。もしそうならば、いちおう創価学会の公式見解と、それほど齟齬はないことになるのかもしれない。

そこで発迹顕本の話に入ろう。

先ほど、発迹顕本をキーワードに調べたところ、なんと検索上位の大半が創価学会系のサイトだった。一位が先ほど引用したものであり、以下、これでもかと言うくらい創価学会系のサイトばかりが登場するのだ。つまり、彼らは発迹顕本が好き(?)なのだ。
わたくしは前回、これを正宗教学における常識中の常識だと書いた。たぶん日蓮宗のほうでは言わないはずである。なぜならば、これはいわば日蓮本仏論に根差した考え方だからであり、釈迦本仏論の立場としては認めるわけにはいかないのだろうと想像されるからである。
そこで本来ならば検索上位に日蓮正宗系のサイトが出てこないといけないのだが、おそらくは層の厚さ薄さの問題なのだろう。創価学会のほうが圧倒的に層が厚いので、検索上位には自ずと彼らが登場することになるのだと思われる。

さて、そこで問題である。発迹顕本とは何か、それが問題なのだ。

実は御書中のキーワードとしてはきわめて希少、それがこの発迹顕本という用語なのである。前回、沖浦氏に問い質したのもこれがためで、結局のところ、氏はこれの直接の文証を提示することが出来なかった。

日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて・・・

常識中の常識である。しかしながら、ここに発迹顕本という語はない。

 聖人御難事では、大聖人は明確に出世の本懐を既に遂げたと仰せです。

 ご本人が仰せですので、他人の推測が入る余地はありません。


これをアゲアシ取りなどと思ってはいけない。ようするに出世の本懐は大聖人御自らが明確に仰せられている。このことを沖浦氏は知っているわけである。もちろん出世の本懐が具体的には何であるかは議論の分かれるところであって、今や創価学会では戒壇の大御本尊を否定する方向に走っているわけであるが、ともかく大聖人が出世の本懐をあそばしたという点に異論はない。だったら前掲の開目抄の御文はどうなのかという話なのである。発迹顕本をあそばしたとは書かれていない。

結論として、沖浦氏は文証を提示できなかったということになる。

ちなみに、創価学会の公式サイトでは発迹顕本と共に久遠元初自受用報身如来という用語を使っているが、これも希少な用語である。おそらくは御相伝書にしか出てこない言葉だろう。

以上、ここまでは発迹顕本について書いて来たわけだが、創価学会員のお好きな発迹顕本は、どうやら正宗教学を拝借しないことには成立しない教義のようである。

次が厄介である。

 戒壇本尊は物で出来ています。
 厳然たる事実です。
 物はいつかは消滅致します。
 ですが、法は消滅致しません。


繰り返し引用している沖浦氏の発言であるが、少しだけ進展があった。以下、氏の新たな発言の中から、重要と思われる部分を紹介したい。

 この世に形として存在するものには、例外なく寿命があります。
 貴方も、私も、戒壇本尊もその定めは逃れられません。


進展と書いた理由をおわかりだろうか?

沖浦氏は今まで散々、自分自身を南無妙法蓮華経如来だと言い、物質で出来た戒壇の大御本尊よりも勝れるかのごとく言ってきたのだ。しかし、ここでは同列に見ていることになる。そこで改めて前掲を読むと、なるほど、法は消滅しないと言っているのだった。

つまり、これはいわゆる法勝人劣思想と呼ばれるものである。すると、沖浦氏はいわゆる人法一箇ないし人法体一を認めない立場なのだろうか?

最初に厄介だと書いたのはこのためだ。

実はわたくしの長年の懸案事項がこれなのである。未だによくわかっていないというのが正直なところである。しかし、これを書くと話がますます混迷を極めるので、今回はやめておこう。

そこで沖浦氏に問いたい。まずは確認である。

物体本尊は本尊そのものにあらず

氏はこのような意味のことを言い続けてきたわけだが、今もそれに変わりはないのかどうかをお聞きしたい。ここで回答を待っていても仕方がないので、話を進めてしまおう。次はわたくしからの新たな問いである。

南無妙法蓮華経は法そのものにあらず?

当体義抄には聖人が因果倶時・不思議の一法に対して妙法蓮華と名づけたとある。また御義口伝の冒頭には南無妙法蓮華経を梵語では薩達磨芬陀梨伽蘇多覧と言うのだと仰せである。

沖浦氏は仏像について、仏像は仏を象ったものであって仏ではない、という意味を繰り返し言っている。だったら同じではないかと言いたい。南無妙法蓮華経は法を表現したものであって法そのものではない、ということにならざるを得ないのではないかと言いたいのだ。これはまったく同じ理屈のはずである。仏と仏像はいわゆる色法に属する概念だからすぐにわかる。ところが法と南無妙法蓮華経の関係は心法の概念なのでわかり難い。ゆえに沖浦氏は何となくわかったような気になっているだけであって、実はまったくわかっていないのではないかということなのだ。

法は消滅しません。

再掲であるが、この言葉に酔い痴れたところでどうにもならないことは、ここまでの説明でよくわかったのではないかと思う。そこで無始無終について、少し触れておこう。

久遠元初の三身が無始無終であることに反対したことは一度もありません。

そもそも三身とは何か、その三身が無始無終とは如何なる概念なのか、実はそこがよくわかっていないのではないかと思う。いや、これは沖浦氏がわかっていないのではなく、我々全員がわかっていないのである。何しろ必ず死ぬのである。一人の例外もなく死ぬのだ。説明上は三世の生命だとか輪廻転生だとか理解しているつもりになっているけれども、それが本当かどうかはわからない。

 この世に形として存在するものには、例外なく寿命があります。
 貴方も、私も、戒壇本尊もその定めは逃れられません。


再掲の繰り返しで恐縮だが、結局のところ、沖浦氏の言う我々は本来南無妙法蓮華経如来ということもアヤシイものである。氏は久遠元初の三身が無始無終であることに反対したことはないと言う。ならば我々も本来は無始無終のはずなのだ。ところが上掲のごとく、氏は寿命があることを認めているのである。

つまり、法は消滅しないなどと言ったところで死は免れない、無始無終などと言ったところで死は免れない、これが厳然たる事実ということだ。

最後は難解な話になってしまったが、今日のポイントは二つである。発迹顕本のことと、法のことだ。現状、創価学会は正宗教学に依存している。この事実は否めない。発迹顕本が好例であって、これは正宗教学のパクリに他ならないだろう。そこを自覚しないといけない。そして法は消滅しないなどと文字曼荼羅を貶めるようなことを言ったところで、そもそも南無妙法蓮華経がなぜに法と言えるのかと問われれば、結局は同じ土俵に戻されてしまうことに気がつかないといけないのだ。

以上、うまく説明できたとは言えないけれども、これをもって沖浦氏への返信としたい。

2015/4/5

花冷えの一日  
沖浦氏との議論は早くも佳境を迎えたようだ。予想通りの展開というか、予想以上の好展開を見せている。

大聖人を特別な仏ではなく、私共と同じ人間であるとの視点からの見直しが必要になる・・・

これについてわたくしは久成三身が無始無終の仏であるとの文証を引いて反論した。この点、沖浦氏の返事を拝見すると、どうも話が噛み合っていないようであるが、それは毎度のことなので気にすることもあるまい。

当時の人々は阿弥陀ないし大日を信仰していた。いわば特別視していたわけだ。これに対し大聖人は異を唱えた。釈尊を仰ぐべきだと。その御説明の一つが久成三身云々なのである。
科学信仰という言葉がある。しかし、それは文章表現であって何も科学を信仰の対象にするわけではない。まさか科学に対して、朝晩の勤行をするみたいなことはないのだ。
わたくしの思うに、沖浦氏のそれは科学信仰の雰囲気が濃厚である。つまりは信仰ではない。さすがに言い過ぎかもしれないが、どうも沖浦氏の言っていることは信仰そのものを薄めることにしかならないのではないかと思う。仏を特別視するのはむしろ当たり前のことであって、それがまさしく信仰の基本なのである。御本尊を道具などと言ってしまうことも、信仰を薄める作用しかもたらさないだろう。

ちなみに当時は念仏・真言に並んで禅宗も流行っていた。これに対する批判としては、謂己均仏の大慢ということを大聖人は仰せられている。己を仏と均しいなどと思うのは大慢心であると、誡められているのである。

それからもう一つ、無始無終を持ち出したのには別の意図があった。

現実問題として、我々は必ず死ぬのだ。いくら無始無終と言われても、やがては朽ち果てていく身である。だったら同じではないかと言いたい。沖浦氏は物質で作られた御本尊を卑下する発言を繰り返しているが、自分もまた朽ち果てていくのである。沖浦氏は己を仏と均しいと言い、それがまた最上の悟りであるかのごとく言っている。確かに御書にもそうした記述があるのは事実だ。

しかし、ここに自己矛盾が存することに気がつかないといけない。

やがては朽ち果てる自分自身が、本当は無始無終の仏と異ならないのだという最上の悟りと、板や紙で出来た御本尊が別物であるかのごとく思い込んでいる点が、実は大いなる矛盾なのだということを、である。

早い話がわかっていない。具体的には観門の難信難解がわかっていない。もしくは信じられないということなのだ。

>観門の難信難解を否定するのか? 

 否定したことはありませんね。


いよいよ切羽詰ってきた。蒸し返すようで恐縮だが、過去のコメントを掲げておきたい。

観門の難信難義は、木や金で出来た仏像や、紙や板でできた曼荼羅が、仏である道理がないと言う事です。

(中略)

 御本尊も同じです。
 一応の仏ですが、方便なんです。


これは「沖浦流法門の終焉は近い」のコメント欄に残された貴重な文証である。本人は否定ではないと言い張るかもしれないが、誰が読んでも否定だろう。

ここに御本尊も同じだと書いている。実は沖浦氏の言っていることとは違う意味で、御本尊も同じである。すなわち御本尊も我々も同じく一念三千の当体なのだ。

金錍論に云はく「乃ち是一草・一木・一礫・一塵、各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」等云云。

しかるに沖浦氏は次のごとく言っている。

 戒壇本尊は物で出来ています。
 厳然たる事実です。
 物はいつかは消滅致します。
 ですが、法は消滅致しません。


観門の難信難解がまるでわかっていない証拠である。

また、んっ?氏が再三にわたって書いておられることも、ひじょうに平易かつ明快なので紹介しておこう。

2015/4/1 20:29
投稿者:んっ?
>戒壇本尊は物で出来ています。

此れまた,何度も云ってる。
君も私も「物」で出来てる。

そうして「方便現涅槃」する。

違いは「有情」「非情」の差があるだけだ。

結局,「難信難解」なままなんだね?ww


金錍論に示されるごとく、有情非情に差別を設けないのが一念三千である。ゆえに、繰り返しになるが、もし一切衆生が等しく本来南無妙法蓮華経如来だというのが最上の悟りであるならば、非情を排除する理由はどこにも存在しないことに気がつかなければいけないのだ。

さらに望外の展開を見ることになる。わたくしは大聖人が仰せられる御本尊の意味がわずか二年で変化している事実を示したわけだが、そこで沖浦氏より思わぬ回答をたまわった。

 この御書は、文永十年五月とされています。
 佐渡始顕の御本尊以前です。

 現存若しくは曽存する御本尊で、私どもが拝む形式が整ったものは、佐渡始顕の御本尊からです。
 この御本尊は、十年七月八日ですので、諸法実相抄時点では御図顕前です。

 以上時系列を提示致しました。

 ここから私見を申します。

 時系列的に御図顕前は前ですが、双方のタイムラグは二月ございません。

 当然大聖人のご胸中にはいよいよ曼荼羅御図顕の御構想があったと考えられます。

 その胸中の御本尊を、御図顕の御決意と共に記し置かれた。


これはまったく予想外の回答であり、驚いているところである。そもそもが、はたして佐渡始顕の御本尊と諸法実相抄の関係性が上掲のごとくなのかどうか、わたくしにはまったくわからない。けれども、もし沖浦氏の言うとおりならば、これは戒壇の大御本尊と聖人御難事の関係と同じことになるはずである。本人はわかっているのだろうか?

そして次が本題である。

月満御前御書に仰せの御本尊と諸法実相抄に仰せの御本尊は意味が異なる。前者は釈尊を意味し、後者は大曼荼羅御本尊を意味する。わずか二年でこの変化である。これはいったい何事だろうか?

 これは変化して当然なのです。
 
 文永8年9月12日。
 竜の口法難がありました。
 そこで、大聖人が発迹顕本なされた。

 釈迦の菩提樹の下の悟りと同じです。
 その瞬間の以前と以後では、同じ人間ですが悟りの内容が全く異なります。

 境涯に一大変化が起きた。

 これが竜の口です。

 『日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄佐土の国にいたりて』
 (開目抄下)

 わずか2年と巌虎さんは書かれましたが、悟りを開くのは一瞬の行為です。

 御書にあるのですから、信受致しましょうね。


御名答である。と同時に、これは沖浦氏の大失策だと言っておこう。

まず、わたくしがこの事実を失念していたなどと思う人は、少なくとも拙ブログの愛読者ならばいないだろう。いわば本尊論の基本だからである。日蓮正宗で信仰していればあり得ないことだが、いわゆる日蓮宗では、釈尊を本尊とするのか大曼荼羅を本尊とするのか、そこで迷ってしまっているテイタラクである。その理由はさまざまの角度から論じられるところだが、手っ取り早く言うならば彼らは発迹顕本を知らない、すなわち大聖人が御本仏であられることを知らない、だから迷うのである。

これが答えだ。

沖浦氏は大聖人を御本仏であるとすることにも異議を唱える人である。何しろ見直しが必要などと言っているくらいなのだ。

しかもである。

氏は何の気なしに発迹顕本と書いているけれども、いったいこれをどのように証明するのかが問題である。発迹顕本は正宗教学においては常識中の常識である。ゆえにわたくしに異論はない。しかし、氏は正宗教学を否定しているのだ。ならば、自力で論証しなければいけない。

いちおう論証のつもりなのだろうか、氏は開目抄の御文を引用しているけれども、いったいこれのどこが発迹顕本なの? と言われたどうするつもりなのか、そこが新たな課題である。御書に発迹顕本という用語は出てくるものの、大聖人が発迹顕本をあそばしたという記述は見当たらない。

さあ、どうする?

さて、大方の読者は沖浦氏とわたくしの議論をまた始まったかくらいに思っているかもしれないが、確かにそれはそのとおりなのだが、内容的には本尊論と本仏論が密接不可分の関係にあることを垣間見ることが出来て、それなりに有意義なのではないかと思う。


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