2015/4/2
新年度最初の法門談義
先月の中頃、アヤシゲな人物が何人か登場したが、すっかり鳴りを潜めてしまったようだ。そして今はまた従来のパターンに戻って、常連の人たちによる不毛の議論が続いている。いや、失礼。不毛ではない。不毛ではないが、まあ、しかし、あまり進歩がないというか、膠着状態からなかなか抜け出せないというのも事実であろう。
更に、その次には、大聖人御本仏の見直しがあると思います。
大聖人は仏ですが、それは私ども一切衆生も同じです。
これも御書に明確に書かれてありますので、疑う余地がありません。
ですので、大聖人を特別な仏ではなく、私共と同じ人間であるとの視点からの見直しが必要になるでしょう。
世界広布には絶対に必要な視点です。
何を考えておるものかと思う。いわゆる日蓮本仏論と戒壇本尊本懐論のセットが日蓮正宗の主張だとすると、沖浦氏はそれを完全否定するつもりでいるらしい。戒壇本尊については昨年十一月の教義改変で大きく舵を切った創価学会であるが、しかし、日蓮本仏論の見直しまでするとなると、今までの主義主張はいったい何だったのかということにもなる。さしずめ迷走する創価学会だ。
そこで質問したい。
久成の三身 応身 報身 法身 無始無終
建治元年の一代五時鶏図にはご覧のような記述がある。ここでの久成三身は久遠実成の教主釈尊のことだろう。ちなみに、始成の三身ないし大日等の仏は法身こそ無始無終であるものの、応身・報身は有始有終と説かれている。すると大聖人は久成の三身を特別視していることにならないだろうか?
戒壇本尊は物で出来ています。
厳然たる事実です。
物はいつかは消滅致します。
ですが、法は消滅致しません。
南無妙法蓮華経だけは絶対に無くなりません。
大聖人出世の御本懐が、必ず消滅する物質で作られた御本尊ではあり得ないと言う事実を弁えましょう。
さて、これは昨夜のコメントであるが、今朝になって次のようなことを言っている。
御書には、この世にあり全ての物が、南無妙法蓮華経の当体だと書かれてあります。
『問うて云く法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等」云云、此の経文の意如何、答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり依報あるならば必ず正報住すべし、釈に云く「依報正報常に妙経を宣ぶ」等云云、又云く「実相は必ず諸法諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」、又云く「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」云云、此等の釈義分明なり誰か疑網を生ぜんや、されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、』
(諸法実相抄)
少し長い引用になりましたが、この御文の前半で、十界の依正の当体は全て南無妙法蓮華経だとあります。
矛盾に気がつかないのだろうか?
大聖人は十界の依正が悉く妙法蓮華経だと仰せられている。であれば物質であれ何であれ同じ理屈だろう。ゆえに当該御文はむしろ物質たる文字曼荼羅が本尊たり得ることを論証あそばしているとも言えるのだ。
その証拠は同御書の末文に明白だ。
一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。
まさか大聖人がこうも明白に仰せられていることを沖浦氏は否定するつもりなのだろうか?
そこで再質問である。
沖浦氏はなぜに教門の難信難解だけを肯定し、観門の難信難解を否定するのか? 大聖人御自らが難信難解には二つあると仰せられているにもかかわらず、なぜにその片方しか用いないのか?
以前の拙稿をご覧になっていない人のために説明しておくと、大聖人は観心本尊抄において二つの難信難解を仰せられている。そのうちの観門の難信難解とは、早い話が物質に過ぎない文字曼荼羅がなぜに本尊たり得るのかを御説明あそばしておられるのだ。また草木成仏口決にも同趣旨の仰せがあって、習い損ないの学者には夢にも知らざる法門であるとまで仰せられているのである。
さて、沖浦氏がどのように回答するか、注目したいと思う。
さらにオマケを付けておこう。次に引用するのは文永八年五月八日の月満御前御書である。前後を省いて、必要な部分だけを抽出させていただく。
是また御本尊・十羅刹に申し上げて候。
ここでの御本尊とは何を意味するのだろうか?
この答えはすぐに出ると思うが、問題は諸法実相抄との整合性だ。再掲しよう。
一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。
さて、こちらの御本尊は何を意味するのだろうか?
わたくしの問題提起を申し上げよう。前者は文永八年五月八日であり、後者は文永十年五月十七日である。その間、わずか二年である。もし前者と後者で御本尊の意味が異なるとすれば、これほどの自語相違もあるまい。何しろ信仰の根幹に関わる問題だからだ。
これについての沖浦氏の見解をお聞きしたいと思う。もちろん他の人の意見も歓迎である。
更に、その次には、大聖人御本仏の見直しがあると思います。
大聖人は仏ですが、それは私ども一切衆生も同じです。
これも御書に明確に書かれてありますので、疑う余地がありません。
ですので、大聖人を特別な仏ではなく、私共と同じ人間であるとの視点からの見直しが必要になるでしょう。
世界広布には絶対に必要な視点です。
何を考えておるものかと思う。いわゆる日蓮本仏論と戒壇本尊本懐論のセットが日蓮正宗の主張だとすると、沖浦氏はそれを完全否定するつもりでいるらしい。戒壇本尊については昨年十一月の教義改変で大きく舵を切った創価学会であるが、しかし、日蓮本仏論の見直しまでするとなると、今までの主義主張はいったい何だったのかということにもなる。さしずめ迷走する創価学会だ。
そこで質問したい。
久成の三身 応身 報身 法身 無始無終
建治元年の一代五時鶏図にはご覧のような記述がある。ここでの久成三身は久遠実成の教主釈尊のことだろう。ちなみに、始成の三身ないし大日等の仏は法身こそ無始無終であるものの、応身・報身は有始有終と説かれている。すると大聖人は久成の三身を特別視していることにならないだろうか?
戒壇本尊は物で出来ています。
厳然たる事実です。
物はいつかは消滅致します。
ですが、法は消滅致しません。
南無妙法蓮華経だけは絶対に無くなりません。
大聖人出世の御本懐が、必ず消滅する物質で作られた御本尊ではあり得ないと言う事実を弁えましょう。
さて、これは昨夜のコメントであるが、今朝になって次のようなことを言っている。
御書には、この世にあり全ての物が、南無妙法蓮華経の当体だと書かれてあります。
『問うて云く法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等」云云、此の経文の意如何、答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり依報あるならば必ず正報住すべし、釈に云く「依報正報常に妙経を宣ぶ」等云云、又云く「実相は必ず諸法諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」、又云く「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」云云、此等の釈義分明なり誰か疑網を生ぜんや、されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、』
(諸法実相抄)
少し長い引用になりましたが、この御文の前半で、十界の依正の当体は全て南無妙法蓮華経だとあります。
矛盾に気がつかないのだろうか?
大聖人は十界の依正が悉く妙法蓮華経だと仰せられている。であれば物質であれ何であれ同じ理屈だろう。ゆえに当該御文はむしろ物質たる文字曼荼羅が本尊たり得ることを論証あそばしているとも言えるのだ。
その証拠は同御書の末文に明白だ。
一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。
まさか大聖人がこうも明白に仰せられていることを沖浦氏は否定するつもりなのだろうか?
そこで再質問である。
沖浦氏はなぜに教門の難信難解だけを肯定し、観門の難信難解を否定するのか? 大聖人御自らが難信難解には二つあると仰せられているにもかかわらず、なぜにその片方しか用いないのか?
以前の拙稿をご覧になっていない人のために説明しておくと、大聖人は観心本尊抄において二つの難信難解を仰せられている。そのうちの観門の難信難解とは、早い話が物質に過ぎない文字曼荼羅がなぜに本尊たり得るのかを御説明あそばしておられるのだ。また草木成仏口決にも同趣旨の仰せがあって、習い損ないの学者には夢にも知らざる法門であるとまで仰せられているのである。
さて、沖浦氏がどのように回答するか、注目したいと思う。
さらにオマケを付けておこう。次に引用するのは文永八年五月八日の月満御前御書である。前後を省いて、必要な部分だけを抽出させていただく。
是また御本尊・十羅刹に申し上げて候。
ここでの御本尊とは何を意味するのだろうか?
この答えはすぐに出ると思うが、問題は諸法実相抄との整合性だ。再掲しよう。
一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。
さて、こちらの御本尊は何を意味するのだろうか?
わたくしの問題提起を申し上げよう。前者は文永八年五月八日であり、後者は文永十年五月十七日である。その間、わずか二年である。もし前者と後者で御本尊の意味が異なるとすれば、これほどの自語相違もあるまい。何しろ信仰の根幹に関わる問題だからだ。
これについての沖浦氏の見解をお聞きしたいと思う。もちろん他の人の意見も歓迎である。