2015/4/18

顕正新聞をダシに存続を図るブログ  
沖浦氏より質問が寄せられた。以下が全文である。

2015/4/18 5:17
投稿者:沖浦克治
巌虎さん、おはようございます。

 私との論議は終わりになさるとこのとですが、一つだけ質問を致します。

 貴方は龍の口での発迹顕本を認める発言をされていますが、私には明確な文証がないからダメだと言われた。
 では、貴方は御書のどの御文を持って、龍の口の発迹顕本を認めておられますか?

 お聞かせくださいませ。

 若し私が提示した御文が、発迹顕本の衣文とならないなら、そういう文証がほかにあるはずです。


これについての回答はしばらく保留としたい。

沖浦氏には拙ブログの一ページ目から順番に読むことをお勧めしたい。すでに二千以上の投稿数なので、おそらくは数ヶ月ないし数年は掛かるだろう。というよりは、途中で挫折するのがオチだと思う。それ以前に、拙ブログを最初からぜんぶ読もうなどとは誰も思わないはずで、沖浦氏も読もうとはしないに違いない。

つまり、理解する気がないのだ。

もともと理解力がないのか、それとも理解する努力をしないだけなのか、そこはわからないけれども、ともかく拙ブログをよく読みもしないで質問をぶつけられても、こちらとしては答える気がしないのである。そこのところをよろしく斟酌願いたいと思う。

さて、顕正新聞第1338号である。

・・・これこそ国家の変毒為薬、亡国日本がそのまま仏国となり御生骨が光を放つのだと、

第二十四女子部長の記事である。切り文で恐縮だが、御生骨が光を放つというくだりが気になったので取り上げさせていただいた。先日、外用の成仏の話題を取り上げた。死すれば光を放つ云々の話である。どうやら浅井先生はこれを譬喩と考えているらしく、本当に光を放つとは思っていない様子だった。ならば御生骨も同じ理屈だろうと思うが、いかがだろうか?

この点、現役顕正会員のコメントが求められるところだ。

ただ大聖人様、戒壇の大御本尊様の御威徳、浅井先生の重大なお立場にひれ伏し・・・

これまた切り文で恐縮であるが、ひじょうに悩ましい。第十七婦人部長の発言である。

そして婦人部岡山支区組長の活動報告には、次のようなくだりがある。

佐渡雪中で開目抄をお認めになられた大聖人様の御姿と、先生のお姿が重なり・・・

前回のコメント欄では大聖人の神格化を問題視するような発言が見られた。しかし、日蓮本仏論を採用する立場としてはむしろ当たり前の話であって、それのいったい何が問題なのかと言いたいところである。その上で上掲のような記述を読むと、さすがにこれはマズイだろう、これでは日蓮本仏論を通り越して会長本仏論になりかねない、という危惧を感じざるを得ないところなのだ。ある意味、会長を尊敬するのは当然のことかもしれない。しかし、それがエスカレートし過ぎてはいけない。その辺のサジ加減をどうするか、よく考えるべきだろう。

ところで当該記事の見出しには、次のごとく書かれている。

戒壇の大御本尊に直結するお題目を
 宗門で60年、93歳の老人がついに入会


まいったな〜、というのが正直な感想だ。

顕正会から宗門へ行く人が後を絶たない。同時に、宗門から顕正会へ移籍する人もいるわけで、上掲の話がまさにそれである。人材の引き抜き合戦みたいな意味もあるので、この件はお互いさまということにしておこう。それにしても何たる言い草かと思う。

え? 何だって? 大御本尊に直結するお題目?

ようするに宗門の題目は大御本尊に直結しないと言いたいわけなのだ。

先月あたりにも繰り返し書いたように、わたくしは宗門復帰論者である。顕正会は宗門へ復帰すべきである。宗門へ復帰してこそ、いよいよ本格的な御遺命成就の戦いに入れるわけである。

樋田昌志氏が連日のように動画をアップして、近年は特に顕正会の話題にも言及することが多くなって、聞いているとけっこうボロクソなことを言っているわけだが、それも仕方がない面がある。何しろ顕正会のほうがこのテイタラクなのである。宗門の題目は御本尊に直結しない、早い話が功徳にならない、かえって罰を蒙るのだと、こんなような言い草なのであるから、樋田氏も黙っているわけがない。けれども、もし顕正会が宗門に復帰すれば、この問題は一瞬にして解決するのである。これほど理想的な解決策もあるまいと思う。

これに少し関連して、婦人部早稲田支区総班長の記事には、次のようなくだりがある。

広宣流布は眼前、学会の崩壊、宗門が御在世に戻るのも、顕正会の二百万にかかっている・・・

これによれば、とりあえず二百万がターニングポイントなのだろう。少なくとも彼女はそう思っているわけだ。二百万の暁には創価学会が崩壊する。また、宗門が御在世に戻る。この御在世に戻るということの具体的な青写真が不明であるものの、おそらくはわたくしの主張する宗門復帰と近似の意味が込められているのだろうと想像する。

ところで彼女は創価学会の信心のなさには驚くばかりだとして、次のような話を紹介している。

・・・観念文を変えただけでなく勤行は自我偈だけになり、最近では「ながら題目」といって、「勤行をやらないよりは、何かしながらでもお題目を唱えればいい」と指導されているとのことで・・・

よくわからんが、ともかく先ほどの宗門法華講の老人の話は例外中の例外であって、このところの顕正新聞はその大半が創価学会ネタで占められているというのが現状である。男子部第二十隊総支隊長の記事には創価学会員の発言がたくさん出てくるが、ここでは二つほど紹介しておこう。

 「御書のどこにも弘安二年の御本尊が絶対であるとは書いていない」

 「ぶっちゃけ、弘安二年の御本尊が壊れようが、どうなろうが関係ない」


第六十三隊長の記事からも紹介しておこう。

「御本尊はただ書いたものだ。南無妙法蓮華経は心の中にある。御本尊は何でもいいんだ、何もあんなものを拝さなくてもいいんだ」

といったテイタラクである。

ある意味、創価学会は顕正会を勢いづかせてしまった。今の顕正会は見えないゴールに向かって突き進むだけで、その先に待っているのは迷宮でしかなかった。ゆえに、その絶望的な未来に気づいて組織を離れて行く人が後を絶たず、ややもすれば組織が崩壊する危険性すらも内包している状況だったのである。もちろん今もそれは続いているわけであるが、創価学会がヤラかしてくれたお陰でそれが一時的に緩和された格好になっているのだ。ゆえに当面は大丈夫というか、しばらくは創価学会ネタを引っ張ることで組織の結束を図ることが出来る。そういう幸運に恵まれたというわけである。


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