2015/5/30
遅まきながら顕正新聞第1342号の話題
キボンヌ氏は最初こそ無礼な印象を拭えなかったものの、最後はわりと紳士的な好印象を残して去っていった。いや、もちろん、今後もコメントを拒むつもりはないので、また気の向いた時にでもご登場願いたいと思う。
性別等の問い合わせがあったが、これについてはご想像にお任せすることにしたい。拙ブログはそうした個人情報に類することを一切明かさず、ひたすら言論活動に専念してきた。ようは言っていることが正しいか間違っているか、さしあたって必要なのはそれだけなのである。確かに年齢や性別が気になるのは事実であって、やはり論者の人物像がどういうものか、文章だけでなくその他の副次情報によって判断することは、誰もが普通に行なっていることである。ゆえに、わたくしの中にはそれを洗いざらい公開しても構わないという思いもあるわけだが、まあ、今のところはやめておこうと思う。
さて、今さらながら四月度総幹部会を取り上げてみよう。顕正新聞第1342号だ。
二・三・四月の弘通 二万五千三五六名
所期の目標が二万だったので、予想以上の大成果だったことになる。しかし、目標設定が低過ぎるという見方も出来るだろう。仮に最初から二万五千を目標に掲げていたら、目標をわずかに突破したに過ぎないことになる。しかも仮に二万四千しか出来なかったとしたら、負けたことになる。ゆえに目標を低く設定し、負けない戦いを演じているのだ。その上で五千有余の大突破が実現したわけだから、願ったり叶ったりと言ったところだろうか?
ややイジワルな見方をしているとは思うものの、過去の法戦と比較すればわたくしの言っていることも相当であることがわかるだろう。とは言え、これ以上は煩瑣になるので省略したい。
人事が気になった。
いつも言っていることだが、顕正会の人事は組織の拡大発展に伴なうポストの増設だけならば問題ないのだが、現実にはポストに空きが出来てしまったことへの補填の意味がある。ようするに、そのポストに就いていた幹部が退転してしまって空席が出来たことによる、穴埋め的な人事が少なくないように思えるのである。
女子部総務・第二十一女子部長
この人がそうだ。これは前号掲載の記事に出ている肩書きをそのまま写したものである。そして彼女は今回の人事で、さらに二つの女子部長を兼任することになった。もしかしたら次に登壇記事が出る時は、以下のように表記されるのかもしれない。
女子部総務・第十九・二十一・二十八女子部長
物凄い肩書きである。
問題は前任者がどうなったかである。もちろん、わたくしには調べる術がないのだけれども、退転してしまった可能性は否定できない。普通に考えて、地元に適任者がいるのであれば、わざわざ他県から部長を招聘する必要はない。今回、もともと神奈川を地盤に戦っていたであろう人物を新潟の組織に投入したわけであるから、もしかしたら部長を筆頭にしての大量脱会があったのかもしれない。つまり、新潟女子部はガタガタの状態であり、もはや地元だけでは立て直しが難しいと判断し、テコ入れのために他県から人材を引っ張ってきたと考えられるのだ。
これらは当然ながら、すべてわたくしの推測に過ぎないので、その点はくれぐれもご注意願いたいと思う。
会長講演に移ろう。前半に新会館の話題と第一回目の地方大会の会場日時のことが出てくる。
そこでこんどの会館の名称、いっそのこと「後期高齢会館」と(爆笑)。
本部会館の裏手に第二青年会館を建てることになった。平成二十八年度の建設計画の一環で、垂井会館と筑波会館、そしてもう一つ大規模な会館を建てるが、決まり次第後日発表する旨、昨年の十一月度総幹部会で話があった。それがいよいよ本決まりとなったわけである。
上掲はその話の中で冗談のつもりで言ったのだろう。ようするに最近の顕正会は高齢者が目立つ。先日は九十三歳の女性が登壇していた。ゆえに後期高齢会館と。
しかし、冗談ではない。現実に顕正会も高齢化の波が押し寄せている。たとえば婦人部と女子部の比較である。今やどちらが婦人部でどちらが女子部か、見分けがつかなくなって来ているのだ。そして男子のほうに目を向ければ、ご存知のごとく壮年部が廃止されて男子部一本に絞られた。もし仮に今も壮年部が存在するとしたら、やはり女子同様、見分けがつかないだろう。年齢で区分すればいいのだが、たぶんそれをやると男子部と女子部が圧倒的に不利である。すでに男子部と女子部を卒業して、壮年部と婦人部に移行しなければいけない年齢に達している人たちが、たくさんいるのだ。
南東北大会が本年十一月三日に行なわれる。場所はセキスイハイム・スーパーアリーナだそうである。
特に申し上げることはないが、東北の顕正会組織はわりとしっかりしているし、南東北ということは関東圏にも近いので、応援部隊も期待できる。つまり、結集の戦いは比較的に楽であり、心配ないということだ。問題は大会の意義だろう。そしてそこでの会長講演の中身だろう。浅井先生への期待は常に高い。よって先生には常にクオリティの高い講演が要求されるのだ。
学会、日寛上人の御指南をも否定
この一段、さすがは浅井先生だと思った。特に文言は掲げないけれども、まさしく正宗教学の王道を行くものである。
この後、日寛上人の崇高なる御臨終について縷々述べられ、その話の流れの中で池田大作氏のことにも言及している。
一方、池田大作はいま「生ける屍」のごとくなっているではないか。死ぬに死ねない。正念を失ったままその醜態をさらすことすでに数年。
まず、醜態をさらすとはどういう意味か、それが問題である。むしろ醜態を隠すというか、醜態をさらさないために、表舞台を降りたのではなかったか、と思う。
そして最も重要なことは、明日は我が身ということだ。
浅井先生だって相当の高齢である。いつどうなるか、わかったものではない。その時、どうするのか、である。今の顕正会のテイタラクを考えると、浅井先生なしではやっていけないだろう。本人もそう思っているはずだ。すると、いつまで経っても引退できないことになる。九十を越えても、百を越えても、である。
いかがだろうか、たとえ健康であっても寿命には限りがある。阿仏房を鑑に、最期の最期まで御奉公するというのは立派なことではあるが、さりとて、それがイコールで会長職を全うすることではないだろう。年齢相応の御奉公ということもあるはずだ。
ぶっちゃけ言えば、いつまでその老醜をさらすつもりなのか、ということになる。
これで話は終わりであるが、もう少しだけ付言しておこう。老醜と書いた。これは近い将来(?)の話である。すでに先生も相当の高齢であるが、顕正新聞掲載の写真を見る限りではまだ元気そうである。ジイサンであることは間違いないが、しかし、老醜という感じはしない。わたくしは活動会員のように先生を持ち上げ過ぎることはしないけれども、まあ、ビジュアル的にそんなにヒドイとは思わない。もちろん、今は、である。
さて、これが五年後十年後、どうかということだ。
結論は、池田大作氏のことをあげつらっている場合ではないだろう、遅かれ早かれ自分も同じ道をたどることを覚悟しなければならない、ということである。
性別等の問い合わせがあったが、これについてはご想像にお任せすることにしたい。拙ブログはそうした個人情報に類することを一切明かさず、ひたすら言論活動に専念してきた。ようは言っていることが正しいか間違っているか、さしあたって必要なのはそれだけなのである。確かに年齢や性別が気になるのは事実であって、やはり論者の人物像がどういうものか、文章だけでなくその他の副次情報によって判断することは、誰もが普通に行なっていることである。ゆえに、わたくしの中にはそれを洗いざらい公開しても構わないという思いもあるわけだが、まあ、今のところはやめておこうと思う。
さて、今さらながら四月度総幹部会を取り上げてみよう。顕正新聞第1342号だ。
二・三・四月の弘通 二万五千三五六名
所期の目標が二万だったので、予想以上の大成果だったことになる。しかし、目標設定が低過ぎるという見方も出来るだろう。仮に最初から二万五千を目標に掲げていたら、目標をわずかに突破したに過ぎないことになる。しかも仮に二万四千しか出来なかったとしたら、負けたことになる。ゆえに目標を低く設定し、負けない戦いを演じているのだ。その上で五千有余の大突破が実現したわけだから、願ったり叶ったりと言ったところだろうか?
ややイジワルな見方をしているとは思うものの、過去の法戦と比較すればわたくしの言っていることも相当であることがわかるだろう。とは言え、これ以上は煩瑣になるので省略したい。
人事が気になった。
いつも言っていることだが、顕正会の人事は組織の拡大発展に伴なうポストの増設だけならば問題ないのだが、現実にはポストに空きが出来てしまったことへの補填の意味がある。ようするに、そのポストに就いていた幹部が退転してしまって空席が出来たことによる、穴埋め的な人事が少なくないように思えるのである。
女子部総務・第二十一女子部長
この人がそうだ。これは前号掲載の記事に出ている肩書きをそのまま写したものである。そして彼女は今回の人事で、さらに二つの女子部長を兼任することになった。もしかしたら次に登壇記事が出る時は、以下のように表記されるのかもしれない。
女子部総務・第十九・二十一・二十八女子部長
物凄い肩書きである。
問題は前任者がどうなったかである。もちろん、わたくしには調べる術がないのだけれども、退転してしまった可能性は否定できない。普通に考えて、地元に適任者がいるのであれば、わざわざ他県から部長を招聘する必要はない。今回、もともと神奈川を地盤に戦っていたであろう人物を新潟の組織に投入したわけであるから、もしかしたら部長を筆頭にしての大量脱会があったのかもしれない。つまり、新潟女子部はガタガタの状態であり、もはや地元だけでは立て直しが難しいと判断し、テコ入れのために他県から人材を引っ張ってきたと考えられるのだ。
これらは当然ながら、すべてわたくしの推測に過ぎないので、その点はくれぐれもご注意願いたいと思う。
会長講演に移ろう。前半に新会館の話題と第一回目の地方大会の会場日時のことが出てくる。
そこでこんどの会館の名称、いっそのこと「後期高齢会館」と(爆笑)。
本部会館の裏手に第二青年会館を建てることになった。平成二十八年度の建設計画の一環で、垂井会館と筑波会館、そしてもう一つ大規模な会館を建てるが、決まり次第後日発表する旨、昨年の十一月度総幹部会で話があった。それがいよいよ本決まりとなったわけである。
上掲はその話の中で冗談のつもりで言ったのだろう。ようするに最近の顕正会は高齢者が目立つ。先日は九十三歳の女性が登壇していた。ゆえに後期高齢会館と。
しかし、冗談ではない。現実に顕正会も高齢化の波が押し寄せている。たとえば婦人部と女子部の比較である。今やどちらが婦人部でどちらが女子部か、見分けがつかなくなって来ているのだ。そして男子のほうに目を向ければ、ご存知のごとく壮年部が廃止されて男子部一本に絞られた。もし仮に今も壮年部が存在するとしたら、やはり女子同様、見分けがつかないだろう。年齢で区分すればいいのだが、たぶんそれをやると男子部と女子部が圧倒的に不利である。すでに男子部と女子部を卒業して、壮年部と婦人部に移行しなければいけない年齢に達している人たちが、たくさんいるのだ。
南東北大会が本年十一月三日に行なわれる。場所はセキスイハイム・スーパーアリーナだそうである。
特に申し上げることはないが、東北の顕正会組織はわりとしっかりしているし、南東北ということは関東圏にも近いので、応援部隊も期待できる。つまり、結集の戦いは比較的に楽であり、心配ないということだ。問題は大会の意義だろう。そしてそこでの会長講演の中身だろう。浅井先生への期待は常に高い。よって先生には常にクオリティの高い講演が要求されるのだ。
学会、日寛上人の御指南をも否定
この一段、さすがは浅井先生だと思った。特に文言は掲げないけれども、まさしく正宗教学の王道を行くものである。
この後、日寛上人の崇高なる御臨終について縷々述べられ、その話の流れの中で池田大作氏のことにも言及している。
一方、池田大作はいま「生ける屍」のごとくなっているではないか。死ぬに死ねない。正念を失ったままその醜態をさらすことすでに数年。
まず、醜態をさらすとはどういう意味か、それが問題である。むしろ醜態を隠すというか、醜態をさらさないために、表舞台を降りたのではなかったか、と思う。
そして最も重要なことは、明日は我が身ということだ。
浅井先生だって相当の高齢である。いつどうなるか、わかったものではない。その時、どうするのか、である。今の顕正会のテイタラクを考えると、浅井先生なしではやっていけないだろう。本人もそう思っているはずだ。すると、いつまで経っても引退できないことになる。九十を越えても、百を越えても、である。
いかがだろうか、たとえ健康であっても寿命には限りがある。阿仏房を鑑に、最期の最期まで御奉公するというのは立派なことではあるが、さりとて、それがイコールで会長職を全うすることではないだろう。年齢相応の御奉公ということもあるはずだ。
ぶっちゃけ言えば、いつまでその老醜をさらすつもりなのか、ということになる。
これで話は終わりであるが、もう少しだけ付言しておこう。老醜と書いた。これは近い将来(?)の話である。すでに先生も相当の高齢であるが、顕正新聞掲載の写真を見る限りではまだ元気そうである。ジイサンであることは間違いないが、しかし、老醜という感じはしない。わたくしは活動会員のように先生を持ち上げ過ぎることはしないけれども、まあ、ビジュアル的にそんなにヒドイとは思わない。もちろん、今は、である。
さて、これが五年後十年後、どうかということだ。
結論は、池田大作氏のことをあげつらっている場合ではないだろう、遅かれ早かれ自分も同じ道をたどることを覚悟しなければならない、ということである。
2015/5/29
悩み多き人生
先般、匿名キボンヌという奇妙なハンドルネームの人物からコメントを頂戴したので、昨日は挨拶代わりに思うところを少しばかり述べた。すると、早速の返信があった。直前にコメント全文を掲載したので、興味のある人はご覧になられるといいだろう。
やれやれ、何をそんなにムキになっているのか、というのが第一印象であるが、こういうことを書くとますますムキになるかもしれないので、今日は抑制的に書こうかと思う。
小心者・・・
う〜ん、なるほど、鋭い観察眼だ。
文章はウソをつかないというか、ウソをつけないのだろう。拙ブログは個人情報に類することを極力書かずにきた。ゆえにわたくしの氏素性を知る人はいない。その意味で、わたくしが小心者かどうかも本当のところはわからないはずなのだが、見事に言い当てているところが鋭い。
小心者にもいろいろある。
とことん小心者という人もいれば、小心者のクセに虚勢を張る人、あるいは小心者ながら時に大胆な行為をする人もいる。
わたくしは三番目ではないかと自己分析しているわけだが、実際の経験上のことを言えば、その大胆な行為はたいていが失敗に終わることになる。やるんじゃなかった、そうすれば恥をかかずに済んだのに、ということがたくさんあるのだ。なぜ失敗するのか? その原因は心理状態にあるのだと思う。しょせんは小心者なのである。ゆえに大胆なことをする時というのは、いわば異常な心理状態にあるのだ。大袈裟に言えば精神異常であろうか? そんな状態ではうまく行くわけがない。よく言われているのが平常心ということだ。何か大きなことをやる時にどれだけ平常心でいられるか、スポーツの世界でもあるいは音楽芸能の世界でも、平常心が大切であると言われるのはそういうことなのだろう。
ともかく小心者なのだから、そんな大胆なことをせず、とことん小心者に徹すればいい。そうすれば失敗することはない。
しかし、失敗はしないけれども、成功もしない。何もしなければ、成功などあり得ない話である。
当然、そこにはジレンマがあって、何もしなければ失敗もしないが成功もしない、はたしてこんなことでいいのだろうか、という自問自答があるわけだ。それで普段は小心者なのに、ある時には突然のごとくにスイッチが入って大胆なことをしてしまう。しかも、その時にはたいていが精神的バランスを失しているので、うまく行かないのだ。
そういうわけで、わたくしの人生は失敗の連続である。成功体験はゼロ・・・と言えばウソになるが、まあ、プラスマイナスで考えればゼロを通り越して大きくマイナスに傾いているはずである。
さて、すでにお気づきの人もいらっしゃるかと思うが、拙ブログは今月で満十年を迎えた。ある意味、これも成功体験に含まれるかもしれない。あるいは、わたくしの人生にとって、これが最上位(?)の成功体験かもしれないのだ。
たぶん、思うだろう、えっ? これがいちばんの成功体験なの? ずいぶんチンケな人生を送ってきたんだなあ、アナタは・・・
このように思う人がいても不思議はない。それはそうだ。独白ブログである。グチ日記である。それを十年続けたことが人生最上の成功体験だなどと言っているのだから、もはやどうしようもない。
しかも今、痛烈なバッシングを受けている。まさに踏んだり蹴ったりだ。
話を少し戻そう。小心者はアイデアマンである。
いや、厳密には違うのかもしれない。必ずしも小心者=アイデアマンではないのかもしれない。けれどもわたくし自身はわりとアイデアマンのほうだと思う。
これも不甲斐ない話だが、正直に書いておこう。ようするに小心者は実行力がない。頭の中であれこれ考えても実行する勇気がないのだ。そういうわけで実現可能性はほぼゼロにしても、たくさんのアイデアを抱えているのが小心者なのである。
そこに十年前、ふとブログを始めてみようと思い立った。何か遠大な構想があって始めたわけではない。文字どおりグチ日記のつもりで書き始めたのだ。それが意外にも受けた。受けたというのはわたくしの勝手な思い込みかもしれないが、少なくとも各方面からさまざまのコメントが寄せられるようになって、それなりの手応えを感じるようになった。
つまり、実生活ではまるでダメ人間であるが、ブログの世界ではそれなりに活躍できている。実生活では何一つ実現できないアイデアの数々を、ブログの中では実現できる。ようするにブログでは文章化=実現化なのである。
情けない限りだが、ともかく実生活がダメであればあるほど、ブログに傾注する、自分のアイデアの数々をブログの中で実現していく、という循環が起こってくる。
まあ、ここまで書けば十分だろう。
ところで、わたくしの微妙なポジションについて批判があった。どっちつかずのアイマイな態度というか、そういう立ち位置についての批判である。ズルイと映るのかもしれない。
しかし、これはまさに微妙なところである。
なぜならば、もしこれを顕正会の活動会員だとか法華講員などが糾弾するのならば、わかるのだ。ところがそうではなく、いわば無関係の人が批判しているのだ。この意味がわからない。わたくしがわからないというよりも、おそらくは多くの人が理解不能なのではないかと思う。
わたくしの想像を書こう。
先ほども書いたように、拙ブログは十年を越え十一年目に突入した。一回一回のブログにはさまざまのアイデアが注入されている。また、当初は必ずしも方向性が定かではなかったが、十年間の試行錯誤の中で、ほぼ方向性が固まってきた。それはいわばわたくしのオリジナルの方向性であり、スタイルなのだ。
つまり、わたくしのこの微妙なポジショニングというのは一朝一夕に出来上がったものではなく、幾歳月を経て形成されたものである。よって、これは容易にはマネの出来ない、わたくしオリジナルのスタイルなのである。
しかも、そこそこ注目され、好評(?)も博している。これが気に食わないという人がいても不思議はない。たぶん、そんなところだろう。
大まかには以上である。個別の議論は煩瑣になるので控えるが、いくつか確認しておきたい。
貴辺はでは、その大聖人なる人の法門を網羅して理解しているという立場ですか?そういえば、貴辺はきっとそうではないと言うだろう、そこが問題なんですな、深理に達せずに上辺を批判するなら、顕正会の貴辺にとって気に入らない問題有る行動と同じであり、スタンスはただ批判の立場に貴辺がいるだけである。
ひじょうに難解な文章である。ぶっちゃけ、何を言っているのかわからないヒドイ文章である。もし必要ならば修正を施した上で再投稿されたい。
爺さん。
こういうのはいかがなものかと思うが、まあ、そんなことを言っても仕方がないだろう。では、逆にお聞きしたい。かく言う貴辺はまだ相当に若いということになりそうだが、いったい何歳くらいなのだろうか? 差し支えなければお答えいただきたい。
ついでに、貴辺の慧眼ではわたくしを何歳くらいの爺さん(?)と見立てているのか、参考までにお聞かせ願えればと思う。
やれやれ、何をそんなにムキになっているのか、というのが第一印象であるが、こういうことを書くとますますムキになるかもしれないので、今日は抑制的に書こうかと思う。
小心者・・・
う〜ん、なるほど、鋭い観察眼だ。
文章はウソをつかないというか、ウソをつけないのだろう。拙ブログは個人情報に類することを極力書かずにきた。ゆえにわたくしの氏素性を知る人はいない。その意味で、わたくしが小心者かどうかも本当のところはわからないはずなのだが、見事に言い当てているところが鋭い。
小心者にもいろいろある。
とことん小心者という人もいれば、小心者のクセに虚勢を張る人、あるいは小心者ながら時に大胆な行為をする人もいる。
わたくしは三番目ではないかと自己分析しているわけだが、実際の経験上のことを言えば、その大胆な行為はたいていが失敗に終わることになる。やるんじゃなかった、そうすれば恥をかかずに済んだのに、ということがたくさんあるのだ。なぜ失敗するのか? その原因は心理状態にあるのだと思う。しょせんは小心者なのである。ゆえに大胆なことをする時というのは、いわば異常な心理状態にあるのだ。大袈裟に言えば精神異常であろうか? そんな状態ではうまく行くわけがない。よく言われているのが平常心ということだ。何か大きなことをやる時にどれだけ平常心でいられるか、スポーツの世界でもあるいは音楽芸能の世界でも、平常心が大切であると言われるのはそういうことなのだろう。
ともかく小心者なのだから、そんな大胆なことをせず、とことん小心者に徹すればいい。そうすれば失敗することはない。
しかし、失敗はしないけれども、成功もしない。何もしなければ、成功などあり得ない話である。
当然、そこにはジレンマがあって、何もしなければ失敗もしないが成功もしない、はたしてこんなことでいいのだろうか、という自問自答があるわけだ。それで普段は小心者なのに、ある時には突然のごとくにスイッチが入って大胆なことをしてしまう。しかも、その時にはたいていが精神的バランスを失しているので、うまく行かないのだ。
そういうわけで、わたくしの人生は失敗の連続である。成功体験はゼロ・・・と言えばウソになるが、まあ、プラスマイナスで考えればゼロを通り越して大きくマイナスに傾いているはずである。
さて、すでにお気づきの人もいらっしゃるかと思うが、拙ブログは今月で満十年を迎えた。ある意味、これも成功体験に含まれるかもしれない。あるいは、わたくしの人生にとって、これが最上位(?)の成功体験かもしれないのだ。
たぶん、思うだろう、えっ? これがいちばんの成功体験なの? ずいぶんチンケな人生を送ってきたんだなあ、アナタは・・・
このように思う人がいても不思議はない。それはそうだ。独白ブログである。グチ日記である。それを十年続けたことが人生最上の成功体験だなどと言っているのだから、もはやどうしようもない。
しかも今、痛烈なバッシングを受けている。まさに踏んだり蹴ったりだ。
話を少し戻そう。小心者はアイデアマンである。
いや、厳密には違うのかもしれない。必ずしも小心者=アイデアマンではないのかもしれない。けれどもわたくし自身はわりとアイデアマンのほうだと思う。
これも不甲斐ない話だが、正直に書いておこう。ようするに小心者は実行力がない。頭の中であれこれ考えても実行する勇気がないのだ。そういうわけで実現可能性はほぼゼロにしても、たくさんのアイデアを抱えているのが小心者なのである。
そこに十年前、ふとブログを始めてみようと思い立った。何か遠大な構想があって始めたわけではない。文字どおりグチ日記のつもりで書き始めたのだ。それが意外にも受けた。受けたというのはわたくしの勝手な思い込みかもしれないが、少なくとも各方面からさまざまのコメントが寄せられるようになって、それなりの手応えを感じるようになった。
つまり、実生活ではまるでダメ人間であるが、ブログの世界ではそれなりに活躍できている。実生活では何一つ実現できないアイデアの数々を、ブログの中では実現できる。ようするにブログでは文章化=実現化なのである。
情けない限りだが、ともかく実生活がダメであればあるほど、ブログに傾注する、自分のアイデアの数々をブログの中で実現していく、という循環が起こってくる。
まあ、ここまで書けば十分だろう。
ところで、わたくしの微妙なポジションについて批判があった。どっちつかずのアイマイな態度というか、そういう立ち位置についての批判である。ズルイと映るのかもしれない。
しかし、これはまさに微妙なところである。
なぜならば、もしこれを顕正会の活動会員だとか法華講員などが糾弾するのならば、わかるのだ。ところがそうではなく、いわば無関係の人が批判しているのだ。この意味がわからない。わたくしがわからないというよりも、おそらくは多くの人が理解不能なのではないかと思う。
わたくしの想像を書こう。
先ほども書いたように、拙ブログは十年を越え十一年目に突入した。一回一回のブログにはさまざまのアイデアが注入されている。また、当初は必ずしも方向性が定かではなかったが、十年間の試行錯誤の中で、ほぼ方向性が固まってきた。それはいわばわたくしのオリジナルの方向性であり、スタイルなのだ。
つまり、わたくしのこの微妙なポジショニングというのは一朝一夕に出来上がったものではなく、幾歳月を経て形成されたものである。よって、これは容易にはマネの出来ない、わたくしオリジナルのスタイルなのである。
しかも、そこそこ注目され、好評(?)も博している。これが気に食わないという人がいても不思議はない。たぶん、そんなところだろう。
大まかには以上である。個別の議論は煩瑣になるので控えるが、いくつか確認しておきたい。
貴辺はでは、その大聖人なる人の法門を網羅して理解しているという立場ですか?そういえば、貴辺はきっとそうではないと言うだろう、そこが問題なんですな、深理に達せずに上辺を批判するなら、顕正会の貴辺にとって気に入らない問題有る行動と同じであり、スタンスはただ批判の立場に貴辺がいるだけである。
ひじょうに難解な文章である。ぶっちゃけ、何を言っているのかわからないヒドイ文章である。もし必要ならば修正を施した上で再投稿されたい。
爺さん。
こういうのはいかがなものかと思うが、まあ、そんなことを言っても仕方がないだろう。では、逆にお聞きしたい。かく言う貴辺はまだ相当に若いということになりそうだが、いったい何歳くらいなのだろうか? 差し支えなければお答えいただきたい。
ついでに、貴辺の慧眼ではわたくしを何歳くらいの爺さん(?)と見立てているのか、参考までにお聞かせ願えればと思う。
2015/5/29
匿名キボンヌからのコメント
2015/5/28 12:39
投稿者:匿名キボンヌ
唐突な拙コメントにわざわざ記事反応して下さり、まずはお礼を述べます。しかし内容的には日蓮系に有りがちの独善臭漂う文章でした。
>匿名キボンヌなる人物は、おそらくは「どないする」の作者か、それに列なる立場の者だろう。屈折した性格が文章に滲み出ている。
小心者の管理者が珍しく嫌味を書くとは、驚きました。常にバランスを取ろうとするのは、標的にされることを恐れているからですよね。しかも推測が当たっておれば幸いだが、残念ながら私は貴辺の言うその「どないする」の関係者ではない。今はそれだけ言っておこう。爺さん。
>このように書くと人格攻撃のように思われるかもしれないが、その発端は貴辺にあることを知るべきだろう。
貴辺の常に曖昧を通す態度と敵を作らないよう細心する論調からすれば、私の文章はキツく感じるだろう。しかし貴辺の所属する乃至持ち上げている正宗は、唯一絶対を標榜しているな。
そこにも自身は投じられず、顕正会にも身を置けず、曖昧な態度をとって我賢しと高見の上から目線には、少々は遺文に長けた慢心の匂いがプンプンするな。自分で匂わないか?
○日蓮>元寇の予言ハズレ、下痢十年なおらず、湯治に行く途中で没。
>こういうことを書くのは明らかな挑発行為であり、失礼千万な話だ。
事実でなければ、否定するだけの論拠を持って望めばいいのであり、それをせずに失礼だとか言うのは、貴辺の尊ずる日蓮がかつて諸宗に行った仕業と同じと心得ますが、いかがかな?
>大聖人の御指南に懐疑的だったり顕正会を痛烈に批判したりを繰り返してきたのが拙ブログなのである。前回の拙稿もそのスタイルに変わりはない。
貴辺はでは、その大聖人なる人の法門を網羅して理解しているという立場ですか?そういえば、貴辺はきっとそうではないと言うだろう、そこが問題なんですな、深理に達せずに上辺を批判するなら、顕正会の貴辺にとって気に入らない問題有る行動と同じであり、スタンスはただ批判の立場に貴辺がいるだけである。
何の解決にもならない、具体例もなしにやっているなら、文字通り独白は毒を吐く、近頃叩かれているパラパラ嬢と何ら変わらないではないか。しかもこのブログでは自説の補完のために日蓮遺文をことさら上げて、論じている、それこそが私に一矢放とうとした「衒学」ではないか、それがこのブログにプンプン臭うのだ。
2015/5/28 12:42
投稿者:匿名キボンヌ
>以上、貴辺が勉強家であり、それを誇示したいのはよくわかるが、しかし、そこには自ずと工夫が求められることを知るべきだろう。
衒学(ひけらかし)を言いたいために、こうして一旦相手を持ちあげて、バランスを取って、恨まれないような工夫が年寄りの証拠だな。工夫がどうのと書いているが、貴辺が一番衒学臭いのだ。沖浦氏に理解できないと分かっていて、観心本尊抄の観門の難信難義だのを上げて通解を求めていたが、それは相手を馬鹿にしているのと同じだ。貴辺にはそういうストレートに物を言わずに屈折しねじ曲がった性分が有るようだ。
長居をするつもりはない、私と対論したければ、いつでも掲示板を用意する、たぶん回避するだろうがね、そういえば貴辺にピッタリの遺文が有ったよ。「伝教の御弟子・其の跡をば・つがせ給えども法門は全く御弟子にはあらず、而れども円頓の戒計りは又御弟子ににたり、蝙蝠鳥(へんぷくちょう)のごとし。鳥にもあらず、ねずみにもあらず」(報恩抄・真蹟)
意味はわかるはずだ、我賢しと高見の上から目線の他ならぬ貴方のことだから。
巌虎註:所感は別稿にて述べたい。
投稿者:匿名キボンヌ
唐突な拙コメントにわざわざ記事反応して下さり、まずはお礼を述べます。しかし内容的には日蓮系に有りがちの独善臭漂う文章でした。
>匿名キボンヌなる人物は、おそらくは「どないする」の作者か、それに列なる立場の者だろう。屈折した性格が文章に滲み出ている。
小心者の管理者が珍しく嫌味を書くとは、驚きました。常にバランスを取ろうとするのは、標的にされることを恐れているからですよね。しかも推測が当たっておれば幸いだが、残念ながら私は貴辺の言うその「どないする」の関係者ではない。今はそれだけ言っておこう。爺さん。
>このように書くと人格攻撃のように思われるかもしれないが、その発端は貴辺にあることを知るべきだろう。
貴辺の常に曖昧を通す態度と敵を作らないよう細心する論調からすれば、私の文章はキツく感じるだろう。しかし貴辺の所属する乃至持ち上げている正宗は、唯一絶対を標榜しているな。
そこにも自身は投じられず、顕正会にも身を置けず、曖昧な態度をとって我賢しと高見の上から目線には、少々は遺文に長けた慢心の匂いがプンプンするな。自分で匂わないか?
○日蓮>元寇の予言ハズレ、下痢十年なおらず、湯治に行く途中で没。
>こういうことを書くのは明らかな挑発行為であり、失礼千万な話だ。
事実でなければ、否定するだけの論拠を持って望めばいいのであり、それをせずに失礼だとか言うのは、貴辺の尊ずる日蓮がかつて諸宗に行った仕業と同じと心得ますが、いかがかな?
>大聖人の御指南に懐疑的だったり顕正会を痛烈に批判したりを繰り返してきたのが拙ブログなのである。前回の拙稿もそのスタイルに変わりはない。
貴辺はでは、その大聖人なる人の法門を網羅して理解しているという立場ですか?そういえば、貴辺はきっとそうではないと言うだろう、そこが問題なんですな、深理に達せずに上辺を批判するなら、顕正会の貴辺にとって気に入らない問題有る行動と同じであり、スタンスはただ批判の立場に貴辺がいるだけである。
何の解決にもならない、具体例もなしにやっているなら、文字通り独白は毒を吐く、近頃叩かれているパラパラ嬢と何ら変わらないではないか。しかもこのブログでは自説の補完のために日蓮遺文をことさら上げて、論じている、それこそが私に一矢放とうとした「衒学」ではないか、それがこのブログにプンプン臭うのだ。
2015/5/28 12:42
投稿者:匿名キボンヌ
>以上、貴辺が勉強家であり、それを誇示したいのはよくわかるが、しかし、そこには自ずと工夫が求められることを知るべきだろう。
衒学(ひけらかし)を言いたいために、こうして一旦相手を持ちあげて、バランスを取って、恨まれないような工夫が年寄りの証拠だな。工夫がどうのと書いているが、貴辺が一番衒学臭いのだ。沖浦氏に理解できないと分かっていて、観心本尊抄の観門の難信難義だのを上げて通解を求めていたが、それは相手を馬鹿にしているのと同じだ。貴辺にはそういうストレートに物を言わずに屈折しねじ曲がった性分が有るようだ。
長居をするつもりはない、私と対論したければ、いつでも掲示板を用意する、たぶん回避するだろうがね、そういえば貴辺にピッタリの遺文が有ったよ。「伝教の御弟子・其の跡をば・つがせ給えども法門は全く御弟子にはあらず、而れども円頓の戒計りは又御弟子ににたり、蝙蝠鳥(へんぷくちょう)のごとし。鳥にもあらず、ねずみにもあらず」(報恩抄・真蹟)
意味はわかるはずだ、我賢しと高見の上から目線の他ならぬ貴方のことだから。
巌虎註:所感は別稿にて述べたい。
2015/5/28
悩み多き季節
匿名キボンヌなる人物は、おそらくは「どないする」の作者か、それに列なる立場の者だろう。屈折した性格が文章に滲み出ている。
このように書くと人格攻撃のように思われるかもしれないが、その発端は貴辺にあることを知るべきだろう。
○日蓮>元寇の予言ハズレ、下痢十年なおらず、湯治に行く途中で没。
こういうことを書くのは明らかな挑発行為であり、失礼千万な話だ。
そもそもである。拙稿を読み間違えているのか、もしくはワザと読み飛ばしているのか、そこは微妙なところだが、ともかく文章の全体の脈絡を踏まえていないところが何ともイヤらしいところである。
話は簡単だ。
浄土系は自殺願望の強い人が多い。
まずは例題として示した。その上でわたくしは問題提起をしたわけである。
日蓮系は攻撃性の強い人が多い。
確かにご指摘のように、結論部分をやや韜晦気味にしたのは事実であるが、そもそもが大聖人の御指南に懐疑的だったり顕正会を痛烈に批判したりを繰り返してきたのが拙ブログなのである。前回の拙稿もそのスタイルに変わりはない。
それはそうだろう。念仏者は自殺願望が強い。これだけを言い募れば、そこらの並みの信者と変わらない。けれどもわたくしはバランスを取って、だったら日蓮系にも何かしらそうした傾向性があるはずだ、いわゆる攻撃性の強い人が多いというのがそれではないか、と書いたわけである。
また、後半ではわりと最近の表現を使って、スイッチが入る、ということを書いた。
これについては図らずも大沢氏が顕正会時代を回顧し、反省の意味を述べている。わたくしの意図としては、別に顕正会に限らず創価学会も法華講も同様だろうと思って書いたわけだが、いずれにしても個々人の性格だとかその他諸々の要素が絡み合って、いわゆるスイッチが入ってしまうことがあるわけだ。これを個別の問題だと書いたのだった。
この個別を少し拡大すれば、個々人ではなく、個々の団体ということになるだろう。その意味では貴辺のご指摘どおり、とりわけ顕正会がスイッチの入りやすい団体であることは確かであろう。別に物忘れが激しいわけではなく、そんなことは百も承知のことなのだ。
以上、貴辺が勉強家であり、それを誇示したいのはよくわかるが、しかし、そこには自ずと工夫が求められることを知るべきだろう。ようするに衒学チックなのだ。残念ながら世間ではそういうのを嫌う人が多いのも事実である。それを踏まえた上で、どうやって伝えていくべきか、考えるべきだろう。
さて、顕正新聞第1341号の話題を取り上げよう。
中でも印象的なのは、本特集号が学会によほど大きな影響を与えているのか、ドアやポストに「顕正会の訪問・新聞お断り」等の札を掲げている学会員宅が枚挙に暇がないことであります。
相変わらず「学会員を救う特集号」の話題が尽きない。この男子部第五十隊支隊長の記事も同様だ。しかし、これは本当だろうか? 枚挙に暇がないほどならば、どこかでお目に掛かる機会があるかもしれない。あるいはネット上に画像でもあればいいのだが、どなたかご存知だろうか?
次の婦人部越谷支区班長の記事も不審だ。
また「学会では顕正会員に暴力を振るったり、困らせることをしたら懸賞金が出る」と、衝撃的なことまで暴露してきたのです。
本当かよ? では、具体的にはいくら出るんだろうか? まあ、しかし、常識的には信憑性の低い話だと考えるべきだろう。
次の一節が問題だ。
私は、「大聖人様、浅井先生、南無妙法蓮華経」と唱えながら引っ張っていきました。
前後を省いているのでわかり難くて恐縮だが、ともかくカギカッコの中身が問題である。こういうのは編集部のほうで何とかするべきだろう。たとえば、「私は題目を唱えながら・・・」みたいな感じに修正すれば、それほど問題はないはずだ。当該記事には他にも面白い記述があるけれども、省略させていただく。
やや関連する記事として、婦人部村上支区総班長の登壇を紹介したい。
まるで御書講義のような三月八日の日曜勤行における「十如是事」の浅井先生の指導は・・・
冒頭のこの部分はイヤミかもしれない。御書講義がなくなってから何年経つだろうか? もう、今や最近の入信者は御書講義が月例行事だったことをまったく知らないし、もしかしたら御書講義という言葉にもまるで馴染みがないかもしれないのだ。そう考えると、彼女の言っていることは浅井先生への婉曲なる批判とも受け取れるわけで、おい、御書講義はどうしたのだ、もう永遠にやらないつもりなのか、と言っているようにも聞こえるところである。いや、もちろん、それはわたくしの歪んだ思考が生み出す幻聴なのだろうけれども・・・
それはさておき、前掲と関連するくだりを紹介したい。
恐れ多いことですが、講頭先生、浅井先生はどのような宿縁深きお立場であられるのか、と思うものであります。
持ち上げ過ぎである。持ち上げるだけ持ち上げて、そこから落っことすつもりなのだろうか?
婦人部片瀬支区部長の記事にも関連性の高い文章がある。
そして先生が今、日興上人以来、密附されてきたこの重大事を・・・
これも凄い話だ。まるで日興上人以来今日まで、歴代猊下のどなたも開示せられなかった秘匿の法門を、浅井先生が初めて明かしたかのごとく読めてしまうのだ。そんなわけがあるまい。
毎号、こんなテイタラクである。今日はあと二つほど紹介して終わろう。
しかし、六〇年近く御安置している細井日達書写の御本尊に執着し・・・
女子部第四十一区総班長の記事だが、実にケシカランと思う。御高徳の日達上人を呼び捨てにし、しかも執着云々と書いている。まるで日達上人の御本尊を謗法物だと言っているみたいである。
第一婦人部幹事の次の表現は、もはや聞き飽きたかもしれない。
最終の中の最終段階・・・
類似の表現がたくさんあって判然としないが、もしかしたらこの表現はこれが初出かもしれない。
このように書くと人格攻撃のように思われるかもしれないが、その発端は貴辺にあることを知るべきだろう。
○日蓮>元寇の予言ハズレ、下痢十年なおらず、湯治に行く途中で没。
こういうことを書くのは明らかな挑発行為であり、失礼千万な話だ。
そもそもである。拙稿を読み間違えているのか、もしくはワザと読み飛ばしているのか、そこは微妙なところだが、ともかく文章の全体の脈絡を踏まえていないところが何ともイヤらしいところである。
話は簡単だ。
浄土系は自殺願望の強い人が多い。
まずは例題として示した。その上でわたくしは問題提起をしたわけである。
日蓮系は攻撃性の強い人が多い。
確かにご指摘のように、結論部分をやや韜晦気味にしたのは事実であるが、そもそもが大聖人の御指南に懐疑的だったり顕正会を痛烈に批判したりを繰り返してきたのが拙ブログなのである。前回の拙稿もそのスタイルに変わりはない。
それはそうだろう。念仏者は自殺願望が強い。これだけを言い募れば、そこらの並みの信者と変わらない。けれどもわたくしはバランスを取って、だったら日蓮系にも何かしらそうした傾向性があるはずだ、いわゆる攻撃性の強い人が多いというのがそれではないか、と書いたわけである。
また、後半ではわりと最近の表現を使って、スイッチが入る、ということを書いた。
これについては図らずも大沢氏が顕正会時代を回顧し、反省の意味を述べている。わたくしの意図としては、別に顕正会に限らず創価学会も法華講も同様だろうと思って書いたわけだが、いずれにしても個々人の性格だとかその他諸々の要素が絡み合って、いわゆるスイッチが入ってしまうことがあるわけだ。これを個別の問題だと書いたのだった。
この個別を少し拡大すれば、個々人ではなく、個々の団体ということになるだろう。その意味では貴辺のご指摘どおり、とりわけ顕正会がスイッチの入りやすい団体であることは確かであろう。別に物忘れが激しいわけではなく、そんなことは百も承知のことなのだ。
以上、貴辺が勉強家であり、それを誇示したいのはよくわかるが、しかし、そこには自ずと工夫が求められることを知るべきだろう。ようするに衒学チックなのだ。残念ながら世間ではそういうのを嫌う人が多いのも事実である。それを踏まえた上で、どうやって伝えていくべきか、考えるべきだろう。
さて、顕正新聞第1341号の話題を取り上げよう。
中でも印象的なのは、本特集号が学会によほど大きな影響を与えているのか、ドアやポストに「顕正会の訪問・新聞お断り」等の札を掲げている学会員宅が枚挙に暇がないことであります。
相変わらず「学会員を救う特集号」の話題が尽きない。この男子部第五十隊支隊長の記事も同様だ。しかし、これは本当だろうか? 枚挙に暇がないほどならば、どこかでお目に掛かる機会があるかもしれない。あるいはネット上に画像でもあればいいのだが、どなたかご存知だろうか?
次の婦人部越谷支区班長の記事も不審だ。
また「学会では顕正会員に暴力を振るったり、困らせることをしたら懸賞金が出る」と、衝撃的なことまで暴露してきたのです。
本当かよ? では、具体的にはいくら出るんだろうか? まあ、しかし、常識的には信憑性の低い話だと考えるべきだろう。
次の一節が問題だ。
私は、「大聖人様、浅井先生、南無妙法蓮華経」と唱えながら引っ張っていきました。
前後を省いているのでわかり難くて恐縮だが、ともかくカギカッコの中身が問題である。こういうのは編集部のほうで何とかするべきだろう。たとえば、「私は題目を唱えながら・・・」みたいな感じに修正すれば、それほど問題はないはずだ。当該記事には他にも面白い記述があるけれども、省略させていただく。
やや関連する記事として、婦人部村上支区総班長の登壇を紹介したい。
まるで御書講義のような三月八日の日曜勤行における「十如是事」の浅井先生の指導は・・・
冒頭のこの部分はイヤミかもしれない。御書講義がなくなってから何年経つだろうか? もう、今や最近の入信者は御書講義が月例行事だったことをまったく知らないし、もしかしたら御書講義という言葉にもまるで馴染みがないかもしれないのだ。そう考えると、彼女の言っていることは浅井先生への婉曲なる批判とも受け取れるわけで、おい、御書講義はどうしたのだ、もう永遠にやらないつもりなのか、と言っているようにも聞こえるところである。いや、もちろん、それはわたくしの歪んだ思考が生み出す幻聴なのだろうけれども・・・
それはさておき、前掲と関連するくだりを紹介したい。
恐れ多いことですが、講頭先生、浅井先生はどのような宿縁深きお立場であられるのか、と思うものであります。
持ち上げ過ぎである。持ち上げるだけ持ち上げて、そこから落っことすつもりなのだろうか?
婦人部片瀬支区部長の記事にも関連性の高い文章がある。
そして先生が今、日興上人以来、密附されてきたこの重大事を・・・
これも凄い話だ。まるで日興上人以来今日まで、歴代猊下のどなたも開示せられなかった秘匿の法門を、浅井先生が初めて明かしたかのごとく読めてしまうのだ。そんなわけがあるまい。
毎号、こんなテイタラクである。今日はあと二つほど紹介して終わろう。
しかし、六〇年近く御安置している細井日達書写の御本尊に執着し・・・
女子部第四十一区総班長の記事だが、実にケシカランと思う。御高徳の日達上人を呼び捨てにし、しかも執着云々と書いている。まるで日達上人の御本尊を謗法物だと言っているみたいである。
第一婦人部幹事の次の表現は、もはや聞き飽きたかもしれない。
最終の中の最終段階・・・
類似の表現がたくさんあって判然としないが、もしかしたらこの表現はこれが初出かもしれない。
2015/5/27
悩み多き毎日
傍観者v氏の人物像がいまいち不明瞭である。氏は数年前からコメントを寄せているけれども、その頻度はきわめて低かった。ところがここ最近はかなりの高頻度でコメントを残している。この変貌は何を意味するのだろうか?
殺人肯定云々はずいぶんと議論が硬直的であり、単調のような気がする。お互いさまではあるのだろうが、ようはそれぞれが都合のいい御書を引っ張り出してきて、他の御書との整合性を顧みない、そんな感じの議論になっていると思う。わたくしならばもっと広範な視野から論じてみたいと思うわけで、前回の拙稿ではわずかにその片鱗を見せたつもりだったのだが、まあ、さすがにそこに気がつく人はほとんどいなかっただろうと思う。まずは例題を示そう。
浄土系は自殺願望の強い人が多い。
これは今、当てずっぽうに書いたものなので、特に出典があるわけではないことをお断りしておく。ただし、いかがだろう、創価学会員や法華講員、あるいは顕正会員などはどこかで聞いたことがあるような気がしないだろうか?
ようするにこれが念仏宗の害毒なのだと、正宗系では言っているわけである。
だったら同じ理屈が日蓮系にも当てはまらないのだろうか、というのがわたくしの問題提起である。
御書に殺人肯定が説かれている、だから殺人を実行する、さすがに現代人でそんな人はいないとは思うが、日蓮系は攻撃性の強い人が多い、というような世間一般の評判があったとすれば、それこそ日蓮系とりわけ日蓮正宗系の害毒ではないか、ということにならざるを得ないのではないかと言いたかったわけである。
ちなみに浄土系は自殺願望が強いというのは御書に根拠があるわけで、おそらくは次の御文などがひじょうにわかりやすいのではないかと思う。
念仏宗と申すは・・・善導と申す愚癡の法師がひろめはじめて自害をして候ゆへに、念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ。
しかし、これについての科学的検証がどこまで行なわれているかが問題で、おそらくは何も出来ていないのだろうと思う。
顕正会には創価学会からの入会者が少なからずいるわけだが、彼らが決まり文句のように言っていることがある。以下は当てずっぽうに書いたものなので、その点はご容赦願いたい。
御遺命に背いた団体に籍を置いていて功徳の出るはずもなく・・・
極端な話、すでに創価学会の活動からは遠ざかっているような人であっても、そこに籍を入れているだけでも罪障を積むのだそうである。これも御書に根拠があるのだと思われるが、ともかく仏法の賞罰は厳しいものである。
しかし、これまた科学的検証がなされているかと言えば、否であろう。
先ほどの浄土系の話に戻って、本人は信仰心などまったくないけれども、先祖代々の宗派が浄土宗ないし浄土真宗だという人は多い。もしこの家系を綿密に調査して、統計データを出したらどういうことになるかが興味深いところだ。ようするに一般の自殺率との比較である。結果として自殺率が平均よりも高かったとしたら、大聖人の仰せが正しかったことになる。さらに浄土系の新興宗教があれば、そこでも綿密なる調査が必要だ。当然ながら先祖の宗教が浄土系だという人よりも新興宗教系の人のほうが熱心なはずだから、よりいっそう自殺率が高くなると予想されるわけである。はたして結果はどうだろうか?
当然、こんなデータは存在しないだろう。
同様の意味で、日蓮系に殺人者が多いというデータも存在しない。殺人はともかくとして、性格的に攻撃性の強い人が多いというのはどうだろうか? これは自殺だとか殺人に比べればかなりアイマイなので、そもそもが調査に適さないかもしれない。
つまり、我々は何となく雰囲気で論じてしまっているだけであって、そこに確たるものが存在するわけではないのだ。おそらくはレッテル効果だとか思い込み効果なのだろう。かつての創価学会の大折伏を多くの日本人が経験し、その時のトラウマみたいなものが今も残っていて、あまりいい印象がないというのも事実だとは思うが、さりとてそれが日蓮系に由来する問題かどうかは別次元の話である。なぜならば、宗教とは無関係の分野においても強引な勧誘が横行していて、当然ながらそれらはひじょうに印象の悪いものである。まさか強引なことをする人は押しなべて日蓮系であるということもないだろうから、やはりそこには勝手な思い込みというものがあるのだと思う。
ただし、個別に論じるならば、スイッチが入る、ということを考える必要があるかもしれない。
顕正会に入ったばかりに、あるいは創価学会に入ったがゆえに、もしくは法華講員となったがために、スイッチが入ってしまった、ということである。今までこんな人じゃなかったのになあ、どうしてこんな人になっちゃったのか、というケースがたくさんある。いや、もちろん、これまた日蓮系に限った話ではなく、あらゆる分野で起こり得ることではあるのだが、とりわけ日蓮正宗系において顕著な問題のように思う。
とは言え、これも綿密なる検証を経ていないので、わたくしのきわめて狭い範囲での勝手な印象に過ぎないのかもしれない。
以上、殺人肯定の話をわたくしなりに膨らませてみた。
2015/5/25 19:41
投稿者:はんね
いよいよ4年後に2百万達成したら、一気に流布と十代の若い2世隊長区長は言います。
発足以来いよいよ流布と半世紀いわれ続けた歴史を知らない。
確信?妄信?
ネット禁止環境の中、このようなブログの存在は知るべくもない。
過去の発言からの相違を指摘する常識人は避けて、配布。
結果、身寄りない無知の生活保護者やホームレスの外国人、精神疾患、知的弱者、後期高齢者が集められてくる。
理事長や資本金十億や過去の発言を知れば変わる。
2015/5/26 12:50
投稿者:4年後流布との指導
部外者接触禁止。インターネット禁止。教学も知的にも弱者が多く外部情報皆無。
故にフリガナ付きビラ配布などがない限り、顕正会員はネット上の議論の存在すら知らないです。
新しい人がお見えになったようである。瑠璃堂氏経由であろうか?
拙ブログは宣伝めいたことをしないので、一般の顕正会員の目に触れる機会は少ないのかもしれない。しかし、それはそれでいいのだ。生意気を言うようであるが、内容的にけっこう難しいので読んでも疲れるだけかもしれない。あるいはチンプンカンプンの可能性もある。ゆえに、そういう人には積極的に読んでもらいたいとは思わない。
おそらく顕正会の本部首脳はチェックしているだろうし、幹部の中でも知的好奇心が旺盛な人は拙ブログを読んでいるはずである。あとは宗門ないし創価学会系の人たちと、非日蓮系とでも言うのだろうか、そういう人たちが読んでいる。
喜んでいいのやら悲しんでいいのやら、複雑な心境である。
殺人肯定云々はずいぶんと議論が硬直的であり、単調のような気がする。お互いさまではあるのだろうが、ようはそれぞれが都合のいい御書を引っ張り出してきて、他の御書との整合性を顧みない、そんな感じの議論になっていると思う。わたくしならばもっと広範な視野から論じてみたいと思うわけで、前回の拙稿ではわずかにその片鱗を見せたつもりだったのだが、まあ、さすがにそこに気がつく人はほとんどいなかっただろうと思う。まずは例題を示そう。
浄土系は自殺願望の強い人が多い。
これは今、当てずっぽうに書いたものなので、特に出典があるわけではないことをお断りしておく。ただし、いかがだろう、創価学会員や法華講員、あるいは顕正会員などはどこかで聞いたことがあるような気がしないだろうか?
ようするにこれが念仏宗の害毒なのだと、正宗系では言っているわけである。
だったら同じ理屈が日蓮系にも当てはまらないのだろうか、というのがわたくしの問題提起である。
御書に殺人肯定が説かれている、だから殺人を実行する、さすがに現代人でそんな人はいないとは思うが、日蓮系は攻撃性の強い人が多い、というような世間一般の評判があったとすれば、それこそ日蓮系とりわけ日蓮正宗系の害毒ではないか、ということにならざるを得ないのではないかと言いたかったわけである。
ちなみに浄土系は自殺願望が強いというのは御書に根拠があるわけで、おそらくは次の御文などがひじょうにわかりやすいのではないかと思う。
念仏宗と申すは・・・善導と申す愚癡の法師がひろめはじめて自害をして候ゆへに、念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ。
しかし、これについての科学的検証がどこまで行なわれているかが問題で、おそらくは何も出来ていないのだろうと思う。
顕正会には創価学会からの入会者が少なからずいるわけだが、彼らが決まり文句のように言っていることがある。以下は当てずっぽうに書いたものなので、その点はご容赦願いたい。
御遺命に背いた団体に籍を置いていて功徳の出るはずもなく・・・
極端な話、すでに創価学会の活動からは遠ざかっているような人であっても、そこに籍を入れているだけでも罪障を積むのだそうである。これも御書に根拠があるのだと思われるが、ともかく仏法の賞罰は厳しいものである。
しかし、これまた科学的検証がなされているかと言えば、否であろう。
先ほどの浄土系の話に戻って、本人は信仰心などまったくないけれども、先祖代々の宗派が浄土宗ないし浄土真宗だという人は多い。もしこの家系を綿密に調査して、統計データを出したらどういうことになるかが興味深いところだ。ようするに一般の自殺率との比較である。結果として自殺率が平均よりも高かったとしたら、大聖人の仰せが正しかったことになる。さらに浄土系の新興宗教があれば、そこでも綿密なる調査が必要だ。当然ながら先祖の宗教が浄土系だという人よりも新興宗教系の人のほうが熱心なはずだから、よりいっそう自殺率が高くなると予想されるわけである。はたして結果はどうだろうか?
当然、こんなデータは存在しないだろう。
同様の意味で、日蓮系に殺人者が多いというデータも存在しない。殺人はともかくとして、性格的に攻撃性の強い人が多いというのはどうだろうか? これは自殺だとか殺人に比べればかなりアイマイなので、そもそもが調査に適さないかもしれない。
つまり、我々は何となく雰囲気で論じてしまっているだけであって、そこに確たるものが存在するわけではないのだ。おそらくはレッテル効果だとか思い込み効果なのだろう。かつての創価学会の大折伏を多くの日本人が経験し、その時のトラウマみたいなものが今も残っていて、あまりいい印象がないというのも事実だとは思うが、さりとてそれが日蓮系に由来する問題かどうかは別次元の話である。なぜならば、宗教とは無関係の分野においても強引な勧誘が横行していて、当然ながらそれらはひじょうに印象の悪いものである。まさか強引なことをする人は押しなべて日蓮系であるということもないだろうから、やはりそこには勝手な思い込みというものがあるのだと思う。
ただし、個別に論じるならば、スイッチが入る、ということを考える必要があるかもしれない。
顕正会に入ったばかりに、あるいは創価学会に入ったがゆえに、もしくは法華講員となったがために、スイッチが入ってしまった、ということである。今までこんな人じゃなかったのになあ、どうしてこんな人になっちゃったのか、というケースがたくさんある。いや、もちろん、これまた日蓮系に限った話ではなく、あらゆる分野で起こり得ることではあるのだが、とりわけ日蓮正宗系において顕著な問題のように思う。
とは言え、これも綿密なる検証を経ていないので、わたくしのきわめて狭い範囲での勝手な印象に過ぎないのかもしれない。
以上、殺人肯定の話をわたくしなりに膨らませてみた。
2015/5/25 19:41
投稿者:はんね
いよいよ4年後に2百万達成したら、一気に流布と十代の若い2世隊長区長は言います。
発足以来いよいよ流布と半世紀いわれ続けた歴史を知らない。
確信?妄信?
ネット禁止環境の中、このようなブログの存在は知るべくもない。
過去の発言からの相違を指摘する常識人は避けて、配布。
結果、身寄りない無知の生活保護者やホームレスの外国人、精神疾患、知的弱者、後期高齢者が集められてくる。
理事長や資本金十億や過去の発言を知れば変わる。
2015/5/26 12:50
投稿者:4年後流布との指導
部外者接触禁止。インターネット禁止。教学も知的にも弱者が多く外部情報皆無。
故にフリガナ付きビラ配布などがない限り、顕正会員はネット上の議論の存在すら知らないです。
新しい人がお見えになったようである。瑠璃堂氏経由であろうか?
拙ブログは宣伝めいたことをしないので、一般の顕正会員の目に触れる機会は少ないのかもしれない。しかし、それはそれでいいのだ。生意気を言うようであるが、内容的にけっこう難しいので読んでも疲れるだけかもしれない。あるいはチンプンカンプンの可能性もある。ゆえに、そういう人には積極的に読んでもらいたいとは思わない。
おそらく顕正会の本部首脳はチェックしているだろうし、幹部の中でも知的好奇心が旺盛な人は拙ブログを読んでいるはずである。あとは宗門ないし創価学会系の人たちと、非日蓮系とでも言うのだろうか、そういう人たちが読んでいる。
喜んでいいのやら悲しんでいいのやら、複雑な心境である。
2015/5/24
悩み多き日々
十日ばかり静観していた。しばらく不毛な議論が続いていたけれども、ここ数日、ようやくにして沈静化したごとくである。
「広宣流布」の単語を「名詞」として使用したのか
「動詞」として使用したのかが問題ですね?
これはまた難しい概念を持ち出してきたものである。名詞か動詞かは単に文法的な話ではなく、もっと難解な概念を言っているわけなのだろう。しかし、これはいわば後付け理論のようなもので、従来の解釈が通用しなくなったので新しい解釈を作ったみたいな感じが否めないと思う。かつての創価学会は日本国中を震撼とさせる大折伏をやってのけた。これはまさに本気で広宣流布を達成しようとしていたわけである。その同一線上に国立戒壇建立の主張も存在したのだ。ところが昭和四十五年にそれが頓挫することになる。いわば顕正会はそこを突っついているのである。
ゆえにわたくしは顕正会も同じではないかという点に注目し、浅井先生以下大幹部たちの発言を常にチェックしているわけである。ようは創価学会同様に顕正会も限界を迎えており、広宣流布を達成するという気概は立派であるものの、実際にはまだまだ遠い道のりであり、まあ、客観的にはムリであると考えるのが妥当なところである。それにもかかわらず、いまだに夢を見続けている。夢と言えば聞こえはいいが、実際には幻想に過ぎないと、こんな視点から批判を続けているわけである。
そこに動詞だの名詞だのという概念を持って来られてもあまり意味を感じないというのが正直なところで、もしそれが画期的なものなのであればもっと詳しく説明するべきであるし、いちおう伺いたいとは思う。もしかしたらそれが顕正会への啓蒙になるかもしれないからだ。
ともかく顕正会は今も国立戒壇建立を目標に掲げている。国立戒壇を捨てた創価学会ないし宗門に広宣流布の資格はない。こんな意味のことを顕正会では言い続けている。
しかし、繰り返しになるが、その顕正会も限界を迎えている。言っていることは立派であるが、中身が伴なわない。このまま行けば破綻は免れない。ようするに有言不実行に終わる公算が高いわけで、ぶっちゃけ言えば浅井先生はオオボラ吹きだったという結果に終わることになりそうなのである。もしそれが動詞・名詞の新概念によって覆すことが可能なのであれば、これほどありがたい話もないだろう。まあ、しかし、わたくしはムリだと思う。
ところで戦時中の大石寺の火災について議論が続いていた。
わたくしはその時代の人間ではないので何とも言えないところだが、一つだけ言えるとすれば戦時下という特殊な時代背景だろう。戦場で多くの人が亡くなった。あるいは空襲で多くの人が亡くなった。ゆえに、大石寺で火災が発生し、多くの堂宇が消失し、時の管長猊下が焼死されたということは、日蓮正宗の内部においては大事件であるものの、日本全体としては小さな出来事に過ぎなかったのではないかと思う。それを七十年後の今日、わざわざ蒸し返す意図はおおよそ明白で、ようは敵対勢力が攻撃材料の一つとして使っていると、こう見るのが一般的かと思う。
過去のことは水に流せとは言わないけれども、しかし、七十年も前の話でもあり、なおかつ戦時中の特殊性を考えると、個人的にはあんまり触れたくない話である。
ゆえに、むしろ現代においてこのような事件が起これば相当にインパクトがあるわけで、その時こそ敵対勢力の奮闘が期待されるところである。建築技術が格段に進歩し、防災に対する考え方も厳格になっている。そうした中で火災が発生し死亡者が出れば、それだけで全国ニュースになるだろう。顕正会の会館で、あるいは創価学会の会館で、そしてまた正宗寺院で、そんなことが起これば大変だ。
そういうわけで、過去の事件・事故をあげつらうのではなく、今現在、起こりつつあることを話題にするほうがいいのではないかと思う。
御書根本だろうが大聖人様、御歴代上人の御指南と云っても、頸を刎ねよと殺人肯定の御書が存在します。
都合の悪いものには、目をつぶるのでは、どっちもどっち。
これがまた厄介である。
一つ言えそうなのは、時代の特殊性だろうか?
またしても特殊性である。すると、特殊性の一語ですべての議論を封じ込めようとしているみたいに思われそうだが、そのつもりはない。けれども鎌倉時代と現代では明らかに違うわけで、そこを踏まえずに表面的な文言をあげつらっても仕方がないのではないかと思う。実際、御書の中には摂受・折伏について論ずる段があって、これを世間の文武二道になぞらえるくだりがある。これは現代にも通ずる話であって、平たく言えば、時と場合による、ということだろう。殺人はいけない。当たり前だ。しかし、正当防衛という概念が存在する。これがまた国家的なレベルになると、まさに近年議論がかまびすしいところの集団的自衛権に通ずるわけだ。もともと集団的自衛権は自然権として存在すると言われていた。ただし、日本はそれを行使しない、というのが従来の政府見解だった。これが今、変わりつつある。
たぶん簡単ではないだろう。今は民主主義の時代であるから、何でもかんでも政府のゴリ押しが通るわけではない。明らかにおかしなことであれば、そう簡単には通らないはずだ。
いずれにしても鎌倉時代は武家政権の時代であって現代とは異なる。ゆえに自然権という概念の上からは本質的に共通する部分がないわけではないにしても、基本的には異なるものだと考えるべきだろう。つまり、大聖人の御指南の中においてもそうした時代的制約に縛られざるを得ない部分と、そうではない部分とがあることは理の当然であって、そこを混同してしまうとおかしなことになるわけだ。
これはもちろん、批判する側の責任もさることながら、おそらくはそれ以上に信仰する側の責任が大きいのだろう。ようするに、大聖人を信仰する人が非常識な言動をすることによって、非信仰者に対して無用の誤解を生じさせるということがそれである。
殺人肯定の御書がある。だから殺人をする。さすがにそんな人が現代にいるとは思えないが、しかし、正宗信仰の人が過激な行為なり発言なりをすれば、日蓮系は過激だなあ、そもそも日蓮さんが過激な人だったから、まあ、仕方がないのかもしれないなあ、というイメージを助長することになる。この点を気をつけなければいけないのだ。
いずれにしても悩みの多い日々である。
「広宣流布」の単語を「名詞」として使用したのか
「動詞」として使用したのかが問題ですね?
これはまた難しい概念を持ち出してきたものである。名詞か動詞かは単に文法的な話ではなく、もっと難解な概念を言っているわけなのだろう。しかし、これはいわば後付け理論のようなもので、従来の解釈が通用しなくなったので新しい解釈を作ったみたいな感じが否めないと思う。かつての創価学会は日本国中を震撼とさせる大折伏をやってのけた。これはまさに本気で広宣流布を達成しようとしていたわけである。その同一線上に国立戒壇建立の主張も存在したのだ。ところが昭和四十五年にそれが頓挫することになる。いわば顕正会はそこを突っついているのである。
ゆえにわたくしは顕正会も同じではないかという点に注目し、浅井先生以下大幹部たちの発言を常にチェックしているわけである。ようは創価学会同様に顕正会も限界を迎えており、広宣流布を達成するという気概は立派であるものの、実際にはまだまだ遠い道のりであり、まあ、客観的にはムリであると考えるのが妥当なところである。それにもかかわらず、いまだに夢を見続けている。夢と言えば聞こえはいいが、実際には幻想に過ぎないと、こんな視点から批判を続けているわけである。
そこに動詞だの名詞だのという概念を持って来られてもあまり意味を感じないというのが正直なところで、もしそれが画期的なものなのであればもっと詳しく説明するべきであるし、いちおう伺いたいとは思う。もしかしたらそれが顕正会への啓蒙になるかもしれないからだ。
ともかく顕正会は今も国立戒壇建立を目標に掲げている。国立戒壇を捨てた創価学会ないし宗門に広宣流布の資格はない。こんな意味のことを顕正会では言い続けている。
しかし、繰り返しになるが、その顕正会も限界を迎えている。言っていることは立派であるが、中身が伴なわない。このまま行けば破綻は免れない。ようするに有言不実行に終わる公算が高いわけで、ぶっちゃけ言えば浅井先生はオオボラ吹きだったという結果に終わることになりそうなのである。もしそれが動詞・名詞の新概念によって覆すことが可能なのであれば、これほどありがたい話もないだろう。まあ、しかし、わたくしはムリだと思う。
ところで戦時中の大石寺の火災について議論が続いていた。
わたくしはその時代の人間ではないので何とも言えないところだが、一つだけ言えるとすれば戦時下という特殊な時代背景だろう。戦場で多くの人が亡くなった。あるいは空襲で多くの人が亡くなった。ゆえに、大石寺で火災が発生し、多くの堂宇が消失し、時の管長猊下が焼死されたということは、日蓮正宗の内部においては大事件であるものの、日本全体としては小さな出来事に過ぎなかったのではないかと思う。それを七十年後の今日、わざわざ蒸し返す意図はおおよそ明白で、ようは敵対勢力が攻撃材料の一つとして使っていると、こう見るのが一般的かと思う。
過去のことは水に流せとは言わないけれども、しかし、七十年も前の話でもあり、なおかつ戦時中の特殊性を考えると、個人的にはあんまり触れたくない話である。
ゆえに、むしろ現代においてこのような事件が起これば相当にインパクトがあるわけで、その時こそ敵対勢力の奮闘が期待されるところである。建築技術が格段に進歩し、防災に対する考え方も厳格になっている。そうした中で火災が発生し死亡者が出れば、それだけで全国ニュースになるだろう。顕正会の会館で、あるいは創価学会の会館で、そしてまた正宗寺院で、そんなことが起これば大変だ。
そういうわけで、過去の事件・事故をあげつらうのではなく、今現在、起こりつつあることを話題にするほうがいいのではないかと思う。
御書根本だろうが大聖人様、御歴代上人の御指南と云っても、頸を刎ねよと殺人肯定の御書が存在します。
都合の悪いものには、目をつぶるのでは、どっちもどっち。
これがまた厄介である。
一つ言えそうなのは、時代の特殊性だろうか?
またしても特殊性である。すると、特殊性の一語ですべての議論を封じ込めようとしているみたいに思われそうだが、そのつもりはない。けれども鎌倉時代と現代では明らかに違うわけで、そこを踏まえずに表面的な文言をあげつらっても仕方がないのではないかと思う。実際、御書の中には摂受・折伏について論ずる段があって、これを世間の文武二道になぞらえるくだりがある。これは現代にも通ずる話であって、平たく言えば、時と場合による、ということだろう。殺人はいけない。当たり前だ。しかし、正当防衛という概念が存在する。これがまた国家的なレベルになると、まさに近年議論がかまびすしいところの集団的自衛権に通ずるわけだ。もともと集団的自衛権は自然権として存在すると言われていた。ただし、日本はそれを行使しない、というのが従来の政府見解だった。これが今、変わりつつある。
たぶん簡単ではないだろう。今は民主主義の時代であるから、何でもかんでも政府のゴリ押しが通るわけではない。明らかにおかしなことであれば、そう簡単には通らないはずだ。
いずれにしても鎌倉時代は武家政権の時代であって現代とは異なる。ゆえに自然権という概念の上からは本質的に共通する部分がないわけではないにしても、基本的には異なるものだと考えるべきだろう。つまり、大聖人の御指南の中においてもそうした時代的制約に縛られざるを得ない部分と、そうではない部分とがあることは理の当然であって、そこを混同してしまうとおかしなことになるわけだ。
これはもちろん、批判する側の責任もさることながら、おそらくはそれ以上に信仰する側の責任が大きいのだろう。ようするに、大聖人を信仰する人が非常識な言動をすることによって、非信仰者に対して無用の誤解を生じさせるということがそれである。
殺人肯定の御書がある。だから殺人をする。さすがにそんな人が現代にいるとは思えないが、しかし、正宗信仰の人が過激な行為なり発言なりをすれば、日蓮系は過激だなあ、そもそも日蓮さんが過激な人だったから、まあ、仕方がないのかもしれないなあ、というイメージを助長することになる。この点を気をつけなければいけないのだ。
いずれにしても悩みの多い日々である。
2015/5/14
悩み多きブログ
相変わらずの炎上ぶり(?)である。しかし、悲しいことに、それは拙稿に対しての炎上ではなく、沖浦氏に対しての炎上なのだ。だからしっかり管理しろと言われれば、確かにそれは一理も二理もあることだが、しょせんは注意を喚起するくらいしか方法がないのも事実である。アク禁にすればいいじゃないかと思う人もいるかもしれないが、では具体的に誰をアク禁にするのかが問題である。そんなことを決められるほど、わたくしは偉くない。それならばいっそのことブログそのものを閉鎖するほうがいいだろう。
過去の不祥事云々で、めずらしくユタ氏から反論めいたコメントが寄せられた。これについては『迷走する顕正会を斬る』の一節を参考にされたい。
完工式への異教徒参列が堂宇を汚し、その不浄が二度と永遠に解除されないとする浅井説は、道理を欠いた詭弁だと言わざるを得ない。
キリスト教の神父が正本堂を汚した。その不浄は二度と永遠に解除されない。著者はこれに異議を唱えている。すなわち道理を欠いた詭弁であると。
これをそのままスライドさせると、どうやらユタ氏の言っていることも道理を欠いた詭弁になりそうである。
ホリエモンが一つのモデルケースかもしれない。有名人になればなるほど、失脚すると二度と復活できないような場合も少なくない。具体例は控えるが、覚醒剤事件などで特に重犯だと、またやったのかよ、コイツはもうダメだな、ということになる。そういう芸能人が何人もいる。ホリエモンの場合は経済事犯とでも言うのだろうか、素人のわたくしには罪状そのものがよく理解できていないのだが、ともかく刑に服したのは事実である。その彼が今は復活を遂げて、わりとテレビなどにも頻繁に出ているようである。討論番組などでは政治家や大学教授、あるいは評論家などと激論を交わしている。
彼はもともと口八丁のような感じで、若い頃からけっこう生意気なことを言っていた。それは今も変わらない。しかも他の論客たちに比べれば、今もじゅうぶんに若い。それで言いたい放題、好き勝手なことを言っているのだから、快く思わない人たちもいることだろう。
しかし、わたくしの視聴した範囲では、他の論客たちがホリエモンの過去の不祥事をあげつらうことはなかった。これが節度あるオトナの態度なのだと思う。
ただし、これを逆に言えば、沖浦氏はそれほどに怨みを買っているということなのだろう。他人から怨まれるようなことをした。まさに二度と永遠に解除されないくらいの怨みを買っている。その現証が各種掲示板ないしコメント欄に如実にあらわれている。これは怨む側の問題もさることながら、怨まれる側の問題も相当であろうということだ。どっちもどっち、喧嘩両成敗と言ってしまえば簡単だが、なぜそこまでイガミ合うのか、和解することはあり得ないのか、この辺が興味深いところではある。
何しろわたくしは顕正会の宗門復帰を唱える立場であるから、沖浦氏のケースが好ましい方向に行ってくれれば、自ずと宗門と顕正会の関係も希望が持てるのだ。
まあ、しかし、これまでの成り行きを見ていると、やっぱり絶望的と言わざるを得ないだろう。
さて、サボっている間に、顕正新聞が溜まってしまった。もはや大して書くべきこともないのだが、せっかく年間購読をしているのだから、それをムダにすることもあるまい。ということで、今日は第1341号を少し取り上げたい。
最も大事なこの五年、全員で足並み揃え猛進せん・・・
女子部総務・第二十一女子部長の記事に出てくるフレーズである。そして次は第十二婦人部長の記事だ。
国立戒壇に大御本尊様がお出ましになるまでの限られた年数・・・
前掲の五年とここでの限られた年数とは一致しない。前者は二百万達成までの年数を言っており、後者は国立戒壇が建立され大御本尊が御遷座されるまでの年数を言っているのだ。
二百万達成のほうはいいだろう。万一、多少の前後が生じても、ほぼ確実に達成されるものと考えられる。ゆえに目くじらを立てることもあるまい。
しかし、国立戒壇建立はどうか、である。
まったく見えない。これが現実である。少なくとも現時点では国家的な議論にもなっていない。ゆえに計画も立たないし、用地買収も出来ない。ましてや工事など始まる道理がない。
それでいて彼女は言うのだ。限られた年数と。何だろうね、これは。
屁理屈を書けば、限られた云々は有限という意味である。無限ではない。もし無限だとすると、先日紹介した、広宣流布しないことを広宣流布というんだ、という意味になるだろう。あるいは、広宣流布は流れそれ自体、ということかもしれない。むしろ永遠性の意味ではこちらのほうが正しいのかもしれない。もちろん彼女の言う意味は、広宣流布は必ず達成される、創価学会が言うごとき期限のない漠然とした流れなどではない、必ず達成される時が来るのだ、ということである。
まあ、しかし、これは最大限・善意に解釈した場合であって、普通は違うだろう。限られた年数と言えば、普通は想定する年数があるはずなのだ。それがもし仮に漠然としたものだとしても、おおよそ数年後であるとか十数年後であるとか、あるいは数十年後であるとか、そうした想定年数があってしかるべきである。
さて、彼女は国立戒壇建立まで、あと何年を想定しているのだろうか?
そしてその実現性はいかに?
過去の不祥事云々で、めずらしくユタ氏から反論めいたコメントが寄せられた。これについては『迷走する顕正会を斬る』の一節を参考にされたい。
完工式への異教徒参列が堂宇を汚し、その不浄が二度と永遠に解除されないとする浅井説は、道理を欠いた詭弁だと言わざるを得ない。
キリスト教の神父が正本堂を汚した。その不浄は二度と永遠に解除されない。著者はこれに異議を唱えている。すなわち道理を欠いた詭弁であると。
これをそのままスライドさせると、どうやらユタ氏の言っていることも道理を欠いた詭弁になりそうである。
ホリエモンが一つのモデルケースかもしれない。有名人になればなるほど、失脚すると二度と復活できないような場合も少なくない。具体例は控えるが、覚醒剤事件などで特に重犯だと、またやったのかよ、コイツはもうダメだな、ということになる。そういう芸能人が何人もいる。ホリエモンの場合は経済事犯とでも言うのだろうか、素人のわたくしには罪状そのものがよく理解できていないのだが、ともかく刑に服したのは事実である。その彼が今は復活を遂げて、わりとテレビなどにも頻繁に出ているようである。討論番組などでは政治家や大学教授、あるいは評論家などと激論を交わしている。
彼はもともと口八丁のような感じで、若い頃からけっこう生意気なことを言っていた。それは今も変わらない。しかも他の論客たちに比べれば、今もじゅうぶんに若い。それで言いたい放題、好き勝手なことを言っているのだから、快く思わない人たちもいることだろう。
しかし、わたくしの視聴した範囲では、他の論客たちがホリエモンの過去の不祥事をあげつらうことはなかった。これが節度あるオトナの態度なのだと思う。
ただし、これを逆に言えば、沖浦氏はそれほどに怨みを買っているということなのだろう。他人から怨まれるようなことをした。まさに二度と永遠に解除されないくらいの怨みを買っている。その現証が各種掲示板ないしコメント欄に如実にあらわれている。これは怨む側の問題もさることながら、怨まれる側の問題も相当であろうということだ。どっちもどっち、喧嘩両成敗と言ってしまえば簡単だが、なぜそこまでイガミ合うのか、和解することはあり得ないのか、この辺が興味深いところではある。
何しろわたくしは顕正会の宗門復帰を唱える立場であるから、沖浦氏のケースが好ましい方向に行ってくれれば、自ずと宗門と顕正会の関係も希望が持てるのだ。
まあ、しかし、これまでの成り行きを見ていると、やっぱり絶望的と言わざるを得ないだろう。
さて、サボっている間に、顕正新聞が溜まってしまった。もはや大して書くべきこともないのだが、せっかく年間購読をしているのだから、それをムダにすることもあるまい。ということで、今日は第1341号を少し取り上げたい。
最も大事なこの五年、全員で足並み揃え猛進せん・・・
女子部総務・第二十一女子部長の記事に出てくるフレーズである。そして次は第十二婦人部長の記事だ。
国立戒壇に大御本尊様がお出ましになるまでの限られた年数・・・
前掲の五年とここでの限られた年数とは一致しない。前者は二百万達成までの年数を言っており、後者は国立戒壇が建立され大御本尊が御遷座されるまでの年数を言っているのだ。
二百万達成のほうはいいだろう。万一、多少の前後が生じても、ほぼ確実に達成されるものと考えられる。ゆえに目くじらを立てることもあるまい。
しかし、国立戒壇建立はどうか、である。
まったく見えない。これが現実である。少なくとも現時点では国家的な議論にもなっていない。ゆえに計画も立たないし、用地買収も出来ない。ましてや工事など始まる道理がない。
それでいて彼女は言うのだ。限られた年数と。何だろうね、これは。
屁理屈を書けば、限られた云々は有限という意味である。無限ではない。もし無限だとすると、先日紹介した、広宣流布しないことを広宣流布というんだ、という意味になるだろう。あるいは、広宣流布は流れそれ自体、ということかもしれない。むしろ永遠性の意味ではこちらのほうが正しいのかもしれない。もちろん彼女の言う意味は、広宣流布は必ず達成される、創価学会が言うごとき期限のない漠然とした流れなどではない、必ず達成される時が来るのだ、ということである。
まあ、しかし、これは最大限・善意に解釈した場合であって、普通は違うだろう。限られた年数と言えば、普通は想定する年数があるはずなのだ。それがもし仮に漠然としたものだとしても、おおよそ数年後であるとか十数年後であるとか、あるいは数十年後であるとか、そうした想定年数があってしかるべきである。
さて、彼女は国立戒壇建立まで、あと何年を想定しているのだろうか?
そしてその実現性はいかに?
2015/5/11
独白者の狂気
管理能力を問うコメントが寄せられた。しかし、これについては特に申し上げることはない。拙ブログは独白を基本としているので、そもそも管理などという概念を有さない。しかもである。コメント投稿者のほぼ全員が常識的であり、立派なオトナたちであるからして、その自主性に任せればいいのである。事実、これまでさしたる問題も発生せず、やって来れた。これも偏にコメント投稿者の皆様のお陰(?)である。
ということで、わたくしに対する批判は歓迎であって、それを排除するつもりはまったくないし、また逆に、わたくしのほうからも各氏に対して言いたいことを言わせてもらっているわけなので、これはこれでバランスが取れているのではないかと思う。これを管理能力の欠如だと言われれば、まさにそれはそのとおりであってそれまでの話であるが、各自の自主性を重んじる気風なのだと理解下さるならば、それもまた一つの理想的なブログのあり方なのではないかと思う。
特に申し上げることはないなどと言っておきながら、気がつけばナンダカンダと書いてしまっている。これも独白ゆえの気楽さだろうか?
せっかくなので話を続けよう。
ふてぶてしいヤツを見ると腹が立つ。
腹が立つというのは違うかもしれないが、まあ、誰もが似たような感情を懐くのではないかと思う。物凄く傲慢で厚顔無恥で尊大で、そんなヤツがいれば誰もが好からぬ感情を懐くものだと思う。コイツが泣きべそをかくところを見てみたいものだと、口に出しては言わないにしても内心ではそのような感情を懐くのが、おそらくは平均的な人間の心理であろう。
ネットの世界ではそれが言えてしまうのだ。現実の世界では口が裂けても言えないことをである。それが容易に言えてしまうのがネットの世界なのだ。
ある意味、沖浦氏とわたくしの共通項は、フテブテシサなのかもしれない。ハッキリ言って、タイプはまったく異なる。しかし、この独白ブログにおけるわたくしの傲岸不遜な文章は、読者にある種の感情を懐かせる意味において、沖浦氏のそれと共通なのかもしれない。ゆえに沖浦バッシングがいつの間にか巌虎バッシングにスライドするという現象を起こすのだろう。また、客観的な事実として、わたくしは沖浦氏に相当寛容であり、沖浦氏もまた、なぜかわたくしに対しては相当に擁護的である。この点に不満を懐く読者も相当数いると思われる。
ここでもう一つ、共通項を出しておこう。いや、これはわたくしの勝手な思い込みであって現時点ではまったく通用しないだろうことを自覚しつつ書くわけだが、おそらくは覚悟がハンパないのだと思う。
覚悟がハンパない?
自分で言っているようではオシマイだが、少なくとも沖浦氏は実名で胸を張って己の主義主張を展開しているわけだから、その覚悟たるや相当であろう。かく言うわたくし自身も、沖浦氏に及ぶか及ばざるかは知らないが、相当の覚悟を持ってブログを書いているつもりなのだ。
だからフテブテシクも感じられるのだと思う。
先日、沖浦氏は唐突に質問会なるものを打ち出した。ゆえにわたくしもそれについては否定的な見解を示したわけだが、しかし、沖浦氏の言い分も一理あるのだ。世の中にはいわゆる坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的な人が多くて先般の一連の応酬においてもそうした雰囲気が濃厚だったけれども、わたくしは氏の言い分も相当だと思う。ようするに顕正会では創価学会員を救うというキャンペーンを行なっているのである。しかるに沖浦氏のところには誰一人として近づかないのだそうだ。これは確かにおかしい。救うと言っている以上、救わねばならない。法華経は皆成仏道の教えである。どれほどの大悪人であっても救わねばならない。しかし沖浦氏はテゴワイ。それゆえに顕正会の活動会員たちも躊躇しているのだろう。
ということで、沖浦氏の質問会はいわば顕正会員へのメッセージなのだ。創価学会員を救うんでしょ? だったら遠慮せずにイラッシャイ、ということなのである。
沖浦氏はデタラメなことをたくさん言っている。これは事実であり、わたくしもこれまでたくさん指摘してきた。けれども、たまには筋の通ったことを言うこともあるのだ。その時に、素直にそれを認められるか否か、そこが分かれ目なのだろう。わたくしは認める方針である。
沖浦氏の過去の不祥事をあげつらう人たちがいる。
わたくしはこれに反対である。これはいわば反則技であり、即反則負けだと思っている。いや、もちろん、ここは議論の余地があるわけだが、ともかくわたくし的には反則だと思っているので、自分自身がこれを使うことはない。
この点について、わたくしは二段構えで考えている。
まずは単純に、議論で負けそうになって苦し紛れに反則技を繰り出す、そんなふうに思われるのが物凄くイヤなので、最初からそういう話はしないほうがいいというのが一つの考え方である。いかがだろうか? そうは思わないのだろうか?
もう一つが重要だ。
もし仮に沖浦氏と対面法論をすることになった時、どうするかである。既述のごとく、わたくしは氏の不祥事をあげつらうのを反則技だと思っているのでそれを持ち出すことはないし、議論で負けそうになったとしても同じである。では、他の人たちはどうするつもりなのだろうか?
結論は出たと思う。
ようするに、わたくしは場合によっては対面法論も辞さない、そういう覚悟でブログを書いているのだ。だから反則技を使わない。純粋に議論を戦わせる。
けれども、おそらく反則技を使っているような人は、ハナッから対面法論など考えてもいないのだろう。つまりはゲリラ的に、テロ行為のごとく、沖浦氏に立ち向かうしか術がないのだ。
相当に過激なことを書いてしまったようであるが、仕方がない。思っていることをそのまま書いただけの話である。これで余計に心証を悪くしたとしてもいいのだ。ようはこれが覚悟ということなのである。
ということで、わたくしに対する批判は歓迎であって、それを排除するつもりはまったくないし、また逆に、わたくしのほうからも各氏に対して言いたいことを言わせてもらっているわけなので、これはこれでバランスが取れているのではないかと思う。これを管理能力の欠如だと言われれば、まさにそれはそのとおりであってそれまでの話であるが、各自の自主性を重んじる気風なのだと理解下さるならば、それもまた一つの理想的なブログのあり方なのではないかと思う。
特に申し上げることはないなどと言っておきながら、気がつけばナンダカンダと書いてしまっている。これも独白ゆえの気楽さだろうか?
せっかくなので話を続けよう。
ふてぶてしいヤツを見ると腹が立つ。
腹が立つというのは違うかもしれないが、まあ、誰もが似たような感情を懐くのではないかと思う。物凄く傲慢で厚顔無恥で尊大で、そんなヤツがいれば誰もが好からぬ感情を懐くものだと思う。コイツが泣きべそをかくところを見てみたいものだと、口に出しては言わないにしても内心ではそのような感情を懐くのが、おそらくは平均的な人間の心理であろう。
ネットの世界ではそれが言えてしまうのだ。現実の世界では口が裂けても言えないことをである。それが容易に言えてしまうのがネットの世界なのだ。
ある意味、沖浦氏とわたくしの共通項は、フテブテシサなのかもしれない。ハッキリ言って、タイプはまったく異なる。しかし、この独白ブログにおけるわたくしの傲岸不遜な文章は、読者にある種の感情を懐かせる意味において、沖浦氏のそれと共通なのかもしれない。ゆえに沖浦バッシングがいつの間にか巌虎バッシングにスライドするという現象を起こすのだろう。また、客観的な事実として、わたくしは沖浦氏に相当寛容であり、沖浦氏もまた、なぜかわたくしに対しては相当に擁護的である。この点に不満を懐く読者も相当数いると思われる。
ここでもう一つ、共通項を出しておこう。いや、これはわたくしの勝手な思い込みであって現時点ではまったく通用しないだろうことを自覚しつつ書くわけだが、おそらくは覚悟がハンパないのだと思う。
覚悟がハンパない?
自分で言っているようではオシマイだが、少なくとも沖浦氏は実名で胸を張って己の主義主張を展開しているわけだから、その覚悟たるや相当であろう。かく言うわたくし自身も、沖浦氏に及ぶか及ばざるかは知らないが、相当の覚悟を持ってブログを書いているつもりなのだ。
だからフテブテシクも感じられるのだと思う。
先日、沖浦氏は唐突に質問会なるものを打ち出した。ゆえにわたくしもそれについては否定的な見解を示したわけだが、しかし、沖浦氏の言い分も一理あるのだ。世の中にはいわゆる坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的な人が多くて先般の一連の応酬においてもそうした雰囲気が濃厚だったけれども、わたくしは氏の言い分も相当だと思う。ようするに顕正会では創価学会員を救うというキャンペーンを行なっているのである。しかるに沖浦氏のところには誰一人として近づかないのだそうだ。これは確かにおかしい。救うと言っている以上、救わねばならない。法華経は皆成仏道の教えである。どれほどの大悪人であっても救わねばならない。しかし沖浦氏はテゴワイ。それゆえに顕正会の活動会員たちも躊躇しているのだろう。
ということで、沖浦氏の質問会はいわば顕正会員へのメッセージなのだ。創価学会員を救うんでしょ? だったら遠慮せずにイラッシャイ、ということなのである。
沖浦氏はデタラメなことをたくさん言っている。これは事実であり、わたくしもこれまでたくさん指摘してきた。けれども、たまには筋の通ったことを言うこともあるのだ。その時に、素直にそれを認められるか否か、そこが分かれ目なのだろう。わたくしは認める方針である。
沖浦氏の過去の不祥事をあげつらう人たちがいる。
わたくしはこれに反対である。これはいわば反則技であり、即反則負けだと思っている。いや、もちろん、ここは議論の余地があるわけだが、ともかくわたくし的には反則だと思っているので、自分自身がこれを使うことはない。
この点について、わたくしは二段構えで考えている。
まずは単純に、議論で負けそうになって苦し紛れに反則技を繰り出す、そんなふうに思われるのが物凄くイヤなので、最初からそういう話はしないほうがいいというのが一つの考え方である。いかがだろうか? そうは思わないのだろうか?
もう一つが重要だ。
もし仮に沖浦氏と対面法論をすることになった時、どうするかである。既述のごとく、わたくしは氏の不祥事をあげつらうのを反則技だと思っているのでそれを持ち出すことはないし、議論で負けそうになったとしても同じである。では、他の人たちはどうするつもりなのだろうか?
結論は出たと思う。
ようするに、わたくしは場合によっては対面法論も辞さない、そういう覚悟でブログを書いているのだ。だから反則技を使わない。純粋に議論を戦わせる。
けれども、おそらく反則技を使っているような人は、ハナッから対面法論など考えてもいないのだろう。つまりはゲリラ的に、テロ行為のごとく、沖浦氏に立ち向かうしか術がないのだ。
相当に過激なことを書いてしまったようであるが、仕方がない。思っていることをそのまま書いただけの話である。これで余計に心証を悪くしたとしてもいいのだ。ようはこれが覚悟ということなのである。
2015/5/10
コメント投稿者に水を差すブログ
今回は最初から最後まで余談の連続であることを、あらかじめお断りしておきたい。
すべての投稿に目を通してはいるものの、記憶に残っているものは少ない。どうでもいいようなコメントが多過ぎるからだ。その大半が沖浦氏がらみのもので、堂々巡りのようなやりとりも少なくない。
そうした中で唯一だろうか、関の山氏のネパール大地震云々の記述が問題提起としてはなかなか有意義なもので、わたくしもいろいろと考えさせられた。しかし、結局のところは沖浦騒動(?)にかき消されてしまった格好である。
まさに騒動である。これが紙媒体だったら、どれほどのムダだろうか? ようは資源のムダである。
では、余談めいた話をしよう。
あるところに立派なビルディングが完成した。しかし、見た目だけではそれがどういう目的で建てられたものか、判然としない。
たぶん素人であっても、建物を見れば、それがマンションであるか、オフィスビルであるか、あるいは店舗であるか、それくらいは区別がつくだろう。わたくしもわかる。
ところがくだんのビルはわからない。外観からはまったく判断がつかない。何しろ窓がほとんどない。しかも人の出入りもほとんどないのだ。
それはデータ・センターと呼ばれる建物だった。ようはパソコンにおけるハードディスクの役割りを担うものであり、いわばビルそのものが巨大なハードディスクなのだそうである。
なるほど、窓がないことも、人の出入りが少ないことも頷ける。今の時代はこの手の建物が日本中にたくさん建てられているらしい。
そもそも、なぜにそれがそんなに必要なのかがわからない。具体的にはどのようなデータが保存されているのか、それがわからない。もちろん企業秘密というか守秘義務というか、たぶん聞いても教えてはくれないだろう。
そこで以下はわたくしの勝手な想像であるが、もしかしたら拙ブログのデータなども、そうした建物に収納されているのかもしれない。あらゆる個人サイト、あるいは掲示板など、便所の落書きと言われても仕方がないような低レベルの投稿までもが、すべてデータ・センターに収まっているのではないか、ということなのだ。
ご存知のごとく、拙ブログは無料である。もちろん閲覧は無料、コメント投稿も無料、そして何よりもわたくし自身が一切の費用なしでこうして十年間、やってきたのである。こんな不思議な話はない。
インターネットは原則無料というか、無料にもかかわらずクオリティの高いサイトがたくさん存在するので、有料サイトはたいていが淘汰されていく運命にある。そんなわけで利用者側も感覚が麻痺してしまって、無料が当たり前のような錯覚を起こしている。かく言うわたくし自身、元来がケチなので有料サイトはほとんど見向きもしない。
それにしてもである。いったい無料サイトはどのような仕組みで維持されているのか、それがよくわからないのだ。いちおう、民法のテレビと同じ理屈なのだろうとは思う。あれも不思議なもので、テレビさえ持っていれば、タダで視聴できるのだ。
ただし、テレビ局は数が限られている。ところがインターネットの場合はチャンネル数がほぼ無限である。いったいそんなものがどうして維持できるのだろうか?
拙ブログは投稿数がすでに二千を超え、コメント数も三万有余を数える。ところが、わたくしのパソコンの中には、それらのデータは存在しない。おそらくはどこかのデータ・センターに収まっているのだろう。こうした個人ブログが無数にあって、掲示板もたくさんあって、それらの膨大なデータがどこかに保存されているのである。そのために立派なビルディングが建てられ、データを収めるための機器が設置される。タダのわけがない。ビルの建設費用にしても、機器の設置費用にしても、安くはないだろう。ところがわたくしはそれを払った記憶がない。基本的には回線の通信料だけである。
ともかく生産性のない世界である。虚構の世界だ。ゆえに、これが現代人のライフスタイルを形成しているとして、はたしてどこまで維持ないし発展が可能なのか、わたくしにはまったく想像がつかない。
さらに話を脱線させると、わたくしは現代日本を一億総ニート化の時代だと思っている。中高年のニート化が進みつつあるとの指摘もあるが、それはそうだろう。二十代三十代のニートの人たちが、年数を経ればやがては四十代五十代になるし、さらには六十代七十代にもなる。わたくしもその一人だ。
インターネットは無料だと書いた。通信料は必要であるものの、それ以外にはさして費用が掛からない。つまり、いちばん安上がりな遊びなのである。今の日本人の多くがこの世界にドップリとはまり込んでいる。生産性はほぼゼロに等しい。こんなテイタラクでいいのだろうか? はたしてこんな享楽がいつまで続くだろうか? わたくしにはまったくわからない。
話が脱線の連続だったが、最初に戻ろう。
各方面からたくさんのコメントが寄せられているが、もしこれが紙媒体だったらどれほどのムダであるかが一目瞭然である。紙は意外や意外、重さがある。ヒラヒラの薄い紙も枚数が重なれば相当である。
ところがネット環境においては、その実感が持てない。巨大なビルを建て、大量の機器を導入して、そこに便所の落書き同然のデータを保存するという、そのムダというか、ヘンテコさ加減に気がつかないのだ。
そんなわけで沖浦氏も沖浦氏だが、それにいちいち反応している人たちもどうかしているとしか言い様がない。
すべての投稿に目を通してはいるものの、記憶に残っているものは少ない。どうでもいいようなコメントが多過ぎるからだ。その大半が沖浦氏がらみのもので、堂々巡りのようなやりとりも少なくない。
そうした中で唯一だろうか、関の山氏のネパール大地震云々の記述が問題提起としてはなかなか有意義なもので、わたくしもいろいろと考えさせられた。しかし、結局のところは沖浦騒動(?)にかき消されてしまった格好である。
まさに騒動である。これが紙媒体だったら、どれほどのムダだろうか? ようは資源のムダである。
では、余談めいた話をしよう。
あるところに立派なビルディングが完成した。しかし、見た目だけではそれがどういう目的で建てられたものか、判然としない。
たぶん素人であっても、建物を見れば、それがマンションであるか、オフィスビルであるか、あるいは店舗であるか、それくらいは区別がつくだろう。わたくしもわかる。
ところがくだんのビルはわからない。外観からはまったく判断がつかない。何しろ窓がほとんどない。しかも人の出入りもほとんどないのだ。
それはデータ・センターと呼ばれる建物だった。ようはパソコンにおけるハードディスクの役割りを担うものであり、いわばビルそのものが巨大なハードディスクなのだそうである。
なるほど、窓がないことも、人の出入りが少ないことも頷ける。今の時代はこの手の建物が日本中にたくさん建てられているらしい。
そもそも、なぜにそれがそんなに必要なのかがわからない。具体的にはどのようなデータが保存されているのか、それがわからない。もちろん企業秘密というか守秘義務というか、たぶん聞いても教えてはくれないだろう。
そこで以下はわたくしの勝手な想像であるが、もしかしたら拙ブログのデータなども、そうした建物に収納されているのかもしれない。あらゆる個人サイト、あるいは掲示板など、便所の落書きと言われても仕方がないような低レベルの投稿までもが、すべてデータ・センターに収まっているのではないか、ということなのだ。
ご存知のごとく、拙ブログは無料である。もちろん閲覧は無料、コメント投稿も無料、そして何よりもわたくし自身が一切の費用なしでこうして十年間、やってきたのである。こんな不思議な話はない。
インターネットは原則無料というか、無料にもかかわらずクオリティの高いサイトがたくさん存在するので、有料サイトはたいていが淘汰されていく運命にある。そんなわけで利用者側も感覚が麻痺してしまって、無料が当たり前のような錯覚を起こしている。かく言うわたくし自身、元来がケチなので有料サイトはほとんど見向きもしない。
それにしてもである。いったい無料サイトはどのような仕組みで維持されているのか、それがよくわからないのだ。いちおう、民法のテレビと同じ理屈なのだろうとは思う。あれも不思議なもので、テレビさえ持っていれば、タダで視聴できるのだ。
ただし、テレビ局は数が限られている。ところがインターネットの場合はチャンネル数がほぼ無限である。いったいそんなものがどうして維持できるのだろうか?
拙ブログは投稿数がすでに二千を超え、コメント数も三万有余を数える。ところが、わたくしのパソコンの中には、それらのデータは存在しない。おそらくはどこかのデータ・センターに収まっているのだろう。こうした個人ブログが無数にあって、掲示板もたくさんあって、それらの膨大なデータがどこかに保存されているのである。そのために立派なビルディングが建てられ、データを収めるための機器が設置される。タダのわけがない。ビルの建設費用にしても、機器の設置費用にしても、安くはないだろう。ところがわたくしはそれを払った記憶がない。基本的には回線の通信料だけである。
ともかく生産性のない世界である。虚構の世界だ。ゆえに、これが現代人のライフスタイルを形成しているとして、はたしてどこまで維持ないし発展が可能なのか、わたくしにはまったく想像がつかない。
さらに話を脱線させると、わたくしは現代日本を一億総ニート化の時代だと思っている。中高年のニート化が進みつつあるとの指摘もあるが、それはそうだろう。二十代三十代のニートの人たちが、年数を経ればやがては四十代五十代になるし、さらには六十代七十代にもなる。わたくしもその一人だ。
インターネットは無料だと書いた。通信料は必要であるものの、それ以外にはさして費用が掛からない。つまり、いちばん安上がりな遊びなのである。今の日本人の多くがこの世界にドップリとはまり込んでいる。生産性はほぼゼロに等しい。こんなテイタラクでいいのだろうか? はたしてこんな享楽がいつまで続くだろうか? わたくしにはまったくわからない。
話が脱線の連続だったが、最初に戻ろう。
各方面からたくさんのコメントが寄せられているが、もしこれが紙媒体だったらどれほどのムダであるかが一目瞭然である。紙は意外や意外、重さがある。ヒラヒラの薄い紙も枚数が重なれば相当である。
ところがネット環境においては、その実感が持てない。巨大なビルを建て、大量の機器を導入して、そこに便所の落書き同然のデータを保存するという、そのムダというか、ヘンテコさ加減に気がつかないのだ。
そんなわけで沖浦氏も沖浦氏だが、それにいちいち反応している人たちもどうかしているとしか言い様がない。
2015/5/3
顕正新聞第1340号精読
質問会をやるのは結構であるが、まずは結集の戦い(?)から始めなければいけない。そもそもが質問会をやってほしいという要請もないのに、唐突に質問会を打ち出したところで誰も集まらないのは目に見えていることだ。
第一、顕正会員や法華講員を集めて質問会をやるという発想がおかしい。誰もそんなことを望んではいないのだ。
確かに沖浦氏を質問責めにする絶好の機会ではあるだろう。しかし、基本的には主人と客の関係であるからして、沖浦氏に教えを乞うというのが質問会の正体である。なぜに顕正会員が、あるいは法華講員が、沖浦ごときに教えを乞わなければいけないのだろうか?
沖浦ごときと書いた。これはもちろん、代弁のつもりである。法華講員はどうだか知らないが、少なくとも顕正会員はそう思っていることだろう。
以上、幸か不幸か現状では質問会は実現不能というのが結論かと思う。
さて、今日は顕正新聞第1340号から話題を拾うわけだが、当該号もまた創価学会ネタに満ち溢れている。まずは副総男子部長の記事を紹介しよう。
「紛うかたなき重大なる文証」心肝に
先生の破折で学会崩壊は決定的!
創価学会の崩壊が決定的というのは言い過ぎだろう。これは彼の願望が多分に含まれてのことであって、現実的にはまだまだ磐石と考えられる。ただし、今回の統一地方選挙はずいぶんと苦戦したようで、勝つには勝ったが得票数にやや凋落の兆しが見え隠れしているとも言われている。もっとも、これはネット上の情報を斜め読みした程度のものであって、詳細な分析を試みたわけではないので実際のところはよくわからない。もし特集号の威力であるとすれば、その影響は今後拡大して行く可能性もあるだろう。次の国政選挙が注目されるところだ。
あと五年で先生の懐刀としての使命を全うできる陣容構築を・・・
あと五年というフレーズが目立つようになってきたが、いつまでも五年のわけがない。もはやゴマカシは効かない。あと四年、三年、二年、一年と、確実にカウントダウンされなければいけないのだ。
それはともかく、この「あと五年」の意味が問題である。あたかも五年後に広宣流布が実現するかのごとく言っている人もいるが、この人の場合は明らかに違う。ようは五年後に一国諫暁の戦いが開始されるので、その時までに準備を調えておかなければいけないと言っているのだ。
しかし、どうなんだろうと思う。では、そこから広宣流布実現までの年月はどれほどのものなのかと問えば、おそらくは誰も答えられないだろう。もちろん、口では何とでも言える。あっという間であるとか、一気に実現するとか、今は何とでも言えるのだ。しかし、現実にはそうならない公算のほうが大きい。結局、五年後も今と大して変わらないし、創価学会も崩壊せずに残っているだろうことは、予言者でなくても言えてしまうことなのだ。顕正会もそろそろ現実を受け入れるべき、というのが一つの結論である。
もう一人の副総男子部長の記事を紹介しよう。
マスコミを使い、「茹で蛙」のごとく国民を欺くアベノミクス・・・
総合婦人部長も同趣旨の発言をしていて、興味深い。というのは、この「茹で蛙」はもともと創価学会員を譬喩したものだった。それを日本国民にスライドさせたわけで、これはなかなかうまい応用だと思った。
国家破産のXデーは眼前・・・
これがまた難しい。顕正会の言う眼前とは、明日のことなのか一週間後のことなのか一ヵ月後なのか一年後なのか、それがいつもアイマイなのである。もっとも茹で蛙ならば驚きもせずにそれを受け入れることになるのかもしれない。俗な言い方をすれば、アベノミクスはうまい成仏のさせ方なのかもしれない。日本ないし日本国民は苦しまずに成仏できるのだから、万々歳である。
いや、もちろん、そんな冗談を言っている場合ではない。現実にそのような事態を迎えれば、誰もが大変な思いをすることになる。ゆえに、真面目に考えなければいけない深刻な問題であるのは確かだ。
さて、総合女子部長の記事には次のような一節がある。
また、顕正会員はかえって戒壇の大御本尊様への信を一段と深めさせて頂き・・・
これは素晴らしい発言である。ようするに「学会員を救う特集号」は文字通り創価学会員を救うのが主目的なのであるが、浅井先生による特集号ないしその後の一連の創価学会破折によって、かえって顕正会員こそが戒壇の大御本尊への信心を深めさせていただくことが出来たのだと言っているわけである。
ところが女子部総務がおかしなことを言っている。
恐れながら先生は、発足より今に至るまで、たったお一人で「冨士大石寺の命」を死守してこられた・・・
何でたった一人なのか、顧問先生はどうしたのか、他の古参幹部はどうしたのか、と思う。与えて、今現在はたった一人だとしても、かつては違ったはずである。妙信講だけが法華講ではなかった。創価学会ですら、その一翼を担っていたのである。それをあたかも最初から最後まで、あるいは一から十まで、浅井先生一人が背負ってきたかのごとく言うのは、さすがに誇張が過ぎるだろう。発言には気をつけたい。
次に婦人部茨城支区部長の記事を紹介する。
○○さんは御本尊が心配になり、その日のうちにすぐにお巻きしたと話してきました。
引用範囲が狭くて恐縮であるが、ようするにこの人は昭和四十九年に創価学会に入信し、今般、顕正会に入会したわけである。そして上掲の出来事の後、顕正会本部に御本尊を返納したとのことだ。ちなみに、この人はずっと創価学会で活動していたわけではなく、平成二年頃からは勤行もしなくなったそうである。
すると日達上人書写の御本尊だろうか? それを顕正会本部に返納するというのもおかしな話だ。そもそも御本尊の何が心配でお巻きしたのか? それもよくわからない話である。
学会員父子が殴る蹴るの暴行!
特集号を恐れる学会の卑劣、眼前に
男子部第百三隊支隊副長の活動報告の見出しである。これが事実ならば事件である。傷害事件だ。ゆえに本文中には刑事告訴云々の記述がある。
刑事告訴せしめて下さいました・・・
う〜ん、悩ましい文章表現だ。当該記事の全体的評価はどもかくとして、わたくしはこのフレーズが気になって仕方がなかった。文法的な是非はわからないけれども、物凄く違和感があるのは事実だ。
ところで、婦人部三重支区部長の記事には、やや意味不明のくだりがある。
また、いま学会では学会版本尊を二千円で買わせたり、他宗教からは、その御本尊を高く買い取るとの話もあると聞き・・・
学会版の本尊が二千円というのは、公式にはどのように言っているのか知らないが、いわゆる御供養の意味なのだろう。それはともかく後半が少しわかり難い。おそらくは日蓮宗系の寺院にある御真筆御本尊を買い取るという意味なのだと思う。それはそうだろう。他宗教と言えば念仏もあれば真言もある。あるいはキリスト教もあればイスラム教もある。そんなところの本尊を買い取ってどうするつもりなのかとツッコミを入れたくなる文章だ。
創価学会ネタは他にもいろいろあるが、次はめずらしく幸福の科学からの入会者の記事である。
間違って教えられた悪知識が・・・
昨年五月入信の婦人部春日井支区の組長というから仕方がないのかもしれない。ようするに悪知識の用法がおかしいのだ。普通の文章感覚でも「間違って教えられた知識が・・・」と書くほうがよさそうな気がする。いや、もちろん、そこに悪を冠することでよりいっそう強調するという意味もなくはないのだが、そもそも悪知識というのは現代国語の意味とは異なるのだ。いわゆる悪友と書いてしまえば明解だろう。悪知識=悪友である。これは御書の用語例を調べていけばすぐにわかることである。
恐ろしいことですが、「幸福の科学」でも立正安国論の講義があり・・・
ほほう、これは興味深い。いったいどのような講義なのか、聴いてみたい気もするが、まあ、積極的に聴きたいとは思わない。新興宗教の多くはイイトコ取りが得意なのだ。古くからあるさまざまの宗教のエッセンスをうまく取り入れて、ようはパクッて教義を拵えているのだろう。
さて、以下は顕正会に入ってからの記述である。
それまでは生活に合わせ、空いている日にビデオ放映等に参加していましたが・・・
何を言っておるものかと思う。それでいいのだ。そのためにビデオ放映の日程には幅を持たせているのだから、それでいいのである。
彼女は幸福の科学時代に比べて経済的には相当に負担が軽減したのかもしれない。しかし、上掲の考え方は注意を要する。つまり、経済的にはよいかもしれないが、精神的肉体的にはどうかということなのだ。顕正会は金が掛からないことをウリにしているものの、実際には顕正新聞の多重購読の問題などもある。ましてや精神的肉体的負担がハンパないのだ。これが最初のうちはわからない。しかし、しばらくすればわかるようになる。
最後は女子部第六区組長の体験発表である。兄の葬儀についての記述だ。
葬儀の当日、親族の中で信心しているのは私一人でしたが、儀礼室の方が「すべては広宣流布につがりますから、二人で頑張りましょう」と、温かく励まして下さった・・・
立派である。儀礼室の人が誰なのか知らないが、こちらも立派である。もちろん日蓮正宗としては認め難いだろう。ゆえにわたくしは何とかならないものかと思案しているわけだが、ともかくその是非は別にして振る舞いだけを取り上げるならば、実に立派なことだと思う。
第一、顕正会員や法華講員を集めて質問会をやるという発想がおかしい。誰もそんなことを望んではいないのだ。
確かに沖浦氏を質問責めにする絶好の機会ではあるだろう。しかし、基本的には主人と客の関係であるからして、沖浦氏に教えを乞うというのが質問会の正体である。なぜに顕正会員が、あるいは法華講員が、沖浦ごときに教えを乞わなければいけないのだろうか?
沖浦ごときと書いた。これはもちろん、代弁のつもりである。法華講員はどうだか知らないが、少なくとも顕正会員はそう思っていることだろう。
以上、幸か不幸か現状では質問会は実現不能というのが結論かと思う。
さて、今日は顕正新聞第1340号から話題を拾うわけだが、当該号もまた創価学会ネタに満ち溢れている。まずは副総男子部長の記事を紹介しよう。
「紛うかたなき重大なる文証」心肝に
先生の破折で学会崩壊は決定的!
創価学会の崩壊が決定的というのは言い過ぎだろう。これは彼の願望が多分に含まれてのことであって、現実的にはまだまだ磐石と考えられる。ただし、今回の統一地方選挙はずいぶんと苦戦したようで、勝つには勝ったが得票数にやや凋落の兆しが見え隠れしているとも言われている。もっとも、これはネット上の情報を斜め読みした程度のものであって、詳細な分析を試みたわけではないので実際のところはよくわからない。もし特集号の威力であるとすれば、その影響は今後拡大して行く可能性もあるだろう。次の国政選挙が注目されるところだ。
あと五年で先生の懐刀としての使命を全うできる陣容構築を・・・
あと五年というフレーズが目立つようになってきたが、いつまでも五年のわけがない。もはやゴマカシは効かない。あと四年、三年、二年、一年と、確実にカウントダウンされなければいけないのだ。
それはともかく、この「あと五年」の意味が問題である。あたかも五年後に広宣流布が実現するかのごとく言っている人もいるが、この人の場合は明らかに違う。ようは五年後に一国諫暁の戦いが開始されるので、その時までに準備を調えておかなければいけないと言っているのだ。
しかし、どうなんだろうと思う。では、そこから広宣流布実現までの年月はどれほどのものなのかと問えば、おそらくは誰も答えられないだろう。もちろん、口では何とでも言える。あっという間であるとか、一気に実現するとか、今は何とでも言えるのだ。しかし、現実にはそうならない公算のほうが大きい。結局、五年後も今と大して変わらないし、創価学会も崩壊せずに残っているだろうことは、予言者でなくても言えてしまうことなのだ。顕正会もそろそろ現実を受け入れるべき、というのが一つの結論である。
もう一人の副総男子部長の記事を紹介しよう。
マスコミを使い、「茹で蛙」のごとく国民を欺くアベノミクス・・・
総合婦人部長も同趣旨の発言をしていて、興味深い。というのは、この「茹で蛙」はもともと創価学会員を譬喩したものだった。それを日本国民にスライドさせたわけで、これはなかなかうまい応用だと思った。
国家破産のXデーは眼前・・・
これがまた難しい。顕正会の言う眼前とは、明日のことなのか一週間後のことなのか一ヵ月後なのか一年後なのか、それがいつもアイマイなのである。もっとも茹で蛙ならば驚きもせずにそれを受け入れることになるのかもしれない。俗な言い方をすれば、アベノミクスはうまい成仏のさせ方なのかもしれない。日本ないし日本国民は苦しまずに成仏できるのだから、万々歳である。
いや、もちろん、そんな冗談を言っている場合ではない。現実にそのような事態を迎えれば、誰もが大変な思いをすることになる。ゆえに、真面目に考えなければいけない深刻な問題であるのは確かだ。
さて、総合女子部長の記事には次のような一節がある。
また、顕正会員はかえって戒壇の大御本尊様への信を一段と深めさせて頂き・・・
これは素晴らしい発言である。ようするに「学会員を救う特集号」は文字通り創価学会員を救うのが主目的なのであるが、浅井先生による特集号ないしその後の一連の創価学会破折によって、かえって顕正会員こそが戒壇の大御本尊への信心を深めさせていただくことが出来たのだと言っているわけである。
ところが女子部総務がおかしなことを言っている。
恐れながら先生は、発足より今に至るまで、たったお一人で「冨士大石寺の命」を死守してこられた・・・
何でたった一人なのか、顧問先生はどうしたのか、他の古参幹部はどうしたのか、と思う。与えて、今現在はたった一人だとしても、かつては違ったはずである。妙信講だけが法華講ではなかった。創価学会ですら、その一翼を担っていたのである。それをあたかも最初から最後まで、あるいは一から十まで、浅井先生一人が背負ってきたかのごとく言うのは、さすがに誇張が過ぎるだろう。発言には気をつけたい。
次に婦人部茨城支区部長の記事を紹介する。
○○さんは御本尊が心配になり、その日のうちにすぐにお巻きしたと話してきました。
引用範囲が狭くて恐縮であるが、ようするにこの人は昭和四十九年に創価学会に入信し、今般、顕正会に入会したわけである。そして上掲の出来事の後、顕正会本部に御本尊を返納したとのことだ。ちなみに、この人はずっと創価学会で活動していたわけではなく、平成二年頃からは勤行もしなくなったそうである。
すると日達上人書写の御本尊だろうか? それを顕正会本部に返納するというのもおかしな話だ。そもそも御本尊の何が心配でお巻きしたのか? それもよくわからない話である。
学会員父子が殴る蹴るの暴行!
特集号を恐れる学会の卑劣、眼前に
男子部第百三隊支隊副長の活動報告の見出しである。これが事実ならば事件である。傷害事件だ。ゆえに本文中には刑事告訴云々の記述がある。
刑事告訴せしめて下さいました・・・
う〜ん、悩ましい文章表現だ。当該記事の全体的評価はどもかくとして、わたくしはこのフレーズが気になって仕方がなかった。文法的な是非はわからないけれども、物凄く違和感があるのは事実だ。
ところで、婦人部三重支区部長の記事には、やや意味不明のくだりがある。
また、いま学会では学会版本尊を二千円で買わせたり、他宗教からは、その御本尊を高く買い取るとの話もあると聞き・・・
学会版の本尊が二千円というのは、公式にはどのように言っているのか知らないが、いわゆる御供養の意味なのだろう。それはともかく後半が少しわかり難い。おそらくは日蓮宗系の寺院にある御真筆御本尊を買い取るという意味なのだと思う。それはそうだろう。他宗教と言えば念仏もあれば真言もある。あるいはキリスト教もあればイスラム教もある。そんなところの本尊を買い取ってどうするつもりなのかとツッコミを入れたくなる文章だ。
創価学会ネタは他にもいろいろあるが、次はめずらしく幸福の科学からの入会者の記事である。
間違って教えられた悪知識が・・・
昨年五月入信の婦人部春日井支区の組長というから仕方がないのかもしれない。ようするに悪知識の用法がおかしいのだ。普通の文章感覚でも「間違って教えられた知識が・・・」と書くほうがよさそうな気がする。いや、もちろん、そこに悪を冠することでよりいっそう強調するという意味もなくはないのだが、そもそも悪知識というのは現代国語の意味とは異なるのだ。いわゆる悪友と書いてしまえば明解だろう。悪知識=悪友である。これは御書の用語例を調べていけばすぐにわかることである。
恐ろしいことですが、「幸福の科学」でも立正安国論の講義があり・・・
ほほう、これは興味深い。いったいどのような講義なのか、聴いてみたい気もするが、まあ、積極的に聴きたいとは思わない。新興宗教の多くはイイトコ取りが得意なのだ。古くからあるさまざまの宗教のエッセンスをうまく取り入れて、ようはパクッて教義を拵えているのだろう。
さて、以下は顕正会に入ってからの記述である。
それまでは生活に合わせ、空いている日にビデオ放映等に参加していましたが・・・
何を言っておるものかと思う。それでいいのだ。そのためにビデオ放映の日程には幅を持たせているのだから、それでいいのである。
彼女は幸福の科学時代に比べて経済的には相当に負担が軽減したのかもしれない。しかし、上掲の考え方は注意を要する。つまり、経済的にはよいかもしれないが、精神的肉体的にはどうかということなのだ。顕正会は金が掛からないことをウリにしているものの、実際には顕正新聞の多重購読の問題などもある。ましてや精神的肉体的負担がハンパないのだ。これが最初のうちはわからない。しかし、しばらくすればわかるようになる。
最後は女子部第六区組長の体験発表である。兄の葬儀についての記述だ。
葬儀の当日、親族の中で信心しているのは私一人でしたが、儀礼室の方が「すべては広宣流布につがりますから、二人で頑張りましょう」と、温かく励まして下さった・・・
立派である。儀礼室の人が誰なのか知らないが、こちらも立派である。もちろん日蓮正宗としては認め難いだろう。ゆえにわたくしは何とかならないものかと思案しているわけだが、ともかくその是非は別にして振る舞いだけを取り上げるならば、実に立派なことだと思う。