2015/5/1

顕正新聞第1339号の話題を交えて  
沖浦氏のところには顕正会員があらわれた例がない。これは前にも書いたように、成果になりそうもないのでハナッから相手にしないというのが一つと、もう一つには、やはり沖浦氏は怖い存在なのだろう、だから近づかないのだ。

しかし、それはそれである。それよりも何よりも問題なのは新聞を売らないことだ。そんなバカなことがあるかと思う。具体的にはどこの会館の話なのかが気になるところである。たぶん地方会館によっては参詣者の顔触れが決まっていて、会館職員も参詣者のほぼ全員を把握しているのかもしれない。具体的な所属だとか名前だとかは知らないまでも、顔を見知っているというレベルでほぼ全員を把握しているのかもしれない。よって見知らぬ人物があらわれれば警戒するのかもしれない。何しろ顕正会の内外には謀略が渦巻いているわけだから、あるいは本部のほうでそのような指令を出している可能性もあるだろう。

しかし、新聞を買いたい人に対して、売らないというのもヘンな話であって、何をそこまで頑なになる必要があるだろうかと腑に落ちないのも事実である。拙ブログみないなのが増えるのを恐れているのだろうか?

さて、かく言うわたくしがどうやって顕正新聞を購入しているかについては、秘密にしておこうかと思う。

いや、ウソである。秘密も何もない。簡単な話である。いわゆる年間購読をしているのだ。

平成十六年までは消極的ながらも、いちおう顕正会員として活動していた。その後、拙ブログを立ち上げ、ご覧のように独白(?)を続けてきたわけである。そんなわけで活動からは身を引いたものの、年間購読だけは継続している。今月は新聞の切り替え月であるが、たぶん今回も購読を申し込むことだろう。そろそろ担当者から電話ないしメールで新聞購読の打診が来るに違いない。

ちなみに担当者は拙ブログの存在を知らないはずで、ましてや拙ブログの執筆者がわたくしであるなどとは、ツユほども思わないだろう。はたして、それがバレた時にどういうことになるかは、まったく考えていない。その時はその時だ。

もう一点、『迷走する顕正会を斬る』が名著かどうかについては、当然ながらさまざまの評価があってしかるべきである。

たとえば創価学会に対する批判本の場合、それこそ無数に存在するので、どれが名著であるかは議論百出であろうと思う。ピンからキリまでという表現もある。玉石混合という表現も相当だろう。
ところが顕正会批判の本の場合は事情が異なる。そもそもが顕正会を取り上げて論ずること自体が希少のことであり、おそらく書籍レベルは数えるほどしかないはずである。
その意味で、極端に言えば『迷走する顕正会を斬る』はこの世で唯一の顕正会批判本であり、もしかしたら顕正会批判の本格的な書籍としては最初で最後のものかもしれないのだ。

しかし、もしそうだとすると悲しい話である。しょせんは創価学会の足元にも及ばなかったということの、何よりの現証とも言えるからである。批判本がたくさん出ているということは、その存在が無視できないレベルに達していることの証左でもあるだろう。顕正会はそのレベルには達していないということなのだ。

さて、顕正新聞第1339号から話題を拾いたい。

 「広宣流布なんて絶対できない。広宣流布しないことを広宣流布というんだ」

女子部第六十九区長の記事に出てくる創価学会員のセリフである。実に意味不明だ。

「理性の中の大理性」にめざめた若き人材が奮い立ち、連日、果敢なる戦いを起こしております。

区長の言葉であるが、前掲との対比の意味で引用させていただいた。ようするに創価学会員は広宣流布を諦めちゃっているけれども顕正会員は違うのだと、本気で広宣流布を実現しようとしているのだと、こういうことが対比の上で浮かび上がってくるのではないかと思う。

しかし、悩ましいところだ。理性の中の大理性という言葉が唐突に出てくるが、これはたぶん浅井先生の発言に基づくのだろう。たとえば若年層には親の反対の中、信心を貫く人たちがいる。親の言うことを聞くのが真の親孝行なのではない、信心を貫いて延いては親をも入信せしめることが本当の親孝行なのであり、そうした姿勢を貫くことこそが理性の中の大理性なのであると、今はあてずっぽうに書いたけれども、おおむねこんなようなことが言われているのだと思う。

それはともかくとして、広宣流布実現という視点で考えた時に、創価学会員の言っていることも相当であろうと思う。もちろん、こんなことを言っているようではダメなのだが、しかし、現実問題として今の顕正会のテイタラクを見れば、広宣流布など夢のまた夢なのである。つまり、上掲では理性を云々しているものの、現実的には猪突猛進と表現したほうがよさそうであり、猛進が転じて妄信ないし盲信になってしまっていることも否めないのではないかと思う。

同様の意味で、婦人部池袋支区総班長の次の言葉も悩ましい。

・・・二百万の時、先生の一貫不変の諫暁が一国に光り輝くことを想像しては、震える感動を抑えられませんでした。

何しろ二百万は眼前である。数年後にはその時を迎えてしまうのだ。はたして彼女の想像どおりになるのか、わたくしは甚だ疑問である。百万達成の時にも似たようなことがあって、実際にはあの時に幻想から目覚めた人もいたのである。昨日の拙稿の言葉を使えば、正気に目覚めたということだ。

25年ぶりに再開した父がついに入信!

婦人部大宮支区班長の体験発表の見出しであるが、これは編集部にイチャモンをつけておこう。本文を読むと、この人の父親が入信したのは平成十二年のことである。ゆえに、この見出しはおかしいだろう。本文中の小見出しとしては有効かもしれないが、記事全体の大見出しとしては失格である。普通の感覚で読めば、あたかもつい最近の出来事のように思えてしまうからだ。

さて、問題は次である。女子部第九区班長の体験発表が悩ましい。

 私は昨年三月、男子部の方の折伏により素直に入信させていただきました。

まあ、ここだけならば特に問題ない。

そこに男子部の方々も呼ばれ・・・

さらに、男子部の方と接触できないようにするため・・・

御守護で男子部の方と連絡を取れるようになり・・・


この辺が気になった。普通ならば男子部の○○班長みたいな書き方をするはずなのだが、なぜか上掲のような表現に終始しているのである。この理由が気になって仕方がない。

それとまだ高校生だから大目に見なければいけないのだろうけれども、全体的に浅薄な功徳論に終始しているように思えてならない。一例を挙げれば次のごとくだ。

毎年一、二万円だったお年玉が、今年は七万円ももらえ・・・

う〜ん、確かに大功徳かもしれない。わたくしもその年齢だったら大喜びすることだろう。もちろん、今でも羨ましい額だ。

それはともかく、おそらく次のくだりが最大の問題点だろう。

・・・偏に大聖人様の御守護と、常日ごろ頂く先生のご指導を杖・柱とさせて頂ければこそであり、大聖人様そして浅井先生に対し報恩感謝の念、尽きぬものであります。

会長本仏論の濃厚な文章である。特に杖・柱が気になるところで、これを一般的な表現だと言えなくもないけれども、それこそ浅井先生自らが常日頃から大聖人を杖・柱とすべき旨、言っているわけだから、その部分が浅井先生に摩り替わっている点がひじょうに悩ましいのである。

いずれにしても将来を嘱望される人材と思われるので、今後も顕正新聞に登場する機会があるかもしれない。注目したい。

危険な原発はもういらない!
 高効率火力発電 首都圏で続々建設


これはいい記事だ。浅井先生は当初、石炭火力に無理解だったが、どうやら認識が改まったようである。


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