2015/5/29

悩み多き人生  
先般、匿名キボンヌという奇妙なハンドルネームの人物からコメントを頂戴したので、昨日は挨拶代わりに思うところを少しばかり述べた。すると、早速の返信があった。直前にコメント全文を掲載したので、興味のある人はご覧になられるといいだろう。

やれやれ、何をそんなにムキになっているのか、というのが第一印象であるが、こういうことを書くとますますムキになるかもしれないので、今日は抑制的に書こうかと思う。

小心者・・・

う〜ん、なるほど、鋭い観察眼だ。

文章はウソをつかないというか、ウソをつけないのだろう。拙ブログは個人情報に類することを極力書かずにきた。ゆえにわたくしの氏素性を知る人はいない。その意味で、わたくしが小心者かどうかも本当のところはわからないはずなのだが、見事に言い当てているところが鋭い。

小心者にもいろいろある。

とことん小心者という人もいれば、小心者のクセに虚勢を張る人、あるいは小心者ながら時に大胆な行為をする人もいる。

わたくしは三番目ではないかと自己分析しているわけだが、実際の経験上のことを言えば、その大胆な行為はたいていが失敗に終わることになる。やるんじゃなかった、そうすれば恥をかかずに済んだのに、ということがたくさんあるのだ。なぜ失敗するのか? その原因は心理状態にあるのだと思う。しょせんは小心者なのである。ゆえに大胆なことをする時というのは、いわば異常な心理状態にあるのだ。大袈裟に言えば精神異常であろうか? そんな状態ではうまく行くわけがない。よく言われているのが平常心ということだ。何か大きなことをやる時にどれだけ平常心でいられるか、スポーツの世界でもあるいは音楽芸能の世界でも、平常心が大切であると言われるのはそういうことなのだろう。

ともかく小心者なのだから、そんな大胆なことをせず、とことん小心者に徹すればいい。そうすれば失敗することはない。

しかし、失敗はしないけれども、成功もしない。何もしなければ、成功などあり得ない話である。

当然、そこにはジレンマがあって、何もしなければ失敗もしないが成功もしない、はたしてこんなことでいいのだろうか、という自問自答があるわけだ。それで普段は小心者なのに、ある時には突然のごとくにスイッチが入って大胆なことをしてしまう。しかも、その時にはたいていが精神的バランスを失しているので、うまく行かないのだ。

そういうわけで、わたくしの人生は失敗の連続である。成功体験はゼロ・・・と言えばウソになるが、まあ、プラスマイナスで考えればゼロを通り越して大きくマイナスに傾いているはずである。

さて、すでにお気づきの人もいらっしゃるかと思うが、拙ブログは今月で満十年を迎えた。ある意味、これも成功体験に含まれるかもしれない。あるいは、わたくしの人生にとって、これが最上位(?)の成功体験かもしれないのだ。
たぶん、思うだろう、えっ? これがいちばんの成功体験なの? ずいぶんチンケな人生を送ってきたんだなあ、アナタは・・・
このように思う人がいても不思議はない。それはそうだ。独白ブログである。グチ日記である。それを十年続けたことが人生最上の成功体験だなどと言っているのだから、もはやどうしようもない。

しかも今、痛烈なバッシングを受けている。まさに踏んだり蹴ったりだ。

話を少し戻そう。小心者はアイデアマンである。

いや、厳密には違うのかもしれない。必ずしも小心者=アイデアマンではないのかもしれない。けれどもわたくし自身はわりとアイデアマンのほうだと思う。

これも不甲斐ない話だが、正直に書いておこう。ようするに小心者は実行力がない。頭の中であれこれ考えても実行する勇気がないのだ。そういうわけで実現可能性はほぼゼロにしても、たくさんのアイデアを抱えているのが小心者なのである。

そこに十年前、ふとブログを始めてみようと思い立った。何か遠大な構想があって始めたわけではない。文字どおりグチ日記のつもりで書き始めたのだ。それが意外にも受けた。受けたというのはわたくしの勝手な思い込みかもしれないが、少なくとも各方面からさまざまのコメントが寄せられるようになって、それなりの手応えを感じるようになった。

つまり、実生活ではまるでダメ人間であるが、ブログの世界ではそれなりに活躍できている。実生活では何一つ実現できないアイデアの数々を、ブログの中では実現できる。ようするにブログでは文章化=実現化なのである。

情けない限りだが、ともかく実生活がダメであればあるほど、ブログに傾注する、自分のアイデアの数々をブログの中で実現していく、という循環が起こってくる。

まあ、ここまで書けば十分だろう。

ところで、わたくしの微妙なポジションについて批判があった。どっちつかずのアイマイな態度というか、そういう立ち位置についての批判である。ズルイと映るのかもしれない。

しかし、これはまさに微妙なところである。

なぜならば、もしこれを顕正会の活動会員だとか法華講員などが糾弾するのならば、わかるのだ。ところがそうではなく、いわば無関係の人が批判しているのだ。この意味がわからない。わたくしがわからないというよりも、おそらくは多くの人が理解不能なのではないかと思う。

わたくしの想像を書こう。

先ほども書いたように、拙ブログは十年を越え十一年目に突入した。一回一回のブログにはさまざまのアイデアが注入されている。また、当初は必ずしも方向性が定かではなかったが、十年間の試行錯誤の中で、ほぼ方向性が固まってきた。それはいわばわたくしのオリジナルの方向性であり、スタイルなのだ。

つまり、わたくしのこの微妙なポジショニングというのは一朝一夕に出来上がったものではなく、幾歳月を経て形成されたものである。よって、これは容易にはマネの出来ない、わたくしオリジナルのスタイルなのである。

しかも、そこそこ注目され、好評(?)も博している。これが気に食わないという人がいても不思議はない。たぶん、そんなところだろう。

大まかには以上である。個別の議論は煩瑣になるので控えるが、いくつか確認しておきたい。

貴辺はでは、その大聖人なる人の法門を網羅して理解しているという立場ですか?そういえば、貴辺はきっとそうではないと言うだろう、そこが問題なんですな、深理に達せずに上辺を批判するなら、顕正会の貴辺にとって気に入らない問題有る行動と同じであり、スタンスはただ批判の立場に貴辺がいるだけである。

ひじょうに難解な文章である。ぶっちゃけ、何を言っているのかわからないヒドイ文章である。もし必要ならば修正を施した上で再投稿されたい。

爺さん。

こういうのはいかがなものかと思うが、まあ、そんなことを言っても仕方がないだろう。では、逆にお聞きしたい。かく言う貴辺はまだ相当に若いということになりそうだが、いったい何歳くらいなのだろうか? 差し支えなければお答えいただきたい。

ついでに、貴辺の慧眼ではわたくしを何歳くらいの爺さん(?)と見立てているのか、参考までにお聞かせ願えればと思う。

2015/5/29

匿名キボンヌからのコメント  
2015/5/28 12:39
投稿者:匿名キボンヌ
唐突な拙コメントにわざわざ記事反応して下さり、まずはお礼を述べます。しかし内容的には日蓮系に有りがちの独善臭漂う文章でした。
 
>匿名キボンヌなる人物は、おそらくは「どないする」の作者か、それに列なる立場の者だろう。屈折した性格が文章に滲み出ている。

小心者の管理者が珍しく嫌味を書くとは、驚きました。常にバランスを取ろうとするのは、標的にされることを恐れているからですよね。しかも推測が当たっておれば幸いだが、残念ながら私は貴辺の言うその「どないする」の関係者ではない。今はそれだけ言っておこう。爺さん。

>このように書くと人格攻撃のように思われるかもしれないが、その発端は貴辺にあることを知るべきだろう。

貴辺の常に曖昧を通す態度と敵を作らないよう細心する論調からすれば、私の文章はキツく感じるだろう。しかし貴辺の所属する乃至持ち上げている正宗は、唯一絶対を標榜しているな。

そこにも自身は投じられず、顕正会にも身を置けず、曖昧な態度をとって我賢しと高見の上から目線には、少々は遺文に長けた慢心の匂いがプンプンするな。自分で匂わないか?

○日蓮>元寇の予言ハズレ、下痢十年なおらず、湯治に行く途中で没。
>こういうことを書くのは明らかな挑発行為であり、失礼千万な話だ。

事実でなければ、否定するだけの論拠を持って望めばいいのであり、それをせずに失礼だとか言うのは、貴辺の尊ずる日蓮がかつて諸宗に行った仕業と同じと心得ますが、いかがかな?

>大聖人の御指南に懐疑的だったり顕正会を痛烈に批判したりを繰り返してきたのが拙ブログなのである。前回の拙稿もそのスタイルに変わりはない。

貴辺はでは、その大聖人なる人の法門を網羅して理解しているという立場ですか?そういえば、貴辺はきっとそうではないと言うだろう、そこが問題なんですな、深理に達せずに上辺を批判するなら、顕正会の貴辺にとって気に入らない問題有る行動と同じであり、スタンスはただ批判の立場に貴辺がいるだけである。

何の解決にもならない、具体例もなしにやっているなら、文字通り独白は毒を吐く、近頃叩かれているパラパラ嬢と何ら変わらないではないか。しかもこのブログでは自説の補完のために日蓮遺文をことさら上げて、論じている、それこそが私に一矢放とうとした「衒学」ではないか、それがこのブログにプンプン臭うのだ。

2015/5/28 12:42
投稿者:匿名キボンヌ
>以上、貴辺が勉強家であり、それを誇示したいのはよくわかるが、しかし、そこには自ずと工夫が求められることを知るべきだろう。

衒学(ひけらかし)を言いたいために、こうして一旦相手を持ちあげて、バランスを取って、恨まれないような工夫が年寄りの証拠だな。工夫がどうのと書いているが、貴辺が一番衒学臭いのだ。沖浦氏に理解できないと分かっていて、観心本尊抄の観門の難信難義だのを上げて通解を求めていたが、それは相手を馬鹿にしているのと同じだ。貴辺にはそういうストレートに物を言わずに屈折しねじ曲がった性分が有るようだ。

長居をするつもりはない、私と対論したければ、いつでも掲示板を用意する、たぶん回避するだろうがね、そういえば貴辺にピッタリの遺文が有ったよ。「伝教の御弟子・其の跡をば・つがせ給えども法門は全く御弟子にはあらず、而れども円頓の戒計りは又御弟子ににたり、蝙蝠鳥(へんぷくちょう)のごとし。鳥にもあらず、ねずみにもあらず」(報恩抄・真蹟)

意味はわかるはずだ、我賢しと高見の上から目線の他ならぬ貴方のことだから。



巌虎註:所感は別稿にて述べたい。


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