2015/6/29

鬱屈とした季節  
関の山氏からコメントが寄せられた。前々回の拙稿だ。

実際に、現実的に考えると戒壇自体が時代錯誤、歴史の彼方の思想でしょう。

おっしゃることはゴモットモかと思う。しかし、さらに言うならば、これは戒壇に限った話ではなく、仏法自体が時代錯誤であり歴史の彼方の思想であると主張する人もいるはずなので、もはやそうなると拙ブログの存立理由も失われてしまうことになるだろう。実際、昨夜遅くには、次のようなコメントが寄せられた。

2015/6/29 0:38
投稿者:傍観者v
>戸田先生が御出現なされなければ、大聖人の予言は外れ大聖人は嘘つきとなって、大聖人仏法そのものが全否定されます。

依報にしてる法華経が仏説でない時点で、日蓮の教え自体波状です。
そして、遺文自体も嘘ばかり書いてる嘘つきですね。


戒壇どころの話ではない。大聖人の仏法を全否定するかのごとき激烈なるコメントである。

関の山氏の場合は物凄く真摯というか誠実な感じがして、わたくしの立場としては肯んずることの出来ない内容ではあるものの、それほど悪い気がしない。しかるに傍観者v氏のコメントと来たら、イヤミというか悪意というか、もちろん相手の心のうちはわからないけれども、わたくしとしては物凄く不快である。これは正直な気持ちなので、ありのままに表明させていただいた。

そもそも上掲は沖浦氏に対するコメントなので、わたくしはいつものごとく独白に徹すればそれで済む話である。しかし、看過できないと思った。

まず、氏の立場が不明瞭である。大聖人を否定しているのはわかる。では、釈迦仏法はどうなのか、釈迦仏法すら全否定するつもりなのか、それとも法華経だけを否定する立場なのか、その場合は他に真実の経があると言いたいのか、ならばそれは何なのか、まるで不明である。ようするにイチャモンをつけるだけが目的なのだと、少なくとも現時点ではそのように見なされても文句は言えないだろう。夜な夜なそんなことを書いていて楽しいのだろうか?

もちろん沖浦氏の言っていることもデタラメである。けれども彼の場合は大聖人の仏法を否定しているわけではなく、肯定した上でさらに欲張って戸田城聖氏の存在意義を高らかに謳っているのだ。ゆえにわたくしの立場として反論を構えるならば、戸田氏のくだりだけを咎めればそれでいいのだ。ところが傍観者v氏はヤブカラボウにも大聖人の仏法を否定する挙に出た。

トンチンカンである。

むしろそれならば関の山氏のコメントのほうが遥かにマシだろう。ようするに議論が噛み合っているのだ。拙稿で戒壇について云々していたから、戒壇そのものが時代錯誤であると、このように言ってきたわけだ。そこで本日の冒頭において、戒壇だけではないだろう、仏法そのものが時代錯誤であるとの主張も相当であると、わたくしは返したわけである。

いや、もちろん、わたくしの返答が正解であるとは言い難いところで、あるいは正統派の顕正会員ないし日蓮正宗信徒であれば大聖人の仏法の正義を高らかに宣揚し、かつまた戒壇建立の必要性を訴えるのかもしれない。それが出来ずに自暴自棄的ないし逆ギレ的に、そんなことを言ったら戒壇どころか仏法そのものが時代錯誤となってしまうではないか、などと返答するのもおかしなことなのかもしれないが、まあ、それがわたくしのやり方なのだとご理解いただくしかないだろう。

遺文自体も嘘ばかり書いてる嘘つきですね。

再掲である。沖浦氏のコメントは省略するけれども、確かに上掲は戸田城聖氏が出現しなければ大聖人は嘘つきとなって全否定されるという文言に対応しているようにも読めるところである。しかし、そこに具体性はない。いったいどこがどのようにウソなのか、それをまったく書いていないところがイヤらしい。それ以前に、己の思想信条を表明せず、立場をアイマイにしたままでいるのが、実にイヤらしい。

依報にしてる法華経が仏説でない時点で、日蓮の教え自体波状です。

そして極めつけは、これである。この短い文章において、二箇所の間違いが存すること自体、破綻である。

なんだ、このザマは、と言いたいところだ。

失笑安国論

これは沖浦氏のミスであるが、実にコッケイである。文字どおり失笑を禁じ得ない。しかし、彼は間違いに気づいて、すぐに訂正のコメントを入れている。

しかるに傍観者v氏は書きっ放しで訂正していない。もし間違いにすら気がついていないとしたら最悪だ。

依報

まずはこれである。御書に依報という言葉はたくさん出てくる。しかし、依報にしている法華経などという用法はないはずである。たぶんこれは単純なミスで、依報ではなく依経のことだろう。こういうミスはありがちなことなので、もしこれだけならばわたくしもあえて取り上げることもなかっただろう。問題は次だ。

波状

ハジョウ? なんだろう、これは・・・

たぶん正解は次のごとくだ。

依経にしている法華経が仏説でない時点で、日蓮の教え自体破綻です。

どうでもいいことから書くと、「してる」という表記を「している」に改めた。これはどちらも使われているので前者を間違いとは言えないが、わたくしは後者を使うようにしている。たぶん一般的に、前者は話し言葉であり、柔らかい表現とされていると思う。後者はその逆である。ただ、こういった些細な特徴からも、その人物像が見えてくるという意味がある。文は人なりだ。

そして最大の問題点は波状だろう。波状ではまるで意味が通じない。

ここからはわたくしの勝手な推測に過ぎないが、たぶん破綻と書くつもりがウッカリ波状と書いてしまったのだろう。だとすると、この人物は破綻をハジョウと読んでいることになるわけで、これは正直なところ恥ずかしい間違いである。どうだろう。義務教育レベルなのかどうかわからないが、少なくとも高等教育レベルの国語力があればこんな間違いはしないはずである。ゆえに恥ずかしいのだ。

しかも頭が固い。文章表現はわたくしよりも柔らかいのかもしれないが、頭のほうは固いらしい。

というのは、この問題は単なる国語力の問題ではないのだ。社会人としてそれなりの経験を積んでいれば自ずと身につく語彙のはずである。テレビやラジオのニュースを聞いていれば、たとえば経営破綻といった用語を何度も耳にしているはずなのである。程度の差こそあれ、若い頃に間違えて覚えてしまって、そのまま年齢を重ねてしまうということを、誰もが経験している。わたくしも例外ではない。しかし、途中で間違いに気がつくことが出来るか、そしてこれを修正することが出来るかは、けっこう難しいことである。

だから退会しても日蓮(特に正宗系)という呪縛からは離れられず、法華講であれ創価であれ、逆の移行も含めて、枠の中でカルトサーフィンを繰り返すのです。

ゆえにこうした意見も寄せられるわけだ。ここでは省略するが、この続きの文章にはわたくしへの批判が書かれている。ようするにオマエも例外ではないと言いたいわけなのだろう。

ともかくわたくし自身、頭ではけっこうわかっているつもりである。齢を重ねれば重ねるほど修正が利かなくなる。ゆえに本質的な部分では何も変わっていないし変えられないでいるのかもしれないが、心掛けとしては頭をクリアというかニュートラルというか、ようは柔らかくしておいて、いつでも修正が利くようにと思っているわけである。

この意味で、傍観者v氏はヘンに凝り固まっている。失礼ながらも、これがわたくしの正直な感想である。

2015/6/24

鬱屈とした日常  
沖浦氏は相変わらず意気軒昂である。今日は座談会で御書講義を担当するそうだ。

しかし、唯授一人についての考察はいかがなものかと思った。授と受の違いについて、あれこれと書いているわけだが、話がややこしくてわけがわからない、というのが正直な感想である。

すでにこの件では、あの大月天氏が書いているとおり、御書全集掲載の御義口伝では受と表記されているものの、平成新編ではそれを授に変更している。よって御書に出てくる唯授一人は、いずれも授ということになる。大月天氏によれば授も受も同じことらしいが、今日においては授で統一されているわけだから、沖浦氏の考察は徒労とまでは言わないにしても、あまり意味がないことになりそうだ。

ここでわたくしなりの切り口から言わせてもらえば、おそらくは能所不二というのが一つの真理だろうと思う。沖浦氏は受を勝、授を劣と言いたいのかもしれないが、もしそうだとすれば間違いである。授と受の双方向性こそが法華の深意であると、このように拝するのが正解のはずだ。

無量義経六箇の大事

無量義経五箇の大事


今回、新発見があった。前述の話題で確認作業のために御書を開いていて気がついたのだ。御書全集では六箇、平成新編では五箇、この違いは何だろうか?

理由は知らない。けれども編者も馬鹿ではないだろう。何かしらの理由があって、一箇条削除したはずである。

同様の意味で、受から授への変更も理由があってのことだと考えられる。

已上二百三十一箇条の大事

已上二百廿九箇大事


さらに気になって確認したところ、上掲のような違いを発見した。もう一箇条あるのだ。さて、どこだろう。

法師品十六箇の大事

法師品十五箇の大事


これである。ただし、内容を確認したところ、平成新編では御書全集の第十四と第十五を一つにまとめて一箇条としているごとくなので、実質的な変更はないことになりそうだ。

では、無量義経のほうはどうなのか、改めて確認してみた。やはり同様に、二箇条を一つにまとめて一箇条としているので、内容的には変更なしのようである。

う〜ん、これは逆に悩ましい。

五字七字

理由はこれである。題目を五字と言ったり七字と言ったりするが、これは南無を冠するか否かの違いである。実に明快だ。

ところがである。もしこれが六字だったり八字だったりしたら、わけがわからなくなる。

理屈は同じだろう。五箇の大事と題するものが、増えたり減ったりしたら、おかしいだろう。何しろ「大事」と題するくらいなのである。ここに数字の不同があること自体、ひじょうに不可解なことである。

さて、この合理的説明は可能なのだろうか? 何か名案があれば、ぜひとも伺ってみたいものである。

2015/6/22

鬱屈とした毎日  
唯授一人の血脈相承について言えば、わたくしには沖浦氏を納得させるだけの用意がない、というのが結論である。ようするに御相伝書を用いるか否か、これが重要なポイントであって、もはや沖浦氏はそれを認めない立場なのだろう。だったら話は終わりである。これは前回も繰り返し言ったはずである。

それにしても沖浦氏は唯授一人とは書かず唯綬一人と書く、何か理由があるのだろうか?

 大聖人仏法が世界で10億人ほどの方が実践する時、世界にシンボルとしての戒壇建立の必要性が生まれます。

シンボル?

たぶん何の気なしに使った表現なのだろうけれども、まあ、これが沖浦氏の本門戒壇に対する理解度を示しているのだろう。本尊を道具と言ったり、戒壇をシンボルと言ったり、するとどうだろう、さしずめ題目はスローガンとか、そんな感じなのだろうか?

大聖人の仏法は三大秘法である。この三大秘法を名目だけで示せば、本尊と戒壇と題目ということになる。これを道具だのシンボルだのスローガンだのと言い換えてみるとどうなるか、である。ずいぶんチンケな感じがするのではないかと思う。つまりは推尊入卑ということだ。

アゲアシ取りの気味が感じられなくもないが、もう一つだけ指摘しておこう。

 殊更、伽藍としての戒壇建立にこだわる必要はございません。

このように言っていた人がである。

・・・シンボルとしての戒壇建立の必要性が生まれます。

と言うのだ。

伽藍としての戒壇建立は不必要だが、シンボルとしての戒壇建立は必要であると・・・二文を合体させれば、こうなるだろう。オイオイ、いったい何なのだ。

アゲアシ取りであるのは事実だろう。しかし、沖浦氏の理解度がこのテイタラクだというのも事実なのだ。そもそもが御書をもって説明すべしと言っておいたのに、それが出来ていないのだからどうしようもない。

ちなみに池田大作氏だったろうか、戒壇建立をモニュメントのような意味合いで言っていたことがあるけれども、これも間違いである。師匠がモニュメントと言い、弟子がシンボルと言う。師匠も師匠だが、弟子も弟子だ。カタカナ語というのは何となくわかったような気にさせてくれる意味で、ひじょうに好都合の言語である。しかし、実際には何もわかっていない。

じゃあ、オマエはわかっているのか?

このように問われれば、わかりません、と答える以外にない。大聖人の仏法をわかったつもりになるのがいちばん危ない。そしてわからない場合、さしあたっては御書の文言を忠実に拝する。これが正解である。ようは解釈をしない。解釈というものは、得てして自分の都合で文意をねじ曲げてしまうものだからだ。

以上で終わりにしよう。

ニワカ感などとずいぶん失礼なことを書いてしまったが、事実は事実である。誰もわかっちゃいない。もちろん、わたくしもである。

逆にわたくしの場合は、わからないことは正直にそのように言う習慣が身についていて、知ったかぶりをしないのだ。ゆえに今回は冒頭において唯授一人のことを書いた。結論はわからないということだ。けれどもこれは、ある意味では当たり前の話である。何しろわたくしは相承を受けていないのだから、わからなくて当然なのだ。わかっちゃったらおかしいだろう。

沖浦氏からは、これ以外に五人所破抄を中心とした詳細な論考が寄せられているが、割愛させていただくことにする。

2015/6/21

ニワカ感いっぱいの沖浦流法門  
何やら冨士大石寺顕正会研究所というブログがあるとの情報が寄せられた。そこでさっそく検索してみたら、櫻川氏の立ち上げたサイトだった。あれれ? 「顕正会の崩壊は近い」のほうはどうしちゃったのかなと思って、久しぶりに覘いてみたら、なんとこちらのほうも存在していた。しかも一年数ヶ月ぶりくらいになるだろうか、一気に更新されていた。

ともかく一年以上動きがなかったので、いずれはネタにしようかと思っていた。すなわち、顕正会の崩壊は近いなどと言っておきながら、自分のほうが先に崩壊しちゃったではないか、というようなツッコミを書こうと考えていたのだ。しかし、更新されてしまったので、このネタはボツである。

それにしてもサイトを複数掛け持ちする意味というかネライがよくわからない。あるいはキャッチーなネーミングをつけることによって注目度を上げようとしているのだろうか?

確かに研究所もうまいネーミングではある。しかし、じゃっかん紛らわしい意味もあるだろう。ようするに冨士大石寺顕正会が運営する研究所とも読めてしまうからだ。

いずれにしても当該サイトはまだ工事中であって、看板は掲げたものの中身はほとんどカラッポの状態である。今後、どのような進展を遂げるのか、注目したいと思う。

さて、話は変わる。

沖浦氏は顕正会員との対話を欲しているごとくであるが、どうも実現は難しそうである。すでにノッケから話にならない、そんな感じが否めないところである。

氏はどこからか浅井先生の発言を引っ張り出してきて次のごとく言っている。

 大きな間違いが二か所ございます。

 興師が大聖人仏法の全てを付属された。
 本門戒壇建立を御遺命された。

 これらは御書にございません。


顕正会では一期弘法付嘱書にこの二つが厳然と説かれていると言っている。しかし、沖浦氏は身延相承書を認めないわけだろう。そこで話はオシマイである。

いわゆる創価学会版の御書にも掲載されているはずの相承書をである。あろうことか沖浦氏は否定してしまっている。もはやこれではお話にならない。同じ土俵で戦うことはできない。顕正会では八百万学会員を救う戦いを展開中であるが、残念ながら沖浦氏は救えない。たぶん大方の顕正会員はそう思っているはずである。無慈悲なようだが仕方がない。沖浦氏の側にも問題があることを自覚すべきだろう。

それにしても支離滅裂感は否めない。

 これらは御書にございません。

再掲であるが、この後が問題である。御義口伝は難しいので省こう。その続きが問題なのだ。

 戒壇は御書にあります。

御書にありませんと言った人が、続きの文章で御書にありますと言っている。これほどの矛盾もあるまい。

そして三大秘法抄の戒壇についての御指南を引用した後で、沖浦氏は次のように言っている。

 日本に建てる必要はこの御文から読み取れません。
 更に、戒壇建立は広宣流布の社会で、自然の中で実現します。
 殊更、伽藍としての戒壇建立にこだわる必要はございません。


先ほど、話にならないと書いたわけだが、これは顕正会員的には当然のことである。身延相承書には富士山と明確に示されている。しかるに沖浦氏は富士山どころか日本に建てる必要すらないと言っているのだ。確かに三大秘法抄においては富士山かどうかもわからないし、さらには日本に建てる必要があるかどうかもわからない。これは氏の言っていることも相当である。あえて詳細に論じるならば、王臣一同の王臣とは何か、勅宣御教書とは何か、ということがポイントとなる。まあ、普通に考えれば自ずと結論は一緒のはずだ。つまり、日本に建てる必要があるかどうかではなく、日本に建てるのが理の当然ということになるはずなのだ。

以上、顕正会では三大秘法抄はもちろんのこと一期弘法抄やその他の御相伝書、さらには歴代上人の御指南を踏まえて総合的に判断して、国立戒壇建立を主張しているわけである。俄か勉強の沖浦氏が何を言ったところで、どうにもならないだろう。

それにしても、戒壇建立は広宣流布の社会で自然の中で実現するとか、伽藍としての戒壇建立にこだわる必要はないとか、いったい何を根拠に言っているのだろうか?

当然、これは御書をもって証明しなければいけないだろう。

ようするに、沖浦氏は浅井先生の発言を取り上げて大きな間違いが二つあると言い、これらは御書にないとまで言っているのだ。ならばご自身の主張も御書をもって説明しなければいけないだろう。それが出来なければ、これほどの自家撞着もあるまい。いわゆるブーメランだ。

 爰に日興云はく、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河富士山は是日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ。仍って広宣流布の時至り国王此の法門を用ひらるゝの時は、必ず富士山に立てらるべきなり。

御書全集にも載っているはずだが、沖浦氏はこれを認めないのだろうか?

だとすれば、ここで議論はオシマイである。

なお、伽藍としての戒壇建立にこだわる必要はないというのはわからなくもない。いわば仏法の通例として伽藍を建立するわけであって、戒壇建立の意義はそれとは別次元のものだという考え方は有力である。俗に仏作って魂入れずと同じで、いくら立派な建物をこさえてもそこに魂がなければ無意味なのだ。ゆえに三大秘法抄ではその前提条件として、有徳王覚徳比丘の故事が示されているのである。その上で戒壇が建立されるのだ。

よって、戒壇建立を主張する者に対して、伽藍にこだわる必要はないなどと言うのは、まるで皮相的な上っ面だけの批判であって、何の説得力もないことを知るべきである。

再度、問おう。

更に、戒壇建立は広宣流布の社会で、自然の中で実現します。

これはどういう意味か、いったい何を根拠に言っているのか、沖浦氏にはぜひともお答えいただきたいものである。

2015/6/20

沖縄独立問題を中心に  
コメント欄の勢力図(?)は相変わらずである。

……日本は、今日も平和ですね。

このようなイミシンのコメントが冒頭に寄せられたかと思うと、その後はいつものごとく創価学会員同士の言い争いが始まり、まったく収拾がつかない状態である。そんなに楽しいのだろうか?

そういうわけで、拙稿に対応するコメントは少ない。もっとも、少ないほうがわたくしとしても楽なのだが・・・

顕正会員たちは大御本尊が意に染まぬ御開扉(さらに言えば拝んだ人間がかえって罪障を積んでしまう御開扉)をそんなに何十年も放置するほど力のない御本尊とでも思っているのでしょうか?

これはなかなか鋭い。逆に何十年も破門が解かれない顕正会のほうにこそ、何かしらの問題が存すると考えるべきなのだろう。その自分たちの立場を正当化する意味で、不敬の御開扉などと言っているだけなのだと、こう見られても仕方がないところである。なぜならば解散処分以前には何度も御登山の申請をしていたという事実があるからであって、この矛盾がある以上は何を言っても空しいだけである。

顕正会が建てようとしている国立戒壇・・・

拙稿であるが、不適切との指摘があった。ようするに顕正会が建てたのでは国立ではなくなってしまうということだ。まったくそのとおりである。わたくし自身、年がら年中、顕正新聞にツッコミを入れているので、こうした些細な文章表現には敏感である。ゆえに書いている段階で、これはやや不適切かもしれないなと思いつつも筆を進めていたのだった。

よって、ご指摘はまったくそのとおりなのであるが、あえてわたくし流の解釈を付加するならば、これはイヤミを込めた表現だということなのである。

ご存知のごとく、顕正会はある時期から正本堂を偽戒壇と呼ぶようになった。当初はそのような表現を使っていなかった。なぜならば、宗門ないし創価学会の首脳陣との話し合いによって正本堂の意義が改められればそれでよかったからであり、何も正本堂を全否定する必要はなかったからである。ゆえに先ほども書いたように、正本堂完成後においてすら登山の申請をしているのである。つまり、偽戒壇と呼ぶようになったのは相当に後のことなのだ。
では、当初はどのように言っていたのかであるが、ようするに宗門ないし創価学会が私的に建てたに過ぎない正本堂がどうして御遺命の戒壇と言えるのか、というのが顕正会側の主張だったわけである。つまり、御遺命の戒壇は公的に建てられなければならない、すなわち国立戒壇でなければいけない、と言っていたわけなのだ。
ところがである。かくも立派なことを言っている顕正会のテイタラクはご存知のごとくであって、とてもじゃないが国立戒壇はムリである。すると、あるいは近い将来(?)、顕正会は自分たちで私的に国立戒壇を建てるのかもしれない。当然、その施設はタタミ敷きであって、入り口に下駄箱があって、そこで靴を脱いで御宝前に詣でるのだろう。すなわち今現在、全国各地に建っている顕正会の会館そのものである。彼らはそういう貧弱な発想しか持っていないのだ。

以上、やや言い訳がましいことを承知しつつも、これでくだんの拙稿がイヤミを込めたものだったことが伝わったのではないかと思う。

「新しい冷戦」始まる、世界は無秩序へ

 世界の動きは「前代未聞の大闘諍」へ
「沖縄独立」こそ最大の自界叛逆の難


顕正新聞第1345号の一面ないし二面の見出しから抜き出したものである。

当該号は五月度総幹部会の特集号であり、会長講演の目玉はまさに上掲に尽きていると思う。沖縄独立問題については先般の尾道講演でも触れられているが、今回の講演に詳しいので拙ブログでは取り上げなかった。

さて、新しい冷戦であるが、これはたぶん既存のメディアなどで言っていることなのだろう。まさか浅井先生が世界で初めて(始めて?)というわけではないと思う。

しかし、どうだろう。新しい冷戦から前代未聞の大闘諍の流れはある意味、浅井先生独自の見解かもしれない。そもそも冷戦というのは大国同士が戦力を保持しつつも行使せず睨み合いを続けている状態を言うのだと思う。かつてのソ連邦と米国の関係がそうだった。ところがソ連の崩壊によって米ソ冷戦の時代は終わった。折りしも、平成二年の横浜アリーナ大総会において、浅井先生は言った。世界は新たな戦国時代に突入すると。

この先生の見通しは正しかった。しかし、ここに来て、新たな冷戦の時代に突入したとすると、これは歴史の逆行のようにも思える。逆行が不適切であれば、循環だろうか?

つまり、この意味で言うと、先生の見通しは間違っていたことになるのだ。ようするに、今後は再び大国同士の睨み合いが始まり、いわばその睨めっこに負けた国がかつてのソ連のようになる。そこで再び新たな戦国時代が始まるわけだ。

おわかりだろう。この一つ前の戦国時代はどうだったのかということだ。浅井先生はそれを前代未聞の大闘諍と言っていたはずなのである。そこで一気に広宣流布が達成されるというシナリオだった。ところがここに来て再び新しい冷戦が始まったという。そしてこの後に前代未聞の大闘諍が訪れるという。

ようするに、顕正会がモタモタしている間に、歴史は再循環を繰り返しているのだ。つまり、顕正会と関係なく歴史は動いている。

先ほど、浅井先生独自の見解と書いた。

しかし、現実は先生の思っているようにはならない。その理由は何だろうか?

いつも言っているように凡夫には未来がわからない。これが最大の理由だが、もうちょっと別の角度から言おう。

浅井先生は、日本ないし世界の歴史の中において、顕正会を主役に位置づけようとしている。もう一つには、すでに創価学会などが指摘しているごとく、御書の記述をそっくりそのまま現実の世界に当てはめようとしている。これが原因なのだ。

いや、もちろん、上述における後半はそれでいいのかもしれない。御本仏の御指南を絶対と信ずることは強ち悪いことではない。しかし、前半が問題なのだ。顕正会が主役だというのが最大の思い上がりである。むしろ思いどおりにならなくて当然なのだ。アンタたちナニサマのつもりなの? ということなのである。

あるいは大聖人が、この顕正会の慢心ぶりを戒めるために、常に浅井発言とは逆の方向に向かわしめているのかもしれない・・・と思いたくなるくらい、先生の発言は当たらない。

そうそう、正直に書いておくが、今回の会長講演も力作であって、ひじょうに面白い。不勉強のわたくしにとっては貴重な情報源である。

しかし、だからと言って矛を収めるつもりはない。

 もし沖縄が独立したら、これほどの自界叛逆の大難はない。

大反対である。理由は二点、まず御書の記述に合致しないこと、そしてもう一点は独立の何が悪いのか、ということである。

一点目は先生も自覚があるのだろう。続きの文章にはこのように書かれている。

国内における日本人同士の争いだけでなく、国土が分裂してしまうのです。

自界叛逆とは同士討ちのことである。沖縄独立のいったいどこが同士討ちなのだろうか?

今、世界中で紛争が起きている。他国との紛争のみならず、自国での紛争もたくさんある。いわゆる内戦だ。つまりは現実問題として、世界中で罪のない人たちの命が奪われている。ことに内戦は自国民同士で殺し合うのだから悲惨である。

これでおわかりだろう。沖縄独立は自界叛逆ではない。少なくとも最大の自界叛逆ではない。世界各地の紛争ないし内戦と比較すれば、一目瞭然である。もし平和裏に独立がなされるのであれば、これほどメデタイこともあるまいと思う。

教条主義のはずの顕正会が御書の記述と合わないことを主張している。もちろん解釈には幅があるので沖縄独立を自界叛逆と言えなくもないが、すでに述べたごとく、これを最大の自界叛逆であると言うのは間違いだろう。

そして二点目である。

あるいは読者諸氏は、わたくしが沖縄独立に賛成であるかのように錯覚するかもしれない。そう、それはまさに錯覚であって、必ずしも賛成ではない。では、反対なのか? 実はそれも違うのである。

わたくしは沖縄と無縁である。親戚はもとより友人知人もいない。旅行にも行ったことがない。ゆえに利害関係はない。

ゆえに多少は他人事のような感じがなくもないが、結論は簡単である。沖縄県民の民意を尊重すべし、ということである。つまり、彼らが独立を希望するならば、それでいいし、独立を希望しないならば、それでいい、ということなのである。

上からの目線・・・

安倍政権の慢心という小見出しのついた一段に上掲のような記述がある。今の人たちは「上から目線」と表現するけれども、先生はなぜかご覧のように言っている。もちろん同じ意味だろう。

それにしても思うのだ。浅井先生だってずいぶんと上から目線ではないかと。

ようするに沖縄独立を悪いことのように言っている時点で上から目線なのだ。わたくしはこうして偉そうな文章を書いているが、言っていることはあくまで民意の尊重である。もし合法的に、平和裏に、独立するのであれば、それでいいと思う。

先般、大阪で住民投票が行なわれた。結果は周知のとおりである。わたくしは大阪とは無縁である。ゆえにどちらに転んでもよかった。つまり、これも民意が尊重されるべきことなのだ。

ひるがえって沖縄独立を考える時、当然ながら大阪都構想の比ではない難解な問題が山積であることは、愚鈍のわたくしにだってわかることだ。細かいことを言えば、離島の帰属の問題がある。沖縄本島は独立賛成であったとしても、離島のいずれかは反対かもしれない。また、それに伴なって領海の問題もややこしくなる。安全保障の問題も深刻で、独立国を目指すのならば独自の軍隊が必要となるかもしれない。今の段階ではユートピア的に独立願望を懐いている人たちも、いざ現実に目を向けた時には相当に頭を悩ますことになるだろう。

さて、前後するが、会長講演には次のようなくだりがある。

 大聖人様は、他国侵逼の前に自界叛逆の難があることを、成道御書を始め多くの御書にお示し下されている。

出た。またしても予言である。

え? これのどこが予言なの? と思う人がいるかもしれないので、説明しよう。

今、顕正会は四年後の二百万を見つめて戦っている。その先に待っているのが二千二十年代に起こるであろう他国侵逼の大難である。具体的には中国による日本侵略ということだ。

つまり、この前段階として自界叛逆が起こると言っているわけなのである。それを沖縄独立であると、具体的に言ってしまっているのだ。ならば当たるも八卦当たらぬも八卦(?)、いずれ先生の言っていたことの答えが出ることになるのだ。

しかし、先ほども言ったように、沖縄独立は簡単なようで簡単ではない。もし合法的・平和裏に実現するのであれば、それ相応の時間を要することになる。また、そうした方法によるのであれば、それはもはや自界叛逆ではない。つまりはクーデター的にでも事が行なわれない限りは、またしても先生の予言は外れたことになるのだ。

やれやれ、である。

最後に、甚だ手順前後ではあるが、会長講演の最初のほうに出てくる一節を紹介して終わろう。

 このとき、顕正会は二百万・五百万・一千万さらに大きな力となって・・・

二百万は見えた。しかし、五百万はどうだろう。ちょっと見えない。一千万はまるで見えない。何を言ったところで、これが顕正会の現実なのである。

2015/6/18

鬱屈とした日々  
ネガティブな表題ばかりが続いていることへの疑問が発せられた。さすがは小説家である。目の付け所が違う。

わたくしの目標は同じタイトルを使わないことだ。ともかく少しでも違ったタイトルをつける。こうすれば投稿数がそのままイコールでタイトル数になる。
けれども、もしかしたらすでに同一タイトルのブログが存在するかもしれない。毎回、確認していないのでわからないけれども、あるいは過去の拙稿に同一タイトルのものが存在するかもしれない。
もしそうだとすると、わたくしの実験(?)はそれなりに有意義だったことになるだろう。

平成新編の例言には次のような記述がある。

寿量品得意抄は開目抄の一部と同文の重複書であり、伝承にも疑義があるため不収録とした。

伝承云々についてはまったく知らないので何とも言えないが、単に文章が同一だからとの理由で偽書の烙印を捺すことは出来ない。大聖人自らが書き写された可能性もあるからだ。
平成新編では他にも重複書をいくつか挙げており、なるほど御書全集の編纂時期から相当の年月を経ただけあって、それなりに研究が進んでいることを窺わせるものである。

しからば次のようなケースはどうなのだろうか?

此の御文は藤四郎殿の女房と、常によりあひて御覧あるべく候。

此の文は藤四郎殿女房と常により合ひて御覧あるべく候。


これは一字一句まったく同じというわけではないにしても、かなり似通った御文である。これをどのように考えればいいのだろうか? 

ということで拙ブログに話を戻すと、タイトルのみならず本文中においても重複する文章がいくつも存在するだろうことは確実である。何しろ書いている人間が一人なのである。その脳ミソなど高が知れている。すると毎度毎度、同じようなことを書いてしまっているのも頷けるわけで、俗に言う、馬鹿の一つ覚えということである。

すると、わたくしとしては意識的に、表現はもちろんのこと取り上げるテーマにしてもその取り上げ方にしても、さまざまの工夫を凝らして書いているつもりなのだが、それでも似たり寄ったりの文章になってしまうことは仕方がないと思うのだ。

恐れ多いことながら、これは大聖人にも幾分かは当てはまることなのだろう。すると重複書として退けてしまった御書の中にも、あるいは再検討を要するようなものが存在するかもしれない。これがわたくしの実験の意味である。もちろん拙ブログの実験がそっくりそのまま御書に援用できるわけではないが、何かしらのヒントにはなるだろう。

ちなみにネガティブ云々はもともとの性向であって、オチブレ会員だとかグチ日記という副題からすればツジツマが合っているので、それほど違和感はないはずだ。

さて、顕正新聞第1344号に移ろう。

大聖人様の仰せを信心の耳で聞き奉られる先生のご発言ゆえに、諸天が感応する・・・

 まさに日寛上人は、すべてを先生のためにお残しになられたのだ・・・


あれ? と思う人がいれば、拙ブログをよくお読みになっている証拠だろう。実は前号に同文が存在する。もちろん同一人物の記事だ。前号は班長会での登壇で、今号は茨城男子部集会での登壇とのことだ。馬鹿の一つ覚えということか?

言っちゃ悪いが、そもそも浅井先生が馬鹿の一つ覚えなのだから、その弟子たちがそうなのは当然だかもしれない。よく言えば一貫不変ということなのだが・・・

全人類の存亡をかけ、いよいよ最後の戦いに立たれる先生のご雄姿を拝する時・・・

第十九男子部長のこの発言は凄い。現実と空想の境界線がどこにあるのか、まるで不明である。これをドラマの中の話であると割り切って感動に浸るのであれば、問題はない。誰もがやっていることである。しかし、現実の世界のことだと錯覚してしまうと、困る。世間一般の常識人にはまったく通用しないからだ。

「後代の君子」とは先生であられる・・・

婦人部総務・第九婦人部長の発言である。浅井先生が日寛上人の御指南を誰よりもよく学んできたことは事実なのだろうと思う。ゆえに彼女の言いたいこともよくわかるのだが、いつも言っているように持ち上げ過ぎてはいけない。

次は女子部総務・第三十五女子部長の発言であるが、これは逆にわたくしのほうが過剰に反応し過ぎているのかもしれない。

先生のご悲憤はいかばかりか。

実は顕正新聞第457号という古い新聞に次のような大見出しが踊っているのだ。

宗開両祖の御悲憤いかばかり

ようするに表現の類似性からして、あたかも浅井先生が大聖人・日興上人に肩を並べる存在のように読めてしまうのである。もちろん穿ち過ぎと言われればそのとおりだろう。ゆえに過剰に反応し過ぎているのかもしれないと書いたのだ。

いずれにしても幹部たちは先生を持ち上げ過ぎている。この事実は動かない。今後もチェックを続けて行きたいと思う。

準特集号を拝読して

こういうタイトルの記事がある。ようするに準特集号とは顕正新聞編集部も認める公式な表現なのだろう。前にも指摘したが、これはケッタイな表現だと思う。

医師の検視が終わると・・・

婦人部沼津支区班長の母親が亡くなった。検視は検死と書くべきなのかどうか、ちょっとわからないけれども、ともかく違和感のある文章だ。まるで変死体のような印象を拭えない。けれども亡くなったのは病院なのである。まさか病室で誰もいない間に亡くなってしまったとか、そんなことなのだろうか?

「白血病の腫瘍がすべてなくなっている」

こちらは男子部八十五隊組長の体験発表であるが、医師の発言だそうである。素人のわたくしにはやや違和感がある。読者諸氏はいかがだろうか?

ようするに腫瘍とは癌のことであり、わたくしのイメージとしては固形の癌を腫瘍と呼ぶのだと思う。そしてご存知のごとく白血病は血液の癌と呼ばれるものであり、通常の固形癌とは異なる。ゆえに違和感があるのだが、もちろん専門家ではないのでその正否はわからない。

ひるがえって前掲の検視についても同様であって、その正否はわからない。いちおう素人感覚として思うところを述べさせていただいた次第である。

婦人部港北支区組長の記事は興味深い。

 当時「正本堂への一回の登山は、百万遍のお題目に匹敵する」と聞かされ・・・

創価学会員時代に聞かされた話のようだが、本当だろうか? 当然、今はそんなことを言う道理もないわけだが、いずれにしても百万遍という数字の根拠が気になるところである。

 正本堂内はまるでコンサート会場のような造りで、土足のまま御本尊様を見下ろす椅子席には、申し訳ない思いでいっぱいになりました。

う〜ん、これは悩ましい。そもそも彼女が当時からそのような思いを懐いていたのかどうか、そこがアヤシイところだと思う。むしろ上掲は顕正会的思考に基づくものだと考えられる。

それはともかくである。

もし土足がケシカランとするならば、近い将来(?)顕正会が建てようとしている国立戒壇はタタミ敷きなのだろうか?

これはとてつもなく難しい課題だと思う。まずは収容人数である。何人を想定しているのか? もし万単位だとしたら大変である。何畳敷きの建物になるのかも問題であるが、その分の下駄箱を設えるのも大変なことである。そして実際問題として、下足の間違いだとかが起これば、それだけでパニックにもなりかねない。

こうして見ると、顕正会は夢物語ばかりを追い求めているだけで、何一つ現実を見つめていないことが明らかのように思える。

 私は顕正会に入会してより二五年になりますが、常に「御本尊様絶対」を口にするも、逆縁者の怨嫉に負け、対象者が尽きてくると未活動になることを何度も繰り返して来ました。

もっとも注目すべきくだりかもしれない。正本堂のことや国立戒壇の詳細を云々する以前に、顕正会員の実情をよく示している意味で重要だと思う。全員がそうではないにしても、こうした人たちが相当数いることは確実である。

最後に、関西方面で行なわれた女子部集会における一班長の登壇から、紹介したい。

数百万円の借金も過払い請求により一千万円の返金を受ける・・・

何だこりゃ、元本よりも利息のほうが大きくなっていたということか? それにしても凄い話である。

2015/6/14

鬱々とした気分  
沖浦氏の凄いところは天井知らずの向上心であろう。もう現状に満足しても誰も文句は言わないはずなのに、さらなる飛躍を目指している。これは簡単なことではない。実際、スポーツ選手は必ず限界を迎える。いずれは記録が伸びなくなり、やがて現状維持も覚束なくなり、そして下降をたどることになる。例外はないはずだ。ところが沖浦氏は今も成長し続けている。これはもう、それだけで凄いことである。わたくしも沖浦氏をお手本に頑張りたいと思う。問題は、何を頑張るか、であるが・・・

さて、話を変えよう。

関の山氏ご紹介の本をまったく読んでいないので、これから書くことは見当違いかもしれないと、あらかじめ言っておこう。

無償の奉仕は尊い。これはたぶん絶対的に正しいことだと思う。

ただし、そこには大前提がある。自主性ということだ。この自主性の有無が重要で、もしその無償の奉仕が自主性に基づかないものだとしたら、大問題となる。自主性に基づかないということは、いわば強制である。つまりは奴隷みたいなものであろう。

前回、夜間衛護をやめて警備会社と契約すべし、と書いた。

これは大沢氏の証言から、顕正会の夜間衛護はなり手がいない、だったら警備会社を雇ったほうがいいだろうと思って、その旨を提案したわけであるが、衛護のなり手がいないということは、少数の人間が負担を強いられることになるわけで、それは明らかに問題である。最初のうちは御奉公の一環ということで、喜々として衛護を務めていたのかもしれない。しかし、なり手がいなければ、その人への負担が大きくなって、喜んでばかりはいられなくなるだろう。やがては義務感だけで任務をこなすことにもなりかねない。もはやそうなると、自主性ではなく強制である。こんな状態では堪らない。だからだろう、あれほど熱心に活動していた人がなぜに退転したのか、というようなケースがあるけれども、そのうちの一定数は上述のような原因によるものと考えられるのだ。

実に馬鹿らしい話である。だったらお金でケリをつけたほうがいいだろうと思って、警備会社を提案したのだった。

無償の奉仕は尊いけれども、そこには自主性が必要である、もし自主性がなければ強制になる、強制は絶対にいけない、当たり前の話である。ことに宗教団体における無償の奉仕には危険が付きまとう。当然ながらここでの危険は危険な業務という意味ではなく、本来は自主性に基づいて奉仕していたはずが、いつの間にか義務感でイヤイヤ奉仕させられているという結果に陥りやすい、という意味である。

その原因はどこにあるのだろうか?

おそらくその原因は使命感にあるのだろう。使命感と書けばカッコイイけれども、それがいずれは義務感に変化することになる。なぜならば、その使命感にもホンモノとニセモノとの二種類があるからで、ようはニセモノの使命感こそが実は義務感に他ならないのである。

ここでも自主性という言葉が当てはまるかもしれない。

ようするに自らの意志で使命感を懐いたのか、それとも他者から使命感を植え付けられたのか、である。前者は自主性そのものであるが後者は違うだろう。後者を大袈裟に言えば、洗脳だとかマインドコントロールみたいな言い方になるのかもしれない。

本人は自分の意志だと思っていても、実はそれが他者から植え付けられたものだという場合も少なくない。宗教団体の場合は信者の大半がそうかもしれないのだ。

もしそうだとすれば、これほど危険な話もあるまい。

さて、話を少し戻して、関の山氏ご紹介の本は新興宗教の金儲けの手口を云々するもののごとくである。これは実に興味深い話であって読んでみたいという思いはあるが、冒頭に記したごとく読んではいない。

いずれにしても顕正会の場合は少し事情が異なるような気がする。

まず、無償の奉仕は尊いと書いた。どうも宗教関連で書いていると、それが何ともイヤらしいもののように思えてしまうわけだが、原理原則的な意味ではあくまで尊い行為、それが無償の奉仕である。なぜならば、これは宗教団体に限った話ではないからだ。あらゆる個人ないし団体が行なっていること、それが無償の奉仕である。ボランティア活動と書いたほうがわかりやすいかもしれない。極端な話、どこの団体にも属さす、個人でボランティアをやっている人がいれば、これはもう純粋無垢の無償の奉仕であって、そこにイヤらしさはない。実に尊い行為である。つまり、無償の奉仕は宗教団体の専売特許ではなく、ありとあらゆる分野に存在するものなのだ。

けれども、それと同時にまた、世の中にはインチキ商売がたくさん存在するわけで、それがために無償の奉仕などと言うと、逆に何か裏があるに違いないと思われてしまうのも事実である。そのインチキ商売の代表的存在が新興宗教なのかもしれない。

では顕正会もそのうちの一つなのだろうか?

ここでわたくしが否と言ったところで説得力はあるまい。ゆえにもう少し具体的に話を進めよう。ようは集金システムがどうなっているかがポイントなのだ。

信者が教団に使役させられているとする。自分では自主的にやっているつもりでも、実は使命感を植え付けられて、うまく使われてしまっているというケースがあるのだ。具体的には折伏がそうなのかもしれない。

けれども、ただそれだけならば教団にお金は入ってこない。信者が増えるだけの話である。

そこに年一回の広布御供養がある。上限が八万円なのだそうだ。つまり、これが顕正会における集金システムなのである。信者が増えれば収入も増える。当たり前の話である。

顕正会の活動会員は折伏という無償の奉仕によって、教団の集金システムに加担していることになる。

しかし、どうだろう。他の教団がどのようにして金儲けをしているのか知らないので断定的には言えないが、顕正会はかなり良心的なのではないかと思う。

ただし、顕正新聞の多重購読の問題がある。これは拙ブログでも再三にわたって取り上げてきたことだ。

ようするに広布御供養は良心的である。いちおうそのように結論しておこう。けれども顕正新聞のほうはかなり問題である。なぜならば上限がないからである。広布御供養で上限をウリにするのであれば、顕正新聞もまた同じ理屈でなければいけないはずなのだ。ところが現実には一人で百部も取っていたという話がある。これはもう世間の常識を逸脱している。一般紙を一人で百部も取っている人がいるわけがない。ごく普通の家庭であれば一部でじゅうぶんだろう。つまり、残りの九十九部は金をドブに捨てているに等しいわけで、顕正会で言えば組織に寄付しているのと同じことである。この実態を知れば、広布御供養の上限など何の自慢にもならない。欺瞞である。

さしあたって問題となるのは、そのあたりだろうか?

繰り返しになるが、無償の奉仕は尊いことであり、それは顕正会においても同じである。もし上述の広布御供養や顕正新聞の欺瞞が完全に解消されたならば、わたくしは何の問題もないと思う。顕正会は金儲けとは無縁の宗教団体であると、胸を張って言えると思う。

ただし、これまた繰り返しになるが、その無償の奉仕の原動力となるべきものが何かが重要であり、もしそれが植え付けられた使命感によるものならば、問題である。

浅井先生による、日本に残された時間は少ないだとか、広宣流布に戦う資格を有するは顕正会のみだとか、そういった類の発言は枚挙に暇がない。その先生の発言を聞いて、活動会員たちは使命感を燃やすわけである。しかし、燃え尽きていく人たちも少なくない。顕正会はこれを繰り返してきた。たぶん今後も同じことの繰り返しなのだろう。

以上、顕正会による金銭的被害は他の金儲け主義の宗教団体に比べれば微々たるものであって問題視するほどのことはないと思うが、一方で無償の奉仕という名の使役が深刻なのかもしれない。あるいは、その被害は金銭的被害の比ではなく、もしかしたら金銭では購い切れないほどの大被害かもしれないのだ。

2015/6/8

鬱々とした日常  
大沢氏より重ね重ね貴重なコメントをたまわっている。とりわけ本部会館の警備についての証言は貴重である。今、警備と書いたが、これを顕正会では衛護と呼ぶ。いわゆる仏法用語に基づくものなのだろう。

それにしても夜間の衛護が悩ましい。

当時も茶寮で札と引き換えに700円または食事を提供されていたと思います。

これはツライと思う。なるほど、今にして思えばあまりなり手がいなかったのかもしれない、というのは納得である。ようするに割に合わないのだ。

世の中にはいわゆる二十四時間営業の店がたくさんある。これも不景気を反映してか、二十四時間がウリであるはずのコンビニでも、あえて深夜は店を閉じてしまうようなところも存在する。それはそうだろう。通常、夜間は客が少ない。激減と言ってもよいくらいだ。それでも従業員には時給を払わないといけない。しかもである。夜間のほうが時給が高いのだ。

客が少ない。当然ながら売り上げが少ない。それでいて従業員へ払う時給は高い。この矛盾を解消する唯一の方法が店を閉めるということだ。

コンビニの歴史を詳しくは知らないが、もともと個人商店というのは朝の九時十時くらいに開店して、夜の七時には店を閉めてしまうものだった。これでも労働時間は長い。しかも扱っている商品によっては店主自らが仕入れに出掛けるわけで、それも加算すれば相当の長時間労働である。
そこにコンビニなるものが出現した。最初の頃は朝の七時から夜の十一時だったのだろうか、それがそのまま店の名前になっていたりもするわけだが、個人商店にとっては脅威である。さすがにマネは出来ない。ただでさえ店主は長時間労働なのだ。まさかこれ以上、営業時間を延長することは不可能である。
しかも商売というのは競争原理が働く。七時から十一時をウリにしていたコンビニも、いつの間にか二十四時間営業が当たり前になってしまった。それは当然ながら競合する他社が存在するからだ。
そんなわけで個人商店はますます窮地に立たされ、今ではほぼ絶滅の状況に至っているわけだが、コンビニチェーンにしても決して楽ではない。競争が激化すればするほど、無理が生じてくる。それが夜間営業の問題に如実にあらわれているわけである。

なんだか話が余談めいてしまっているが、ともかく夜は寝るものである。それが基本というか普通の人間の生活である。ゆえに客は少ない。少ないことを承知で店を開ける。店を開ければ経費が掛かる。最大の経費は人件費だ。しかも夜間のほうが時給が高い。

では、もし時給を安くしたらどうなるか?

答えは見えている。誰も働かないということだ。え? そんなに安いの? じゃあ、やめるよ。だったら家で寝たほうがいい。そもそも夜は寝るもんだし・・・

余談が長くなったが、これで結論は見えただろう。顕正会における夜間の衛護は割に合わない。やり手がいないのも当然のことである。しかも翌日に自分の仕事があるとすればなおさらだ。そんなムリをしてまで御奉公しなければいけない道理はない。道理に反するということだ。実際、自動車や機械の運転をする人は大変である。寝不足で事故でも起こしたらどうするのかと思う。もちろん、そうした特殊な業務だけでなく、あらゆる仕事において言えることだろう。デスクワークの人であっても居眠りばかりしているようではクビである。

この際、夜間衛護は廃止にして、警備会社でも雇ったほうがいいのではないかと提案しておきたい。

さて、顕正新聞第1343号の続きである。

入信勤行には、自宅拠点のあるコロラド州へ飛行機での移動となり、アメリカの同志の、距離をものともしない恋慕渇仰の信心に、長として頭の下がる思いであります。

第三十二女子部長の登壇である。当該組織は青森、岩手、アメリカを中心に活動しているという。

 広大なアメリカ本土に、ただ一箇所の自宅拠点だけで、日本と変わらぬ大情熱で戦い・・・

う〜ん、確かに凄いことだが、現状では世界広布もまだまだ遠いということだろう。

自宅拠点護持者・・・

前後するが、本文中にこのような表現が出てくる。しかもこの拠点が護持者の引越しにより閉鎖になるとの記述があって、どうやらそれがグアムへの転居ということらしいのである。すると今現在、アメリカ本土には一箇所の拠点もないのだろうか? ちょっと文章からはその辺の事情が正確には読み取れないが、ともかく大変なことである。世界広布はまだまだ・・・というのはもちろんであるが、そもそも日本の広宣流布だって客観的にはまだまだなのだから、いわんや世界広布をや、ということなのだ。

女子部第百四十区組長の登壇が印象的だった。

 私と○○さんは五八歳も歳が離れていますが・・・

登壇者は高校生である。それが元創価学会員の婦人を折伏した話である。

 ○○さんは私の友人の祖母で・・・

凄い話だ。その友人が入信したかどうか判然としないが、たぶん入信していないのだろう。それでいて、その祖母を入会させるとは驚きである。この情熱には恐れ入る。

後輩の分まで聖教新聞の代金を払い、選挙活動にも励んだそうです。

入会者の創価学会時代の活動状況を語るくだりである。選挙活動はともかくとして、前半の部分は顕正会だって同じじゃないかと思う。いわゆる多重購読の問題は顕正会のほうこそ深刻かもしれないのだ。

最後は婦人部十和田支区組長の体験発表である。

「余命半年」!

医師よりご覧の宣告を受けたそうである。ところが彼女はショックを感じなかった。

私は医師に向かって「何があっても大丈夫ですよ」と笑いかけましたが、「笑っている場合ではないんです」とたしなめられました。

滑稽なやりとりだ。

2015/6/6

顕正新聞第1343号の最高幹部たちの発言を中心に  
大沢氏より懇切丁寧なる返信をたまわったが、特に申し上げることはない。ともかく再考すべしということに尽きるのだ。それも末端のわれわれがどうこう言っても仕方がないので、宗門の碩学がしっかりとした考察をするべきであると、このように提案申し上げる次第である。

ずいぶん前の拙稿にコメントがついた。

常勤は時給換算にして七百円くらい、
その他、出仕という召集で、七百円相当の食券1枚で四〜五時間くらい働くスタッフが多数
無償で炎天下、自腹で新聞大量配布よりはましと、志願者は結構いるらしいです


これは芙蓉茶寮のスタッフの収入についての情報である。正直、常勤七百円はキツイと思う。一般的な相場がどうこうではなく、わたくし自身の感覚では相当に苦しい。ようするに学生アルバイトだとか、そういう部類であればわからなくもない。しかし、もしこれが本業であって唯一の収入源だとすれば、とてもじゃないがやっていけないだろう。

出仕のほうは四五時間の労働で一回分の食事券とのことだが、これもひじょうに悩ましい。ごく単純に損得で考えれば、その同じ時間でパートやアルバイトをしたほうが遥かに得である。ところが、自腹での顕正新聞大量配布よりはマシであるとの理由で、志願者は結構いるらしい。

さて、そうすると、今度は本部職員の収入が気になるところである。想像するに、おそらくは安いのだろう。まさか茶寮のスタッフは低賃金で、本部職員は高収入みたいな、まるで格差社会の見本のようなことが事実だとしたら、もはやそれだけで減滅である。ゆえに本部職員の給与はそんなにはよくないと思う。

しかし、ヘソマガリなことを書くと、本部職員は高給取りであるべき、という考え方もあり得ると思う。

茶寮の場合、調理師だとか管理栄養士みたいな資格と共に、実際の腕前が問われるわけだ。これはそっくりそのまま、世間一般の尺度と変わらない。では、本部職員の場合はどうかであるが、これは世間一般のスキルとは異なるわけで、ようは信心強盛であることが要求されるわけである。その上で教学力だとか指導力などが求められる。これはもう、まるで世間の尺度とは違うものである。特殊なスキルと言ってもいいだろう。ゆえにそういう人たちが高収入だとしても誰も文句は言わない。むしろ自分も頑張ってあのようになりたいものだという、会員たちのモチベーションになり得ると思う。

もちろん、大した実力もなく親の七光りだけで幹部をやっているような人がいれば、冷たい目で見られることになるだろうが・・・

いずれにしても本部職員の給料は安い。これが事実のようである。

それでいて誰もが本部職員に憧れ、高校生や大学生の顕正会員たちが、いずれは自分も本部職員になりたいものである、給料は安いらしいがそんなことは構わない、広宣流布の御奉公が出来れば本望である、と思うようであればそれはそれで結構なことである。もしこれが事実であれば、これはもう世間一般の価値観を超越しているわけであるから、もはや誰も文句は言えないはずである。

さて、現実はいかに・・・

顕正新聞第1343号から話題を拾おう。一面は立宗会の会長講演であるが、特に申し上げることはない。二面以降は四月度班長会の各種登壇である。まずは総男子部長からだ。

四年後の二百万・・・

とうとう五年を切って四年に突入したらしい。

 まさしく日寛上人が
 「以て後世の弟子に贈る。此れは是れ偏に広宣流布の為なり」
 と記された「後世の弟子」とは、まさに先生をおいて他になく・・・


後世の弟子というのは誰彼のことではなく、弟子全般を指すのだろうと思う。特定の人物を指し示すようには読めないのだ。また、唯授一人思想の上からは時の御法主上人を意味するのであって、まさか在家信徒の浅井先生がそれに当たるなどと考える人はいないはずである。

ところが副総男子部長も次のように言っている。

 まさに、日寛上人はすべてを先生のためにお残しになられたのだ・・・

凄いことを言うものだ。順番が逆になってしまったが、彼はこんなことも言っている。

大聖人様の仰せを信心の耳で聞き奉られる先生のご発言ゆえに諸天が感応する・・・

出た。しばらく鳴りを潜めていたが、諸天の感応の復活である。

話を戻して、総合婦人部長の発言も注目である。

日寛上人様の恋慕渇仰・不惜身命の御心と、浅井先生の恋慕渇仰・不惜身命が共鳴し合う・・・

この人の文章表現は独特である。

日寛上人による広宣流布に戦う後世の弟子のための御著述は、いま広布最終段階にお一人立たれる先生にお贈り下されたものと・・・

しばしば法華講員が指摘していることだと思うが、浅井先生は日寛上人の御指南を多用するものの、しょせんは都合のよい文証ばかりを拾い出すだけであって、都合の悪い文証にはフタをしてしまっている。不勉強のわたくしには細かいところまではわからないが、確かにそんな感じが否めないと思う。これはいずれ詳しく検証したい事案である。

「日本国一時に信ずる事あるべし」は間近と大確信・・・

彼女はどのくらい間近に感じているのだろうか? やはり四年後なのか?

副総合婦人部長の発言も注目である。

今後執り行われる一切の行事はすべて、「これが最後」との思いを懐いて・・・

これは不謹慎ながら、「浅井先生出席の行事は」という意味だろう。彼女にとっては実の父親であるからして、おそらくは他の誰よりも強く感じていることなのだと思う。

「そういう時が遠からず来るのだ」

切り文で恐縮である。これは前掲とは別の文脈で語られていることなので、そこは誤解なきように願いたい。ただし、汎用性の高いセンテンスであることは事実だろう。どのような意味にも受け取れるということだ。

「もう広宣流布は近いのだ」

こちらは誤解も何もない。そのまま字句どおり受け取ればいい。ただし、広宣流布が本当に近いかどうかは別の議論である。

最後にもう一つ紹介して終わろう。

八百万学会員は忽ちに膝が崩れ落ち・・・

部分的な引用なのでわけがわからないと思うが、ちょっとシャレた表現なので注目したという意味がある。

ようするに浅井というのは敵対勢力の親分であるからして、顕正会員が池田大作氏をボロクソに言いもし、快く思わないのと同じ理屈で、創価学会員も浅井に対してよくは思っていない、悪心を懐いている。まあ、大雑把な背景としてはそんなところだろう。

けれども、それは誤解によるものなのだ。浅井先生の本当のお心がわかれば、そうした悪心も忽ちに氷解して、先生に対して平伏するに違いない。彼女はこのような意味を言っているわけである。

しかし、ちょっと希望的観測が強過ぎるかもしれないなあ・・・

2015/6/5

鬱々とした毎日  
めずらしく法華講員の三氏からコメントを頂戴した。何がめずらしいかと言えば、最近は多方面からコメントが寄せられることが多く、法華講員限定というのはマレな出来事だからである。

勤行は四十五分から五十分が相場であると・・・

これはちょっと考えさせられた。正直な感想は、長いなあ、ということだ。

顕正新聞の記事の趣旨は、宗門ないし創価学会の勤行は速いということで、ようは顕正会の勤行がどれほど丁寧であるかを言わんとしているわけだ。ゆえに法華講の諸氏は上述のごとく言うわけで、ようはちゃんと丁寧にやっているということを伝えたかったのだろう。

それは対顕正会の意味では正しいというか、適切な反論だろうと思う。しかし、わたくしは今や無所属の人間であり、必ずしも顕正会寄りではない。

ゆえに正直な感想として、長いと書いたのだ。

現代人の感覚として、勤行にそれだけの時間を費やすのは大変なことである。いや、現代人というより在家の立場と言い換えたほうがいいかもしれない。出家はいわば専門家であるから、勤行が長いだの何だのと言っているわけには行かないだろう。しかし、在家は仕事を別に持っているわけで、朝の出勤前にそれだけの時間を費やすのは大変なことであるし、残業でもして夜遅く帰ってくればそれはそれでまた大変なことである。

このように考えると、坊さんはずいぶん楽じゃないか、われわれ在家のほうがよっぽど大変じゃないか、という気持ちにもなりそうである。

創価学会問題というのはさまざまの要素があって簡単には説明がつかないのだろうけれども、なるほど、創価学会側の一つの言い分というか不満として、このようなことがあったのかもしれない。そこで宗門と決別した折に、勤行の様式も大幅に短縮してしまったと考えられるのだ。

そして現状では、宗門法華講は敷居が高く敬遠される傾向にあり、創価学会ないし顕正会のほうが遥かにハードルが低い。これもさまざまの点から考察する必要があるだろうけれども、さしあたっては勤行のことが影響しているのではないかと思う。

もしそうならば、宗門側も何かしら方策を立てる必要があるかもしれない。いや、もちろん、そう簡単な話ではないが、思い切って在家用の勤行様式を発案するとか、そういうことが要求されているのではないかという気がする。

天生原の問題は再考の余地があるだろう。

現状では結論が出ているかのごとく思われているが、必ずしもそんなことはない。宗門は正本堂問題の後遺症に苦しんでいるのだ。当時のことは今一度、よく検証するべきであり、いつまでも天生原戒壇説の否定ばかりに終始していてはいけないと思う。

すでに何度も述べたことだが、わたくしは国立戒壇の呼称に拘泥しない。この意味で、いつまでも国立戒壇の呼称に拘泥している顕正会は問題である。理由は簡単だ。国立戒壇が言われるようになったのは宗門の長い歴史の中ではごく最近のことであり、わずかの期間に過ぎないということだ。ゆえに、この名称そのものに拘泥する積極的な理由は、どこにも存在しない。国立戒壇ではなく本門戒壇と呼ぶべきなのだ。

では、天生原戒壇説はどうか?

これは国立戒壇の比ではない。この点がひじょうに重要である。つまり、宗門の歴史の中において、相当の期間、言われ続けてきたことなのである。

昭和の一時期、使われていた国立戒壇。これは文字どおり一時的なものであるから、それを言わなくなったとしてもさしたる問題はないだろう。ところが天生原戒壇説はそうではないのだ。不勉強のわたくしは詳しく知らないが、少なくとも数百年のスパンで言われ続けてきたことなのだ。これを正本堂問題の時に、国立戒壇と一緒くたにして葬り去った。これはおかしいだろう。少なくとも第三者が事情を聞けば、わたくしの言っていることも相当だと思うはずだ。

また、天生原ないし天母山の現在のテイタラクをもって、とても戒壇建立の勝地とは思えないという意見があるようだけれども、これもいかがなものかと思う。

そもそも急峻で本門の大戒壇を建てるに不適格という意見がある。だが、しかし、これは大間違いの考え方である。富士大石寺もしくは富士山大石寺、あるいは大日蓮華山大石寺、これらはいわゆる寺号とか山号と呼ばれるものだろう。では、大石寺は富士山のテッペンに建っているのか、ということになる。同様の意味で、本門戒壇を天母山のテッペンに建てる必要はないわけで、天母山を中心とした広がりであるところの天生原の中で適地を選べばいいだけの話である。ちなみに、これを拡大解釈して天生原=大石原ということを宗門では言ったりもしていたが、これはまさしく拡大解釈だろう。

さらに、角度を変えて見れば、いわゆる迹門戒壇の地たる叡山がよき先例かもしれない。

京都市中には神社仏閣がたくさんある。しかるに延暦寺は比叡山の標高のかなり高い位置にあるのだ。なぜにそんな不便なところに建てたのだろうか?

こうした先例がある以上、天生原戒壇説を地理的悪条件を理由に否定することは出来ない。むしろ第三者の目には、なぜにそこまで否定に躍起になっているのか、おかしいではないか、と映るであろう。宗門首脳部はこの点をよく考え直すべきだろう。

ここまで来れば、わかるだろう。現在のテイタラクなど、まるで問題にならない。

実際に本門戒壇を建てる時にはそれなりの造成工事が行なわれることになるわけで、現在の建築技術をもってすれば何の不都合も生じない。

それよりも何よりも、いつも言っているように凡夫には未来はわからないのだ。

宝永の大噴火があって富士山は大きく形を変えてしまった。そう、大聖人がご覧になられたであろう富士山と、今現在の富士山は違うのだ。もしもこの先、宝永の大噴火を凌駕する超巨大噴火があったとしたら、山そのものが吹っ飛んでしまうかもしれない。そして当然ながらその規模の噴火があれば周辺は居住困難になる。天生原はもちろんのこと、大石寺のあたりも全滅するかもしれないのだ。

もはやここまで来ると、天生原戒壇説を否定することのチンケさが鮮明になるはずだ。大石寺こそ霊仙浄土に似たらん最勝の地などと強弁したところで、一発の噴火で終わってしまうからである。

また、そうすると、大聖人の仰せられた富士山に本門寺の戒壇を建立すべしとの御遺命も虚しくなる。もちろん現時点ではタラレバの話であって、必ずそうなるとも言えないし絶対にそうならないとも言えない。こればかりは誰にもわからないのだ。

いずれにしても天生原の問題については再考すべきと思う。

今回、縷々述べたことで充分に伝わったと思うが、単に天生原を否定して大石寺を戒壇建立の最終地のごとく主張するのは、ハタ目にはいかにも手前味噌の論理に映るという現実を宗門首脳部は自覚すべきなのである。かく言うわたくしは天生原戒壇説について結論を得ているわけではない。そんなに頭のいい人間ではないし、それほど詳しく勉強したわけではないので、わからないというのが正直なところである。ゆえに、むしろわたくしは第三者的目線で物を見ることが出来るのであって、そうした目線からすると現宗門の主張は拙速に思えるのだ。よって、宗門首脳にはぜひとも再考を願いたいと思う次第である。


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