2015/6/21

ニワカ感いっぱいの沖浦流法門  
何やら冨士大石寺顕正会研究所というブログがあるとの情報が寄せられた。そこでさっそく検索してみたら、櫻川氏の立ち上げたサイトだった。あれれ? 「顕正会の崩壊は近い」のほうはどうしちゃったのかなと思って、久しぶりに覘いてみたら、なんとこちらのほうも存在していた。しかも一年数ヶ月ぶりくらいになるだろうか、一気に更新されていた。

ともかく一年以上動きがなかったので、いずれはネタにしようかと思っていた。すなわち、顕正会の崩壊は近いなどと言っておきながら、自分のほうが先に崩壊しちゃったではないか、というようなツッコミを書こうと考えていたのだ。しかし、更新されてしまったので、このネタはボツである。

それにしてもサイトを複数掛け持ちする意味というかネライがよくわからない。あるいはキャッチーなネーミングをつけることによって注目度を上げようとしているのだろうか?

確かに研究所もうまいネーミングではある。しかし、じゃっかん紛らわしい意味もあるだろう。ようするに冨士大石寺顕正会が運営する研究所とも読めてしまうからだ。

いずれにしても当該サイトはまだ工事中であって、看板は掲げたものの中身はほとんどカラッポの状態である。今後、どのような進展を遂げるのか、注目したいと思う。

さて、話は変わる。

沖浦氏は顕正会員との対話を欲しているごとくであるが、どうも実現は難しそうである。すでにノッケから話にならない、そんな感じが否めないところである。

氏はどこからか浅井先生の発言を引っ張り出してきて次のごとく言っている。

 大きな間違いが二か所ございます。

 興師が大聖人仏法の全てを付属された。
 本門戒壇建立を御遺命された。

 これらは御書にございません。


顕正会では一期弘法付嘱書にこの二つが厳然と説かれていると言っている。しかし、沖浦氏は身延相承書を認めないわけだろう。そこで話はオシマイである。

いわゆる創価学会版の御書にも掲載されているはずの相承書をである。あろうことか沖浦氏は否定してしまっている。もはやこれではお話にならない。同じ土俵で戦うことはできない。顕正会では八百万学会員を救う戦いを展開中であるが、残念ながら沖浦氏は救えない。たぶん大方の顕正会員はそう思っているはずである。無慈悲なようだが仕方がない。沖浦氏の側にも問題があることを自覚すべきだろう。

それにしても支離滅裂感は否めない。

 これらは御書にございません。

再掲であるが、この後が問題である。御義口伝は難しいので省こう。その続きが問題なのだ。

 戒壇は御書にあります。

御書にありませんと言った人が、続きの文章で御書にありますと言っている。これほどの矛盾もあるまい。

そして三大秘法抄の戒壇についての御指南を引用した後で、沖浦氏は次のように言っている。

 日本に建てる必要はこの御文から読み取れません。
 更に、戒壇建立は広宣流布の社会で、自然の中で実現します。
 殊更、伽藍としての戒壇建立にこだわる必要はございません。


先ほど、話にならないと書いたわけだが、これは顕正会員的には当然のことである。身延相承書には富士山と明確に示されている。しかるに沖浦氏は富士山どころか日本に建てる必要すらないと言っているのだ。確かに三大秘法抄においては富士山かどうかもわからないし、さらには日本に建てる必要があるかどうかもわからない。これは氏の言っていることも相当である。あえて詳細に論じるならば、王臣一同の王臣とは何か、勅宣御教書とは何か、ということがポイントとなる。まあ、普通に考えれば自ずと結論は一緒のはずだ。つまり、日本に建てる必要があるかどうかではなく、日本に建てるのが理の当然ということになるはずなのだ。

以上、顕正会では三大秘法抄はもちろんのこと一期弘法抄やその他の御相伝書、さらには歴代上人の御指南を踏まえて総合的に判断して、国立戒壇建立を主張しているわけである。俄か勉強の沖浦氏が何を言ったところで、どうにもならないだろう。

それにしても、戒壇建立は広宣流布の社会で自然の中で実現するとか、伽藍としての戒壇建立にこだわる必要はないとか、いったい何を根拠に言っているのだろうか?

当然、これは御書をもって証明しなければいけないだろう。

ようするに、沖浦氏は浅井先生の発言を取り上げて大きな間違いが二つあると言い、これらは御書にないとまで言っているのだ。ならばご自身の主張も御書をもって説明しなければいけないだろう。それが出来なければ、これほどの自家撞着もあるまい。いわゆるブーメランだ。

 爰に日興云はく、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河富士山は是日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ。仍って広宣流布の時至り国王此の法門を用ひらるゝの時は、必ず富士山に立てらるべきなり。

御書全集にも載っているはずだが、沖浦氏はこれを認めないのだろうか?

だとすれば、ここで議論はオシマイである。

なお、伽藍としての戒壇建立にこだわる必要はないというのはわからなくもない。いわば仏法の通例として伽藍を建立するわけであって、戒壇建立の意義はそれとは別次元のものだという考え方は有力である。俗に仏作って魂入れずと同じで、いくら立派な建物をこさえてもそこに魂がなければ無意味なのだ。ゆえに三大秘法抄ではその前提条件として、有徳王覚徳比丘の故事が示されているのである。その上で戒壇が建立されるのだ。

よって、戒壇建立を主張する者に対して、伽藍にこだわる必要はないなどと言うのは、まるで皮相的な上っ面だけの批判であって、何の説得力もないことを知るべきである。

再度、問おう。

更に、戒壇建立は広宣流布の社会で、自然の中で実現します。

これはどういう意味か、いったい何を根拠に言っているのか、沖浦氏にはぜひともお答えいただきたいものである。


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