2015/7/6

傍観者v氏とその背後にうごめく人たち  
唐突ながら傍観者v氏に聞きたい。貴辺は山門入り口氏ではないのか?

この件は回答如何にかかわらず、後日、書こうと思っていることがある。山門入り口氏はかつて拙ブログにもたびたび顔を出していたが、近年はすっかり御無沙汰している。思い返せば、いろいろと面白い議論をしたものだった。しかし、面白いと思っていたのは当方だけであり、先方は面白くなかったのかもしれない。

さて、本題であるが、これまた余談めいた話から入らねばならない。

昨日、午前十一時過ぎに更新した。すると奇しくもほぼ同じ時間に傍観者v氏からコメントが寄せられた。わたくしはそれを読んで驚愕した。驚愕はオーバーかもしれないが、驚いたのは事実である。

2015/7/4 23:30
投稿者:傍観者v
文永七年は身延隠棲の頃です。

2015/7/5 11:06
投稿者:傍観者v
一部間違いがあったので修正させていただきます。
文永七年は身延隠棲前の頃です。


こんな初歩的なミスをしてどうするのかと思う。だが、しかし、今はそれを言いたいわけではない。もっと重大な問題が存するのだ。

文字数制限で分割になるので、お借りします。 投稿者:傍観者v 投稿日:2015年 7月 5日(日)05時44分26秒
文永七年は身延隠棲前の頃です。


当然ながら、これらは必要な箇所だけを抜粋したものなので、そこは誤解なきように願いたい。

それはさておき、問題はこの三本の時系列である。前掲二本が拙ブログへのコメント、そして上掲が大石寺系教団の掲示板に投稿されたものである。つまり、一昨日の夜遅くに投稿した時は「身延隠棲の頃」と書いていたわけだが、それが翌朝の投稿では「身延隠棲前の頃」に変化しているのだ。こういうのを改竄と呼ぶのである。

誰もが思うはずなのだ、なぜ早朝の投稿時に大石寺系教団の掲示板だけでなく、巌虎独白のコメント欄に訂正文を入れなかったのか、と。時間を置かずに入れるのが普通である。それがなぜに十一時過ぎなのか、なぜに半日遅れなのか、である。

わたくしはさまざまの想像をめぐらせているわけだが、憶測ばかり書いていると突っ込まれるので、ここでは控えることにしよう。ともかく不可解であることは事実だ。

サンプルを出せということですので、たくさんあり迷いましたが、管理人殿の合わせて一例を出します。

サンプル? あまり適切な表現とは思えないが、そんなことをあげつらっていたらキリがないので話を進めよう。それにしても「管理人殿の合わせて〜」は意味不明だ。相変わらずの粗忽さである。

さらに、これを以って(この2つの例で)全てに当てはめると真言宗の命運も、もはや手に握ったようなものだ。と豪語してます。これは手紙を送った相手は兄弟子の義浄房と浄顕房ですから、檀越に送る手紙と違って、マジにそう思ってたんでしょう。

マジ? いや、これはアゲアシ取りではない。けっこう重要なキーワードである。

それは後述するとして、ここでは御書を引用して、思いっきり飛躍して言うならば、大聖人があたかも広宣流布は眼前であるかのごとく言っていることに対し、マジにそう思っていたのだろうと書いているわけである。

で、文永七年は身延隠棲の頃です。ここで日蓮は念仏はもう終わり。禅宗の終了も同じ運命。真言宗の命運は手に握ったは、どうですか?全くあたってませんね。現代から見ると結局嘘じゃありませんか。

途中の文章をかなり端折ったけれども、ここがいわば結論である。

あれれ? というのがわたくしの第一印象だった。身延隠棲云々はこれまた後述することにして、上掲は本来の議論からすれば、スリカエもしくは大幅なトーンダウンと言わざるを得ないだろう。

傍観者v氏は大聖人をウソつき呼ばわりした。大聖人をウソつき呼ばわりするのはケシカランではないか、ということでこの議論は始まったのだ。さらに氏はこんなことも言っていたのである。

管理人殿と二人がかりでいいから、二枚舌の日蓮信仰が正しいとか証明してミソ!

妄語・綺語・悪口・両舌と書けばわかるだろう。不妄語戒のことは先日書いた。ようはこれほどの謗言はないということだ。

そこまで言うのならば、大聖人がウソをついていることを証明しなければいけない。

もちろん言葉の意味には幅がある。ゆえに大聖人の誤謬をウソと表現したつもりなのかもしれない。しかし、通常の意味としては、故意に事実ではないことを言う、ワザと違ったことを言う、そうして相手を欺く、これがウソの意味である。まさに傍観者v氏の悪意丸出しの文章からすれば、この意味をおいて他にあるまい。

それが今さら「現代から見ると結局嘘じゃありませんか」とは何事かと言いたい。

傍観者v氏は他人の文章をまともに読まない(読めない?)人なので知らないかもしれないが、拙ブログでは大聖人の誤謬について何度となく取り上げてきたという事実がある。あるいは現代感覚との齟齬も重要なテーマとして書いてきた。ゆえに今さら「現代から見ると〜」などと言われても、何を言ってるの? スリカエ? トーンダウン? と言わざるを得ないのだ。

別人格が書いたのではないかと思われるくらいの文体の変容も気になるところだが、こうした議論の変移も気になる。シツコイようだが、氏は次のようにも書いているのだ。

鎌倉時代に女性信者から手紙で問われて、チャンとした返事をしてない日蓮。
都合が悪く誤魔化した。


ひじょうにわかりやすい。都合が悪く誤魔化したというのは、ウソつき云々と同様のニュアンスである。ようするに、信者からの質問に対して都合が悪いのでウソをついて誤魔化した、というような意味だろう。あるいは、はぐらかした、というような意味もあろうかと思うが、いずれも故意というのがポイントである。意図的に、ワザと・・・、言い換えればこんな感じだろう。

わたくしの主張はこの一点である。はたして大聖人が故意にウソをついたなどということを誰が証明できるのだろうか?

・・・マジにそう思ってたんでしょう。

傍観者v氏もめずらしく良いことを言う。

イヤミに聞こえるかもしれないが、ここはまったく同感だ。

ちなみに、別人格が書いたのではないかと思う理由の一つがこれである。前掲、前々掲に見られる悪意丸出しの文章とのトーンの違いに気がつかない人はいないはずだ。

さて、今日はもう一点だけ書いて終わりにしよう。

身延隠棲の頃

身延隠棲前の頃


冒頭に別件で取り上げた話題であるが、これはけっこう重要な意味を持っている。なんでこんな初歩的なミスをするかなあと書いた。しかし、人間は誰しもミスをする。ゆえにそればかりを咎めても仕方がない。わたくしの着眼点は別である。

身延隠棲の前後にどれほどの意味があるのだろうか?

ようするに文章の全体的な構成からすると、別にどうでもいいことなのだ。何しろ続きの文章ではいきなり現代に飛躍してしまうのだから、だったら隠棲前だろうが後だろうが、あまり関係がないだろう。

いずれしにても、これ以上ここで筆者の意図を詮索しても仕方がないので、わたくしの拝し方を書いておく。

御文は掲げないけれども、くだんの二文の意味は単純明快である。何ら不自然さはない。大聖人の兼ねてからの予言が符合した。これで鎌倉に跋扈していた諸宗の僧侶たちは黙ってしまった。人々の反応も今までとは違ってきた。これを大聖人は肌で感じておられるのである。もちろん大聖人の主観であることは事実だが、ここにウソはない。七百年後の現代から見て云々はまったく別次元の議論である。

そもそも身延隠棲前後という分類はおかしいわけで、おそらく一般的には鎌倉期・佐渡期・身延期と分類されるはずである。そして先ほど諸宗の僧侶たちが沈黙してしまったことを書いたわけだが、これはまさに嵐の前の静けさだった。彼らは虎視眈々と巻き返しの機会を狙っていたのである。事実、この直後にあの竜の口の大法難があり、大聖人は佐渡へ流罪せられることになるのだ。

鎌倉をご存知だろうか?

鎌倉はわたくしにとっては隣近所みたいな土地なので、これまでに何十回と訪れている。物凄く狭い。これがわたくしの実感である。ゆえに大聖人が諸宗の僧侶たちや人々の反応をストレートに受けていたであろうことは、その地理的特質からしても十分に窺い知ることが出来る。そうした予備知識を踏まえてくだんの御書を拝するならば、よりいっそう大聖人の御気持ちに迫れるのではないかと思う。

いや、もちろん、繰り返しになるが、それは大聖人の主観に過ぎないわけで、客観的にどうだったかはまた別次元の話である。しかし、そこにウソはない。マジなのだ。いみじくも傍観者v氏が言うように、である。

今回はここまでにしたい。

2015/7/5

傍観者v氏とその仲間たち  
意外な事実が判明した。傍観者v氏は日蓮宗系の御書を使用しているらしいのだ。上野殿母尼御前御書という表記がそれである。わたくしは平成新編を愛用しているのでわからなかった。あれ? 文永七年には上記の御書は存在しないぞ? どうなってんだこりゃ? と思って御書全集を確認してみた。ところが全集は上野殿母尼御前御返事となっている。そこで日蓮宗の現代宗教研究所のサイトを確認してみた。それが当該表記と符合するのである。

ああ、余計なことを書いてしまった。こんなことを書いているから話が長くなるし、ややこしくもなるのだ。

2015/7/4 23:29
投稿者:傍観者v
サンプルを出せということですので、たくさんあり迷いましたが、管理人殿の合わせて一例を出します。遺文では「上野殿母尼御前御書」と「善無畏三蔵抄」ですね。この文書は文永七年ですので同じ時期です。

「法門の事、日本国に人ごとに信ぜさせんと願いて候いしが、願や成熟せんとし候らん、当時は蒙古の勘文によりて世間やわらぎて候なり子細ありぬと見へ候、本より信じたる人人はことに悦ぶげに候か、恐恐。」(上野殿母尼御前御書・文永七年)

日蓮は蒙古の牒状が来て、先に勘文として幕府に出した効果があったせいか、世間の日蓮党を見る目が柔らかくなった。自賛と言いながら前の文章の「日本国に人ごとに信ぜさせんと願いて候いしが、願や成熟せんとし候らん」と書いています。

日本国の人が日蓮が法華経を信ずるようにと願ってたことが、どうやら蒙古の牒状で、その願いが成就しそうだと文永七年に書いています。はたしてそうでしょうか?

さらに「善無畏三蔵抄」(文永七年)では

「十七年が間是を責めたるに、日本国の念仏大体留まり了んぬ。眼前に是見えたり。又口にすてぬ人々はあれども、心計りは念仏は生死をはなるゝ道にはあらざりけると思ふ。禅宗以て是くの如し。一を以て万を知れ。真言等の諸宗の誤りをだに留めん事、手ににぎりておぼゆるなり。」

十七年が間に法然の念仏宗を責めて、日本国の念仏はほぼ終わりだと書いてます。そしてもっと意外なのは禅宗も同じ運命だと書いてます。。

さらに、これを以って(この2つの例で)全てに当てはめると真言宗の命運も、もはや手に握ったようなものだ。と豪語してます。これは手紙を送った相手は兄弟子の義浄房と浄顕房ですから、檀越に送る手紙と違って、マジにそう思ってたんでしょう。


ひじょうに長ったらしいので、閲覧者もウンザリだろう。さて、今後どうするかが問題であるが、上掲には続きがある。

2015/7/4 23:30
投稿者:傍観者v
さてそれでは、鎌倉時代から現代に目を移すと、日本人の宗教割合は神教が約1億600万人、仏教が約9600万人、キリスト教が約200万人ですが、重複申告もありますので、全部足すと日本の人口の二倍になります。

1位 神社本庁 6805万人
2位 幸福の科学 1100万人
3位 創価学会 827万世帯(回答が世帯数だったとの事)
4位 浄土真宗本願寺派 694万人
5位 浄土宗 606万人
6位 立正佼成会 429万人
7位 高野山真言宗 411万人
8位 日蓮宗 385万人
9位 天理教 164万人
10位 霊友会 158万人 (2009年統計)

で、文永七年は身延隠棲の頃です。ここで日蓮は念仏はもう終わり。禅宗の終了も同じ運命。真言宗の命運は手に握ったは、どうですか?全くあたってませんね。現代から見ると結局嘘じゃありませんか。

明治の頃では圧倒的に浄土系が日本のほぼ全域に分布し、日蓮が云うような禅宗も滅びていないし、真言宗に至っては滅ぶ気配すらなかったですね。唯一信長に叡山が責められて戦国期に壊滅的打撃を受けましたが、そののち天海和尚が東叡山で盛り返し、天台宗は西に東に隆盛を誇ってます。

(つづく)


なんと、まだ続くのだ。

2015/7/4 23:31
投稿者:傍観者v
>これは大変なことだ。大乗非仏説はかなり時代が下ってから出てきたものだと思っていたが、安然が言ってるのだとしたら大事件である。何しろ大聖人の御書にも安然のことがけっこう出てくるからである。

経典の由来を少しでも研究したら、当たり前のことですが、この程度で驚かれては論争相手として、こちらが落胆しますね。

大乗思想は発生当初より、説一切有部などの部派から批判され、対して大乗側からは『大乗荘厳経論』「成宗品」のように大乗非仏説に対する反論も展開された。

大乘莊嚴經論  礙捨者不應爾釋曰若此大乘非佛説者是爲大障諸佛有三因縁何故不記一無功用智恒起是眼恒見二恒作正勤守護正法三如來智力無

龍樹菩薩もたびたび「大乗は仏教にあらず」という主張に対する反論を行なっている。 「宝行王正論」においては、「大乗は徳の器であり、己の利を顧みず、衆生をわが身のように利する」として大乗の思想を称賛し、 釈迦の根本教説を「自利・利他・解脱」とし、六波羅蜜は「利他・自利・解脱」を達成するものであるから仏説であると主張している。

もともと口伝であった釈迦の教えが、上座部の一部の経典を大乘経典に挿入するなどの動きがあり、大乗の経典を否定する上座部仏教では、大乗経典のような勝手な経典の創作から、口伝読誦されてきたこれまでの初期経典を文字化して守るためであったとされています。

事実四世紀頃までスリランカなどの南伝地方は口伝読誦された教えも多くあったことが確認されてます。それらについては中国の創作・梵網経でも触れられています。

梵網經 若佛子心背大乘常住經律言非佛説而受持二乘聲聞外道惡見一切禁戒邪見經律者犯輕垢罪

これらの流れで安然が「真言宗教時問答」において大日如来に触れて釈迦を教主としない経典であるならば大乗経典(大日・毘盧遮那仏・阿弥陀・薬師)は佛説ではないと論じている。(この部分は漢文で長いので要旨のみ)(まだつづく)


ありゃりゃ、まだ続くらしい。

・・・・ところがである。なぜかこの続きがないのである。上掲はすべて投稿時間も併せて紹介させていただいたわけだが、その意味は一目瞭然だろう。上掲の三本はあらかじめ原稿を用意しておいて一気に投稿したことがわかるはずだ。それで(まだつづく)と書いておきながら、続きがない。こんなおかしなこともあるまい。

文字数制限で分割になるので、お借りします。 投稿者:傍観者v 投稿日:2015年 7月 5日(日)05時44分26秒

これは彼らのホームグランドと言うべき大石寺系教団の掲示板に投稿されたものである。なんと驚くべきことに、ここには続きの文章が出ているのである。

サンプルを出せということですので、たくさんあり迷いましたが、管理人殿の合わせて一例を出します。遺文では「上野殿母尼御前御書」と「善無畏三蔵抄」ですね。この文書は文永七年ですので同じ時期です。

煩瑣になるので途中は省略しよう。

これらの流れで安然が「真言宗教時問答」において大日如来に触れて釈迦を教主としない経典であるならば大乗経典(大日・毘盧遮那仏・阿弥陀・薬師)は佛説ではないと論じている。(この部分は漢文で長いので要旨のみ)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

>学者は権威に寄らない。権威に屈するのではなく、真実に屈するのだ。たぶん岩本氏は学者の矜持として大聖人と対等の立場から論じているのだろう。氏の法華経理解からすれば大聖人のそれは不十分であって本質に至っていない。

それは管理人殿の希望であったり、願望です。ここで感想を書いていいのでしたら全く議論になりませんね。しかも左翼系の「権威に寄らない。権威に屈するのではなく、真実に屈するのだ」なんてお題目で悦に入るのは結構ですが、歴史を見ればそんな理想的人物が何人いたのか、日本を見ても権威だらけ、派閥学問だらけじゃないですか。
何が真実に屈するのだ、ですか?そういう御託宣を述べられる人が、2015/7/1 16:21投稿者:折伏被害者の指摘にはレスしませんね。

私の「日蓮の教えが正しいと妄信してるカルト信者とよく理解できました。」には反応するが以下には反応できませんか?

>こうして述べてきてハッキリしたのは、厳虎さんがマインドコントロール状態から抜け出せてない事、その努力をする事に消極的であるという事です。
>これも予想通りの事なので、前回「瑠璃堂氏」の名前を引き合いに出させていただいたんです。

これ実に、同じことを言葉を変えて書いてますけど、まぁそれはこれくらいにしておきましょう。

先の岩本氏ははっきりその著書で「大乗非仏説」を書いています。

大乘非佛説論者が大聖人をどうとかと言われても、管理人殿の感想と学術的事実を混同されては困ります。鳩摩羅什の訳経の法華経が意訳であり、元の梵品に忠実なものでなければ、当然それをベースにした法義は土台が間違っておれば総崩れでしょう。

何か希望的感想で「事の本質を隠していると表現しているのだ。」と言ってますが、岩本氏はハッキリと鳩摩羅什の意訳箇所を否定しています。つまり引いては日蓮さんを否定している事になりますね。理解できますか?

>傍観者v氏は薬王品得意抄を真面目に読んでいないのだろう。最低でも引用部分の前後を確認しておくべきだ。

貴方は「薬王品得意抄」は誰にどんな質問に対して日蓮が書いたものか存じているのですか?貴方の「御文の流れである。いったいこれのどこが誤魔化しなのだろうか?」という文章を見て、この人も把握されていないことがわかります。

薬王品得意抄と更に返書をもう一度読まれることをオススメします。なお、この指摘は戸頃重基氏が指摘されて、日蓮宗が沈黙したものですよ、それもご存知ではない。

>又法門の事はさどの国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ。

この時の日蓮の手紙に何が書かれてましたか?貴方は基礎的な解釈が欠落してますのでこういうことでは、論議になりません。まず確認です。何を以前の法門とし、なにをそれ以後としたのですか?

次の記事でお答えください。


相変わらずのオッチョコチョイと言うべきか?

しかもである。前回も指摘したように、自分で書いたであろう文章とどこかから引っ張ってきたと思しき文章が混在していて、文体がおかしくなっているのである。さらに想像を逞しくすれば、お仲間からの入れ知恵というか、代理投稿に近いような印象も否めない。

こんなことを書くと、証拠を出せと騒ぐかもしれない。証拠は以下である。

2015/7/4 18:12
投稿者:傍観者v
沖浦殿ご返事よん。

2015/7/4 18:11
投稿者:傍観者v
(つづきよん)


バカバカしいので本文は省略したが、興味のある人は前回分のコメント欄を確認されるといいだろう。これは明らかに文体が異なる。まるで別人の文章だ。もしこれを本人が書いたのだとすれば、悪ふざけにも程がある。穿った見方をすれば、文体の不整合がバレないように、ワザと極端に異なる文体を使って、煙幕を張った。まあ、証拠能力としては甚だ弱いものの、懸命なる読者にはおわかりいただけるのではないかと思う。

いずれにしても、こんな下らない策を弄しているから、投稿に不備が生じるのだ。

繰り返し言おう。

昨夜遅くに投稿した時、(まだつづく)と書いておきながら続きを投稿しなかった。今朝、大石寺系教団の掲示板には全文投稿しているわけだから、すでに原稿の用意は出来ていることになる。しかるに拙ブログのほうには続きが投稿されていない。今現在の時間は午前十一時である。ようするに、すっかり忘れてしまっているわけなのだ。こんなマヌケな話もあるまい。

さて、いよいよ本文であるが、今日のところはやめておこう。次回にしたい。

ちなみに、傍観者v氏のマネをすれば、(つづく)ということになるわけだが、わたくしの場合は原稿の用意があるわけではないので、氏の(つづく)とは意味が違う。次回、この続きを書くという意味だ。

2015/7/4

傍観者v氏との対話を中心に  
書きたいことがたくさんあって困っている。こういう時、欲張ってあれこれ書こうとすると、話が冗長になったり、支離滅裂になったりして、墓穴を掘ることになる。ということで、今回もまた傍観者v氏との対話を中心に進めてまいりたいと思う。閲覧者諸氏にはよろしく斟酌願いたい。

日蓮の教えが正しいと妄信してるカルト信者とよく理解できました。

わたくしは以前、傍観者v氏はヘンに凝り固まっている、と書いた。図らずもその証拠が出てきた。まさに上掲こそが決定的証拠である。

賢明な読者には説明の要もないだろうが、あえて説明しておきたい。

先方が提示してきた五項目について、わたくしはとりあえず略儀ながら回答した。そう、略儀である。何しろ難題である。そんな簡単な議論ではないだろう。まだ議論は始まったばかりなのだ。ゆえに上掲は早計と言わざるを得ない。

もっと具体的に言おう。

いちばんわかりやすいのが三番目だ。傍観者v氏は大聖人をウソつき呼ばわりした。そのわりには具体例がまるで示されていない。ゆえに具体例を示すべきだとわたくしは言った。話はそれからだと・・・

いかがだろうか? まさに話はこれからなのだ。それにもかかわらず、氏は早くもわたくしをカルト信者であると断じてしまっているのである。こんなバカな話もあるまい。とことん議論した結果、そのように言うのならばまだしも、ろくに議論もせずに何を言っておるものかと思う。時間はたっぷり(?)ある。早まってはいけない。

天台宗の 安然「真言宗教時問答」は平安時代の著書ですが、既に大乗教は仏説でないと書かれてます。

これは大変なことだ。大乗非仏説はかなり時代が下ってから出てきたものだと思っていたが、安然が言ってるのだとしたら大事件である。何しろ大聖人の御書にも安然のことがけっこう出てくるからである。しかし、わたくしの知る限り、御書には安然の大乗非仏説を破折するようなくだりは存在しないはずである。大聖人は都合が悪いと思って無視したのだろうか?

まずは安然がどのように言っているのか、その具体的文証を示していただきたい。話はそれからである。

2015/7/2 13:57
投稿者:傍観者v
嘘つき日蓮。
「此の経持つ女人は一切の女人にすき(過ぎ)たるのみならず一切の男子に越へたりとみて候(「四条金吾妻宛書状」)とあり、『法華経』こそ唯一の救い、女性を救う教えであると主張しました。

また法華経の竜女の即身成仏を女人成仏の現証を示すものとして重視し、『開目鈔』に「一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり。挙一例諸(こいちれいしょ)と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし」と記しています。

これらの経典の典拠によって、法然らの浄土教説は真の意味で女人を助ける法ではないと日蓮は各遺文で批判しています。

しかしその典拠も、岩本裕著の日本仏教語辞典の「女人成佛」の項には『法華経は日蓮によって女人救済の法と解されたのであるが、「提婆達多品」に説かれる竜女の成佛は変成男子(へんじょうなんし)説の物語で、女人の即身成仏説ではない。日蓮は『女人成佛抄』の中で、法華経以前の経典には女人不成佛が説かれ、法華経に至ってはじめて女人の成仏が説かれたとし、事の本質をかくしたことが知られる。(p567)』とその矛盾と誤解を指摘されている。


話があちこち飛んで恐縮であるが、これは大聖人がウソつきであることの具体例なのだろう。煩瑣ながらも全面掲載させていただいた。

しかし、いかにもどこかのサイトからの丸写しのような体裁であり、失礼ながらも傍観者v氏の底の浅さを露呈した格好である。

傍観者v氏、某氏、岩本裕氏

おわかりだろう、前掲は冒頭の「嘘つき日蓮」だけが傍観者v氏の手によるものであって、あとは他の誰かが書いたものである。その中に学者として著名な岩本氏の所論が挿入されているわけだ。

ところがである。某氏も岩本氏も大聖人をウソつきだとは言っていない。言っているのは傍観者v氏だけである。

学者は権威に屈しない。権威に屈するのではなく、真実に屈するのだ。たぶん岩本氏は学者の矜持として大聖人と対等の立場から論じているのだろう。日蓮ブランドには屈しないということだ。そこで氏の法華経理解からすれば大聖人のそれは不十分であって本質に迫っていない。それを事の本質を隠していると表現しているのだ。けれども、決してウソつきであると言っているわけではない。

また、某氏もそれを受けて矛盾ないし誤解と書いているわけだが、これもウソつきという意味にはならない。ぶっちゃけ言えば、日蓮は法華経が読めてなかった、というようなニュアンスなのだろう。

以上、ウソつき云々は傍観者v氏の勝手な思い込みであることが判明した。

そもそも傍観者v氏は、大聖人はウソばかり書いている、と言っていたのである。ならば一つや二つの話ではないだろう。あんまりたくさん出されても困るが、まあ、五項目にあやかって五例ほど示したらどうかと提案しておきたい。

2015/7/2 14:00
投稿者:傍観者v
若し女人有って、是の薬王菩薩本事品を聞いて、能く受持せん者は、是の女身を尽して、後に復受けじ。
若し如来の滅後、後の五百歳の中に、若し女人有って、是の経典を聞いて、説の如く修行せば、此に於いて命終して、即ち安楽世界の、阿弥陀仏の大菩薩衆の囲繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん(薬王菩薩本事品第二十三)

鎌倉時代に女性信者から手紙で問われて、チャンとした返事をしてない日蓮。
都合が悪く誤魔化した。

彼の経の妄語か、此の経の妄語か、いかにも一方は妄語たるべきか。若し又一方妄語ならば一仏に二言あり、信じ難し。(薬王品得意抄)


日蓮信仰者は誤魔化し揚げ足取りが大好きだ。


またしても全面掲載であるが、この意味は前掲同様であって、引用文ばかりが長くて傍観者v氏の文章はわずかだということだ。

それにしてもズサンな論述である。都合が悪くて誤魔化したということの説明がまったく出来ていない。物には順序がある。いったいどこがどのように都合が悪いのか、まずはそれを示さないといけない。その上でどこをどのように誤魔化しているのかを示さないといけない。

失礼ながら傍観者v氏は薬王品得意抄を真面目に読んでいないのだろう。最低でも引用部分の前後を確認しておくべきだ。

仏は昔凡夫にましましゝ時、小乗経を習ひ給ひし時、五戒を受け始め給ひき。五戒の中の第四の不妄語の戒を固く持ち給ひき。

つまり、仏はウソをつかない、ウソをつかない仏が四十余年にわたって女人の不成仏を言い続けてきたわけである。

 而るを此の法華経の薬王品に女人往生をゆるされ候ひぬる事、又不思議に候。彼の経の妄語か、此の経の妄語か・・・

というのが御文の流れである。いったいこれのどこが誤魔化しなのだろうか?

そもそも一仏二言というのは大聖人にとって大きなテーマであって、あの本尊抄においても取り上げられている。

一仏二言水火なり、誰人か之を信ぜん。

ようするに法華経と爾前経では言っていることが百八十度違ってしまっているわけで、だったら釈尊はウソつきだったのか、不妄語戒とはいったい何だったのか、という問題にもなってくるわけである。

この答えはよくわからないが、ともかく大聖人においてはこれを是認しているわけである。かつまた大聖人御自身が三沢抄において、次のように御指南あそばされていることにも注目しなければいけない。

 又法門の事はさどの国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ。

これは予防線の意味で引用させていただいた。今後、傍観者v氏は血眼になって大聖人のウソを探し出そうとするかもしれない。しかし、それがあまりにも低レベルの内容であれば、かえって恥をかくことになる。そこに気をつけたい。

今日はこのくらいで終わりにしよう。

そうそう、安然の大乗非仏説はひじょうに興味深いので、ぜひとも具体的文証をお願いしたい。それから解脱した仏がどうのこうのという話も、もう少し詳しく伺いたいところである。

2015/7/2

傍観者v氏との対話  
本日は傍観者v氏のコメントを中心に取り上げるつもりである。その他の人たちにはご不満もあろうかと思うが、よろしく斟酌願いたい。

(1)依経にしている法華経が仏説ではありません。
(2)仏説でない法華経を元にしてる日蓮の教えは破綻した教義です。
(3)日蓮遺文は嘘ばかり書いてるので日蓮は嘘つきです。
(4)最後に日蓮本仏も否定します。
(5)解脱した仏が生まれ変わることはありません。


この五項目について回答を求められた。さしあたってはイエスかノーかを聞いているのだろう。しかし、いかがなものかと思う。五項目になってはいるものの、あまり整理が出来ているとは言えない。

まず一番目と二番目が悩ましい。ようは二つで一つの問いのようにも考えられるからだ。そして決定的なのが四と五だ。何しろ四番目で「最後に」と書いているのであるから五番目があること自体がおかしい。つまり、五番目は問いではなく、四番目の問いの補足説明になっているわけだ。

こうして見ると、五項目は五項目ではないことになる。何となく五つも並んでいると壮観な印象を与えるけれども、まるで整理整頓が出来ていない。この点を自覚すべきだろう。

さて、少し遠回りをしよう。

大石寺家掲示板での法華講員。

何だこれは? 大石寺家掲示板ではなく、大石寺系教団の掲示板だろう。貴辺はこれを短縮して大石寺掲示板と言っていた。これはまだ許せる。しかし、大石寺家掲示板はないだろう。明らかなミスタイプだ。

沖浦殿のいい加減な行為に関して注意を注意するのならここでも構わないですよ。

注意を注意する? 何だこれは? 前にも似たようなことを言ったはずだが、一つくらいの間違いで大騒ぎするのも大人気ないけれども、貴辺の場合はそこらじゅうに間違いが存する。こんなテイタラクで議論を挑もうとするのが、そもそもの間違いなのではないかと言いたいところだ。

ここで構わないと同意発言がでたのでここで、始めましょうか。

これも悩ましい。句読点の打ち方には、必ずしも正解があるわけではないが、わたくしならば次のように打ちたいところだ。

ここで構わないと同意発言が出たので、ここで始めましょうか。

ちなみに「でた」も「出た」に改めた。ようするに「で」が頻出するのが美的ではないのだ。いずれにしても、「出たのでここで、〜」はヘンだろう。「出たので、ここで〜」のほうが普通のはずだ。

そもそもである。ここで構わないなどと誰が言ったのだろうか?

たぶん、文証を出すことは不可能だと思う。ゆえに、わたくしならば次のように書く。

管理人殿の言い様は、ここで構わないと言っているようにも聞こえるが、どうか? ならば、ここで始めましょう。

相手の文章をよく読んでから書くべきだ。さらに自分の文章もよく推敲すべきだろう。

他の質問にはスルーですか。

これは誤字脱字の話ではない。なるほど、そのように感じておられるわけか。これについては今日のブログが好例であって、ようは全部のコメントには対応し切れないので、重要なものであるとか、わたくし個人の興味関心によって、取り上げるものが変わってくるということをご理解いただきたいと思う。もちろん、都合の悪いものには触れないという場合もあるわけだが・・・

そういうわけで、一度ならず二度三度と問いを発していただければ、こちらがどういう意図で回答しないのかが判明するのではないかと思う。

看破できないほど不快なんでしょう。

再び誤字の話だ。おいおい、いったい誰が看破できないと言ったのか、少なくともわたくしは言っていないぞ。

看過できない。

看破できない。


本当に大丈夫なのだろうかと心配になる。上掲の二文はまったく意味が異なるのだ。もはやこうも誤字脱字が多いとなると、単なるミスタイプでは済まなくなってくる。この人は言葉の意味もよくわからずに使っているのではないか? わたくしにはそうとしか思えないのだ。失礼ながら、こんな人とはまともな議論が出来るわけがないと、このように一蹴されても文句は言えないだろう。

といったところで、話を戻そう。

(1)依経にしている法華経が仏説ではありません。

これも文章的にはどうかと思う。「法華経が」ではなく「法華経は」としたほうがよさそうだ。

それはともかく、上掲はいわゆる大乗非仏説と呼ばれるもので、おそらくは法華経だけでなくその他の大乗経典も仏説ではないという主張なのだろう。これについてわたくしが肯定するか否定するかを問うているのだと思うが、答えは簡単である。知らない。以上である。

知らないものはどうしようもない。

(2)仏説でない法華経を元にしてる日蓮の教えは破綻した教義です。

なるほど、これは相当の部分、正しいと思う。

何しろ大聖人は法華経を仏説であるとし、その数多の経典の中で最上位に位置するものだと主張しているわけである。ゆえに法華経が仏説でなければ、その時点で大聖人の仏法は破綻することになる。言っていることはまさに道理である。

(3)日蓮遺文は嘘ばかり書いてるので日蓮は嘘つきです。

しかし、これは失礼な話だ。

ウソばかり書いていると言いながら、その具体例を何一つ示していない。「嘘ばかり」という表現からすれば、それこそ一つや二つの話ではないのだろう。いったいどのくらいのウソがあるのか知らないが、その代表的なものをいくつか示すべきだと思う。話はそれからだ。

(4)最後に日蓮本仏も否定します。

冒頭に記したごとく、これは次の項目とワンセットである。

(5)解脱した仏が生まれ変わることはありません。

へえ〜そうなの、そういうものなんだ。

ようするに、解脱した仏はもはや二度と世に生まれ出ることはない、よって久遠元初に成道を遂げた日蓮大聖人が後の世に出現することはあり得ない、というようなロジックなのだろうと思う。

しかし、わたくしはこの辺の事情に疎いので、そう言われればそれまでである。何しろ知らないのだから答えようがない。

いちおう参考までに、解脱した仏が生まれ変わることはないという点について、もう少し詳しくご教示いただければありがたい。

以上、ご不満もあろうかと思うが、今回はこんなところで終わりにさせていただく。

2015/7/1

独白十年  
傍観者v氏より、大石寺掲示板へのお誘いをたまわったが、丁重にお断りさせていただく。

日蓮信奉者はバカ揃いだな。

ここまで言う人もめずらしい。多少は遠慮があるものだ。ようはキレちゃったということか? いわゆるブチギレだろうか?

管理人殿と二人がかりでいいから、二枚舌の日蓮信仰が正しいとか証明してミソ!

これは傍観者v氏から沖浦氏へのコメントである。二対一でいいから掛かって来いと、このように言っているわけだ。よほどの自信家である。しかし、実際は違うのだろう。先方の掲示板にはお仲間がいる。ゆえに自分たちのホームグランドに誘い出して、ボコボコにしようとの魂胆なのだ。

すでに書いたように、この件はお断りする。どの道、また何か言ってくるだろうから、今日のところはこのくらいで終わりにしたい。

さて、問題はその他のコメントである。

ブログ主さんに言いたいのは、そろそろ日蓮を捨てる行動を開始されるべき時じゃないかという事です。

なかなか痛いところを突いてくるものである。これはある意味、傍観者v氏よりも遥かに上手である。ようするに反発心を起こさせないような書き方をしているからだ。

行動によって支配された精神を解放するには、行動に依らなければなりません。

これなど、ひじょうに説得力がある。

また、別の二氏は次のようなことを書いている。

嚴虎さんもすかいみかんもどうしてやめないのだろうか?

顕正会さんに留まっておられる理由と言いますか、そういったものがおありなのでしょうか。

この二人の場合は単に顕正会をやめない理由を問うているだけなのかもしれないが、それに答えるのもけっこう厄介だ。ましてや最初の人は大聖人の仏法そのものを捨てるべきだと言っているのだから、なおさらだ。

そして、もう一人、鋭いことを書いている人がいる。

どなたもお立場は何であれ、一時的に自分の問題を棚上げ出来る他者批判を拠り所とせず、真摯に自分と向き合うことが大切だと思いました。

攻撃は最大の防御である。他者を攻撃している間は、自分が攻撃されることはない。してみると、他者批判に終始している人は、自分自身の何かを守りたいのかもしれない。そして、多くの場合、そうした意識を持たず、ただひたすら他者批判に没頭する。その間は自分を見つめることをしない。上掲はその反省を促がす意味があるのだろう。なかなかの見識である。

わたくしに当てはめるならば、この十年間、ただひたすら顕正会の批判を繰り返してきた。重箱の隅を突くような、ようするにアゲアシ取りのようなことも含めれば、その投稿数たるや無尽蔵である。しかし、わたくしはその間、自分自身と向き合うことをしてこなかったのかもしれない。

あーでもない、こーでもない言って一生の大切な時間を無駄にしていてよいのか・・・

まさにご指摘のとおりかと思う。

そこで棄教の話に戻ろう。

顕正会に執着しているとの指摘はおおむね法華講員から受けるものであって、これは素直に日蓮正宗に帰伏すれば解決する話である。そして法華講員の立場として顕正会批判を続ければ文句はないわけであって、いちおう問題の一つはこれでクリアすることが出来るのだと思う。

ところがである。ここに来て日蓮大聖人との決別を促がすコメントが寄せられた。

これはもう、難事中の難事である。

今からその理由について書こうと思っているわけだが、正直なところ、何をどのように書けばいいのかわからない。ゆえに以下は整理整頓の行き届かない文章になるだろうことを、あらかじめお断りしておきたい。

なぜ棄教しなければいけないのか、というのが最初の答えである。

信教の自由が謳われている。信ずるのも自由だし、信じないのも自由である。また、途中でやめるのも自由だ。閲覧者諸氏にどのように映ろうが勝手である。わたくしはわたくしなりの自由意志で信仰を続けているのだから、今ここでやめる必要性などはまったくないということだ。

ただし、ヤメたくてもヤメられない、もしくはヤメにくい、ということはあると思う。

つまり、内心ではもう信仰心が相当に薄れてしまっている。たぶん閲覧者の中にはそれを感じ取っている人もいるのだろうけれども、現実問題としてはなかなか抜け出せない事情がある。

その理由はコミュニティの崩壊とアイデンティティの崩壊の両面があると思う。

平たく言うと、わたくしが大聖人の仏法そのものを否定すれば、顕正会員からはもちろんのこと法華講員からも創価学会員からも白い目で見られることになる。それがイヤだというのが理由である。

自分で言うのはウヌボレが過ぎるだろうけれども、わたくしが正宗系の諸氏から一目置かれているとすれば、それは無所属とは言え日蓮正宗の信仰を堅持しているからだろう。ゆえに大聖人の仏法そのものを否定する側に回れば、そこで今までの信頼関係は崩壊することになる。これが物凄く恐ろしい。

しかし、独白ブログの人間がコミュニティを云々するのもおかしな話だろう。確かにそれはそうだと思う。

そこでもう一つのアイデンティティの崩壊に目を向けると、あるいはこちらのほうが深刻かもしれない。難しい話ではない。もし棄教してしまったら、その後の自分はどうなってしまうのか、罰だとかそういう話ではなくて、何をどうして生きていけばいいのか、ということが堪らなく不安なのである。いや、もちろん、深層心理としては罰に怯えている自分がいるのかもしれないが、それはそれとして、棄教後のビジョンがまるで見えていないことのほうが、理由としては大きいと思う。

例として適切であるかどうか、終身雇用制度の崩壊について書いてみよう。

ご存知のごとく、終身雇用制度は崩壊の一途をたどっている。役所だとか一部の大企業であれば安泰なのかもしれないが、今の大半の企業が定年まで安泰でいられるとは言えない状況になっている。ある意味、これが不景気の一因でもあるわけで、ようは将来のことを考えて無駄遣いをしない、貯蓄に回す、というような人たちが多くなっている。ましてや非正規雇用で低賃金にあえぐ人たちは貯蓄すらままならない。ともかく余裕はない。贅沢は出来ない。こんな状況では消費が冷え込むのも当然だ。それでますます景気が悪くなる。悪循環だ。

先ほど、役所ないし大企業は安泰と書いた。よほどのヘマをしない限り、定年まで居られる。

では、そういう立場の人が、わざわざ途中で自己退職をするだろうか?

これが答えである。そういう人は滅多にいない。同様の意味で、現当二世の大利益が保障されているのに、それを自ら放棄する人がいるだろうか、ということなのである。

いや、もちろん、現当二世の大利益などウソッぱちであると、こう言われればそれまでである。ただし、このことは終身雇用が崩壊しつつある世の中であっても、おそらくは多くの人が今の職場で無事に定年を迎えられれば御の字であると、そんなふうに思っているのと同様である。ようは大それた変革を望まないのが一般なのである。悪く言えば、現状に甘んじていることになるのかもしれない。しかし、逆もまた真であって、欲をかかないというのも一つの知恵である。

そんなわけで、こうしてダラダラと十年にわたってブログを続けてきたわけだが、ある意味、ひじょうにありがたいと思っている。独白ブログにもかかわらず、各方面から多くのコメントが寄せられるからだ。今回もありがたいコメントの数々だった。


七月二日追記:一部加筆した。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ