2015/7/6

傍観者v氏とその背後にうごめく人たち  
唐突ながら傍観者v氏に聞きたい。貴辺は山門入り口氏ではないのか?

この件は回答如何にかかわらず、後日、書こうと思っていることがある。山門入り口氏はかつて拙ブログにもたびたび顔を出していたが、近年はすっかり御無沙汰している。思い返せば、いろいろと面白い議論をしたものだった。しかし、面白いと思っていたのは当方だけであり、先方は面白くなかったのかもしれない。

さて、本題であるが、これまた余談めいた話から入らねばならない。

昨日、午前十一時過ぎに更新した。すると奇しくもほぼ同じ時間に傍観者v氏からコメントが寄せられた。わたくしはそれを読んで驚愕した。驚愕はオーバーかもしれないが、驚いたのは事実である。

2015/7/4 23:30
投稿者:傍観者v
文永七年は身延隠棲の頃です。

2015/7/5 11:06
投稿者:傍観者v
一部間違いがあったので修正させていただきます。
文永七年は身延隠棲前の頃です。


こんな初歩的なミスをしてどうするのかと思う。だが、しかし、今はそれを言いたいわけではない。もっと重大な問題が存するのだ。

文字数制限で分割になるので、お借りします。 投稿者:傍観者v 投稿日:2015年 7月 5日(日)05時44分26秒
文永七年は身延隠棲前の頃です。


当然ながら、これらは必要な箇所だけを抜粋したものなので、そこは誤解なきように願いたい。

それはさておき、問題はこの三本の時系列である。前掲二本が拙ブログへのコメント、そして上掲が大石寺系教団の掲示板に投稿されたものである。つまり、一昨日の夜遅くに投稿した時は「身延隠棲の頃」と書いていたわけだが、それが翌朝の投稿では「身延隠棲前の頃」に変化しているのだ。こういうのを改竄と呼ぶのである。

誰もが思うはずなのだ、なぜ早朝の投稿時に大石寺系教団の掲示板だけでなく、巌虎独白のコメント欄に訂正文を入れなかったのか、と。時間を置かずに入れるのが普通である。それがなぜに十一時過ぎなのか、なぜに半日遅れなのか、である。

わたくしはさまざまの想像をめぐらせているわけだが、憶測ばかり書いていると突っ込まれるので、ここでは控えることにしよう。ともかく不可解であることは事実だ。

サンプルを出せということですので、たくさんあり迷いましたが、管理人殿の合わせて一例を出します。

サンプル? あまり適切な表現とは思えないが、そんなことをあげつらっていたらキリがないので話を進めよう。それにしても「管理人殿の合わせて〜」は意味不明だ。相変わらずの粗忽さである。

さらに、これを以って(この2つの例で)全てに当てはめると真言宗の命運も、もはや手に握ったようなものだ。と豪語してます。これは手紙を送った相手は兄弟子の義浄房と浄顕房ですから、檀越に送る手紙と違って、マジにそう思ってたんでしょう。

マジ? いや、これはアゲアシ取りではない。けっこう重要なキーワードである。

それは後述するとして、ここでは御書を引用して、思いっきり飛躍して言うならば、大聖人があたかも広宣流布は眼前であるかのごとく言っていることに対し、マジにそう思っていたのだろうと書いているわけである。

で、文永七年は身延隠棲の頃です。ここで日蓮は念仏はもう終わり。禅宗の終了も同じ運命。真言宗の命運は手に握ったは、どうですか?全くあたってませんね。現代から見ると結局嘘じゃありませんか。

途中の文章をかなり端折ったけれども、ここがいわば結論である。

あれれ? というのがわたくしの第一印象だった。身延隠棲云々はこれまた後述することにして、上掲は本来の議論からすれば、スリカエもしくは大幅なトーンダウンと言わざるを得ないだろう。

傍観者v氏は大聖人をウソつき呼ばわりした。大聖人をウソつき呼ばわりするのはケシカランではないか、ということでこの議論は始まったのだ。さらに氏はこんなことも言っていたのである。

管理人殿と二人がかりでいいから、二枚舌の日蓮信仰が正しいとか証明してミソ!

妄語・綺語・悪口・両舌と書けばわかるだろう。不妄語戒のことは先日書いた。ようはこれほどの謗言はないということだ。

そこまで言うのならば、大聖人がウソをついていることを証明しなければいけない。

もちろん言葉の意味には幅がある。ゆえに大聖人の誤謬をウソと表現したつもりなのかもしれない。しかし、通常の意味としては、故意に事実ではないことを言う、ワザと違ったことを言う、そうして相手を欺く、これがウソの意味である。まさに傍観者v氏の悪意丸出しの文章からすれば、この意味をおいて他にあるまい。

それが今さら「現代から見ると結局嘘じゃありませんか」とは何事かと言いたい。

傍観者v氏は他人の文章をまともに読まない(読めない?)人なので知らないかもしれないが、拙ブログでは大聖人の誤謬について何度となく取り上げてきたという事実がある。あるいは現代感覚との齟齬も重要なテーマとして書いてきた。ゆえに今さら「現代から見ると〜」などと言われても、何を言ってるの? スリカエ? トーンダウン? と言わざるを得ないのだ。

別人格が書いたのではないかと思われるくらいの文体の変容も気になるところだが、こうした議論の変移も気になる。シツコイようだが、氏は次のようにも書いているのだ。

鎌倉時代に女性信者から手紙で問われて、チャンとした返事をしてない日蓮。
都合が悪く誤魔化した。


ひじょうにわかりやすい。都合が悪く誤魔化したというのは、ウソつき云々と同様のニュアンスである。ようするに、信者からの質問に対して都合が悪いのでウソをついて誤魔化した、というような意味だろう。あるいは、はぐらかした、というような意味もあろうかと思うが、いずれも故意というのがポイントである。意図的に、ワザと・・・、言い換えればこんな感じだろう。

わたくしの主張はこの一点である。はたして大聖人が故意にウソをついたなどということを誰が証明できるのだろうか?

・・・マジにそう思ってたんでしょう。

傍観者v氏もめずらしく良いことを言う。

イヤミに聞こえるかもしれないが、ここはまったく同感だ。

ちなみに、別人格が書いたのではないかと思う理由の一つがこれである。前掲、前々掲に見られる悪意丸出しの文章とのトーンの違いに気がつかない人はいないはずだ。

さて、今日はもう一点だけ書いて終わりにしよう。

身延隠棲の頃

身延隠棲前の頃


冒頭に別件で取り上げた話題であるが、これはけっこう重要な意味を持っている。なんでこんな初歩的なミスをするかなあと書いた。しかし、人間は誰しもミスをする。ゆえにそればかりを咎めても仕方がない。わたくしの着眼点は別である。

身延隠棲の前後にどれほどの意味があるのだろうか?

ようするに文章の全体的な構成からすると、別にどうでもいいことなのだ。何しろ続きの文章ではいきなり現代に飛躍してしまうのだから、だったら隠棲前だろうが後だろうが、あまり関係がないだろう。

いずれしにても、これ以上ここで筆者の意図を詮索しても仕方がないので、わたくしの拝し方を書いておく。

御文は掲げないけれども、くだんの二文の意味は単純明快である。何ら不自然さはない。大聖人の兼ねてからの予言が符合した。これで鎌倉に跋扈していた諸宗の僧侶たちは黙ってしまった。人々の反応も今までとは違ってきた。これを大聖人は肌で感じておられるのである。もちろん大聖人の主観であることは事実だが、ここにウソはない。七百年後の現代から見て云々はまったく別次元の議論である。

そもそも身延隠棲前後という分類はおかしいわけで、おそらく一般的には鎌倉期・佐渡期・身延期と分類されるはずである。そして先ほど諸宗の僧侶たちが沈黙してしまったことを書いたわけだが、これはまさに嵐の前の静けさだった。彼らは虎視眈々と巻き返しの機会を狙っていたのである。事実、この直後にあの竜の口の大法難があり、大聖人は佐渡へ流罪せられることになるのだ。

鎌倉をご存知だろうか?

鎌倉はわたくしにとっては隣近所みたいな土地なので、これまでに何十回と訪れている。物凄く狭い。これがわたくしの実感である。ゆえに大聖人が諸宗の僧侶たちや人々の反応をストレートに受けていたであろうことは、その地理的特質からしても十分に窺い知ることが出来る。そうした予備知識を踏まえてくだんの御書を拝するならば、よりいっそう大聖人の御気持ちに迫れるのではないかと思う。

いや、もちろん、繰り返しになるが、それは大聖人の主観に過ぎないわけで、客観的にどうだったかはまた別次元の話である。しかし、そこにウソはない。マジなのだ。いみじくも傍観者v氏が言うように、である。

今回はここまでにしたい。


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ